2023年06月13日

神事藝能と古典藝能

 私は過去形ではあるが、若干吃音があった。
 二代及び三代の三遊亭圓歌は吃音を克服したという例を知っていたから(三代は、吃音者を主人公とする新作を持ちネタとしていたが)、若干の橘尾音なら、寄席に行って落語を聞けば、直せるだろうと思い、大学入学で上京した折に、演技場に通った。
 幸い、何度も通わずに克服できた。
 落語の演目には芝居を基にしたものもあり、また落語を元ネタとする芝居もある。
 寄席に通ってそれを知ったわけだが、それをきっかけに芝居も見るようになった。
 芝居を見るようになったとはいえ、金銭的余裕はないことから、もっぱら「大向こう」で感激した。
 若かったことから、見巧者のかたから、いろいろと芝居について教えていただいた。
 話は変わるが、私は、中学のとき、若葉祭の上若組で隠れ太鼓を踊り、若い衆を抜けてからは20年近く上若組n大山車で笛を吹いていた。
 下記動画の向かって左が、上若組の大山車。
https://www.youtube.com/watch?v=iMtRHaTEq0s
 芝居についての知識があれば、この隠れ太鼓は、人形振りの影響を受けたものだとわかるだろう。
 拙著『穂国幻史実(増補新版)』第三話「牛窪考」首位一補遺三で隠れ太鼓を取り上げているが、芝居の知識を駆使して考察したものである。
  


Posted by 柴田晴廣 at 08:34Comments(13)牛窪考(増補版)

2023年06月07日

日本語について

 日本語は、歓呼k・朝鮮語と同様に膠着語に属する。
 満州語や蒙古語も膠着語である。
 蒙古、満州、韓半島という流れで伝来したものといえる。
 日本語を考える上で、韓国。朝鮮語の習得は不可欠。
 もう一つ日本語を考える上で、重要なのは、アイヌ語。
 アイヌ語は抱合語に屬し、マレー・インドネシア語、タガログ語、台湾先住民の言語も抱合語だ。
 黒潮の流れに乗ってきた人たちの言語といえる。
 弥生、縄文を考える上でも重要であるし、蝦夷とアイヌの関係を考える上でもアイヌ語の習得は重要になる。
 ちなみに中国語は孤立語、英語やフランス語、ドイツ語などは屈折語に分類される。
 余談になるが、私は韓国・朝鮮語を理解できたことから、笹踊朝鮮通信使影響説を唱えることが出来た。  


Posted by 柴田晴廣 at 16:57Comments(12)牛窪考(増補版)

2023年05月27日

萬勝號の遠州袖志ヶ浦漂着と梅が枝節

 前回の投稿のコメントで、九連環―かんかんのう―梅が枝節に話が及んだ。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1274062.html
 かんかんのうは、清樂の代表曲・九連環をアレンジしたもので、唐人踊が伴った。
 文政3(1820)年に難波堀江の興行で評判になった。
 梅が枝節は、明治11(1878)年、劇作者・假名垣魯文(1829~1894)が、「かんかんのう」の旋律に、人形淨瑠璃や歌舞伎狂言で知られる『ひらかな盛衰記』(元文4(1739)年、大坂竹本座で人形淨瑠璃として初演(二代目竹田出雲(1691~1756)、三好松洛(1695~1771?)らによる合作の全五段の時代淨瑠璃、同年丸本物として歌舞伎上演)の第四段目「神崎揚屋の段」)で、遊女・梅ヶ枝が、再會した梶原源太景季(1162~1200)のために無間地獄に落ちるのを覺悟して「無間の鐘」(叩けば富を得るも來世では無間地獄に落ちるとされる鐘)に準えた鉢を叩いたところ、小判が降る場面)からヒントを得た歌詞「梅ヶ枝の手水鉢」(元唄)を戲れで付けたものといわれる。
 一般に、九連環は、長崎の唐人から傳わり、廣まったといわれるが、江戸額の大家・三田村鳶魚(1870~1952)は、曲亭馬琴(1767~1848)の『著作堂一夕話』(享和4(1804)年に發行した『蓑笠雨談』を弘化5(1848)年に改題して發行)を引き、寛政12(1800)年に、遠州袖志ヶ浦(太田川河口の福田(ふくで)漁港邊り)に漂着した、清國船・萬勝號の船員から傳わり、廣まったという別るd-ともあった旨を主張している。
 先に述べたように、梅が枝節は、『かたかな盛衰記」で、遊女・遊女・梅ヶ枝が、叩けば無間に金が出るといわれる無間の鐘に準っらえた手水鉢を叩くという場面をモチーフにし、歌詞を捜索したものだ。
 その無間の鐘は、「遠州七不思議」の一つに數えられ、「遠州七不思議」によれば、「無間の鐘」は、遠州菊川の空道上人が掛川の粟ヶ岳(標高532㍍)にあった曹洞宗の寺院・無間山觀音寺(掛川市東山)に懸けたといわれる(觀音寺は明治の廢佛毀釋により廢寺となり、粟ヶ岳には阿波々神社(掛川市初馬/天平8(736)年創建)のみが殘る)。魯文も掛川に近い遠州袖志が浦が「九連環」の傳來ルートの一つとの認識があり、替え歌「梅ヶ枝の手水鉢」の創作に際し、「無間の鐘」を思い浮かべたのだろう。
 話は変わるがあ、荒俣宏著『帝都物語外伝』のタイトルは、「機関童子」。
 この機関童子は、牛久保の若葉祭の「隠れ太鼓」の稚児を指す、荒俣の造語である。
 落語『駱駝の葬禮(そうれん)』は、遺体を文樂人形に見立て、かんかんのうに合わせ、唐人踊を躍らすという内容であるが、直接明言していないものの、荒俣は、間接的に若葉祭の隠れ太鼓と『芥田の葬禮』に關係があると考えていたと見て取れる箇所がある。
 そして、私が若い衆だったころは、上若組は、隠れ太鼓が演ぜられる大山車を曳行するとき、かんかんのうを歌っていたのである。

  


Posted by 柴田晴廣 at 10:49Comments(44)牛窪考(増補版)

2023年05月16日

祭禮ないし祭禮組織の變容

 私は、コロナ下で、祭禮ないし祭禮組織の變容が顕在化すると予想していた。
 実際、先に投降した「若葉祭」のコメントで記したように、若葉祭でも、たった3年の中止で、著しく變容が顕在化しました。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1269434.html
 14日午後9時に、NHK総合テレビで放送された「NHKスペシャル」は、「お祭り復活元年〜にっぽん再生への道〜」のタイトルであった。
 「お祭り復活」の文言に、違和感を覚えたし、その違和感の通り、祭禮ないし祭禮組織の變容ではなく、「にっぽん再生への道」が副題になっている。
 取り上げられたのは、国府宮の裸祭、徳島県太鼓台、鹿児島県の初午祭、新潟県の古志の火まつり。
 国府宮の裸祭の裸男は、氏子に限らないし、続く徳島の太鼓台でも、氏子だけでは太鼓台の担ぎ手が足りず、地区内の企業の従業員を動員するというものであった。
 初午祭や火まつりも人手不足(高齢化による)で、存続が困難になり、初午祭では、学生がデジタル配信により観客を増やす、火まつりでは、今年で最後になるものの、仮想空間での観客を増やし、再生につなげるというものであった。
 こんな話は、コロナ下以前から顕在化していたことで、今回わざわざ取り上げるまでもないこと、
 限界集落では、集落出身者が、祭禮の折のみ帰ってきて、祭禮に参加することは、一昔以上前から行われています。
 今回取り上げたのは、単にその手段がデジタル媒体だということだけでした。
 村落共同体が崩壊しても祭禮は存続します。花祭りなどがその例です。
 今回放送が採り上げたのは、祭禮とイベントをごっちゃにしており、副題の「にっぽん再生への道」は、「祭禮がイベントとして再生する過程」というのが正確な表現だと思いました。
 要するに、番組制作者が、実際に祭禮に携わったことのないど素人が、コロナによる3年の中止で、祭禮がどうなったかといった程度の低い番組構成になったと私は理解しました。

  


Posted by 柴田晴廣 at 14:15Comments(4)牛窪考(増補版)

2023年04月26日

親鸞、日蓮、空海と明星のスタンス

 前回の投稿のコメントで、安達君が、宗旨は眞宗高田派と記していた。
 https://tokosabu.dosugoi.net/e1270787.html
 眞宗高田派の本山は現在三重県津市の高田山專修寺であるが、この專修寺は元々下野國芳賀郡高田村(栃木県真岡市高田)にあった本寺高田山專修寺をいった。
 下野の專修寺(本寺專修寺)は、嘉祿元(1225)年に、明星天子のお告げにより、親鸞(1173~1263)が建立した如來堂を起源とし、弟子の眞佛(一二〇九~一二五八)が管理していたが、眞佛の跡を繼いだ顯智(一二二六~一三一〇)は三河で布教をし、和田山勝鬘寺(岡崎市針崎町朱印地/眞宗大谷派)、昭高山願照寺(岡崎市舳越町本郷/眞宗本願寺派)、塚本山明法寺(安城市安城町拝木/眞宗大谷派)を據點とした和田門徒が形成される。
 三河の高田派の進出もこれによる。
 さて、本寺專修寺は、明星天子のお告げにより建立されるが、陰陽道で明星を神格化したのものが、八將神の一柱の大將軍であり、その本地の他化自在天は、第六天魔王波旬ともいわれ、佛道の修行を妨げる魔王である。
 親鸞は、佛道修行の妨げとなる、妻帶、蓄髮していたし、僧侶の妻帶、蓄髮を認めていた。その親鸞は、皍身成佛を手段として衆生の救濟の途を開いた。
 日蓮(1222~1282))は、千光山清澄寺で出家得度し、清澄寺で立教開宗した。清澄寺の本尊は虚空藏菩薩、日蓮は、その虚空藏菩薩に、「日本第一の智者となし給え」と、願を掛けたという。
 虚空藏菩薩が明けの明星の化身といわれる。
 日蓮は、第六天魔王波旬について、佛道修行者を『法華經』から遠ざけようとして現れる魔であると説くも、純粹な『法華經』の信者には、力を貸す天魔と、説いている。また日蓮が現した『法華經』の曼荼羅にも、第六天魔王波旬が描かれている。
 『佐渡御勘氣抄』で、「海邊の旃陀羅か子なり」と稱した日蓮は、惡人正機(『歎異抄』三章)に目が向いたはずだ。
 第六天魔王波旬を純粹な『法華經』の信者には、力を貸す天魔と解釋したのは、『法華經』卷八收録の二五品「觀世音菩薩普門品」(通稱『觀音經』)の一節「應以大自在天身 得度者 皍現大自在天身 而爲説法」もヒントになっただろう。他化自在天と大自在天は異なる天尊であるが、道元(1200~1253)は『正法眼藏』の「諸惡莫作」で、「いはゆる諸佛 あるいは自在天のことし 自在天に同不調なりといへとも 一切の自在天は諸佛にあらす」と説いている。日蓮は、「觀世音菩薩普門品」の一節「應以大自在天身 得度者 皍現大自在天身 而爲説法」の一節の大自在天を他化自在天に置き換え、第六天魔王波旬を純粹な『法華經』の信者には、力を貸すとの言説を思い付いたのだろう。
 このように、親鸞や日蓮は、明星と關わる逸話とともに、第六天魔王波旬の位置付けを説いている。
 ところが、空海(774~835)は、延暦11(792)年、大學寮に入寮後、遣唐使に選ばれる延暦22(803)年の間の山岳修行中に、一沙門から「虚空藏求聞持法」を授かり、それを修め、室戸岬の御厨人窟(高知県室戸市室戸岬町)で瞑想をしているとき、口に明星が飛び込んで來たと、自著の『三教指歸』の序文で、自己幻想を綴っているも第六天魔王波旬については觸れてもいない。
 『三教指歸』は、空海晩年の著作だが、延暦14(797)年に書き上げた『聾瞽指歸』を改題、改定したものであり、儒教、道教、佛教の比較思想論との評価が一般的だ。
 一般的な評価はさておき、空海に道教の知識があったとはとてもじゃないが、思えない。
  


Posted by 柴田晴廣 at 16:31Comments(0)牛窪考(増補版)

2022年03月18日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明25(あとがき~)

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」の「あとがき」では、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」の各論を総括するとともに、なぜに『穂国幻史考』に、自己幻想、対幻想、共同幻想の概念を用い、改訂し、『穂国幻史考(増補新版)』として、新たに刊行しようとした理由を記した。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」の基となる『牛窪考(増補版)』刊行後の二〇一七年七月一九日に、がんの転移を見落とされ、誤魔化しの説明を受けるとともに、余命八月、治療をしても三十月との宣告を受けた。
 当然のことながら、自分が死んだら、周囲の人たちはどんな思いをするだろうと考えた。対幻想である。そして『牛窪考(増補改訂版)』の執筆中に父が急逝した。父の死により、対幻想が具体化するとともに、対幻想に幾つかの類型があること、氏神信仰や怨靈信仰は、対幻想の概念を用いて説明できることに気が付いた。
 さらには、祭禮を見学していてよく耳にする「昔からこうだった」のほとんどは自己幻想に過ぎないこと、祭禮組織ないし祭禮の變容は、自己幻想、対幻想、共同幻想の概念を用いて説明出来ることにも思い至った。
 加えて「記紀」の描く世界は究極の共同幻想であること、この究極の共同幻想を解體するには、これも共同幻想であるが、本地埀迹説が有効なことに気付いた。『穂国幻史考』に自己幻想、対幻想、共同幻想の概念を用い、改訂し、『穂国幻史考(増補新版)』として、新たに刊行しようとした理由は以上である。

 余談になるが、余命宣告を受けて、一応であるが、自身の死生観も確立した。此世も彼世も「胡蝶之夢」と認識している。この連続が輪廻転生。「胡蝶之夢」のような優雅な内容ばかりではないから、六道輪廻。よく登場する人物や場所は宿縁があると思っている。もっとも、「色皍是空 空皍是色」とは程遠い。自分で戒名を付けたのも此世への執着の裏返しだ。

 がんの転移の見落としの説明から、医療機関ないし医療行政の出鱈目さにも気付かされた。
 臨床も当然ながら、経験則が、科学的根拠に先行する。後付けの科学的根拠が見つからないだけで、経験則上、有効な治療であっても、エビデンスがないと斥けるのが、医学の世界ではまだまだ横行している。
 これと関係するが、分析技術なども完全とはいいがたい。
 化学合成薬の歴史はたかだか二百年。副作用もこの未熟な分析技術と相俟ってのものと思う。
 生薬を使うのは、東洋医学のみではない。リキュールは、古代ギリシャの醫師ヒポクラテス(Hippocrates/前四六〇頃~前三七〇頃)が、ワインに藥草を溶かし込み、藥酒を作ったのを起源とする。
 プロテスタントの醫教分離まで、リキュールの多くは、教会や修道院で作られていた。
 この醫教分離は、わが国にも及び、四苦八苦の四苦(生老病死)からの衆生濟度を缺いた醫師は、醫は算術に走った。醫は算術とはいわないまでも、陸軍々醫總監で、陸軍省醫務局長を務めた森林太郎(一八六二~一九二二)も四苦からの衆生濟度を缺いた醫師の一人だ。
 さらにやっかいなのは、一部の外科醫は、關東軍防疫給水部本部で、四苦からの衆生濟度とは眞逆の人體實驗を行い、いまだにその弊害はこのクニの医学会から払拭されていないことだ。
 医療行政の一つである、がん治療の標準ガイドラインについて言及すれば、このガイドラインは、自由と自由が衝突したとき、精神的自由より経済的自由が優先するという新自由主義者の小泉純一郎が厚生大臣のときに助成金が交付され、制定されたものだ。四苦からの衆生濟度より経済性を優先させたものだ。もちろん本來の意味の救世濟民ではなく、救世濟民の視点を欠く経済性だが……。

 国家資格の中でも、自動車の運転免許証並みに不合格になるのが、難しいのが医師免許の試験だ。加えて、博士号の中で最も取得しやすいのも医学博士だ。医療行為も契約という側面から見れば、コンビニでジュースを買うのと変わりはない。ところが、事前に価格も提示せず、ぼったくりと変わらないのが医療契約だ。日本医師会の会員の中の一定数の医師は、医療は特別との共同幻想を定着させなければ、医師の権威が保てないと思っているのだろう。誤解のないように加えて置けば、私は優秀でまっとうな医師がいないといっているのではない。そのような優秀でまっとうな医師の意見をかき消すほど、医療は特別との幻想を流布させようとする声が多いことを問題にしてるのだ。

 話は変わるが、『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」第四章「虚構の万世一系と持統の生い立ち」の第一節のタイトルは、「易姓革命から逃れるために姓を棄てた持統」である。この持統の棄姓により易姓革命は機能しなくなり、放伐思想は封じられた。結果、このクニでは、為政者に護民思想が生まれず、民を護れぬ国はとっとと潰し、新たに民を護れる国を創るという、当たり前のことも理解していない政治屋が跋扈している。そうした主権在民を理解していない政治屋は押し並べたように「日本のため」と口にする。
 封建時代には、「民は生かさず、殺さず」との言葉があったが、主権在民のいま、「クニなど生かさず、殺さず」が、クニを縛る指針と民衆も理解すべきだ。これが徹底されないから、生産性とは対極にあるオリンピックでメダルを獲得することが、先進国だとの勘違いが始まる。
 加えて、オリンピックが平和の祭典であるというのも幻想だ。近代オリンピックが始まった当初、参加資格があったアマチュアとは、軍人、士官学校生、そして学生だった。一九五二年に開催されたヘルシンキ大会まで馬術の出場資格は軍人に限られていた。
 パラリンピックも第二次世界大戦の傷病軍人のスポーツ大会が起源だ。

 さて、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の説明で述べたように、わが国の佛教界のレベルはことのほか低い。
 これは朱印などにも顕現している。せめて朱印ぐらい、キリスト教やイスラムに倣い佛教暦で年月日を記すか、宗祖の生誕年、あるいはその寺院の創建年からの紀年を用いてもらいたいものだ。
 神道についても同様だ。地祇を祭神とする神社で元號を朱印に用いるなど、祭神の冒涜に他ならない。かようにこのクニの宗教者のレベルは低い。
 宗教、政治、医療とありとあらゆる分野で、このクニは出鱈目なのだ。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」の「あとがき」では以上のようなことも記した。

『穂国幻史考(増補新版)』の「あとがき」では、『穂国幻史考(増補新版)』利用における著作権法上の注意点等、第三話の「あとがき」では、がんの転移を中心にその治療の問題点を説明したが、ここでは再発時を含めた具体的に私がどのような治療をしたか、及びその治療の選択肢を狭める、医療行政における官民癒着の一例レジメンの弊害についても言及した。

『穂国幻史考(増補新版)』は、東三河の歴史や民俗を題材にしたものの、通説をなぞったものではない。東三河の歴史や民俗を介して、歴史や民俗から何をどう学び、どう生かすかの地均しの論考と自負している。
 以上、『穂国幻史考(増補新版)』を読み進める上での参考になれば、幸甚である。
 多様な価値観が認められる社会の実現を目指し、主権在民を謳う日本国憲法が施行された一九四七(昭和二二)年をもって、日本国元年とする紀年を記して、筆を置く。

  日本国七六年三月吉日
                                                                        穗國宮嶋鄕常左府にて
                                                                             理證晴連居士  


2022年03月17日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明24(附録三)

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録三「県道三一号線物語――古代から現代まで」は、県道三一号――東三河環状線は、先史時代の生活道、律令時代の官道、京鎌倉往還を經た後繼道路である旨を解説した論考である。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録三「県道三一号線物語――古代から現代まで」の最初の見出し「鎌倉街道と県道三一号東三河環状線」では、東三河環状線は京鎌倉往還の後繼道路である旨の解説をした。
『新撰(しんせん)和歌(わか)六(ろく)帖(じょう)』(寛元二(一二四三)年成立)第二卷「田舎」の項に載る藤原家良(いえよし)(一一九二~一二六四)が詠んだ「かりひとの やはきにこよひ やとりなは あすやわたらむ とよかはのなみ」も、この鎌倉街道を詠ったものである。この歌に詠まれる「やはき」は、圓福山妙嚴寺(豊川市豊川町)の西側の一部及び、その北、東、南邊り(豊川市桜木通一丁目、同豊川西町及び同門前町の一部)にあった豐川村矢作をいい、矢作は京鎌倉往還と、後の伊奈街道が交差する交通の要所であった。
 中世三大紀行文の一つ『海道(かいどう)記(き)』(作者未詳/貞應二(一二二三)年成立)貞應二年四月九日條や、同じく中世三大紀行文の一つ『東關(とうかん)紀(き)行(こう)』(作者不詳/仁治三(一二四二)年成立)仁治三年八月一八日條では、家良が詠んだ歌のように、豐川村から、飽海川(豊川(とよがわ)の古稱)を渡河している。
 當時、豐川村から飽海川を渡河するとなれば、現在、佐奈川に付け替えられている、飽海川の支流・帶川を渡河し、牧野村(豊川市牧野町)を經て、三橋(みつはし)村(豊川市三谷原町の一部、寶飯郡三谷原村は、明治元(一八六八)年、三橋(みつはし)村、雨谷(うや)村及び石原(いしはら)村が合併した際に三村の一字ずつを採った合成地名)で、飽海川の本流(古川)を渡り、最後に飽海川支流の間川を渡り、八名郡三渡野(豊川市三上町の一部)で、飽海川を渡り切ったのだろう。
 ところが、中世三大紀行文の一つ『十六夜(いざよい)日(にっ)記(き)』(阿(あ)佛(ぶつ)尼(に)(一二二二?~一二八三)著 弘安六(一二八三)年ごろ成立)弘安二(一二七九)年一〇月二一日條では、「わたうととかやいふ所にとゞまりぬ」と綴る。「わたうと」は、『和名類聚抄』に載る「度津(わたむつ)」のことであり、飽海川の渡河地點が「豐(とよ)川(かわ)」から「度津」に變わったことを物語る。式内菟足神社(豊川市小坂井町宮脇)は、度津鄕の總氏神。氣候の變化により、海退し、飽海川の渡河地點が下流に移ったのだ。中世三大紀行文は、いずれも宮路山(豊川市赤坂町宮路)を通っているが、海退により、阿佛尼は平坂(へいさか)街道(国道二三号線の前身道路)に近いルートを取ったと考えられる。
 そして『海道記』は、「やかて高志山にかかりぬ 岩角をふみて火敲坂を打過くれは 燒野か原に草の葉萠えいてて 梢の色 煙をあく この林地を遙かに行けは 山中に境川あり これより遠江の國にうつりぬ」と、『東關紀行』は、「參川 遠江のさかひに 高師山と聞ゆるあり(中略)橋本といふ所に行つきぬれは 聞渡りしかひ有て 景氣いと心すこし」と、『十六夜日記』は、「たかし山もこえつ」と、いずれも「たかしやま」を通って、遠州に入っている。
 以上を勘案すれば、東三河における京鎌倉往還は、東三河環状線に近いルートであったと推測される。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録三「県道三一号線物語――古代から現代まで」の二つ目の見出し「東三河平野部の古代の地名と交通路」では、JR飯田線の豊川駅(豊川市豊川町仁保(にほ)通(どおり))から小坂井駅(豊川市小坂井町倉屋敷)邊りの南の段丘崖下の龍雲山三明寺(豊川市豊川町波(は)通(どおり))から菟足神社邊りまでを繋ぐ、地元で鎌倉街道と呼ばれる道を採り上げた。
 この段丘崖は繩文海進期の海岸線であり、段丘崖附近には、圓福原("en・huxkara"=突き出た・(集落の)背後の木原、あるいは、"wen・huxkara"=①悪い(役に立たない)、②険しい・(集落の)背後の木原)、牛久保("husko・bet・kus"=古い・川・通る)、常荒("tok・o・sap"=凸起物(堆積物等)が、そこで群をなして浜(河岸)へ競出(せりだ)している)、菟足("utari"=同朋)、さらに上流には、日下部("kusa・ka・bet"=舟で運ぶ・岸・川/豊川市豊津町の一部)などの繩文系地名が見受けられる。
 また段丘崖下の鎌倉街道と呼ばれた道附近には、いまは涸れてしまったが、私が知る限りでも、東から、三明寺の寶飯の聖泉、花井の井戸(豊川市花井町)、お瀧(同市中条町大道)、岸の洗濯川(同市牛久保町岸組)、辨天池(同市下長山町西道貝津)、清水弘法(同町岩下(いわした))、下長山の洗濯川(同町天王下、同町境、同町中屋敷の字境附近の南)、篠束の洗濯川(同市篠束町郷中)、五社稻荷の洗濯川(同市小坂井町欠山)と、清水が湧いていた。
 段丘崖下の道は、鎌倉時代には、豐川と度津を結ぶ道であったが、先史時代に遡る生活道路が、その起源だったのである。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録三「県道三一号線物語――古代から現代まで」の三つ目の見出し「律令時代における東三河平野部の官道と鎌倉街道」では、律令時代における東三河平野部の官道は、先史時代からの生活道のルートをなぞったものであること、律令時代の官道は、律令の世の官道は、官道ゆえ生活道路としての利便性は尠なく、特に國府周邊の官道は、恒久的な使用より、むしろ爲政者の權力誇示を優先したモニュメントとしての意味合いが强く、維持管理などもそもそも念頭になく、むろん利便性などもお構いなしに直線的な路線形状と廣い道幅にこだわって建設したことから、開通まもなくから荒廢し、代わって律令期以前の道が使われるようになったことを指摘した。
 その律令時代の三河國府周邊の官道を詠んだ歌に『萬葉集』卷三雜歌に收録された高市(たけちの)黒人(くろひと)(生没年不詳)が詠んだ題詞「高市黒人羇旅歌八首」の一首(歌番號二七六)がある。この歌に詠われた「三河なる二見の道」は、後の東海道と姫街道の追分邊りを詠ったものともいわれる。
 姫街道に面する豊川市役所の現在の住所表示は、豊川市諏訪一丁目になっているが、町名変更前は、豊川市牛久保町字二見塚であったし、市制施行以前は、寶飯郡牛久保町大字牛久保字二見塚であった(ただし後述するように、姫街道は律令時代の官道や京鎌倉往還の後繼道路ではない)。
 江戸時代の東海道と姫街道の追分(豊川市御油町行力)から、北東に七百区㍍ほどにある大寶山西明寺は、三河國司・大江定基(さだもと)(九六二~一〇三四)が出家した後の寛和年間(九八五~九八七)に、大寶山の麓に草庵を結び、夜毎天空を貫く六道の光明が現れたことから、「六(ろっ)光(こう)寺(じ)」と命名したのを始まりとすると傳える。當初は天臺宗の寺院であったが、鎌倉幕府第五代執権入道・北条時頼(一二二七~一二六三)が諸國巡歴の際に立ち寄った縁により、寺號を「六光寺」から最(さい)明(みょう)寺(じ)(時頼の出家後の名である最明寺道崇に由來)と改め、禪宗寺院となり、その後、家康の命によって西明寺に名を改めたという。
 この當初の寺號の「六光寺」であるが、元々地名であった可能性もある。日本語や韓国語は、語頭の流音(rやlの音)が脱落する特徴があり、語頭に流音が来る場合、漢語由來の言葉や、アイヌ語由來の言葉である確率が高い。知里真志保著『地名アイヌ語小辞典』を引いてみると、"ru・ukotpa・us・i"(道が・交合している・のが常である・所)という語がある。これに漢字を無理に當て、「六光寺」としたものと思われる。この先史時代の生活道路は、方や本野ヶ原の北の山際を東に向かい、方や三河灣方面に分岐していたと推測される。
 この六光寺が、倭譯され、二見の道となったのだろう。本宿、赤坂、御油と、西から東に入って來た律令時代の官道は、この先史時代の生活道を基に直線的に造られ、方や國府、國分寺、國分尼寺へのルート、方や御津といわれた後の御馬湊へと繋がっていたのだ。そして、御馬湊の先は、景勝二見浦(ふたみうら)(伊勢市二見町茶屋)から、伊勢の古市(ふるいち)街道の小田橋(おだばし)の追分(伊勢市尾上(おのえ)町)に續いていたのだろう。
 なお、姫街道は、入鐵砲出女の幕府の政策に沿ったものであり、吉田川を難なく渡るには、前期の京鎌倉往還のように、三渡野邊りで渡河すべきであるし、明石山脈も宇利峠(新城市中宇利曽根川南)越えの方が、本坂越えより、遙かに緩やかだ。
  


Posted by 柴田晴廣 at 07:00Comments(0)牛窪考(増補版)

2022年03月16日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明23(附録二)

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」は、二〇〇九年一一月一七日に『三州(さんしゅう)吉田(よしだ)の怪(かい)猫(びょう)騒動』(発行者 岩瀬篤/非売品)として発行したものに写真を加え、加筆訂正したものである。三州吉田の怪猫騷動」は、大学の先輩で、当時豊橋市議会議員を務めており、吉田城本丸御殿の再建に意欲を持っていた岩(いわ)瀬(せ)篤(あつし)氏より、鳥取市議会から入手した『老(ろう)嫗(う)茶(さ)話(わ)』卷之三に收録された吉田城を舞臺とする「女大力」を元に吉田城についての小論をまとめて欲しいとの依頼を受け、書籍として発行したものだ。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」の「はしがき」では、現在の吉田城の繩張りは、池田照政(一五六五~一六一三)が国宝姫路城を築城する直前に築いた城であること、天守閣こそないものの、本丸御殿跡を取り圍むように、外観三層の鐵櫓、入道櫓、辰巳櫓、千貫櫓の城郭が聳え、さらに鐡櫓の眞下には、吉田川(現豊川(とよがわ))に面して搦手(からめて)からの敵の攻めに備える川手櫓が築かれ、總構えは、名古屋城より廣いこと、家康、秀吉ともに吉田の地を重視したこと等を指摘するとともに、城郭の多くが失われた明治六(一八七三)年の失火は、芋侍・西鄕吉之助(一八二八~一八七七)が畫策したものと推測される旨を述べた。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」の「吉田城沿革」では、吉田城の創建から藩主の移り變わり、吉田城は幕閣への登龍門であった旨を解説した。それゆえ、寶永の大地震(一七〇七年)で倒壞した本丸御殿を始め城郭や城下は完全には整備されないまま、明治を迎えることとなった。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」の「三州吉田の怪猫騷動」では、『老嫗茶話』に收録された「女大力」について解説した。
『老嫗茶話』は、寛保二(一七四二)年に會津の浪人・三(み)坂(さか)五(ご)郎(ろう)衞(る)門(もん)春編(はるよし)(一七〇四~一七六五)が撰した奇譚集で、「女大力」の主人公は、池田輝政の妹・天久院(てんきゅういん)(一五六八~一六三六)である。天久院は一般に天球院と表記され、天球院という院號は、天球院が創建した正(しょう)法山(ほうざん)妙(みょう)心禪(しんぜん)寺(じ)(京都市右京区花園妙心寺町一)の塔頭の一つ「天球院」にちなむ。
 その輝政の妹・天球院は、「女大力」で、「ある時」は、「人數(あま)多(た)慘殺し」た「狼藉者」を「大長刀をかい込」「凡百人力」で「車切りに切放し」(輪切り)、またある時は「女房のうせける事數(あま)多(た)」「人々おそれおのゝく」「尾二タ俣にさけ五尺餘リの大猫」の「化け物」を、「こふしを」「握り」頭を毆り潰したという、なんとも豪膽な女性として語られる。
 實際、妙心寺塔頭の天球院には、「血天井」がある。「血天井」とは、戰國期に落城した城郭などの床に染み込んだ血痕の殘る板などを供養のために寺の天井の材に用いたものをいうが、この「天球院」の「血天井」は、京在住中に押入った賊七人を「天球院殿」が長刀でなぎ倒し、その血しぶきが天井を染めたものだという。
 ただ、この時代、天球院のような豪膽な女性は珍しいものではなかった。濃州岩村城(岐阜県恵那(えな)市岩村町)は信長の叔母(通稱・岩村殿/?~一五七五)が護っていたし、德川四天王の一人・井伊直政(一五六一~一六〇二)の養母・直虎(なおとら)(?~一五八二)も遠江井伊谷(いいのや)(静岡県浜松市北区引佐町(いなさちょう)井伊谷字城山)の女城主であった。
 また中世から江戸時代に掛けては、嫐(うわなり)打ちなる風習があった。妻を離縁して一月以内に後妻を迎えたときは、前妻が後妻方に押し寄せ、後妻方の女性たちと打ち合い、折を見て前妻と後妻雙方の仲人たちがともに現れ仲裁に入り、引き上げるといったことが許されていた。
 嫐打ちが廢れた後の寛文年間(一六六一~一六七三)ごろには、諸藩の奧向きには、別式(べっしき)女(め)といわれる女性武藝指南役を置くことが流行ったし、女性劍術家・佐々木累(るい)(生没年不詳/下總國古河藩主・土井利勝(一五七三~一六四四)に仕えた劍術家・佐々木武太夫の娘)もいた。
 武家だけではなく、大坂長堀の豪商である三好家の一人娘・お雪(生没年不詳)は、俠客・奴の小萬として名を馳せていたし、小萬は、お龜、お岩の二人の女性を從えていた。
 加えて、永祿六(一五六三)年、横瀬浦(長崎県西海市)に耶蘇(イエズス)會司祭として來日し、布教活動を行ったルイス・フロイス(一五三二~一五九七/Luís Fróis)が、天正一三(一八五五)年に著した『日歐文化比較』(原題は、"Tratado em que se contem muito susintae abreviadamente algumas contradições e diferenças de custumes antre a gente de Europa e esta provincial de Japão")には、このクニの女性が自由であった旨が記されている。
 江戸時代の商家などでは、優秀な奉公人を婿に迎えるなどの母系制が機能していた。この母系制と夫婦別姓が、女性の地位を高めていたのだろう。
 ところが、耶蘇教の傳來と、男尊女卑を旨とする儒學が官學になったことにより、夫婦同姓が定着し(夫婦同姓が確認出來るのは、明智光秀(一五二八?~一五八二)の娘・珠(たま)(一五六三~一六〇〇)が細川ガラシャを名乘ったのが最初)、母系制が崩れたことにより、女性の地位が低下した。『老嫗茶話』は女性の地位が低下する時代を迎えたころに撰されたものだ。

 吉田城を舞臺とする「女大力」では、照政ではなく、輝政となっているが、照政が輝政と名を改めたのは、晩年の慶長一四(一六〇九)年ごろのこと、「女大力」の舞臺は輝政の名がまだ照政で、播州姫路城主(一六〇〇~一六一三)となる以前、「三州吉田の城主」が池田照政であった時代(一五九〇~一六〇〇)の城内となっているべきだが、「池田三左衞門輝政」とあり、はなから吉田城の出來事であるはずはない。
 では、なぜ「女大力」の舞臺を吉田城に設定したのか。
 既述のように、吉田藩の歴代藩主は幕府の要職に就き、その宿場の三州吉田宿は、家康が東海道五十三次を制定した當初からの宿場として大いに榮えた。
 吉田宿は、吉田藩の城下町に田町(たまち)、坂下(さかした)町、船町(ふなまち)を加えた地域であり、東海道沿いの表町十二町(船町・田町・坂下町・上傳(かみでん)馬(ま)町・本町・札(ふだ)木(ぎ)町・呉(ご)服(ふく)町・曲尺手(かねんて)町・鍛冶町・下モ町・今新町・元新町)と、東海道南側の裏町十二町(天王町・萱(かや)町(まち)・指(さし)笠(がさ)町・御輿休町・魚(うお)町(まち)・垉六町・下リ町・紺屋町・利町(とぎまち)・元鍛冶町・手間町・世古(せこ)町)の、計二十四町によって構成されていた。町竝みの長さは二十三町三十間(約二.六㌔㍍)、本陣は二軒、脇本陣一軒、享和二(一八〇二)年には旅籠六十五軒もが建ち竝び、「吉田通れば二階から招く しかも鹿の子の振り袖が」と巷間で唄われたほどに飯盛女が多いことでも知られ、たいそうな賑わいを見せた宿場であった。
 加えて、東海道で橋が架けられていたのは、この吉田橋と、岡崎の矢作橋、琵琶湖の瀬田橋の三か所のみ。中で、橋が架かる川に面して城があるのは吉田だけとあって、吉田城と吉田川(豊川(とよがわ)の江戸時代の一般的な呼稱)、吉田橋をセットで描いた浮世繪が多く見られた。
 吉田が廣く知られていたから、「女大力」の舞臺が吉田城に設定された最大の理由だろう。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」の「結びにかえて」では、大学の同級生で、当時、鳥取市民図書館に勤務していた田村晴夫氏が執筆するに当たり、必要な資料を提供してくれたことに対する感謝を述べた。
 田村晴夫氏は、『穂国幻史考』の題号の揮毫者で、凡鳥を雅号とする。
  


Posted by 柴田晴廣 at 06:08Comments(0)牛窪考(増補版)

2022年03月14日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明22(附録一)

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録一「相撲雑話」序「本書第一話における野見宿禰論」では、野見宿禰について整理した。
 野見宿禰は、出雲神寶獻上事件の出雲振根命と同様に、天穗日命の後裔で出雲臣を出自とする。出雲臣は後に、杵築大社の祭祀に當たった出雲國造家となるが、その祖の天穗日命がアマテラスとスサノオの誓約(うけひ)によって生まれたのも妙なものだし、出雲臣が野見宿禰を名乘るのも首を傾げる。
『日本書紀』卷三〇持統五(六九一)年九月己巳朔壬申(四日)條に、「賜音博士大唐續守言 薩弘恪 書博士百濟末士善信 銀人二十兩」の記述は、『日本書紀』の著述を促すものであるが、著述者のみならず、書博士百濟末士善信にも銀二十兩が輿えられている。
 韓国・朝鮮語で、"nom-wi"は、「奴の」意味になる。野見宿禰は、古代ローマの劍闘士に近い身分であったと私は考える。
『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の説明で述べたように、「記紀」の崇神――埀仁の二代の出雲についての記述は、丹波の出來事である。
 これを出雲臣を例に説明する。
 たとえば、、江戸時代の外樣大名の毛利家は、鎌倉幕府初代別當・大江廣元(一一四八~一二二五)の後裔・時(とき)親(ちか)(?~一三四一)が、安藝國高田郡吉田莊(広島県安芸高田市吉田町/毛利氏の本貫は、相模國愛甲郡毛利莊)を據點としたことに始まり、同郡吉田郡山城を居城とした國人領主であった毛利氏は、元就(もとなり)(一四九一~一五七一)一代で、安藝のみならず、山陽山陰の十ヶ國を領有し、元就は、次男の元春(一五三〇~一五八六)を吉川(きっかわ)家の、三男の隆景(一五三三~一五九七)を水軍を有する小早川家の養子とする。
 山陽山陰十ヶ國を領有した毛利氏であったが、元就の孫・輝元(一五五三~一六二五)が、關が原の戰いで西軍の總大將に擔がれたことにより、長門・周防の二ヶ國に減封される。元就の三男・隆景は小早川家の養子となっていたが、隆景の養子となった小早川秀秋(一五八二~一六〇二)は、關が原の戰いにおいて戰闘中に東軍に寢返る。これにより勝敗が決した。
 關が原での西軍の總大將・輝元はかろうじて長門・周防の二ヶ國の領有が認められるのだが、假に輝元が改易され、秀秋が、筑前國糟屋郡名嶋(福岡県福岡市東区名島)から長門・周防二國に轉封され、小早川が毛利を名乘り、毛利は安藝吉田で大江に復姓していたとしたら……。
 私は、この假定の中の輝元ないし安藝國高田郡吉田莊が野見宿禰ないし出雲大神宮(京都府亀岡市千歳(ちとせ)町千歳出雲)が鎭座する丹波國桑田郡、小早川秀秋ないし筑前國糟屋郡が、出雲國造家ないし杵築大社(島根県出雲市大社町杵築東)が鎭座する出雲國出雲郡に相當するとのイメージを描いている。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録一「相撲雑話」第一章「節會時代の相撲」では、節會時代の相撲とそれに先立つ賭弓(のりゆみ)を解説するとともに、實は、行司の裝束が現在の烏帽子(えぼし)直埀(ひたたれ)に代わるのも、不知火型、雲竜型の横綱土俵入りが完成するのも、ちゃんこ鍋が定着するのも、常設の兩國々技館が出來たころのことである、説明をした。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録一「相撲雑話」第二章「神事から見た相撲」では、後の行事に相當する節會時代の「立合」を思わせる役を含む神事相撲について考察した。
 採り上げた神事相撲は、土俵に手を突く立ち合い以前の「手合い」等に共通點が見られる、兵庫県西脇市板(いた)波(ば)町(ちょう)に鎭座する石上神社で行われる「鯰押さえ神事」、兵庫県養父(やぶ)市奥(おく)米(めい)地(じ)に鎭座する水谷神社で行われる「ねってい」、京都市北区上賀茂本山に鎭座する賀茂別雷神社で行われる烏相撲、京都府南丹市園部町鎭座する摩氣神社で行われる神事相撲の四つ。いずれの神事相撲も、出雲大神宮を中心とした地域で行われる。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録一「相撲雑話」第三章「吉田追風家と弓術吉田流」では、第四十代横綱・東富士欽壹(一九二一~一九七三)まで、横綱免許状を発行していた吉田追風家と、吉田流ともいわれる弓術日置流について考察した。
 この吉田追風家、その由緒がはっきりしないのみならず、相撲司を名乘るが、節會時代には參議以上の公卿が相撲司を務めた。參議以上は、『公(く)卿(ぎょう)補(ぶ)任(にん)』に記載されるが、節會再興の際に、行司に任ぜられた初代追風・吉田善左衞門家永は、『公卿補任』に載らない五位に授されたという。
 吉田追風家は、江戸時代、肥後熊本藩のお抱えであった。肥後細川家は、寛永九(一六三二)年、細川藤(ふじ)孝(たか)(幽(ゆう)齋(さい)/一五三四~一六一〇)の孫・忠利(一五八六~一六四一)が、豐前小倉藩から肥後熊本に移封されたことに始まる。
 幽齋は、有識故實に明るく、三(さん)條(じょう)西實(にしさね)枝(き)(一五一一~一五七九)から「古(こ)今傳授(こんでんじゅ)」(『古(こ)今(きん)和歌(わか)集(しゅう)』(延喜五(九〇五)年に奏上された最初の敕撰和歌集)の解釋の祕傳)を受けている。
 また幽齋は、弓術吉田流(日置(へき)流)の祖・吉田重賢(しげかた)(一四六三~一五四三)の孫で、雪(せっ)荷(か)派の祖・吉田重勝(しげかつ)(一五一四~一五九〇)から印可を受け、雪荷の後繼には、吉田重勝の子ではなく、弟子の伴(ばん)喜(き)左(ざ)衞(ゑ)門(もん)一(いち)安(あん)(?~一六二一)を推していた。一安は細川家に仕え、日置流道雪派を興し、現在も肥後道雪派として伴一安の射は熊本で繼承されている。一方、雪荷嫡流は津藤堂家に仕え、また仙臺伊達家にも一流が仕える。
 既述のように、節會時代の相撲は、相撲節に先立ち賭弓(のりゆみ)が行われた。千穐樂結びの一番の褒美は重藤の弓であり、この弓を持って舞ったのが弓取りだ。
 日置流(おそらく雪荷派)で、體系を整理するに當たり、節會時代の賭弓などの資料を集め、吉田重勝の孫あるいは曾孫あたりで弓術の印可を受けることが出來なかった者(藤堂家あるいは伊達家の指南役になれなかった者)が、資料の中から相撲についての記述を見附け、これは商賣になると思い、道雪派という傳手(つて)を頼って、細川家のお抱えになったのではないかと、私は推測する。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録一「相撲雑話」終章「私と相撲、そして弓」では、子供のころから私は相撲が好きだったこと、三十歳を過ぎて、日置流雪荷派の弓術と出会ったことが、「相撲雑話」を執筆する上で、役に立ったこと等を記した。
 なお『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録一のタイトルを「相撲雑話」としたのは、相撲部屋というビジネスモデルからの興行について言及出来なかったことによる。  


Posted by 柴田晴廣 at 14:37Comments(0)牛窪考(増補版)

2022年03月13日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明21(拾遺五補遺2)

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の後半「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」では、まず、潮見神社(佐賀県武雄市橘町大字永島)に傳わる「兵主部よ約束せしは忘るなよ川立つをのこ跡はすがはら」という河童除けの呪文を採り上げた。
 潮見神社は、橘諸兄、橘奈良麻呂、橘島田麻呂、橘公業など橘一族を祭神とする。潮見神社の祭神からは、相撲の祖・野見宿禰の裔・菅原氏とは接點がないように思える。
 潮見神社の祭神の一人とされる橘(たちばなの)諸(もろ)兄(え)(六八四~七五七)は、美(み)努(ぬ)王(?~七〇八)の子として葛(かつら)城(ぎ)王の名で生を受ける。美努王の父は敏(び)達(たつ)(五三八?~五八五?)の孫ないし曾孫といわれる栗(くり)隈(くま)王(?~六七六)だ。葛城王は、天平八(七三六)年に、弟の佐爲(さゐ)王(?~七三七)とともに母・三千代(六六五?~七三三)の氏姓である橘宿禰を繼ぎ、橘諸兄と名乘る。橘奈良(なら)麻呂(まろ)(七二七~七五七)は諸兄の嫡子で、父の後を繼ぎ二代目の橘氏長者となるが、父の時代から確執があった藤原仲麻呂(七〇六~七六四)の暗殺を企て、それが露見し、獄死する(橘奈良麻呂の亂)。橘島田麻呂は、奈良麻呂の子で、『日(に)本(ほん)紀(き)略(りゃく)』(編者不詳/一一世紀後半から一二世紀ごろに成立)が引用する『日(に)本(ほん)後(こう)紀(き)』(「六國史」の第三)逸文卷二六弘仁八(八一七)年八月戊午朔(一日)條に、「正一位橘諸兄之曾孫正五位下兵部大輔島田麻呂之女也」と、正五位下兵部大輔に任ぜられた旨が記されている嶋田麻呂(生没年不詳)のことと思われる。
 次に、橘公業(きみなり)(生没年不詳)であるが、橘諸兄、橘奈良麻呂、橘嶋田麻呂の三人が直系の血縁關係で七世紀後半から八世紀の人物であるのに對し、公業は鎌倉初期の武將で、嘉禎二(一二三六)年に本領伊豫國宇和郡を西園寺公經(きんつね)(一一七一~一二四四)に讓り(實際には公經が幕府に願い出て强引に横領した)、肥前に移っている。橘諸兄、橘奈良麻呂、橘嶋田麻呂は敏達の後裔であるが、公業については、敏達後裔の橘則光(のりみつ)(九六五~?)の子・季通(すえみち)(生没年不詳)の五世孫とする説もあるものの、伊豫橘氏(越智(おち)氏)の橘遠保(とおやす)(?~九四四)の子孫とする説もある。
 さて橘公業の本姓といわれる伊豫越智氏であるが、伊豫一宮・大山祇(おおやまづみ)神社(愛媛県今治市大(おお)三(み)島(しま)町宮浦)社家の三島大(おお)祝(はふり)家も越智氏後裔といわれ、別(べっ)宮(く)大山祇神社(愛媛県今治市別宮町三丁目)は、大寶三(七〇三)年、越智(おちの)玉(たま)澄(ずみ)が大三島の大山祇神社(愛媛県今治市大三島町宮浦)から勸請したという。
 越智氏が奉戴する大山祇神社の祭神・大(おお)山(やま)積(つみ)神について『釋日本紀』(卜部兼方(生没年不詳)著/一三世紀成立)が引用する『伊豫國風土記』逸文「乎知郡御嶋」の項は、「坐神御名大山積神……仁德世 此神自百濟國度來坐而 津國御嶋坐」と、「仁德の世、百濟から渡來して津國(つのくに)の御島(みしま)に座した大山積神を、乎(お)知(ちの)郡(こおり)(越智郡)の御(み)島(しま)(瀬戸内海にある三島諸島)に勸請した」旨を記している。『伊豫國風土記』が、大山積神が百濟から渡り來て鎭座したと記す御島とは、攝津國の三嶋江(みしまえ)(大阪府高槻市三島江)邊りの淀川に岬のように突き出ていた川中島を指し、定説では鎭座地は三嶋江にある三嶋鴨神社(大阪府高槻市三島江二丁目/主祭神 大山祇神 事代主神)であるといわれ、菅原道眞を祀る上(じょう)宮(ぐう)天滿宮(高槻市天神町一丁目)から南へ五㌔ほどの地點になる。
 潮見神社と菅原氏は、祭神の一人・橘公業を介してかろうじて繋がるのだ。

 寶飯郡と三島神というと直接の繋がりは見出せないが(『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」拾遺一「砥鹿神社考」の説明で述べたように、砥鹿神社は、三島神の東遷と關係があるように思われるが)、遠州には、山犬信仰で有名な山住神社(浜松市天竜区水窪町山住山)を始め、三島神を祀る社はポピュラーなものだ。
 井伊谷(いいのや)(浜松市北区引(いな)佐(さ)町井伊谷)を本貫とする井伊氏も、その出自や菩提寺・萬松山龍(りょう)潭(たん)寺(じ)(浜松市北区引佐町井伊谷)の本尊や由緒、境内にあったという渭伊神社が鎭座する字名や裏山の名から、三島神を奉じた氏族と考えられる。
 そのほか、文久の大喧嘩で有名な、遠州森の祭りが行われるのも、三島神社(周智郡森町森)だ。
 その森町は、三島神社を中心に古着の町として發展した。
 古着屋について、江戸の三甚内の一人・鳶澤甚内には、以下の逸話がある。
 鳶澤甚内は、元小田原北條家家臣であったが、家康が江戸に入ったころには盗賊になっており、死罪になるところを家康に許され、盗賊の取り締まりに當たったという。鳶澤甚内は、一人で盗賊を取り締まるのは、難しいことだから、屋敷地を頂き、そこに手下を住ませ、取り締まりに當たりたいと。また江戸には古着を商う者がいないことから、古着の獨占を許して欲しいと願い出た。家康は日本橋に屋敷を輿え、鳶澤甚内はそこで古着市を開いたという。この鳶澤甚内の屋敷が輿えられた地が現在の中央区日本橋富沢町で、かつては鳶澤町と呼ばれていたという。

 既述のように、私の家は、曾祖父・柴田庄(しょう)五(ご)郎(ろう)(一九一五年七月二九日逝去)亡き後、祖父・銀(ぎん)治(じ)(一九〇三・六・二四~一九八五・四・七)が親方を繼ぐも、露天商が博徒と一皍夛になり暴力團化してしまうことを嫌うまで露天商の親方であった。
 祖父がいうには、露天商の親方の家は、桶屋か古着屋であったという(私の家は桶屋であった)。
 つまり、露天商の親方は、桶屋や古着屋を生業とし、六斎市などの定期市では、桶の販賣や古着の商いで生計を立てていたのである。
 露天商というと、縁日などのハレの露店をイメージするが、江戸、京、大坂の三都や名古屋などの消費都市を除き、一般大衆が日用品を調達するには、定期市であり、露天商の軸足も定期市に置かれていた。
 祖父が露天商と一皍夛になったという博徒であるが、博徒は基本的に無宿人の系譜に屬する。無宿人は人別帳に記載されていない者をいい、當然、通行手形等は持っていない。持っていないゆえ、旅籠などの宿泊施設に宿泊することが出來ない。一夜の宿と一杯の飯(一宿一飯)を乞うため、自身が無宿人になった經緯を述べたのが仁義なのだ。無宿人ではそもそも製品の保管等に支障が生じる。博徒と露天商は別物なのだ。露天商が仁義を切るなど無知も甚だしい。
 また縁日に焦點を當てる餘り、大道藝が露天商の全てのような研究も多いが、そもそも藝は商いではない。
 大道藝人や門附藝人などの中には、非人頭が鑑札を輿え、乞(ごう)胸(むね)頭を介し、管轄された者もいた。こうした大道藝や門附藝と露天商を混同し、渥美清(一九二八~一九九六)の出生地が、乞胸頭が支配した三大貧民窟の一つ下谷万年町の隣の下谷車坂町であったことと、渥美の芸名のいわれ等から、山田洋治は、自身が監督を務めた「男はつらいよ」の主人公の名を車寅次郎とする心証が形成されたのだろう。山田は車寅次郎の名は車善七とは關係ないと否定しているが、その歯切れの悪い説明から、山田が非人と露天商を混同していたことは明らかだ。山田の罪は重い。  


Posted by 柴田晴廣 at 15:12Comments(0)牛窪考(増補版)

2022年03月11日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明20(拾遺五補遺1)

 徐福の子孫が秦氏を名乘ることなどあり得ず、日本列島に徐福が渡って來た可能性など、百パーセントないと斷言していいが、秦氏自體については、太秦(うずまさ)の蜂岡山廣(はちおかさんこう)隆(りゅう)寺(じ)(京都市右京区太秦)、伏見稻荷大社(京都市伏見区深草藪(ふかくさやぶ)之(の)内(うち)町(ちょう))、松尾(まつのお)大社(京都市西京区嵐(あらし)山(やま)宮(みや)町(ちょう))等の建立にかかわり、信仰のみならず、技術、藝術など、古代から日本列島に大きな影響を輿えて來た。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」では、そんな秦氏についての論考であり、前半の「非農耕民と秦氏――東三河を中心に」では、『彈左衞門由緒書』で、秦氏を祖とする、關八州穢多頭・彈左衞門家は東三河出身であることの證明、後半の「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」では、潮見神社(佐賀県武雄市橘町大字永島)に傳わる蚩(し)尤(ゆう)の眷屬ひょうすべの傳承を考察するとともに、秦氏が傳えたといわれる蚩尤は神農氏の子孫といわれるが、その神農を祀る露天商の正しい実態を論じ、人口に膾炙した誤った露天商についての言説を質した論考である。

 彈左衞門家は、關八州の穢多・非人のみならず、役者などの藝能者も支配していたが、役者については、寶永五(一七〇八)年、房州で興行の準備をしていた、京都の絡繰(からくり)師・小林新助と彈左衞門家の手代が、その支配を巡り、トラブルになり、小林新助が訴えを起こして、勝訴し、彈左衞門の支配から脱する。
 この一件を目にして、彈左衞門支配からの脱出を試みて、町奉行に提訴したのが江戸淺草溜(あさくさだめ)の非(ひ)人(にん)頭(がしら)車(くるま)善(ぜん)七(しち)だ。
 天保一〇(一八三七)年、町奉行の求めに應じて提出した『淺草非人頭車千代松由緒書』には、「先祖善七儀は 三州あつみ村出生ニて 乍恐御入國之砌 淺草大川端邊に 小屋補理相煩罷在候處 慶長十三申年中 町奉行米津官兵衞樣 土屋權右衞門樣 御勤役之節 非人頭被仰附」とあり、車家は、家康が關東に移封された天正一八(一五九〇)年に、淺草大川端邊りに住し、慶長一三(一六〇八)年に非人頭に任命されたことがわかる。
「三州あつみ村」という村はないが、舊渥美郡内の植(うえ)田(た)には、車(くるま)神社(豊橋市植田町字八尻/田(た)原(はら)街道(国道二五九号線の前身)と梅田川(二級河川)が交わる邊り)が鎭座し、この車神社から梅田川を一㌔ほど上流に遡った對岸邊り(現豊橋市立芦原小学校附近/野(の)依(より)街道と梅田川が交わる邊り)はかつて渥美郡高(たか)師(し)村字車(くるま)と呼ばれていた。
 江戸には車善七のほか、品川の松右衞門、深川の善三郎、代々木の久兵衞の三人の非人頭がおり、車善七が江戸の非人を總括し、品川の松右衞門がそれに次いだ。主に、江戸の北半分を車善七が、南半分を品川の松右衞門が支配し、深川の善三郎は車善七に、代々木の久兵衞は品川の松右衞門に屬していた。この品川の非人頭の松右衞門も、先祖は三河出身の浪人・三河長九郎で、寛文年間(一六六一~一六七三)に芝非人頭となり、松右衞門と改名したという。
 幕閣を始め、周りを三河以來の地縁で固めた家康である。車善七や品川の松右衞門が非人頭に登用されたのも、家康が三河以來という出生地主義を重視したからだろう。一人・彈左衞門のみが、鎌倉由比ヶ濱出身というのも妙なものだ。
 その彈左衞門家であるが、初代集房(?~一六一七)と二代集(シュウ)開(カイ)(?~一六四〇)が同一人物ではないかとされるなど、江戸初期のころについては不明な點が多い。江戸初期の集房が初代というのも、それ以前は、江戸ないし關東にいた痕跡がないということだろう。
 加えて彈左衞門家は、關八州竝びに、それに隣接する伊豆全域、甲斐國都留郡、駿河國駿東郡及び陸奧國白川郡をも支配したが、なぜか關八州に隣接しない三河國設樂郡の一部を支配した。
 以上の事績から、彈左衞門家も三河出身、さらにいえば、東三河出身だったと考えられる。
 設樂郡の一部のみを支配したことからすれば、彈左衞門家は、東三河四郡を支配していたわけではなく、東三河全域を支配した穢多は別にいた。
 江戸淺草溜の車善七家は、三河の渥美郡の出であるが、渥美郡は、江戸時代には、奧郡(おくのこおり)と呼ばれた邊境の地であった。
 實際、「延喜式神名帳」では、寶飯郡六座(新城市大宮字狐塚(舊南設楽郡)鎭座の石座(いわくら)神社を含む。設樂郡は延喜三(九〇三)年に寶飯郡から分かれる)に對し、渥美郡及び八名郡はそれぞれ一座のみ、『三河國内神名帳』には、百六十二所の社が載るが、このうち東三河は百十四所、その内譯は寶飯郡六十二所、設樂郡十一所、八名郡二十六所、渥美郡十六所、『和(わ)名(みょう)類聚(るいじゅ)抄(しょう)』二〇卷本の一二部「國郡部」に載る鄕の數も、寶飯郡が十二、設樂郡が四、八名郡が七で、渥美郡が六だ。
 これらの資料から見ても、東三河四郡の中心は、寶飯郡であり、東三河四郡を統括した穢多は、寶飯郡にいたと考えられる。
 車家も彈左衞門家も、この寶飯郡にいた穢多の配下にあり、車家は同等のはずの彈左衞門家に支配されるのは、我慢ならないとの思いから、訴訟に踏み切ったのではないかと思われる。

 彈左衞門家配下の關八州を含む東國の被差別部落では、白山妙理權現堂と東光寺という寺號の寺院を祀るという。
 豐川天王社(豊川市豊川西町)の「笹踊歌」の一節には、「天王の 奧の院の東光寺は 福佛でまします」とある。「天王の 奧の院」とあるように、東光寺は、豐川天王社の奥の院に當る。この寶飯郡豐川村の東光寺について、『三河国宝飯郡誌』は、「東光寺跡 豊川字計通ニ在リ。浄土宗ナリ。信長治世ノ頃廃寺トナル」と記している。現在東光寺跡は、東光公園(豊川市東光町三丁目)となっており、東光町一丁目から四丁目の町名は、東光寺があった名殘りだ。
 その東光寺跡から、東南に五百㍍ほどの位置には、白山妙理權現堂(豊川市西(にし)豊(ゆたか)町一丁目)が鎭座し、白山妙理權現堂から東南東に百㍍ほどのところには、白山妙理權現の本地佛である十一面觀音菩薩像を祀る「出口の觀音樣」と呼ばれる御堂(谷汲山美濃寺(淨土宗)/豊川市東豊(ひがしゆたか)町二丁目)が建っている。
 既述のように、豐川天王社の「笹踊歌」は、「天王の 奧の院の東光寺」の一節を有するが、牛頭天王と東光寺の關係について記せば、牛頭天王は、元々祇園精舎(インド北部にあった佛教の聖地)の守護神で、最初播磨國明石浦(あかしうら)(兵庫県明石市)に埀迹し、次いで同國廣(ひろ)峯(みね)(廣峯神社/兵庫県姫路市広峰)に遷り、その後、京都東山の北白川東光寺(現岡崎神社(京都市左京区岡崎東天王町))から、貞觀一一年ないし元慶年中の間(八六九~八八五)に祇園觀慶(かんけい)寺に遷ったとされる。祇園觀慶寺の感神院(京都市東山区祇園町北側)は、牛頭天王とその后の頗梨采女を祀るが、一五世紀初頭に成立した『神道集』は、「祇園社の本地佛は、男體を藥師如來、女體を十一面觀音菩薩」とする。
 藥師如來は、東方淨瑠璃世界に坐し、正式には、藥師瑠璃光如來といわれる。東光寺の寺號は、東方淨瑠璃世界の東と、藥師瑠璃光如來の光にちなむもので、東光寺を寺號とする寺院の本尊は、藥師如來である。
 ここで十一面觀音菩薩について記せば、六觀音の一つで、修羅道を化益する菩薩である。六道輪廻の六道は元々五道で、五道の中には修羅道はなく、修羅は天道に含まれていたが、人道の下に落とされた。被差別民の誕生を思わせる譚だ。被差別民が十一面觀音菩薩が權(かり)の姿で現れた白山妙理權現を信仰の對象とするのも、修羅道の誕生逸話からだろう。
 十一面觀音菩薩を本地とする白山妙理權現を信仰の對象とする被差別民について、林(はやし)屋(や)辰三郎(たつさぶろう)(一九一四~一九九八)著『歌舞伎以前』は、「官戸、官奴婢が、社寺などの莊園領主に隸屬して、武器生産にたずさわり領主の需要に應じ……その一部の人々は、山門の末寺である感神院すなわち祇園社に隸屬し、境内ちかくに弓矢町をつくっていたが……その生産の餘暇、弓(ゆ)弦(づる)の餘剩生産品が市中にも需要があるところから、ツルメセという呼聲と共に之をうりさばいたのであって、これが祇園の犬(つ)神人(るめそ)にほかならない」と、述べている。
 明治に入り、伊呂波地名に附け替えられた豐川村の字名であるが、東光寺跡から南に六百㍍ほど邊りは。かつて矢作の字名であった。彈左衞門家は、この矢作を本貫としたのだろう。
『三河国宝飯郡誌』は、東光寺のほかにも西光寺(浄土宗/宇通)、豊川山西岸寺(曹洞宗/止通)という廢寺を記しており、いずれも「前同断廃寺トナル」と、東光寺と同じころに廢寺となった旨を述べている。武田軍の東三河侵攻に伴う燒き打ちにより、廢寺になったのだろう。
 家康は、信長が義昭を追放した二年後の天正三(一五七五)年、遠州諏訪原城(島田市金(かな)谷(や)城山町)を武田氏から奪うと、牧野康成及び德川四天王の筆頭・酒井忠次(一五二七~一五九六)の配下にあった松平家忠(一五五五~一六〇〇)を城番とし、諏訪原城を牧野城と改名する。この改名は周の武(ぶ)王(おう)(?~紀元前一〇二一)が殷の紂(ちゅう)王(おう)を牧野で破ったとの故事及び城番・牧野康成(一五五五~一六一〇)の苗字によるものとされ、牧野氏らは、武田氏が滅亡する天正一〇(一五八二)年まで牧野城の守備に當たった。三河がこうした状況の中で、東光寺は廢寺になったのだ。
 なぜ再建されずに、廢寺になったかを考えるに、矢作にいた彈左衞門の先祖は、牧野康成に隨い遠州に移り、家康の關東移封に伴い、江戸に居を移したと推測される。遠州に新開地を求め、江戸に居を移したのは、彈左衞門家初代・集房の時代だ。

 話を彈左衞門家支配から脱するため訴訟を起こした、車善七家に戻せば、結局敗訴し、車家は彈左衞門家支配から脱することは出來なかった。車善七が彈左衞門相手に繰り返し起こした訴訟が結審した當時(享保六から七(一七二一~一七二二)年)の町奉行は、北町が中山時春(一六五一~一七四一)、南町は大岡裁きで有名な大岡忠相(一六七七~一七五一)であった。
 大岡家は、八名郡宇利鄕黑田村字大岡(新城市黒田大岡)を本貫とするが、そこから南に一㌔ほどの八名郡下宇利村字林添(新城市富岡林添)に車神社が鎭座する。先に記したように車家は、渥美郡植田の車神社と關係があるだろう旨述べたが、兩社とも、創建を含め、由緒がはっきりしない。しかも全國で車を社號とする社はこの二つのみだ。
 假に大岡がこの兩社の關係を含め、車家の出自等を詳しく知っていたとなれば、忠相が思い描く判決が可能だったはずだ。
 結審から十三年後の享保二〇(一七三五)年には、忠相の知行地に豐川村が加わる。忠相への論功と、豐川村に彈左衞門の祖先がいたことの痕跡を消すため、豐川村を忠相の知行地に加えたと推測される。
 圓福山妙嚴寺(豊川市豊川町)の鎭守豐川稻荷は忠相が信仰したことにより全國區となるが、妙嚴寺は彈左衞門家の故地・矢作の地に建つ。妙嚴寺は元々、圓福原といわれた現在の豊川商工会議所(豊川市豊川町辺(へ)通(どおり))邊りにあったのにだ。豐川稻荷が全國區になったのも、矢作にあった彈左衞門の祖先がいたことの痕跡を消す、忠相の作業に協力したことによるのだろう。

 彈左衞門は、豐川村矢作ではなく、鎌倉由比ヶ濱出身とした江戸幕府であるが、日光東照宮がある日光は、觀世音淨土を意味する梵語"Potalaka"に二荒(ふたら)の漢字を當て、二荒が「にこう」と訓まれるようになり、日光の字が當てられたという。家康の誕生譚は、煙嚴山鳳來寺(新城市門谷字鳳来寺/本尊 藥師如來)の藥師十二神將の寅神將の化身というものだ。藥師十二神將の化身を東照權現として松たのが日光東照宮だ。
 觀世音淨土に藥師如來を配したのは、おそらく信長の影響だろう。信長の周りにも、藥師如來と十一面觀音菩薩が散見する。織田家は越前二宮・劔神社(福井県丹生郡越前町織田)の神主を出自とするが、劔神社の祭神も牛頭天王である。
 天臺座主信玄の署名のある書簡に第六天魔王と署名し、返信した信長である。三十三觀音の一つ瑠璃觀音は他化自在天と同視される。瑠璃觀音の名からは藥師瑠璃光如來と觀世音菩薩が聯想される。
 信長は意識的に、自分の周りに藥師如來と觀世音菩薩を配したのだろう。  


Posted by 柴田晴廣 at 16:19Comments(0)牛窪考(増補版)

2022年03月09日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明19(拾遺五2)

 徐福が日本に來たと、はしゃいでいるおめでたい輩が、その根據とする、『義楚六帖』は、東夷の倭は、姓氏の違いも佛法の何たるかもわかっていない旨が書かれているに過ぎない話から、空海ないし空海が開宗した眞言宗が佛法から見て、いかにおかしなものかに話が脱線したが、話を菟足神社に設置された「菟足神社と徐福伝説」なる説明板に話を戻す。
 説明板の内容を要約すれば、①熊野に渡來した徐福一行は、この地方にも移り住み、豊橋市日色野町には、「秦氏の先祖は、中国から熊野へ渡来し、熊野からこの地方に来た」とのいい傳えがある。②『牛窪記』には、「崇神の時代に、紀州手間戸から徐福の孫の徐氏古座侍郎が六本松に上陸し、本宮山麓には秦氏が多くいる」旨の記述がある。③菟足神社の縣社昇格記急碑に、「天武の白鳳一五年四月一一日に、秦石勝(いわかつ)がいまの場所に遷座した」旨の記述がある。④『今昔物語』には、菟足神社の風祭の猪の供犧についての記述があるが、生贄神事は中国的である。との四つのことを記し、結びとして、三河と熊野とは古くから海路による往來があり、熊野信仰の修驗験者により、あるいは小坂井は交通の要所であり、東西を往來する人により、徐福の故事が傳わった、としている。

 説明板の最初に記載される豊橋市日色野町には、「秦氏の先祖は、中国から熊野へ渡来し、熊野からこの地方に来た」とのいい傳えがある、との言説について、山本紀綱著『日本に生きる徐福の伝承』に載る、山本の義姉に宛てた近藤信彦の書簡では、「秦の徐福が五百人の少年らとともに三河湾の六本木というところに来航着船し、その子孫はそこに定住して秦氏を称し繁栄した……その祭神(祖神)は、中国の神とみえ、古来その祭礼には豚猪等の犠牲(いけにえ)を供え、その社の近くに菱木(ひしき)野(の)というところがある」と記すが、東三河に調査に訪れた山本は、同書で、「今までのところ、三河湾をかこむ東三河地方(現在の小坂井町・御津町などを含む地方)では、徐福渡来の伝説に直接つながる伝承や遺跡などと称するものは見当たらない。また菟足神社宮司川出清彦氏のお知らせにも、「当地方の古老、隣接の平井・日色野・前芝地方にも心当たりの方々に聞き合わせましたが、徐福の伝説は目下のところないようです。尚心がけて居ります。云々、」ということであった」と、近藤の見解を裏付けるものは何もなかった旨を述べている。
『三河国宝飯郡誌』、『神社を中心としたる寶飯郡史』のいずれにも、日色野が徐福傳來地との記述もなければ、日色野が秦氏の關係地との記述もないのだが、近藤は何をもって、日色野を徐福傳來地との心証を形成したのであろうか。
 その心証形成には、近藤が住職を務めた龍運寺がある豊橋市船町出身の大口喜六(一八七〇~一九五七)が著した、『國史上より觀たる豐橋地方』の「この銅鐸の發見地が大體に於て古來秦人の傳説地と關係を有するのも決して偶然となすべきではないと言ふのである……特に寶飯郡の御津地方には、秦の徐福が始皇帝の命を受け、不老不死の藥を求めて蓬萊島に到つたと云ふ……秦人の傳説と銅鐸、この關係は、結局離るべからざるもののやうに思はれる」との言説が大きく影響したと思われる。
「この銅鐸の發見地」とは、豊川市伊奈町松間の畑をいうが、最寄りの集落は、伊奈ではなく、日色野になる。
 つまり、日色野が、徐福傳來地との言説は、大口喜六、近藤信彦の自己幻想なのだ。

 次に、説明板に掲載される『牛窪記』の徐氏古座侍郎については、そもそも、その舞臺は、長山熊野權現(豊川市下長山町西道貝津)であって、菟足神社に傳わるものではない。
 この言説の成立経緯を考えるに、熊野權現神主の神保氏の存在が大きいだろう。
 神保氏は、本姓惟宗で、上野國多胡郡辛科鄕神保邑より起る。惟宗は、讚岐國香川郡を本貫とする秦(はたの)公(きみ)で、元慶七(八八三)年、秦公直宗や弟の直本始め一族十九人が惟宗朝臣を賜輿されたことに始まる。神保氏は秦氏であっても、熊野から來たわけではないのだ。
 徐氏古座侍郎が上陸したという六本松について、大島信彦著『愛知県宝飯地方の徐福伝説⑵ 御津湊なる澳の六本松いずこ』は、比定地として、豊川市御津町御馬を挙げ、参考として、蒲郡市竹(たけ)谷(や)町にも六本松という地があったとしている。
 この竹谷や蒲形(明治八(一八七五)年、寶飯郡西郡村と合併し、寶飯郡蒲郡村となる)を本據とした一族に鵜殿氏がいる。西郡村の上(かみ)ノ(の)鄕(ごう)城(蒲郡市神ノ郷町森)は、鵜殿城とも呼ばれ、鵜殿氏の居城であった。鵜殿氏の本姓は、秦氏ともいわれ、紀伊國牟婁郡鵜殿邑より起る。
 ところが、永祿三(一五六〇)年、桶狹間の戰いで、今川義元(一五一九~一五六〇)が討たれると、義元の妹を母とする城主・鵜殿長照(ながてる)(?~一五六二)は孤立し、上ノ鄕城は陷落。長照は、父の長持とともに討ち死にし、長照の子の氏長(うじなが)(一五四九~一六二四)と氏次(うじつぐ)(?~一六〇〇)は捕らえられ、上ノ鄕城は、久松俊勝(としかつ)(一五二六~一五八七)の居城となる。
 話を長山熊野權現神主・神保氏に戻せば、牧野成春(なりはる)(一六八二~一七〇七)が吉田藩主だった寶永三(一七〇六)年に、成春の求めに應じて、長山熊野權現の由緒を提出するも、神領が召し上げられている。由緒に疑義があったということだろう。牧野家に由緒を提出した神保重綱が、六本松の参考地である竹谷をも領した、鵜殿氏の出自をヒントに、徐氏古座侍郎の譚を創作したのだろう。
 徐氏古座侍郎の譚は、『牛窪記』(元祿一〇(一六九七)年ごろに成立。作者は不詳)、『牛窪密談記』(元祿一四(一七〇一)年成立。中神善九郎行忠(?~一七一一)著)に載るが、「菟足神社と徐福伝説」なる説明板が、菟足神社に設置されるまでは、この二書に載る以上ものではなく、長山熊野權現が鎭座する長山全體の共同幻想に昇華したといった譚ではなかった。

 三つ目の菟足神社の遷座は、秦石勝が主導したという點について、山本紀綱著『日本に生きる徐福の伝承』に載る、山本の義姉に宛てた近藤信彦の書簡では、「そこから約二里離れて式内の古社菟足神社(小坂井町)があり、またその一里ほど離れたところに菟足神社の元宮と称する小社がある。菟足神社はその創始者が秦氏と伝えられている」とある。
『三河国宝飯郡誌』は、「菟足神社の」の項で同旨の記述がある「社傳本録」を採録するが、『神社を中心としたる寶飯郡史』は、第一篇第四章第一節を「穗國造と菟足神社」と題し、十頁に亙り紙面を割いているが、秦石勝の名は全く出て來ないのみならず、秦氏についても全く言及していない。しかも『神社を中心としたる寶飯郡史』は、寶飯郡神職會擧げての事業であり、卷末「神社を中心としたる寶飯郡史編纂の事業を終へて」九頁には、「本書編纂關係者」として「菟足神社々司川出綱吉」及び「故菟足神社々司本會々長川出直吉」の名も擧がっているのにだ。
 つまり、菟足神社の遷座はもとより、秦氏が菟足神社に係っていたとは、寶飯郡の神職の誰もが思ってもいなかったのである。

 最後に、風祭の猪の供犧について、山本紀綱著『日本に生きる徐福の伝承』に載る、山本の義姉に宛てた近藤信彦の書簡では、「その祭神(祖神)は、中国の神とみえ、古来その祭礼には豚猪等の犠牲(いけにえ)を供え、その社の近くに菱木(ひしき)野(の)というところがある。思うに、菱木の垣でかこんで犠牲のものを祭礼のときまで飼育したものとみえる。三河の国司大江定基がそのいけにえの残忍なありさまを見て厭世の心をおこし、出家して天台宗の僧となり、後唐土に留学して寂照法師となったことは、古来有名な史伝である(今昔物語・古今著聞集等参照)」とあるが、柳田國男(一八七五~一九六二)著『掛神の信仰に就て』(明治四四(一九一一)年刊)は、猪贄について柳田は「國神ノ風祭ニ豬ヲ生ケナガラ神ニ供スル」と記している。つまり風祭は國神の祭儀であって大陸風の祭儀ではないのだ。
 考えても見えて欲しい。猪の供犧を祭事とした菟足神社の"utari "には、アイヌ語で同朋の意味がある。中国的な祭事ではなく、諏訪の御頭祭、奥三河や遠州山間部の鹿射神事やシシウチと同樣の狩獵に基づく神事なのである。
 なぜに近藤信彦は、猪の供犧を大陸的と考えたか首を傾げる。猪の供犧が大陸的なら、大江定基(九六二?~一〇三四)は、わざわざ猪の供犧が行われる大陸に渡たるであろうか。さすが、近藤信彦も徐福が日本列島に來たとはしゃぐおめでたい輩の一人だ。
 猪の供犧の名殘りか、菟足神社の風祭を始め、国の重要無形民俗文化財に指定された豊橋の鬼祭り、県指定無形民俗文化財の牛久保の「若葉祭」、曲亭馬琴(一七六七~一八四八)が、花火を天下一と賞贊した吉田の祇園、綱火が県指定無形民俗文化財の豊川進雄神社の例祭、山車が海に入る三谷祭、豊川市篠束(しのづか)町、豊川市伊奈町の祭禮、吉田町裏十箇所の一つ新錢町の白山權現で、かつて行われていた花祭りの神幸には、獅子頭が隨伴する。かように菟足神社周邊は狩獵文化が色濃く殘る地域なのだ。近藤はこうしたことに気付かなかったのか。思考をするという訓練が出来ていないのだろう。

 山本の義姉宛に書簡を送った近藤信彦は、多門山淨慈院で生まれた。淨慈院のある花田町の地名は、明治一一(一八七八)年、渥美郡花ヶ崎村と同郡羽田(はだ)村が合併して出來た渥美郡花田村を起源とする。淨慈院は舊羽田村にある。その羽田村は、『和(わ)名(みょう)類聚(るいじゅ)抄(しょう)』(承平年間(九三一~九三八)に源(みなもとの)順(したごう)(九一一~九八三)が編纂した辭書。一〇卷本と二〇卷本があり、國語學者の龜田次郎(一八七六~一九四四)は二〇卷本を後人が増補したものとしている)二〇卷本の一二部「國郡部」に記載される渥美郡幡(ハ)太(タ)鄕の比定地の一つである。
 その羽田村からほど近い、吉田宿表町十二町の一つ田町に鎭座する神明社(豊橋市湊町)には、山田宗徧(一六二七~一七〇八)が、池泉回遊式の蓬莱(ほうらい)庭園を築いている。徐福は不老不死の藥を探しに蓬莱山に向かったとされる。
 さらに、羽田村の南・牟呂(むろ)村には、秦氏に出自を持つともいわれ、紀州牟婁(むろ)郡を本貫とする鵜殿氏が築いた牟呂城(豊橋市牟呂公文町)があった。徐福が上陸したと傳わるのは、紀州牟婁郡だ。
 小坂井周邊より、飽海川對岸の羽田村附近の方が、徐福と結び附く逸話は多い。
 もっといえば、隣の遠州には、「六國史」の第四『續日本後紀』卷一七の承和一四(八四七)年八月己酉(一七日)條に、「遠江國蓁原郡人秦黒成女一産二男一女 賜正税稻三百束及乳母一人」との記述、『日本紀略』(一一世紀後半から一二世紀に成立 編者不詳 全三十四卷)前篇十四の弘仁一一(八二〇)年二月丙戌(一三日)條に、「配 二遠江駿河兩國 一新羅人七百人反叛 數 二人民 一 燒 二屋舎 一 二國發 レ兵撃 レ之 不 レ能 レ勝 盗 二伊豆國發 一 乘 レ船入 レ海 發 二相模武藏等七國軍 一 勠 レ力追討 威伏 二其崒崒 一」の記述、「延喜式神名帳」遠江國蓁原郡の項に載る敬滿神社の祭神・敬滿神は秦氏の祖・巧滿王(孝武王の子で弓月君の父)のことだとする説もある。徐福渡來の下地は、東三河以上に揃っている。それでも、徐福渡來傳説は生まれなかった。
 つまり、菟足神社の徐福伝説は、偶然が重なって誕生したものなのだ。
 なお、愛知県立大学、中京大学及び愛知淑徳大学非常勤講師で、日本徐福協会顧問、中国・韓国の徐福研究団体の顧問等を務め、『徐福伝説考』(一九九一年、一季出版発行)、『徐福論』(二〇〇四年、新典社発行)の著者でもある逵(つじ)志保氏に、「反論があれば」との旨を添え、「檢證 東三河の徐福伝説」を改訂の度に送っているが、いまだ何一つ反論はない。つまり日本徐福協会を始め、東アジアの徐福研究団体には、徐福が日本列島に渡って來たという證據を何一つ持ち合わせていないのだ。  


Posted by 柴田晴廣 at 05:53Comments(0)牛窪考(増補版)

2022年03月08日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明18(拾遺五1)

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」は、四半世紀前に突如として菟足神社(豊川市小坂井町宮脇)に設置された「菟足神社と徐福伝説」という、説明板で展開される、いわば都市伝説といえる言説の成立過程等を檢證した論考である。
 このいわば都市伝説といえる小坂井の徐福伝説について、豊川市で大島内科クリニックを開業し、東三河の歴史にも造詣が深い大島信雄医師は、一九九四年一月豊川医師会発行『豊川医報』八一号の『愛知県宝飯地方の徐福伝説⑵ 御津湊なる澳の六本松いずこ』で、「小坂井に徐福伝説が残っているということも、小坂井に蓬莱山という名前の山があることも、全く初耳でした」と率直な意見を述べている。
 大島氏は、同著で、小坂井の徐福伝説の淵源を山本紀綱著『日本に生きる徐福の伝承』にあるとするが、厳密には、『日本に生きる徐福の伝承』(一九七九年発行)には、山本の前著『徐福 東来伝説考』に対する多聞山淨慈寺(豊橋市花田町字百北)の生まれで、橋本山龍運寺(豊橋市船町)の住職・近藤信彦(一八九五~一九七九)が、山本の義姉(山本の妻の姉で、山本の妻の姉の夫が近藤の愛知縣立第四中學校(現愛知県立時習館高等学校)の同級生)宛ての令状に、多分にリップサービス的な小坂井の徐福伝説が裏付けも曖昧なままに記されていたのみである。
 ところが、山本の『日本に生きる徐福の伝承』をもととした、内藤大典 坂井孝之 久冨(くどみ)正美の編んだ『弥生の使者徐福――稲作渡来と有明のみち――』(一九八九年「弥生の使者徐福刊行会」刊)が根據の提示なきまま小坂井を安易に同書の「徐福渡来伝説の主要分布地図」に載せてしまい、その読者が当時の小坂井町役場並びに小坂井町教育委員会に本を持ち込み、小坂井が分布図に載っていると問い合わせたことがきっかけで、小坂井町教育委員会が、「菟足神社と徐福伝説」なる説明板を菟足神社に設置したのである。
 身も蓋もないいい方になるが、旧小坂井町は、これを観光資源として利用としたが、利用出来ず、説明板だけが残ったということだ。つまりこの説明板の内容は根拠がないのである。その傍証になるのが、旧小坂井町が豊川市に合併された後の豊川市制七十周年記念事業(豊川市の市制施行は昭和一八(一九四三)年六月一日)として豊川市が発行した『新版 豊川の歴史散歩』(豊川市教育委員会編集)だ。『新版 豊川の歴史散歩』は、この徐福伝説を菟足神社の項ではむろん、A五版縦書き三一〇頁の同書のどこにも採り上げてはいないのだ。

 そもそも「菟足神社と徐福伝説」のみならず、日本列島に殘る「徐福伝説」は、あくまで傳説という共同幻想であって、史實ではない。
 日本の氏姓及び家名ないし苗字と儒教圈の姓氏とは異なる。列島の「徐福伝説」では、なぜか徐福が日本に來て、秦を名乘ったとするが、儒教圈での姓氏の概念からは、徐福が秦を名乘るなどあり得ないことだ。
 たとえば、『義楚六帖』(顯德元(九五四)年成立)卷二一「國城州市部」四三で、「日本の僧弘順大師に聞くところによると」と斷わりを入れているのも、儒教圈での姓氏の概念では、徐福が秦を名乘ることなどあり得ないからだ。
『義楚六帖』を撰した釋義楚は、その名乘りのとおり、僧である。ところが、日本に弘順大師といった僧侶はいない。釋義楚は、おそらく弘法大師空海(七七四~八三五)を意識して、弘順大師が語ったことにしたのだろう。では、僧の釋義楚が弘順大師のモデルとなった空海をどう見ていたのだろう。
 空海への大師號は、『義楚六帖』が成立する二十七年前の延長五(九二七)年に、當時の眞言宗のトップの東寺長者の觀賢(かんげん)(八五四~九二五)の奏上により醍醐(八八五~九三〇/在位八九七~九三〇)から贈られる。その奏上の内容は、金剛峯寺の奥の院で、空海が禪定を續けているというものだが、具體的には、空海は、金剛峯寺の奧の院で生き續け、髮が伸び續けており、それを剃髮したというものだ。事實、現在も高野山では、朝夕、奧の院に空海の食事を運んでいる。この奏上は、佛教の教義の前提となる輪廻轉生の否定に繋がる。その佛法の根底を覆す空海に、醍醐は、佛法を弘めたとの弘法の大師號を輿えたのだ。空海に弘法の大師號を輿えた醍醐は既述のように地獄に落ちた。
 加えて、釋義楚は中国人である。髮が伸び續けており、それを剃髮したという言説から、釋義楚は、殭屍をイメージしたのではないか。殭屍は、長い年月を經過しているにもかかわらず、腐亂していない屍をいうが、ミイラのように乾燥していない點で異なる。中国では、屍が長い時間が經過すると、惡靈になって人に害を輿えるという俗信がある。その惡靈空海に大師號を贈る蠻行と、既述のように、儒教圈なら、當然理解しているべき、徐福が秦を名乘るはずもないとの常識すらわかっていない東夷の倭を馬鹿にした笑い話を中国人の僧侶の手による佛教類書は述べているに過ぎないのだ。始末が悪いのは、このクニにはいまだに馬鹿にされていることも讀み取れず、徐福が來たとはしゃいでいるおめでたい輩がいることである。
 この觀賢の奏上による不老不死ともとれる空海の逸話と、その空海の殭屍がある場所が、紀州であること、その紀州の熊野では、補陀(ふだ)落(らく)渡(と)海(かい)が行われていたことが相まって、言説のキャッチボールにより、やがて徐福の上陸地點は熊野との言説が生まれたのだろう。
 では、なぜ當時の眞言宗のトップの東寺長者の觀賢は、佛法に反するような奏上を行ったのか。その原因は、ひとえに僧侶・空海のというより、人間・佐伯眞魚の狹隘な性格に基づくものと思われる。空海は二十年の留學期間を勝手に二年で切り上げ、歸國している。これは一緒に留學した靈(りょう)仙(せん)(七五九?~八二七?)の實力を恐れてのことだ。靈仙の歸國が叶っていれば、空海は歴史の闇に埋もれていただろう。空海は、この焦りから、東寺(京都市南区九条町)を金光明四天王教王護國寺祕密傳法院(祕密傳法院の院號は衆生濟度からは程遠いものだが)として再編し、眞言密教以外の僧侶の出入りを禁止し、自らが選んだ弟子のみを出入りさせ、自ら選んだ經典や原典のみを教本として修行させている。結果、佛法が何かもわかっていない觀賢が眞言宗のトップに就く事態に陷いるのだ。
 この佛法に反する觀賢の奏上を修正したのが、法然に歸依し、淨土教を信仰したという、高野山蓮華三昧院を創いた明(みょう)遍(へん)(一一四二~一二二四)である。明遍は、空海の禪(ぜん)定(じょう)を生(しょう)身(じん)往生と解釈したのだ。せっかく明遍が軌道修正したにもかかわらず、眞言宗では、南無大師遍照金剛などと馬鹿げた唱えを行っている。
 南無は、歸依を意味し、南無阿彌陀佛、南無釋迦牟尼佛は、阿彌陀如來、釋迦如來という佛に歸依することを誓い、成佛することを、南無妙法蓮華經は、法華經に歸依することを誓い、成佛することを願うものだ。確かに佛法僧の三寶に歸依するというが、僧に歸依するのは、生前の僧侶に歸依し、佛法を授かり往生を願うものだ。南無大師遍照金剛の遍照金剛は、唐で、惠果(七四六~八〇六)から空海に輿えられた灌頂名だ。空海生前に歸依した者はともかく、空海没後に菩薩でも如來でもない空海に歸依したところで、成佛出來るはずもない。それを眞言宗では熱心に唱えているのだ。他宗派の僧侶が、それでは成佛出來ないと發言したとの話も聞かない。わが國の佛教者の理解はこの程度のものなのである。
 もちろん、空海が南無大師遍照金剛などと唱えていたはずもなく、唱えていたとすれば、南無毘盧遮那佛だっただろう。加えて置けば、觀賢の奏上は空海の遺志にも反するものだ。たとえば、「六國史」の第四『續日本後紀』卷四は、空海が没した四日後の承和二(八三五)年三月庚午(二五日)條に、「敕遣内舍人一人 弔法師喪 并施喪料 後太上天皇有弔書曰 眞言洪匠 密教宗師……不能使者奔赴相助茶毘」と、淳(じゅん)和(な)(七八六~八四〇)が高野山に宛てた院宣に空海の荼毘式に關する記載がある。加えて、初代東寺長者の實(じち)慧(え)(七八六~八四七)が著した書簡の中に空海を荼毘に附したと解釋出來る記述がある。實慧は空海の十大弟子の一人で、讚岐國出身の佐伯氏で空海の一族だ。空海が荼毘に付されることを望んでいなかったのであれば、書簡にその旨が記されたであろう。觀賢は空海の遺志を無視ているのみならず、史實をも捻じ曲げているのである。
 既述のように、わが國の佛教者の佛法の理解は低い。これが影響してか、学者の空海の評価も首を傾げる。たとえば、空海晩年の著作『三教(さんごう)指歸(しき)』は、儒教、道教、佛教の比較思想論との評価が一般的だ。ところが、『三教指歸』の序文の延暦一一(七九二)年、大學寮に入寮後、遣唐使に選ばれる延暦二二(八〇三)年の間の山岳修行中に、一沙門から「虚空(こく)藏(ぞう)求(ぐ)聞(もん)持(じ)法(ほう)」を授かり、それを修め、室戸岬の御厨人窟(高知県室戸市室戸岬町)で瞑想をしているとき、口に明星が飛び込んで來たと綴る空海の自己幻想から、儒教、道教、佛教を比較しようにも、空海に道教の知識と理解があったとは思えない。八(はっ)將(しょう)神(じん)の一柱の大將軍は、陰陽道で明星を神格化したのものであるが、大將軍の本地は、第六天(だいろくてん)魔(ま)王(おう)波(は)旬(じゅん)ともいわれる他化自(たけじ)在天(ざいてん)だ。第六天魔王波旬といえば、佛道修行を妨げる魔王である。その佛道修行を妨げる第六天魔王波旬と繋がりが深い明星が口に飛び込んで來たなどと語るのは、佛道修行を極めようとする者の言動とは思えないからだ。
 親鸞(一一七三~一二六三)も五十三歳の砌、明星天子からの「善光寺から一光三尊佛を迎え、高田に本寺を建立せよ」との夢のお告げにより、嘉祿元(一二二五)年に、眞宗高田派の本寺專修(せんじゅ)寺(栃木県真岡市高田)を建立している。明星天子からお告げを受けた親鸞は、佛道修行の妨げとなる妻帶、蓄髮を實踐し、淨土眞宗では、皍身成佛を手段として衆生の救濟の途を開き、『歎異抄』三章の「惡人正機」として結實させ、第六天魔王波旬の問題を解決した。
 また日蓮(一二二二~一二八二)も、千光山清澄寺(千葉県鴨川市清澄)で、その本尊・虚空藏菩薩に、「日本第一の智者となし給え」と、願を掛けた。明けの明星は、虚空藏菩薩の化身とされるが、日蓮は、第六天魔王波旬について、佛道修行者を『法華經』から遠ざけようとして現れる魔であると説くも、純粹な『法華經』の信者には、力を貸す天魔と、説いている。また日蓮が現した『法華經』の曼荼羅にも、第六天魔王波旬が描かれている。『佐渡御(さどご)勘(かん)氣(き)抄(しょう)』で、「海邊の旃(せん)陀羅(だら)か子なり」と稱した日蓮は、惡人正機に目が向いたであろう。そして道元(一二〇〇~一二五三)著『正(しょう)法眼藏(ほうげんぞう)』の「諸惡莫(しょあくまく)作(さ)」の、「いはゆる諸佛 あるいは自在天のことし 自在天に同不調なりといへとも 一切の自在天は諸佛にあらす」の文言から、『法華經』卷八收録の二五品「觀世音菩薩普門品」(通稱『觀音經』)の一節「應以大自在天身 得度者 皍現大自在天身 而爲説法」の大自在天を他化自在天に置き換え、第六天魔王波旬を純粹な『法華經』の信者には、力を貸すとの言説を思い附いたのだろう。
 第六天魔王波旬との關係を解決した親鸞や日蓮と異なり、空海は明星が第六天魔王波旬と繋がるということすらわかっていない。
 これと關聯して、空海の經歴から、眞言宗での儒教の比重は大きい。男尊女卑の儒教の影響から、眞言宗では、ことさら女人禁制にこだわるが、女人禁制については、道元が、その著『正法眼藏』の「禮拜得髓(らいはいとくずい)」で、「日本國にひとつのはらひこあり いわゆるあるひは結界の境地と稱し あるひは大乘の道場と稱して 比丘尼 女人等を來入せしめす」と指摘している。
 空海及び空海が開宗した眞言宗について、佛法という觀點から、早急に見直すべき必要があろう。これが衆生濟土に繋がる。  


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2022年03月07日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明17(拾遺二~拾遺四)

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺二「牛久保と山本勘助」では、武田信玄(一五二一~一五七三)の軍司として知られる山本勘助(?~一五六一)と牛久保との關わりについての論考だ。
 牛久保の住人・中神善九郎(?~一七一一)が、元祿一四(一七〇一)年に編んだ『牛窪密談記』には、勘助は八名郡の賀茂(賀茂ではより具體的に鶴卷(豊橋市賀茂町の字出口を中心とした集落)で生まれ、牛久保の大林家に養子に入ったとする。
 勘助については、同時代の資料にその名が現れるわけではなく、その實態は判然とせず、非實在説までもあるが、松浦(まつら)鎭(しげ)信(のぶ)(肥前平戸藩四代藩主/一六二二~一七〇三)が著した『武功(ぶこう)雜記(ざっき)』に、「勘介は、三河の者で山縣昌景(一五二九~一五七九)が抱えている」旨が記されていることから、その實在が證明される。山縣昌景は、武田流の軍學書『甲陽軍鑑』の編者とされる。
『武功雜記』の著者の松浦鎭信の母・充(みつ)は、牛久保城主・牧野康(やす)成(なり)(一五五五~一六一〇)の娘である。康成と勘助に面識のあった可能性は低いが、牛久保時代の勘助を知る者は、康成の近くにいたはずだ。本當に山本勘助がこの世に存在していなかったのであれば、鎭信は、康成談として「山本勘助などという者は『甲陽軍鑑』がでっちあげた架空の人物である」と斷言したであろう。
 しかも、『松浦(まつうら)の太鼓』(安政三(一八五六)年、江戸森田座初演の『新臺(しんぶたい)いろは書初(かきぞめ)』の十一段目を三代目勝諺藏(かつげんぞう)(一八四四~一九〇二)が改作、明治一五(一八八二)年に大阪角座で初演)の「松浦(まつうら)邸の場」での松浦(まつうら)候の「三(さん)丁(ちょう)陸六(りくむっ)つ 一(いっ)鼓(こ)六足(ろくそく) 天(てん)地(ち)人(じん)の亂(らん)拍(びょう)子(し) この山鹿流の妙傳を心得ている者は 上杉の千坂兵部と 今一人は赤穂の大石 そしてこの松浦じゃ」の臺詞のとおり、松浦鎭信、千坂高房(一六三九~一七〇〇)、大石良雄(一六五九~一七〇三)とも、武田流兵法とは對立する山鹿流兵法の創始者・山鹿素行(一六二二~一六八五)の門弟である。
『武功雜記』は、勘助の子の來歴を記し、その勘助の子が、『甲陽軍鑑』の眞の作者と述べるが、松浦鎭信は、以上の經歴を持つことから、鎭信の記す勘助の子の來歴は信じるに足り、勘助實在を裏附けるといえる。
 賀茂から牛久保の大林家に養子に入った勘助であるが、牛久保の寺町(豊川市牛久保町八(や)幡口(わたぐち))の武運山長(ちょう)谷(こく)寺(じ)(淨土宗)には、勘助の遺髮塚がある。
 ところが、牧野家菩提寺の法月山光輝庵(豊川市牛久保町光輝町二丁目/淨土宗)が所藏する『牛久保古城圖』には、長谷寺は、現在のJR飯田線牛久保駅前邊りに描かれ、八幡口の長谷寺邊りには、勘助が養子に入った大林家が描かれる。勘助遺髮塚は元々、現在地の八幡口、すなわち勘助が養子に入った大林勘左ヱ門屋敷の位置に建てられたことになる。おそらく、勘助の總角(あげまき)を大林勘左ヱ門家が保管しており、訃報を知ってその總角を自家の庭に埋め、供養として五輪の塔を建てたのだろう。私は、遺髮塚が建てられた大林屋敷跡に長谷寺が遷って來たと考える。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺三「『牛久保古城圖』考」では、勘助が養子に入った大林家が、現在の長谷寺の位置に描かれる、『牛久保古城圖』がいつの時代の牛久保の町割りを描いたものかを檢證した論考である。拾遺三「『牛久保古城圖』考」を執筆した動機は、拾遺二「牛久保と山本勘助」で、展開した遺髮塚が建てられた大林屋敷跡に長谷寺が遷って來たとの主張が正しいか否かを證明するためである。
 結論からいえば、『牛久保古城圖』に描かれる寺院の創建年等から、『牛久保古城圖』は、慶長八(一六〇三)年以降に作圖されたものであるが、永祿八(一五六五)年から同一二(一五六九)年の間の牛久保城下町割を描いた原圖を基に作成された信憑性の高い地圖と考えられ、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺二「牛久保と山本勘助」で、展開した遺髮塚が建てられた大林屋敷跡に長谷寺が遷って來たとの私の主張を裏附けるものである。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺四「善光庵の創建と再建」では、前半の「善光庵の創建と善光寺如來」では、『牛久保古城圖』で、武田軍の東三河侵攻により、燒き討ちの對象になり、廢寺となった天臺寺院・一色山聖圓寺の南西隣に描かれる聖圓寺末寺の善光庵の創建(永祿年中(一五五八~一五六九年)に建立されたと傳わる)と、善光寺池(豊川市牛久保町字水金剛(豊川市立天王小学校の南)邊りが比定される)で、發見された善光寺如來との關係及び善光庵の衰退ないし廢寺について考察し、後半の「潮音道海と『大成經彈壓事件』」では、善光庵を補陀山善光庵という臨濟宗黄檗派の寺院として再建した潮(ちょう)音(おん)道(どう)海(かい)(一六二八~一六九五)と、『大成經彈壓事件』について檢證した。
 善光庵は、元祿二(一六八九)年に黄檗派の寺院として再建されるが、債権者の潮音道海は、「大成經彈壓事件」により流罪になるも、牧野成貞(一六三四~一七一二)の預かりとなり、自らが住職をしていた黒瀧山不動寺(群馬県甘楽郡南牧村大塩沢)に身柄を移される。
 寛文六(一六六六)年、五代將軍綱吉(一六四六~一七〇九)がまだ館林十萬石の藩主だったころ、潮音道海は、館林藩上屋敷で綱吉と、綱吉生母の桂昌院(一六二七~一七〇五)に謁見し、二人は潮音道海に歸依する。罪が輕減され、牧野成貞の預かりになったのも、綱吉が潮音道海に歸依していたからだ。牧野成貞は、上野館林藩家老で、後に綱吉の側用人になる。
「大成經彈壓事件」は、天和元(一六八一)年、幕府が江戸室町の書肆(しょし)・戸嶋屋惣兵衞が出版した『大成經』を僞書と斷定し、版元の戸嶋屋惣兵衞及び戸嶋屋に『神代皇代大成經』を持ち込んだ長野采女、潮音道海竝びに僞作を依頼したとされる伊雜宮の神職らを處罰し、『神代皇代大成經』を始めとする由緒の明らかでない書物の出版・販賈を禁止した事件と説明される。
 善光庵が再建されるのは、この事件の八年後のことであり、しかも再建された場所は、創建當時の牛久保町蓮臺ではなく、牛久保町猿屋敷(現在の住所表示では豊川市南大通二丁目)である。『牛久保古城圖』に描かれている「牧野市右ヱ門屋敷」あるいはその東隣の「牧野勘四郎屋敷」邊りであることから、牧野成貞がこの再建に關わっていたと考えられる。
『大成經』の創作者は、善光庵の再建者の潮音道海とされるが、『大成經』の直接の僞作者は、長野采女であり、その種本となる「高野本」の作者は、山鹿素行(一六二二~一六八五)と考えられる。
 直接の僞作者の長野采女は、上州箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)主・長野業(なり)政(まさ)(一四九一~一五六一)の曾孫を稱するが、實際は伊勢長野氏に出自を持つと考えられる。
『大成經』は、近世の僞書の濫觴といえる書であるが、『中朝事實』を著した山鹿素行の著を種本にしたことから、近世の僞書の方向性が決まった。その方向性は、「記紀」と軌を一にする皇國史觀である。まことに殘念なことだ。  


Posted by 柴田晴廣 at 06:21Comments(0)牛窪考(増補版)

2022年02月18日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明16(補遺三7)

『三河國吉田領風俗問状答』の記述から、城内天王の祇園祭の車樂上には、笠を冠り、目から下を赤布で隱し、唐子衣裝を着た大太鼓の叩き手が乘っていたことがわかる。その大太鼓の叩き手は、稚兒舞の伴奏者でもあった。風祭の神幸の折には、「隱れ太鼓」とともに、鞨鼓稚兒が舞を舞う。
 豐川天王社の祭禮の宵祭では、「隱れ太鼓」は演ぜられず、合掌という曲に合わせ、女兒が御幣を擔ぎ、巫女舞を舞い還御の行列を迎える。
「若葉祭」の大山車上では、「隱れ太鼓」のみが行われ、稚兒舞等が行われることはない。これも、尸童(よりまし)としての性格が强い神兒が乘る神兒車があったから、お山車上で稚兒舞等を舞う必要がなかったからだろう。「若葉祭」では、大太鼓の叩き手が、稚兒舞の伴奏者から解放されていたことが、「隱れ太鼓」の確立に役立ったと思われる。私が、大太鼓の叩き手に、「笹踊」と同樣の衣裝を着させたのは、吉田であろうが、「隱れ太鼓」を確立したのは「若葉祭」と考えるのは以上からだ。

 既述のように、「若葉祭」の神兒は、男兒が巫女の格好をしている。この巫女の格好をした男兒の神兒について、『鄕土趣味』主宰・田中緑紅(一八九一~一九六九)は、同誌大正十三年六月號に寄稿した『うながうじ祭雜話』で、「東三河一圓の風である」と述べている。
 田中緑紅が「東三河一圓の風である」と述べるように、御油及び赤坂では御子(みこ)、三谷祭では神子(みこ)、国指定無形民俗文化財の「豊橋の鬼祭り」では、神樂(かぐら)兒(こ)、二川八幡社の祭禮では、字は異なるが、神樂(かぐら)子(こ)と呼ぶ、巫女の格好をした男兒が、以上のほか、風祭や上長山若宮八幡社の祭禮でも、巫女の格好をした男兒が、舞を舞う。「豊橋の鬼祭り」の神樂兒については、『三河國吉田領風俗問状答』にも記されている。
 三谷祭の神子は、からくりの惠比壽人形が載る、西新屋の惠比壽山車に乘る(神子が惠比壽山車上で舞うことはなく、舞は八劔神社と、お旅所の若宮神社の廣前のみで奉納する)。
 三谷では、その惠比壽山車は、寛政七(一七九五)年建造と傳えるが、寛政七年は、建造した年ではなく、購入した年だろう。
 その理由を述べて行こう。
 第一に道路事情を無視して海に入らなければ、お旅所まで行けないような山車を造ることはあり得ないからだ。海の危險を知る三谷ではなおさらだ。
 次に惠比壽山車は、大正五(一九一六)年に、高欄彫刻と車體部を殘しての大改造されたのだが、その高欄に施された、鳩と菊花が透かし彫りの彫刻が擧げられる。八劔神社と鳩や菊花との關聯は思い浮かばないし、西新屋には、吹上神明社(蒲郡市三谷町須田)が鎭座するが、こことの關聯も考えられないからだ。
 ここからは、惠比壽山車が三谷で造られたものではないことの傍證になるが、惠比壽山車に懸裝される、内陣幕(一般に水引幕といわれるものだが、柱の内側に張られる點で水引幕と異なる)が擧げられる。この内陣幕は、紫の縮緬に桐紋が白拔きされているが、八劔神社の神紋は、熱田神宮と同じ、桐笹で、桐紋ではないからである。
 惠比壽山車の大改造を手掛けたのは、牛久保の井桁屋(豊川市牛久保町常盤の現㈲花田工務店)の棟梁・花田彌市だ。
『牛窪密談記』の「若葉祭」の起源を説く記述に「牧野古白入道 或歳四月八日此若宮ヘ參詣アリシニ 其ノ主今川氏ノ許ヨリ使節到來シテ曰 當國渥美郡馬見塚村ノ邊ニテ要害ノ地理ヲ見立 一城ヲ築クヘシト 命令承リテ大ニ悦ヒ (中略)取リアヘス庭前ノ柏葉ニテ神酒ヲ獻シ 其身モ快ク三獻ヲ傾ケヌ 猶喜ビノ餘リ 家紋ノ菊桐ヲ柏葉ニ替ヘヌルハ此所以ナリト」と、牧野家の元々の家紋は、菊桐であった旨が示されている。惠比壽山車の高欄の鳩と菊花の彫刻の菊や内陣幕の桐紋は牧野氏ゆかりのモチーフだ。加えて「若葉祭」は牛久保八幡社の例祭であるが、八幡神の使いは鳩である。
 實際、「若葉祭」で使われる祭具には、これらのモチーフが使われている。
 たとえば上若組の大山車の破風には白鳩の彫刻が施されているし、その腰幕は、右に桐紋、左に菊花紋、「隱れ太鼓」の稚兒が冠る笠も菊花と桐紋の金具があしらわれている。輿興車になるが上若組の囃子車の天幕(一般にいう水引幕)は、惠比壽山車と同じ、紫縮緬に白拔きの桐紋だ。そして牛久保の井桁屋は、上若組の構成町内の内若子にある。
 西若組の大山車の腰幕にも、牧野家ゆかりの桐紋が施されている。
 屋根の上に惠比壽人形が載るという共通點等を考慮すれば、惠比壽山車は、上若組の大山車を購入し、海に入れるように改造したのだろう。
 ここで、大山車と三谷祭の山車の構造上の相違點について記せば、三谷祭の山車の二層部分は昇降可能ではなく、通し柱で、二階の天井と屋根の一部が取り外せ、屋根裏から屋根に登れるようになっている點で共通する。異なるのは、前面に山車柱が附き、二層部分の柱が丸柱、車輪が内輪、楫棒が進行方向に對し、埀直方向に取り附けてある點だ。楫棒が進行方向に對し、埀直方向に取り附けてあるのは、車輪の一つが海底の窪みに嵌まり込んだときに、嵌まり込んだ車輪を浮かせ易くするためだろう。地勢の影響によるのなのだ。
 このように大山車と三谷祭の山車は共通點が多い。
 惠比壽山車の内陣幕については、既に記したように、紫縮緬に白拔きの桐紋であるが、他の三輛=昭和一〇(一九三五)年建造の上ヶ嶋の劍山車、大正一〇(一九二一)年建造の中屋敷の三蓋傘山車、明治二六(一八九三)年建造の中濱の花山車の内陣幕は、全て紫縮緬に菊花紋と桐紋が白拔きされている。
 昭和一〇(一九三五)年建造の上ヶ嶋の劍山車、大正一〇(一九二一)年建造の中屋敷の三蓋傘山車を建造した大工は、惠比壽山車を大改造した花田彌市の子・嘉親だ。
 上ヶ嶋の劍山車の舊車の柱は、丸柱ではなく、角柱で、文政二(一八一九)年の建造と傳えられる。文政二年は、三谷で建造された年ではなく、上ヶ嶋が神兒車の舊車を購入した年だろう。惠比壽山車と同樣に、海に入らなければお旅所まで行けないような山車を造ることはあり得ないからだ。
 上ヶ嶋の劍山車について、竹内尚武著『三谷祭(後編)』は、「転売する際には、塗ってあった金箔を全て落とし、つぶしにした。そしてさらにもうけたという。金箔はそれほどに厚く塗られていた」と記してある。金箔を厚く塗るということはあり得ないから、高蒔繪などで、金粉をふんだんに使っていたのだろう。劍山車の舊車は、それほど豪華なものだったわけだ。
 神兒車を所有する神兒組の町内裏町には、隱居所としてではあるが、江戸日本橋富澤町で質商を營む大黒屋(伊東家)が、住んでいた。大黒屋の財力からすれば、豪華な神兒車を造ることは極々容易なことだ。山車柱附きの山車の原型も、尸童としての性格が現在よりも强かった神兒が乘る神兒車の舊車にあったのだろう。
 おそらくこの神兒車の豪華さが禁令の遠因になったと推測する。
 文政二(一八一九)年、豪華な山車柱附きの神兒車の舊車を三谷の上ヶ嶋に賈却したことにより、禁令は解除されたと考えられる。その五年後の文政七(一八二四)年には、上若組を構成する「外若子、内若子の兩組が江戸より囃子の師匠を招き町内の若衆に教えた」という記録が殘る。江戸の囃子の師匠は、藝能一般に通じ、曲作りにも長けた者なのだろう。これが人形振りの「隱れ太鼓」の誕生に繋がったのだろう
 一度整理すれば、禁令が出された時期は、上若組が大山車の舊々車を三谷の上ヶ嶋に賈却した寛政七(一七九五)年以降、神兒組が神兒舞を始めたと傳えられる寛政一二(一八〇〇)年以前と考えられる。上若組が大山車の舊車を天保七(一八三六)年まで手放さなかったのは、禁令が出された時期と、禁令の直接の對象は、神兒車であり、大山車ではないとの認識があったからだろう。

 ここで、上若組を構成する「外若子、内若子の兩組が江戸より囃子の師匠を招き町内の若衆に教えた」という文政七(一八二四)年の直近の出來事について見てみよう。
 荒俣宏は、落語『駱駝の葬禮』と、「若葉祭」の人形振りの「隱れ太鼓」と關聯があると考えていたようだが、「看々踊」の流行は、文政三(一八二〇)年の春、大坂あみだ池の荒木(あらき)與(よ)次(じ)兵衞(べゑ)座で唐人に扮した踊り手が「看々踊」を踊ったことがきっかけになり、「看々踊」の流行とともに「九連環」の替え唄も盛んに作られ、文政五(一八二二)年二月には、江戸町奉行から禁令が發せられる騷ぎにまで發展した。
 一方、『駱駝の葬禮』の駱駝であるが、大坂で「看々踊」が上演された翌年の文政四(一八二一)年に和蘭陀から將軍家齋(一七七三~一八四一)に駱駝が獻上されたが、家齋が、駱駝の受け取りを拒否し、駱駝は見世物小屋に出され、しかも、駱駝の見世物には、唐人の格好をし、チャルメラなどを吹く囃子方が附隨したことも多かったようだ。
 突然、話は人形淨瑠璃に飛ぶが、元祿一四(一七〇一)年の松の廊下刃傷事件の直後にこの事件を題材に近松門左衞門(一六五三~一七二五)の手による『東山(ひがしやま)榮(えい)華(がの)舞(ぶ)臺(たい)』が大坂道頓堀の竹本座で上演されているし、赤穗藩淺野家浪人が吉良邸に討ち入った元祿一五年一二月一四日から年明け間もない一月には、京都早雲座で近松作の『傾城(けいせい)三(みつ)の車(くるま)』が、上演される。
「看々踊」の流行の直後に、唐人踊りや見世物小屋の駱駝を取り入れた、人形淨瑠璃や歌舞伎狂言が上演されたこともあっただろう。
 落語『天川屋義平』は、『假名手本忠臣藏』第十段(天川屋見世の場)を基にした演目であるが、逆に『怪異(かい)談(だん)牡丹(ぼたん)燈(どう)籠(ろう)』は、初代三遊亭圓(えん)朝(ちょう)(一八三九~一九〇〇)が、明代の怪異小説集『剪(せん)燈(とう)新(しん)話(わ)』(瞿宗吉(生没年不詳)著)に收録された逸話を飜案し、口演した『牡丹(ぼたん)燈(どう)籠(ろう)』が元である。
 落語もまた人形淨瑠璃や歌舞伎狂言と同樣に、時代を反映していた。初代三笑亭(さんしょうてい)可(か)樂(らく)(一七七七?~一八三三)が、觀客から「人物」「物」「場所」の三つのお題を頂戴し、皍興で演じた、「三題噺」がそれだ。
「若葉祭」の「隱れ太鼓」は、欄干から身を現し、欄干に身を隱すまで、張子の虎のように、絶えず首を支點に頭を左右に振るといった仕草が特徴だ。この張子の虎、文政五(一八二二)年、大坂でコレラが流行し、當時、コレラに、「虎狼痢(コロウリ)」「虎狼(コロウ)狸(リ)」「虎列(コレ)刺(リ)」の字を當てていたことなどから、藥種仲間が多くいた大阪道(ど)修(しょう)町(まち)(大阪市中央区道修町)で、コレラに效くとされた虎の頭骨など十種類の和漢藥を配合した「虎(こ)頭(とう)殺(さっ)鬼雄(きう)黄圓(おうえん)」という丸藥を調合し、罹患者に施すとともに、丸藥の名前に因み、張子の虎を配布したことから、廣く知られるようになったという。
 こうした時代の流れの中で、文政七(一八二四)年、「外若子、内若子の兩組が江戸より囃子の師匠を招き町内の若衆に教えた」のである。
 同じ文政七年には、初代坂東しうか(一八一三~一八五五)が初代坂東玉三郎の名で市村座の舞臺を踏んでいる。そのとき玉三郎は唐子の所作を務めたという。唐子の所作とは、唐子の仕方(しかた)舞(まい)のことで、仕方舞とは、身振りや手眞似で表現する舞あるいは物眞似の所作を交えた舞をいう。
 以上の説明で、充分だと思うが、これで、「若葉祭」の人形振りの「隱れ太鼓」誕生の舞臺が整ったのである。  


Posted by 柴田晴廣 at 06:38Comments(0)牛窪考(増補版)

2022年02月17日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明15(補遺三6)

「若葉祭」の大山車の停め置かれる位置と、曳行ルートが似る風祭の大字小坂井の大山車の車輪には、寛政三(一七九一)年四月と記されている。私は、車輪に寛政三年四月と記されている小坂井の大山車は、西若組の舊車と考える。
 當時菟足神社の氏子地であった寶飯郡下地村の住人・山本貞晨が著した『三河國吉田名蹤綜録』の「菟足神社」の項には、「翌十一日祭禮神輿行幸の始元飾鉾車樂等の譯笹踊の事其外末社由縁委細舊記は三河名蹤綜録に載る 依て茲に省」とある。『三河國吉田名蹤綜録』が成立した文化年間(一八〇四~一八一七の初めごろより以前に、大字小坂井は、西若組大山車を購入していたことになる。
 一方、『小坂井町誌』は、「天保四年以来の人形帳を見ると、その人形には三条鍛冶宗近、薩摩守忠度、鎌倉権五郎景政と鳥峯弥三郎、木曽義仲橋弁慶、多賀大明神、熊坂長範物見松、源三位頼政等がのっていて、それが新しい工夫によって、取り替えられたとみられるが、それ以前のことは元禄の人形衣装、延宝九年の古面をはじめ数個の古面があるばかりで、記録は逸して残っていない」大字宿字宿が所有した山車について記している。
 だが、この記述は、大山車についての記述ではないと、私は考える。延寶九(一六八一)年 「以来の」という文言は、文脈から天保四(一八三三)年の祭禮に出していた人形についてまで書いた「人形帳」を意味するものと思われるからだ。つまり、大字宿字宿では、天保四年以前は、大山車ではなく、頻繁に人形を造り變える、人形山を出し物としていたと考えられるのである。
 遠州の森や掛川では、二輪の陸屋根の車の屋上に人形を飾るが、毎年人形を変える。湖西市入出の祭禮に曳かれる太鼓臺では、毎年どころか、その年の祭禮で何度も人形を変える。遠州森には人形の貸し出し業者があるほどだ。
 大字宿字宿の大山車は、上若組の舊車で、おそらく天保四年の風祭後に上若組と大山車の賣買契約を締結し、天保六(一八三五)年の「若葉祭」後に上若組から宿に引渡されたと推測される。上若組の大山車の通し柱に「天保七年申四月吉日」と刻まれ、「再興」の文字がないのは、以上の理由からであろう。

 風祭の大山車は、通し柱ではなく、尾張のからくり山車のように、二層部分が昇降可能になっている。風祭の大山車は、JR飯田線を横断して曳行するが、JR飯田線の前身の一つ豐川鐡道は、大正一四(一九二五)年に、全線電化される。風祭の大山車は、このとき豐川鐡道を横斷するため、昇降可能に改造されたのだろう。
 豐川天王社の東の大山車は、昭和一二(一九三七)年まで曳いていたという。風祭の大山車のようにJR飯田線を横断するわけではないが、二層部分が昇降可能に改造されている。明治二三(一八九〇)年、公道上に、自由に、電信線、電話線が架設出來る『電信線電話線建設條例』が制定される。公道上の電信線、電話線を潛るための改造だろう。西の大山車は、いつまで曳いていたかの記録はないが、同樣の改造がされていることから、『電信線電話線建設條例』が制定される、明治二三年以降も曳いていたと考えられる。
「御輿深川 山車神田 だだっ廣いは山王樣」と謳われた、神田祭は、明治二二年を最後に山車の曳行を中止する。山王祭でも、これ以降曳かれることはなかったから、明治二二年が天下祭での山車曳行の最後となる。一本柱万度型は可倒式になっており、鉾臺型も上層部は昇降可能になっていたことから、電信線、電話線は曳行の障碍にはならないが、『電信線電話線建設條例』が制定された明治二三年には、公道上に馬車鐡道の軌道を敷設出來る『軌道條例』も制定される。天下祭の二輪の山車の曳行には馬車鐡道の軌道が障碍になったのだろう。
「若葉祭」の西若組の大山車の二層部分も昇降可能になっている。これは、『電信線電話線建設條例』が制定された四年後の明治二七(一八九四)年に收藏してあった法幢山上善寺(豊川市弥生町一丁目)が火災に遭い、一部が燒け、碧海あるいは知多半島三河灣側から二層部分を部品として購入し、改造した結果だろう。吉田の車樂を含み、豊川下流域の大山車の二層部分の柱は角柱だが、一つ西若組の大山車だけは丸柱である。この丸柱という點から、碧海あるいは知多半島三河灣側の山車の二層部分を購入したと推測出來る。吉田の車樂を含めた、豊川下流域の大山車の中で、西若組の大山車は唯一屋根の上ではなく、二層部分に大黒天の人形を飾るが、碧海あるいは知多半島三河灣側から二層部分を部品として購入したことにより、屋根の上に人形を飾るのが困難になったからであろう。
 また西若組の大山車の破風には菊花、虹梁には鶴が彫られている。鶴はどう考えても、牛久保八幡社とも、西若組とも關聯するモチーフではない。破風という目立つ部分に氏神とも組ともゆかりのないモチーフを彫刻するとは考えられない。他所から二層部分を部品として購入した理由の一つもここにある。

 話は変わるが、神兒車も禁令の對象、というより、神兒車の舊車こそが、禁令の直接の對象となっていたと考えられるが、神兒車の舊車はどうなったのであろう。
 それを考察する前に、神兒車の舊車がどのようなものだったかを考えて見る。
 天保七(一八三六)年に再興されたという現在神兒組が曳いている神兒車は、唐破風一層四輪の内輪という型式である。
「若葉祭」で、大山車が停め置かれているときに「隱れ太鼓」を演じるのは、神輿以上に、「若葉祭」の神幸の主役といえる神兒車に乘る神兒を迎えるためである。これを迎え打ちという。神兒は男兒が巫女の格好をして、神兒車上や拜殿で、神兒舞を舞う。「若葉祭」が始まれば、終わるまで、神兒が地に足を着けることはない。
 この神兒舞について、地元の牛歩會が昭和一〇年代に書いたと推測される『牛久保私談』「牛久保八幡社の例祭」の項に、「神兒舞は…………………寛政十二庚申年(紀元二四六〇年)から始まつたといふ」とあり、寛政一二(一八〇〇)年に始められたと傳えられる。
 つまり神兒舞を始める前の神兒は、舞を舞わない尸童(よりまし)としての性格がより强い神兒であったのである。その尸童としての性格がより强かった神兒を上から見下ろす形で、迎え打ちを行っていたとは、私はとても思えない。神兒車の舊車は大山車と同樣に、二層の曳山で、その二層部分に神兒が乘っていたと考えるのが妥當だろう。
  


Posted by 柴田晴廣 at 07:05Comments(0)牛窪考(増補版)

2022年02月16日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明14(補遺三5)

 尾張には、からくり山車が出現する以前から、熱田神宮の攝社・南新宮社の祭禮で曳かれた大山といわれる幾層にも櫓を組み、各櫓には松を飾り、最上部に社を置いた曳山や、屋根が附いた二層の山車で、屋根の上には松と人形を飾り、二層部分で藝能を演じ、その囃子方も二層部分に乘る車樂(だんじり)と呼ばれる曳山があった(津島天王祭では車樂は曳山ではなく、舟であり、大山も車樂舟と同様に舟であった)。
 京都祇園祭の長刀鉾などの曳山タイプの鉾は、土臺の部分から屋根を貫いているのに對し、車樂の屋根の上に飾られた松は曳山タイプの鉾の象徴の鉾のように、土臺の部分から屋根を貫いているわけではない。
 この京都祇園祭の長刀鉾には、生き稚兒が乘り、生き稚兒は、神事始めの「吉(きっ)符(ぷ)入(いり)」に、会所二階で腹に小さな鞨鼓を附けて「太平の舞」を披露する。かつては長刀鉾のみならず、どの鉾(船(ふね)鉾(ぼこ)及び傘鉾を除く)にも生き稚兒が乘っていた。現在では、代わりに人形を載せているが、この人形の腹にも鞨鼓が附いている。
 津島天王社の車樂舟には、尸(より)童(まし)としての一人の稚兒が乘り、囃子を奏でるのみであるが、かつては二・三人の稚兒が、腹に鞨鼓を附け、八撥という稚兒による舞樂を奉納していたという。その名殘で現在も稚兒は撥を手に持ち、撥を首の後ろでクロスさせている。車樂も京都祇園祭の鉾の流れを受け繼ぐものといえる。
 尾張一宮・眞(ま)清(すみ)田(だ)神社(一宮市真清田一丁目)の「桃花祭」の車樂や春日井市内(うつ)津(つ)町上町に鎭座する式内内々(うつつ)神社の車樂(御舞臺ともいう)は、その車上で、獅子頭の代わりに扇を載せて舞う「扇獅子」を演じていた。眞清田神社の車樂は二輛一對、内々神社は、一輛のみが殘るが、元は二輛一對であった。熱田神宮の攝社・南新宮社の祭禮でも、大山一輛に對し、小山(車樂)二輛という構成であった。二輛一對という點では、京都祇園祭の鉾以上に、標山の古風を繼いでいるといえる。
 二層部分で「隱れ太鼓」という視覺に訴える藝能を演ずる豊川下流域の大山車は、京都祇園祭の「鉾」を發展させ、室町時代に出現した尾張の「車樂」の系譜に屬するものだ。ゆえに『三河國吉田領風俗問状答』では、城内天王社の大山車を車樂(だんじり)と明記している。
 中で、内々神社の車樂は、「若葉祭」の上若組大山車と似たポロポーションであるが、建造されたのが、上若組大山車が天保七(一八三六)年、内々神社の車樂が天保八(一八三七)年と建造年代が近いこと、内々神社の車樂の建造に諏訪立川流の立川和四郎富昌が携わっていることから、内々神社の車樂の建造には、岡田五左衞門が建造に係っていたからかもしれない。
 参考までに、四日市空襲で燒けてしまったが、名古屋の外縁に當る四日市諏訪栄町鎭座の諏訪神社の祭禮でも、四輛の大山が曳かれていた。
 風祭では、「隱れ太鼓」とともに、二人の鞨鼓稚兒が舞を舞う。
『三河國吉田領風俗問状答』は、吉田の祇園の車樂の上で、「獅子二人十二三歳の小供なり。赤地金襴の狩衣の如きものに指貫の如きものを着て 獅子頭を頭に戴き居 大太鼓をうつ時にいさゝか身を動かすなり 又ちこといふもの二人 子供なり千早衣の如きものに指貫を着 天冠なとといふへき物を冠り 小太鼓をうつをりに舞ふなり 獅子の舞に多く異ならす大太鼓をうつものはかへりて此ちこよりは種々の形をしつゝうつ事なり 其さま其拍子舞樂に類すともいふへし」と、稚兒舞や獅子舞が行われていた旨を記す。
 また同書は、「大太鼓をうつものゝ形は凡サヽ踊りに類す 小太鼓は常の服なり」とも記す。
 豊川下流域の大山車(車樂)は、尾張の車樂を受け繼ぎ、車上で、笠を冠り、唐子衣裝を着た者が大太鼓を叩くという趣向を採り入れたものといえる。そして、それが「隱れ太鼓」を演じるに適したように、獨自に進化したのだろう。

 繰り返しになるが、豊川下流域の大山車(車樂)は、尾張の車樂を受け繼ぎ、獨自に進化したものと思われる。
 いつから、どのような形で、獨自に進化したかを整理しておこう。

 東三河で、最初に尾張の車樂の流れを繼ぐ祭車が登場するのは、吉田の祇園である。
 廣田弘著『東三河における祇園信仰と神事芸能』が引く「吉田神社誌」の記述がそれである。その記述によれば、織田信長(一五三四~一五八二)の重臣・池田恒興(一五三六~一五八四)の次男・池田照政(一五六五~一六一三)が吉田城の城主であった時代(一五九〇~一六〇一)に、車樂二輛が造られた旨を記す。池田照正の時代か否かはともかく、東三河に中世尾張の車樂が最初に登場するのは、城内天王の祇園祭だったのだろう。
 次に吉田で、車樂が確認出來るのは、『東三河における祇園信仰と神事芸能』が引用する「吉田神社誌」の「筒花火は元来、両車上に於てのみ之を放ち、其大なるものなかりしが、元禄中、本町糀屋金兵衛の弟、小倉彦兵衛皮羽織を着して之を為すといふ」との記載である。「吉田神社誌」の「筒花火」が「放」たれた「両車」は、車樂のことであり、元祿年中(一六八八~一七〇四)に車樂があったことが確認出來る。『三河國吉田領風俗問状答』によれば、吉田で「笹踊」が始められるのは、小笠原氏が、吉田城主であった、正保二(一六四五)年七月から、元祿一〇(一六九七)年の間である。
「吉田神社誌」の記載からは、時代は百年餘下るが、文化一四(一八一七)年成立の『三河國吉田領風俗問状答』に、車樂の車上で、大太鼓の叩き手が、「笹踊」の踊り手と同樣に、笠を冠り、目から下を赤布で隱し、唐子衣裝を着ている旨及び稚兒舞や獅子舞が行われていた旨を記す。
 前後するが、それより十年ほど前の文化三(一八一六)年ごろに成立した、山本貞晨(一七七五?~一八二一/吉田宿と吉田川(江戸時代の豊川(とよがわ)の呼稱)を挾んだ對岸の寶飯郡下(しも)地(ぢ)村(豊橋市下地町)の住人)著『三河國吉田名蹤綜録』の繪圖に描かれた上車(吉田宿表町十二町の一つ上傳馬が擔當した車樂)の屋根の上には、「天」の字の形に提燈が飾られ、下車(吉田宿表町十二町の一つ札木が擔當した車樂)の屋根の上には、「王」の字の形に提燈が飾らている。尠し後の時代に奉納された『祇園祭圖繪馬』では、下車の提燈は鳥居の形に變わっている。その繪圖に描かれた車樂の姿から、「隱れ太鼓」が演ぜられる大山車と同型のものが城内天王の祇園祭で停め置かれ、曳行されていたことが確認出來る。その城内天王の車樂は、吉田藩の公金で維持管理されており、廢藩置縣とともに行き方知れずとなる。

 城内天王の祇園祭の車樂の屋根の上に飾られた提燈との關聯になるが、豐川天王社の祭禮の宵祭には、西の大山車の二層部分の前方の二本の柱にそれぞれ十数個の白張提燈を附けた笹竹を結び附けている。また東の大山車は、二層部分の柱ではなく、屋根の中央から白張提燈を附けた笹竹を立てている。東の大山車の屋根の上の提燈は、城内天王の車樂の影響だろう。
 城内天王の車樂の影響が見られる豐川天王社の大山車であるが、松山雅要(まさとし)(一九四四~二〇一三)著『豊川夏祭り山車のルーツ』(「東愛知新聞」一九八九年七月九日付寄稿)は、「西山(山車)は現在の豊川市市田町の伊知多神社から譲り受けたものである」と記す。吉田と市田は、漢字での誤寫は考えられないが、假名(かな)(特に變體假名)で書いてあれば、あるいは誤寫の可能性もなくはない。たとえば「吉田」が「与志多」と表記してあり、最初の文字「与」が擦れていたなどの場合には、「伊知多」と讀み違える場合もあり得るだろう(「志」と「知」については書き手の崩し方により判別が難しいときも多い)。
 また「隱れ太鼓」は、「笹踊」とセットで行われるが、伊知多神社では、「隱れ太鼓」も「笹踊」も行われていた痕跡もない。
 以上を鑑みれば、豐川天王社の西の大山車は、伊知多神社(豊川市市田町宮田)から讓り受けたものではなく、城内天王の車樂を讓り受けたと考えるのが妥當と思われる。形態が同様の東の大山車も城内天王の中古の車樂を買い受けたのだろう。買い受けた時期は、豐川村で大山車を買う餘裕と維持する餘裕が出來る豐川稻荷が全國區になり、寺域の規模が擴大し、村が潤う寶暦(一七五一~一七六三)ごろ以降、より具體的には、豐川天王社で、「笹踊」を始めた寶暦末以降のことと思われる。
 城内天王の中古の車樂を購入した影響からか、神幸の際の車樂(大山車)が停め置かれる位置、曳行されていたと推測されるルートも、城内天王の祇園祭と似る。

 繰り返しになるが、城内天王の祇園祭の車樂が停め置かれる位置及び推定される曳行ルートと豐川天王社のそれは似る。同様に、「若葉祭」と風祭の神幸の際の大山車が停め置かれる位置及び曳行ルートは似る。
 その風祭と大山車が停め置かれる位置及び曳行ルートが似る「若葉祭」の上若組大山車の通し柱の一層部分に、「天保七年申四月吉日」の識語(二〇一七年度の文化庁国庫補助金事業により、通し柱を含む大山車の土臺部分は造り替えられた)がある。
 上若組の大山車は天保七(一八三六)年に建造されているが、上若組が「隱れ太鼓」で使っている太鼓の胴には、「奉上車太鼓安永九歳 庚子夏祭日 外若子町 陶山傳十郎由重」の銘が刻まれている。安永九(一七八〇)年に、上若組を構成する外若子町の陶山傳十郎由重が太鼓を寄進したわけだ。この上若組の太鼓の銘により、上若組は天保七年以前より、大山車上で「隱れ太鼓」を演じていたと推測される。
 西若組の大山車は、文政一二(一八二九)年に再興したと傳えられる。「再興」とは廢れていたものを再び盛んにすることをいう。この辞書的な解釈からすれば、一旦廢されていた大山車を再び建造したという意味になる。
 大山車は二輛一對である。西若組も文政一二年以前から、「隱れ太鼓」を演じており、それを演じる舞臺の大山車を所有していたと考えられる。つまり、西若組は、安永九年から文政一二年の間のある期間、大山車を所有していなかった期間があることから、文政一二年に再興したと傳えているのだ。
 この安永九年から文政一二年の間のある期間、大山車を所有していなかった理由は何か。
 私は、以下で述べるように、禁令であったと考えている。
「若葉祭」の神幸の道中では、各組が衝き廻しを行い、衝き廻しを行った場所では、神兒組は神兒舞を、笹若組は「笹踊」を奉納する。
 ここに衝き廻しとは、幟や提燈屋形に對し、「若葉祭」でダシと呼ぶ、馬印樣の立物を埀直に立て、獨樂のように廻すことをいう。
 禁令が出されたとすれば、代官所からであるが神幸の道中には、代官所跡の立て札も立っている。
 大山車を有する上若組も西若組も、この代官所跡の立て札の前で衝き廻しを行わない。ところが、笹若組は、代官所跡の立て札の前で、衝き廻しを行い、「武運長久御役所も榮えろ 御役所も榮えろ」の歌とともに、「笹踊」を奉納する。ちなみに、神兒組は、この代官所跡前で、衝き廻しを行わないし、神兒舞も奉納しない。
 神兒組の神兒車は、天保七年に再興したと傳わる。神兒組も代官所跡前で、衝き廻しを行わないことを考慮すれば、大山車のみならず、神兒車も禁令の對象になっていたと考えられるのである。というより、後に説明するように、神兒車が直接の禁令の對象であり、大山車は、その煽りで、禁令の對象に含まれたと考えられるのである。
 餘談になるが、代官所跡の立て札の前で、衝き廻しを行い、「笹踊」を奉納する笹若組は、禁令の對象にならなかったれゆえ、その自負が驕りに變わり、補遺一で説明した、大正一〇年の紛擾事件の一因となったのだろう。
  
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Posted by 柴田晴廣 at 07:51Comments(0)牛窪考(増補版)

2022年02月15日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明13(補遺三4)

 尾張のからくり山車で、からくり人形を操作し、その妙技を魅せるのは、晝間に限られ、夜間は山車全體が提燈で飾られる。絲操りなどの間接操法や離れからくりなどの遠隔操法では、夜間は手元が暗く、人形を操れないからである。一方、「隱れ太鼓」は夜晝關係なく、演ぜられる。三河二宮・池鯉鮒(ちりふ)大明神で、西暦の偶数年に開催される本祭の山車文樂も、間接操法や遠隔操法でないため、夜晝の別なく演ぜられる。
 ところが、田原祭では、その祭車は、名古屋型であるにもかかわらず、山車全體が提燈で飾られることはない。外觀が名古屋型に似、からくり人形も載っている、二川八幡社の祭禮の祭車も同樣だ。
 また尾張のからくり山車では、晝間に提燈が飾られることはないが(鳴海八幡宮(名古屋市緑区鳴海町前之輪)及び成海神社(名古屋市緑区鳴海町乙子山)の祭禮という例外はあるが)、田原祭の名古屋型山車及び二川八幡社の祭禮の祭車では、晝間でもその軒先に提燈を飾っている。もちろん、燈(あかり)が點(とも)されているわけではないが。
 池鯉鮒大明神の本祭に曳行される、名古屋型の影響を受けた知立型山車も、晝間から軒先に提燈が飾られている。
「若葉祭」、風祭の大山車も、晝間からその軒先などに提燈が飾られ、「若葉祭」の神兒(みこ)車、囃子車、国府、御油、赤坂の御子(みこ)車及び囃子車、竹島辯才天(蒲郡市竹島町)の祭禮の囃子車、前芝神明社(豊橋市前芝町西)の囃子車、新城富永神社(新城市宮ノ後)の例大祭の山車及び底拔屋臺などにも軒先などに提燈を飾る。
 この晝間からその軒先などに提燈を飾る風習は、東三河のみならず、遠州にも及び、掛塚祭(貴船神社(磐田市掛塚)の祭禮)、濱松祭の御殿屋臺、掛川大祭や森の祭りの二輪屋臺でも晝間から提燈を飾る。
「笹踊」の囃子方が持つ笹に吊るした提燈についてではあるが、生(しょう)田(だ)小平次著『東三河に於ける御神事笹踊』は、「笹踊といふ名稱はその警護(囃方)が、長さ六、七尺の笹附の男竹十二本に(閏年には十三本)各白張提灯一張づヽを吊したのを持ち、又或る神社では、長さ三間餘もある笹附竹に、御神燈と記した白張提灯を吊したもの一對を、行列の先に立てて進む(中略)この笹竹に神が降り玉ふと考へられ、提灯の光はその神靈のゴコウであり、神のシンボルと見らるヽものである」と、記す。つまり大山車や神兒車、御子車は、より依代としての性格を强くし、囃子車も依代の性格を帶びることになる。

 余談になるが、舊東海道沿いの国府(こう)、御油、赤坂の計十二輛の祭車は、唐破風屋根に轅(ながえ)と軛(くびき)が附き、唐庇車のような外觀である。唐庇車は、軸(よこがみ)の兩端に家紋のモチーフになっている源氏車を附け、その軸(よこがみ)の上に唐破風の屋形(人が乘る箱體)を載せた二輪の車である。ところが、国府、御油、赤坂の計十二輛の祭車は、唐破風の屋形の前方下に小振りの車輪が附いている。
 一般に、三輪の祭車は、国指定重要無形民俗文化財の大津祭の曳山や、この地方だと、新城富永神社(新城市宮ノ後)例大祭の山車のように、前方の一輪は、軸(じく)の中央に車輪が附いた軸(よこがみ)の兩端が轅で支えられ、その前方の一輪は、轅と軛、それに屋形に狹まれた空間に收まる。
 つまり国府、御油、赤坂の計十二輛の祭車の屋形の下に取り附けられた「補助輪」は、二輪の祭車に後から附けられと推測され、それが国府、御油、赤坂のスタンダードな祭車になったのだ。
 国府、御油、赤坂で、スタンダードになる前の補助輪のない祭車が、遠州にある。菊川市の廣嚴城山潮海寺(菊川市潮海寺/高野山真言宗)の祇園祭の屋臺や秋葉山下社の麓・春野町犬居地区の祭(浜松市天竜区春野町堀之内鎭座熱田神社の祭禮に二輛、同町領家鎭座の六所神社の祭禮に一輛、同町気田鎭座の南宮神社祭禮に一輛)の計五輛の屋臺だ(赤坂、御油及び国府の三輪の祭車は、腰が幾分高い春野のものより潮海寺のプロポーションに似る)。
 唐庇車は、御所車とも呼ばれるが、遠州で御所車型屋臺といえば、掛川大祭や森の祭りで曳かれる祭車をいい、屋形の屋根は唐破風ではなく、陸屋根で、その陸屋根の上に人形を飾る。
 なぜに陸屋根の上に人形を飾った二輪屋臺を御所車型と呼ぶのだろうか。
 方言分布の解釋の原則假説の一つに方言周圈説がある。この言説は、方言の語や音などの要素が文化的中心地から同心圓状に分布する場合、外側にあるより古い形から内側にあるより新しい形へ順次變化したと推定するものである。
 菊川市潮海寺や浜松市天竜区春野町犬居地区は、御所車型と呼ばれる陸屋根の二輪屋臺の中心地である掛川や森の外側にある。方言周圈説が援用出來るならば、唐庇車型の屋臺が、陸屋根の御所車型と呼ばれる屋臺のプロトタイプということになる。陸屋根の二輪屋臺を御所車型と呼んでいることに鑑みれば、方言周圈説を援用出來るだろう。
 では、なぜに掛川や森のプロトタイプの二輪屋臺が、遠く離れた豊川市の国府、御油、赤坂の祭禮で曳かれるのであろうか。
 国府、御油、赤坂の唐庇車樣の祭車で、最も古いものは、宮(みや)道(ぢ)天神社(豊川市赤坂町宮(みや)路(ぢ))の雨乞い祭で関川地区が曳く御子(みこ)車で、文化年間(一八〇四~一八一八)の建造である。それより尠し前の寛政一二(一八〇〇)年には、三河國の天領を支配していた赤坂陣屋が遠州中泉陣屋(磐田市中泉)の配下となり、中泉陣屋赤坂出張陣屋に格下げになっている。
 赤坂陣屋が中泉陣屋の配下になったことにより、掛川や森で曳かれていた古いタイプの二輪屋臺が、遠州から赤坂に流入し、雨乞い祭で曳かれるようになったのだろう。
 これを裏附ける事柄はほかにもある。
 御油神社(豊川市御油町膳ノ棚)の祭禮で、新丁が緑色と赤色の獅子頭を冠った二人立ちの獅子舞を奉納する。この獅子舞、元々は三人立ちだったと推測される。というのは、奉納はされていないものの、隣の大(おお)社(やしろ)神社(豊川市国府町流霞)の臨時祭に、同社の拝殿に新丁が奉納する獅子舞の獅子頭と同樣の獅子頭が三面飾られているからだ(面の内譯は、緑色の面が一面、赤色の面が二面)。
 緑色の獅子頭(雌獅子)一、赤色の獅子頭(雄獅子)二の三人立ちの獅子舞といえば、三匹獅子舞が思い浮かぶ。三匹獅子舞は、關東を中心に分布する民俗藝能で、太平洋側の西限は、掛川大祭で、瓦町が奉納する「かんからまち」である。新丁の獅子舞は、この「かんからまち」が、傳わったと推測される。これも赤坂陣屋が中泉陣屋の配下になったことが影響したのだろう。
 このように、国府、御油、赤坂の三輪の祭車は、遠州から流入し、それが獨自に進化したと考えられる。
 これとは反對に、遠州の掛塚型屋臺は、東三河の大山車の影響がみられる。東三河の大山車は、屋根の上に人形を飾るため、二層部分の天井の一部が外れ、屋根に登ることが出來る。ところが、屋根の上に人形を飾らないにもかかわらず、掛塚型の屋臺も同樣の構造になっているからだ。
 また濱松祭の御殿屋臺も、「菓子に、大工に、寺のきりしま」と牛久保の過ぎたるものの一つに擧げられた三河大工の筆(ふで)頭(がしら)・岡田家・當主の五左衞門が昭和五(一九三〇)年に濱松八幡宮(浜松市中区八幡町)を造營した折に、鎭座地の八幡町と、その東隣の野口町の二輛の屋臺を造ったのが始まりだ。
 岡田家初代・太郎左衞門(一五四八~一六三六)は、家康から長篠城、濱松城の造營を命じられ、慶長一二(一六〇七)年には、駿府城築城で工匠を務め、同一五(一六一〇)年には、名古屋城築城で、安土城を築いた岡部又右衞門以言(もちとき)(生没年不詳)の孫・岡部又兵衞宗光らとともに造營に携わった。
 また、豐川稻荷の舊本殿(現奥の院)の造營の棟梁は、岡田家八代目當主・久米三郎之昌(一七七一~一八三七)が務めたが、その彫刻は、幕末の左甚五郎と賞賛された立川(たてかわ)和四郎富昌(一七八二~一八五六)の手になる。信州諏訪の立川和四郎富昌が東海地方に進出したきっかけは、岡田家八代當主・久米三郎之昌とともに仕事をしたことにある。知多半島の三河灣側の半田を中心に分布する知多型といわれる山車は、諏訪立川流の彫刻を、その特徴として强調するが、知多型は成立には科だけの影響があったと推測される。

 既述のように、尾張の山車からくりは、夜に演じられることはない。これは採光によるものだ。その採光との關係で、屋根が小振りである。直射日光を避けつつ、手元が暗くなるのを防ぐためである。
 これも既に述べたことだが、尾張のからくり人形が演ぜられる山車の中で、名古屋型といわれるものは、一層部分が上下に分かれており、下部に囃子方が、上部に人形の操り手が乘る。
 尾張でからくり人形が演ぜられる山車は、この名古屋型のように、外觀二層であるが、『帝都物語外伝 機関童子』の作中人物・慶間泰子が、からくり人形に興味を持つきっかけとなった犬山祭で曳かれる車山は、外觀も三層である。犬山祭では、離れからくりのからくり人形を載せる山車も多く、離れからくりでは、胴串を使うことから、高さが必要になるからだ。
 名古屋型の山車の二層部分の前方は一段下がっており、ここに前人形が載り、この一段下がった部分を前棚という。
 東海道五十三次三十九番目の宿場・池鯉鮒宿に鎭座する池鯉鮒大明神の祭禮に曳かれる山車で、人形淨瑠璃が演ぜられるのは、三人遣いが始まった十三年後の延享四(一七四七)年のことだ。人形淨瑠璃を演ずるため、前棚を下げ、ここに太夫と三味線彈きが乘り、正面下段から引出舞臺を出して文樂人形を操る。この前棚を下げた構造を前戸屋という。この前戸屋を有するタイプの山車を知立型という。
 知多型の濫觴である国指定重要無形民俗文化財の潮干祭(神前神社(半田市亀崎町二丁目)の祭禮)の宮本車では、人形淨瑠璃による三番叟が演ぜられる(宮本車の舊車は、文化一〇(一八一三)年建造)。人形淨瑠璃による三番叟が演ずるのは、知立の影響だろう。知立型が、知多半島の三河灣側で、獨自に進化し、前戸屋が前山へと變わり、やがて知多型という、獨自のスタイルが誕生する。
 擧母(擧母藩の藩廳が置かれた豊田市の中心街)で、子供歌舞伎を演じていた舞臺も、知立型の前戸屋が獨自に進化したものであるし、足助(豊田市足助町)の山車で、屋根が附いた出役棚と呼ばれる構造も前戸屋が變化したものだ。
 尾張のからくり山車は、濃尾平野に名古屋型から進化した幾つかのタイプが分布する。濃尾平野の外縁に當る飛騨高山にもからくり山車はある。だが、高山祭の屋臺の濫觴となる神樂臺は、そのモチーフから、天下祭の諫鼓鷄の吹貫の山車の影響とみることが出來るし、京都祇園祭の山鉾のように、見返り幕を懸裝するものもある。元祿五(一六九二)年に、飛騨は天領となり、高山に陣屋が置かれ、律令時代の飛騨は、庸及び調を免じる代りに、木工寮などの官工房の木工労務者として、京都に出向いていた。江戸、京都の影響は、こうした時代的な背景がある。
 現在、春の高山祭(日枝神社(高山市城山)の祭禮)では、三輛の屋臺で、秋の高山祭(櫻山八幡宮(高山市桜町)の祭禮)では、一輛の屋臺のみで、からくりを演じるが、かつては春の高山祭では、十輛、秋の高山祭では四輛の屋臺でからくりが演じられていた。確かに高山祭の屋臺で、からくり人形を演じるようになったのは、尾張の影響であろう。だが高山祭の屋臺の屋根が小振りなのは、からくり人形を演じた結果の收(しゅう)斂(れん)進化といえよう。
 高山祭の屋臺の上層部も昇降可能になっている。名古屋東照宮の祭禮で曳かれた山車は、名古屋城の城門を潛るため、二層部分が昇降可能になっており、名古屋東照宮の祭禮で曳かれた名古屋型山車の影響を受け、城門を潛らない犬山型、知立型等でも、上層部が昇降可能になっている。だがしかし、天下祭で曳かれていた鉾臺型の山車も江戸城の城門を潛るため、上層部が昇降可能となっていた。高山祭の屋臺の上層部が昇降可能となっているのも、一概に名古屋型の影響とみることは出來ない。
 いままで、からくり山車という用語を使って來たが、からくり山車は、からくり人形による舞踊屋臺ともいえるが、人形に息吹が吹き込まれ、魂が宿り、人形が動くことから、山車と考えられたのだろう。
 からくり人形が載っているとはいえ、三谷祭の惠比壽山車は、尾張のからくり山車に分類されるものではない。もちろん豊川下流域の大山車もだ。
  
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Posted by 柴田晴廣 at 07:39Comments(0)牛窪考(増補版)

2022年02月14日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明12(補遺三3)

 繰り返しになるが、補遺三の二つ目の見出し「「若葉祭」の「隱れ太鼓」と尾張の山車からくり」の項では、無形文化財の「隱れ太鼓」について考察したが、三つ目の見出し「豊川下流域の大山車と尾張型山車」の項は、タイトルのとおり、「隱れ太鼓」が演ぜられる、有形文化財の大山車について言及してある。

 ここまで「山車(だし)」の字を使って来たが、「山」を「ダ」と訓む用例も「車」を「シ」と訓む用例もない。山車は當て字だ。
 この「山」とは、標山(しめやま)をいい、標山とは、大嘗祭のときに、大嘗宮の前に悠(ゆ)紀(き)・主基(すき)の兩國の役人が立ち竝ぶ位置を示すための目印をいう。標山は、山形に作り、榊・木綿・日月などの裝飾を施したものだ。二輛一對という點で、「隱れ太鼓」を演ずる大山車は標山の流れを汲むといえる。
『古事記』中卷埀仁條の出雲國造の祖・岐(き)比佐(ひさ)都(つ)美(み)が肥(ひの)河(かわ)の中に、黒木の樔(す)橋(ばし)の假宮の川下に造った「青葉の山のような飾り物」が、文獻上の標山の初出である。
『古事記』中卷埀仁條の肥川は、播磨を流れる加古川を指し(播磨を流れる肥川(加古川本流)の上流部が丹波國氷上郡)、その影響もあってか、播磨には、播磨國總社射(い)楯(たて)兵(ひょう)主(ず)神社(兵庫県姫路市総社本町)並びに播磨國一宮伊和(いわ)神社(兵庫県宍粟(しそう)市一宮町須(す)行名(ぎょうめ))で六十年に一度行う「一ツ山大祭」や二十年に一度行う「三ツ山大祭」の「五色山」や「小袖山」といった置山がある。
 この加古川(支流の篠山(ささやま)川)流域の舊丹波國多紀郡坐波々伯部(ほほかべ)神社(丹波篠山市宮ノ前)の祇園祭(国指定選択無形民俗文化財)で、二層部分で木偶(でこ)の坊といわれる操り人形戲が行われる胡瓜(きゅうり)山も標山と同樣に二輛一對である。
 博多祇園山笠の「飾り山」も置山である。飾り山は、播磨の人・黒田長政(一五六八~一六二三)の博多入封と無縁ではあるまい。ちなみに京都八坂の祇園社が祀る牛頭天王も播磨の廣峯(兵庫県姫路市広峰)から勸請したものである。

 標山についても言及している折口信夫(一八八七~一九五三)著『髯籠の話』では、霹靂(かむとけ)の木に神が宿るとし、髭籠の髭は避雷針の役割があるとする。「若葉祭」のダシの千成瓢箪や御幣は、避雷針を現したものといえる。
 また「若葉祭」、風祭、豊川の祇園の神幸に隨伴する青竹の先の鉾も避雷針といえる。京都では同樣のものを劍鉾といい、これに臺車を附け、曳山にしたものが京都祇園祭の鉾になる。
 京都祇園祭の山鉾の鉾はこのように考えられるが、山鉾の山は既述の置山を擔いで、移動可能にしたものといえよう。
 京都祇園祭の山には、郭巨山のように、人形を飾ったものもある。この人形山について説明すれば、山川草木、さらには、長い年月を經た道具などにも靈が宿り、それを祀るのがこのクニの神祭りだ。人形は人の形をした形代(かたしろ)で、流し雛は、『源氏物語』帖一二須磨の卷には、穢れを移した人の形をした形代を船に載せ、須磨の海に流した旨の記述がある。これも長い年月を經た道具などにも靈が宿るとの信仰の延長線上にあるものだ。
 祇園御靈會は、貞觀地震(八六九年)の後、當時の令制國の數と同じ六十六本の鉾に、諸國の惡靈を移し、祓い清めたことから、鉾を立てる祭りになった。この祇園御靈會の流れからいえば、祇園御靈會への人形山の登場は、當然の流れといえる。

 話は変わるが、補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」の二つ目の見出し「田中緑紅主宰『鄕土趣味』の功罪」の三つ目の小見出し「引馬天王社の「出し豆腐」」では、「笹踊」の囃子方ではないものの、「笹踊」奉納社でもある引馬天王社の出し豆腐を奉持する係は、地面に寢轉ぶ旨を記すとともに、出し豆腐と「若葉祭」のダシの比較をした。
 この出し豆腐は、一般には、手持ち万度と呼ばれるもので、万度は、上方に御幣が插してある長方體の箱に「百万度」と書いた祭具である。この地方の豊川市御油町膳ノ棚鎮座の御油神社の祭禮では、その形から串に刺した豆腐に見立てて田樂と、西三河では梵天と呼ばれ、この万度は、万燈會で、佛神を供養するために點(とも)した燈明を淵源とした。
 江戸の天下祭で牛に曳かせていた一本柱万度型の山車も、手持ち万度が、次第に大型化し、造花などで飾り立てるようになり、やがて幕府により禁じられる。幕府の禁令は一人で捧持することを對象としたため、複數人で擔げば問題なかろうと、万度の柱の下に臺と擔ぎ棒を附け、神輿のようにして擔いだ。これを「擔ぎ万度」といったが、間もなく、万度を臺車の上に載せ、曳くようになった。一本柱万度型山車の誕生である。
 上述のように一本柱万度型の山車は、造花を飾ることが多かったことから、花山車ともいわれ、宮(みや)道(ぢ)天神社(豊川市赤坂町宮路)の雨乞い祭の花車も、原初的な一本柱万度型の山車といえるし、三谷祭の山車の山車柱も一本柱万度である。
 秋田の竿燈(かんとう)も万燈にルーツを求めることが出來、折口信夫の『髭籠の話』に出て來る臺樂(だいがく)も竿燈を臺に載せ、複數人で擔ぐようになったものといえる。
 さらに、手持ち万度の燈(あかり)が入る万燈部分に造形を加え、巨大化したのが刈谷の万燈祭(刈谷市銀座二丁目に鎭座する秋葉社の祭禮/県指定無形民俗文化財)の万燈である。刈谷の万燈祭の万燈、巨大化したとはいえ、一人で捧持することが出來るものであるが、それがさらに巨大化し、複數人で擔ぐようになったのが、「ねぶた」あるいは「ねぷた」である。
 遠州横須賀の三熊野神社(掛川市西大渕)では、一本柱万度型の山車が曳かれるが、遠州では山車の呼稱より屋臺の呼稱が一般的だ。
 ここで屋臺について考えて見るに、字義から屋根と臺(だい)輪(わ)(箪笥などの箱物調度品の床に接する臺座部分をいう)からなる構造物をいう(底拔屋臺も床はないが臺輪はある)。もちろん屋根を支える柱も構成要素となる。この屋根と臺輪で仕切られた空間に太鼓のみが載れば、太鼓屋臺(太鼓のみとしたのは、湖西(濱名湖の西の意)の太鼓臺のように太鼓の叩き手が乘らないものもあるから)、囃子方が載れば、囃子屋臺、踊り手が乘り、踊りを踊れば、舞踊屋臺となる。屋根がないものは、太鼓臺、囃子臺、舞臺となり、屋臺、臺には、擔ぐものもあれば、車を附けて曳くものもある。
 京都祇園祭の巡幸で先頭を行く長刀鉾は、山車であるとともに、屋臺でもある。
 唐破風屋根の上に人形が載り、二層部分で「隱れ太鼓」を演ずる豊川下流域の大山車も、山車であるともに、屋臺の要素も兼ね備える。
  


Posted by 柴田晴廣 at 09:01Comments(0)牛窪考(増補版)

2022年02月13日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明11(補遺三2)

『帝都物語外伝 機関童子』の作中人物・慶間泰子は、尾張のからくり人形を載せた山車祭りの一つ犬山祭(国宝犬山城の鎭守・針綱神社(犬山市大字犬山字北(きた)古(こ)券(けん))の祭禮)を見て、尾張の山車に載る、からくり人形に興味を持ち、その流れで、「若葉祭」の「隱れ太鼓」に見学に来たことになっている。
 尾張は全国的に見ても、からくり人形が載る山車を多く保有する地域だ。同じ愛知県とはいえ、東三河で、からくり人形が載る山車は、田原祭(神明社(田原市田原町北番場)、八幡社(田原市田原町南番場)、巴江神社(田原市田原町巴江)の合同の祭禮)の三輛、二川八幡社(豊橋市二川町東町)の祭禮の三輛、そして三谷祭(八劔神社(蒲郡市三谷町七舗)の祭禮)で西新屋が曳く惠比壽山車(やま)の計七輛のみである。
 田原祭の三輛は、尾張のからくり人形が載る山車の中で、名古屋型といわれるタイプ。二川八幡社の祭禮の三輛は、外觀は名古屋型を小振りにしたように見えるが、名古屋型は、外觀二層だが、内部は一層部分が、上下に分かれており、三層になっている。二川のものは、一層部分が上下に分かれておらず、また後述するように、名古屋型では、前人形、からくりの妙技を魅せる上山人形、上山人形の後方で上山人形を見守るように置かれる大將人形の三点セットであるが、二川では上山人形を缺くことから、名古屋型とは似て非なるものだ。三谷祭の惠比壽山車は、「隱れ太鼓」を演じる大山車の亞型で、唐破風屋根に載る惠比壽人形の右手のみが簡單、單純な動きをする。参考までに、からくり人形ではないが、「若葉祭」の上若組の大山車の唐破風屋根の上にも惠比壽人形が載る。
 田原祭に名古屋型の山車が登場するのは、明治一三(一八八〇)年、二川八幡社の祭禮にからくり人形が載る山車が登場するのは、慶應元(一八六五)年、三谷祭の惠比壽山車に載る惠比壽人形は、明治四(一八七一)年の作と傳えられる。惠比壽山車は、それ以前からあり、明治四年以前に惠比壽山車に載っていた惠比壽人形は、享保一九(一七三四)年の作といわれるが、享保一九年から三谷にからくりの惠比壽人形があったわけではない。三谷では、中古のからくり人形を買ったと推測されるからだ。後述するように、三谷祭の山車にからくり人形が載るのは、一八世紀末のことと推測される。

 その尾張のからくり山車であるが、その濫觴は、元和八(一六二二)年に名古屋城内三の丸鎭座の東照宮(明治になり名古屋市中区丸の内に移轉)の祭禮に七間町が出した橋辨慶車である。いわゆる名古屋型といわれるタイプの山車が完成するのは、同じ尾張東照宮の祭禮で、上長者町が二福神車を造った享保一七(一七三二)年になる。
 その名古屋には、家康隱居後(一六〇五~一六一六)に李朝朝鮮から獻上された自(じ)鳴(めい)鐘(しょう)(機械時計)の修理と、それを基に新たに機械時計を製作した津(つ)田(だ)助(すけ)左(ざ)衞(ゑ)門(もん)(?~一六三九)がいた。これがからくり人形制作の下地になった。竹田機關座を創いた初代竹田近江は、機械時計のからくりを工夫し、からくり人形芝居を考案したといわれるからだ。
 津田助左衞門によって創られた下地に、野暮な吉宗(一六八四~一七五一/將軍在位一七一六~一七四五)の享保の改革に反發し、『温知政要』を著した宗春(一六九六~一七六四)が祭禮を奬勵し、享保一八(一七三三)年、東照宮祭禮で傳馬町が前年に新造した林和靖車の鶴のからくりの修理と操作指導のため、來名した京都のからくり人形師・玉屋庄兵衞(生没年不詳)が翌年再訪し、玉屋町(名古屋市中区錦三丁目)に定住したことにより、尾張のからくり山車の文化が花開いた。隣國尾張のからくり出車に刺激を受けたことが、「若葉祭」の「人形振り」の「隱れ太鼓」を始める契機になったことは想像に難くない。

 尾張の山車に載るからくり人形は、その役割により、前人形、上山人形、大將人形に分類される。前人形とは、名古屋型山車の二層部分の前棚(二層部分前方の一段下がった部分)、その前棚から進化した知多型山車の前山に載るからくり人形のことで、采などを手に持ち、それを振るといったからくり人形をいう。次に上山人形とは、尾張のからくり山車の中心になるからくり人形で、樣々な妙技を魅せる。最後に大將人形とは、上山人形の後方に座して見守る人形で、前人形と同樣に簡單な動きをするからくり人形で、歴史上の人物などを現したものである。
 尾張のからくり山車の中の名古屋型の山車では、前人形、上山人形、大將人形の全てが揃うが、知多型などでは大將人形を缺くことが多い。前人形と上山人形は、唐子人形であることも多いが、唐子人形は、兩側頭部の髮だけを殘し結い上げたモンゴル族の辮髮のような髮型である點で、笠を冠り、目から下を赤布で隱す「隱れ太鼓」と異なる。
「若葉祭」の「隱れ太鼓」は、采を振るなど單純な動きをする前人形より、からくりの妙技で魅せる上山人形を「人形振り」で演じているといえる。ただし上山人形が全身で演じているのに對し、「隱れ太鼓」は、基本的に観客から、上半身のみが見える點で異なる。

 以上は役割の分類だが、尾張の山車に載るからくり人形は、その操作法により、人形淨瑠璃の文樂人形のように、人間が人形の手足を持って操作する直接操法、人形の手足などのそれぞれの部位に繋がるそれぞれの絲を下から引いてそれぞれの部位を動かす間接操法(絲からくり)、人形の體内に仕込んだ薇發條(ぜんまい)、齒車、原動節、從動節などを胴串や絲を使って操作し、人形を逆立ちさせ、綾渡りをさせ、あるいは亂杭渡りなどをさせる離れからくりなどの遠隔操法の別がある。「若葉祭」の「隱れ太鼓」は、稚兒が欄干に腰掛け、脚(あし)持ちが、稚兒の脚を持ち、「稚兒出し」が稚兒を逆さに倒すといったアクロバティックな所作を演じるが、この所作は「離れからくり」を意識したものといえる。
 また「若葉祭」の「隱れ太鼓」の稚兒は、首を支点に絶えず頭を左右に振るという動きをするが、この仕草を、文樂人形で再現しようとすれば、人形の喉の部分の「ノドキ」に細工をし、胴串に設けられた「チョイ」(首を上下に動かす仕掛け)のような絲を引くことによることになるだろう。ただし「ノドキ」の下に肩板があるという淨瑠璃人形の構造では肩板など、胴串の下部に人形の頭が當たって邪魔になり、かかる動作を行うことは困難が予想される。これをどう工夫するかということになるが、いずれにしても、この動きは、手妻人形などの手遣い人形の「人形振り」と見ることが出來るだろう。
「若葉祭」の「隱れ太鼓」は、通常の「人形振り」ではなく、「操り三番叟」以上に、かなり特殊な「人形振り」といえる。
 以上、補遺三の二つ目の見出し「「若葉祭」の「隱れ太鼓」と尾張の山車からくり」の項では、無形文化財の「隱れ太鼓」について考察した。
  


Posted by 柴田晴廣 at 07:33Comments(0)牛窪考(増補版)

2022年02月12日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明10(補遺三1)

「隱れ太鼓」は、現在、牛久保八幡社(豊川市牛久保町常盤)、豊川進雄神社(豊川市豊川西町)、小坂井の菟足神社(豊川市小坂井町宮脇)で行われており、『三河國吉田領風俗問状答』によれば、かつては城内天王(現吉田神社(豊橋市関屋町))で行われていたと推測される。いずれも「笹踊」奉納社であり、それぞれJR飯田線の牛久保駅、豊川駅、小坂井駅、豊橋駅が公共交通機関の最寄り駅となる。
「隱れ太鼓」を定義すれば、地元で大(おお)山車(やま)(『三河國吉田領風俗問状答』では、「車樂(だんじり)」と表記され、同書には、「隱れ太鼓」の定義に当てはまるか否かは別として、城内天王の祇園祭で、金襴の唐子衣装を着て、笠を冠った大太鼓の叩き手が車樂の二層部分で太鼓を叩いている旨の描寫がある)と呼んでいる二輛一對の二層の山車(だし)の二層部分で、唐子衣裝を纏った一人の踊り手(=大太鼓の打ち手)が、水平に据えた長胴の大太鼓を打っては欄干に身を隱しつつ演じ踊ることを特徴とする山車藝能といえる(「若葉祭」では、稚兒と稚兒を操る「稚兒出し」により演ずる)。祭禮によって構成は異なるが、数名の笛などの囃子方を伴う。この大太鼓の叩き手は、元々は、稚兒舞、より具體的には、国指定重要無形民俗文化財「遠江森町の舞樂」の一つ「山名神社天王祭舞樂」の「八初兒」のような稚兒舞の大太鼓の伴奏者に、吉田で唐子衣裝を着せ、牛久保で上記定義のような「隱れ太鼓」が確立したと私は推測する。
「隱れ太鼓」を演ずる舞臺となる大山車は、二層唐破風で、本祭には、唐破風屋根の上に人形が載り(城内天王の祇園祭の車樂の唐破風屋根の上にも本祭には人形が飾られていた。ただし「若葉祭」の西若組の大山車では屋根の上ではなく、二層部分に大黒天の人形を飾る。その理由については後述する)、一層部分には造作はなく、二層部分に囃子方も乘る。車輪はみな必ず四輪で外輪である(ただし豊川では、曳かなくなって久しく車輪を外している。加えて豊川の二輛のうちの西山は車軸も失い、車軸の代わりに、角材を使っている)。
 この大山車は、神幸の際には決まった位置に停め置かれ、「隱れ太鼓」を演じ、神幸とは別に曳行される。曳行の際には、曳いている最中にも、「隱れ太鼓」が演ぜられるのが特徴である。
「若葉祭」では、神幸終了の後の「三つ車」の折にも「隱れ太鼓」が演じられるが、現在のように、四町にダシ(馬印樣の立物)が揃う以前は、三谷祭の「引き分け」に近いものであったと考えられる。というより、三谷祭の山車は、大山車にダシが合體したものであり、その原型は、「若葉祭」にあったと考えられる。つまり三谷祭の「引き分け」は、ダシが揃う以前の「若葉祭」の「三つ車」を範にしたものと推測されるのである。
「三つ車」の變容というより、「隱れ太鼓」の變容になるが、かつては「隱れ太鼓」の「稚兒出し」、囃子方の全てに若い衆が就いていた。
 以上が最初の小見出し「「隱れ太鼓」が奉納される祭禮」、「「隱れ太鼓」とは」、「「三つ車」の詳細と「若葉祭」の大山車の役割等」の三つの項の内容の指針になる。

 既述のように、補遺一「「うなごうじ祭」名は稱考」の最初の見出し「平田派國學者・羽田野敬雄の牛久保觀」の四つの小見出し「上若の唄う「梅ヶ枝節」も異國起源」が、補遺三の最初の見出し「『帝都物語外伝 機関童子』に見る「若葉祭」の「隱れ太鼓」」の伏線になっている。
 その「『帝都物語外伝 機関童子』に見る「若葉祭」の「隱れ太鼓」」の『帝都物語外伝 機関童子』は、荒俣宏の小説。「機関童子」は、荒俣氏の造語で、「若葉祭」の「隱れ太鼓」の演じ手の稚兒を指し、荒俣氏は脚色された小説の世界で、「若葉祭」の「隱れ太鼓」を描写している。
 そして荒俣氏は、『帝都物語外伝 機関童子』の七章「八幡宮の童子」で、作中人物の青山学院講師の慶間泰子が犬山祭の「離れからくり」に関心を持った流れで、「機関童子」を語らせている。「八幡宮の童子」の「八幡宮」とは、「若葉祭」を例祭とする牛久保八幡社のことだ。
 さらに同書九章「カラクリの裏面」で、慶間泰子に「そう、ああした人形の動きは、死者の動きなのよ」と語らせ、一五章「大江匡房に訊く」では、芸にひいでた著名な傀儡は、どれも数字に縁がある名であると、「小(こ)三(さん)とか千歳とか日百とか」と小三の名を擧げ、唐突に「小三といえば、落語に柳家小さんという名人がいたね。コサンが、まさか傀儡の芸名に由来しているとは、知らなかったな!」と結んでいる。余談になるが、『帝都物語外伝 機関童子』の一五章のタイトルが、「大江匡房に訊く」となっているのは、大江匡房(一〇四一~一一一一)が『傀儡子記(くぐつき)』を著していることからだろう。
 ここでの柳家小さんは、三代目の小さん(一八五五~一九三〇)を指すと推測される。その理由は、『帝都物語外伝 機関童子』が完成した時期と、三代目小さんは、上方落語の四代目桂文吾(一八六五~一九一五)が今日の筋立てに完成させた『駱駝(らくだ)の葬禮(そうれん)』を、桂文吾から口傳で讓り受け、江戸落語へ移植した人物からだ。
 この『駱駝の葬禮』の主人公は、「らくだ」をあだ名とし、噺が始まった時點ですでに前夜食した河豚に中って、死人として登場する。兄貴分だった男が「らくだ」の亡骸を文樂人形に見立て、「看々踊」を踊らす場面がある。荒俣のいう「小さん」を三代目の小さんとしたのは、慶間泰子に「そう、ああした人形の動きは、死者の動きなのよ」と語らせ、三代目小さんが江戸に移植した『駱駝の葬禮』には、「らくだ」の亡骸を文樂人形に見立て、「看々踊」を躍らせる場面があるからだ。
 ここに「看々踊」とは、「看看(カンカン)也(エ) 賜(スウ)奴的(ヌテ)九連(キウレン)環(クワン)」で始まる清樂『九連環』に合わせて踊る唐人踊をいう。
 以上から、小説とはいえ、荒俣は、「若葉祭」の「隱れ太鼓」と、『駱駝の葬禮』が關聯があると考えていたのは明らかであろう。

『駱駝の葬禮』では、亡骸を人形淨瑠璃の文樂人形に見立て、「看々踊」を躍らせているが、人間が人形の動きを眞似て演じることを、歌舞伎の世界では「人形振り」という。「人形振り」とは、人形淨瑠璃を歌舞伎化した演目である丸本物(まるほんもの)において役者が人形の動きを眞似て演じることをいい、「人形振り」で演じられる登場人物の背後には、必ず人形遣い役が役者の體を支えながらあたかも人形を動かしているかのように演出する。
 この「人形振り」の起源は、享保一七(一七三二)年に上演された『壇(だんの)浦(うら)兜(かぶと)軍記(ぐんき)』である。ただし後述するように、前年に江戸の豐竹座の幕間で行った記録がある。
 一般に「人形振り」は、役者が文樂人形の動きを眞似て演ずるが、嘉永五(一八五二)年、江戸川原座で上演された『柳絲引御攝(やなぎのいとひくやごひいき)』(通稱「操り三番叟」)では、三番叟(さんばそう)を絲繰りの「人形振り」で演じ、翁(おきな)と千歳(せんざい)は、薇發條(ぜんまい)仕掛けの「人形振り」で演じる(絲繰りが考案されるのは元和三(一六一七)年)。
 現在、文樂人形は、一體の人形を三人で操作する(三人遣い)點で、「稚兒出し」一人が稚兒を操る點で「若葉祭」の「隱れ太鼓」と異なる。だが、三人遣いが完成するのは、「人形振り」が始まる二年後の享保一九(一七三四)年に大坂竹本座で、『芦屋(あしや)道(どう)滿(まん)大内(おおうち)鑑(かがみ)』が上演されてからである(「人形振り」における人形遣い役は、三人遣いになっても一人だが)。三人遣いの人形には、首の下に胴(で)串(くし)が附いており、この胴串に仕込まれた、目、眉、口などを動かす「小ザル」の完成により、一體の人形を一人で操作するのが困難になり、三人遣いが生まれたと推測される。この「小ザル」は、からくり人形の影響といわれ、からくり人形芝居の興行は、寛文二(一六六二)年に、初代竹田近江(?~一七〇四)が、竹田機關(からくり)座(ざ)を道頓堀に創設したことに始まる(明和五(一七六八)年、四世近江の代に閉座)。
『芦屋道滿大内鑑』が、初めて上演された大坂竹本座は、貞享元(一六八四)年、義太夫節の創始者・竹本義太夫(一六五一~一七一四)により創設された人形淨瑠璃の芝居小屋で、同じ道頓堀にあった元禄一六(一七〇三)年に、竹本義太夫の弟子・豐竹越前少掾(一六八一~一七六四)により創設された豐竹座とともに榮えた。
 初代竹田近江の次男の竹田出雲(?~一七四七)は、寶永二(一七〇五)年、竹本座の座本に就き、孫の三代出雲(生没年不詳)が、安永二(一七七三)年に座本を降りるまでの三代七十年近くに亙り、竹本座の興行に携わっていた。竹田機關座が人形淨瑠璃の人形の仕掛けに輿えた影響は計り知れない。
 また人形遣いは「黒衣(くろこ)」といわれるように、黒衣(こくい)に身を包み、顔も隱しているが、「主遣(おもづか)い」だけは重要な場面では觀客に顔を晒すことがある。これを「出遣(でづか)い」という。「出遣い」の初めは、寶永二(一七〇五)年のことという。「出遣い」のときは、黒衣ではなく、紋附袴姿である。
 ここに「主遣い」とは、首(かしら)と右手を操る者をいう。「若葉祭」の「隱れ太鼓」の「稚兒出し」を、三人遣いに當てはめれば、「主遣い」に當てはまるが、既述のように、出遣いの折の主遣いの裝束が紋附袴であるのに對し、「稚兒出し」は裃である點で異なる。ただし「人形振り」における後見(「人形振り」での操り手)は、裃か普通の黒衣ではなく、繻子の黒衣である。
 三人遣いが誕生する以前、元々、淨瑠璃人形には足が附いておらず、「突込み」というタイプの人形を使っていた。稚兒が着る唐子衣裝の裾から手を入れ、稚兒を操る「稚兒出し」は、「突込み」というタイプの人形を使っていたころの人形遣いの「出遣い」の「人形振り」といえる。
  


Posted by 柴田晴廣 at 06:14Comments(0)牛窪考(増補版)

2022年01月28日

隱れ太鼓

 隱れ太鼓の説明に手間取っている。
 言い訳のようになるが、前回の投稿「穂国幻史考(増補新版)の手引き」で述べたように、隱れ太鼓について先行する研究はない。
 必要最小限の説明がどの程度なのかの匙加減に苦労しているのである。
 また隱れ太鼓を説明するには、神事藝能である「隱れ太鼓」と、それを演じる舞臺となる大山車(車樂)をパラレルに説明する必要もある。
 繰り返しになるが、「隱れ太鼓」について先行する研究はない。それだけではなく、山車や屋臺について言及したものは数多あるが、山車、屋臺についてきっちりと定義したものはないのである。
 さらにいえば、山車、屋臺の祭のルーツといえ、日本を代表する京都祇園祭の山、鉾という呼稱が、地元の慣例を優先した実態に即したものでないことも、山車、屋臺の定義の確定の妨げになっている。
 地域史というものは、その地域のみが独立したものではなく、当然近隣の地域と影響しあっているし、その地域史の束が日本史となり、日本史を始め、東アジアの国々の歴史の束が東アジア史となる。
 東三河の山車や屋臺が、西三河や尾張、遠州からどう影響を受け、西三河や尾張、遠州にどう影響を輿えたかといった説明も必要になる。
 さらに「若葉祭」の「隱れ太鼓」は人形振りの特殊なものであるが、この人形振りの「隱れ太鼓」のみならず、豊川や小坂井、かつて城内天王の祇園祭で行われていた「隱れ太鼓」の誕生や成立する経緯についても説明する必要がある。
 こうした書くこと満載の「隱れ太鼓」の内容の説明をどうやって必要最小限にとどめるか。これに苦労しているのである。
 なんだか、「「隱れ太鼓」の内容の説明」のそのまた「内容の説明」のような投稿となったが、「「隱れ太鼓」の内容の説明」の理解の一助になれば幸甚である。

 加えて置けば、いままで投稿して来た「『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明」及びこれから投稿するた「『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明」を読むに当たって、二年ほど前に投稿したた「『牛窪考(増補版)』をなぜ改訂しようと思ったか」(https://tokosabu.dosugoi.net/e1126383.html)に目を通しておくのも理解の一助になるだろう。
  


Posted by 柴田晴廣 at 07:20Comments(0)牛窪考(増補版)

2022年01月21日

このクニの神祭りについての私の考え

 『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明の次の投稿が滞ている。
 「隱れ太鼓」についての整理に手間取っているからだ。
 「笹踊」については、生(しょう)田(だ)小(こ)平(へい)次(じ)著『東三河に於ける御神事笹踊』(一九三三年九月一五日發行『愛知縣神職會々報』三五六號收録 國學院大學渋谷キャンパス図書館所藏)、間(ま)宮照(みやてる)子(こ)著『三河の笹踊り』(日本青年館公益事業部編『民俗芸能』(民俗芸能刊行委員会)三三号収録)といった先行する論考がある。
 「隱れ太鼓」については、先行する論考がないのだ。
 鬼頭秀明著「東三河における祭礼風流の諸相―神幸祭と風流」(『愛知県史民俗調査報告6』渥美・東三河(平成一五年)収録)が、「隱れ太鼓」について書いてあるとの反論があるかもしれないが、鬼頭の著作は論考の体をなしていない。
 論考ではないが、荒俣宏著『帝都物語外伝 機関童子』が、「若葉祭」の「隱れ太鼓」を採り上げている。
 機関童子は荒俣の造語で、「若葉祭」の「隱れ太鼓」を演じる稚兒のことだ。
 先に書いたように、私はこの稚兒を中学の三年間務め、若い衆を抜けてからは、上若組大山車の囃子方として二十年近く携わっていた。
 論考ではなく、小説である『帝都物語外伝 機関童子』が「若葉祭」の「隱れ太鼓」について記す僅かな手掛かりと、上若組の「隱れ太鼓」に携わっていた自身の経験を頼りに書き上げたのが、「「隱れ太鼓」考」なのである。
 荒俣は同書の九章「カラクリの裏面」で、作中人物の青山学院講師・慶間泰子に「そう、ああした人形の動きは、死者の動きなのよ」と語らせ、一五章「大江匡房に訊く」では、「小(こ)三(さん)とか千歳とか日百とか」と小三の名を擧げ、唐突に「小三といえば、落語に柳家小さんという名人がいたね。コサンが、まさか傀儡の芸名に由来しているとは、知らなかったな!」と結んでいる。
 詳細は、次回の『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明に譲るが、荒俣は「若葉祭」の「隱れ太鼓」を、死人が唐人踊りを踊るという落語『駱駝の葬禮』と絡めて考えていたと推測される。
 「笹踊」もそうだが、「隱れ太鼓」も唐子衣裝をまとい演じられる。風流(ふりゅう)とはそうしたものだ。
 京都祇園祭の山鉾の見返り幕などには、西洋のタペストリーが使われている。
 多神教のわがクニの祭祀からは当然のことだ。
 この京都祇園祭が行われる八坂神社は、神佛分離以前は、感神院という寺院で、その祇園社の御靈會が、京都の祇園祭だ。
 天下祭で牛が曳いていた一本柱万度型の山車の万度も万燈會の燈明が起源である。
 神佛混淆の祭とはこういうもんなのだ。
 学校の歴史の時間の最初のころに習ったと思うが、崇佛派、排佛派という分類がある。ことはそう單純なものではない。
 いえることは、崇佛派は八百萬の神祭りの一つとして佛祭りをしたに過ぎず、崇佛派は別段排神派ではないのである。
 この崇佛派、排佛派の爭いで勝ったのが、蘇我氏であるが、蘇我氏が権力を持っていた時代の中国「隋」の時代について記した『隋書』卷八十一 列傳第四十六東夷傳倭國條には、倭王の姓は阿毎である旨記されている。
 蘇我氏は甘樫丘に邸宅を構えていたが、甘樫は阿毎ヶ氏の意であり、蘇我氏は天皇の外戚だから權力を持っていたわけではなく、蘇我氏が倭王で、天皇など蘇我氏の入り婿に過ぎなかったのだ。
 『日本書紀』敏達條には、「日神を祀った」旨が載る。上述のように、崇佛派は排神派ではない。「日神を祀った」のは、蘇我氏であり、その日神は、皇祖神・アマテラス以前の日神・天火明命である。
 天火明命は、海人の神であり、阿毎は海人の當て字なのだ。
 『牛窪考(増補改訂版)』は、二〇〇七年刊行した『穂国幻史考』の第三話を独立させ加筆したものである。
 上記の蘇我氏の話や、その神祭りの話は『穂国幻史考』の第一話で詳述した。
 「「隱れ太鼓」考」は、そうでもないが、『牛窪考(増補改訂版)』の拾遺四あたりからは、上記のような話を前提に論を展開している。
 そうしたことから、「「隱れ太鼓」考」の説明が終わった時点で、『穂国幻史考』の第一話の説明をしようと考えている。  


2022年01月13日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明9(補遺二各論)

 各論の「豊川流域の各社で奉納される「笹踊」の個別檢討」では、タイトルのとおり、各「笹踊」奉納社の「笹踊」を個別に檢討した。記録が殘っているなど、始めた年が古い順に論じた。

 最初に「笹踊」を始めたのは、曲亭馬琴(一七六七〜一八四八)が、『羇(き)旅漫録(りょまんろく)』で、「三州吉田の天王まつりは六月十五日 今夜の花火天下第一と稱す」(同書卷の上の一八「吉田の花火」)と賞賛した城内天王(現吉田神社(豊橋市関屋町))で、同社所藏の『神社略記』(編者 山本松二/一九二三年成立)は、「正保二年ノ識語アル器具ヲ存ス」と、「笹踊」の大太鼓を擔當する吉田宿裏町十二町の一つ指(さし)笠(かさ)町(豊橋市新本町の一部)が、正保二(一六四五)年六月に太鼓を新調した旨主張するが、當時、指笠町は、安海熊野權現(豊橋市魚町(うおまち))の氏子であり、太鼓を新調したとする正保二年は、指笠町が城内天王の氏子になった干支一巡後の寶永二(一七〇五)年の誤りと考えられる。
 文化一四(一八一七)年、幕府右筆の屋代(やしろ)弘(ひろ)賢(かた)(一七五八~一八四一)が、その土地の冠婚葬祭等の樣子を尋ねるため、各地の知人宛に作成した『風俗問状』に、吉田藩士の中山美(うま)石(し)(一七七五~一八四三)が答えた『三河國吉田領風俗問状答』も、「笹踊」の起源を、「小笠原候の城主たりし時」に求めている。小笠原氏が、吉田城主だったのは、正保二(一六四五)年七月から、元祿一〇(一六九七)年の間であるから、正保二年六月に「笹踊」の太鼓を調した旨は否定される。以上のこと等を考慮すれば、吉田では、小笠原氏が、吉田城主であった天和二(一六八二)年の綱吉襲封祝賀の第七次朝鮮通信使の街道往還を機に、「笹踊」を始めたと考えられる。

 吉田の次に「笹踊」を始めたのは、牛久保である。牛久保で「笹踊」が始められるのは、寶永の大地震の翌年の寶永五(一七〇八)年のことだ。天和の通信使が來訪して四半世紀が經過している。だが、その衣裝は、吉田とはずいぶん異なる。異なるものの異國風の唐子衣裝だ。當時牛久保には、臨濟宗黄檗派(現黄檗宗)の寺院・補陀山善光庵(豊川市南大通二丁目)があった。當時の黄檗派は、建物や佛像、儀式にいたるまですべて中国式で行い、讀經も「唐音(とういん)」によった。異國風の衣裝の仕立てなども、善光庵に行けば、容易に學ぶことが出來たのだ。
 既述のように、「笹踊」と「笹踊歌」は、一體不可分のものではないが、牛久保では、「笹踊歌」の節に合わせて、「笹踊」を踊る。

 吉田、牛久保に續き、三谷で「笹踊」が始められる。正德の通信使が來訪した翌年の正德二(一七一二)年のことだ。既述のように、三谷では、「笹踊」を「くぐり太鼓」の名で呼ぶが、朝鮮通信使の影響という點を考慮すれば、「くぐり太鼓」は、高句麗太鼓が訛ったものであろう。三谷では、神幸の道中で踊ることはなく、八劔社と、お旅所の若宮社の廣前でのみ踊る。
 既述のように三谷では、笹踊の踊り手は、下衣は着けない。その分、上衣は、膝丈ほどの長いものである。

 四番目に、「笹踊」を始めるのは、山湊馬浪の地・交代寄合衆・菅沼氏の陣屋が置かれた、新城の地だ。能が盛んな新城で、「笹踊」を始めるのは、新城天一天王社の祭禮で能を初めて奉納した年でもある元文元(一七三六)年のことである。いままで述べた三ヶ所の「笹踊」が、體を屈める、腰を落とす、跳躍するといった踊りに重點を置くのに對し、既述のように、ここは太鼓の叩き方に重點を置く。
「笹踊」は、屋外で踊るものだが、新城では、能樂堂でも、「笹踊」を奉納する。

 新城に續いて「笹踊」を始めるのは、豐川稻荷の門前町として榮た豊川。「笹踊」を始めたのは、寶暦(一七五一~一七六三)の末ごろと推測される。その理由を以下に述べれば、ここ豊川の「笹踊歌」には、「市は湯の日 丸市場 丸市場」「市は四日九日 四日九日」の文句がある。豐川稻荷を鎭守とする圓福山妙嚴寺の宗旨は曹洞宗。曹洞宗では、四と九の附く日が開浴の日だ。豐川稻荷が有名になり、妙嚴寺の規模が擴大するのが寶暦のころ、そして廣田弘(廣田氏の氏名表示に従った(著作権法一九条二項))著『東三河における祇園信仰と神事芸能』には、「豊川進雄神社の笹踊歌に記載されている宝暦一二年(一七六二)の記録などが古いところである」とあるからだ。
 豊川の祭禮の神幸で、かつて先頭を歩んでいた、大鉾の社式には、「神幸乃最前爾捧持津御鉾乃耀與布光波高天原爾至利」と、神幸の先頭は大鉾である旨記してあるにもかかわらず、現在は、「笹踊」が先頭に代わっている。祭禮關係者の風流囃子物の無理解による祭禮組織の崩壞に伴う祭禮の變容である。"SARS-CoV-2"の感染拡大による祭禮の中止ないし縮小が続けば、豊川のみならず、多くの祭禮で、祭禮の變容が顕在化するであろう。
 いま記録して置かなければ、いずれ祭禮の研究は困難を極めることが予想される。

 次に「笹踊」を始めるのは、御馬である。この御馬には、引馬神社(天王社/豊川市御津町御馬字梅田)と八幡社(豊川市御津町御馬字塩浜)が鎭座し、元は別々に祭禮を行っていた(ただし祭禮組織は同じ)。いずれの祭禮でも「笹踊」を奉納していた。大太鼓の「文化五年戊辰六月大吉日 御馬村西若者」の識語があることから、文化五(一八〇八)年以前には、「笹踊」を奉納していたと思われる。
 既述のように、御馬と先の豊川は、大太鼓の踊り手と小太鼓の踊り手の腰から下の動きが同じで、上半身の振りのみが、大太鼓と小太鼓で異なる。御馬と豊川は、朝鮮通信使に隨伴した樂隊の同じ踊りを見て、振りを考えたと思われる。文化五(一八〇八)年以前の通信使となれば、寶暦一四(一七六四)年になる。これが天王社の踊りの起源の上限と考えられる。
 一方、八幡社の「笹踊」の振りは、萬延元(一八六〇)年に八幡八幡宮(豊川市八幡町本郷)の神主・大伴宜光(一八〇九~一八八二)が附けた。それ以前は、八幡社でも、天王社のと同じ踊りを踊っていた。
 ここは、天王社の踊りとして、三ツ星、半追ひ、宮入、八幡社の踊りとして、三ツ星、宮入と、踊りの種類が多い。いずれの踊りも牛久保と同樣に、「笹踊歌」の節に合わせて踊り、豊川のように、お旅所までの道中、休みなく踊るのではなく、牛久保と同樣に、要所要所で踊る。

 菟足神社(豊川市小坂井町宮脇)の「笹踊」については、當時菟足神社の氏子地であった寶飯郡下地村(豊橋市下地町)の住人・山本貞晨(一七七五頃~一八二一)の著作『三河國吉田名蹤綜録』(文化三(一八〇六)年頃刊)「菟足神社」の項に、「笹踊の事其外末社由縁委細舊記は三河名蹤綜録に載る 依て茲に省」とあることから、文化三年以前から、「笹踊」を始めていたと考えられる。
 この菟足神社の「笹踊」の印象について、主に衣裝についてだが、『鄕土趣味』を主宰する田中緑紅は、「うながうじ祭雜話」で、「笠は菅笠で周圍に小さい御幣形の紙きれがついてゐて、赤地の上衣も、市松格子のズボンも共にお粗末である」と率直な感想を述べている。
 ここの衣裝は、いままで見て来たところと異なり、金襴ではなく、笠も股旅物の三度笠だ。始めたのは、朝鮮通信使が、東海道を往還した明和元(一七六四)年以降のことと思われる。
 この後に論じる「笹踊」奉納社も、昭和になって吉田から踊りを習った大村を除き、衣裝が金襴の所はない。

 現在中断している当古の「笹踊」は、明治元(一八六八)年生まれの大林亙の曾祖父で當古天王社の神主・大林外記が、神主であった文化二(一八〇二)年から天保一三(一八四二)年の間は、大林外記自らが「笹踊」を演じて、氏子らに教えていたと傳わる。金襴でないものの、その衣裝は、山吹色の羽二重の上衣に、下衣は、勝虫(蜻蛉)の模樣が白拔きで染められている淺青色の股引、笠は金地に白の牡丹花が描かれ、縁にうねりはないものの豊川進雄神社のものと似る。また間宮氏は、踊りの印象について、「御津(みと)引(ひく)馬(ま)・当古(とうご)進(すさ)雄(のお)神社は牛久保八幡社と共に古く、しっかり伝承されている」と、感想を述べている。小坂井のように、『三河國吉田名蹤綜録』に「笹踊」の記載があるといった客觀的な資料がないため、小坂井の後で論じたが、間宮氏のみならず、私の踊りの印象からも、小坂井より古く、その衣裝から、朝鮮通信使の裝いが强く記憶に殘っていた時代に始められたと考えられる。

 牛久保と同様に、囃子方が地面に寝転ぶ大木の「笹踊」は、嘉永四(一八五〇)年の識語のある衣裝、安政五(一八五八)年と記された太鼓の胴卷がある。その胴卷は、朱地金襴、上衣は紺羅紗。

 その大木の西の千両の「笹踊」は、大木から傳わったという。衣裝は、素材は異なるものの、大木と似るが、踊りの所作は、全く異なる。大木の「笹踊」が、小太鼓の踊り手が常に對稱となるのに對し、千両では、小太鼓の踊り手が對稱になることはなく、三人が巴状の動きをする。

 慶應四(一八六八)年に半原藩の藩廳所在地となる富岡は、慶應年間(一八六五~一八六八)疫病が流行したのを機に藩主安部(あんべ)信發(のぶおき)(一八四七~一八九五)が津島より勸請し、祭禮を始めたという。「笹踊」もこのときから始められる。

 天正三(一五七五)年、織田德川聯合軍と武田軍が對峙した設樂(したら)原(はら)の北に鎭座する石座(いわくら)神社(新城市大宮狐塚)の「笹踊」は、明治一〇(一八七七)年ごろに始められたという。始めた年代からか、衣裝は他と比べ異國風という面は尠ない。

 本宮山の表参道の入り口に当たる上長山で、「笹踊」が始められたのは、明治時代半ばで、最初、若宮神社で始められ、素戔嗚、白鳥に傳わったというが、三社とも踊りは異なる。

 豊津で「笹踊」を始めるのは、その「笹踊歌」で歌われるように、八名郡中島村、同日下部村、同井之島村が合併し、豐津村となり、それぞれの村の氏神である石宮・日下部・素戔嗚の三社が合祀され、豐津神社となった明治二七(一八九四)年である。當古から傳わったというが、衣裝も踊りの所作も當古とは異なる。

 近江膳所藩主として明治を迎える伊奈本多氏の居城のあった伊奈で、「笹踊」を始めるのは、明治の終わりごろといわれる。境内を三周するときに踊られる踊りは、最初の一周目は、菟足神社の、二周目、三周目の踊りは三谷の踊りに似る。ここの「笹踊歌」の作詞者は、菟足神社の宮司でもあった川出直吉、祭禮には、自動車のシャシにタイヤを付けた祭車が曳かれるが、車上で奏でられる曲は、三谷祭の山車で奏でられるものと同じである。

 江戸時代には、大津と呼ばれた老津で「笹踊」が始められるのは、昭和に入ってからだ。吉田から傳わったというが、吉田とは、衣裝も踊りも全く異なる。

 下郷の風祭とも呼ばれる大村の祭禮で、「笹踊」が始められるのも、老津と同じく昭和に入ってからのことだ。ここも吉田から傳わったという。笠が吉田は金、大村は黒と異なるものの、他は忠實に再現されており、踊りも戦後後継者難で、所作が崩れた吉田より、傳わった當時の踊りが忠實に繼承されている。

 最後に旧額田町の石原。ここは大太鼓一人、小太鼓一人、笠も冠っておらず、服装も平服と、「笹踊」の定義には全く当てはまらず、発音も通常の「笹踊」と同様に、「お」にアクセントが来る。ただ地理的な関係などから、豊川流域の「笹踊」の影響が見て取れる。戰前には始めていたと思われ、三谷から鉢地峠を越え、本宿まで行商に行っていたことから、「笹踊」の影響もこのルートで流入したのだろう。

 個別の檢討は以上であるが、江戸時代、通信使が往還した地域では、唐人踊り、唐子踊り、唐人行列といった練り物が祭禮に登場していた。その幾つかは明治になって中止された。歪な明治政府の脱亞入歐、和魂洋才の政策に沿ったものだろう。「笹踊」が明治になっても中止されず、逆に明治以降にも始めたところもある。その名が、唐人、唐子といった亞細亞の異國に起源を持つことを聯想させるものではなかったからだろう。
 同じような唐子衣裝をまとった民俗藝能に、郡上八幡の獅子神樂の獅子の操り役があるが、これも比較的たくさん殘っている。唐人、唐子といった呼び名ではないからだろう。

 各論「豊川流域の各社で奉納される「笹踊」の個別檢討」では、主に以上の點を論じた。  


Posted by 柴田晴廣 at 07:23Comments(0)牛窪考(増補版)

2022年01月11日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明8(補遺二総論)

 補遺二「豊川流域の特殊神事「笹踊」の考察」は、総論の「豊川流域に分布する「笹踊」の概要」、各論の「豊川流域の各社で奉納される「笹踊」の個別檢討」、参考資料の「各社の「笹踊歌」の歌詞」から構成される。

 ここで「笹踊」について定義すれば、金襴の唐子衣裝にズボン状の下衣を纏って、陣笠樣の笠を冠り、目から下を赤布で隱し、あるいは笠の縁から赤布を埀し隱し、あるいは顔に化粧をし、一人は大振りの太鼓、二人は小振りの太鼓を胸に附け、太鼓を打つ、太鼓踊をいう。
 ところが、愛知県教育委員会発行『愛知の民俗芸能』、サブタイトル「昭和六一~六三年度 愛知県民俗芸能総合調査報告書」の「笹踊り」の項(七九頁)は、「これは三河特有の太鼓ばやしである。(中略)豊川流域では牛頭天王を祀るところが多く、天王を祀る殆どの神社に笹踊りが伝承されている。  笹踊りは大太鼓一人、小太鼓二人の三人が襟元に笹の小枝をさして踊る」といった、伊奈森太郎の『三河の祭』での「若葉祭」の紹介と同じく、講釋師見てきたような嘘をつきレベルの紹介だ。もちろん『愛知の民俗芸能』が記すように、「笹踊りは大太鼓一人、小太鼓二人の三人が襟元に笹の小枝をさして踊る」ものではない。
「笹踊」といっても、笹を持って踊るわけではなく、その発音も、「お」にアクセントが来るわけではなく、平板で発音される。私が提示した「笹踊」は、韓国・朝鮮語で、三人の踊りを意味する"ses saram nori"が訛ったものとの説の補強となる。また三谷祭の「笹踊」(ここでは「くぐり太鼓」と呼ぶが、「くぐり太鼓」も、濱を進むことから下衣を履いていないが、それ以外は、右記「笹踊」の定義に当てはまる)を除き、「笹踊歌」を伴うが、「笹踊」と、「笹踊歌」は、必ずしも一体不可分のものではなく、したがって当然「笹踊」は當振りによるものではない。
 上記のように、県の「笹踊」についての調査報告はお粗末この上ないものであるが、間(ま)宮照(みやてる)子(こ)著『三河の笹踊り』(日本青年館公益事業部編『民俗芸能』(民俗芸能刊行委員会)三三号収録)は、右記「笹踊」の定義に当てはまる十九所で奉納される「笹踊」について言及しており、生(しょう)田(だ)小(こ)平(へい)次(じ)著『東三河に於ける御神事笹踊』(一九三三年九月一五日發行『愛知縣神職會々報』三五六號收録 國學院大學渋谷キャンパス図書館所藏)も、「笹踊」を奉納する十三社を紹介している。
 また広田弘氏が、一九七二年に、『東海日日新聞』(現東日新聞)に連載寄稿していた「東三河の祭り」の幾つかで、「笹踊」を採り上げている。私はこれらの論考を参考に補遺二「豊川流域の特殊神事「笹踊」の考察」を執筆した。
 以上は、いずれも雑誌や新聞に寄稿したものであるが、書籍の体裁で「笹踊」を採り上げているものとして、塚田哲史著『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』(二〇一八年三月三一日発行 春夏秋冬叢書)がある。同署「はじめに」で塚田は、「それは内容的に、以下の拙個人誌"aqua"の補筆訂正版である」(同書(四頁))と、『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』の内容を塚田が発行していた"aqua"の補筆訂正版と位置付けている。二〇〇七年一〇月五日発行の"aqua"四一号に収録された『愛知県豊川市の笹踊り歌』で塚田は、別段詞章のみから「笹踊」を考察したわけでもない鬼頭秀明著「東三河における祭礼風流の諸相―神幸祭と風流」(『愛知県史民俗調査報告6』渥美・東三河(平成一五年)収録)を、「これは詞章からその実態に迫らうとするもので、それ故に、言はば衣装等の形態的な議論を中心とした諸説よりも信ずるに足るものがある」と、評価している。既述のように「笹踊歌」と「笹踊」は、必ずしも一体不可分のものではなく、しかも「笹踊」は當振りによるものではない。ゆえに「笹踊歌」の詞章から「笹踊」の実態に迫れるものではない。塚田自身『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』の右記の「はじめに」の言説に先立ち、「それも主として笹踊り歌とその採譜といふ、極めて主観的、恣意的な観点を通して見ようと志した笹踊りの現状報告である」(四頁)と述べている。詞章のみから「笹踊」を考察したわけでもない鬼頭の論考を「これは詞章からその実態に迫らうとするもので、それ故に、言はば衣装等の形態的な議論を中心とした諸説よりも信ずるに足るものがある」と評する塚田は、「極めて主観的、恣意的な観点」から「笹踊」を騙っているのである。しかも塚田が高く評価する鬼頭の「東三河における祭礼風流の諸相―神幸祭と風流」は論考の体をなしていない。塚田のいう「極めて主観的、恣意的な観点」を、より具体的に推測すれば、羽田野敬雄と同様、「笹踊り」から朝鮮通信使の影響を排除しようとする意図が読み取れる。
 私と同じく大腸がんstage4で、知人の元新潮編集長の前田速夫氏は、『北の白山信仰 もう一つの「海上の道」』の「まえがき」で、「すなわち自説を唱えるのに、都合のよいところだけをつまみ食いして、具合の悪いことには、一切頬被り、根拠すら示さないのでは、まっとうな読者からまっとうに向き合ってもらうのは困難だろう」と述べている(同書二頁)。塚田哲史著『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』は、まさにこの前田氏の言に当てはまる、まっとうな読者が手にする書籍ではないのだ。しかも塚田の採譜の正確性には問題がある。加えて『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』は、文字校正を本当にしたのかと疑うレベルの書籍である。発行した春夏秋冬叢書も問題だ。
 塚田の『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』のほか、倉光設人(一八八七~一九六六)編『三河の笹踊』上・中・下巻(豊橋市中央図書館藏 一九四九年以降に執筆されたと考えられる)も、手書き原稿であるが、上製本の体裁をとっている。しかし塚田の著作と同様に倉光の著作も詞章の本歌の探求などに紙面を費やし、「笹踊」の所作を論じた「本文篇」は中巻にわずか三十頁ほどだ。何度も現地へ足を運び、「笹踊」を実見していることはわかるが、いかんせん論考の体をなしていない。その論考の体をなしていない、「笹踊」の所作を論じた稿は、手書きであることも相俟って、その内容は、生田氏、間宮氏、広田氏の著作の内容と比べ、量も質も遙かに劣る。

 先に引用した愛知県教育委員会発行『愛知の民俗芸能』の「笹踊り」の項は、「豊川流域では牛頭天王を祀るところが多く、天王を祀る殆どの神社に笹踊りが伝承されている」とも記す。確かに豊川流域、より正確には、豊川下流右岸=寶飯郡東南部は、熱田大宮司家と同族の星野氏の東三河進出に伴い、津島から牛頭天王を勸請し、社を建てた天王社の密集地帶である。その密集地域であるから、「天王を祀る殆どの神社に笹踊りが伝承されている」とすれば、十九ヶ所どころの騒ぎではない。しかも、早い時期に「笹踊」を始めた牛久保八幡社、三谷八劔神社の祭神は牛頭天王ではなく、「笹踊」奉納社には、牛頭天王を祭神としない社も多い。であるが、「笹踊」と牛頭天王を結び付けて語る説も後を絶たない。確かに津島天王社(津島市神明町)には、かつて「笹踊」という名の踊りを奉納していた記録はあるが、笠を冠り、唐子衣裝を着てといった、先に定義した「笹踊」に当てはまるものではなく、手踊りの類だ。
 その「笹踊」であるが、一言で「笹踊」といっても、その特徴は樣々である。
 江戸時代、捕虜返還、國交回復等を目的とした慶長一二(一六〇七)年、元和三(一六一七)年の回答兼刷還使を始め、文化八(一八一一)年まで(ただし文化八年の通信使は對馬までで、最後に東海道を往還したのは、その前の明和元(一七六四)年)、將軍就任祝賀等、合わせて十二回の朝鮮通信使が來訪している。「笹踊」に樣々なとした特徴があるのは、通信使に隨伴する樂隊を範にしたものの、來訪時を異にする通信使を觀て、あるいは同じ來訪時の通信使を觀たものの、場所を異にして觀たことから、範とした踊りが異なり、生田氏の言葉を借りれば、「笹踊は東三河に於ける十數社の神社に行はれて居り、而かもそれ等のすべては各異なつて居り、その神社獨特で、全く同じといふのは一つもない」となったのであろう。もちろん、通信使が來訪しなくなってから「笹踊」を始めたところもあるが。
 その「笹踊」の特徴について記せば、たとえば、吉田のように、小太鼓の踊り手が大太鼓の踊り手より前に位置するときのみ、小太鼓の踊り手が對稱の動きをするところもあれば、大木のように、小太鼓の踊り手二人が常に對稱の動きをするところもある。また小坂井や千両のように、小太鼓の踊り手二人が、全く對稱の動きをしないところもある。さらには、御馬や豊川のように、大太鼓の踊り手も小太鼓の踊り手も、腰から下の動きは同じであるが、上半身の動きだけが異なるところもある。
 もっと大雑把に分類すれば、豊川下流部では、體を屈める、膝を折り、腰を落とす、跳躍するといった踊りそのものに重点を置いて工夫を凝らしているのに對し、上流部では、新城で顯著なように太鼓の叩き方に工夫を凝らしている。
 こうした特徴も「笹踊」が、一ヶ所で始められ、周邊に傳播したものではないことの證據になろう。
 また豊川流域は、天龍豊川水系といわれるように、東の遠州や北の南信州と一つの文化圈を形成しており(三遠南信文化圈)、東三河及び遠州の北部と南信州の南部では、花祭、花の舞、雪祭、霜月祭といった霜月神樂が県境を跨いで行われ、それより少し南では、田樂が、さらにその南には、奥三河の放下や跳ね込み、遠州の大念佛といった念佛踊、加えて、藝能ではないが、山間部では、奥三河の鹿射と、遠州のシシウチが、平野部では、砥鹿神社や賀茂神社(豊橋市賀茂町神山)の馬跳びの馬乘神事が遠州の湖西市にも殘っている。また、沿岸部では、渥美半島の田原や遠州の浜松では凧揚げが盛んだ。
 これだけ鄕土藝能、民俗が共通する東三河と遠州にあって、「笹踊」に對應する藝能が、遠州には、存在しない。これも「笹踊」という藝能が自然發生したのではなく、異國の影響からとの傍證となる。
 ところで、奥三河で繼承されている念佛踊の一つ放下も三人の踊り手が、胸に太鼓を附けて踊る太鼓踊である。研究者であれば、当然「笹踊」を考える上で、放下との關係に思いを巡らせるであろう。先に「笹踊」を大雑把に分類すれば、豊川流域下流部では、體を屈める、膝を折り、腰を落とす、跳躍するといった踊りそのものに重點を置いているのに對し、上流部では、太鼓の叩き方に重點を置いている旨記した。この下流部と上流部の特徴が逆であれば、「笹踊」と放下の直接の關係が考えられるが、この大雑把に分けた特徴から、放下から「笹踊」への直接の影響はあり得ない。放下は、體幹を屈めたり、捩じったりと、上流部の「笹踊」より、下流部の「笹踊」との類似性が高いからである。ただ放下は豊川下流域の平野部でも行われており、それが、朝鮮通信使の影響を受けて、「笹踊」として完成したことは大いにあり得ることだ。なにしろ放下にも胸に太鼓を附けた三人の踊り手がいるからだ。
 補遺二「豊川流域の特殊神事「笹踊」の考察」の総論「豊川流域に分布する「笹踊」の概要」では、以上のような點を中心に、「笹踊」を論じた。

 参考までに下記URLは、本稿と関連する本web-logに投稿した過去の論考
https://tokosabu.dosugoi.net/e1127534.html
https://tokosabu.dosugoi.net/e1127567.html  


Posted by 柴田晴廣 at 06:50Comments(0)牛窪考(増補版)

2022年01月10日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明7(補遺一4)

 既述のように、『仙境異聞』の「うなこうじ」に言及した記述では、古歌が缺落している。羽田野が收集し、貸出していた羽田八幡宮文庫にも、『仙境異聞』は所藏されているが、羽田八幡宮文庫に所藏されていた『仙境異聞』の「うなこうじ」の記述箇所でも古歌は缺落している。
 この缺落した古歌は何であったか。羽田野は、缺落した古歌がどのようなものであるのか知っていたのか。四つ目の見出し「「うなごうじ祭」という通稱についての假説」の項では、まずこれを檢證した。
 結論からいえば、缺落した古歌は、「ちはやふる卯月八日は吉日(きちにち)よ 紙下け蟲を成敗そする」との歌と考えられる。
 羽田野敬雄は、羽田野家に養子に入るまでは、寶飯郡西方村(豊川市御津町西方)の山本家で過ごしており、父の山本兵三郎茂義は、俳諧を嗜み、野溜めがあったであろう田の中を轉げまわる祭禮を催す、隣村の御馬(豊川市御津町御馬)の醫師で、俳人でもあった、南條春(しゅん)林(りん)(一七五一~一八一九)の許に手習いに通っていた。そうした羽田野であれば、『仙境異聞』で古歌が缺落していても、缺落した古歌が、「紙下け蟲」を詠んだ歌であろうことは、容易に推測で來たであろう、というより、四月八日の釋迦聖誕祭である灌佛(かんぶつ)會(え)で頂いた甘茶で磨った墨で、この歌を認め、厠の戸に貼り、蟲封じとした風習は、當時一般的であったから、羽田野でなくとも、缺落した古歌がどんな歌であったかは察しがついただろう。
「若葉祭」は、灌佛會と日を同じくする、卯月八日を本祭とした。『仙境異聞』の「「うなこうじ」の記述と、この「紙下け蟲」を詠んだ歌から、卯月八日を本祭とする「若葉祭」の俗稱「うなごうじ」が關係するかもしれない、との思いが芽生えたのだろう。
 もっとも、篤胤は、寅吉の口を借りて「舌の腫れたるには うなこうじの黒焼きを足の裏に貼りて よく癒るものなり」と、應えているが、これは篤胤のオリジナルではない。水戸光圀が元祿五(一六九三)年に侍醫・穗積甫庵(生没年不詳)に命じて書かせた『救民妙藥』に、「小(せう)兒(に)舌胎(ぜつたい)わらんべ したにでき物で したしろくなるを云(中略)尾(お)長蛆陰干(ながうじかげぼし) 粉(こ)ニして そのこにて あしのひらにはりよし」とある。『救民妙藥』のタイトルからもわかるように、高価な藥が買えない庶民のために、簡單に手に入る野草などを症状にあわせ、その處方をまとめたものだ。時代劇で、携帯用の藥容れの印籠が水戸黄門のトレードマークとなっているのも、こんなところにあるのだろう。
『鄕土趣味』を主宰した田中緑紅は、京都の代々醫者の家に生まれた。田中緑紅は、『救民妙藥』の記述から、地元の柴田踏葉氏が斷定を避けているにもかかわらず、「うながうじは俗に吾々の云ふ雪隱虫の蛆の事を云つたもので、このやんよう神の動作が蛆の樣にはこばないぐづゝしたものであるのでこの若葉祭をうながうじ祭なんかと云つたものなのである」とし、續けて、「紙下け蟲」を詠んだ歌から、「又一説に、今迄いつもこのお祭に關した、豫告の樣なものを便所の戸に貼つたものだからこの名が生まれたともきいてゐる」と、斷定したのであろう。

 ところで、『牛窪密談記』は、「若葉祭」の起源について、「牧野古白入道 或歳四月八日此若宮ヘ參詣アリシニ 其ノ主今川氏ノ許ヨリ使節到來シテ曰 當國渥美郡馬見塚村ノ邊ニテ要害ノ地理ヲ見立 一城ヲ築クヘシト 命令承リテ大ニ悦ヒ 家門ノ譽レ何事カ是ニ如カン 殊ニ當社ヘ參詣ノ折柄此吉事ヲ聞クコト 偏ニ當宮ノ御惠ナリト 取リアヘス庭前ノ柏葉ニテ神酒ヲ獻シ 其身モ快ク三獻ヲ傾ケヌ 猶喜ビノ餘リ 家紋ノ菊桐ヲ柏葉ニ替ヘヌルハ此所以ナリト 古老ノ云傳ヘナリ カクテ年々宗祇 宗長ノ兩子發句ヲ詠シテ若葉ニ結ヒ神前ニ供ヘ奉リ 牧野氏武運長久ノ祈念アリシトソ 是ヲ若葉ノ祭ト號ス」と記す。「神前ニ供ヘ奉リ」た後、發句を結んだ若葉は、言擧(ことあげ)の儀式として焚き上げられたのだろう。一色城の東は、灰塚野と呼ばれた。焚き上げられ、灰となった發句を結んだ若葉は、この灰塚野に流されたのだろう。
 既述のように、牧野氏は、繩文の言語を理解していた。アイヌ語で祭祀の場でもあった灰捨場を"una・kuta・usi"という。この"una・kuta・usi"が訛化して、「ウナゴウジ」となり、「若葉祭」を「ウナゴウジ祭」と呼ぶようになったのではないかという假説を提示した。  


Posted by 柴田晴廣 at 07:50Comments(0)牛窪考(増補版)

2022年01月09日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明6(補遺一3)

 柴田踏葉氏は、おそらく『三河うながうじ祭』を執筆する以前から、東三河平野部には、「若葉祭」のほかにも、地面に寢轉ぶ集團がいる祭禮があることを知っていた。ゆえにヤンヨーガミの寢轉ぶ姿をもってして、「うなごうじ祭」の俗稱が附いたとは思っていなかっただろう。
 ではなにゆえ、地元の柴田踏葉氏が、「俗にいふ此のうながうじ祭は極めて珍奇なもので全國にもあまり類例の尠ない祭である」、「然し此の祭の起因由來は今日何物も考證するものが無いので具體的に一々説明することは不可能である幸ひ諒せられよ」と、「うなごうじー蛆虫説」の斷定を避けているのにもかかわらず、『鄕土趣味』を主宰する田中緑紅は、自身が著した『うながうじ祭雜話』で、「うながうじは俗に吾々の云ふ雪隱虫の蛆の事を云つたもので、このやんよう神の動作が蛆の樣にはこばないぐづゝしたものであるのでこの若葉祭をうながうじ祭なんかと云つたものなのである又一説に、今迄いつもこのお祭に關した、豫告の樣なものを便所の戸に貼つたものだからこの名が生まれたともきいてゐる」と斷定してしまったのであろうか。
 その答えが、田中緑紅が「若葉祭」見學に訪れる三年前の大正一〇年の「若葉祭」にある。
 この年の「若葉祭」では、「笹踊」擔當の寺町と、そのほかの上三町、下中町、裏町が揉め、解決に一年を要した。それだけの長い時間をかけ一應の解決を見たものの、寺町が完全に反省していたとは思えない。
 たとえば田中緑紅は、その著『うながうじ祭雜話』で、「特にこの連中の前を、又其中を横切るものがあれば誰かに關はらず半死半生に會はし衣服等裂けてしまうと云ふ事である、それ程この祭については權威をもつてゐる、たゞ仕末の惡いのはこの組の子供達で、やんよう神の連中より一丁程も先きに歩いて通行迄禁止させやうとしてゐる、町の氏子の人々は昔からの習慣を知つてゐるが旅の者には頗る迷惑な事も出來よう」と記していることからも、それがわかる。
 こうした寺町の態度から、「あいつら蛆蟲だから」といった言説を寺町以外の牛久保の住人が口にし、それが田中緑紅の耳に入ったことは大いにあり得ることだ。
 それがきっかけになり、田中緑紅の『うながうじ祭雜話』を介し、「うなごうじ=蛆蟲説」が人口に膾炙したと考えられるのである。
 ではなぜに、「笹踊」を擔當する寺町と、その他の町内が揉めたのだろう。實は「笹踊」を擔當する町内と、そうでない町内が揉めたのは、牛久保だけではない。
 新城でも幕末に、「笹踊」を擔當する橋向と、山車や底拔屋臺を所有する本町が揉めている。
 山車や屋臺を持つ町内と、それを持たず、「笹踊」を擔當する町内の諍い。いってしまえば、經濟格差により、祭禮にかこつけて、憂さ晴らしをしたわけだが、それを祭禮組織の主體たる若連、祭禮の進行を指揮する年行司の役割の變容から、説明したのが、三つ目の見出し「大正一〇年の「若葉祭」と祭禮組織の變容」の項である。
 神社本庁庁規は、氏子総代について「神社の運営について、役員を助け、宮司に協力する者」と規定する。神道政治連盟の活動から明らかなように傳統文化と地域の民俗を否定する神社本庁は、氏子総代を介し、祭禮組織の洗脳を進めている。奇しくも二〇二〇年二月末の"SARS-CoV-2"の感染拡大により、祭禮についての意識の変容は顕在化した。たとえば、疫病退散を祈る祇園會に起源を持つ祭禮の多くも中止になっている。
 祭禮以上に変容が顕在化したのが、葬儀だろう。
「村八分」という言葉がある。「村八分」の殘る二分は、火事のときと、葬儀のときだ。つまり、類燒を防ぐのと、遺體の放置を防ぐために二分を殘したのだ。ところが、昨今の家族葬。これなど自ら村九分を望んでいることになる。
 共同幻想より、遺族の故人への対幻想が、優先したということである。これも"SARS-CoV-2"の感染拡大により、顕在化したことだが、祭禮組織の變容は、神佛分離、英米との戰爭で、徴兵により若者組が崩壞したことも大きい。直ぐに顕在化しなかっただけのことだ。これが"SARS-CoV-2"感染拡大による祭禮の中止や縮小により浮き彫りになって来た。
 自己幻想、対幻想、共同幻想については、すでに本話の「はしがき」で説明したように、吉本隆明(一九二四~二〇一二)が、一九六八年に刊行した『共同幻想論』で、国家の成立の説明に使った用語であるが、人の営みである人類学の範疇に含まれる民俗に当てはめることも有効である。
 人の営みを研究の対象とする民俗學であるが、人の営みには、当然経済活動も含まれる。ところが、柳田民俗學は、經世濟民の視点を全く欠く。
 また人生五十年の時代と異なり、平均寿命が延びた今日においては、通過儀禮を祝う還暦、古希、喜壽、傘壽は当たり前、米壽、卒壽、白壽も珍しいものではない。いまに二度目の還暦を祝う者も現れよう。ところが、こうした今日的な冠婚葬祭について語った民俗調査を私は知らない。
 さらに、柳田が、昭和一六(一九四一)年、東京帝國大學の理工系の學生を中心とした聽衆の前で語った『日本の祭』は、多神教のわが國で、マツリとサイレイの別を神事と佛事に分けるなど、全くの思い附きの戲言に過ぎない。
 文獻に殘らない歴史の一つの民俗、特に祭禮の變容の考察について、柳田民俗學は全く役に立たないのである。
 さらに人の営みには、自然科学からのアプローチ、人文科学からのアプローチの両者とも必要だが、いまだに理系、文系という無意味な分類がまかり通っている。
 加えて、このクニの学制には、哲学科はあっても、哲学部はない。そして哲学科は文学部に置かれている。史学科も同様だ。
 なぜこうなったのか、わが國の學制の確立に大きく關わったお雇い外国人に歴史を語ったのは、國學者であった。彼らが語った歴史は、史實ではなく、「記紀」という創作物語=文學であった。
 そして、こうした国學者が信奉した神道には、衆生濟度といった哲學もない。ゆえに文學部の下に史學科や哲學科が置かれたのだ。
 もっとも、国學者が信奉した神道に哲學的要素がないだけで、道元(一二〇〇~一二五三)著『正法眼藏』卷二〇「有時(うじ)」、卷二九「山水經」といった時間空間論を記した優れた哲學書がなかったわけではない。
 また自身が興味のある分野でなく、補助金の出易い分野の研究を選択するというこのクニの研究者の態度も考えものだ。自身が興味のある分野であれば、楽しく習う楽習だが、興味のない分野は、勉強、すなわち、強いて勉める→嫌々やる→身に付かんのだ。
 大体、補助金を頼りにすれば、忖度が生まれ、学問の自由(日本国憲法二三条)が担保出来ない。
 さらに基礎的研究には、補助金が必要との声も聞くが、知的財産権法の無理解も甚だしい。基本発明から改良発明が生まれ、改良発明を実施すれば、基本発明を利用することになる。ゆえに、改良発明を実施すれば、基本発明の発明者の発明を実施することになり、基本発明の発明者へ実施料(ロイヤリティ)が支払われることになる。
 そもそも実施料収入に繋がらないような研究は有用性に欠ける。そんなものに公的補助をする必要はない。
 公的補助に頼るより、 弁理士に頼まず、特許明細書も自身で作成し、出願した、Mr半導体・西澤潤一(一九二六~二〇一八)東北大学総長の姿勢を見習うべきである。
 加えて置けば、經世濟民、衆生濟度という物差しで、學問や藝術を考察することは重要なことだ。
 三つ目の見出し「大正一〇年の「若葉祭」と祭禮組織の變容」では、大正一〇年の「若葉祭」の祭禮紛擾事件の田中緑紅に輿えた影響とともに、祭禮組織の變容の考察に有効な手段・方法についても言及した。  


Posted by 柴田晴廣 at 08:29Comments(0)牛窪考(増補版)

2022年01月08日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明5(補遺一2)

 既述のように、「うなごうじ=蛆蟲説」が文獻に初めて記されるのが、牛久保の人・柴田踏葉氏が、雜誌『鄕土趣味』大正十三年六月號(通號第五十四號)に寄稿した『三河うながうじ祭』及び『鄕土趣味』を主宰する田中緑紅が同號で著した『うながうじ祭雜話』である。
 その柴田踏葉氏は、『三河うながうじ祭』で、「實際長蛇のような神幸の行列が長時間に亙つてゆつくり練り歩く樣子といひ、殊に行列の殿を承つてゐるやんやうがみ(八百神)が轉ぶ樣子等は少々尾籠な事ではあるが、便所等にゐる彼の蛆を髣髴たるものがある」と記し、續けて「俗にいふ此のうながうじ祭は極めて珍奇なもので全國にもあまり類例の尠ない祭である」とも記している。
 この「うながうじ祭は極めて珍奇なもの」としつつも、「全國にもあまり類例の尠ない祭である」との書き振りは、實をいえば、「笹踊」の囃子方が地面に寢轉ぶ祭りは、『若葉祭』に限ったものではないと柴田踏葉氏も認識していたと思われるからだ。
 柴田踏葉氏が、『三河うながうじ祭』で、「然し此の祭の起因由來は今日何物も考證するものが無いので具體的に一々説明することは不可能である幸ひ諒せられよ」と綴るのも、地面に寢轉ぶ集團がいる祭りは、『若葉祭』に限ったものではないとの事實を踏まえてのものと考えられる。
 それを檢證したのが、二つ目の小見出し「田中緑紅主宰『鄕土趣味』の功罪」の項である。
 その『若葉祭』以外で、「笹踊」の囃子方が地面に寢轉ぶ祭りは、大木進雄神社(豊川市大木町山ノ奥)と、式内石座神社(新城市大宮字狐塚)の祭禮である。ただ、二箇所とも、「笹踊」の囃子方がいつから地面に寢轉ぶようになったかは定かではない。だが、この二箇所の祭禮が「うなごうじ祭」と呼ばれることはない。つまり、「笹踊」の囃子方が地面に寢轉ぶことをもって「うなごうじ祭」の呼稱が附いたとは考えられないのだ。
「笹踊」の囃子方ではないが、柴田踏葉氏が『三河うながうじ祭』を寄稿する以前から、地面に寢轉ぶ集團がいた祭禮がある。しかも、「笹踊」を奉納する祭禮である。それが引馬神社(豊川市御津町御馬字梅田)の祭禮で、寢轉ぶ集團は、トウフ(一般にいう一本柱万度のこと)を奉持する係だ。この係の者は、かつては野溜めもあったであろう水を張った田に寢轉び、轉げまわる。この祭りも御馬のうなごうじ祭と呼ばれることはない。
 雜誌『鄕土趣味』通號第五十六號(大正十四年四月二十日發行)には、この御馬の祭禮について記した『三河引馬神社の奇祭』が載る。著者は、岡崎市在住の稻垣豆人である。
 ところが、筆者の稻垣豆人は、同稿で、「三河寶飯郡内引馬神社の奇祭を耳にしたから茲に發表して、研究家の參考資料に供する次第である、遺憾なるは未だ其實際を見聞せざる事である」と書き出している。つまり稻垣は實際に引馬神社の祭禮を見學して、同稿を執筆したわけではないのだ。
 日本民俗學最初の採集記録といわれる柳田國男(一八七五~一九六二)が著作者となっている『後狩詞記』(一九〇九年刊)は、同書で柳田が述べるように「この本は現在むやみに景氣がいいが、實は又私の著書では無く、日向の椎葉村の村長の口授を書寫、それに或舊家の獵の傳書を添えて、やや長い序文だけを私が書いたもの」であるし、柳田を世に知らしめた『遠野物語』(一九一〇年刊)も、岩手縣上閉伊郡土淵村(現遠野市土淵)出身の佐々木喜(き)善(ぜん)(一八八六~一九三三)が語った話を、柳田が筆記編集したに過ぎない。
 日本民俗學自體がフィールドワークによるものではなく、各地の研究者から柳田のもとに送られて來た資料を、編集したに過ぎないのである。
 それに倣って、稻垣豆人も誰かがフィールドワークして、書いたレポートを上梓したに過ぎないのである。では、そのレポートは誰が書いたのか。
『鄕土趣味』通號第五十六號の口繪を飾る、「三河國引馬神社祭禮の一行」のタイトルのついた寫眞は、柴田踏葉氏が撮影したものだ。引馬神社の祭禮に足を運び、レポートを書き、稻垣豆人に渡したのは、柴田踏葉氏に違いない。ところが、柴田踏葉氏の期待に反し、上梓された『三河引馬神社の奇祭』の紙面の多くは、地面に寢轉がるトウフの係員ではなく、「七福神踊」に割かれていた。
 推測になるが、なぜに柴田踏葉氏が、引馬神社の祭禮の樣子のレポートを記したかといえば、雜誌『鄕土趣味』大正十三年六月號(通號五十四號)に寄稿した『三河うながうじ祭』への反響が思ったほどなかったからだろう。
 たとえば、『東三河道中記』(一九三五年發行)の著者・豐田珍彦は、『鄕土趣味』の正會員であるが、豐田は、同書で、「その行列の殿りを承るやんよう神が泥の中をも構はず寢たり起きたりする樣は實に奇觀です。これは笹踊のはやし方で、その轉ぶ樣がうなごうじ(うじ虫)に似てゐるから付けられた名です」と、柴田踏葉氏が、『鄕土趣味』に寄稿した『三河うながうじ祭』を読んだとは思えない、いい加減な書き振りだ。『鄕土趣味』の正會員で、地元の人ともいえる豐田でさえ、このありさまなのである。
 では、なぜ稻垣豆人にレポートを渡したのか。これも推測になるが、稻垣豆人の顔の廣さへの期待からだっただろう。
 繰り返しになるが、柴田踏葉氏の期待は裏切られた。
『三河引馬神社の奇祭』の基となるレポートを書いたのが、柴田踏葉氏だとしても、柴田踏葉氏が『三河うながうじ祭』を執筆する前から引馬神社の祭禮でトウフの係員が寢轉ぶのを知っていたかという問題がある。
 結論としては、柴田踏葉氏は知っていたと考えられるが、それを詳述に檢證するとともに、稻垣豆人が興味を示した「七福神踊」についても、詳細に言及した。
 この「七福神踊」は、「七福神踊」とはいっても、辯才天の代わりに白狐が加わり、毘沙門天あるいは壽老人を缺くというもので、御馬のほか、蒲郡市の三谷、竹島、清(せい)田(た)、竹谷、形原で奉納される(かつては蒲郡市の東大塚でも行われていた)。
 なぜに辯才天の代わりに白狐が加わり、毘沙門天あるいは壽老人を缺くのかという點について、本地埀迹説を驅使して説明した。「うなごうじ=蛆蟲説」からは外れたものであるが、「七福神踊」についてのまとまった論考がないだけに、有用なものと自負している。  


Posted by 柴田晴廣 at 08:14Comments(0)牛窪考(増補版)

2022年01月07日

ひらかな盛衰記

 今朝の投稿(https://tokosabu.dosugoi.net/e1216389.html)で、清樂『九連環』の替え歌について記し、昨日の投稿の末には、清樂『九連環』に関する過去の投稿のURL(https://tokosabu.dosugoi.net/e1170982.html)を記した。
 本日の新聞のテレビ欄を見たら、夜9時からのEテレ「にっぽんの芸能」で、『義太夫・ひらかな盛衰記』の「神崎揚屋の段」を放送するではないか。
 『ひらかな盛衰記』は、元文四(一七三九)年、大坂竹本座で人形淨瑠璃として初演、二代目竹田出雲(一六九一~一七五六)、三好松洛(一六九五~一七七一?)らによる合作の全五段の時代淨瑠璃。
 「神崎揚屋の段」は第四段。
 この「神崎揚屋の段」の「無間の鐘」の場面からヒントを得て、假名垣魯文(一八二九~一八九四)が、戲れで歌詞を附けたのが、「梅ヶ枝の手水鉢」だ。
 「無間の鐘」は、叩けば富を得るものの、來世では無間地獄に落ちるとされる鐘で、遊女・梅ヶ枝が、梶原源太景季のために、無間地獄に落ちるのを覺悟して「無間の鐘」に準えた鉢を叩いたところ、小判が降るのが、「神崎揚屋の段」の「無間の鐘」の場面だ。
 假名垣魯文は、『九連環』のメロディーに、「梅ヶ枝の手水鉢 叩いてお金が出るならば もしもやお金が出たときにゃ そのときゃ身請けをそれ頼む」との詩を載せたのだ。
 「無間の鐘」は、遠州菊川の空道上人が掛川の粟ヶ岳にあった曹洞宗の寺院・無間山觀音寺(掛川市東山)に懸けたといわれる。觀音寺は明治の廢佛毀釋により廢寺となり、粟ヶ岳には阿波々神社(掛川市初馬/天平八(七三六)年創建)のみが殘る。
 話を清樂『九連環』に戻せば、『九連環』傳來ルートには、〝清國寧波→長崎→上方→名古屋→江戸→各地〟のほか、〝寧波→遠州袖志が浦→各地〟のルートがあったという(曲亭馬琴(一七六七~一八四八)著『著作堂一夕話』)。
 遠州袖志が浦は、竜洋袖浦公園(磐田市飛平松)にその名が殘っており、寛政一二(一八〇〇)年、清國船「萬勝號」が、太田川河口の、現在はコーデロイの生産地として有名な福田(ふくで)漁港沖に漂着し、その乘組員から、福田の人々に傳わり、全国に傳播した。假名垣魯文もこの『九連環』流入ルートを踏まえ、同じ遠州の「無間の鐘」をモチーフにした「梅ヶ枝の手水鉢」の詩を附けたのだろう。
 牛久保にも福田からのルートで『九連環』が流入したのであろう。「梅ヶ枝の手水鉢」は、国府、御油、赤坂のお祭りでも奏でられる。国府、御油、赤坂の囃子車は、遠州の影響がみられる。寛政年間に赤坂陣屋が遠州中泉陣屋の管轄になったことからだろう。御油の新丁では、二人立ちの獅子舞を奉納するが、元々はこれは三匹獅子だったと考えられる。三匹獅子の太平洋側の西限は、掛川大祭で、瓦町が担当する「かんからまち」であるが、新丁の獅子舞は、これが傳わったのであろう。舞われてはいないが、国府の臨時祭には、大社神社の拝殿に緑二、赤一の三匹獅子用の獅子頭が飾られている。

 話は変わるが、私は若干ではあるが、吃音があった。それを治そうと、大学入学直後、池袋の演芸場に足を運んだ。何度も足を運ばずに、吃音は治ったが、落語を理解するには、芝居を知らなければならないということにも気づいた。
 学生時代であるから、金に余裕があるわけではないから、「大向こう」で、芝居を観た。若いということもあって、「大向こう」の見巧者の方が芝居の知識を教えてくれた。
 『假名手本忠臣藏』の各段は落語になっているし、先にURL(https://tokosabu.dosugoi.net/e1170982.html)を挙げた『眠る駱駝物語』は、落語の『駱駝の葬禮』を芝居に直したものだ。
 こうした落語や芝居の知識が『牛窪考(増補改訂版)』拾遺一補遺三「隱れ太鼓」考」の執筆に役立ったことはいうまでもない。上記の見巧者の方からの知識のみならず、建て替え前の御園座の演劇図書館で閲覧した書籍からの知識も大きかった。
 今回の投稿の内容は、『牛窪考(増補改訂版)』拾遺一補遺三「隱れ太鼓」考」のみならず、補遺一等でも使ってある。  


Posted by 柴田晴廣 at 15:26Comments(0)牛窪考(増補版)雑談

2022年01月07日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明4(補遺一1)

 補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」は、拾遺一「「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と豊川流域の「笹踊」」の最初の見出し「 「うなごうじ祭」は「蛆虫祭」ではない」に対応するもので、「うなごうじ=蛆蟲説」が過誤記憶から共同幻想に昇華する過程をさらに詳述に檢討したものである。
 既述のように、「うなごうじ=蛆蟲説」の淵源は羽田野敬雄にあるが、その羽田野が牛久保をどう見ていたか。それを檢證したのが、最初の見出し「平田派國學者・羽田野敬雄の牛久保觀」の項である。
 既述のように、「牛久保八幡社社傳」は、その創建について「天平神護(七六五~七六七)のころ、三河國は日照りが續き五穀が實らず飢饉となった。その翌年も不作となり、里人は離散し、土地は荒れるにまかせられ、この地は常荒と呼ばれるようになった。國司は、住民の心が荒ぶことを憂い、氏神・若宮殿の社殿を建立した」旨を記述する。
 この三河の旱魃については、『續日本紀』卷二六天平神護元(七六五)年三月乙未(四日)條に載り、その三年前の天平寶字六年にも三河では旱魃があり、『續日本紀』卷二四天平寶字六年(七六二)年三月戊申(二九日)條は、旱魃が起こる理由を、國司が國津神を祀らないための天罰である旨を載せる。
 現在牛久保八幡社の祭神は、大雀(仁德)であるが、それは表向きのことで、實際には、地祇を祭神とするのである。牛久保八幡社の社格は鄕社であったが、この社傳では、上を望むことは出來ない。というより、鄕社の社格をよく得られたものだ。神主でもある羽田野も同樣に思っていただろう。
 さて、その羽田野は、平田派國學者であったが、國學とは名ばかりで、その核心は儒學にあった。
 尊皇攘夷の尊皇は、儒學の尊王斥霸に由來する。「記紀」の記述を読むまでもなく、「記紀」を眺めるだけで、天皇なんていうのは、古代の霸者であることは明白だ。尊王斥霸からいえば、天皇は、尊ぶ存在ではなく、斥けるべき存在なのだ。
 加えて置けば、「万世一系」という父系制も儒學によるものである。卑彌呼から臺與への祭祀の繼承、『源氏物語』における妻問婚の形態、江戸時代の商家での優秀な奉公人を婿に迎える婚姻形態、最近若干崩れてきたが、相撲部屋におけるおかみから娘への部屋の継承。このように、このクニ本來の相續の姿は母系であり、「万世一系」は、このクニの相續の形態としては極めて異質なものだ。このことからも天皇はこの国から排除すべき存在といえるのだ。
 攘夷という言葉も儒學の華夷秩序から來るものだが、倭は中国の史書の東夷傳等に載ることからもわかるように、華夷秩序では、夷荻なのである。
 その夷の倭を、華と勘違いするきっかけは、明からの亡命者・朱舜水(一六〇〇~一六八二)の「日本こそが中華である」との言説にある。
 もちろん、朱舜水は、「日本こそが中華である」など本心で思っているはずもない。
 クニの成立条件の一つに通貨発行権がある。日本で通貨が發行されるのは、寛永通寶(一六三六年初鑄)からだ。それまでは、永樂通寶などの中国錢が流通していた。アメリカの準州のグアムでは米ドルが通貨として使われている。朱瞬水が來日する四半世紀前まで日本は中国の準州のような存在だったのだ。
 暦についても、貞享暦(一六八五年編纂)の採用まで、中国からの借りものであった(明治になり西洋からの借り物に戻る)。
 朱舜水が本心で、「日本こそ中華」などというわけがない。
 ところがおめでたい輩もいるもので、山鹿素行(一六二二~一六八五)が、本心からいったでもない、朱舜水の「日本こそ中華」の言説を眞に受け、『中朝事實』を著す。
 また平田篤胤は、秋田藩の大番組頭・大和田家の四男として生を受ける。この大和田家は、徹底した「尊王斥霸」論者の淺見絅齋(けいさい)(一六五二~一七一二)門下であり、篤胤は玄胤―─依胤―─祚胤と續く朱子學を家業とする家に生まれた。
 また幕末のテロリスト養成機關・松下村塾を主宰した吉田矩方(一八三〇~一八五九)は、おめでたい山鹿素行(一六二二~一六八五)の子孫の山鹿素水(?~一八五七)の門人だ。
『日本書紀』卷二(神代下)第九段本文は、「然 彼地多有螢火光神及蠅聲邪神 復有草木咸能言語」と、同段一書第六は、「葦原中國者 磐根 木株 草葉 猶能言語 夜者若熛火而喧響之 晝者如五月蠅而沸騰之」と、『古事記』上卷の葦原中國平定條も「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者 伊多久佐夜藝弖有那理」と、草木までものいう「八百萬の神祭り」の姿を描寫する。この多神教の世界は、『大乘涅槃經』で説かれる「一切衆生悉有佛性」、安然(八四一?~九一五?)が著わした 『斟成私記』の「草木國土悉皆成佛」へと受け繼がれ、謠曲の「鵺(ぬえ)」、「墨染(すみぞめ)櫻(ざくら)」、「芭(ば)蕉(しょう)」、「杜若(かきつばた)」、「六浦(むつら)」、「現在七面(げんざいしちめん)」、「西(さい)行櫻(ぎょざさくら)」、「高砂(たかさご)」、「定(てい)家(か)」などの中の妙文を通じて擴く浸透した。
 ところが、幕末の國學は、「八百萬の神祭り」とは、かけ離れた、排他的なものなのである。
 その排他性を旨とする國學者の羽田野の目には唐子衣裝をまとった「笹踊」、同じく唐子衣裝で太鼓を叩く「隱れ太鼓」を祭禮出し物とする牛久保の『若葉祭』はどう映っただろう。
『仙境異聞』に書かれた「うなこうじ」と、『若葉祭』の異稱「うなごうじ祭」の「うなごうじ」は關係があるかもしれないといったことを口走っても不思議はない。
 唐子衣裝をまとい、太鼓を叩き踊る「隱れ太鼓」が演ぜられる大山車を曳く際には、清樂『九連環』の替え歌を唄った。實は、この『九連環』が補遺三 「隱れ太鼓」考」の「『帝都物語外伝 機関童子』に見る「若葉祭」の「隱れ太鼓」」の項の伏線になっている。
 既述のように、私の著作は、独自の視点から独自の展開をしている。そしてこのような伏線を幾重にも張ってある。拾い読みしても、理解は困難であろう。読むなら最初から順に読んで頂きたい。
 幕末には遠州灘にも外国船が航行し、否が応でも、倒幕と攘夷が重なり、神主の羽田野は廢佛毀釋へと突き進むのだ。
 羽田野の目に『若葉祭』がどう映ったかは想像に難くない。

 下記URLは、清樂『九連環』に関する過去の投稿
https://tokosabu.dosugoi.net/e1170982.html
  


Posted by 柴田晴廣 at 06:42Comments(0)牛窪考(増補版)