2023年07月11日

スポーツ史学会

 母の小学校中学の同級生で、スポーツ史学会の会長を務めた故稲垣正浩博士(1938~2016)が主宰していた21世紀スポーツ文化研究所の先月の例会で出席者の総意で私をスポーツ史学会の会員に推薦したいとの連絡が先月の28日に入った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E5%9E%A3%E6%AD%A3%E6%B5%A9
http://sportshistory.sakura.ne.jp/
 実は、その先月の28日、成田記念病院の緩和ケア病棟に入院した。
 投稿が遅くなったのは、そのためだ(昨日退院)。
 推敲中の私の著作『穂国幻史考(増補新版改訂)を含む。
 私の著作の著作物の利用(※1 著作権法63条を下記に記載)については、21世紀スポーツ文化研究所の関係者、スポーツ史学会の会員の方については、利用許諾料(ロイヤリティ)は無料とします。
 また、私の著作は、膨大な量で、先の論考を前提に、後の論考を言説を展開していることから、著作権法上の編集(※2 著作権法12条を記載)ではなく、通常にいう編集であれば、同一性保持権(※2 著作権法20条を記載)の規定の範囲で編集することwも構いません。 

※1
 (著作物の利用の許諾)
63条 著作権者は、他人に対し、その著作物の利用を許諾することができる。
2項 前項の許諾を得た者は、その許諾に係る利用方法及び条件の範囲内において、その許諾に係る著作物を利用することができる。
3項 利用権(1項の許諾に係る著作物を前項の規定により利用することができる権利をいう。次条において同じ。)は、著作権者の承諾を得ない限り、譲渡することができない。
4項 著作物の放送又は有線放送についての1項の許諾は、契約に別段の定めがない限り、当該著作物の録音又は録画の許諾を含まないものとする。
5項 著作物の送信可能化について1項の許諾を得た者が、その許諾に係る利用方法及び条件(送信可能化の回数又は送信可能化に用いる自動公衆送信装置に係るものを除く。)の範囲内において反復して又は他の自動公衆送信装置を用いて行う当該著作物の送信可能化については、23条1項の規定は、適用しない。

※2
 (編集著作物)
12条 編集物(データベースに該当するものを除く。以下同じ。)でその素材の選択又は配列によって創作性を有するものは、著作物として保護する。
2項 前項の規定は、同項の編集物の部分を構成する著作物の著作者の権利に影響を及ぼさない。

※3
 (同一性保持権)
20条 著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除その他の改変を受けないものとする。
2項 前項の規定は、次の各号のいずれかに該当する改変については、適用しない。
 1号 33条1項(同条4項において準用する場合を含む。)、33条の2第1項又は34条1項の規定により著作物を利用する場合における用字又は用語の変更その他の改変で、学校教育の目的上やむを得ないと認められるもの
 2号 建築物の増築、改築、修繕又は模様替えによる改変
 3号 特定の電子計算機においては実行し得ないプログラムの著作物を当該電子計算機 において実行し得るようにするため、又はプログラムの著作物を電子計算機においてより効果的に実行し得るようにするために必要な改変
 4号 前3三号に掲げるもののほか、著作物の性質並びにその利用の目的及び態様に照らしやむを得ないと認められる改変
  


Posted by 柴田晴廣 at 12:35Comments(3)穂国幻史考

2023年06月13日

神事藝能と古典藝能

 私は過去形ではあるが、若干吃音があった。
 二代及び三代の三遊亭圓歌は吃音を克服したという例を知っていたから(三代は、吃音者を主人公とする新作を持ちネタとしていたが)、若干の橘尾音なら、寄席に行って落語を聞けば、直せるだろうと思い、大学入学で上京した折に、演技場に通った。
 幸い、何度も通わずに克服できた。
 落語の演目には芝居を基にしたものもあり、また落語を元ネタとする芝居もある。
 寄席に通ってそれを知ったわけだが、それをきっかけに芝居も見るようになった。
 芝居を見るようになったとはいえ、金銭的余裕はないことから、もっぱら「大向こう」で感激した。
 若かったことから、見巧者のかたから、いろいろと芝居について教えていただいた。
 話は変わるが、私は、中学のとき、若葉祭の上若組で隠れ太鼓を踊り、若い衆を抜けてからは20年近く上若組n大山車で笛を吹いていた。
 下記動画の向かって左が、上若組の大山車。
https://www.youtube.com/watch?v=iMtRHaTEq0s
 芝居についての知識があれば、この隠れ太鼓は、人形振りの影響を受けたものだとわかるだろう。
 拙著『穂国幻史実(増補新版)』第三話「牛窪考」首位一補遺三で隠れ太鼓を取り上げているが、芝居の知識を駆使して考察したものである。
  


Posted by 柴田晴廣 at 08:34Comments(13)穂国幻史考

2023年06月07日

日本語について

 日本語は、歓呼k・朝鮮語と同様に膠着語に属する。
 満州語や蒙古語も膠着語である。
 蒙古、満州、韓半島という流れで伝来したものといえる。
 日本語を考える上で、韓国。朝鮮語の習得は不可欠。
 もう一つ日本語を考える上で、重要なのは、アイヌ語。
 アイヌ語は抱合語に屬し、マレー・インドネシア語、タガログ語、台湾先住民の言語も抱合語だ。
 黒潮の流れに乗ってきた人たちの言語といえる。
 弥生、縄文を考える上でも重要であるし、蝦夷とアイヌの関係を考える上でもアイヌ語の習得は重要になる。
 ちなみに中国語は孤立語、英語やフランス語、ドイツ語などは屈折語に分類される。
 余談になるが、私は韓国・朝鮮語を理解できたことから、笹踊朝鮮通信使影響説を唱えることが出来た。  


Posted by 柴田晴廣 at 16:57Comments(12)穂国幻史考

2023年05月17日

持統

 昨夜10時からのEテレの番組「知恵泉」では、持統(645~703)を取り上げていた。
 タイトルは、「持統天皇 “日本”誕生!三代でつなぐ国づくり」。
 持統が天智・天武が目指した国づくりを引き継ぎ、“日本”を作り上げたのか、といった内容であった。
 カビが生えたような内容であったが、一応、視聴。
 とはいうものの、睡魔が襲い、ところどおころしか記憶にない。
 その中で、記憶にあるのが、『日本書紀』の編纂は天武の時代に始められたというバカげた話だ。
 『日本書紀』の編纂は、持統の時代に始められている。
 『日本書紀』は、推古朝(実際には、蘇我大王時代)に編纂された天皇記等や天武の時代に、記録校訂が行われた帝紀と上古の諸事を焚書し、新たに捜索した物語を史実のごとく騙るものである。
 この程度の内容で、受診料を徴収していると思うと腹が立つ。  


2023年05月16日

祭禮ないし祭禮組織の變容

 私は、コロナ下で、祭禮ないし祭禮組織の變容が顕在化すると予想していた。
 実際、先に投降した「若葉祭」のコメントで記したように、若葉祭でも、たった3年の中止で、著しく變容が顕在化しました。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1269434.html
 14日午後9時に、NHK総合テレビで放送された「NHKスペシャル」は、「お祭り復活元年〜にっぽん再生への道〜」のタイトルであった。
 「お祭り復活」の文言に、違和感を覚えたし、その違和感の通り、祭禮ないし祭禮組織の變容ではなく、「にっぽん再生への道」が副題になっている。
 取り上げられたのは、国府宮の裸祭、徳島県太鼓台、鹿児島県の初午祭、新潟県の古志の火まつり。
 国府宮の裸祭の裸男は、氏子に限らないし、続く徳島の太鼓台でも、氏子だけでは太鼓台の担ぎ手が足りず、地区内の企業の従業員を動員するというものであった。
 初午祭や火まつりも人手不足(高齢化による)で、存続が困難になり、初午祭では、学生がデジタル配信により観客を増やす、火まつりでは、今年で最後になるものの、仮想空間での観客を増やし、再生につなげるというものであった。
 こんな話は、コロナ下以前から顕在化していたことで、今回わざわざ取り上げるまでもないこと、
 限界集落では、集落出身者が、祭禮の折のみ帰ってきて、祭禮に参加することは、一昔以上前から行われています。
 今回取り上げたのは、単にその手段がデジタル媒体だということだけでした。
 村落共同体が崩壊しても祭禮は存続します。花祭りなどがその例です。
 今回放送が採り上げたのは、祭禮とイベントをごっちゃにしており、副題の「にっぽん再生への道」は、「祭禮がイベントとして再生する過程」というのが正確な表現だと思いました。
 要するに、番組制作者が、実際に祭禮に携わったことのないど素人が、コロナによる3年の中止で、祭禮がどうなったかといった程度の低い番組構成になったと私は理解しました。

  


Posted by 柴田晴廣 at 14:15Comments(4)穂国幻史考

2023年04月26日

親鸞、日蓮、空海と明星のスタンス

 前回の投稿のコメントで、安達君が、宗旨は眞宗高田派と記していた。
 https://tokosabu.dosugoi.net/e1270787.html
 眞宗高田派の本山は現在三重県津市の高田山專修寺であるが、この專修寺は元々下野國芳賀郡高田村(栃木県真岡市高田)にあった本寺高田山專修寺をいった。
 下野の專修寺(本寺專修寺)は、嘉祿元(1225)年に、明星天子のお告げにより、親鸞(1173~1263)が建立した如來堂を起源とし、弟子の眞佛(一二〇九~一二五八)が管理していたが、眞佛の跡を繼いだ顯智(一二二六~一三一〇)は三河で布教をし、和田山勝鬘寺(岡崎市針崎町朱印地/眞宗大谷派)、昭高山願照寺(岡崎市舳越町本郷/眞宗本願寺派)、塚本山明法寺(安城市安城町拝木/眞宗大谷派)を據點とした和田門徒が形成される。
 三河の高田派の進出もこれによる。
 さて、本寺專修寺は、明星天子のお告げにより建立されるが、陰陽道で明星を神格化したのものが、八將神の一柱の大將軍であり、その本地の他化自在天は、第六天魔王波旬ともいわれ、佛道の修行を妨げる魔王である。
 親鸞は、佛道修行の妨げとなる、妻帶、蓄髮していたし、僧侶の妻帶、蓄髮を認めていた。その親鸞は、皍身成佛を手段として衆生の救濟の途を開いた。
 日蓮(1222~1282))は、千光山清澄寺で出家得度し、清澄寺で立教開宗した。清澄寺の本尊は虚空藏菩薩、日蓮は、その虚空藏菩薩に、「日本第一の智者となし給え」と、願を掛けたという。
 虚空藏菩薩が明けの明星の化身といわれる。
 日蓮は、第六天魔王波旬について、佛道修行者を『法華經』から遠ざけようとして現れる魔であると説くも、純粹な『法華經』の信者には、力を貸す天魔と、説いている。また日蓮が現した『法華經』の曼荼羅にも、第六天魔王波旬が描かれている。
 『佐渡御勘氣抄』で、「海邊の旃陀羅か子なり」と稱した日蓮は、惡人正機(『歎異抄』三章)に目が向いたはずだ。
 第六天魔王波旬を純粹な『法華經』の信者には、力を貸す天魔と解釋したのは、『法華經』卷八收録の二五品「觀世音菩薩普門品」(通稱『觀音經』)の一節「應以大自在天身 得度者 皍現大自在天身 而爲説法」もヒントになっただろう。他化自在天と大自在天は異なる天尊であるが、道元(1200~1253)は『正法眼藏』の「諸惡莫作」で、「いはゆる諸佛 あるいは自在天のことし 自在天に同不調なりといへとも 一切の自在天は諸佛にあらす」と説いている。日蓮は、「觀世音菩薩普門品」の一節「應以大自在天身 得度者 皍現大自在天身 而爲説法」の一節の大自在天を他化自在天に置き換え、第六天魔王波旬を純粹な『法華經』の信者には、力を貸すとの言説を思い付いたのだろう。
 このように、親鸞や日蓮は、明星と關わる逸話とともに、第六天魔王波旬の位置付けを説いている。
 ところが、空海(774~835)は、延暦11(792)年、大學寮に入寮後、遣唐使に選ばれる延暦22(803)年の間の山岳修行中に、一沙門から「虚空藏求聞持法」を授かり、それを修め、室戸岬の御厨人窟(高知県室戸市室戸岬町)で瞑想をしているとき、口に明星が飛び込んで來たと、自著の『三教指歸』の序文で、自己幻想を綴っているも第六天魔王波旬については觸れてもいない。
 『三教指歸』は、空海晩年の著作だが、延暦14(797)年に書き上げた『聾瞽指歸』を改題、改定したものであり、儒教、道教、佛教の比較思想論との評価が一般的だ。
 一般的な評価はさておき、空海に道教の知識があったとはとてもじゃないが、思えない。
  


Posted by 柴田晴廣 at 16:31Comments(0)穂国幻史考

2022年12月04日

『穂国幻史考』増補新版続編

 『穂国幻史考』増補新版続編に以下の事項を書き足そうと思っております。

崇神及び埀仁條の出雲の記述は丹波
 日下部氏と丹波
 出雲神寶獻上事件と狹穗彦王の亂
 野見宿禰と丹波
持統及び元明の父・天智の出自
『日本書紀』が記す天智
『神皇正統記』卷二應神條
國造本紀が記す穗國造
 風祭に見る菟上足尼
 上陸地・柏木の濱
砥鹿神社社家戸賀里氏
 戸賀里氏と碧海郡渡刈邑
 "tukari"を冠する神社
蘇我大王家と繼體
 母系で繋がる繼體と蘇我大王家
 繼體と凡牟都和希王
多神教と神道
 多神教とは眞逆の排佛派
 排佛派の思想を受け繼ぐ國學
 宣長と篤胤
祭禮が内包する多樣な寛容性
 風流と異國の風物
 異國の言語と親和性の高い膠着語
 法會と祭禮
新羅堂崩れ
 湖北五山の大福寺
 東三河に輿えた影響

 全体の目次は以下のようになります。
 頁数388P、文字数213,358字

  穂国幻史考(増補新版続編) 〈目次〉

はしがき 8
風土記撰上と佳字二字令 29
 佳字二字令により消された地名 30
  『風土記』に收録された地名由來譚 32
日本書紀の暦日とその著述年代 35
 日本書紀の編纂は、いつ開始されたか 36
 日本書紀に用いられる暦法 43
 倭臭の違いから分類した日本書紀の各卷 46
皇大神宮の創建と持統三河行幸 53
 アマテラスの變容 54
 祀られる神アマテラスと倭姫巡幸 61
 持統三河行幸を萬葉集から考察する 62
崇神及び埀仁條の出雲の記述は丹波 73
 日下部氏と丹波 74
 出雲神寶獻上事件と狹穗彦王の亂 80
 野見宿禰と丹波 86
天皇の棄姓とその弊害 97
  『隋書』が記す倭王の姓 98
 易姓革命を回避するための棄姓とその弊害 101
持統及び元明の父・天智の出自 105
  『日本書紀』が記す天智 106
  『神皇正統記』卷二應神條 109
國造本紀が記す穗國造 111
 風祭に見る菟上足尼 112
 上陸地・柏木の濱 115
砥鹿神社社家戸賀里氏 117
 戸賀里氏と碧海郡渡刈邑 118
 "tukari"を冠する神社 119
蘇我大王家と繼體 125
 母系で繋がる繼體と蘇我大王家 126
 繼體と凡牟都和希王 128
多神教と神道 133
 多神教とは眞逆の排佛派 134
 排佛派の思想を受け繼ぐ國學 136
 宣長と篤胤 138
御靈信仰と靖國 141
 靖國の起源は招魂祭 142
 靖國は怨靈を鎭魂する宗教施設 144
日本人という曖昧な概念 153
 血統主義と出生地主義 154
 明治六年の時點で、明治政府の權力が及ぶ範圍にいたか否か 156
 国籍法との乖離 158
西寶の七福神踊 161
 なぜ辯才天の代わりに白狐か 162
 毘沙門天あるいは壽老人を缺く理由 166
祭禮が内包する多樣な寛容性 169
 風流と異國の風物 170
 異國の言語と親和性の高い膠着語 172
 法會と祭禮 175
山本勘助と牧野氏 179
  『武功雜記』の記述が勘助の實在を證明 180
  『牛窪密談記』における山本勘助の記述 184
 菅姓山本家系圖 186
 牧野氏の出自 193
大成經の僞作者・山鹿素行 201
 大成經彈壓事件と潮音道海 202
 高野本と山鹿素行 205
 大成經の系譜 217
菟足神社の風祭と諏訪の御頭祭 221
 風祭の供犧 222
 神幸に隨伴する獅子頭 229
新羅堂崩れ 247
 湖北五山の大福寺 248
 東三河に輿えた影響 254
祇園感神院とその祭神の本地 259
 東光寺と白山妙理權現 260
 祇園感神院と犬神人 261
 補陀落と東照大權現 268
專願寺の大施餓鬼 273
 專願寺の前身は專求庵 274
 施餓鬼とは 278
 葬頭姫を祭神とする三ツ相の水神社 279
 夏越祓と專願寺の大施餓鬼 287
伊豫橘氏と河童傳承 303
 橘公業と伊豫橘氏 304
 伊豫橘氏と龍神傳説 306
 海倉淵の椀貸傳説 306
人口に膾炙した露天商の認識を糺す 325
 博徒との違い 326
 商いという面からみた露天商 348
 無宿人の系譜 357
耶蘇教の傳來と女性の地位の變化 365
 夫婦別姓と母系制 366
 女丈夫の系譜 370
あとがき 376
主要参考文献 384

追記(2022.12.05 13:19)
 『穂国幻史考』増補新版続編の総頁数、文字数及び目次に頁番号を追加。  


Posted by 柴田晴廣 at 16:50Comments(0)穂国幻史考

2022年11月05日

葬頭姫2

 朔日、「葬頭姫」のタイトルで投稿した。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1249219.html
 朔日の投稿で記したように、瀬織津姫については、推敲中の『穂国幻史考』増補新版続編でも言及している。
 下記の『穂国幻史考』増補新版続編の目次やその概要を見れば、察しの良い人なら、どこで言及してあるか想像がつくだろう。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1241709.html
https://tokosabu.dosugoi.net/e1239637.html
https://tokosabu.dosugoi.net/e1243205.html
 『穂国幻史考』増補新版続編の「皇大神宮の創建と持統三河行幸」の「持統三河行幸を萬葉集から考察する」では、持統三河行幸の目的は、皇祖神アマテラスの創造の障碍を取り除くための武力制壓であるが、その詳細は「六國史」には記されておらず、『萬葉集』の歌から概要がわかる旨を記した。
 東三河には、持統三河行幸が行われた大寶年間創建の寺社があるが、その一つ砥鹿神社の縁起『砥鹿大菩薩縁起』では、里宮の創建逸話で、公宣卿が衣の袖を流し、その流れ着いた場所を里宮にした旨を記す。
 衣の袖を流した場所は、本宮山中の漲る瀧川。本宮山中の瀧といえば、陽向の瀧しかない。
 この瀧の名から、想起されるのが、天照の荒魂=撞賢木嚴之御魂天疎向津媛。度會神道では、天照の荒魂を瀬織津姫とする。
 瀬織津姫が葬頭姫であり、奪衣婆と習合したことを考慮すれば、穗別の祖・朝廷別王の姉・日葉須媛の葬儀に際し、殉死を中止し、埴輪を作ることを提言した野見宿禰を祖とし、葬送に携わっていた土師氏との関係を考える必要があろう。
 また『穂国幻史考』増補新版続編の「專願寺の大施餓鬼」では、「葬頭姫を祭神とする三ツ相の水神社」、「夏越祓と專願寺の大施餓鬼」の項が竝ぶ。当然ここでも瀬織津姫について言及してある。
 舊暦時代は、專願寺の大施餓鬼が六月末に行われていたと思われること、三ツ相の水神社の祭神が瀬織津姫であること、專願寺が豊川河口にあることを考えれば、專願寺の大施餓鬼に行けば、個人と似た人に会えるといった話も、どういった共同幻想を前提とするかわかるだろう。
  


Posted by 柴田晴廣 at 10:15Comments(0)穂国幻史考

2022年11月04日

葬頭姫

 この投稿を含めて、このweb-logに、306の投稿をした(2017年10月に、拙著『穂国幻史考』及び『牛窪考増補改訂版』の概要紹介に関する投稿を、このウェブログからすべて削除したから、実際の投稿数は、306以上だが)。
 このweb-logの管理画面には、「アクセス解析」の欄があり、さらにその中に、「人気記事上位100」の欄がある。
 私のweb-logの「人気記事上位100」の欄を見ると、1位が、このweb-logを開設したときに投稿した「はじめに」、2位が2022.6.3に投稿した「報告」、そして3位が、2020.2.22に投稿した「『エミシの国の女神』」だ。
 「『エミシの国の女神』」の投稿で記したように、『穂国幻史考』を刊行しようと思った動機の一つは、『エミシの国の女神』の内容が、余りにもお粗末だったからだ。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1126748.html
 私はこの『エミシの国の女神』の構想段階から関わっており、同書の「あとがき」に私の名も載る。
 著者の菊池展明は、この本の発行者「風琳堂」の社主・福住展人氏の筆名。
 福住氏は、私より八学年上であるが、私の弓術の弟弟子の国府高校での同級生。
 『エミシの国の女神』の発刊により、瀬織津姫の名が廣く世に知られるようになる。
 だが、先に記したように、その内容はお粗末なものであった。
 どうお粗末だったかを記せば、瀬織津姫が辯才天等と習合する旨を記すも、それを本地埀迹説を用いた説明がないことだ。
 ゆえに、瀬織津姫の名は廣く知られるようになったものの、僞書『秀眞傳』での瀬織津姫の言説や、スピリチャルといったおよそ学術的でない世界で語られている。
 当然、私はその責任を感じている。
 『エミシの国の女神』では、瀬織津姫は、消された女神と位置付け、記紀には登場しないとする。
 私は瀬織津姫の表記で登場しないだけで、『日本書紀』で、この神は登場すると考えている。抓津姫がそれだ。
 現在、瀬織津姫は、「せおりつひめ」と呼ばれているが、私は「せおつひめ」であり、「そうつひめ」と發音されていたと考えている。
 その「そうつひめ」が、抓津姫なのだ。
 そして抓津姫は『續日本紀』では、都麻都比賣とされ、「つまつひめ」と讀まれるようになる。
 記紀に登場しないのではなく、『日本書紀』には、登場し、『續日本紀』で讀みを變えられたのだ。
 瀬織津姫が、葬頭河の奪衣婆と習合するのも、この神が「そうつひめ」と呼ばれ、「葬頭姫」の漢字が想像されたからだ。
 朔日の投稿「お知らせ」で、『穂国幻史考』増補新版続編は、推敲を重ねている旨を記した。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1249142.html
 『穂国幻史考』増補新版続編では、瀬織津姫の本地埀迹説による簡潔な解説もしてある。というより、既に刊行した『穂国幻史考』増補新版で、丹念に説明してある。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1232562.html
 瀬織津姫が学術的な論考の俎上に載り、スピリチャルで語られる瀬織津姫に関する言説が払拭されることを願う。  


Posted by 柴田晴廣 at 10:41Comments(0)穂国幻史考

2022年11月03日

お知らせ

 8月27日に、「『穂国幻史考』増補新版続編」のタイトルの投稿をした。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1241709.html
 投稿から二月以上経っている。
 当然のことだが、穂国幻史考』増補新版続編の推敲を重ねている。
 ゆえに、8月27日に投稿した時点から紙面も増えている。
 実をいえば、紙面が増え、頁数、字数、目次の頁数が、変わるたびに、更新している。
 現時点では、頁数=302P、字数=163,711字(追記:11月15日時点では頁数=298P、字数=164,399字、11月19日時点で、166,118字)。
 投稿時より、頁数は、十頁ほど増えている。

 『穂国幻史考』増補新版続編の内容については、下記URL参照。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1243160.html
https://tokosabu.dosugoi.net/e1243205.html  


Posted by 柴田晴廣 at 11:25Comments(0)穂国幻史考

2022年09月11日

推敲中の『穂国幻史考(増補新版続編)』の説明2

 「山本勘助と牧野氏」は、私の母の小中学校の同級生で、スポーツ史学会会長等を歴任した稲垣正浩(一九三八~二〇一六)博士が主宰していた21世紀スポーツ文化研究所の月例会(二〇二二年六月二六日)「『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む」での名古屋経済大学短期大学部元教授の船井廣則さんが、私の「うなごうじ蛆蟲由來説」は、根據のない妄説との言説の丁寧な説明をし、それを受けて、青山学院大学教授の河本洋子さん(旧姓牛窪)の山本勘助が主人公だった二〇〇七年の大河ドラマ「風林火山」で、牛久保に興味を持ったとの発言を基に、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」第四章「牧野氏の出自」、拾遺二「牛久保と山本勘助」、拾遺三「『牛久保古城圖』考」及び拾遺四「善光庵の創建と再建」の記述を適宜繋ぎ合わせたものである。
 『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺二「牛久保と山本勘助」及び拾遺三「『牛久保古城圖』考」では、法月山光輝庵(豊川市光輝町二丁目/淨土宗)所藏の『牛久保古城圖』に描かれた、勘助が養子に入った大林勘左ヱ門の屋敷と、現在勘助の遺髮塚のある武運山長谷寺(豊川市牛久保町八幡口/淨土宗)の位置が一致することから、勘助の總角(あげまき)を養家の大林家が保管しており、その總角を勘助の死後、屋敷の一角に供養として埋め、その後、大林家の跡地に長谷寺が移轉して來たのではないかという私が建てた假説の證明にあったが、「山本勘助と牧野氏」の表題の通り、山本家と牧野家の關係をテーマに考察した。
 「山本勘助と牧野氏」と、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺二「牛久保と山本勘助」及び拾遺三「『牛久保古城圖』考」が、異なるのは、『穂国幻史考(増補新版)』では、言及していない事柄=『姓氏家系大辭典』の「牛窪」の項を足したことである。
 この『姓氏家系大辭典』の「牛窪」の項を書き足したことにより、『穂国幻史考(増補新版)』にはない視点が加わったことから、一稿にまとめることとした。

 「大成經の僞作者・山鹿素行」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺四「善光庵の創建と再建」の二つ目の見出し「善光庵の再建者・潮音道海と「大成經彈壓事件」」から、「大成經」の眞の僞作者について考察した言説を拔き出し、タイトルの通り、その僞作者は山鹿素行である旨を主張した小論である。
 『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺四「善光庵の創建と再建」の二つ目の見出し「善光庵の再建者・潮音道海と「大成經彈壓事件」」では、潮音道海が大成經の僞作者とする廣く知られた説に疑問を持ち、大成經の僞作者は本當に潮音道海なのかを考證した論考である。
 加えて置けば、この山鹿素行。明からの亡命者・朱舜水(一六〇〇~一六八二)の「夷狄である清によって治められている中国は、もはや中華の國でなく、日本こそが中華である」との言説を眞に受けたお目出度い人物でもある。
 日本列島で通貨としての機能が發揮される貨幣が發行されるのは、寛永一三(一六三六)年に鑄造が始まる寛永通寶の登場を待たなければならない。朱舜水が來日する四半世紀前のことだ。それまでは明の永樂帝(一三六〇~一四二四/在位一四〇二~一四二四)が發行した永樂通寶などの中国錢が通貨として流通していた。グアム(Guåhån)の通貨は、アメリカドルである。グアムはアメリカ合衆国の州ではないが、準州である。中国の貨幣が通貨として使われていた日本は、中国の準州のような地域なのだ。通貨發行權を手に入れたばかりの日本を「日本こそが中華である」と稱賛するなど、朱舜水の本心であるはずもない。それもわからず、朱舜水の言を眞に受けたのが、山鹿素行だ。
 加えて暦についても、貞享二年一月一日(一六八五年二月四日)に宣明暦から改暦された澁川春海(一六三九~一七一五)により編纂された貞享暦の採用までは中国からの借用であった。通貨と同樣に、江戸時代に入り、自前で暦を編纂するようになる。中原では、皇帝は空間のみならず、時間をも支配すると、考えている。中華思想の信奉者の朱舜水が、借りものの暦法を使用している日本を中華の國などと思っているはずもない。山鹿素行は、ほどほどお目出度い人物だ。
 そのお目出度い山鹿素行が、僞書「大成經」を創作したのである。

 『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の二つ目の見出し「菟足神社の徐福伝説説明板を檢證する」は、菟足神社に設置された「菟足神社と徐福伝説」と題する説明板に記された内容を檢證した論考である。
 その中の最後の小見出し「生贄神事は中国的か――奥三河の鹿射神事及び諏訪の御頭祭と菟足神社の生贄神事」では、右記説明板が、中国的とする、『今昔物語』及び『宇治拾遺物語』に載る菟足神社の風祭の猪の供犧が、本當に中国的な習俗かを考察した論考である。
 「菟足神社の風祭と諏訪の御頭祭」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の二つ目の見出し「菟足神社の徐福伝説説明板を檢證する」の最後の小見出し「生贄神事は中国的か――奥三河の鹿射神事及び諏訪の御頭祭と菟足神社の生贄神事」で引用する『今昔物語』及び『宇治拾遺物語』に載る菟足神社の風祭の猪の供犧は、中国的なものではなく、繩文に遡る狩獵採取文化に基づくものである旨の説明をした。
 その名殘と考えられる東三河平野部に殘る神幸に隨伴する獅子頭から、風祭の猪の供犧が具體的にどのようなものであったかも推測した。

 『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の最初の見出し「非農耕民と秦氏――東三河を中心に」の三つ目の小見出し「牧野氏と鶴姫傳説――信長の世に廢寺となった豐川村東光寺」で、菊池山哉(一八九〇~一九六六)著『特殊部落の研究』を引用し、東國の被差別部落では、白山妙理權現を鎭守とし、東光寺を寺號とする藥師堂を祀る旨を紹介した。
 東國の被差別部落が白山妙理權現を鎭守とし、東光寺という寺號の藥師堂を祀ることについて本地埀迹説から檢討すれば、この信仰は東國の被差別部落に限ったことではなく、被差別部落の信仰の本質は祇園社にあるといえる。
 本地埀迹説をほんの尠しでも理解しておれば、白山妙理權現と東光寺という寺號の藥師堂が犬神人が隷屬する祇園感神院が結び付くことは容易に気が付くことであるが、なぜかそうした言説を私は知らない。
 「祇園感神院とその祭神の本地」は、白山妙理權現と東光寺という寺號の藥師堂が犬神人が隷屬する祇園感神院がどう結び付くかを佛説から説明した小論である。

 「專願寺の大施餓鬼」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の最初の見出し「非農耕民と秦氏――東三河を中心に」の最後の小見出し「牛頭天王の本地と播磨、そして秦氏――祇園感神院及び『野馬臺詩』が記す日本の國姓」で採り上げた專願寺の大施餓鬼についてまとめたものであり、なぜに東三河平野部の初盆を迎える親族等が、專願寺の大施餓鬼に出向くのかを、專願寺という寺院の歴史的背景、專願寺という寺院のある場所、專願寺で大施餓鬼が行われる日時等から、本地埀迹説を絡めて説明した小論である。

 『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」で、引用した京極夏彦・多田克己編『妖怪図巻』「ひょうすべ」の項は、潮見神社(佐賀県武雄市橘町大字永島)の河童傳承を紹介するが、なぜに潮見神社に河童傳承が殘るかの説明はない。
 「伊豫橘氏と河童傳承」では、なぜに潮見神社に河童傳承が殘るかを、同社の祭神の一柱・橘公業の出自を伊豫橘氏とする説があることから、伊豫橘氏をキーワードに河童との接點を探った。
 中で、渭伊神社(浜松市北区引佐町井伊谷)の裏山の呼稱、菩提寺の萬松山龍潭寺(臨濟宗妙心寺派)の本尊等から、伊豫橘氏を本姓とすると推測される井伊氏の周邊に傳わる龍宮、龍神傳説から、河童との繋がりを考證するとともに、三嶋神の東漸と、砥鹿という名の神社の分布から、御伽草子で、龜に乘って龍宮に行ったといわれる浦島太郎へと、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」で、引用した京極夏彦・多田克己編『妖怪図巻』「ひょうすべ」の項は、三河の設樂氏(本姓三河大伴氏)の河童傳承についても言及することから、『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀伝説」の拾遺「富永系圖と木地師」の最初の項「海倉淵の椀貸傳説」での三河大伴氏の龍宮との繋がりについての話へと展開した。

 縁日などで、たこ焼き、鯛焼きなどを商う屋台。暴力団の資金源の一つと考えている方が多いと思う。
 筆者の家は代々、その暴力団の資金源の一つと考えられている露天商の親方であった。親方といっても、狹い範圍の露天商を管轄していた親方ではなく、令制國の三河國一帶を管轄するの親方であった。
 だが、曾祖父・柴田庄五郎(一九一五年七月二九日逝去)亡き後、祖父・銀治(一九〇三・六・二四~一九八五・四・七/銀山清澄居士)が親方を繼ぐも、露天商が博徒と一皍夛になり暴力團化してしまうことを嫌って、祖父は商賣替えをした。
 祖父の行動からわかるように、露天商は、暴力団とは一線を画すものであり、博徒とも別物である。
 ところが、世間一般の露天商の認識は、暴力団の一翼を担うといったものがほとんどであり、研究書といったものまでもが、祖父がいう博徒と一皍夛になった後の露天商について語ったものばかりだ。
 「人口に膾炙した露天商の認識を糺す」では、主に『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」の最後の小見出し「三島神と鳶澤甚内――火明命を中心とした海人の世界」の項の露天商の記述を基に、人口に膾炙した露天商の認識を糺すことを目的とし、露天商の歴史、博徒や暴力団との違い、無宿人との違いから、露天商とは何かを明示するとともに、商いという面から露天商の実像を顯らかにした小論である。

 『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」の「三州吉田の怪猫騷動」の項で引用したルイス・フロイス著『日歐文化比較』には、耶蘇教文化圈と比べ、日本の女性は自由で、自立しており、地位も高かった旨が記されている。
 「耶蘇教の傳來と女性の地位の変化」では、日本の女性が耶蘇教文化圈の女性と比べ、なぜに自由で、自立しており、地位も高かった理由を、母系制、夫婦別姓といったキーワードから解明した。
 このクニで、夫婦同姓が一般的になるのは、耶蘇教の影響であり、耶蘇教の影響で、日本の女性の社会的地位が低下したことを説明した。  


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2022年09月10日

推敲中の『穂国幻史考(増補新版続編)』の説明1

 『穂国幻史考(増補新版続編)』は、『穂国幻史考(増補新版)』で展開した独自の説及び、その独自の説の前提となる言説を抽出して、まとめたものである。

 「風土記撰上と佳字二字令」は、『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の序「穗國とは」から、風土記撰上及び佳字二字令について言及した言説を拔き出したものであり、主に『續日本紀』卷六和銅六(七一三)年五月癸亥朔甲子(二日)條の記述を基に、風土記撰上と佳字二字令が何を目的に制定されたかを考察した。
 「風土記撰上と佳字二字令」の詔が出された和銅六年は、『日本書紀』のゲラ刷りたる『古事記』完成の翌年になる。『日本書紀』は、史實を後世に傳える目的で編纂されたものではなく、史實を消し去り、新たに創作した物語をあたかも歴史の如く語ったものである。
 「記紀」では、「記紀」が初代天皇とする神武の東征で、大和盆地に入るとき、近畿地方には、土蜘蛛を始め、古モンゴロイド(繩文人)の身體的特徴を有する人々がいたことが記されている。佳字二字令及び『風土記』に收録された地名由來譚は、神武が征討した先住者の付けた地名を消すことにあった。
 『古事記』序文第三段も、「然 上古之時 言意并朴 敷文構句 於字皍難」と、「上古の言葉を漢字に直すのは困難である」旨を記し、その例として「日下」を擧げ、「於姓日下謂玖沙訶」と、「日下は玖沙訶と訓むが、日下とそのまま記した」旨を述べる。
 このクサカは、先住者の言葉であり、繩文語の流れを汲むアイヌ語で「舟で運ぶ・岸」を意味する"kusa・ka"に由來する。これをもってしても、『風土記』の編纂意圖をうかがい知れよう。
 『風土記』の撰上及び佳字二字令は、『日本書紀』を裏から支え、先住者の歴史を消し去り、創作された新たな物語を史實と誤認させる目的で制定されたものであることを説明した。

 「日本書紀の暦日とその著述年代」は、『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の第一章「「記紀」の成立過程と穗國」の第一節「「記紀」の編纂はいつ始められたか」から『日本書紀』の編纂時期について言及した言説を拔き出し、まとめた小論である。
 『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の第一章「「記紀」の成立過程と穗國」の第一節「「記紀」の編纂はいつ始められたか」は、そのタイトルの通り、「記紀」の編纂がいつ始められたかについて考察した論考である。
 一般には、『日本書紀』の編纂は、天武の時代に始められたとされる。その根據は、『續日本紀』、『日本書紀』及び『古事記』の記述に基づくが、ミスリードを誘発する記述を含む、『古事記』、『日本書紀』及び『續日本紀』は僞書といえる。
 この僞書の記述に基づく、『日本書紀』の編纂は、天武の時代に始められたとする通説に疑いを持ち、「日本書紀の暦日とその著述年代」では、暦法の研究者の小川清彦(一八八二~一九五〇)さん及び中国語学者の森博達さんの言説を踏まえ、持統の時代に編纂が始められた旨を説明した。

 『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の第一章「「記紀」の成立過程と穗國」の第二節「皇祖神アマテラスの創造と伊勢神宮の創立」では、祀られる神アマテラスは、「記紀」の編纂時に創作されたものであったことを、同章第三節の「アマテラスの誕生と持統三河行幸」竝びに第三章「彷徨うアマテラス」の第一節「ヤマトヒメの巡幸」では、その祀られる神アマテラスを容れる器たる皇大神宮が出來るのも、『日本書紀』の編纂が始められる持統の時代であること、『續日本紀』が默して語らない持統三河行幸の目的を、『萬葉集』に收録された歌から、東三河の制壓であったこと、その制壓の目的は、祀られる神アマテラスの創造の障碍を取り除くことであったことを顯らかにした。
 「皇大神宮の創建と持統三河行幸」では、主に『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の第一章「「記紀」の成立過程と穗國」の第二節「皇祖神アマテラスの創造と伊勢神宮の創立」及び第三節「アマテラスの誕生と持統三河行幸」竝びに第三章「彷徨うアマテラス」の第一節「ヤマトヒメの巡幸」における言説を基に、皇大神宮が創建されたのは、持統の時代であり、持統三河行幸の目的は、穗國の制壓にあったとの独自の説を詳細に説明した。

  「天皇の棄姓とその弊害」は、『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の第四章「虚構の万世一系と持統の生い立ち」の第一節「易姓革命から逃れるために姓を棄てた持統」で主張した言説の要點=天皇に姓がないのは、易姓革命を逃れるため、その棄姓により、現在まで續く、民のためにならないクニは潰すという当たり前が通用しない弊害について説明した。
 なお北畠親房(一二九三~一三五四)が著した『神皇正統記』卷二應神條には、「昔日本は三韓と同種也と云事のありし かの書をは 桓武の御代にやきすてられしなり」との記述がある。「桓武の御代にやきすてられ」た書には、天智(六二六~六七二)の出自が詳しく記されていたと考えられる。乙巳の變について記す『日本書紀』卷二四皇極四(六四五)年六月戊申(一二日)條は、蘇我入鹿(六一一?~六四五)の屍を見た古人大兄(?~六四五)は、「見走入私宮 謂於人曰 韓人殺鞍作臣 謂因韓政而誅 吾心痛矣 皍入 杜門不出」と、「自宅に入り「韓人が、鞍作臣を殺した」といい、自宅に引き籠った」とあるからだ。鞍作臣とは入鹿のことである。同卷皇極元(六四二)年一月丁巳朔辛未(一五日)條で、「大臣兒入鹿更名鞍作」と、「鞍作は入鹿の別名」と記してある。この入鹿に最初に斬りかかったのが中大兄、後に天智と呼ばれる男だ。入鹿に最初に斬りかかった韓人は天智のことであり、「三韓と同種也」と天智の出自が詳しく記された書は、天智の男系の子孫・桓武(七三七~八〇六)の時代に焼き棄てられたのだ。
 ちなみに持統(六四五~七〇三)及び元明(六六一~七二一)の父は、天智であるが、その元明の皍位の詔について記載する『續日本紀』卷四慶雲四(七〇七)年七月丙申朔壬子(一七日)條は、「是者關母威岐近江大津宮御宇大倭根子天皇乃 與天地共長 與日月共遠 不改常典止立賜比敷賜覇留法乎 受被賜坐而行賜事止衆被賜而 恐美仕奉利豆羅久止詔命乎衆聞宣」と、皇位繼承の根據を天智が定めたとされるいわゆる不改常典に求めている。
 このクニには、韓人=天智の子孫が天皇として、いまも居座っている。「日帝三十六年」どころの騒ぎではない。

 「御靈信仰と靖國」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺一「「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と豊川流域の「笹踊」」補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」の最初の見出し「平田派國學者・羽田野敬雄の牛久保觀」の三つ目の小見出し「わが國本來の神祭りとは乖離した國學思想」から、八百萬の神祭りから逸脱した神祭りの一例として擧げた靖國に關する言説を抽出し、まとめたものである。
 その靖國は、無念の死を遂げた兵が天皇に祟るのを防止するための怨靈の鎭魂施設であり、A級戦犯十四名もまた天皇裕仁の代わりに処刑されたことから、怨靈になると判断され、靖國に合祀されたのである。靖國を宗教施設として考察すれば、A級戦犯十四名を靖國に合祀した神職は、戰爭責任は裕仁(一九〇一~一九八九)にあったと考えていたのである。裕仁が、A級戦犯十四名が合祀された後、靖國に参拝していないのは、自身に戰爭責任ありとした靖國の神職たちに対する抗議の意思表示だ。
 「御靈信仰と靖國」では、以上の内容を詳しく説明した。

 「日本人という曖昧な概念」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺一「「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と豊川流域の「笹踊」」補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」の最初の見出し「平田派國學者・羽田野敬雄の牛久保觀」の最後の小見出し「遠州灘近海にも多くの外國船が航行」から、日本人の概念について言及した言説を拔き出した小論である。
  日本人という概念は、生物学的な血統によるものではなく、日本列島の文化を享有しているという歴史的文化的視点からの分類でもなく、明治政府が徴兵制を施行した時點での明治政府が兵として召集出來る男子を含む家族を日本人と定義したに過ぎない。
「日本人という曖昧な概念」では、徴兵制施行に遡る明治政府が考えた日本人の概念と、一般にいわれる日本人の概念の乖離から、日本人という概念が如何に曖昧なものであるかを説明した。

 「西寶の七福神踊」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺一「「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と豊川流域の「笹踊」」補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」の二つ目の見出し「田中緑紅主宰『鄕土趣味』の功罪」の四つ目の小見出し「稻垣豆人が「出し豆腐」以上に興味を示した「七福神踊」」から、三河灣最奧に位置する舊寶飯郡西部で傳承される神事藝能「七福神踊」について、そのエッセンスをまとめたものである。
 三河灣最奧に位置する舊寶飯郡西部の神事藝能「七福神踊」は、「七福神踊」といっても、辯才天の代わりに白狐が加わり、なぜか毘沙門天あるいは壽老人を缺いていた。
 「西寶の七福神踊」では、辯才天の代わりに白狐が加わる理由を、『源平盛衰記』卷二八の「經正竹生島詣付仙童琵琶の事」で、平經正が竹生島に参詣し、辯才天の社前で琵琶を奏でると、白狐が出て來たとの記述を手掛かりに説明した。この『源平盛衰記』の記述から、狐は辯才天の使いと考えられるが、竹生島の辯才天像の頭頂部には小さな宇賀神が載る。この宇賀神と伏見稻荷の主祭神・宇迦之御魂神との混同が生じたことから、辯才天の使いが狐となり、辯才天の代わりに白狐が加わった旨の説明をした。
 次に毘沙門天を缺くのは、毘沙門天は、惠比壽神の本地であるとの言説から、壽老人を缺くのは、壽老人と福祿壽は、ともに南極老人星(Canopus)の化身であるとの言説から、毘沙門天あるいは壽老人を缺く理由を推測した。
  


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2022年08月27日

『穂国幻史考(増補新版続編)』

 『穂国幻史考(増補新版)』が遺作になるかと思ったが、往生際悪く生き延びれたようだ。
 そんなことから、『穂国幻史考(増補新版続編)』をまとめてみた。
 『穂国幻史考(増補新版)』で、展開した独自の説及びその独自の説の前提となる言説を抜き出し、まとめた論考集だ。
 現時点で、298P、166,118字。
 推敲中だが、一応、下記に目次を記す。

はしがき 8
風土記撰上と佳字二字令 17
 佳字二字令により消された地名 18
『風土記』に收録された地名由來譚 20
日本書紀の暦日とその著述年代 23
 日本書紀の編纂は、いつ開始されたか 24
 日本書紀に用いられる暦法 30
 倭臭の違いから分類した日本書紀の各卷 34
皇大神宮の創建と持統三河行幸 41
 アマテラスの變容 42
 祀られる神アマテラスと倭姫巡幸 49
 持統三河行幸を萬葉集から考察する 50
天皇の棄姓とその弊害 61
『隋書』が記す倭王の姓 62
 易姓革命を回避するための棄姓とその弊害 65
御靈信仰と靖國 69
 靖國の起源は招魂祭 70
 靖國は怨靈を鎭魂する宗教施設 72
日本人という曖昧な概念 81
 血統主義と出生地主義 82
 明治六年の時點で、明治政府の權力が及ぶ範圍にいたか否か 84
 国籍法との乖離 85
西寶の七福神踊 89
 なぜ辯才天の代わりに白狐か 90
 毘沙門天あるいは壽老人を缺く理由 94
山本勘助と牧野氏 97
『武功雜記』の記述が勘助の實在を證明 98
『牛窪密談記』における山本勘助の記述 102
 菅姓山本家系圖 104
 牧野氏の出自 111
大成經の僞作者・山鹿素行 119
 大成經彈壓事件と潮音道海 120
 高野本と山鹿素行 123
 大成經の系譜 135
菟足神社の風祭と諏訪の御頭祭 139
 風祭の供犧 140
 神幸に隨伴する獅子頭 147
祇園感神院とその祭神の本地 165
 東光寺と白山妙理權現 166
 祇園感神院と犬神人 167
 補陀落と東照大權現 174
專願寺の大施餓鬼 179
 專願寺の前身は專求庵 180
 施餓鬼とは 184
 葬頭姫を祭神とする三ツ相の水神社 185
 夏越祓と專願寺の大施餓鬼 193
伊豫橘氏と河童傳承 209
 橘公業と伊豫橘氏 210
 伊豫橘氏と龍神傳説 212
 海倉淵の椀貸傳説 224
人口に膾炙した露天商の認識を糺す 231
 博徒との違い 232
 商いという面からみた露天商 253
 無宿人の系譜 262
耶蘇教の傳來と女性の地位の變化 269
 夫婦別姓と母系制 270
 女丈夫の系譜 273
あとがき 280
主要参考文献 294  


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2022年08月04日

ISC21六月月例会「『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む」の感想等 2

 瀧元先生は、武と舞の同根性を研究のテーマとされている。
 相撲は「素舞ひ」が語源といわれるが、私は芝居の語源も「素舞ひ」だと考える。
 つまり私も、武と舞は同根と考えている。
  『穂国幻史考(増補新版)』第三話附録一のタイトルを「相撲雑話」としたのは、相撲部屋というビジネスモデルを介して、本場所及び巡業という興行の特殊性にまでは言及することが出来なかったからだ。
 横綱はボクシングのチャンピオンとは異なる。本場所はトーナメント戦でもなければ、リーグ戦でもない。もちろん本場所の幕の内優勝力士が横綱を名乗れるわけではない。
 武と舞の同根性からいえば、相撲部屋の一門は、歌舞伎役者の屋號に似る。
 歌舞伎役者の屋號の多くは、役者の實家の芝居茶屋や出方の屋號を転用したものだった。
 正式名・相撲案内所=相撲茶屋の主人は逆に元力士の関係者である。
 茶屋と本場所での興行は、プロボクシングやプロ野球より、芝居の興行と芝居茶屋に似る。
  稲垣博士は、スポーツと娯楽、スポーツと贈与を研究テーマの一つとされていた。
 瀧元先生も指摘されておるように、『穂国幻史考(増補新版)』は、繩文の視点から、日本列島の歴史を捉え直したものである。
 相撲についても、相撲節會に先立ち、部領使と呼ばれるスカウト役が諸國から力士を集めた。部領使は、防人を引率した役職であり、七世紀中ごろには、この防人を引率した部領使が、蝦夷の俘囚を移配先に護送するようになる。節會時代の力士を考える上では、繩文の視点が必要なのである。
 相撲部屋は、ボクシングジムと日本ボクシング協会の関係と異なり、日本相撲協会からの独立性が高い。相撲部屋の継承の実態は、女将から娘という母系を基本とする。繩文の視点が必要なのである。
 稲垣博士のもとで学んで来られた瀧元先生には、以上のような観点から、武と舞の同根性についての関係を是非言及して行って頂きたいと願う。

 最後に竹村さんの発表であるが、稲垣博士から、21 世紀スポーツ文化研究所編『スポートロジイ』第二号を頂いており、そこに収録されていた竹村匡弥著『野見宿禰と河童伝承に潜む修祓の思想』については、『穂国幻史考(増補新版)』拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」の二つ目の小見出し「ひょうすべと三島神――三島神が降臨した攝津三島江と上宮天滿宮」で採り上げている。
  『野見宿禰と河童伝承に潜む修祓の思想』をタイトルとする論考で、竹村さんがいう「河童伝承」とは、潮見神社(佐賀県武雄市橘町大字永島)に代々傳わる「ヒョウスベよ 約束せしを忘るなよ 川立ておのが あとはすがわら」との呪文をいう。潮見神社は、橘諸兄(六八四~七五七)、橘奈良麻呂(七二一?~七五七)、橘島田麻呂(生没年不詳)、橘公業(生没年不詳)及びその後裔で河童(兵主部)の主という澁谷氏を祭神とする。
 この潮見神社に傳わる上記呪文については、京極夏彦・多田克己編『妖怪図巻』「ひょうすべ」の項(一四四・一四五頁)でも採り上げているが(『穂国幻史考(増補新版)』拾遺五補遺の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」参照)、竹村さんも、『妖怪図巻』「ひょうすべ」の項も、何故に橘氏及びその後裔の澁谷氏を祭神とする潮見神社で、野見宿禰の後裔の菅原氏に關する水難防止、河童除けの呪文が殘っているのかの説明はない。
 私の興味は、水神とは縁の薄い橘氏を祭神とする潮見神社になぜ河童傳承が殘るかであった。
 橘諸兄、橘奈良麻呂、橘島田麻呂の三人は、直系の血縁關係があり、七世紀後半から八世紀の人物で、敏達(五三八?~五八五)後裔の源平藤橘の橘氏である。
 對して橘公業は、鎌倉初期の武將で、嘉禎二(一二三六)年に本領伊豫國宇和郡を西園寺公經(一一七一~一二四四)に讓り(實際には公經が幕府に願い出て强引に横領した)、潮見神社の背後の山頂に潮見城を築き、その眷属の兵主部も潮見川に移住して来たといわれる。伊豫から肥前に移った橘公業は、源平藤橘の橘氏ではなく、三島神を奉じた伊豫橘氏(越智氏)の橘遠保(?~九四四)の子孫ともいう。
 伊豫橘氏が奉戴する三島神=大山積神について、『伊豫國風土記』逸文「乎知郡御嶋」の項は、「仁德の世、百濟から渡來して津國の御島に座した大山積神を、乎知郡(越智郡)の御島(瀬戸内海にある三島諸島)に勸請した」旨を記す。
 三島神が渡來したのは、攝津三島の淀川の川中島(三島神社/現三嶋鴨神社。慶長 3(1598)年に大阪府高槻市三島江二丁目に移転)。三嶋鴨神社から北へ凡そ四㌔進めば、上宮天滿宮(高槻市天神町一丁目)が鎮座する。境内には、官公の遠祖・野見宿禰の祖廟(傳野見宿禰古墳の上に野見神社(式内論社)が鎭座)がある。野見宿禰の祖廟に菅原道眞(八四五~九〇三)の御靈代を祀ったのは、道眞の曾孫の菅原幹正(生没年不詳)である。ここで漸く潮見神社の祭神の一柱・橘公業と官公が繋がるのである。
 ところで、細平井桁とともに橘紋を家紋とする井伊氏の祖・共保(一〇一〇~一〇九三)の誕生譚、渭伊神社(浜松市北区引佐町井伊谷)本殿の後方の丘が藥師山と呼ばれること、菩提寺の萬松山 龍潭寺(浜松市北区引佐町井伊谷/臨濟宗妙心寺派)の本尊が虚空藏菩薩であること等から、井伊氏も伊豫橘氏を本姓とすると考えられる。
 その井伊氏の本貫地・井伊谷から北北東に七㌔ほどの同じ引佐町の久留米木地区(浜松市北区東久留米木及び西久留米木)には、龍宮に通じる淵があり、そこから出て來た小僧が村人の仕事を手傳い、村人が感謝を込め、ご馳走したが、誤って小僧には毒となる「蓼汁」を出したことから、小僧が死んでしまったという、河童傳説に通じる龍宮小僧傳説が殘る。
  井伊共保の子孫・井伊俊直は、『和名類聚抄』(承平年間(九三一~九三八)に 源順(九一一~九八三)が編纂した辭書)二〇卷本(國語學者の龜田次郎(一八七六~一九四四)は、二〇卷本を後人が増補したものとしている)の一二部「國郡部」に記載される麁玉郡赤狹鄕に因み、赤佐を名乘る。赤佐氏が本據とした赤狹鄕にある「家を護るは岩水寺」といわれて安産祈願などの參拜客で賑わう龍宮山岩水寺(浜松市浜北区根堅/神龜二(七二五)年開山)には、天龍川沿いの椎ヶ淵(浜松市天竜区二俣町鹿島)を舞臺にした龍神傳説が殘る。
 かように、伊豫橘氏を本姓とすると推測される海人・井伊氏は、龍神傳説に彩られ、潮見神社の河童傳承も、伊豫橘氏を本姓とする橘公業の一族が共同幻想に昇華させた譚だと考えられる。
 以上の私の見解について、どう思っているか、竹村さんの見解を聞きたい。
 また、『妖怪図巻』「ひょうすべ」の項は、「『落穂余談』では、その昔に三河国(静岡県西部※)の設楽某という力持ちが河童を捕らえ、これを殺そうとしたところ、自分を助けてくれれば以後設楽氏一族郎党を水難から守ることを約束し、その証文の代わりに、「ヒョウスヘは約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原」という呪文を教えたというが、設楽氏はもと菅原の姓であったという(※三河國は静岡県西部ではなく、愛知県東部。引用者柴田註)」と記す。
 この設樂氏は、本姓を三河大伴氏とし、同族の富永氏が居城にした野田館垣内城の対岸の海倉淵(新城市一鍬田殿海道及び一鍬田五井ノ巣邊り/舊八名郡)は、龍宮に續くといわれ、「河童の駒引」と通底する「椀貸傳説」が殘る(『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀伝説」拾遺「富永系圖と木地師」の最初の項「海倉淵の椀貸傳説」及び第三話「牛窪考」拾遺五補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」の一つ目の小見出し「ひょうすべと椀貸傳説――三河大伴を例にして」参照)。
 当然この「海倉淵の椀貸傳説」は、潮見神社に傳わる「ヒョウスベよ 約束せしを忘るなよ 川立ておのが あとはすがわら」との呪文と關係すると思われる。
 竹村さんが、「海倉淵の椀貸傳説」をどう考えるかの見解を聞きたい。
 もう一つ。竹村さんは兵主部から、蚩尤、さらには、蚩尤の子孫というモン族の牛の供犧から河童傳承を考察すべきとお考えのようだが、『穂国幻史考(増補新版)』は、船井先生や瀧元先生が認識されているように、繩文の視点から日本列島の歴史を捉え直すことを大きなテーマとする。
 当然、動物の供犧についても繩文に由來すると私は考え、『今昔物語』卷一九第二話「參河守大江定基出家セル話」や『宇治拾遺物語』卷四の第七話「三河入道の遁世世に聞ゆる事」に載る菟足神社の風祭の猪の供犧及びその名殘と思われる東三河平野部の神幸に随伴する獅子頭について、『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の二つ目の見出し「菟足神社の徐福伝説説明板を檢證する」の四つ目の小見出し「生贄神事は中国的か――奥三河の鹿射神事及び諏訪の御頭祭と菟足神社の生贄神事」で、話を展開している。   この繩文の視点からの動物の供犧についての私の見解をどう判断するか、竹村さんの意見を聞かせて頂きたい。
 以上が、21 世紀スポーツ文化研究所六月月例会「『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む」の私の感想及び意見である。
                                                        二〇二二年七月二四日
                                                                柴田晴廣  


Posted by 柴田晴廣 at 00:42Comments(0)穂国幻史考

2022年08月03日

ISC21六月月例会「『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む」の感想等 1

 21 世紀スポーツ文化研究所の六月の月例会で、四月に刊行した『穂国幻史考(増補新版)』について話をしないかと、河野文子さんから連絡を頂いた。
 21 世紀スポーツ文化研究所の研究会ということで、膨大な量の拙著『穂国幻史考(増補新版)』から、第三話「牛窪考」附録一の「相撲雑話」をテーマに話をしたいと思っていた。
 実を言えば、河野さんから連絡を貰った時点で、私は大腸がんが再度再発し、治療も尽き、持って三ヶ月と覚悟していたこともあり、心残りがないように、どういった内容の話をしようかと考えていたのだ。
 治療も尽きとはいうものの、手術で再発した腫瘍を除去することさえ叶えば、治る可能性も無きにしも非ず。ただ腫瘍が小腸や尿管に複雑に絡んで癒着しており、一般の医療機関では手術は無理だと端から断られていた。ところが、主治医の豊川市民病院消化器内科部長の宮木知克医師は、「柴田さんはまだ元気だから」と、手術の出来る機関を探して提示。アグレッシブな手術に積極的に取り組んでいる滋賀県草津市の淡海医療センターなら、手術が可能かもしれないから、一か八か行ってみないかと。提案を受けて決心し、宮木医師の紹介状を携えて、淡海医療センターへと向かい、六月一七日に入院した。
その前日に、急いで「相撲雑話―野見宿禰を中心に」を半日で書き上げ、河野さんにお送りし、21 世紀スポーツ文化研究所の研究会の六月月例会には、その書き上げた原稿「相撲雑話―野見宿禰を中心に」をレジュメとして使うという形での参加となった。
 後日、月例会の動画を送って頂いたが、入院中で残念ながら動画は直接は拝見していない。ただ携帯電話を介して、その音声は聞いている。   以下、聞いた音声の記憶を基に、月例会の内容と、それに対する私の意見や感想等を記させて貰いたいと思う。
21 世紀スポーツ文化研究所の六月の月例会では、私がオンラインでの参加も出来なくなったため、「『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む」といったタイトルで、船井廣則先生、瀧元誠樹先生、竹村匡弥さんが、それぞれ話をされた。

 船井先生は、牛久保の若葉祭の俗称・うなごうじ祭についての、〝うなごうじは「笹踊」の囃子方が道路に寝転び蛆蟲のようだとする、うなごうじ=蛆蟲由來説は根據がない〟とする私の言説を述べた『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺一「「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と豊川流域の「笹踊」」の最初の見出し「「うなごうじ祭」は「蛆蟲祭」ではない」、及びそれを受けて蛆蟲由來説の根據の無さを詳細に考證した『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺一補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」を要領よく説明され、『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺一補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」の四つ目の見出し「「うなごうじ祭」という通稱についての假説」の四つ目の小見出し「繩文に由來する灰塚野の祭りが「うなごうじ」の語源」で、私が提示した〝「ウナゴウジ」は、"una・kuta・usi(灰捨場)"が訛化したものとの私の假説を『穂国幻史考(増補新版)』第三話第一章から第五章での牛久保("husko・bet・kus"(古い・川・通る))という地名、それ以前のトコサブ("tok・o・sap"(凸起物(堆積物等)が、そこで群をなして浜(河岸)へ競せり出だしている))という地名は繩文に由來する〟との私の言説を踏まえて、簡潔に説明された。
  ここで補足すれば、若葉祭の起源について、『牛窪密談記』(元祿一四(一七〇一)年成立 元祿一〇(一六九七)年ごろに成立した『牛窪記』(作者不詳)を、牛久保の人・中神善九郎行忠(?~一七一一)が加筆訂正したもの)は、

 牧野古白入道 或歳四月八日此若宮ヘ參詣アリシニ 其ノ主今川氏ノ許ヨリ使節到來シテ曰 當國渥美郡馬見塚村ノ邊ニテ要害ノ地理ヲ見立 一城ヲ築クヘシト 命令承リテ大ニ悦ヒ 家門ノ譽レ何事カ是ニ如カン 殊ニ當社ヘ參詣ノ折柄此吉事ヲ聞クコト 偏ニ當宮ノ御惠ナリト 取リアヘス庭前ノ柏葉ニテ神酒ヲ獻シ 其身モ快ク三獻ヲ傾ケヌ 猶喜ビノ餘リ 家紋ノ菊桐ヲ柏葉ニ替ヘヌルハ此所以ナリト 古老ノ云傳ヘナリ カクテ年々宗祇 宗長ノ兩子發句ヲ詠シテ若葉ニ結ヒ神前ニ供ヘ奉リ 牧野氏武運長久ノ祈念アリシトソ 是ヲ若葉ノ祭ト號ス

と、「發句ヲ詠シテ若葉ニ結ヒ神前ニ供ヘ奉」ったことから、「若葉祭」の名が付いた旨を述べる。
 私は、發句を結んだ若葉を言擧の儀式として、灰にし、流したと考えている。その流した場所は、牧野古白が居城とした一色城の東の灰塚野(現豊川市中条町鴻ノ巣辺り)であったのだろう。故に私は、"una・kuta・usi(灰捨場)"が訛化し、「ウナゴウジ」になったとの結論を導いた。
 船井先生は以上の説明を踏まえた上で、うなごうじ=蛆蟲由來説という妄説の根據となった〝若葉祭で「笹踊」を「笹踊歌」を唄い囃す囃子方・ヤンヨウガミという名も、繩文に由來するのではないか〟と、私に質問を投げ掛けられた。
 ここにいう「笹踊」とは、笹を持って踊る踊りではなく、金襴の唐子衣裝に笠を冠り、胸に太鼓を付けた三人の踊り手による風流囃子ものであり、江戸時代の朝鮮通信使の影響を受けた踊りで、豊川下流域の十九ヶ所の地区で奉納される神事藝能である。「笹踊」の名は、韓国・朝鮮語で三人戯を意味する"ses saram nori"が訛って、「笹踊」と呼ぶようになった。故に「ささおどり」の「お」にアクセントが来るのではなく、平板で発音される。
 「笹踊」を最初に始めたのは、城内天王(現吉田神社(豊橋市関屋町))であり、朝鮮通信使の正使・副使は、吉田では、孤峰山淨業院悟眞寺(豊橋市関屋町/浄土宗)に宿泊した。関屋町は、吉田天王社の氏子であり、関屋町内に悟眞寺はある。「笹踊」の囃子方をヤンヨウガミと呼ぶのは牛久保のみではない。ただし御馬(豊川市御津町御馬)では、「笹踊」の踊り手をヤンヨウガミと呼ぶ。
 ヤンヨウガミは、『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺一補遺二「豊川流域の特殊神事「笹踊」の考察」の参考資料「各社の「笹踊歌」の歌詞」を見ればわかるように、「笹踊歌」の囃子詞であり、若葉祭では、「サアゲニモサア ヤンヨウ神もヤンヨウ」と囃す。
 囃子詞とは、歌謡の意味に関係なく、その中や終わりに入れた、調子をとるための詞をいう。
 信濃川の河口に架かる現在の萬代橋 (新潟市中央区の国道七号線に架かる橋梁/国指定重要文化財/現在のものは三代目)の完成を記念して、昭和四(一九二九)年に北原白秋(一八八五~一九四二)が作詞した『新潟小唄』の囃子詞の「ハラショ」は、ロシア語で、「良い」「すばらしい」などを意味する"хорошо"に由來する。『新潟小唄』の囃子詞は、「ハーサ、ハラショ、ハラショノロンロン」と、「ハラショ(хорошо)」以外は全く意味を成していない。
  繰り返しになるが、若葉祭では、「サアゲニモサア ヤンヨウ神もヤンヨウ」と囃す。この「サアゲニモサア」の「ゲニモ」は、朝鮮通信使の正使・副使は、吉田では、悟眞寺に宿泊していたことを考えれば、寺に泊まっている貴人を意味する「客任gek nim」が訛化したものと考えられる。
 「客任」のように"k"と"n"が連続する場合、子音同化により先の"k"が"ng"に変化し、発音は"geng-nim"になる。
  船井先生が問題にしているヤンヨウガミであるが、八百萬神の漢字を當てるところもあるが、上記のように、囃子詞は歌謡の意味に関係なく、その中や終わりに入れた調子をとるための詞をいうことから、八百萬神は當字と考えられる。
 なぜなら、「笹踊」は風流囃子物であり、風流囃子物は神を囃すものであって、當然、神そのものではなく、「笹踊」の囃子方が神であるわけもない。「ヤンヨウ神」は「八百萬神」であろうはずがない。
 上記のように、「笹踊」を最初に始めたのは、城内天王の祭禮であり、小笠原氏が、藩主であった時代であったと推測される。
 その小笠原家の江戸上屋敷は日比谷公園の南側の一部で、一㌔ほど離れて八重洲がある。八重洲の地名は、ヤン・ヨーステン(Jan Joosten van Loodensteijn/一五五六?~一六二三)の日本名「耶楊子」に由來する。小笠原氏が藩主だったころの吉田では、「耶楊子」あるいは「八代洲」という日本語にはない響きの言葉も身近なものであった可能性が高い。
 その不思議な響きの言葉を、風流囃子物である「笹踊」の「囃子詞」として採り入れたというのが、私の見解である(『穂国幻史考(増補新版)』二〇四三~二〇五一頁参照)。

 この船井先生の話について、河本洋子先生が、山本勘助(?~一五六一)が主役の二〇〇七年の大河ドラマ「風林火山」で、牛久保に興味を持ったと。
 東海道御油宿(寶飯郡御油村(現豊川市御油町))の早川彦右衞門(一八六二~一九一八)が明治二四(一八九一)年に編纂した『三河国宝飯郡誌』(国書刊行会復刻版一四八頁)は、『續玉石雜志』に、「推挙ノ縁ヲ求メント牛窪ニ至リ、地頭牛窪弥六郎之ヲ扶持シケル」とある旨を引きはするが、「其出所ヲ詳ニセズ」とその根據は明らかでないことを指摘している。
 河本先生の旧姓は、牛窪。丹後田邊藩の藩廳が置かれた舞鶴の出身と聞く。
 太田 亮(一八八四~一九五六)著『姓氏家系大辭典』の「牛窪」の項には、「1 田姓牧野氏流 三河國寶飯郡牛久保邑より起る。牧野氏族なり。マキノ條を見よ。田邊牧野藩の重臣なり」(第一卷六四五頁)とある。
 河本先生が、大河ドラマ「風林火山」を見て、牛久保に興味を持たれたのもある種縁のようなもので当然であったかもしれない。
 なお、山本勘助について『牛窪密談記』は、「山本勘助ハ明應九年八月十五日 參州八名郡加茂鄕ニテ出生」とし、その舊八名郡の宇利う り
莊黒田村(新城市黒田)には、『菅姓山本家系圖』が殘り、『菅姓山本系圖』によれば、勘助の本姓も菅原。菅原姓の遠祖は、野見宿禰である。

参照:船井先生のサイト
http://www.tees.ne.jp/~sieg922/contents/Recentreport.html#20220626  


Posted by 柴田晴廣 at 00:13Comments(0)穂国幻史考

2022年08月02日

相撲雑話-野見宿禰を中心に

  『穂国幻史考』を取り上げていただき、ありがとうございます。
  稲垣正浩さんが主宰されていた 21 世紀スポーツ文化研究所の研究会ということで、膨大な量の拙著から、『穂国幻史考』第三話「牛窪考」附録一の「相撲雑話」をテーマに話をしたいと思います。
 その前に『穂国幻史考』を執筆した動機を。
 私の家は、三河国一帯の露天商を統べる親方でした。露天商の祖は、一般には秦河勝といわれますが、我が家に伝わる口伝では、「香具師は天香具山命の子孫であり、故に香具師と当て字をすること、香具夜姫も同族であり、香具山命を祭神とする弥彦山で生を受けた大江山の鬼・酒呑童子も同族である」と伝えています。
 この口伝から『穂国幻史考』の執筆にどう繋がったかを記せば、大学で履修していた一般教養の授業が休講になった或る日、暇つぶしにと何気なく受けた履修していない一般教養の講義が沈黙交易の話で、祖父から聞いた柴田家の口伝と何となく共通する内容が気になり、授業が終わった後、その教授に口伝の話をしたところ、「初めて聞く話だが、君にしかできないことだから、取り組んでみたらどうか」、「それについては、記紀を読む必要があるが、読んだことはあるか」、「読んだことがないなら、最初に原文を読め」と。
 助言に従い、記紀の原文を読んだ後に解説書を読むと、原文に書いていないことがさも原文に書いてあるかのごとく解説してありました。
 それで通説を疑い、祖父からの口伝を道筋として、記紀を解釈するようになり、それをまとめたものが、『穂国幻史考』になりました。
 かぐや姫といえば、『竹取物語』の主人公ですが、かぐや姫の名は、『古事記』中卷埀仁條にも載っています。このかぐや姫は、丹波道主王の娘の一人と考えられ、埀仁の妃の一人・迦具夜比賣命は、大筒木埀根王の娘であるが、『古事記』中卷開化條の系譜には、大筒木埀根王の同母弟に讚岐埀根王を載せています。
  『竹取物語』での竹取の翁の名は讚岐造。『竹取物語』の作者は、丹波道主王の娘の一人と考えられる迦具夜比賣命を意識して、物語を書いたと思われます。
 周知のように、『竹取物語』は、文武の時代を舞臺とし、かぐや姫に求婚する五人の公家も、文武時代の實在の人物がモデルだといいます。
 そして、持統から文武という祖母から孫への権力移譲が、アマテラスからニニギへの天孫降臨逸話に投影されているといわれます。
 ニニギには姉妹連帯婚、火中出世譚が語られていますが、迦具夜比賣命を妃とした埀仁にも同様に姉妹連帯婚、火中出世譚が語られています。
 またアマテラスが、五十鈴川のほとりに祀られるのも、埀仁の時代に丹波道主王の孫娘に当たる倭姫の巡幸によってです。
 ただ実際に伊勢神宮が創建されるのは、持統の時代です。倭姫の巡幸について記す『皇太神宮儀式帳』(804 年成立)には、倭姫に副えた五柱の送驛使のうち、四柱は、『竹取物語』で、かぐや姫に求婚する五人の公卿のうちの四人と対応します。
 さらに『太神宮諸雜事記』では、三河國渥美郡、遠江國濱名郡に倭姫が巡幸した旨が載ります。内宮の関係者が、三河渥美郡あるいは遠州濱名郡に伊勢神宮を創建する構想を抱いていたことを窺わせる記述です。
 私は『古事記』は、『日本書紀』のゲラ刷りと考えています。そして『日本書紀』には、卷3甲寅年 10 月丁巳朔辛酉(5日)條から干支による暦日が記載されています。古代の暦法の研究家で、『日本書紀』の暦日に関する研究をし、それをまとめて『日本書紀の暦日に就いて』を上梓した小川清彦さんによれば、『日本書紀』卷3の神武皍位前紀の甲寅年 11月丙戌朔から卷 11 末の仁德 87 年 10 月癸未朔條までが、儀鳳暦に一致し、卷 14 安康紀3年8月甲申朔から卷 27 天智紀6年閏 11 月丁亥朔までが、儀鳳暦より古い元嘉暦と一致する、との研究がなされています。
 上記の小川清彦さんの説を踏まえ、中国語学者の森博達さんは、倭臭の違いにより、『日本書紀』は、中国人が書いた部分、漢文が得意でない日本人が書いた部分、そして、ある程度漢文のわかる日本人が書いた部分に分けることが出来、『日本書紀』卷 14 の雄略紀から卷 21 の用明紀、崇峻紀及び卷 24 の皇極紀から卷 27 の天智紀は、中国語を母国語とする唐人・續守言(生没年不詳)と薩弘恪(生没年不詳)が、卷1(神代上)から卷 13(允恭・安康紀)、卷 22(推古紀)及び卷 23(舒明紀)並びに卷 28 及び卷 29(天武紀)は、漢文が得意でない日本人の山田史御方が著述し、さらに、森氏は、持統の死去に伴って、『日本書紀』卷 30 持統紀の著述が計画され、その著述を、ある程度漢文がわかる日本人の紀清人が、全体の潤色及び加筆並びに續守言が執筆できなかった卷 21 の卷末から卷 23 の著述を、三宅藤麻呂に託したのではないかとしています。
 具体的な著述年について森さんは、『日本書紀』卷 30 の持統5(691)年9月己巳朔壬申(4日)條に、「賜音博士大唐續守言 薩弘恪 書博士百濟末士善信 銀人二十兩」の記述を根拠に、このころから卷 14 から卷 27 の著述が始められ、文武4(700)年以前に、その著述作業は終了したものと、山田史御方の著述作業は慶雲4(707)年ごろに始められ、紀清人と三宅藤麻呂の著述作業は、和銅7(714)年2月ごろに始められたものと推測しています。
 『古事記』を『日本書紀』のゲラ刷りと私が考える理由は、『古事記』は『日本書紀』の全体の潤色及び加筆が行われる前に完成しており、『古事記』の編纂作業はかなりの短期間で完了しているからです。
 ここで三河との関係について言及すれば、『日本書紀』の卷 14 から卷 27 の著述作業が終わり、祀られる神アマテラスについての記述がある卷1からの著述が始められる前に、持統三河行幸が行われます。
 持統三河行幸は、一般には、壬申の亂(672 年)の論功行賞を目的としたものだとされていますが、壬申の亂から 30 年も経っての論功行賞というのもどうかしています。
  『萬葉集』卷1收録の歌番號 61、58、57 から、持統三河行幸は、論功行賞どころか武力を伴った東三河の制壓だったと考えられます。その目的は皇祖神アマテラスの創造の障碍を除去するためでしたが、この行幸自体は失敗に終わりました。
 稲垣博士が小学校の途中から、大学入学まで過ごされました東三河とはこんな土地なのです。
 祀られる神アマテラスやその容れる器である伊勢神宮の創建については、埀仁の時代の倭姫巡幸で記されているのですが、埀仁の后ヒバス姫が亡くなったときに、殉死に代え埴輪を造ることを提言したのが、野見宿禰とされます。
 私は埀仁と、その前の崇神の時代の出雲の事件については、現在の島根県の話ではなく、丹波一宮・出雲大神宮を中心にした丹波の出来事であり、出雲の臣の後裔・野見宿禰も当然、丹波ゆかりの人物と考えています。このあたりの話は稲垣博士も膝を叩いて納得しておられました。
野見宿禰は、丹波ゆかりの人物だからこそ、丹波道主王の娘・ヒバス姫が亡くなったときに、殉死に代えて埴輪を作ることを提言したと考えるのが素直でしょう。
 先に森氏は、『日本書紀』卷 14 から卷 27 の著述開始の根拠を、『日本書紀』卷 30 の持統5(691)年9月己巳朔壬申(4日)條の、「賜音博士大唐續守言 薩弘恪 書博士百濟末士善信 銀人二十兩」の記述にも留めている旨を記しましたが、卷1からの著述についても百濟の書博士が関っていたと考えられます。
 野見は、韓国・朝鮮語の「奴の」の意味になる"nom-wi"に野見の字を当てたのではないかと考えます。
 相撲の始まりとされる野見宿禰と當摩蹶速の対戦は命を掛けたすさまじいものであり、この二人の戦いは、古代ローマの剣闘士を思わせるものです。そしてこの剣闘士の多くが、捕虜や奴隷、あるいは犯罪者が刑罰として就いていたことを考えれば、野見に「奴の」の意味があったように思えるのです。
  この野見宿禰と露天商の親方とが、どう繋がるのか。
  野見宿禰は埴輪を作ったことから葬送に関わるようになります。
 実は、香具師の親方の生業は、桶屋か古着屋だったと祖父から聞いています。
 桶屋はいうまでもなく、棺桶も作ります。私の家は桶屋でした。
 古着屋は、明暦の大火を思い出せば、葬送に繋がることは容易に想像が付くと思います。
  私が、『穂国幻史考』第三話「牛窪考」附録一の「相撲雑話」で、野見宿禰を採り上げたのは、こんな理由からです。
 さて、稲垣博士が主宰しておられた 21 世紀スポーツ文化研究所の紀要『スポートロジイ』第2号で、竹村匡弥さんが『野見宿禰と河童伝承に潜む修祓の思想』を寄稿されています。
 この舞台となる佐賀県の武雄市の潮見神社の祭神の一つ橘公業は、三島神を奉載した伊予橘氏といわれます。
 先に持統三河行幸の話をしましたが、三河一宮砥鹿神社を始め、東三河の古い寺社は、持統三河行幸が行われた大寶年間に創建されたと伝わります。
 その砥鹿神社と同字同名の社が伊予、庵原、下野にあり、いずれの地も三島神の東漸に関わる地です。
 河童は相撲好きといわれますが、その河童は湿布薬や骨接ぎの術に長けていたといわれます。実は露天商の親方も、薬屋を管轄しておりました。
 河童のザンバラ神は髷を結えなかった被差別民を表したともいわれます。
  『穂国幻史考』で、被差別民について採り上げたのもそんなところにあります。
 以上のような視点から、稲垣博士が関心を持たれていた出雲、河童、相撲といったものを捉えなおせば、新たな言説が展開できると信じております。
 話は変わりますが、『穂国幻史考(増補新版)』第三話には、『牛窪考(増補版)』を刊行した折の稲垣博士による紹介「オンデマンド出版による『牛窪考』(柴田晴廣著)、刊行。電子版も。」を載せてあります。
 稲垣博士はその中で「少しだけ余談を。牛窪は、じつはわたしの育った豊橋市大村町とは、すぐ眼と鼻のさきに位置しています。その意味では、わたしもまた穂国の文化圏の真っ只中で育ったと言っていいでしょう。たとえば、牛窪のお祭りと同じ奉納芸能である「笹踊り」は、わたしの育った大村町の八所神社でも行っていました。三人一組になって太鼓を打ちながら舞い踊る、とても不思議な芸能です。ですから、大きくなったら(青年団に入ったら)、この踊りをやるんだ、とこころに決めていました。」といわれていますが、実際には、大村の「笹踊」の小太鼓を踊られたそうです。
 生前、稲垣博士は、「笹踊」が朝鮮通信使の影響を受けたものなら、日本と朝鮮では運足が違うから、その違いをまとめたいといっておられました。
 インターネット上には、全ての「笹踊」の動画が載っています。
 稲垣博士の意思を継がれる方に期待します。
 最後になりましたが、こんな形での発表になったことを残念に思っております。
 祖父は、露天商と博徒が一即多になり、暴力団化するのを嫌って、代々受け継いだ露天商の親方のみならず、露天商そのものを辞めました。
 ですから、祖父は博打は打たないという矜持を持っておりました。
 ただ、手をこまねいていても余命三ヶ月なら、一か八かの大手術を受けてみようと思っております。
 こんな博打なら、祖父も許してくれると思います。
  大博打に勝ち、是が非でも完治させ、研究会のメンバーの方々と会える日を楽しみにしております。
 本日はありがとうございました。研究会のメンバーの方々に感謝します。
                                                 2022.6.14 21:30
                                                      柴田晴廣  


Posted by 柴田晴廣 at 01:06Comments(0)穂国幻史考

2022年05月30日

刊行した『穂国幻史考(増補新版)』

穂国幻史考増補新版
 『穂国幻史考(増補新版)』を刊行しました。
  『穂国幻史考(増補新版)』のほか、 『穂国幻史考(増補新版)』の手引き、『著作権法逐条解説』が収録されています。
 写真の電子版(PDF版)は、5,000円。
 問い合わせは、このweb-log左最下欄「メールをする」からお願いします。

 なお取り扱い書店は、本の豊川堂(豊橋市呉服町40)
http://www.housendou.com/  


Posted by 柴田晴廣 at 12:39Comments(0)穂国幻史考

2022年04月04日

刊行予定の『穂国幻史考(増補新版)』の目次等

 刊行予定の『穂国幻史考(増補新版)』は、A5判縦書き 四四二九頁 文字数三三八九五六三字(以上予定)
 目次は以下のとおり。

  穂国幻史考(増補新版) 〈目次〉

はしがき 8
第一話 記紀の成立と封印された穂国の実像 13
  目次 16
はしがき 20
 モノローグ 54
 序 穗國とは 58
 第一章 「記紀」の成立過程と穗國 68
  第一節 「記紀」の編纂はいつ始められたか 68
  第二節 皇祖神アマテラスの創造と伊勢神宮の創立 102
  第三節 アマテラスの誕生と持統三河行幸 133
 第二章 穗別の祖・朝廷別王は、悲劇の皇子・ホムツワケノミコトだ 172
  第一節 『古事記』開化條の系圖を復元する 172
  第二節 穂別の祖・朝廷別王と日下部氏 221
  第三節 朝廷別王と穗國 268
 第三章 彷徨うアマテラス 302
  第一節 ヤマトヒメの巡幸 302
  第二節 穗國とヤマトヒメ(かぐや姫をめぐって) 332
  第三節 虚構のアマテラスと「書紀」の齋王 377
 第四章 虚構の万世一系と持統の生い立ち 402
  第一節 易姓革命から逃れるために姓を棄てた持統 402
  第二節 「書紀」の著述はなぜ雄略紀から始められたか 460
  第三節 天智の出自を隱すために編纂された「書紀」 495
 終章 穗國造・菟上足尼と丹波道主王の末裔たち 520
 (拾遺一)  砥鹿神社考 552
  第一章 神主・草鹿砥家 552
   第一節 縁起と草鹿砥氏 552
   第二節 草鹿砥と日下部 557
   第三節 草部明神と饌川水神舊社地 566
  第二章 社家・戸賀里氏 576
   第一節 穗國造と戸賀里氏 576
   第二節 戸賀里名稱考 585
   第三節 穗國造と蠶影神 594
   第四節 蠶影神とかぐや姫 601
  第三章 彦狹嶋の東遷と日下部氏 615
   第一節 日下部氏と日本武尊の系譜 615
   第二節 大碓命と美濃國造 624
   第三節 虚構の日本武尊東征 631
   第四節 三島神の東遷と砥鹿神社 663
  終章 砥鹿神社舊社地考 690
  (拾遺一補遺) 菅江眞澄とアラハバキ 712
    第一章 眞澄の出身地 712
    第二章 穗國のアラハバキ社 723
    第三章 藥師如來・白山權現とアラハバキ 730
    第四章 朝熊山の櫻大刀神 738
 (拾遺二) 丹波傳承考 754
  第一章 丹波の間人傳承 754
   第一節 丹波と穗國 754
   第二節 間人と土師 757
   第三節 厩戸皇子の祖母・小姉の正體 766
  第二章 守屋と馬子 779
   第一節 勝海殺害 779
   第二節 崇佛・排佛 784
   第三節 三輪君逆の殺害 790
   第四節 押坂彦人皇子 797
  第三章 穴穗部殺害事件考 804
   第一節 麻呂子傳説 804
   第二節 宣化の皇女たち 812
   第三節 日祀と推古 817
  終章 東漢直駒 825
 (拾遺三) 天武の命日をめぐって 834
  第一章 吉野の盟約 834
  第二章 川嶋皇子考 836
  第三章 天武と草薙の劔 843
 (拾遺四) 人麻呂考―─元明皍位をめぐって 854
 エピローグ 868
あとがき 870
主要参考文献 888
第二話 登美那賀伝説 891
  目次 894
はしがき 896
 第一章 野田城主富永氏 912
  第一節 首無の冨永 912
  第二節 夭逝千若丸 915
  第三節 石座神社と富永氏 927
 第二章 神武東征考 948
  第一節 神武東征の出發地は對馬だ 948
  第二節 大和の攻防 964
  第三節 磯城縣主家系圖を復元する 993
  第四節 大田田根子は磯城縣主だ 1011
 第三章 三河大伴考 1031
  第一節 大伴直と倭宿禰 1031
  第二節 三河大伴直と石座神社 1044
  第三節 安日傳承の原像 1052
 (拾遺) 富永系圖と木地師 1058
   海倉淵の椀貸傳説 1058
   惟喬傳説と六歌仙 1069
あとがき 1080
主要参考文献 1086
第三話 牛窪考 1089
  目次 1092
稲垣正浩 オンデマンド出版による『牛窪考』(柴田晴廣著)、刊行。電子版も。 1102
はしがき 1106
 第一章 牛久保の地名由來譚と牧野氏 1238
 第二章 古名・常寒 1249
 第三章 若宮殿建立と常荒 1260
 第四章 牧野氏の出自 1272
 第五章 牛窪と八尻 1278
 (拾遺一) 「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と豊川流域の「笹踊」 1286
   「うなごうじ祭」は「蛆蟲祭」ではない(1314) 豊川流域の「笹踊」と朝鮮通信使(1371) 「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と寶永の大地震(1378)
  (補遺一)「うなごうじ祭」名稱考 1386
    平田派國學者・羽田野敬雄の牛久保觀(1386)
     反骨を貫く若宮殿の縁起(1388) 國學の核心は中華思想にあり(1390) わが國本來の神祭りとは乖離した國學思想(1417) 上若の唄う「梅ヶ枝節」も異國起源(1460) 遠州灘近海にも多くの外國船が航行(1464)
    田中緑紅主宰『鄕土趣味』の功罪(1485)
     地面に寝転ぶ姿態からの聯想には疑問(1490) 稻垣豆人著『三河引馬神社の奇祭』の本當の著作者は誰か(1502) 引馬天王社の「出し豆腐」(1515) 稻垣豆人が「出し豆腐」以上に興味を示した「七福神踊」(1540) 『牛久保私談』『東三河に於ける御神事笹踊』等の地元近時代資料の檢討(1621)
    大正一〇年の「若葉祭」と祭禮組織の變容(1639)
     『下中祭礼青年記録集』が記す「祭礼紛擾の件」(1639) 「祭礼紛擾の件」が緑紅に輿えた影響(1749)
     「うなごうじ祭」という通稱についての假説(1757)
     梅村則義著『奇祭 牛久保のうなごうじまつり』の「蟲封じ説」の檢證(1761) 卯月八日の「紙下げ蟲」と『救民妙藥』の「小兒舌胎」(1770) 『牛窪密談記』等に見る「若葉祭」の由來(1786) 繩文に由來する灰塚野の祭りが「うなごうじ」の語源(1797) 「うなひ髪」由來は疑問(1818)
  (補遺二)豊川流域の特殊神事「笹踊」の考察 1836
    豊川流域に分布する「笹踊」の概要 1836
     「笹踊」に関する先行研究の概略(1836)
       「笹踊歌」をテーマとする研究の限界(1840) 間宮照子著『三河の笹踊り』の功績(1937)
     豊川流域の「笹踊」の分布と天王社(1958)
      間宮照子著『三河の笹踊り』収録以外の社で「笹踊」を行っていた可能性(1958) 天王信仰と「笹踊」發祥の直接の關係は疑問(1976)
     「笹踊」の所作及び囃子方他(2005)
      「笹踊」の特徴及び「笹踊」と呼べる藝能の範疇(2005) 豊川流域の「笹踊」の類型(2018) 囃子方の役割等及び過去においての踊り手の選考(2038)
      「笹踊」の起源に關する諸説の檢討(2054)
    豊川流域の各社に奉納される「笹踊」の個別檢討 2094
     吉田神社(2094) 牛久保八幡社(2141) 三谷八劔神社(2161) 新城富永神社(2172) 豊川進雄神社(2180) 御馬引馬神社(2206) 菟足神社(2202) 当古進雄神社(2252) 大木進雄神社(2287) 上千両神社(2296) 富岡天王社(2301) 式内石座神社(2305) 上長山(白鳥・素盞嗚・若宮)(2316) 豊津神社(2330) 伊奈若宮八幡社(2337) 老津神社(2352) 大村八所神社(2360) 石原石座神社(2369) 各笹踊の具體的起源と傳播(2387)
    各社の「笹踊歌」の歌詞(補遺二参考資料) 2410
     伊奈若宮八幡社(2411) 石座神社(岡崎市石原)(2411) 石座神社(新城市大宮)(2412) 牛久保八幡社(2413) 菟足神社(2415) 老津神社(2416) 大木進雄神社(2417) 大村八所神社(2419) 御馬引馬神社(2420) 上千両神社(2421) 上長山白鳥神社(2423) 上長山素盞嗚神社(2423) 上長山若宮八幡社(2424) 当古進雄神社(2425) 豊川進雄神社(2425) 豊津神社(2427) 富岡天王社(2428) 新城富永神社(2429) 三谷八劔神社(2430) 吉田神社(2432)
  (補遺三)「隱れ太鼓」考 2436
     「隱れ太鼓」が奉納される祭禮(2436) 「隱れ太鼓」とは(2441) 「三つ車」の詳細と「若葉祭」の大山車の役割等(2486)
    『帝都物語外伝 機関童子』に見る「若葉祭」の「隱れ太鼓」(2517)
     機関童子と「駱駝の葬禮」(2537) 歌舞伎の「人形振り」と「若葉祭」の「隱れ太鼓」(2544)
     「若葉祭」の「隱れ太鼓」と尾張の山車からくり(2557)
     東三河の山車からくりと三谷祭の山車の概略(2577) 東照宮祭に始まる尾張山車からくり(2574) 「若葉祭」の「隱れ太鼓」は、山車からくりの「人形振り」か(2582)
    豊川下流域の大山車と尾張型山車(2600)
     山車と屋臺はどう違う(2600) 尾張型山車の分類と傳播(2688) 昼間から提燈を飾る東三河の囃子車と遠州の屋臺(2733) 尾張の「大山」及び「車樂」と豊川下流域の大山車(2776)
    豊川下流域の大山車の起源とその亞型 (2770)
      「若葉祭」大山車の「再興」が意味するもの(2770) 小坂井の大山車は西若組の舊車(2824) 「豊川庄屋文書」に載る山車は大山車ではない(2841) 吉田祇園祭の車樂と「隱れ太鼓」(2854) 三谷祭の山車の原型は「若葉祭」にあった(2914)
    化政期の寄席藝能が「隱れ太鼓」に輿えた影響(2986)
     豊川流域の「笹踊」と豊川下流域の大山車の祭禮における位置附け(2986) 「若葉祭」の「隱れ太鼓」が「人形振り」になったのは大山車再興の際か(3033) コレラの流行と張子の虎、首振り人形の起源も文政期(3094) 「隱れ太鼓」の起源の檢討(3097)
 (拾遺二) 牛久保と山本勘助 3112
   勘助は實在したか(3112) 『牛久保古城圖』の描く山本勘助養家・大林勘左ヱ門屋敷(3118) 遺髮塚は養父・大林勘左衞門の屋敷に建てられた(3126)
 (拾遺三) 『牛久保古城圖』考 3140
   聖圓寺はいつ廢寺になったか(3141) 善光庵の建立時期と移轉再建(3154) 光輝庵が牛久保に移轉したのはいつか(3160) 養樹寺の創建はいつか(3165) 大聖寺の移轉と牛久保城築城の關わり(3168) 淨福寺の移轉と西三河の一向一揆(3173) 長谷寺の再建と移轉時期(3176) 上善寺と載る矛盾(3189) 東勝寺を載せる矛盾(3196) 了圓寺が古城圖に見えない理由(3243) 榊原澁右衞門の出奔と法信寺の建立(3216) 庚申寺の建立、及び『牛久保古城圖』の作成經緯(3225)
 (拾遺四) 善光庵の創建と再建 3232
   善光庵の創建と善光寺如來 3232
    古記に見える善光寺如來の由來(3233) 善光寺如來が上善寺に安置された經緯(3240) 善光寺池と善光寺川(3243)
   善光庵の再建者・潮音道海と「大成經彈壓事件」 3245
    『大成經』とは(3247) 潮音道海と『大成經』(3251) 長野采女と京極内藏之助(3268) 「伊雜宮事件」(3274) 忌部澹齋と『大成經』(3285) 長野采女と廣田丹齋(忌部澹齋)(3295) 高野本と山鹿素行(3299) 高野本と鷦鷯本の關係(3319) その後の潮音道海(3324)
 (拾遺五) 檢證 東三河の徐福伝説 3330
    山本紀綱著『日本に生きる徐福の伝承』が独り歩きした小坂井の徐福伝説(3330)
     徐福伝説とは――傳説の定義を中心に(3341) 徐福と始皇帝――徐福の姓・始皇帝の姓(3357) 徐福の子孫が秦氏を名乘るのか――徐福伝説成立の下地(3360) 秦氏と徐福――弓月君と百濟の國姓(3374)
    菟足神社の徐福伝説説明板を檢證する(3382)
     日色野と秦氏――淵源は銅鐸埋納地を秦氏關聯とする大口喜六か(3382) 『牛窪記』等に載る徐氏古座侍郎――長山熊野權現神主・神保氏の本姓は惟宗(3421) 菟足神社を創設したという秦石勝について――姓氏家系の大家・太田亮氏の著作から(3461) 生贄神事は中国的か――奥三河の鹿射神事及び諏訪の御頭祭と菟足神社の生贄神事(3475)
    山本紀綱に小坂井の徐福伝説を紹介した近藤信彦と渥美郡の幡多鄕(3520)
     橋本山龍運寺と船町文庫――大口喜六、近藤信彦は、幡太鄕比定地の住人(3528) 羽田八幡宮と幡太鄕――近藤信彦と羽田野敬雄(3538) 蓬萊島と築嶋弁天社――山田宗徧により秦御厨に造園された蓬萊島(3554) 御衣祭と上佐脇の八社八苗字――『大神宮諸雜事記』と日下部姓波多野氏(3560)
  (補遺)非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか 3650
    非農耕民と秦氏――東三河を中心に(3652)
     彈左衞門家と渥美郡出身の車善七――側近を三河出身者で固めた家康(3664) 彈左衞門と伊奈本多家――臨川山本龍寺の開基を巡って(3670) 牧野氏と鶴姫傳説――信長の世に廢寺となった豐川村東光寺(3679) 車善七の敗訴と大岡忠相――豐川村矢作と彈左衞門(3716) 牛頭天王の本地と播磨、そして秦氏――祇園感神院及び『野馬臺詩』が記す日本の國姓(3732)
    ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者(3875)
     ひょうすべと椀貸傳説――三河大伴を例にして(3883) ひょうすべと三島神――三島神が降臨した攝津三島江と上宮天滿宮(3893) 三島神と鳶澤甚内――火明命を中心とした海人の世界(3941)
  附録一 相撲雑話 4016
    序 本書第一話における野見宿禰論 4016
    第一章 節會時代の相撲 4071
    第二章 神事から見た相撲 4084
    第三章 吉田追風家と弓術吉田流 4114
    終章 私と相撲、そして弓 4139
  附録二 吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動 4148
    はじめに 4148
    吉田城沿革 4157
    三州吉田の怪猫騷動 4176
    結びにかえて 4190
  附録三 県道三一号線物語――古代から現代まで 4192
    鎌倉街道と県道三一号東三河環状線 4192
    東三河平野部の古代の地名と交通路 4214
    律令時代における東三河平野部の官道と鎌倉街道 4242
あとがき 4276
主要参考文献 4398
あとがき 4412  


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2022年03月30日

登美那賀伝説

 本日『登美那賀伝説』が完成。
 知人等に配布するとともに、国立国会図書館に納本しました。
 A4判縦書き198P、文字数121,562字。
 目次は以下のとおり。

  登美那賀伝説 〈目次〉

はしがき 6
 第一章 野田城主富永氏 22
  第一節 首無の冨永 22
  第二節 夭逝千若丸 25
  第三節 石座神社と富永氏 37
 第二章 神武東征考 58
  第一節 神武東征の出發地は對馬だ 58
  第二節 大和の攻防 74
  第三節 磯城縣主家系圖を復元する 103
  第四節 大田田根子は磯城縣主だ 121
 第三章 三河大伴考 141
  第一節 大伴直と倭宿禰 141
  第二節 三河大伴直と石座神社 154
  第三節 安日傳承の原像 162
 (拾遺) 富永系圖と木地師 168
   海倉淵の椀貸傳説 168
   惟喬傳説と六歌仙 179
あとがき 190
主要参考文献 196

追伸(3/31)
内容については、先に投稿した『穂国幻史考(増補新版)』の手引きの該当箇所(以下がそのURL)を参照してください。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1222399.html
https://tokosabu.dosugoi.net/e1222467.html
  


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2022年03月19日

『穂国幻史考(増補新版)』

 1月4日から投稿した『牛窪考(増補新版)』の内容の説明、及び1月23日から投稿した『穂国幻史考(増補新版)』の手引きを推敲し直し、校正し、「『穂国幻史考(増補新版)』の手引き」としてまとめ、知人に送付するとともに、国立国会図書館に納本しました。
 今回納本した「『穂国幻史考(増補新版)』の手引き」は、近々刊行予定の『穂国幻史考(増補新版)』の電子版に、『著作権法逐条解説』とともに収録する予定です。
 『穂国幻史考(増補新版)』の電子版の販売予定価格は5,000円。  


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2022年03月18日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明25(あとがき~)

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」の「あとがき」では、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」の各論を総括するとともに、なぜに『穂国幻史考』に、自己幻想、対幻想、共同幻想の概念を用い、改訂し、『穂国幻史考(増補新版)』として、新たに刊行しようとした理由を記した。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」の基となる『牛窪考(増補版)』刊行後の二〇一七年七月一九日に、がんの転移を見落とされ、誤魔化しの説明を受けるとともに、余命八月、治療をしても三十月との宣告を受けた。
 当然のことながら、自分が死んだら、周囲の人たちはどんな思いをするだろうと考えた。対幻想である。そして『牛窪考(増補改訂版)』の執筆中に父が急逝した。父の死により、対幻想が具体化するとともに、対幻想に幾つかの類型があること、氏神信仰や怨靈信仰は、対幻想の概念を用いて説明できることに気が付いた。
 さらには、祭禮を見学していてよく耳にする「昔からこうだった」のほとんどは自己幻想に過ぎないこと、祭禮組織ないし祭禮の變容は、自己幻想、対幻想、共同幻想の概念を用いて説明出来ることにも思い至った。
 加えて「記紀」の描く世界は究極の共同幻想であること、この究極の共同幻想を解體するには、これも共同幻想であるが、本地埀迹説が有効なことに気付いた。『穂国幻史考』に自己幻想、対幻想、共同幻想の概念を用い、改訂し、『穂国幻史考(増補新版)』として、新たに刊行しようとした理由は以上である。

 余談になるが、余命宣告を受けて、一応であるが、自身の死生観も確立した。此世も彼世も「胡蝶之夢」と認識している。この連続が輪廻転生。「胡蝶之夢」のような優雅な内容ばかりではないから、六道輪廻。よく登場する人物や場所は宿縁があると思っている。もっとも、「色皍是空 空皍是色」とは程遠い。自分で戒名を付けたのも此世への執着の裏返しだ。

 がんの転移の見落としの説明から、医療機関ないし医療行政の出鱈目さにも気付かされた。
 臨床も当然ながら、経験則が、科学的根拠に先行する。後付けの科学的根拠が見つからないだけで、経験則上、有効な治療であっても、エビデンスがないと斥けるのが、医学の世界ではまだまだ横行している。
 これと関係するが、分析技術なども完全とはいいがたい。
 化学合成薬の歴史はたかだか二百年。副作用もこの未熟な分析技術と相俟ってのものと思う。
 生薬を使うのは、東洋医学のみではない。リキュールは、古代ギリシャの醫師ヒポクラテス(Hippocrates/前四六〇頃~前三七〇頃)が、ワインに藥草を溶かし込み、藥酒を作ったのを起源とする。
 プロテスタントの醫教分離まで、リキュールの多くは、教会や修道院で作られていた。
 この醫教分離は、わが国にも及び、四苦八苦の四苦(生老病死)からの衆生濟度を缺いた醫師は、醫は算術に走った。醫は算術とはいわないまでも、陸軍々醫總監で、陸軍省醫務局長を務めた森林太郎(一八六二~一九二二)も四苦からの衆生濟度を缺いた醫師の一人だ。
 さらにやっかいなのは、一部の外科醫は、關東軍防疫給水部本部で、四苦からの衆生濟度とは眞逆の人體實驗を行い、いまだにその弊害はこのクニの医学会から払拭されていないことだ。
 医療行政の一つである、がん治療の標準ガイドラインについて言及すれば、このガイドラインは、自由と自由が衝突したとき、精神的自由より経済的自由が優先するという新自由主義者の小泉純一郎が厚生大臣のときに助成金が交付され、制定されたものだ。四苦からの衆生濟度より経済性を優先させたものだ。もちろん本來の意味の救世濟民ではなく、救世濟民の視点を欠く経済性だが……。

 国家資格の中でも、自動車の運転免許証並みに不合格になるのが、難しいのが医師免許の試験だ。加えて、博士号の中で最も取得しやすいのも医学博士だ。医療行為も契約という側面から見れば、コンビニでジュースを買うのと変わりはない。ところが、事前に価格も提示せず、ぼったくりと変わらないのが医療契約だ。日本医師会の会員の中の一定数の医師は、医療は特別との共同幻想を定着させなければ、医師の権威が保てないと思っているのだろう。誤解のないように加えて置けば、私は優秀でまっとうな医師がいないといっているのではない。そのような優秀でまっとうな医師の意見をかき消すほど、医療は特別との幻想を流布させようとする声が多いことを問題にしてるのだ。

 話は変わるが、『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」第四章「虚構の万世一系と持統の生い立ち」の第一節のタイトルは、「易姓革命から逃れるために姓を棄てた持統」である。この持統の棄姓により易姓革命は機能しなくなり、放伐思想は封じられた。結果、このクニでは、為政者に護民思想が生まれず、民を護れぬ国はとっとと潰し、新たに民を護れる国を創るという、当たり前のことも理解していない政治屋が跋扈している。そうした主権在民を理解していない政治屋は押し並べたように「日本のため」と口にする。
 封建時代には、「民は生かさず、殺さず」との言葉があったが、主権在民のいま、「クニなど生かさず、殺さず」が、クニを縛る指針と民衆も理解すべきだ。これが徹底されないから、生産性とは対極にあるオリンピックでメダルを獲得することが、先進国だとの勘違いが始まる。
 加えて、オリンピックが平和の祭典であるというのも幻想だ。近代オリンピックが始まった当初、参加資格があったアマチュアとは、軍人、士官学校生、そして学生だった。一九五二年に開催されたヘルシンキ大会まで馬術の出場資格は軍人に限られていた。
 パラリンピックも第二次世界大戦の傷病軍人のスポーツ大会が起源だ。

 さて、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の説明で述べたように、わが国の佛教界のレベルはことのほか低い。
 これは朱印などにも顕現している。せめて朱印ぐらい、キリスト教やイスラムに倣い佛教暦で年月日を記すか、宗祖の生誕年、あるいはその寺院の創建年からの紀年を用いてもらいたいものだ。
 神道についても同様だ。地祇を祭神とする神社で元號を朱印に用いるなど、祭神の冒涜に他ならない。かようにこのクニの宗教者のレベルは低い。
 宗教、政治、医療とありとあらゆる分野で、このクニは出鱈目なのだ。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」の「あとがき」では以上のようなことも記した。

『穂国幻史考(増補新版)』の「あとがき」では、『穂国幻史考(増補新版)』利用における著作権法上の注意点等、第三話の「あとがき」では、がんの転移を中心にその治療の問題点を説明したが、ここでは再発時を含めた具体的に私がどのような治療をしたか、及びその治療の選択肢を狭める、医療行政における官民癒着の一例レジメンの弊害についても言及した。

『穂国幻史考(増補新版)』は、東三河の歴史や民俗を題材にしたものの、通説をなぞったものではない。東三河の歴史や民俗を介して、歴史や民俗から何をどう学び、どう生かすかの地均しの論考と自負している。
 以上、『穂国幻史考(増補新版)』を読み進める上での参考になれば、幸甚である。
 多様な価値観が認められる社会の実現を目指し、主権在民を謳う日本国憲法が施行された一九四七(昭和二二)年をもって、日本国元年とする紀年を記して、筆を置く。

  日本国七六年三月吉日
                                                                        穗國宮嶋鄕常左府にて
                                                                             理證晴連居士  


2022年03月17日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明24(附録三)

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録三「県道三一号線物語――古代から現代まで」は、県道三一号――東三河環状線は、先史時代の生活道、律令時代の官道、京鎌倉往還を經た後繼道路である旨を解説した論考である。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録三「県道三一号線物語――古代から現代まで」の最初の見出し「鎌倉街道と県道三一号東三河環状線」では、東三河環状線は京鎌倉往還の後繼道路である旨の解説をした。
『新撰(しんせん)和歌(わか)六(ろく)帖(じょう)』(寛元二(一二四三)年成立)第二卷「田舎」の項に載る藤原家良(いえよし)(一一九二~一二六四)が詠んだ「かりひとの やはきにこよひ やとりなは あすやわたらむ とよかはのなみ」も、この鎌倉街道を詠ったものである。この歌に詠まれる「やはき」は、圓福山妙嚴寺(豊川市豊川町)の西側の一部及び、その北、東、南邊り(豊川市桜木通一丁目、同豊川西町及び同門前町の一部)にあった豐川村矢作をいい、矢作は京鎌倉往還と、後の伊奈街道が交差する交通の要所であった。
 中世三大紀行文の一つ『海道(かいどう)記(き)』(作者未詳/貞應二(一二二三)年成立)貞應二年四月九日條や、同じく中世三大紀行文の一つ『東關(とうかん)紀(き)行(こう)』(作者不詳/仁治三(一二四二)年成立)仁治三年八月一八日條では、家良が詠んだ歌のように、豐川村から、飽海川(豊川(とよがわ)の古稱)を渡河している。
 當時、豐川村から飽海川を渡河するとなれば、現在、佐奈川に付け替えられている、飽海川の支流・帶川を渡河し、牧野村(豊川市牧野町)を經て、三橋(みつはし)村(豊川市三谷原町の一部、寶飯郡三谷原村は、明治元(一八六八)年、三橋(みつはし)村、雨谷(うや)村及び石原(いしはら)村が合併した際に三村の一字ずつを採った合成地名)で、飽海川の本流(古川)を渡り、最後に飽海川支流の間川を渡り、八名郡三渡野(豊川市三上町の一部)で、飽海川を渡り切ったのだろう。
 ところが、中世三大紀行文の一つ『十六夜(いざよい)日(にっ)記(き)』(阿(あ)佛(ぶつ)尼(に)(一二二二?~一二八三)著 弘安六(一二八三)年ごろ成立)弘安二(一二七九)年一〇月二一日條では、「わたうととかやいふ所にとゞまりぬ」と綴る。「わたうと」は、『和名類聚抄』に載る「度津(わたむつ)」のことであり、飽海川の渡河地點が「豐(とよ)川(かわ)」から「度津」に變わったことを物語る。式内菟足神社(豊川市小坂井町宮脇)は、度津鄕の總氏神。氣候の變化により、海退し、飽海川の渡河地點が下流に移ったのだ。中世三大紀行文は、いずれも宮路山(豊川市赤坂町宮路)を通っているが、海退により、阿佛尼は平坂(へいさか)街道(国道二三号線の前身道路)に近いルートを取ったと考えられる。
 そして『海道記』は、「やかて高志山にかかりぬ 岩角をふみて火敲坂を打過くれは 燒野か原に草の葉萠えいてて 梢の色 煙をあく この林地を遙かに行けは 山中に境川あり これより遠江の國にうつりぬ」と、『東關紀行』は、「參川 遠江のさかひに 高師山と聞ゆるあり(中略)橋本といふ所に行つきぬれは 聞渡りしかひ有て 景氣いと心すこし」と、『十六夜日記』は、「たかし山もこえつ」と、いずれも「たかしやま」を通って、遠州に入っている。
 以上を勘案すれば、東三河における京鎌倉往還は、東三河環状線に近いルートであったと推測される。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録三「県道三一号線物語――古代から現代まで」の二つ目の見出し「東三河平野部の古代の地名と交通路」では、JR飯田線の豊川駅(豊川市豊川町仁保(にほ)通(どおり))から小坂井駅(豊川市小坂井町倉屋敷)邊りの南の段丘崖下の龍雲山三明寺(豊川市豊川町波(は)通(どおり))から菟足神社邊りまでを繋ぐ、地元で鎌倉街道と呼ばれる道を採り上げた。
 この段丘崖は繩文海進期の海岸線であり、段丘崖附近には、圓福原("en・huxkara"=突き出た・(集落の)背後の木原、あるいは、"wen・huxkara"=①悪い(役に立たない)、②険しい・(集落の)背後の木原)、牛久保("husko・bet・kus"=古い・川・通る)、常荒("tok・o・sap"=凸起物(堆積物等)が、そこで群をなして浜(河岸)へ競出(せりだ)している)、菟足("utari"=同朋)、さらに上流には、日下部("kusa・ka・bet"=舟で運ぶ・岸・川/豊川市豊津町の一部)などの繩文系地名が見受けられる。
 また段丘崖下の鎌倉街道と呼ばれた道附近には、いまは涸れてしまったが、私が知る限りでも、東から、三明寺の寶飯の聖泉、花井の井戸(豊川市花井町)、お瀧(同市中条町大道)、岸の洗濯川(同市牛久保町岸組)、辨天池(同市下長山町西道貝津)、清水弘法(同町岩下(いわした))、下長山の洗濯川(同町天王下、同町境、同町中屋敷の字境附近の南)、篠束の洗濯川(同市篠束町郷中)、五社稻荷の洗濯川(同市小坂井町欠山)と、清水が湧いていた。
 段丘崖下の道は、鎌倉時代には、豐川と度津を結ぶ道であったが、先史時代に遡る生活道路が、その起源だったのである。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録三「県道三一号線物語――古代から現代まで」の三つ目の見出し「律令時代における東三河平野部の官道と鎌倉街道」では、律令時代における東三河平野部の官道は、先史時代からの生活道のルートをなぞったものであること、律令時代の官道は、律令の世の官道は、官道ゆえ生活道路としての利便性は尠なく、特に國府周邊の官道は、恒久的な使用より、むしろ爲政者の權力誇示を優先したモニュメントとしての意味合いが强く、維持管理などもそもそも念頭になく、むろん利便性などもお構いなしに直線的な路線形状と廣い道幅にこだわって建設したことから、開通まもなくから荒廢し、代わって律令期以前の道が使われるようになったことを指摘した。
 その律令時代の三河國府周邊の官道を詠んだ歌に『萬葉集』卷三雜歌に收録された高市(たけちの)黒人(くろひと)(生没年不詳)が詠んだ題詞「高市黒人羇旅歌八首」の一首(歌番號二七六)がある。この歌に詠われた「三河なる二見の道」は、後の東海道と姫街道の追分邊りを詠ったものともいわれる。
 姫街道に面する豊川市役所の現在の住所表示は、豊川市諏訪一丁目になっているが、町名変更前は、豊川市牛久保町字二見塚であったし、市制施行以前は、寶飯郡牛久保町大字牛久保字二見塚であった(ただし後述するように、姫街道は律令時代の官道や京鎌倉往還の後繼道路ではない)。
 江戸時代の東海道と姫街道の追分(豊川市御油町行力)から、北東に七百区㍍ほどにある大寶山西明寺は、三河國司・大江定基(さだもと)(九六二~一〇三四)が出家した後の寛和年間(九八五~九八七)に、大寶山の麓に草庵を結び、夜毎天空を貫く六道の光明が現れたことから、「六(ろっ)光(こう)寺(じ)」と命名したのを始まりとすると傳える。當初は天臺宗の寺院であったが、鎌倉幕府第五代執権入道・北条時頼(一二二七~一二六三)が諸國巡歴の際に立ち寄った縁により、寺號を「六光寺」から最(さい)明(みょう)寺(じ)(時頼の出家後の名である最明寺道崇に由來)と改め、禪宗寺院となり、その後、家康の命によって西明寺に名を改めたという。
 この當初の寺號の「六光寺」であるが、元々地名であった可能性もある。日本語や韓国語は、語頭の流音(rやlの音)が脱落する特徴があり、語頭に流音が来る場合、漢語由來の言葉や、アイヌ語由來の言葉である確率が高い。知里真志保著『地名アイヌ語小辞典』を引いてみると、"ru・ukotpa・us・i"(道が・交合している・のが常である・所)という語がある。これに漢字を無理に當て、「六光寺」としたものと思われる。この先史時代の生活道路は、方や本野ヶ原の北の山際を東に向かい、方や三河灣方面に分岐していたと推測される。
 この六光寺が、倭譯され、二見の道となったのだろう。本宿、赤坂、御油と、西から東に入って來た律令時代の官道は、この先史時代の生活道を基に直線的に造られ、方や國府、國分寺、國分尼寺へのルート、方や御津といわれた後の御馬湊へと繋がっていたのだ。そして、御馬湊の先は、景勝二見浦(ふたみうら)(伊勢市二見町茶屋)から、伊勢の古市(ふるいち)街道の小田橋(おだばし)の追分(伊勢市尾上(おのえ)町)に續いていたのだろう。
 なお、姫街道は、入鐵砲出女の幕府の政策に沿ったものであり、吉田川を難なく渡るには、前期の京鎌倉往還のように、三渡野邊りで渡河すべきであるし、明石山脈も宇利峠(新城市中宇利曽根川南)越えの方が、本坂越えより、遙かに緩やかだ。
  


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2022年03月16日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明23(附録二)

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」は、二〇〇九年一一月一七日に『三州(さんしゅう)吉田(よしだ)の怪(かい)猫(びょう)騒動』(発行者 岩瀬篤/非売品)として発行したものに写真を加え、加筆訂正したものである。三州吉田の怪猫騷動」は、大学の先輩で、当時豊橋市議会議員を務めており、吉田城本丸御殿の再建に意欲を持っていた岩(いわ)瀬(せ)篤(あつし)氏より、鳥取市議会から入手した『老(ろう)嫗(う)茶(さ)話(わ)』卷之三に收録された吉田城を舞臺とする「女大力」を元に吉田城についての小論をまとめて欲しいとの依頼を受け、書籍として発行したものだ。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」の「はしがき」では、現在の吉田城の繩張りは、池田照政(一五六五~一六一三)が国宝姫路城を築城する直前に築いた城であること、天守閣こそないものの、本丸御殿跡を取り圍むように、外観三層の鐵櫓、入道櫓、辰巳櫓、千貫櫓の城郭が聳え、さらに鐡櫓の眞下には、吉田川(現豊川(とよがわ))に面して搦手(からめて)からの敵の攻めに備える川手櫓が築かれ、總構えは、名古屋城より廣いこと、家康、秀吉ともに吉田の地を重視したこと等を指摘するとともに、城郭の多くが失われた明治六(一八七三)年の失火は、芋侍・西鄕吉之助(一八二八~一八七七)が畫策したものと推測される旨を述べた。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」の「吉田城沿革」では、吉田城の創建から藩主の移り變わり、吉田城は幕閣への登龍門であった旨を解説した。それゆえ、寶永の大地震(一七〇七年)で倒壞した本丸御殿を始め城郭や城下は完全には整備されないまま、明治を迎えることとなった。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」の「三州吉田の怪猫騷動」では、『老嫗茶話』に收録された「女大力」について解説した。
『老嫗茶話』は、寛保二(一七四二)年に會津の浪人・三(み)坂(さか)五(ご)郎(ろう)衞(る)門(もん)春編(はるよし)(一七〇四~一七六五)が撰した奇譚集で、「女大力」の主人公は、池田輝政の妹・天久院(てんきゅういん)(一五六八~一六三六)である。天久院は一般に天球院と表記され、天球院という院號は、天球院が創建した正(しょう)法山(ほうざん)妙(みょう)心禪(しんぜん)寺(じ)(京都市右京区花園妙心寺町一)の塔頭の一つ「天球院」にちなむ。
 その輝政の妹・天球院は、「女大力」で、「ある時」は、「人數(あま)多(た)慘殺し」た「狼藉者」を「大長刀をかい込」「凡百人力」で「車切りに切放し」(輪切り)、またある時は「女房のうせける事數(あま)多(た)」「人々おそれおのゝく」「尾二タ俣にさけ五尺餘リの大猫」の「化け物」を、「こふしを」「握り」頭を毆り潰したという、なんとも豪膽な女性として語られる。
 實際、妙心寺塔頭の天球院には、「血天井」がある。「血天井」とは、戰國期に落城した城郭などの床に染み込んだ血痕の殘る板などを供養のために寺の天井の材に用いたものをいうが、この「天球院」の「血天井」は、京在住中に押入った賊七人を「天球院殿」が長刀でなぎ倒し、その血しぶきが天井を染めたものだという。
 ただ、この時代、天球院のような豪膽な女性は珍しいものではなかった。濃州岩村城(岐阜県恵那(えな)市岩村町)は信長の叔母(通稱・岩村殿/?~一五七五)が護っていたし、德川四天王の一人・井伊直政(一五六一~一六〇二)の養母・直虎(なおとら)(?~一五八二)も遠江井伊谷(いいのや)(静岡県浜松市北区引佐町(いなさちょう)井伊谷字城山)の女城主であった。
 また中世から江戸時代に掛けては、嫐(うわなり)打ちなる風習があった。妻を離縁して一月以内に後妻を迎えたときは、前妻が後妻方に押し寄せ、後妻方の女性たちと打ち合い、折を見て前妻と後妻雙方の仲人たちがともに現れ仲裁に入り、引き上げるといったことが許されていた。
 嫐打ちが廢れた後の寛文年間(一六六一~一六七三)ごろには、諸藩の奧向きには、別式(べっしき)女(め)といわれる女性武藝指南役を置くことが流行ったし、女性劍術家・佐々木累(るい)(生没年不詳/下總國古河藩主・土井利勝(一五七三~一六四四)に仕えた劍術家・佐々木武太夫の娘)もいた。
 武家だけではなく、大坂長堀の豪商である三好家の一人娘・お雪(生没年不詳)は、俠客・奴の小萬として名を馳せていたし、小萬は、お龜、お岩の二人の女性を從えていた。
 加えて、永祿六(一五六三)年、横瀬浦(長崎県西海市)に耶蘇(イエズス)會司祭として來日し、布教活動を行ったルイス・フロイス(一五三二~一五九七/Luís Fróis)が、天正一三(一八五五)年に著した『日歐文化比較』(原題は、"Tratado em que se contem muito susintae abreviadamente algumas contradições e diferenças de custumes antre a gente de Europa e esta provincial de Japão")には、このクニの女性が自由であった旨が記されている。
 江戸時代の商家などでは、優秀な奉公人を婿に迎えるなどの母系制が機能していた。この母系制と夫婦別姓が、女性の地位を高めていたのだろう。
 ところが、耶蘇教の傳來と、男尊女卑を旨とする儒學が官學になったことにより、夫婦同姓が定着し(夫婦同姓が確認出來るのは、明智光秀(一五二八?~一五八二)の娘・珠(たま)(一五六三~一六〇〇)が細川ガラシャを名乘ったのが最初)、母系制が崩れたことにより、女性の地位が低下した。『老嫗茶話』は女性の地位が低下する時代を迎えたころに撰されたものだ。

 吉田城を舞臺とする「女大力」では、照政ではなく、輝政となっているが、照政が輝政と名を改めたのは、晩年の慶長一四(一六〇九)年ごろのこと、「女大力」の舞臺は輝政の名がまだ照政で、播州姫路城主(一六〇〇~一六一三)となる以前、「三州吉田の城主」が池田照政であった時代(一五九〇~一六〇〇)の城内となっているべきだが、「池田三左衞門輝政」とあり、はなから吉田城の出來事であるはずはない。
 では、なぜ「女大力」の舞臺を吉田城に設定したのか。
 既述のように、吉田藩の歴代藩主は幕府の要職に就き、その宿場の三州吉田宿は、家康が東海道五十三次を制定した當初からの宿場として大いに榮えた。
 吉田宿は、吉田藩の城下町に田町(たまち)、坂下(さかした)町、船町(ふなまち)を加えた地域であり、東海道沿いの表町十二町(船町・田町・坂下町・上傳(かみでん)馬(ま)町・本町・札(ふだ)木(ぎ)町・呉(ご)服(ふく)町・曲尺手(かねんて)町・鍛冶町・下モ町・今新町・元新町)と、東海道南側の裏町十二町(天王町・萱(かや)町(まち)・指(さし)笠(がさ)町・御輿休町・魚(うお)町(まち)・垉六町・下リ町・紺屋町・利町(とぎまち)・元鍛冶町・手間町・世古(せこ)町)の、計二十四町によって構成されていた。町竝みの長さは二十三町三十間(約二.六㌔㍍)、本陣は二軒、脇本陣一軒、享和二(一八〇二)年には旅籠六十五軒もが建ち竝び、「吉田通れば二階から招く しかも鹿の子の振り袖が」と巷間で唄われたほどに飯盛女が多いことでも知られ、たいそうな賑わいを見せた宿場であった。
 加えて、東海道で橋が架けられていたのは、この吉田橋と、岡崎の矢作橋、琵琶湖の瀬田橋の三か所のみ。中で、橋が架かる川に面して城があるのは吉田だけとあって、吉田城と吉田川(豊川(とよがわ)の江戸時代の一般的な呼稱)、吉田橋をセットで描いた浮世繪が多く見られた。
 吉田が廣く知られていたから、「女大力」の舞臺が吉田城に設定された最大の理由だろう。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」の「結びにかえて」では、大学の同級生で、当時、鳥取市民図書館に勤務していた田村晴夫氏が執筆するに当たり、必要な資料を提供してくれたことに対する感謝を述べた。
 田村晴夫氏は、『穂国幻史考』の題号の揮毫者で、凡鳥を雅号とする。
  


Posted by 柴田晴廣 at 06:08Comments(0)穂国幻史考

2022年03月14日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明22(附録一)

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録一「相撲雑話」序「本書第一話における野見宿禰論」では、野見宿禰について整理した。
 野見宿禰は、出雲神寶獻上事件の出雲振根命と同様に、天穗日命の後裔で出雲臣を出自とする。出雲臣は後に、杵築大社の祭祀に當たった出雲國造家となるが、その祖の天穗日命がアマテラスとスサノオの誓約(うけひ)によって生まれたのも妙なものだし、出雲臣が野見宿禰を名乘るのも首を傾げる。
『日本書紀』卷三〇持統五(六九一)年九月己巳朔壬申(四日)條に、「賜音博士大唐續守言 薩弘恪 書博士百濟末士善信 銀人二十兩」の記述は、『日本書紀』の著述を促すものであるが、著述者のみならず、書博士百濟末士善信にも銀二十兩が輿えられている。
 韓国・朝鮮語で、"nom-wi"は、「奴の」意味になる。野見宿禰は、古代ローマの劍闘士に近い身分であったと私は考える。
『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の説明で述べたように、「記紀」の崇神――埀仁の二代の出雲についての記述は、丹波の出來事である。
 これを出雲臣を例に説明する。
 たとえば、、江戸時代の外樣大名の毛利家は、鎌倉幕府初代別當・大江廣元(一一四八~一二二五)の後裔・時(とき)親(ちか)(?~一三四一)が、安藝國高田郡吉田莊(広島県安芸高田市吉田町/毛利氏の本貫は、相模國愛甲郡毛利莊)を據點としたことに始まり、同郡吉田郡山城を居城とした國人領主であった毛利氏は、元就(もとなり)(一四九一~一五七一)一代で、安藝のみならず、山陽山陰の十ヶ國を領有し、元就は、次男の元春(一五三〇~一五八六)を吉川(きっかわ)家の、三男の隆景(一五三三~一五九七)を水軍を有する小早川家の養子とする。
 山陽山陰十ヶ國を領有した毛利氏であったが、元就の孫・輝元(一五五三~一六二五)が、關が原の戰いで西軍の總大將に擔がれたことにより、長門・周防の二ヶ國に減封される。元就の三男・隆景は小早川家の養子となっていたが、隆景の養子となった小早川秀秋(一五八二~一六〇二)は、關が原の戰いにおいて戰闘中に東軍に寢返る。これにより勝敗が決した。
 關が原での西軍の總大將・輝元はかろうじて長門・周防の二ヶ國の領有が認められるのだが、假に輝元が改易され、秀秋が、筑前國糟屋郡名嶋(福岡県福岡市東区名島)から長門・周防二國に轉封され、小早川が毛利を名乘り、毛利は安藝吉田で大江に復姓していたとしたら……。
 私は、この假定の中の輝元ないし安藝國高田郡吉田莊が野見宿禰ないし出雲大神宮(京都府亀岡市千歳(ちとせ)町千歳出雲)が鎭座する丹波國桑田郡、小早川秀秋ないし筑前國糟屋郡が、出雲國造家ないし杵築大社(島根県出雲市大社町杵築東)が鎭座する出雲國出雲郡に相當するとのイメージを描いている。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録一「相撲雑話」第一章「節會時代の相撲」では、節會時代の相撲とそれに先立つ賭弓(のりゆみ)を解説するとともに、實は、行司の裝束が現在の烏帽子(えぼし)直埀(ひたたれ)に代わるのも、不知火型、雲竜型の横綱土俵入りが完成するのも、ちゃんこ鍋が定着するのも、常設の兩國々技館が出來たころのことである、説明をした。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録一「相撲雑話」第二章「神事から見た相撲」では、後の行事に相當する節會時代の「立合」を思わせる役を含む神事相撲について考察した。
 採り上げた神事相撲は、土俵に手を突く立ち合い以前の「手合い」等に共通點が見られる、兵庫県西脇市板(いた)波(ば)町(ちょう)に鎭座する石上神社で行われる「鯰押さえ神事」、兵庫県養父(やぶ)市奥(おく)米(めい)地(じ)に鎭座する水谷神社で行われる「ねってい」、京都市北区上賀茂本山に鎭座する賀茂別雷神社で行われる烏相撲、京都府南丹市園部町鎭座する摩氣神社で行われる神事相撲の四つ。いずれの神事相撲も、出雲大神宮を中心とした地域で行われる。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録一「相撲雑話」第三章「吉田追風家と弓術吉田流」では、第四十代横綱・東富士欽壹(一九二一~一九七三)まで、横綱免許状を発行していた吉田追風家と、吉田流ともいわれる弓術日置流について考察した。
 この吉田追風家、その由緒がはっきりしないのみならず、相撲司を名乘るが、節會時代には參議以上の公卿が相撲司を務めた。參議以上は、『公(く)卿(ぎょう)補(ぶ)任(にん)』に記載されるが、節會再興の際に、行司に任ぜられた初代追風・吉田善左衞門家永は、『公卿補任』に載らない五位に授されたという。
 吉田追風家は、江戸時代、肥後熊本藩のお抱えであった。肥後細川家は、寛永九(一六三二)年、細川藤(ふじ)孝(たか)(幽(ゆう)齋(さい)/一五三四~一六一〇)の孫・忠利(一五八六~一六四一)が、豐前小倉藩から肥後熊本に移封されたことに始まる。
 幽齋は、有識故實に明るく、三(さん)條(じょう)西實(にしさね)枝(き)(一五一一~一五七九)から「古(こ)今傳授(こんでんじゅ)」(『古(こ)今(きん)和歌(わか)集(しゅう)』(延喜五(九〇五)年に奏上された最初の敕撰和歌集)の解釋の祕傳)を受けている。
 また幽齋は、弓術吉田流(日置(へき)流)の祖・吉田重賢(しげかた)(一四六三~一五四三)の孫で、雪(せっ)荷(か)派の祖・吉田重勝(しげかつ)(一五一四~一五九〇)から印可を受け、雪荷の後繼には、吉田重勝の子ではなく、弟子の伴(ばん)喜(き)左(ざ)衞(ゑ)門(もん)一(いち)安(あん)(?~一六二一)を推していた。一安は細川家に仕え、日置流道雪派を興し、現在も肥後道雪派として伴一安の射は熊本で繼承されている。一方、雪荷嫡流は津藤堂家に仕え、また仙臺伊達家にも一流が仕える。
 既述のように、節會時代の相撲は、相撲節に先立ち賭弓(のりゆみ)が行われた。千穐樂結びの一番の褒美は重藤の弓であり、この弓を持って舞ったのが弓取りだ。
 日置流(おそらく雪荷派)で、體系を整理するに當たり、節會時代の賭弓などの資料を集め、吉田重勝の孫あるいは曾孫あたりで弓術の印可を受けることが出來なかった者(藤堂家あるいは伊達家の指南役になれなかった者)が、資料の中から相撲についての記述を見附け、これは商賣になると思い、道雪派という傳手(つて)を頼って、細川家のお抱えになったのではないかと、私は推測する。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録一「相撲雑話」終章「私と相撲、そして弓」では、子供のころから私は相撲が好きだったこと、三十歳を過ぎて、日置流雪荷派の弓術と出会ったことが、「相撲雑話」を執筆する上で、役に立ったこと等を記した。
 なお『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録一のタイトルを「相撲雑話」としたのは、相撲部屋というビジネスモデルからの興行について言及出来なかったことによる。  


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2022年03月13日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明21(拾遺五補遺2)

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の後半「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」では、まず、潮見神社(佐賀県武雄市橘町大字永島)に傳わる「兵主部よ約束せしは忘るなよ川立つをのこ跡はすがはら」という河童除けの呪文を採り上げた。
 潮見神社は、橘諸兄、橘奈良麻呂、橘島田麻呂、橘公業など橘一族を祭神とする。潮見神社の祭神からは、相撲の祖・野見宿禰の裔・菅原氏とは接點がないように思える。
 潮見神社の祭神の一人とされる橘(たちばなの)諸(もろ)兄(え)(六八四~七五七)は、美(み)努(ぬ)王(?~七〇八)の子として葛(かつら)城(ぎ)王の名で生を受ける。美努王の父は敏(び)達(たつ)(五三八?~五八五?)の孫ないし曾孫といわれる栗(くり)隈(くま)王(?~六七六)だ。葛城王は、天平八(七三六)年に、弟の佐爲(さゐ)王(?~七三七)とともに母・三千代(六六五?~七三三)の氏姓である橘宿禰を繼ぎ、橘諸兄と名乘る。橘奈良(なら)麻呂(まろ)(七二七~七五七)は諸兄の嫡子で、父の後を繼ぎ二代目の橘氏長者となるが、父の時代から確執があった藤原仲麻呂(七〇六~七六四)の暗殺を企て、それが露見し、獄死する(橘奈良麻呂の亂)。橘島田麻呂は、奈良麻呂の子で、『日(に)本(ほん)紀(き)略(りゃく)』(編者不詳/一一世紀後半から一二世紀ごろに成立)が引用する『日(に)本(ほん)後(こう)紀(き)』(「六國史」の第三)逸文卷二六弘仁八(八一七)年八月戊午朔(一日)條に、「正一位橘諸兄之曾孫正五位下兵部大輔島田麻呂之女也」と、正五位下兵部大輔に任ぜられた旨が記されている嶋田麻呂(生没年不詳)のことと思われる。
 次に、橘公業(きみなり)(生没年不詳)であるが、橘諸兄、橘奈良麻呂、橘嶋田麻呂の三人が直系の血縁關係で七世紀後半から八世紀の人物であるのに對し、公業は鎌倉初期の武將で、嘉禎二(一二三六)年に本領伊豫國宇和郡を西園寺公經(きんつね)(一一七一~一二四四)に讓り(實際には公經が幕府に願い出て强引に横領した)、肥前に移っている。橘諸兄、橘奈良麻呂、橘嶋田麻呂は敏達の後裔であるが、公業については、敏達後裔の橘則光(のりみつ)(九六五~?)の子・季通(すえみち)(生没年不詳)の五世孫とする説もあるものの、伊豫橘氏(越智(おち)氏)の橘遠保(とおやす)(?~九四四)の子孫とする説もある。
 さて橘公業の本姓といわれる伊豫越智氏であるが、伊豫一宮・大山祇(おおやまづみ)神社(愛媛県今治市大(おお)三(み)島(しま)町宮浦)社家の三島大(おお)祝(はふり)家も越智氏後裔といわれ、別(べっ)宮(く)大山祇神社(愛媛県今治市別宮町三丁目)は、大寶三(七〇三)年、越智(おちの)玉(たま)澄(ずみ)が大三島の大山祇神社(愛媛県今治市大三島町宮浦)から勸請したという。
 越智氏が奉戴する大山祇神社の祭神・大(おお)山(やま)積(つみ)神について『釋日本紀』(卜部兼方(生没年不詳)著/一三世紀成立)が引用する『伊豫國風土記』逸文「乎知郡御嶋」の項は、「坐神御名大山積神……仁德世 此神自百濟國度來坐而 津國御嶋坐」と、「仁德の世、百濟から渡來して津國(つのくに)の御島(みしま)に座した大山積神を、乎(お)知(ちの)郡(こおり)(越智郡)の御(み)島(しま)(瀬戸内海にある三島諸島)に勸請した」旨を記している。『伊豫國風土記』が、大山積神が百濟から渡り來て鎭座したと記す御島とは、攝津國の三嶋江(みしまえ)(大阪府高槻市三島江)邊りの淀川に岬のように突き出ていた川中島を指し、定説では鎭座地は三嶋江にある三嶋鴨神社(大阪府高槻市三島江二丁目/主祭神 大山祇神 事代主神)であるといわれ、菅原道眞を祀る上(じょう)宮(ぐう)天滿宮(高槻市天神町一丁目)から南へ五㌔ほどの地點になる。
 潮見神社と菅原氏は、祭神の一人・橘公業を介してかろうじて繋がるのだ。

 寶飯郡と三島神というと直接の繋がりは見出せないが(『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」拾遺一「砥鹿神社考」の説明で述べたように、砥鹿神社は、三島神の東遷と關係があるように思われるが)、遠州には、山犬信仰で有名な山住神社(浜松市天竜区水窪町山住山)を始め、三島神を祀る社はポピュラーなものだ。
 井伊谷(いいのや)(浜松市北区引(いな)佐(さ)町井伊谷)を本貫とする井伊氏も、その出自や菩提寺・萬松山龍(りょう)潭(たん)寺(じ)(浜松市北区引佐町井伊谷)の本尊や由緒、境内にあったという渭伊神社が鎭座する字名や裏山の名から、三島神を奉じた氏族と考えられる。
 そのほか、文久の大喧嘩で有名な、遠州森の祭りが行われるのも、三島神社(周智郡森町森)だ。
 その森町は、三島神社を中心に古着の町として發展した。
 古着屋について、江戸の三甚内の一人・鳶澤甚内には、以下の逸話がある。
 鳶澤甚内は、元小田原北條家家臣であったが、家康が江戸に入ったころには盗賊になっており、死罪になるところを家康に許され、盗賊の取り締まりに當たったという。鳶澤甚内は、一人で盗賊を取り締まるのは、難しいことだから、屋敷地を頂き、そこに手下を住ませ、取り締まりに當たりたいと。また江戸には古着を商う者がいないことから、古着の獨占を許して欲しいと願い出た。家康は日本橋に屋敷を輿え、鳶澤甚内はそこで古着市を開いたという。この鳶澤甚内の屋敷が輿えられた地が現在の中央区日本橋富沢町で、かつては鳶澤町と呼ばれていたという。

 既述のように、私の家は、曾祖父・柴田庄(しょう)五(ご)郎(ろう)(一九一五年七月二九日逝去)亡き後、祖父・銀(ぎん)治(じ)(一九〇三・六・二四~一九八五・四・七)が親方を繼ぐも、露天商が博徒と一皍夛になり暴力團化してしまうことを嫌うまで露天商の親方であった。
 祖父がいうには、露天商の親方の家は、桶屋か古着屋であったという(私の家は桶屋であった)。
 つまり、露天商の親方は、桶屋や古着屋を生業とし、六斎市などの定期市では、桶の販賣や古着の商いで生計を立てていたのである。
 露天商というと、縁日などのハレの露店をイメージするが、江戸、京、大坂の三都や名古屋などの消費都市を除き、一般大衆が日用品を調達するには、定期市であり、露天商の軸足も定期市に置かれていた。
 祖父が露天商と一皍夛になったという博徒であるが、博徒は基本的に無宿人の系譜に屬する。無宿人は人別帳に記載されていない者をいい、當然、通行手形等は持っていない。持っていないゆえ、旅籠などの宿泊施設に宿泊することが出來ない。一夜の宿と一杯の飯(一宿一飯)を乞うため、自身が無宿人になった經緯を述べたのが仁義なのだ。無宿人ではそもそも製品の保管等に支障が生じる。博徒と露天商は別物なのだ。露天商が仁義を切るなど無知も甚だしい。
 また縁日に焦點を當てる餘り、大道藝が露天商の全てのような研究も多いが、そもそも藝は商いではない。
 大道藝人や門附藝人などの中には、非人頭が鑑札を輿え、乞(ごう)胸(むね)頭を介し、管轄された者もいた。こうした大道藝や門附藝と露天商を混同し、渥美清(一九二八~一九九六)の出生地が、乞胸頭が支配した三大貧民窟の一つ下谷万年町の隣の下谷車坂町であったことと、渥美の芸名のいわれ等から、山田洋治は、自身が監督を務めた「男はつらいよ」の主人公の名を車寅次郎とする心証が形成されたのだろう。山田は車寅次郎の名は車善七とは關係ないと否定しているが、その歯切れの悪い説明から、山田が非人と露天商を混同していたことは明らかだ。山田の罪は重い。  


Posted by 柴田晴廣 at 15:12Comments(0)穂国幻史考

2022年03月11日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明20(拾遺五補遺1)

 徐福の子孫が秦氏を名乘ることなどあり得ず、日本列島に徐福が渡って來た可能性など、百パーセントないと斷言していいが、秦氏自體については、太秦(うずまさ)の蜂岡山廣(はちおかさんこう)隆(りゅう)寺(じ)(京都市右京区太秦)、伏見稻荷大社(京都市伏見区深草藪(ふかくさやぶ)之(の)内(うち)町(ちょう))、松尾(まつのお)大社(京都市西京区嵐(あらし)山(やま)宮(みや)町(ちょう))等の建立にかかわり、信仰のみならず、技術、藝術など、古代から日本列島に大きな影響を輿えて來た。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」では、そんな秦氏についての論考であり、前半の「非農耕民と秦氏――東三河を中心に」では、『彈左衞門由緒書』で、秦氏を祖とする、關八州穢多頭・彈左衞門家は東三河出身であることの證明、後半の「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」では、潮見神社(佐賀県武雄市橘町大字永島)に傳わる蚩(し)尤(ゆう)の眷屬ひょうすべの傳承を考察するとともに、秦氏が傳えたといわれる蚩尤は神農氏の子孫といわれるが、その神農を祀る露天商の正しい実態を論じ、人口に膾炙した誤った露天商についての言説を質した論考である。

 彈左衞門家は、關八州の穢多・非人のみならず、役者などの藝能者も支配していたが、役者については、寶永五(一七〇八)年、房州で興行の準備をしていた、京都の絡繰(からくり)師・小林新助と彈左衞門家の手代が、その支配を巡り、トラブルになり、小林新助が訴えを起こして、勝訴し、彈左衞門の支配から脱する。
 この一件を目にして、彈左衞門支配からの脱出を試みて、町奉行に提訴したのが江戸淺草溜(あさくさだめ)の非(ひ)人(にん)頭(がしら)車(くるま)善(ぜん)七(しち)だ。
 天保一〇(一八三七)年、町奉行の求めに應じて提出した『淺草非人頭車千代松由緒書』には、「先祖善七儀は 三州あつみ村出生ニて 乍恐御入國之砌 淺草大川端邊に 小屋補理相煩罷在候處 慶長十三申年中 町奉行米津官兵衞樣 土屋權右衞門樣 御勤役之節 非人頭被仰附」とあり、車家は、家康が關東に移封された天正一八(一五九〇)年に、淺草大川端邊りに住し、慶長一三(一六〇八)年に非人頭に任命されたことがわかる。
「三州あつみ村」という村はないが、舊渥美郡内の植(うえ)田(た)には、車(くるま)神社(豊橋市植田町字八尻/田(た)原(はら)街道(国道二五九号線の前身)と梅田川(二級河川)が交わる邊り)が鎭座し、この車神社から梅田川を一㌔ほど上流に遡った對岸邊り(現豊橋市立芦原小学校附近/野(の)依(より)街道と梅田川が交わる邊り)はかつて渥美郡高(たか)師(し)村字車(くるま)と呼ばれていた。
 江戸には車善七のほか、品川の松右衞門、深川の善三郎、代々木の久兵衞の三人の非人頭がおり、車善七が江戸の非人を總括し、品川の松右衞門がそれに次いだ。主に、江戸の北半分を車善七が、南半分を品川の松右衞門が支配し、深川の善三郎は車善七に、代々木の久兵衞は品川の松右衞門に屬していた。この品川の非人頭の松右衞門も、先祖は三河出身の浪人・三河長九郎で、寛文年間(一六六一~一六七三)に芝非人頭となり、松右衞門と改名したという。
 幕閣を始め、周りを三河以來の地縁で固めた家康である。車善七や品川の松右衞門が非人頭に登用されたのも、家康が三河以來という出生地主義を重視したからだろう。一人・彈左衞門のみが、鎌倉由比ヶ濱出身というのも妙なものだ。
 その彈左衞門家であるが、初代集房(?~一六一七)と二代集(シュウ)開(カイ)(?~一六四〇)が同一人物ではないかとされるなど、江戸初期のころについては不明な點が多い。江戸初期の集房が初代というのも、それ以前は、江戸ないし關東にいた痕跡がないということだろう。
 加えて彈左衞門家は、關八州竝びに、それに隣接する伊豆全域、甲斐國都留郡、駿河國駿東郡及び陸奧國白川郡をも支配したが、なぜか關八州に隣接しない三河國設樂郡の一部を支配した。
 以上の事績から、彈左衞門家も三河出身、さらにいえば、東三河出身だったと考えられる。
 設樂郡の一部のみを支配したことからすれば、彈左衞門家は、東三河四郡を支配していたわけではなく、東三河全域を支配した穢多は別にいた。
 江戸淺草溜の車善七家は、三河の渥美郡の出であるが、渥美郡は、江戸時代には、奧郡(おくのこおり)と呼ばれた邊境の地であった。
 實際、「延喜式神名帳」では、寶飯郡六座(新城市大宮字狐塚(舊南設楽郡)鎭座の石座(いわくら)神社を含む。設樂郡は延喜三(九〇三)年に寶飯郡から分かれる)に對し、渥美郡及び八名郡はそれぞれ一座のみ、『三河國内神名帳』には、百六十二所の社が載るが、このうち東三河は百十四所、その内譯は寶飯郡六十二所、設樂郡十一所、八名郡二十六所、渥美郡十六所、『和(わ)名(みょう)類聚(るいじゅ)抄(しょう)』二〇卷本の一二部「國郡部」に載る鄕の數も、寶飯郡が十二、設樂郡が四、八名郡が七で、渥美郡が六だ。
 これらの資料から見ても、東三河四郡の中心は、寶飯郡であり、東三河四郡を統括した穢多は、寶飯郡にいたと考えられる。
 車家も彈左衞門家も、この寶飯郡にいた穢多の配下にあり、車家は同等のはずの彈左衞門家に支配されるのは、我慢ならないとの思いから、訴訟に踏み切ったのではないかと思われる。

 彈左衞門家配下の關八州を含む東國の被差別部落では、白山妙理權現堂と東光寺という寺號の寺院を祀るという。
 豐川天王社(豊川市豊川西町)の「笹踊歌」の一節には、「天王の 奧の院の東光寺は 福佛でまします」とある。「天王の 奧の院」とあるように、東光寺は、豐川天王社の奥の院に當る。この寶飯郡豐川村の東光寺について、『三河国宝飯郡誌』は、「東光寺跡 豊川字計通ニ在リ。浄土宗ナリ。信長治世ノ頃廃寺トナル」と記している。現在東光寺跡は、東光公園(豊川市東光町三丁目)となっており、東光町一丁目から四丁目の町名は、東光寺があった名殘りだ。
 その東光寺跡から、東南に五百㍍ほどの位置には、白山妙理權現堂(豊川市西(にし)豊(ゆたか)町一丁目)が鎭座し、白山妙理權現堂から東南東に百㍍ほどのところには、白山妙理權現の本地佛である十一面觀音菩薩像を祀る「出口の觀音樣」と呼ばれる御堂(谷汲山美濃寺(淨土宗)/豊川市東豊(ひがしゆたか)町二丁目)が建っている。
 既述のように、豐川天王社の「笹踊歌」は、「天王の 奧の院の東光寺」の一節を有するが、牛頭天王と東光寺の關係について記せば、牛頭天王は、元々祇園精舎(インド北部にあった佛教の聖地)の守護神で、最初播磨國明石浦(あかしうら)(兵庫県明石市)に埀迹し、次いで同國廣(ひろ)峯(みね)(廣峯神社/兵庫県姫路市広峰)に遷り、その後、京都東山の北白川東光寺(現岡崎神社(京都市左京区岡崎東天王町))から、貞觀一一年ないし元慶年中の間(八六九~八八五)に祇園觀慶(かんけい)寺に遷ったとされる。祇園觀慶寺の感神院(京都市東山区祇園町北側)は、牛頭天王とその后の頗梨采女を祀るが、一五世紀初頭に成立した『神道集』は、「祇園社の本地佛は、男體を藥師如來、女體を十一面觀音菩薩」とする。
 藥師如來は、東方淨瑠璃世界に坐し、正式には、藥師瑠璃光如來といわれる。東光寺の寺號は、東方淨瑠璃世界の東と、藥師瑠璃光如來の光にちなむもので、東光寺を寺號とする寺院の本尊は、藥師如來である。
 ここで十一面觀音菩薩について記せば、六觀音の一つで、修羅道を化益する菩薩である。六道輪廻の六道は元々五道で、五道の中には修羅道はなく、修羅は天道に含まれていたが、人道の下に落とされた。被差別民の誕生を思わせる譚だ。被差別民が十一面觀音菩薩が權(かり)の姿で現れた白山妙理權現を信仰の對象とするのも、修羅道の誕生逸話からだろう。
 十一面觀音菩薩を本地とする白山妙理權現を信仰の對象とする被差別民について、林(はやし)屋(や)辰三郎(たつさぶろう)(一九一四~一九九八)著『歌舞伎以前』は、「官戸、官奴婢が、社寺などの莊園領主に隸屬して、武器生産にたずさわり領主の需要に應じ……その一部の人々は、山門の末寺である感神院すなわち祇園社に隸屬し、境内ちかくに弓矢町をつくっていたが……その生産の餘暇、弓(ゆ)弦(づる)の餘剩生産品が市中にも需要があるところから、ツルメセという呼聲と共に之をうりさばいたのであって、これが祇園の犬(つ)神人(るめそ)にほかならない」と、述べている。
 明治に入り、伊呂波地名に附け替えられた豐川村の字名であるが、東光寺跡から南に六百㍍ほど邊りは。かつて矢作の字名であった。彈左衞門家は、この矢作を本貫としたのだろう。
『三河国宝飯郡誌』は、東光寺のほかにも西光寺(浄土宗/宇通)、豊川山西岸寺(曹洞宗/止通)という廢寺を記しており、いずれも「前同断廃寺トナル」と、東光寺と同じころに廢寺となった旨を述べている。武田軍の東三河侵攻に伴う燒き打ちにより、廢寺になったのだろう。
 家康は、信長が義昭を追放した二年後の天正三(一五七五)年、遠州諏訪原城(島田市金(かな)谷(や)城山町)を武田氏から奪うと、牧野康成及び德川四天王の筆頭・酒井忠次(一五二七~一五九六)の配下にあった松平家忠(一五五五~一六〇〇)を城番とし、諏訪原城を牧野城と改名する。この改名は周の武(ぶ)王(おう)(?~紀元前一〇二一)が殷の紂(ちゅう)王(おう)を牧野で破ったとの故事及び城番・牧野康成(一五五五~一六一〇)の苗字によるものとされ、牧野氏らは、武田氏が滅亡する天正一〇(一五八二)年まで牧野城の守備に當たった。三河がこうした状況の中で、東光寺は廢寺になったのだ。
 なぜ再建されずに、廢寺になったかを考えるに、矢作にいた彈左衞門の先祖は、牧野康成に隨い遠州に移り、家康の關東移封に伴い、江戸に居を移したと推測される。遠州に新開地を求め、江戸に居を移したのは、彈左衞門家初代・集房の時代だ。

 話を彈左衞門家支配から脱するため訴訟を起こした、車善七家に戻せば、結局敗訴し、車家は彈左衞門家支配から脱することは出來なかった。車善七が彈左衞門相手に繰り返し起こした訴訟が結審した當時(享保六から七(一七二一~一七二二)年)の町奉行は、北町が中山時春(一六五一~一七四一)、南町は大岡裁きで有名な大岡忠相(一六七七~一七五一)であった。
 大岡家は、八名郡宇利鄕黑田村字大岡(新城市黒田大岡)を本貫とするが、そこから南に一㌔ほどの八名郡下宇利村字林添(新城市富岡林添)に車神社が鎭座する。先に記したように車家は、渥美郡植田の車神社と關係があるだろう旨述べたが、兩社とも、創建を含め、由緒がはっきりしない。しかも全國で車を社號とする社はこの二つのみだ。
 假に大岡がこの兩社の關係を含め、車家の出自等を詳しく知っていたとなれば、忠相が思い描く判決が可能だったはずだ。
 結審から十三年後の享保二〇(一七三五)年には、忠相の知行地に豐川村が加わる。忠相への論功と、豐川村に彈左衞門の祖先がいたことの痕跡を消すため、豐川村を忠相の知行地に加えたと推測される。
 圓福山妙嚴寺(豊川市豊川町)の鎭守豐川稻荷は忠相が信仰したことにより全國區となるが、妙嚴寺は彈左衞門家の故地・矢作の地に建つ。妙嚴寺は元々、圓福原といわれた現在の豊川商工会議所(豊川市豊川町辺(へ)通(どおり))邊りにあったのにだ。豐川稻荷が全國區になったのも、矢作にあった彈左衞門の祖先がいたことの痕跡を消す、忠相の作業に協力したことによるのだろう。

 彈左衞門は、豐川村矢作ではなく、鎌倉由比ヶ濱出身とした江戸幕府であるが、日光東照宮がある日光は、觀世音淨土を意味する梵語"Potalaka"に二荒(ふたら)の漢字を當て、二荒が「にこう」と訓まれるようになり、日光の字が當てられたという。家康の誕生譚は、煙嚴山鳳來寺(新城市門谷字鳳来寺/本尊 藥師如來)の藥師十二神將の寅神將の化身というものだ。藥師十二神將の化身を東照權現として松たのが日光東照宮だ。
 觀世音淨土に藥師如來を配したのは、おそらく信長の影響だろう。信長の周りにも、藥師如來と十一面觀音菩薩が散見する。織田家は越前二宮・劔神社(福井県丹生郡越前町織田)の神主を出自とするが、劔神社の祭神も牛頭天王である。
 天臺座主信玄の署名のある書簡に第六天魔王と署名し、返信した信長である。三十三觀音の一つ瑠璃觀音は他化自在天と同視される。瑠璃觀音の名からは藥師瑠璃光如來と觀世音菩薩が聯想される。
 信長は意識的に、自分の周りに藥師如來と觀世音菩薩を配したのだろう。  


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2022年03月09日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明19(拾遺五2)

 徐福が日本に來たと、はしゃいでいるおめでたい輩が、その根據とする、『義楚六帖』は、東夷の倭は、姓氏の違いも佛法の何たるかもわかっていない旨が書かれているに過ぎない話から、空海ないし空海が開宗した眞言宗が佛法から見て、いかにおかしなものかに話が脱線したが、話を菟足神社に設置された「菟足神社と徐福伝説」なる説明板に話を戻す。
 説明板の内容を要約すれば、①熊野に渡來した徐福一行は、この地方にも移り住み、豊橋市日色野町には、「秦氏の先祖は、中国から熊野へ渡来し、熊野からこの地方に来た」とのいい傳えがある。②『牛窪記』には、「崇神の時代に、紀州手間戸から徐福の孫の徐氏古座侍郎が六本松に上陸し、本宮山麓には秦氏が多くいる」旨の記述がある。③菟足神社の縣社昇格記急碑に、「天武の白鳳一五年四月一一日に、秦石勝(いわかつ)がいまの場所に遷座した」旨の記述がある。④『今昔物語』には、菟足神社の風祭の猪の供犧についての記述があるが、生贄神事は中国的である。との四つのことを記し、結びとして、三河と熊野とは古くから海路による往來があり、熊野信仰の修驗験者により、あるいは小坂井は交通の要所であり、東西を往來する人により、徐福の故事が傳わった、としている。

 説明板の最初に記載される豊橋市日色野町には、「秦氏の先祖は、中国から熊野へ渡来し、熊野からこの地方に来た」とのいい傳えがある、との言説について、山本紀綱著『日本に生きる徐福の伝承』に載る、山本の義姉に宛てた近藤信彦の書簡では、「秦の徐福が五百人の少年らとともに三河湾の六本木というところに来航着船し、その子孫はそこに定住して秦氏を称し繁栄した……その祭神(祖神)は、中国の神とみえ、古来その祭礼には豚猪等の犠牲(いけにえ)を供え、その社の近くに菱木(ひしき)野(の)というところがある」と記すが、東三河に調査に訪れた山本は、同書で、「今までのところ、三河湾をかこむ東三河地方(現在の小坂井町・御津町などを含む地方)では、徐福渡来の伝説に直接つながる伝承や遺跡などと称するものは見当たらない。また菟足神社宮司川出清彦氏のお知らせにも、「当地方の古老、隣接の平井・日色野・前芝地方にも心当たりの方々に聞き合わせましたが、徐福の伝説は目下のところないようです。尚心がけて居ります。云々、」ということであった」と、近藤の見解を裏付けるものは何もなかった旨を述べている。
『三河国宝飯郡誌』、『神社を中心としたる寶飯郡史』のいずれにも、日色野が徐福傳來地との記述もなければ、日色野が秦氏の關係地との記述もないのだが、近藤は何をもって、日色野を徐福傳來地との心証を形成したのであろうか。
 その心証形成には、近藤が住職を務めた龍運寺がある豊橋市船町出身の大口喜六(一八七〇~一九五七)が著した、『國史上より觀たる豐橋地方』の「この銅鐸の發見地が大體に於て古來秦人の傳説地と關係を有するのも決して偶然となすべきではないと言ふのである……特に寶飯郡の御津地方には、秦の徐福が始皇帝の命を受け、不老不死の藥を求めて蓬萊島に到つたと云ふ……秦人の傳説と銅鐸、この關係は、結局離るべからざるもののやうに思はれる」との言説が大きく影響したと思われる。
「この銅鐸の發見地」とは、豊川市伊奈町松間の畑をいうが、最寄りの集落は、伊奈ではなく、日色野になる。
 つまり、日色野が、徐福傳來地との言説は、大口喜六、近藤信彦の自己幻想なのだ。

 次に、説明板に掲載される『牛窪記』の徐氏古座侍郎については、そもそも、その舞臺は、長山熊野權現(豊川市下長山町西道貝津)であって、菟足神社に傳わるものではない。
 この言説の成立経緯を考えるに、熊野權現神主の神保氏の存在が大きいだろう。
 神保氏は、本姓惟宗で、上野國多胡郡辛科鄕神保邑より起る。惟宗は、讚岐國香川郡を本貫とする秦(はたの)公(きみ)で、元慶七(八八三)年、秦公直宗や弟の直本始め一族十九人が惟宗朝臣を賜輿されたことに始まる。神保氏は秦氏であっても、熊野から來たわけではないのだ。
 徐氏古座侍郎が上陸したという六本松について、大島信彦著『愛知県宝飯地方の徐福伝説⑵ 御津湊なる澳の六本松いずこ』は、比定地として、豊川市御津町御馬を挙げ、参考として、蒲郡市竹(たけ)谷(や)町にも六本松という地があったとしている。
 この竹谷や蒲形(明治八(一八七五)年、寶飯郡西郡村と合併し、寶飯郡蒲郡村となる)を本據とした一族に鵜殿氏がいる。西郡村の上(かみ)ノ(の)鄕(ごう)城(蒲郡市神ノ郷町森)は、鵜殿城とも呼ばれ、鵜殿氏の居城であった。鵜殿氏の本姓は、秦氏ともいわれ、紀伊國牟婁郡鵜殿邑より起る。
 ところが、永祿三(一五六〇)年、桶狹間の戰いで、今川義元(一五一九~一五六〇)が討たれると、義元の妹を母とする城主・鵜殿長照(ながてる)(?~一五六二)は孤立し、上ノ鄕城は陷落。長照は、父の長持とともに討ち死にし、長照の子の氏長(うじなが)(一五四九~一六二四)と氏次(うじつぐ)(?~一六〇〇)は捕らえられ、上ノ鄕城は、久松俊勝(としかつ)(一五二六~一五八七)の居城となる。
 話を長山熊野權現神主・神保氏に戻せば、牧野成春(なりはる)(一六八二~一七〇七)が吉田藩主だった寶永三(一七〇六)年に、成春の求めに應じて、長山熊野權現の由緒を提出するも、神領が召し上げられている。由緒に疑義があったということだろう。牧野家に由緒を提出した神保重綱が、六本松の参考地である竹谷をも領した、鵜殿氏の出自をヒントに、徐氏古座侍郎の譚を創作したのだろう。
 徐氏古座侍郎の譚は、『牛窪記』(元祿一〇(一六九七)年ごろに成立。作者は不詳)、『牛窪密談記』(元祿一四(一七〇一)年成立。中神善九郎行忠(?~一七一一)著)に載るが、「菟足神社と徐福伝説」なる説明板が、菟足神社に設置されるまでは、この二書に載る以上ものではなく、長山熊野權現が鎭座する長山全體の共同幻想に昇華したといった譚ではなかった。

 三つ目の菟足神社の遷座は、秦石勝が主導したという點について、山本紀綱著『日本に生きる徐福の伝承』に載る、山本の義姉に宛てた近藤信彦の書簡では、「そこから約二里離れて式内の古社菟足神社(小坂井町)があり、またその一里ほど離れたところに菟足神社の元宮と称する小社がある。菟足神社はその創始者が秦氏と伝えられている」とある。
『三河国宝飯郡誌』は、「菟足神社の」の項で同旨の記述がある「社傳本録」を採録するが、『神社を中心としたる寶飯郡史』は、第一篇第四章第一節を「穗國造と菟足神社」と題し、十頁に亙り紙面を割いているが、秦石勝の名は全く出て來ないのみならず、秦氏についても全く言及していない。しかも『神社を中心としたる寶飯郡史』は、寶飯郡神職會擧げての事業であり、卷末「神社を中心としたる寶飯郡史編纂の事業を終へて」九頁には、「本書編纂關係者」として「菟足神社々司川出綱吉」及び「故菟足神社々司本會々長川出直吉」の名も擧がっているのにだ。
 つまり、菟足神社の遷座はもとより、秦氏が菟足神社に係っていたとは、寶飯郡の神職の誰もが思ってもいなかったのである。

 最後に、風祭の猪の供犧について、山本紀綱著『日本に生きる徐福の伝承』に載る、山本の義姉に宛てた近藤信彦の書簡では、「その祭神(祖神)は、中国の神とみえ、古来その祭礼には豚猪等の犠牲(いけにえ)を供え、その社の近くに菱木(ひしき)野(の)というところがある。思うに、菱木の垣でかこんで犠牲のものを祭礼のときまで飼育したものとみえる。三河の国司大江定基がそのいけにえの残忍なありさまを見て厭世の心をおこし、出家して天台宗の僧となり、後唐土に留学して寂照法師となったことは、古来有名な史伝である(今昔物語・古今著聞集等参照)」とあるが、柳田國男(一八七五~一九六二)著『掛神の信仰に就て』(明治四四(一九一一)年刊)は、猪贄について柳田は「國神ノ風祭ニ豬ヲ生ケナガラ神ニ供スル」と記している。つまり風祭は國神の祭儀であって大陸風の祭儀ではないのだ。
 考えても見えて欲しい。猪の供犧を祭事とした菟足神社の"utari "には、アイヌ語で同朋の意味がある。中国的な祭事ではなく、諏訪の御頭祭、奥三河や遠州山間部の鹿射神事やシシウチと同樣の狩獵に基づく神事なのである。
 なぜに近藤信彦は、猪の供犧を大陸的と考えたか首を傾げる。猪の供犧が大陸的なら、大江定基(九六二?~一〇三四)は、わざわざ猪の供犧が行われる大陸に渡たるであろうか。さすが、近藤信彦も徐福が日本列島に來たとはしゃぐおめでたい輩の一人だ。
 猪の供犧の名殘りか、菟足神社の風祭を始め、国の重要無形民俗文化財に指定された豊橋の鬼祭り、県指定無形民俗文化財の牛久保の「若葉祭」、曲亭馬琴(一七六七~一八四八)が、花火を天下一と賞贊した吉田の祇園、綱火が県指定無形民俗文化財の豊川進雄神社の例祭、山車が海に入る三谷祭、豊川市篠束(しのづか)町、豊川市伊奈町の祭禮、吉田町裏十箇所の一つ新錢町の白山權現で、かつて行われていた花祭りの神幸には、獅子頭が隨伴する。かように菟足神社周邊は狩獵文化が色濃く殘る地域なのだ。近藤はこうしたことに気付かなかったのか。思考をするという訓練が出来ていないのだろう。

 山本の義姉宛に書簡を送った近藤信彦は、多門山淨慈院で生まれた。淨慈院のある花田町の地名は、明治一一(一八七八)年、渥美郡花ヶ崎村と同郡羽田(はだ)村が合併して出來た渥美郡花田村を起源とする。淨慈院は舊羽田村にある。その羽田村は、『和(わ)名(みょう)類聚(るいじゅ)抄(しょう)』(承平年間(九三一~九三八)に源(みなもとの)順(したごう)(九一一~九八三)が編纂した辭書。一〇卷本と二〇卷本があり、國語學者の龜田次郎(一八七六~一九四四)は二〇卷本を後人が増補したものとしている)二〇卷本の一二部「國郡部」に記載される渥美郡幡(ハ)太(タ)鄕の比定地の一つである。
 その羽田村からほど近い、吉田宿表町十二町の一つ田町に鎭座する神明社(豊橋市湊町)には、山田宗徧(一六二七~一七〇八)が、池泉回遊式の蓬莱(ほうらい)庭園を築いている。徐福は不老不死の藥を探しに蓬莱山に向かったとされる。
 さらに、羽田村の南・牟呂(むろ)村には、秦氏に出自を持つともいわれ、紀州牟婁(むろ)郡を本貫とする鵜殿氏が築いた牟呂城(豊橋市牟呂公文町)があった。徐福が上陸したと傳わるのは、紀州牟婁郡だ。
 小坂井周邊より、飽海川對岸の羽田村附近の方が、徐福と結び附く逸話は多い。
 もっといえば、隣の遠州には、「六國史」の第四『續日本後紀』卷一七の承和一四(八四七)年八月己酉(一七日)條に、「遠江國蓁原郡人秦黒成女一産二男一女 賜正税稻三百束及乳母一人」との記述、『日本紀略』(一一世紀後半から一二世紀に成立 編者不詳 全三十四卷)前篇十四の弘仁一一(八二〇)年二月丙戌(一三日)條に、「配 二遠江駿河兩國 一新羅人七百人反叛 數 二人民 一 燒 二屋舎 一 二國發 レ兵撃 レ之 不 レ能 レ勝 盗 二伊豆國發 一 乘 レ船入 レ海 發 二相模武藏等七國軍 一 勠 レ力追討 威伏 二其崒崒 一」の記述、「延喜式神名帳」遠江國蓁原郡の項に載る敬滿神社の祭神・敬滿神は秦氏の祖・巧滿王(孝武王の子で弓月君の父)のことだとする説もある。徐福渡來の下地は、東三河以上に揃っている。それでも、徐福渡來傳説は生まれなかった。
 つまり、菟足神社の徐福伝説は、偶然が重なって誕生したものなのだ。
 なお、愛知県立大学、中京大学及び愛知淑徳大学非常勤講師で、日本徐福協会顧問、中国・韓国の徐福研究団体の顧問等を務め、『徐福伝説考』(一九九一年、一季出版発行)、『徐福論』(二〇〇四年、新典社発行)の著者でもある逵(つじ)志保氏に、「反論があれば」との旨を添え、「檢證 東三河の徐福伝説」を改訂の度に送っているが、いまだ何一つ反論はない。つまり日本徐福協会を始め、東アジアの徐福研究団体には、徐福が日本列島に渡って來たという證據を何一つ持ち合わせていないのだ。  


Posted by 柴田晴廣 at 05:53Comments(0)穂国幻史考

2022年03月08日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明18(拾遺五1)

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」は、四半世紀前に突如として菟足神社(豊川市小坂井町宮脇)に設置された「菟足神社と徐福伝説」という、説明板で展開される、いわば都市伝説といえる言説の成立過程等を檢證した論考である。
 このいわば都市伝説といえる小坂井の徐福伝説について、豊川市で大島内科クリニックを開業し、東三河の歴史にも造詣が深い大島信雄医師は、一九九四年一月豊川医師会発行『豊川医報』八一号の『愛知県宝飯地方の徐福伝説⑵ 御津湊なる澳の六本松いずこ』で、「小坂井に徐福伝説が残っているということも、小坂井に蓬莱山という名前の山があることも、全く初耳でした」と率直な意見を述べている。
 大島氏は、同著で、小坂井の徐福伝説の淵源を山本紀綱著『日本に生きる徐福の伝承』にあるとするが、厳密には、『日本に生きる徐福の伝承』(一九七九年発行)には、山本の前著『徐福 東来伝説考』に対する多聞山淨慈寺(豊橋市花田町字百北)の生まれで、橋本山龍運寺(豊橋市船町)の住職・近藤信彦(一八九五~一九七九)が、山本の義姉(山本の妻の姉で、山本の妻の姉の夫が近藤の愛知縣立第四中學校(現愛知県立時習館高等学校)の同級生)宛ての令状に、多分にリップサービス的な小坂井の徐福伝説が裏付けも曖昧なままに記されていたのみである。
 ところが、山本の『日本に生きる徐福の伝承』をもととした、内藤大典 坂井孝之 久冨(くどみ)正美の編んだ『弥生の使者徐福――稲作渡来と有明のみち――』(一九八九年「弥生の使者徐福刊行会」刊)が根據の提示なきまま小坂井を安易に同書の「徐福渡来伝説の主要分布地図」に載せてしまい、その読者が当時の小坂井町役場並びに小坂井町教育委員会に本を持ち込み、小坂井が分布図に載っていると問い合わせたことがきっかけで、小坂井町教育委員会が、「菟足神社と徐福伝説」なる説明板を菟足神社に設置したのである。
 身も蓋もないいい方になるが、旧小坂井町は、これを観光資源として利用としたが、利用出来ず、説明板だけが残ったということだ。つまりこの説明板の内容は根拠がないのである。その傍証になるのが、旧小坂井町が豊川市に合併された後の豊川市制七十周年記念事業(豊川市の市制施行は昭和一八(一九四三)年六月一日)として豊川市が発行した『新版 豊川の歴史散歩』(豊川市教育委員会編集)だ。『新版 豊川の歴史散歩』は、この徐福伝説を菟足神社の項ではむろん、A五版縦書き三一〇頁の同書のどこにも採り上げてはいないのだ。

 そもそも「菟足神社と徐福伝説」のみならず、日本列島に殘る「徐福伝説」は、あくまで傳説という共同幻想であって、史實ではない。
 日本の氏姓及び家名ないし苗字と儒教圈の姓氏とは異なる。列島の「徐福伝説」では、なぜか徐福が日本に來て、秦を名乘ったとするが、儒教圈での姓氏の概念からは、徐福が秦を名乘るなどあり得ないことだ。
 たとえば、『義楚六帖』(顯德元(九五四)年成立)卷二一「國城州市部」四三で、「日本の僧弘順大師に聞くところによると」と斷わりを入れているのも、儒教圈での姓氏の概念では、徐福が秦を名乘ることなどあり得ないからだ。
『義楚六帖』を撰した釋義楚は、その名乘りのとおり、僧である。ところが、日本に弘順大師といった僧侶はいない。釋義楚は、おそらく弘法大師空海(七七四~八三五)を意識して、弘順大師が語ったことにしたのだろう。では、僧の釋義楚が弘順大師のモデルとなった空海をどう見ていたのだろう。
 空海への大師號は、『義楚六帖』が成立する二十七年前の延長五(九二七)年に、當時の眞言宗のトップの東寺長者の觀賢(かんげん)(八五四~九二五)の奏上により醍醐(八八五~九三〇/在位八九七~九三〇)から贈られる。その奏上の内容は、金剛峯寺の奥の院で、空海が禪定を續けているというものだが、具體的には、空海は、金剛峯寺の奧の院で生き續け、髮が伸び續けており、それを剃髮したというものだ。事實、現在も高野山では、朝夕、奧の院に空海の食事を運んでいる。この奏上は、佛教の教義の前提となる輪廻轉生の否定に繋がる。その佛法の根底を覆す空海に、醍醐は、佛法を弘めたとの弘法の大師號を輿えたのだ。空海に弘法の大師號を輿えた醍醐は既述のように地獄に落ちた。
 加えて、釋義楚は中国人である。髮が伸び續けており、それを剃髮したという言説から、釋義楚は、殭屍をイメージしたのではないか。殭屍は、長い年月を經過しているにもかかわらず、腐亂していない屍をいうが、ミイラのように乾燥していない點で異なる。中国では、屍が長い時間が經過すると、惡靈になって人に害を輿えるという俗信がある。その惡靈空海に大師號を贈る蠻行と、既述のように、儒教圈なら、當然理解しているべき、徐福が秦を名乘るはずもないとの常識すらわかっていない東夷の倭を馬鹿にした笑い話を中国人の僧侶の手による佛教類書は述べているに過ぎないのだ。始末が悪いのは、このクニにはいまだに馬鹿にされていることも讀み取れず、徐福が來たとはしゃいでいるおめでたい輩がいることである。
 この觀賢の奏上による不老不死ともとれる空海の逸話と、その空海の殭屍がある場所が、紀州であること、その紀州の熊野では、補陀(ふだ)落(らく)渡(と)海(かい)が行われていたことが相まって、言説のキャッチボールにより、やがて徐福の上陸地點は熊野との言説が生まれたのだろう。
 では、なぜ當時の眞言宗のトップの東寺長者の觀賢は、佛法に反するような奏上を行ったのか。その原因は、ひとえに僧侶・空海のというより、人間・佐伯眞魚の狹隘な性格に基づくものと思われる。空海は二十年の留學期間を勝手に二年で切り上げ、歸國している。これは一緒に留學した靈(りょう)仙(せん)(七五九?~八二七?)の實力を恐れてのことだ。靈仙の歸國が叶っていれば、空海は歴史の闇に埋もれていただろう。空海は、この焦りから、東寺(京都市南区九条町)を金光明四天王教王護國寺祕密傳法院(祕密傳法院の院號は衆生濟度からは程遠いものだが)として再編し、眞言密教以外の僧侶の出入りを禁止し、自らが選んだ弟子のみを出入りさせ、自ら選んだ經典や原典のみを教本として修行させている。結果、佛法が何かもわかっていない觀賢が眞言宗のトップに就く事態に陷いるのだ。
 この佛法に反する觀賢の奏上を修正したのが、法然に歸依し、淨土教を信仰したという、高野山蓮華三昧院を創いた明(みょう)遍(へん)(一一四二~一二二四)である。明遍は、空海の禪(ぜん)定(じょう)を生(しょう)身(じん)往生と解釈したのだ。せっかく明遍が軌道修正したにもかかわらず、眞言宗では、南無大師遍照金剛などと馬鹿げた唱えを行っている。
 南無は、歸依を意味し、南無阿彌陀佛、南無釋迦牟尼佛は、阿彌陀如來、釋迦如來という佛に歸依することを誓い、成佛することを、南無妙法蓮華經は、法華經に歸依することを誓い、成佛することを願うものだ。確かに佛法僧の三寶に歸依するというが、僧に歸依するのは、生前の僧侶に歸依し、佛法を授かり往生を願うものだ。南無大師遍照金剛の遍照金剛は、唐で、惠果(七四六~八〇六)から空海に輿えられた灌頂名だ。空海生前に歸依した者はともかく、空海没後に菩薩でも如來でもない空海に歸依したところで、成佛出來るはずもない。それを眞言宗では熱心に唱えているのだ。他宗派の僧侶が、それでは成佛出來ないと發言したとの話も聞かない。わが國の佛教者の理解はこの程度のものなのである。
 もちろん、空海が南無大師遍照金剛などと唱えていたはずもなく、唱えていたとすれば、南無毘盧遮那佛だっただろう。加えて置けば、觀賢の奏上は空海の遺志にも反するものだ。たとえば、「六國史」の第四『續日本後紀』卷四は、空海が没した四日後の承和二(八三五)年三月庚午(二五日)條に、「敕遣内舍人一人 弔法師喪 并施喪料 後太上天皇有弔書曰 眞言洪匠 密教宗師……不能使者奔赴相助茶毘」と、淳(じゅん)和(な)(七八六~八四〇)が高野山に宛てた院宣に空海の荼毘式に關する記載がある。加えて、初代東寺長者の實(じち)慧(え)(七八六~八四七)が著した書簡の中に空海を荼毘に附したと解釋出來る記述がある。實慧は空海の十大弟子の一人で、讚岐國出身の佐伯氏で空海の一族だ。空海が荼毘に付されることを望んでいなかったのであれば、書簡にその旨が記されたであろう。觀賢は空海の遺志を無視ているのみならず、史實をも捻じ曲げているのである。
 既述のように、わが國の佛教者の佛法の理解は低い。これが影響してか、学者の空海の評価も首を傾げる。たとえば、空海晩年の著作『三教(さんごう)指歸(しき)』は、儒教、道教、佛教の比較思想論との評価が一般的だ。ところが、『三教指歸』の序文の延暦一一(七九二)年、大學寮に入寮後、遣唐使に選ばれる延暦二二(八〇三)年の間の山岳修行中に、一沙門から「虚空(こく)藏(ぞう)求(ぐ)聞(もん)持(じ)法(ほう)」を授かり、それを修め、室戸岬の御厨人窟(高知県室戸市室戸岬町)で瞑想をしているとき、口に明星が飛び込んで來たと綴る空海の自己幻想から、儒教、道教、佛教を比較しようにも、空海に道教の知識と理解があったとは思えない。八(はっ)將(しょう)神(じん)の一柱の大將軍は、陰陽道で明星を神格化したのものであるが、大將軍の本地は、第六天(だいろくてん)魔(ま)王(おう)波(は)旬(じゅん)ともいわれる他化自(たけじ)在天(ざいてん)だ。第六天魔王波旬といえば、佛道修行を妨げる魔王である。その佛道修行を妨げる第六天魔王波旬と繋がりが深い明星が口に飛び込んで來たなどと語るのは、佛道修行を極めようとする者の言動とは思えないからだ。
 親鸞(一一七三~一二六三)も五十三歳の砌、明星天子からの「善光寺から一光三尊佛を迎え、高田に本寺を建立せよ」との夢のお告げにより、嘉祿元(一二二五)年に、眞宗高田派の本寺專修(せんじゅ)寺(栃木県真岡市高田)を建立している。明星天子からお告げを受けた親鸞は、佛道修行の妨げとなる妻帶、蓄髮を實踐し、淨土眞宗では、皍身成佛を手段として衆生の救濟の途を開き、『歎異抄』三章の「惡人正機」として結實させ、第六天魔王波旬の問題を解決した。
 また日蓮(一二二二~一二八二)も、千光山清澄寺(千葉県鴨川市清澄)で、その本尊・虚空藏菩薩に、「日本第一の智者となし給え」と、願を掛けた。明けの明星は、虚空藏菩薩の化身とされるが、日蓮は、第六天魔王波旬について、佛道修行者を『法華經』から遠ざけようとして現れる魔であると説くも、純粹な『法華經』の信者には、力を貸す天魔と、説いている。また日蓮が現した『法華經』の曼荼羅にも、第六天魔王波旬が描かれている。『佐渡御(さどご)勘(かん)氣(き)抄(しょう)』で、「海邊の旃(せん)陀羅(だら)か子なり」と稱した日蓮は、惡人正機に目が向いたであろう。そして道元(一二〇〇~一二五三)著『正(しょう)法眼藏(ほうげんぞう)』の「諸惡莫(しょあくまく)作(さ)」の、「いはゆる諸佛 あるいは自在天のことし 自在天に同不調なりといへとも 一切の自在天は諸佛にあらす」の文言から、『法華經』卷八收録の二五品「觀世音菩薩普門品」(通稱『觀音經』)の一節「應以大自在天身 得度者 皍現大自在天身 而爲説法」の大自在天を他化自在天に置き換え、第六天魔王波旬を純粹な『法華經』の信者には、力を貸すとの言説を思い附いたのだろう。
 第六天魔王波旬との關係を解決した親鸞や日蓮と異なり、空海は明星が第六天魔王波旬と繋がるということすらわかっていない。
 これと關聯して、空海の經歴から、眞言宗での儒教の比重は大きい。男尊女卑の儒教の影響から、眞言宗では、ことさら女人禁制にこだわるが、女人禁制については、道元が、その著『正法眼藏』の「禮拜得髓(らいはいとくずい)」で、「日本國にひとつのはらひこあり いわゆるあるひは結界の境地と稱し あるひは大乘の道場と稱して 比丘尼 女人等を來入せしめす」と指摘している。
 空海及び空海が開宗した眞言宗について、佛法という觀點から、早急に見直すべき必要があろう。これが衆生濟土に繋がる。  


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2022年03月07日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明17(拾遺二~拾遺四)

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺二「牛久保と山本勘助」では、武田信玄(一五二一~一五七三)の軍司として知られる山本勘助(?~一五六一)と牛久保との關わりについての論考だ。
 牛久保の住人・中神善九郎(?~一七一一)が、元祿一四(一七〇一)年に編んだ『牛窪密談記』には、勘助は八名郡の賀茂(賀茂ではより具體的に鶴卷(豊橋市賀茂町の字出口を中心とした集落)で生まれ、牛久保の大林家に養子に入ったとする。
 勘助については、同時代の資料にその名が現れるわけではなく、その實態は判然とせず、非實在説までもあるが、松浦(まつら)鎭(しげ)信(のぶ)(肥前平戸藩四代藩主/一六二二~一七〇三)が著した『武功(ぶこう)雜記(ざっき)』に、「勘介は、三河の者で山縣昌景(一五二九~一五七九)が抱えている」旨が記されていることから、その實在が證明される。山縣昌景は、武田流の軍學書『甲陽軍鑑』の編者とされる。
『武功雜記』の著者の松浦鎭信の母・充(みつ)は、牛久保城主・牧野康(やす)成(なり)(一五五五~一六一〇)の娘である。康成と勘助に面識のあった可能性は低いが、牛久保時代の勘助を知る者は、康成の近くにいたはずだ。本當に山本勘助がこの世に存在していなかったのであれば、鎭信は、康成談として「山本勘助などという者は『甲陽軍鑑』がでっちあげた架空の人物である」と斷言したであろう。
 しかも、『松浦(まつうら)の太鼓』(安政三(一八五六)年、江戸森田座初演の『新臺(しんぶたい)いろは書初(かきぞめ)』の十一段目を三代目勝諺藏(かつげんぞう)(一八四四~一九〇二)が改作、明治一五(一八八二)年に大阪角座で初演)の「松浦(まつうら)邸の場」での松浦(まつうら)候の「三(さん)丁(ちょう)陸六(りくむっ)つ 一(いっ)鼓(こ)六足(ろくそく) 天(てん)地(ち)人(じん)の亂(らん)拍(びょう)子(し) この山鹿流の妙傳を心得ている者は 上杉の千坂兵部と 今一人は赤穂の大石 そしてこの松浦じゃ」の臺詞のとおり、松浦鎭信、千坂高房(一六三九~一七〇〇)、大石良雄(一六五九~一七〇三)とも、武田流兵法とは對立する山鹿流兵法の創始者・山鹿素行(一六二二~一六八五)の門弟である。
『武功雜記』は、勘助の子の來歴を記し、その勘助の子が、『甲陽軍鑑』の眞の作者と述べるが、松浦鎭信は、以上の經歴を持つことから、鎭信の記す勘助の子の來歴は信じるに足り、勘助實在を裏附けるといえる。
 賀茂から牛久保の大林家に養子に入った勘助であるが、牛久保の寺町(豊川市牛久保町八(や)幡口(わたぐち))の武運山長(ちょう)谷(こく)寺(じ)(淨土宗)には、勘助の遺髮塚がある。
 ところが、牧野家菩提寺の法月山光輝庵(豊川市牛久保町光輝町二丁目/淨土宗)が所藏する『牛久保古城圖』には、長谷寺は、現在のJR飯田線牛久保駅前邊りに描かれ、八幡口の長谷寺邊りには、勘助が養子に入った大林家が描かれる。勘助遺髮塚は元々、現在地の八幡口、すなわち勘助が養子に入った大林勘左ヱ門屋敷の位置に建てられたことになる。おそらく、勘助の總角(あげまき)を大林勘左ヱ門家が保管しており、訃報を知ってその總角を自家の庭に埋め、供養として五輪の塔を建てたのだろう。私は、遺髮塚が建てられた大林屋敷跡に長谷寺が遷って來たと考える。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺三「『牛久保古城圖』考」では、勘助が養子に入った大林家が、現在の長谷寺の位置に描かれる、『牛久保古城圖』がいつの時代の牛久保の町割りを描いたものかを檢證した論考である。拾遺三「『牛久保古城圖』考」を執筆した動機は、拾遺二「牛久保と山本勘助」で、展開した遺髮塚が建てられた大林屋敷跡に長谷寺が遷って來たとの主張が正しいか否かを證明するためである。
 結論からいえば、『牛久保古城圖』に描かれる寺院の創建年等から、『牛久保古城圖』は、慶長八(一六〇三)年以降に作圖されたものであるが、永祿八(一五六五)年から同一二(一五六九)年の間の牛久保城下町割を描いた原圖を基に作成された信憑性の高い地圖と考えられ、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺二「牛久保と山本勘助」で、展開した遺髮塚が建てられた大林屋敷跡に長谷寺が遷って來たとの私の主張を裏附けるものである。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺四「善光庵の創建と再建」では、前半の「善光庵の創建と善光寺如來」では、『牛久保古城圖』で、武田軍の東三河侵攻により、燒き討ちの對象になり、廢寺となった天臺寺院・一色山聖圓寺の南西隣に描かれる聖圓寺末寺の善光庵の創建(永祿年中(一五五八~一五六九年)に建立されたと傳わる)と、善光寺池(豊川市牛久保町字水金剛(豊川市立天王小学校の南)邊りが比定される)で、發見された善光寺如來との關係及び善光庵の衰退ないし廢寺について考察し、後半の「潮音道海と『大成經彈壓事件』」では、善光庵を補陀山善光庵という臨濟宗黄檗派の寺院として再建した潮(ちょう)音(おん)道(どう)海(かい)(一六二八~一六九五)と、『大成經彈壓事件』について檢證した。
 善光庵は、元祿二(一六八九)年に黄檗派の寺院として再建されるが、債権者の潮音道海は、「大成經彈壓事件」により流罪になるも、牧野成貞(一六三四~一七一二)の預かりとなり、自らが住職をしていた黒瀧山不動寺(群馬県甘楽郡南牧村大塩沢)に身柄を移される。
 寛文六(一六六六)年、五代將軍綱吉(一六四六~一七〇九)がまだ館林十萬石の藩主だったころ、潮音道海は、館林藩上屋敷で綱吉と、綱吉生母の桂昌院(一六二七~一七〇五)に謁見し、二人は潮音道海に歸依する。罪が輕減され、牧野成貞の預かりになったのも、綱吉が潮音道海に歸依していたからだ。牧野成貞は、上野館林藩家老で、後に綱吉の側用人になる。
「大成經彈壓事件」は、天和元(一六八一)年、幕府が江戸室町の書肆(しょし)・戸嶋屋惣兵衞が出版した『大成經』を僞書と斷定し、版元の戸嶋屋惣兵衞及び戸嶋屋に『神代皇代大成經』を持ち込んだ長野采女、潮音道海竝びに僞作を依頼したとされる伊雜宮の神職らを處罰し、『神代皇代大成經』を始めとする由緒の明らかでない書物の出版・販賈を禁止した事件と説明される。
 善光庵が再建されるのは、この事件の八年後のことであり、しかも再建された場所は、創建當時の牛久保町蓮臺ではなく、牛久保町猿屋敷(現在の住所表示では豊川市南大通二丁目)である。『牛久保古城圖』に描かれている「牧野市右ヱ門屋敷」あるいはその東隣の「牧野勘四郎屋敷」邊りであることから、牧野成貞がこの再建に關わっていたと考えられる。
『大成經』の創作者は、善光庵の再建者の潮音道海とされるが、『大成經』の直接の僞作者は、長野采女であり、その種本となる「高野本」の作者は、山鹿素行(一六二二~一六八五)と考えられる。
 直接の僞作者の長野采女は、上州箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)主・長野業(なり)政(まさ)(一四九一~一五六一)の曾孫を稱するが、實際は伊勢長野氏に出自を持つと考えられる。
『大成經』は、近世の僞書の濫觴といえる書であるが、『中朝事實』を著した山鹿素行の著を種本にしたことから、近世の僞書の方向性が決まった。その方向性は、「記紀」と軌を一にする皇國史觀である。まことに殘念なことだ。  


Posted by 柴田晴廣 at 06:21Comments(0)穂国幻史考

2022年03月06日

『穂国幻史考(増補新版)』の手引き14(第二話拾遺・あとがき)

 さて『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」の拾遺「富永系圖と木地師」では、富永氏が城主だった、野田館垣内城の豊川の對岸に當る海(かい)倉淵(くらぶち)(新城市一(ひと)鍬(くわ)田(だ)殿海道(とのかいどう)及び一鍬田五井ノ巣(ごいのす)邊り/舊八名郡)に傳わる椀貸傳説と、大伴黒主(生没年不詳)を介して六歌仙と惟喬傳説について考察した。
 ここに椀貸傳説は、沈默交易の一種で、轆轤(ろくろ)を操り木製食器を製作する漂泊の民・木地師と、定住農耕民との交易が傳説化したものだ。
 具體的には、「ハレ」の折など人が大勢集まり、たくさんのお椀が必要なときに、必要な數を書いた紙を池や川の淵などに流すと、その紙が池や川の淵へ吸い込まれて行き、やがて必要な數のお椀が浮かび上がって來るが、あるとき、不心得者が蓋を缺いたまま椀を返し、龍神の怒りに觸れ、それ以降は、願いを聞き入れてくれなくなったという説話である。海倉淵も龍宮に續くといわれる。
「椀貸傳説」の中には、椀を授けるために池の中から出て來た手を引いたため、それ以降貸してくれなくなったというものもある。「河童の駒引」や、アイヌとコロポックル("korpokkur"アイヌ語でフキの下に住む人を意味する)の交易と、同様のモチーフである。
「河童の駒引」とは、河童が馬を川へ引きずり込もうとしたが、逆に馬主に捕らえられて、懇願のすえ助命される。河童は、それ以來、馬主の家で器物が必要なときは、夜中に馬主の家の軒先に器物を揃えておいたが、馬主の返却ミスにより途絶えたというものだ。
 河童は、腕を拔くことが出來、骨接の術に長けたといわれる。河童の特技は忍術に通じるものがある。三河富永氏の本姓は三河大伴氏であるが、忍者の祖は、阿毎を姓とした倭王・蘇我馬子(五五一?~六二六)の時代を生きた大伴細人(しのび)である。海倉淵と大伴氏の繋がりが窺える。

 長瀬の集落の唯一の寺院・松雲山海藏(かいぞう)寺(じ)(豊橋市長瀬町郷西/曹洞宗)は、宗教施設というより、公共施設の要素が强い。海藏寺という寺號も海倉淵から附けられたと、私は考える。長瀬の氏神は牛頭天王であるが、海藏寺の本尊は十一面觀音菩薩像。牛頭天王の后・頗梨(はり)采女(さいにょ)の本地佛も、十一面觀世音菩薩だ。頗梨采女は八大龍王の一柱・娑(しゃ)伽羅(から)龍王の娘であり、頗梨采女は南海の娑伽羅龍宮城に住むといわれる。龍宮に續く海倉淵と海藏寺の本尊には繋がりがあると考えられる。

 椀貸傳説の一方の當事者・木地師の始祖傳承が、惟喬傳説。一種の貴種流離譚で、木地師の職能に欠かせない轆轤(ろくろ)を考案したのが惟(これ)喬(たか)親王(八四四~?)だとする。
 惟喬親王は、文德(もんとく)天皇(八二七~八五八)の長子として、生を受けるが、弟で文德の第四子・惟(これ)仁(ひと)親王(八五〇~八八一)との立太子爭いに敗れ、比叡山の西麓・洛北の雲ヶ畑(京都市左京区大原)に隱棲したという。
 ところが、木地師の惟喬親王傳承によれば、親王は、貞觀元(八五九)年、小椋谷へ入山し、同七(八六五)年に蛭谷に筒井神社(東近江市蛭谷町)を建立したとする。

『源平盛衰(げんぺいせいすい)記(き)』賦卷(ふのまき)「維高維仁位論事」や『平家物語』卷八には、名虎と、能雄少將が相撲を取り、能雄少將が勝ったことから、惟仁親王が立太子爭いに勝利したとの逸話を載せる。先に河童と椀貸傳説の類似性について指摘したが、河童は相撲好きといわれる。
『源平盛衰記』では、名虎について、惟喬の外祖父とあることから、名虎は、紀(きの)名虎(なとら)(?~八四七)を指す。
 六歌仙の一人・喜撰(きせん)法師(生没年不詳)は、紀名虎の子であるという傳承が殘る。六歌仙の一人・在原業平(ありわらのなりひら)(八二五~八八〇)は、紀名虎の子・紀有(あり)常(つね)(八一五~八七七)の娘を娶っている。また、六歌仙の一人・遍照(へんじょう)(八一六~八九〇)は、惟喬親王に仕えており、惟仁が皍位すると出家し、六歌仙の一人・文屋(ぶんやの)康(やす)秀(ひで)(生没年不詳)もまた、清和(惟仁)皍位の後、三河掾(じょう)に左遷され、六歌仙の一人・小野小町(生没年不詳)は、惟喬親王の皇位繼承爭いにより左遷された文屋康秀に隨って、三河へ行ったとされる。喜撰法師、在原業平、遍照、文屋康秀、小野小町の五人は、惟喬派といえる人物だ。殘る一人の大伴(おおともの)黒主(くろぬし)(生没年不詳)も、藤原種繼(たねつぐ)(七三七~七八五)暗殺事件・承和(じょうわ)の變(八四二年)・應天門の變に掛けての、一聯の藤原氏による伴(大伴)氏排除の經緯から、黒主を大伴(おおとも)國道(こくみち)(伴善男の父)・伴健岑(こわみね)(生没年不詳)・伴善男ら、藤原良房(八〇四~八七二)による無實の罪に陷れられた伴氏一族、及び承和の變で皇太子の座を廢せられた恒(つね)貞(さだ)親王(八二五~八八四)の父・淳和(じゅんな)天皇(大伴皇子)を象徴的に表した人物で、惟仁の母が良房の娘であることから、大伴黒主も惟喬派とみることが出來る。三河大伴氏は、大伴國道らとは系統は違うが、六歌仙との關係から、河童傳説ではなく、椀貸傳説で、語られたのだろう。
 惟喬傳説では、木地師の職能に缺かせない轆轤(ろくろ)を考案したのは惟喬であるとするが、藤原仲麻呂(なかまろ)の亂(七六四年)を平定した稱(しょう)德(とく)女帝(七一八~七七〇)が供養のために、法隆寺を始めとする十大寺に、それぞれ十萬基ずつ合計百萬基を奉獻した百萬塔の製作に、轆轤が使われていた。
 史實はどうあれ、惟喬傳説という共同幻想が誕生した背景、惟仁との立太子爭いは相撲で決着がつき、惟喬側が負けたことと、海倉淵の椀貸傳説に結び附く過程を考察することは意義があることだ。
 餘談になるが、惟喬との立太子爭いに勝利した惟仁は皍位して、清和の漢風諡號が贈られる。その清和の退位に伴い適當な皇位継承者がいなくなったときに、われこそはと手を擧げたのが源(みなもとの)融(とおる)(八二二~八九五)だ。
 以上を踏まえて、『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」の拾遺「富永系圖と木地師」を読んで頂ければ幸甚である。

『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」の「あとがき」では、『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」は、二〇〇七年に刊行した『穂(ほ)国幻(こくげん)史(し)考(こう)』の第二話「登美那賀伝説」の骨子に変わりはないが、『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」で、新たに書き足した部分が、どこであるか等を指摘した。  


Posted by 柴田晴廣 at 07:22Comments(0)穂国幻史考登美那賀伝説