2022年03月30日

登美那賀伝説

 本日『登美那賀伝説』が完成。
 知人等に配布するとともに、国立国会図書館に納本しました。
 A4判縦書き198P、文字数121,562字。
 目次は以下のとおり。

  登美那賀伝説 〈目次〉

はしがき 6
 第一章 野田城主富永氏 22
  第一節 首無の冨永 22
  第二節 夭逝千若丸 25
  第三節 石座神社と富永氏 37
 第二章 神武東征考 58
  第一節 神武東征の出發地は對馬だ 58
  第二節 大和の攻防 74
  第三節 磯城縣主家系圖を復元する 103
  第四節 大田田根子は磯城縣主だ 121
 第三章 三河大伴考 141
  第一節 大伴直と倭宿禰 141
  第二節 三河大伴直と石座神社 154
  第三節 安日傳承の原像 162
 (拾遺) 富永系圖と木地師 168
   海倉淵の椀貸傳説 168
   惟喬傳説と六歌仙 179
あとがき 190
主要参考文献 196

追伸(3/31)
内容については、先に投稿した『穂国幻史考(増補新版)』の手引きの該当箇所(以下がそのURL)を参照してください。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1222399.html
https://tokosabu.dosugoi.net/e1222467.html
  


Posted by 柴田晴廣 at 16:54Comments(0)登美那賀伝説

2022年03月18日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明25(あとがき~)

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」の「あとがき」では、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」の各論を総括するとともに、なぜに『穂国幻史考』に、自己幻想、対幻想、共同幻想の概念を用い、改訂し、『穂国幻史考(増補新版)』として、新たに刊行しようとした理由を記した。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」の基となる『牛窪考(増補版)』刊行後の二〇一七年七月一九日に、がんの転移を見落とされ、誤魔化しの説明を受けるとともに、余命八月、治療をしても三十月との宣告を受けた。
 当然のことながら、自分が死んだら、周囲の人たちはどんな思いをするだろうと考えた。対幻想である。そして『牛窪考(増補改訂版)』の執筆中に父が急逝した。父の死により、対幻想が具体化するとともに、対幻想に幾つかの類型があること、氏神信仰や怨靈信仰は、対幻想の概念を用いて説明できることに気が付いた。
 さらには、祭禮を見学していてよく耳にする「昔からこうだった」のほとんどは自己幻想に過ぎないこと、祭禮組織ないし祭禮の變容は、自己幻想、対幻想、共同幻想の概念を用いて説明出来ることにも思い至った。
 加えて「記紀」の描く世界は究極の共同幻想であること、この究極の共同幻想を解體するには、これも共同幻想であるが、本地埀迹説が有効なことに気付いた。『穂国幻史考』に自己幻想、対幻想、共同幻想の概念を用い、改訂し、『穂国幻史考(増補新版)』として、新たに刊行しようとした理由は以上である。

 余談になるが、余命宣告を受けて、一応であるが、自身の死生観も確立した。此世も彼世も「胡蝶之夢」と認識している。この連続が輪廻転生。「胡蝶之夢」のような優雅な内容ばかりではないから、六道輪廻。よく登場する人物や場所は宿縁があると思っている。もっとも、「色皍是空 空皍是色」とは程遠い。自分で戒名を付けたのも此世への執着の裏返しだ。

 がんの転移の見落としの説明から、医療機関ないし医療行政の出鱈目さにも気付かされた。
 臨床も当然ながら、経験則が、科学的根拠に先行する。後付けの科学的根拠が見つからないだけで、経験則上、有効な治療であっても、エビデンスがないと斥けるのが、医学の世界ではまだまだ横行している。
 これと関係するが、分析技術なども完全とはいいがたい。
 化学合成薬の歴史はたかだか二百年。副作用もこの未熟な分析技術と相俟ってのものと思う。
 生薬を使うのは、東洋医学のみではない。リキュールは、古代ギリシャの醫師ヒポクラテス(Hippocrates/前四六〇頃~前三七〇頃)が、ワインに藥草を溶かし込み、藥酒を作ったのを起源とする。
 プロテスタントの醫教分離まで、リキュールの多くは、教会や修道院で作られていた。
 この醫教分離は、わが国にも及び、四苦八苦の四苦(生老病死)からの衆生濟度を缺いた醫師は、醫は算術に走った。醫は算術とはいわないまでも、陸軍々醫總監で、陸軍省醫務局長を務めた森林太郎(一八六二~一九二二)も四苦からの衆生濟度を缺いた醫師の一人だ。
 さらにやっかいなのは、一部の外科醫は、關東軍防疫給水部本部で、四苦からの衆生濟度とは眞逆の人體實驗を行い、いまだにその弊害はこのクニの医学会から払拭されていないことだ。
 医療行政の一つである、がん治療の標準ガイドラインについて言及すれば、このガイドラインは、自由と自由が衝突したとき、精神的自由より経済的自由が優先するという新自由主義者の小泉純一郎が厚生大臣のときに助成金が交付され、制定されたものだ。四苦からの衆生濟度より経済性を優先させたものだ。もちろん本來の意味の救世濟民ではなく、救世濟民の視点を欠く経済性だが……。

 国家資格の中でも、自動車の運転免許証並みに不合格になるのが、難しいのが医師免許の試験だ。加えて、博士号の中で最も取得しやすいのも医学博士だ。医療行為も契約という側面から見れば、コンビニでジュースを買うのと変わりはない。ところが、事前に価格も提示せず、ぼったくりと変わらないのが医療契約だ。日本医師会の会員の中の一定数の医師は、医療は特別との共同幻想を定着させなければ、医師の権威が保てないと思っているのだろう。誤解のないように加えて置けば、私は優秀でまっとうな医師がいないといっているのではない。そのような優秀でまっとうな医師の意見をかき消すほど、医療は特別との幻想を流布させようとする声が多いことを問題にしてるのだ。

 話は変わるが、『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」第四章「虚構の万世一系と持統の生い立ち」の第一節のタイトルは、「易姓革命から逃れるために姓を棄てた持統」である。この持統の棄姓により易姓革命は機能しなくなり、放伐思想は封じられた。結果、このクニでは、為政者に護民思想が生まれず、民を護れぬ国はとっとと潰し、新たに民を護れる国を創るという、当たり前のことも理解していない政治屋が跋扈している。そうした主権在民を理解していない政治屋は押し並べたように「日本のため」と口にする。
 封建時代には、「民は生かさず、殺さず」との言葉があったが、主権在民のいま、「クニなど生かさず、殺さず」が、クニを縛る指針と民衆も理解すべきだ。これが徹底されないから、生産性とは対極にあるオリンピックでメダルを獲得することが、先進国だとの勘違いが始まる。
 加えて、オリンピックが平和の祭典であるというのも幻想だ。近代オリンピックが始まった当初、参加資格があったアマチュアとは、軍人、士官学校生、そして学生だった。一九五二年に開催されたヘルシンキ大会まで馬術の出場資格は軍人に限られていた。
 パラリンピックも第二次世界大戦の傷病軍人のスポーツ大会が起源だ。

 さて、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の説明で述べたように、わが国の佛教界のレベルはことのほか低い。
 これは朱印などにも顕現している。せめて朱印ぐらい、キリスト教やイスラムに倣い佛教暦で年月日を記すか、宗祖の生誕年、あるいはその寺院の創建年からの紀年を用いてもらいたいものだ。
 神道についても同様だ。地祇を祭神とする神社で元號を朱印に用いるなど、祭神の冒涜に他ならない。かようにこのクニの宗教者のレベルは低い。
 宗教、政治、医療とありとあらゆる分野で、このクニは出鱈目なのだ。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」の「あとがき」では以上のようなことも記した。

『穂国幻史考(増補新版)』の「あとがき」では、『穂国幻史考(増補新版)』利用における著作権法上の注意点等、第三話の「あとがき」では、がんの転移を中心にその治療の問題点を説明したが、ここでは再発時を含めた具体的に私がどのような治療をしたか、及びその治療の選択肢を狭める、医療行政における官民癒着の一例レジメンの弊害についても言及した。

『穂国幻史考(増補新版)』は、東三河の歴史や民俗を題材にしたものの、通説をなぞったものではない。東三河の歴史や民俗を介して、歴史や民俗から何をどう学び、どう生かすかの地均しの論考と自負している。
 以上、『穂国幻史考(増補新版)』を読み進める上での参考になれば、幸甚である。
 多様な価値観が認められる社会の実現を目指し、主権在民を謳う日本国憲法が施行された一九四七(昭和二二)年をもって、日本国元年とする紀年を記して、筆を置く。

  日本国七六年三月吉日
                                                                        穗國宮嶋鄕常左府にて
                                                                             理證晴連居士  


2022年03月06日

『穂国幻史考(増補新版)』の手引き14(第二話拾遺・あとがき)

 さて『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」の拾遺「富永系圖と木地師」では、富永氏が城主だった、野田館垣内城の豊川の對岸に當る海(かい)倉淵(くらぶち)(新城市一(ひと)鍬(くわ)田(だ)殿海道(とのかいどう)及び一鍬田五井ノ巣(ごいのす)邊り/舊八名郡)に傳わる椀貸傳説と、大伴黒主(生没年不詳)を介して六歌仙と惟喬傳説について考察した。
 ここに椀貸傳説は、沈默交易の一種で、轆轤(ろくろ)を操り木製食器を製作する漂泊の民・木地師と、定住農耕民との交易が傳説化したものだ。
 具體的には、「ハレ」の折など人が大勢集まり、たくさんのお椀が必要なときに、必要な數を書いた紙を池や川の淵などに流すと、その紙が池や川の淵へ吸い込まれて行き、やがて必要な數のお椀が浮かび上がって來るが、あるとき、不心得者が蓋を缺いたまま椀を返し、龍神の怒りに觸れ、それ以降は、願いを聞き入れてくれなくなったという説話である。海倉淵も龍宮に續くといわれる。
「椀貸傳説」の中には、椀を授けるために池の中から出て來た手を引いたため、それ以降貸してくれなくなったというものもある。「河童の駒引」や、アイヌとコロポックル("korpokkur"アイヌ語でフキの下に住む人を意味する)の交易と、同様のモチーフである。
「河童の駒引」とは、河童が馬を川へ引きずり込もうとしたが、逆に馬主に捕らえられて、懇願のすえ助命される。河童は、それ以來、馬主の家で器物が必要なときは、夜中に馬主の家の軒先に器物を揃えておいたが、馬主の返却ミスにより途絶えたというものだ。
 河童は、腕を拔くことが出來、骨接の術に長けたといわれる。河童の特技は忍術に通じるものがある。三河富永氏の本姓は三河大伴氏であるが、忍者の祖は、阿毎を姓とした倭王・蘇我馬子(五五一?~六二六)の時代を生きた大伴細人(しのび)である。海倉淵と大伴氏の繋がりが窺える。

 長瀬の集落の唯一の寺院・松雲山海藏(かいぞう)寺(じ)(豊橋市長瀬町郷西/曹洞宗)は、宗教施設というより、公共施設の要素が强い。海藏寺という寺號も海倉淵から附けられたと、私は考える。長瀬の氏神は牛頭天王であるが、海藏寺の本尊は十一面觀音菩薩像。牛頭天王の后・頗梨(はり)采女(さいにょ)の本地佛も、十一面觀世音菩薩だ。頗梨采女は八大龍王の一柱・娑(しゃ)伽羅(から)龍王の娘であり、頗梨采女は南海の娑伽羅龍宮城に住むといわれる。龍宮に續く海倉淵と海藏寺の本尊には繋がりがあると考えられる。

 椀貸傳説の一方の當事者・木地師の始祖傳承が、惟喬傳説。一種の貴種流離譚で、木地師の職能に欠かせない轆轤(ろくろ)を考案したのが惟(これ)喬(たか)親王(八四四~?)だとする。
 惟喬親王は、文德(もんとく)天皇(八二七~八五八)の長子として、生を受けるが、弟で文德の第四子・惟(これ)仁(ひと)親王(八五〇~八八一)との立太子爭いに敗れ、比叡山の西麓・洛北の雲ヶ畑(京都市左京区大原)に隱棲したという。
 ところが、木地師の惟喬親王傳承によれば、親王は、貞觀元(八五九)年、小椋谷へ入山し、同七(八六五)年に蛭谷に筒井神社(東近江市蛭谷町)を建立したとする。

『源平盛衰(げんぺいせいすい)記(き)』賦卷(ふのまき)「維高維仁位論事」や『平家物語』卷八には、名虎と、能雄少將が相撲を取り、能雄少將が勝ったことから、惟仁親王が立太子爭いに勝利したとの逸話を載せる。先に河童と椀貸傳説の類似性について指摘したが、河童は相撲好きといわれる。
『源平盛衰記』では、名虎について、惟喬の外祖父とあることから、名虎は、紀(きの)名虎(なとら)(?~八四七)を指す。
 六歌仙の一人・喜撰(きせん)法師(生没年不詳)は、紀名虎の子であるという傳承が殘る。六歌仙の一人・在原業平(ありわらのなりひら)(八二五~八八〇)は、紀名虎の子・紀有(あり)常(つね)(八一五~八七七)の娘を娶っている。また、六歌仙の一人・遍照(へんじょう)(八一六~八九〇)は、惟喬親王に仕えており、惟仁が皍位すると出家し、六歌仙の一人・文屋(ぶんやの)康(やす)秀(ひで)(生没年不詳)もまた、清和(惟仁)皍位の後、三河掾(じょう)に左遷され、六歌仙の一人・小野小町(生没年不詳)は、惟喬親王の皇位繼承爭いにより左遷された文屋康秀に隨って、三河へ行ったとされる。喜撰法師、在原業平、遍照、文屋康秀、小野小町の五人は、惟喬派といえる人物だ。殘る一人の大伴(おおともの)黒主(くろぬし)(生没年不詳)も、藤原種繼(たねつぐ)(七三七~七八五)暗殺事件・承和(じょうわ)の變(八四二年)・應天門の變に掛けての、一聯の藤原氏による伴(大伴)氏排除の經緯から、黒主を大伴(おおとも)國道(こくみち)(伴善男の父)・伴健岑(こわみね)(生没年不詳)・伴善男ら、藤原良房(八〇四~八七二)による無實の罪に陷れられた伴氏一族、及び承和の變で皇太子の座を廢せられた恒(つね)貞(さだ)親王(八二五~八八四)の父・淳和(じゅんな)天皇(大伴皇子)を象徴的に表した人物で、惟仁の母が良房の娘であることから、大伴黒主も惟喬派とみることが出來る。三河大伴氏は、大伴國道らとは系統は違うが、六歌仙との關係から、河童傳説ではなく、椀貸傳説で、語られたのだろう。
 惟喬傳説では、木地師の職能に缺かせない轆轤(ろくろ)を考案したのは惟喬であるとするが、藤原仲麻呂(なかまろ)の亂(七六四年)を平定した稱(しょう)德(とく)女帝(七一八~七七〇)が供養のために、法隆寺を始めとする十大寺に、それぞれ十萬基ずつ合計百萬基を奉獻した百萬塔の製作に、轆轤が使われていた。
 史實はどうあれ、惟喬傳説という共同幻想が誕生した背景、惟仁との立太子爭いは相撲で決着がつき、惟喬側が負けたことと、海倉淵の椀貸傳説に結び附く過程を考察することは意義があることだ。
 餘談になるが、惟喬との立太子爭いに勝利した惟仁は皍位して、清和の漢風諡號が贈られる。その清和の退位に伴い適當な皇位継承者がいなくなったときに、われこそはと手を擧げたのが源(みなもとの)融(とおる)(八二二~八九五)だ。
 以上を踏まえて、『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」の拾遺「富永系圖と木地師」を読んで頂ければ幸甚である。

『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」の「あとがき」では、『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」は、二〇〇七年に刊行した『穂(ほ)国幻(こくげん)史(し)考(こう)』の第二話「登美那賀伝説」の骨子に変わりはないが、『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」で、新たに書き足した部分が、どこであるか等を指摘した。  


Posted by 柴田晴廣 at 07:22Comments(0)登美那賀伝説

2022年03月05日

『穂国幻史考(増補新版)』の手引き13(第二話はしがき~第三章)

『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」は、外祖父の冨永境(さかい)(一八九六~一九九四)から聞いた冨永家にまつわる話を中心にまとめたものである。
「はしがき」では、私がこの話を聞いた経緯を述べ、私に託した境の人となりについて触れるとともに、境から聞いた話をなぜにまとめようと思ったかについて記した。
 ここで、なぜに境から聞いた話をまとめようかと思ったかについては、奇しくも境の葬儀が終わった後の会食の折、地(ぢ)類(るい)の者を含め、私が境から聞いた話を誰も知らなかったことを知ったからである。

 第一章「野田城主富永氏」では、境の住む長瀬(豊橋市長瀬町)の冨永は、(新城市野田)の殿樣であったが、あるとき御家騷動が起き、これに乘じて他家に乘っ取られ、城主の近親者は首を刎ねられ、この故事を後世に傳えるため、その後裔は「ヽ」のない冨永を名乘るようになったという、境の話を檢證したものである。
 外祖父・境から聞いた傳承では、冨永家が長瀬に移住したのは、豊川(とよがわ)(當時の呼稱は飽海川)が現在の流路になり、長瀬邊りが文字どおり長い瀬を形成したころだという。豊川(とよがわ)がいまの流路になり、長瀬附近で長い瀬を形成したのは、明應七(一四九八)年八月二五日辰の刻に起きた東海沖大地震による。
 このころの野田の動靜を調べると、永正二(一五〇五)年、富永千若丸が夭逝し、後を繼ぐものがおらず、田(だ)峯(みね)城主(北設楽郡設楽町田峯)菅沼定忠(さだただ)(生没年不詳)の三男・當時十三歳の竹千代(?~一五四七)を迎えた、との出來事があった。
 ところが、竹千代は、富永を名乘らず、元服後は、菅沼新八郎定則を名乘る。また定則の後裔の菅沼定實(さだざね)(一六二九~一六九一)は、故地新城に七千石の領地を賜るが、菅沼家菩提寺の幸雲山宗堅(そうけん)寺(じ)(新城市的場/曹洞宗)の位牌堂に、富永家累代諸靈の位牌が祀られている。富永家の位牌が祀られている理由は、菅沼家に若くして亡くなる者が多いからだという。つまり、菅沼定則は平和裡に富永家に迎えられたのではなく、祖父・境のいうように、菅沼家が乘っ取ったゆえ、その祟りで、菅沼家に若くして亡くなる者が多く、富永の靈の鎭魂のために位牌を祀ったと考えるのが、自然だろう。
 富永家が野田の城主となるのは、設樂郡の在地豪族の富永直鄕(なおさと)(生没年不詳)が、足利高氏(一三〇五~一三六八)の擧兵入洛に從い、野田館垣内城(新城市豊島(とよしま)字千歳野)に入ってからだ。
 境の話によれば、それ以前は、式内石座(いわくら)神社(新城市大宮狐塚)の神主だったという。
 石座神社は、その名のとおり、神體は、雁峯山中の石座石(新城市須(す)長(なが)字高畔(たかあぜ))で、持統三河行幸の翌年の大寶三(七〇三)年創建と傳えられる。本來の祭神は、天火明命であった。

 その冨永という苗字であるが、境の話では、『古事記』中卷の最初に記される神武東征の件(くだり)に登場する「登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)」の「登美那賀(とみなが)」に由來するという。『日本書紀』卷三では、長髓彦の名で登場する。
 神武東征は、『日本書紀』の編年によれば、紀元前六六七年の出來事になる。ところが、『日本書紀』卷三は、李淳風(六〇二~六七〇)が編纂した儀鳳暦が用いられている。神武の東征は、儀鳳暦が影も形もないころの逸話であるのに、なぜか儀鳳暦を用いて記されている。三笠宮崇仁(たかひと)(一九一五~二〇一六)でさえ、神武の皍位は神話であって史實ではないといっている。とはいえ、神武東征の記載は、河内湖あるいは河内灣が存在していたころの地形を前提としている。つまり、その地形を舞臺とした何らかの資料が存在し、それを基に編纂されたと考えられる。
 また『日本書紀』卷三の著述が始められるのが、慶雲四(七〇七)年以降。その二年後の和銅二(七〇九)年い蝦夷征伐が行われる。神武東征には、蝦夷征伐が投影されているといえよう。神武東征では、長髓彦を始め、手足が長い身體的特徴をその名とする者が多く現れるが、これは寒冷地適用を受けていない古モンゴロイドの特徴であり、繩文人や蝦夷は、古モンゴロイドに屬する。
 先に述べたように、富永氏が神主を務めたという石座神社は磐座を神體とする。最古の神社の形態を傳えるといわれる、大神(おおみわ)神社(桜井市三輪)は、三輪山を神體とする。外祖父・境が冨永(富永)の苗字の由來になったとする長髓彦を、「記紀」という虚構の世界では神武東征以前の三輪山附近を本據とする豪族として描く。三輪山は「記紀」が編纂された當時の都があった奈良盆地の信仰の中心で、三輪明神は、後に大和一宮となる。境から聞かされた冨永にまつわる始祖傳承もこういった事柄が前提になり、石座神社の神主だった時代に、心証が形成され、傳承へと昇華したのであろう。

 その神武東征であるが、「記紀」の記述を精査すれば、その出發點は對馬だと考えるのが妥當である。神武は、「記紀」の系譜の上では、天孫ニニギの曾孫とされているが、『古事記』は、天孫ニニギが天降った竺(ちく)紫(し)の高千穗の久志布流多氣(くしふるたけ)を「韓國(からくに)に向かい合い、笠沙にもまっすぐに往け、朝日が直(ただ)刺(さ)し、夕日が照る國である」旨を記す。ニニギが天降った韓國に向かい合う國は、對馬であるとの傍證になろう。この記述と關聯するであろう記載が、『日本書紀』卷三にある。神武が、「私の先祖が、この國に來たとき、この國は、未開であった」と述べる記載だ。神武の先祖はどこから來たのであろう。それを示すのが、神武の父のウガヤフキアエズという名だ。ウガヤフキアエズのウガヤとは、現在の大韓民國の大邱廣域市の南・慶尚北道高(コ)靈(リョ)郡大伽耶邑(二〇一五年以前は高(コ)靈(リョ)邑)を指し、高靈は古代には上(ウェ)加耶(ガヤ)と呼ばれていた。
 持統及び元明は、神武を初代の天皇、つまり、自らの始祖と意識している。持統及び元明は、皇位繼承の根據を天智に求める。神武には、天智が投影されているのだろう。
 韓半島との繋がりは、持統と元明が、もう一人の始祖と意識する、崇神の諱からも察することが出來る。崇神の諱を、『日本書紀』卷五は御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)とし、『古事記』中卷崇神條は御眞木(みまき)入(いり)日子(ひこ)印(いに)惠(え)と記す。このミマキイリヒコイニエは、任(みま)那(な)(當時の韓半島南部の國)から來た人という意味だといわれる。すなわち、「記紀」は、崇神は任那から來た人物だといっているに等しい。任那は、内官家(うちつみやけ)(日本の直轄地の意味)とも呼ばれ、五六二年、新羅に滅ぼされるまでは日本府が置かれていた。持統や元明の父・天智も、韓半島南部に出自を持っていた。ゆえに乙巳の變について記す『日本書紀』卷二四皇極四年六月丁酉朔甲辰(八日)條では、古人大兄皇子(?~六四五)が發した言葉として、天智は韓人と載せているのだ。

 神武と崇神の間の八人の天皇(闕史八代)の『古事記』の記述では、磯城縣主葉江の娘あるいは姉妹を娶った旨が記される。葉江は、一人の人物ではなく、世襲名のようなもので、闕史八代の天皇の系譜は、磯城縣主の娘婿を男系で繋ぎ直したに過ぎない。
 また『日本書紀』卷三神武二年二月甲辰朔乙巳(二日)條は、磯城縣主の名を黒速とするが、「速(haya)」は、音韻の變化によって「葉江(haye)」へと容易に變わる關係にある。
 ちなみに黒(くろ)南風(はえ)とは、梅雨期に吹く南(みなみ)風(かぜ)をいう。葉江=南風(はえ)は、海の彼方からやって來る神と考えられていたのだ。
 磯城縣主は、三輪山の大物主神を祀っていたと考えられるが、大物主神もまた海照らしやって來る神なのである。
『日本書紀』卷五崇神七年二月丁丑朔辛卯(一五日)條は、「大(おお)田(た)田(た)根子(ねこ)に大物主神を祀らせれば、鎭まるだろうとの神託を受けた」旨を書き記す。大田田根子が大物主神の正統な祭祀者ということだ。結論からいえば、大田田根子は磯城縣主の系譜に連なる者ということになる。

 野田館垣内城主だった富永氏について、『姓氏家系大辭典』は、本姓を三河大伴氏とし、遠祖を幡豆・八名兩郡司の大伴常盛とし、大伴常盛を景行帝皇子倭宿禰の裔とするとの見解を示している。景行帝皇子倭宿禰は、『先代舊事本紀』卷七「天皇本紀」に名が載り、「天皇本紀」景行六〇年條に、「倭宿禰三川大伴部直祖」と記される。この三河大伴氏について、『日本書紀』卷二五大化二(六四六)年三月辛巳(一九日)條は、「三河大伴直等が恭順の意を示した」旨を記載する。大化二年三月辛巳の時點では、三河大伴直は、王權に恭順していなかったことになる。
 大伴常盛は、幡豆・八名の兩郡司であったとされるが、『三河國内神名帳』には、「八名郡坐正四位下大伴明神」が載る。「國内神名帳」に載る、大伴明神は、明治四一(一九〇八)年一月二六日、賀茂神社(豊橋市賀茂町神山)に合祀された(合祀される前の鎭座地は豊橋市賀茂町字御(ご)灯田(とうでん))。
 賀茂神社の神域には、六世紀ごろに築かれた直径二八㍍、高さ三㍍半の圓墳・神山古墳が殘る。かつては神山古墳のみならず、附近には前方後圓墳の辯天塚古墳、埴輪が出土した大塚古墳など幾つかの古墳が點在した。これらの古墳は、三河大伴直の墳墓だったのだろう。というのは、賀茂神社は、「國内神名帳」に載るわけでもない、新しい社だからだ。大伴明神は、賀茂神社に合祀される前は、御燈田に鎭座したと傳わるが、元々、賀茂神社の地にあり、竹尾氏が賀茂神社を勸請したことに伴い、御燈田に遷されたと考えられるからだ。

 既述のように、三河大伴氏の祖は、幡豆・八名兩郡司の大伴常盛であるが、三河富永氏は、その娘の子・伴員助を、その遠祖とし、員助――清助(幡豆郡司)――正助(幡豆郡司)――依助(八名郡司)――光兼(海道總追捕使)――助重(幡豆郡司)――助高(參河半國追捕使 八名・設樂郡領主)――助兼(設樂大夫)――親兼(富永六郎大夫)――俊實(富永介)の系圖が殘る。そして、俊實の子の資時が設樂氏の祖、その弟の資隆が富永氏の祖となる。系圖上は助高の時代に設樂郡と關係を持つが、石座神社の神主だったとの境の話からいえば、古くから、設樂と關係があったのだろう。
「記紀」が編纂された時代、蝦夷の跋扈した東北地方には、前九年の役(一〇五六~一〇六三)で滅ぼされた安倍氏の裔を稱する秋田氏を始め、長髓彦の兄・安日彦に出自を求める系圖が傳わる。いわゆる「安日傳承」といわれるものだ。「安日伝承」を傳える系圖の中で、確認される最古の系圖『藤崎系圖』が成立するのは、永正三(一五〇六)年、奇しくも野田館垣内城主・富永久兼の子・千若丸夭逝の翌年である。

『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」の第一章から第三章は、以上を踏まえて読んで頂ければ、理解の一助になると思う。  


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2021年03月24日

天皇とはなにか

 昨日、安定的な皇位継承策を議論する有識者会議の初会合が行われた。
 私の天皇に対するスタンスは、このWeb-logを読まれている方は、おおよそわかっていらっしゃると思うが、一応、書いておこう。
 私の立場は、美濃國守護で婆娑羅大名の土岐頼遠(?~1342)や、高師直(?~1351)に近い。
 『太平記』卷二三の「土岐頼遠參合御幸致狼籍事付雲客下車事」は、康永元(1342)年、笠懸の歸りに遭遇した光嚴(1313~1364)が乘る牛車に對して、「「何ニ院ト云フカ 犬ト云カ 犬ナラバ射テ落サン」ト云儘二 御車ヲ眞中二取籠テ馬ヲ懸寄セテ 追物射二コソ射タリケリ」と記す。また『太平記』卷二六の「妙吉侍者言付秦始皇帝事」は、「若王ナクテ叶マジキ道理アラバ 以木造ルカ 以金鑄ルカシテ 生タル院 國王ヲバ何方ヘモ皆流シ捨テ奉ラバヤト云シ言ノ淺猿サヨ」と記している。『太平記』の高師直がいうように、王なんて言うものは、クニにとって必要不可欠なものではない。
 諸行無常が、このクニの文化の根底の一つだ。『平家物語』の「祇園精舎の鐘の聲 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす おごれるものも久しからず ただ春の夜の夢のごとし たけき者も遂にはほろびぬ ひとえに風の前の塵に同じ」と述べるように、天皇家も平家と何ら変わらぬものなのだ。
 前記有識者会議では、女性宮家の創設等を検討するそうだが、そもそも天皇とは、天壌無窮の神敕・不改常典に基づく。女性宮家の創設など論外の話だ。
 また旧宮家の皇籍復歸も検討されるそうだが、白河院政期(1086~1129)に成立したといわれる『大鏡』を読めば、これも笑止。
 陽成(869~949)の譲位で皇位を巡る論爭が起きた際、嵯峨(786~842)の息子(陽成の曾祖父の仁明(810~850)の弟))の源融(822~895)が皇位に就ける者ならここにもいるとばかりに、「いかがは 近き皇胤をたづねば 融らも侍る」と自ら手を擧げた譚が記されている。ここで待ったを掛けたのが藤原基經(836~891)。基經曰く、「皇胤なれど 姓給て ただ人にて仕えて 位に就きたる例あるや」、すなわち、臣籍降下し、姓を持った者が卽位した例はないと異議を申し立てる。源融は天皇の子だ。
 もっとも融は、前例があって手を擧げたのだ。
 鎌倉時代初期に成立されたといわれる『水鏡』には、吉備眞備(695~775)は、穪德(718~770)の死後の皇位繼承爭いの際、臣籍降下し、姓をもっていた天武(631?~686)の孫(長親王(?~715)の子)の文室淨三(693~770)及び文室大市(704~780)を推したとされる。
 もっとも姓をもって卽位した者がいないわけではない。
 陽成の後に卽位した光孝(830~887)の子・宇多(867~931)と、その子の醍醐(885~930)である。
 宇多は、定省王として生を受けるが、臣籍降下して源朝臣定省となり、皇籍復歸し、卽位している。その子の醍醐は、源朝臣維城として生を受け、父・宇多の卽位に伴い、皇籍に列し、後に醍醐として卽位している。
 この生まれながら姓をもって卽位した醍醐について、眞言僧・日藏(905?~967?)が著したと傳わる『日藏夢記』は、菅原道眞(845~903)を陷れた罪、宇多に背いた罪などを理由に、地獄へ落とされた旨を記している。『日藏夢記』の地獄に落ちたという記述もあってか、醍醐以降に姓を持っていた者が、卽位した例はない。
 ちなみに、豫言詩『野馬臺詩』は、「東海姫氏國 百世代天工」で始まる。また二十四史の一つ『隋書』卷八一列傳四六東夷の俀國條にも、「俀王姓阿毎字多利思比孤 號阿輩雞彌」とある。
 つまり、「記紀」が成立した時代に、天皇は姓を棄てたのだ。その理由は「易姓革命」から逃れるためである。  


2020年06月22日

登美那賀伝説

 拙著『穂国幻史考』の第二話を見直した。
 見直した後の目次は以下の通り。

  登美那賀伝説 〈目次〉

はしがき 6
 第一章 野田城主富永氏 12
  第一節 首無の冨永 12
  第二節 夭逝千若丸 15
  第三節 石座神社と富永氏 24
 第二章 神武東征考 34
  第一節 神武東征の出発地は對馬だ 34
  第二節 大和の攻防 48
  第三節 磯城縣主家系図を復元する 64
  第四節 大田田根子は磯城縣主だ 79
 第三章 三河大伴考 96
  第一節 大伴直と倭宿禰 96
  第二節 三河大伴直と石座神社 107
  第三節 安日伝承の原像 113
 (拾遺) 富永系図と木地師 118
   海倉淵の椀貸伝説 118
   惟喬伝説と六歌仙 128
あとがき 136
主要参考文献 142

  


Posted by 柴田晴廣 at 17:29Comments(0)登美那賀伝説