2017年10月24日

『穂国幻史考』の概要のまとめ

 第一話「『記紀』の成立と封印された穂国の実像」の序から終章は、東三河の文献初出、『古事記』開化條に記載される三川の穗(ほ)別(わけ)の祖・朝廷別王を軸に、東三河が最初に正史に登場する持統三河行幸を絡めた論考です。
『日本書紀』は、一般に天武が編纂を始めたといわれていますが、実は持統の時代に始められており、それも卷一から順に編纂されたものでもありません。
 皇祖神アマテラスが創造されるのは、持統三河行幸の後のことです。
 そもそもアマテラスを容れる器が出来上がったのは、七世紀末のことです。
 その持統三河行幸は、東三河の制圧を目的にしたものでしたが、持統の目論見は見事に外れ、帰還後まもなく持統は病に臥せ、亡くなります。
『日本書紀』の編纂は三十年ほどかかっていますが、これは母系で伝えられていた本来の伝承を男系に書き直し、万世一系という虚構の世界の創造に時間と労力を費やしたからです。
 そして、「記紀」の崇神――垂仁の出雲の出来事は、実際には、丹波の出来事であり、朝廷別王は、ホムツワケノミコトのことだと考えられます。
 上記のように、アマテラスを容れる器が完成したのが七世紀末。ゆえに、『日本書紀』に記載される斎王など、すべてが嘘。皇祖神アマテラスが想像される以前の太陽神は天火明命で、朝廷別王もこの系譜に連なるものです。
 また天孫降臨逸話には、持統から文武への権力移譲が投影されているといいますが、『竹取物語』の舞台も文武の時代です。そして垂仁の妃には、かぐやひめの名が記されています。
「記紀」が母系ではなく、男系を重視するのは、儒教の思想によるものですが、この思想には、皇帝が徳を失なったとき、天は徳がある一族(「有徳者王」)を皇帝に命じ(「天命思想」)、その姓を易(か)え、「天命を革める」という「易姓革命」という考え方があります。『隋書(ずいしょ)』卷八一列傳四六東夷の俀(わ)國(こく)條に、「俀王姓阿毎字多利思比孤 號阿輩雞彌」と見え、俀王には阿毎という姓があった旨が載っています。持統は「易姓革命」から逃れるため、姓を棄てたと考えられます。
 また持統と元明は、男系でいえば天智の娘になりますが、その天智はどこの馬の骨とも分からない韓半島に出自を持つ者です。『日本書紀』は、それを隠蔽するためのものだったのです。ただ、持統も元明も、母方の祖父を天智に殺されています。そうした複雑な心境も、『日本書紀』から読み取ることが出来ます。実際の持統及び元明の即位の正当性の根拠は、俀王阿毎=蘇我氏の血を引くことです。
 朝廷別王に話を戻せば、穗別の別とは、後の國造等に与えられた姓です。「天孫本紀」には、朝廷別王系の穗國造が記載されていますが、「國造本紀」では、菟上足尼系に替わっています。菟足神社の祭神は、この菟上足尼ですが、その例祭「風祭」は、遷座の様子を現しているといいます。かつては荒々しいもので、あたかも攻め込んでいるように見えました。アイヌ語ウタリには、同朋の意味があります。そして菟足神社のある小坂井の北の、宿の氏神・多美河津天神は、祭神を朝廷別王とします。
 朝廷別王の父は、丹波道主王です。大江山の鬼・酒呑童子(天火明命の子・香具山命を祭神とする越後彌英彦山で生を受けたという)なども、この系譜に属するものと思われます。

 拾遺一は、三河一宮・砥鹿神社についての考察です。
 神主の草鹿砥氏は、日下部を日下戸と表記し、クサカドと訓ぜられ、草鹿砥の漢字を当てたといわれています。縁起では、大寶年間に下向した草鹿砥公宣を草鹿砥氏の祖としますが、正史には、草鹿砥の名は見えず、草鹿砥氏は、朝廷別王=ホムツワケの後裔と考えられます。「記紀」がホムツワケの伯父とするサホヒコは、日下部連の祖です。
 また、クサカベは、アイヌ語で解釈出来、縄文の流れを汲む名称と考えられます。
 社家のトガリ氏は、草鹿砥氏と同族と考えられ、トガリの地名やトガリを関する神社は、水辺にあり、トガリの名称は、アイヌ語で「舟で運ぶ・岸・川」の意味を持つ「kusa・ka・bet」と通底するものがあります。
 そのトガリ氏が多く住む穂の原の中心部には、蠶影神を祀る社が三つありますが、蠶影神の総本社ともいえるつくば市の蠶影山神社は、その縁起にかぐや姫の名が見えます。『竹取物語』の舞台となったのは、持統三河行幸があった文武の時代です。また、「記紀」が朝廷別王の姉妹を后妃にしたという垂仁の妃の一人は、迦具夜比賣(かぐやひめ)命です。
『神社を中心としたる寶飯郡史』は、穗別が穗國へ入國した理由を,日本武尊東征に求めていますが、「記紀」におけるヤマトタケルの系譜は錯綜したものであり、とても信じられるものではありません。むしろ、ヤマトタケルの双子の兄・大確との関係が深いように思えます。
 そもそも、ヤマトタケルの東征自体が虚構に満ちたものであり、砥鹿神社は三島神の東漸と関係があるように思います。というのは、三島神を奉祭した越智氏の移住地には砥鹿を冠する神社があること、また朝廷別王の姉妹には、姉妹婚姻譚がありますが、三島神=大山祇神の娘も天孫ニニギとの間で姉妹婚姻譚が語られるからです。

 補遺は、東三河出身の菅江眞澄についての考察です。
 眞澄自身が語っているように、眞澄は吉田宿札木の植田義方に手習いを受け、牛窪村の喜八を父母の住む近隣の者としています。
 また久保田藩士が書いた『伊頭園茶話』には、「三河國熱海郡雲母莊入文村白井氏某之二男菅井眞澄」とあります。
 いずれも、近隣に白山権現を祀る集落があります。
 眞澄は本名・白井栄二。白井と白山権現ということになれば、『千郷村誌』に載る徳定の地に白井姓の人が住み、白山権現が祀られています。さらに、この徳定の白井姓の氏神・熊野権現には、アラハバキ社が勧請されています。眞澄自身も、東北のアラハバキ神について、砥鹿神社のアラハバキ神との関係に言及しています。アラハバキというと東北をイメージしますが、東三河には五社のアラハバキ神を祀る社があります。
 砥鹿のアラハバキ社は、元々祠はなく、神木を神体としていました。
 白山権現の本地は十一面観音ですが、アマテラスの本地も当初は十一面観音でした。そのアマテラスを容れる器である伊勢神宮創建以前は、みあれ木が神体であり、それを掬い上げるのが潜り姫=白山の女神・菊理媛でした。
 そして、伊勢の奥宮といえる朝熊山には、櫻宮が鎮座していました。櫻は「記紀」ではハハカ木の名で語られます。アラハバキも、みあれ木である櫻樹に基づくものではないかと思います。
 加えて置けば、サクラという音には、韓国・朝鮮語で鎮魂の意味があり、櫻地名とセットの笠地名は瘡の意だと思います。

 朝廷別王の父は、丹波道主王。拾遺二は、その丹波の伝承についての話です。
 その伝承は、後に聖德太子といわれる厩戸の母・間人穴穗部が、丹後(当時は丹波)に逃げて来たと。
 厩戸の時代といえば、物部と蘇我氏の争いがありました。一般には排仏派と崇仏派の争いといわれますが、そんな単純なものではなく、次の天皇を誰にするかの指名権をもっていた推古を巡っての争いであったと思われます。その推古の母は、蘇我氏の娘といわれますが、実際には、宣化の血を引き、蘇我氏は、この宣化の血を引く娘を引き取ることにより、天火明命の系譜に連なったと考えられます。間人穴穗部は、この争いを避けるために丹波に逃れたという伝承が生まれたと考えられます。
 そして、物部と蘇我氏の争いの中で、守屋殺害の謀略を知っていたのが、東漢直駒であり、東漢直駒は、口封じのために、稻目に殺されたと考えます。

 拾遺三は、その幼名から、海人=阿毎氏と関係が深い、天武の死因の疑問を検証するものです。
 最初の不思議は、吉野の盟約といわれるものです。
 盟約の場に集まった中には、天智の子も含まれているにもかかわらず、『日本書紀』は、天武の息子・草壁が「われら兄弟」だの、天武が「我が子供たち」だのわけのわからぬことを記述している点です。
 もっとも、天智の息子の二人のうちの川嶋は、海人に連なる系譜に属すると思いますし、芝基は天武の娘婿になります。
 川嶋は、天武が亡くなった五年後の、天武の命日九月九日に亡くなっています。川嶋の甥の弓削皇子は、文武の即位に反対しています。川嶋も、『日本書紀』の編纂を始めた持統の方針に異議があり、抗議の自殺などをしたのではないかと思います。
 その天武の死因ですが、『日本書紀』は草薙の剣の祟りだと記します。ところが、天武は発病した後も、宴を催していますし、占いで草薙の剣の祟りだと出て、草薙の剣をその日のうちに熱田へ送ったというのに、亡くなっています。草薙の剣の祟りは怪しいものです。そもそも天武は、天火明命の血を引く海人に出自を持ちます。熱田神を奉る尾張氏もこの同族です。草薙の剣の元々の名は天叢雲剣ですが、天火明命の孫に天村雲命の名も見えます。こうした天武にゆかりの草薙の剣が、天武に祟るというのも妙な話です。祟るならむしろ天智でしょう。
 熱田神宮の八剣社には、元明が平城京の造営祈願のため、天武の命日に、剣を奉納しています。元明は、草薙の剣及びその剣の正当な継承者・天武の祟りと感じたのではないかと思います。それを、「天武紀」という物語の中で、天智に祟るのではなく、天武に祟ると話をすり替えたのではないでしょうか。具体的な真相は分かりませんが、あり得る話です。

 拾遺四は、萬葉の大歌人・柿本人麻呂に関する論考です。
 梅原猛や作家の井沢元彦は、人麻呂は文武の即位に反対し、刑死したとの的外れな説を提示しています。何が的外れかといえば、人麻呂は、文武の即位後の文武四(七〇〇)年四月に死亡した明日香皇女の挽歌を詠んでいるからです。明日香皇女は、天武の息子・忍壁の妃です。現在でいえば、国葬に参列し、弔辞、それも挽歌ですから長い弔辞を述べたようなものです。死刑囚がそんなことを出来るわけがありません。
 梅原や井沢は、和銅元(七〇八)年を人麻呂が刑死した年だとしますが、その直近の出来事を『續日本紀』から拾って見ますと、景雲四(七〇七)年六月一五日の文武の死、それに伴う同年七月一七日の元明の即位が、最大の出来事として挙げられます。
 祖母から孫の皇位の継承は、「記紀」という虚構の世界で、持統により創作された「天壌無窮の神勅」により、担保されますが、子から母への皇位継承は、「天壌無窮の神勅」にも反するものです。
 子から母への即位(譲位)、こんなものがまかりとおれば、聖武からその母へという即位もあり得ることになります。聖武の母は、不比等の娘・宮子です。宮子は、皇女でもなく、男系を遡ってもニニギに辿り着くわけではありません。天武の息子・草壁に仕えていたといわれる人麻呂が一番許せなかったのは、天皇の母であれば、藤原氏の娘でも即位出来るという点だったのではないでしょうか。人麻呂は元明即位に反対した。このように考えるのが妥当だと思います。

 第二話は、母方祖父から聞いた話を検証したものです。
 母は豊川下流域の豊橋市長瀬町の出身です。旧姓は冨永。祖父の話は、この長瀬の冨永は、野田城主富永氏の後裔であり、お家を乗っ取られ、城主の近親者は首を刎ねられ、それを忘れないように、富から「ヽ」を取り「首なしの冨永」としたといいます。また冨永の名の由来は登美那賀須泥毘古の「登美那賀」にあり、野田館垣内城主になる以前は、式内石座神社の神主だったというものです。
 まず、「首なしの冨永」については、野田館垣内城を乗っ取った菅沼の菩提寺・宗堅寺に、菅沼の家老が富永の位牌と墓石を寄進していますが、その理由は菅沼の男児が夭逝するからというものです。つまり、富永の祟りにより菅沼の男児が夭逝するから、その鎮魂のために位牌と墓石を寄進したと考えられます。
 次に 富永の名の由来となった長髄彦は、三輪山付近の先住民であり、縄文の流れを汲む者であったと考えられます。長髄彦が登場する「記紀」の神武東征條は、河内湾ないし河内湖があった当時の地形に基づいているため、何らかの資料を基にして創作されたと思います。
 また『古事記』の記載等から神武は韓半島に出自を持つと考えられます。神武には天智が投影されているのでしょう。
 この三輪山付近の先住者として「記紀」は、磯城縣主を載せ、闕史八代の天皇は、この磯城縣主の娘を娶っています。実際には、女系で伝えられていた磯城縣主の系図を男系に直したものであり、闕史八代の天皇に血縁はなかったと思われます。
 大物主神の祭祀に携わった太田田根子は、この磯城縣主の系譜に属していました。大物主神は、海照しやって来た神といわれますから、天火明命と同様の神格を有します。
 三河富永氏の本姓は、倭宿禰を祖とする三河大伴直と考えられ、東三河の在廳官人と考えられます。この倭宿禰も天火明命の後裔です。 
 ヤマト朝廷の成立により、奈良盆地の先住者が、東三河に逃れて来たことは十分考えられることです。
 石座神社は、その名のとおり、神体は、背後の雁峯山にある磐坐です。三輪山も山そのものを神体としており、在廳官人の三河大伴直が、そうした古い形態の祭祀に関わっていた可能性は十分にあります。また石座神社の分社の祭神が天火明命です。石座神社と三河大伴直の関係を示していると思います。
 付け加えて置けば、長髄彦の兄・安日彦を祖とする「安日伝承」を伝える系図の中で、確認される最古の系図・『藤崎系図』が成立するのは、永正三(一五〇六)年、奇しくも野田館垣内城主・富永久兼の子・千若丸夭逝の翌年です。

 拾遺は、まず野田館垣内城の対岸の、海倉淵にまつわる椀貸伝説についての検証から始めました。
 椀賃伝説は、漂泊の木地師と常民の間の沈黙交易で、河童の駒曳き等とも通底するものです。河童は相撲が好きだといわれますが、相撲の祖といえば、野見宿禰です。野見宿禰は、朝廷別王の姉・ヒバスヒメの葬送の際、埴輪の製作を提言した人物です。
 木地師には、唯喬伝承がありますが、六歌仙が、唯喬派だったとの説があります。その中の一人・大伴黒主に焦点を当てて、三河大伴の関係について検証したものです。

 第三話「牛窪考」の第一章から終章は、牛窪という地名と、それ以前のトコサブという地名から、牛窪という地域の概要を説き起こしたものです。いずれの地名も縄文系の地名で、牛久保八幡社の実際の祭神も國津神であったと考えられます。
 本論のタイトルを『牛久保考』ではなく、『牛窪考』としたのは、寶飯郡時代の牛久保町の大字牛久保は、北は現在の金屋西町、金屋橋町、諏訪町、代田町に及ぶ広い地域であり、現在の豊川市牛久保町とは比較にならないくらい広い地域だったからです。

 次に、拾遺一は、牛久保八幡社の祭礼「若葉祭」についての論考です。
 俗称「うなごうじ祭」は蛆虫との説は、全く根拠のない妄説です。
 そもそも旧寶飯郡で、蛆虫をうなごうじという方言などなく、また「笹踊」の囃子方が寝転ぶのは「若葉祭」だけではないからです。
 その「笹踊」は、唐子衣装を着て、笠を冠った三人の踊り手が、胸に太鼓を着けて踊るという点のみが共通点で、踊りの振りについては千差万別。とても一ヶ所から伝播したものとは思えず、江戸時代、何度も招聘されていた朝鮮通信使の風俗の影響と考えられます。平板で発音される「ささおどり」という名称は、三人戯を意味する韓国・朝鮮語の「ses saram nori」が訛ったものと考えられます。
 また、「笹踊」の囃子方が寝転ぶ姿は、戦国時代に牧野氏が領民を城に招き、その振る舞い酒に酔った領民の帰路を再現したものといわれますが、戦国時代に不特定多数の者を城に招けば、間者が入る確率が高く、戦国の世を生き抜いた牧野氏がそんな馬鹿なことをするはずもありません。寶永の大地震の際、当時吉田藩を治めていた牧野氏が、先祖の故地・牛久保にも地震見舞の酒を振る舞ったことを、越権行為ゆえ、かつての領主を慮って、感謝の意を過去のこととして伝えたに過ぎません。

 拾遺二は、戦国の世、武田信玄の家臣であった牛久保ゆかりの山本勘助についての論考です。一時は実在しない人物とまでいわれた勘助ですが、山鹿流の軍学者・松(まつ)浦(ら)鎭(しげ)信(のぶ)(一六二二~一七〇三)が書いた『武功雜記』は、勘助の実在を否定していません。その松浦鎭信は、牛久保の牧野康成(一五五五~一六一〇)の外孫です。
 また、長(ちょう)谷(こく)寺(じ)(豊川市牛久保町八幡口)には、勘助の遺髪塚がありますが、勘助が亡くなった当時、長谷寺は現在の牛久保駅前にありました。遺髪塚は、勘助養家の大林家が、勘助元服の折に保管していた総角を、屋敷に埋めたのが起源と思われます。

 本論はタイトルのとおり、拙著『穂国幻史考』の概要を説明したものです。『穂国幻史考』を三割弱に圧縮してあります。
 当然、論証などは省いてあります。興味を持った方は是非『穂国幻史考』をお手に取って下さい。
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/newpage2.html

 一つ加えて置けば、『穂国幻史考』を出版したのは、二〇〇七年二月一九日のことです。このとき奥書に「穂国幻史考」のルビを「ほのくに」ではなく、「ほこく」と入れました。
「『穂国幻史考』の概要(はしがき)」(http://tokosabu.dosugoi.net/e996730.html)に書いたように、拾遺一「砥鹿神社考」は、一九九二年七月三一日(金曜日)付「東愛知新聞」掲載の私の寄稿「豊川流域に残る「縄文語」の跡」並びに一九九三年一月一五日(金曜日)、同一六日(土曜日)及び同一七日(日曜日)付「東愛知新聞」掲載の私の寄稿「穂国幻史再考」を基にした論考です。「豊川流域に残る「縄文語」の跡」には、「「穂国」幻史考」の題号が付いていました。ゆえにそれを受けて「穂国幻史再考」を寄稿しました。
 このとき「穂国」にルビなどは振られていませんが、当然、「ほのくに」と私は読んでいました。私が新聞に寄稿した一九九〇年代初頭、地元東三河でも「穂国」という呼称は一般的ではありませんでした。これが一般的になるのは、豊川青年会議所が穂の国青年会議所と名称を変更した一九九九年九月のことです(二〇一六年一月に「豊川青年会議所」に戻ります)。
 そのころから、この穂の国青年会議所が旗振役となり、豊川市と旧宝飯郡四町の合併を推し進めます。私は合併よりもむしろ豊川市を解散して、宝飯郡牛久保町、同国府町、同豊川町、同八幡村、同御油町及び一九五五年四月一二日に豊川市に編入された八名郡三上村に戻る方が、そのころ盛んにいわれていた「地方分権」(私はさまざまな地域とその自然環境等に育まれた多様な価値観を認め合うことが地方分権の前提と考えています)により沿うものだと思っていましたから、穂の国青年会議所の活動は私の考えとは真逆のもので、同視されるのはまっぴらと思って、「穂国」を「ほこく」と呼称するようになりました。
『穂国幻史考』を出版したのは、薄っぺらな考えしかない穂の国青年会議所が進めていた町村合併の真っただ中でした。そんなことから、「ほこく」のルビを振った次第です。
 私は中央集権という考え方には否定的です。そして日本列島で中央集権が確立される過程で採用されるのが、君主が空間と共に時間まで支配するという思想に基づいた元号です。
 私は価値観の多様が重要だと思っておりますから、一神教に基づく西暦も私の信条には合いません。ゆえに『穂国幻史考』等の自身の著作の「あとがき」は、元号や西暦でなく、「主権在民」を謳う現行憲法が施行された昭和二二(一九四七)年をもって日本国元年とする紀年で締めくくりました。今回も私の考えに変わりはないことから、この紀年で締めくくります。

  日本国七一年一〇月吉日

                             穗國宮嶋鄕常左府にて  


Posted by 柴田晴廣 at 22:15Comments(0)穂国幻史考

2017年10月09日

お知らせ

 『牛窪考増補改訂版の概要』、電子書籍として発行しました。右記のページから購入出来ます。
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/newpage8.html  


Posted by 柴田晴廣 at 19:31Comments(0)お知らせ

2017年10月09日

『牛窪考(増補改訂版)』概要のまとめ

 第一章から第五章は、牛窪という地名と、それ以前のトコサブという地名から、牛窪という地域の概要を説き起こしたものです。いずれの地名も縄文系の地名で、牛久保八幡社の実際の祭神も國津神であったと考えられます。
 本書タイトルを『牛久保考』ではなく、『牛窪考』としたのは、寶飯郡時代の牛久保町の大字牛久保は、北は現在の金屋西町、金屋橋町、諏訪町、代田町に及ぶ広い地域であり、現在の豊川市牛久保町とは比較にならないくらい広い地域だったからです。

 次に、拾遺一及びその補遺は、牛久保八幡社の祭礼「若葉祭」についての論考です。
 俗称「うなごうじ祭」は蛆虫との説は、全く根拠のない妄説であり、その淵源は、平田派の羽田野敬雄(一七九八~一八八二)にあったと思われます。
 また、「笹踊」の囃子方が寝転ぶ姿は、戦国時代に牧野氏が領民を城に招き、その振る舞い酒に酔った領民の帰路を再現したものといわれますが、戦国時代に不特定多数の者を城に招けば、間者が入る確率が高く、戦国の世を生き抜いた牧野氏がそんなことをするはずもありません。寶永の大地震の際、当時吉田藩を治めていた牧野氏が、先祖の故地・牛久保にも地震見舞の酒を振る舞ったことを、越権行為ゆえ、かつての領主を慮って、過去のこととして伝えたに過ぎません。
 次に、「若葉祭」を始め、豊川下流域で奉納される「笹踊」は、唐子衣装を着て、笠を冠った三人の踊り手が、胸に太鼓を着けて踊るという点のみが共通点で、踊りの振りについては千差万別。とても一ヶ所から伝播したものとは思えず、江戸時代、何度も招聘されていた朝鮮通信使の風俗の影響と考えられます。平板で発音される「ささおどり」という名称は、三人戯を意味する韓国・朝鮮語の「ses saram nori」が訛ったものと考えられます。
 次に、「隠れ太鼓」については、中世の鞨鼓(かっこ)稚児舞の伴奏に過ぎなかった太鼓の打ち手が唐子衣装に笠を冠ったことから、独立した芸能になったことを起源とするものと私は考えます。その「隠れ太鼓」が演ぜられる大山車(おおやま)は、中世の車樂(だんじり)の系譜を引くものです。
 また、「神兒(みこ)」についても、男児が巫女の格好をして舞う祭礼は、「若葉祭」のみならず、豊橋の鬼祭り、三谷(みや)祭など、東三河平野部では、ごくごくポピュラーなものです。加えて、神幸に随伴する獅子頭も、「若葉祭」に限ったものではなく、上記の豊橋の鬼祭り、三谷祭を始め、豊川下流域では比較的ポピュラーなものです。この獅子頭については、拾遺五で検証してありますが、猪犠を起源とするもので、巫女の格好をした男児も、鹿を供犠とする諏訪大社の「おこう」に類似したものだったと私は考えています。

 拾遺二は、戦国の世、武田信玄の家臣であった牛久保ゆかりの山本勘助についての論考です。一時は実在しない人物とまでいわれた勘助ですが、山鹿流の軍学者・松浦鎭信(まつらしげのぶ)(一六二二~一七〇三)が書いた『武功雜記』は勘助の実在を否定しておらず、このことから勘助の実在はごく簡単に証明されるのだと指摘しておきました。松浦鎭信は、牛久保の牧野康成(一五五五~一六一〇)の外孫になるからです。
 また、長谷寺(ちょうこくじ)(豊川市牛久保町八幡口)には、勘助の遺髪塚がありますが、勘助が亡くなった当時、長谷寺は現在の牛久保駅前にありました。遺髪塚は、勘助養家の大林家が、勘助元服の折に保管していた総角を、屋敷に埋めたのが起源と思われます。

 拾遺三は、拾遺二の勘助遺髪塚は養家の大林家の屋敷に埋められた総角が起源との私の説を証明するために、光輝庵(豊川市光輝町二丁目)が所蔵する牛久保城下の町割を描いた古地図の信憑性を検証したものです。
 まず、古地図に掲載された寺院を、その縁起等から検証して行きました。
 結果、地図自体は、江戸時代になってから描かれたと思われますが、地図に描かれた屋敷に榊原澁右衞門、眞木又次郎の名が見えることから、永祿八(一五六五)年から永祿一二(一五六九)年の牛久保の町割りを描いたものと推定されます。

 拾遺四は、光輝庵所蔵の古地図に描かれている善光庵についての論考です。この善光庵は、武田信玄(一五二一~一五七三)により牛久保が焼かれたときに焼失し、江戸時代になって再建されました。
 前半では、『牛窪記』の「善光寺池寶譽和尚結縁阿彌陀與助事」の善光寺如来と善光庵との関係を、後半では再建者の潮音道海について採り上げました。一般に潮音道海は『大成經』の偽作者といわれますが、偽作に最も関与していたのは、山鹿素行(一六二二~一六八五)。また善光庵の再建には、牧野成貞(一六三五~一七一二)が関わっていたと思われます。
 山鹿素行が関与する以前の『大成經』の原本は、土師氏=出雲臣の伝承が多く含まれていたと思われます。

 拾遺五は、四半世紀前に突如として顕れた、まるで都市伝説のような、小坂井の徐福伝説の成立過程を検証したものです。ありもしない徐福伝説が流布した一番の責任は、菟足神社に説明版を設置した当時の小坂井町教育委員会にあります。
 そもそも徐福の子孫が、自国を滅ぼした秦を名乗ることなどあり得ません。東三河の羽田野、波多野氏などの秦氏関連といわれる氏族は秀鄕後裔で、実際には土師氏とも近い関係にある日下部姓になります。
 長山熊野権現の徐氏古座侍郎の話は、長山熊野権現の神主で本姓唯宗の神保氏が、一七世紀末ごろに創作したものと考えられます。
 また、幡多の地名は渥美郡にあり、羽田村が有力とされていますが、羽田野敬雄辺りが痕跡を消し去ったと思われます。

 拾遺五補遺の前半では、秦氏を出自に持つともいわれる彈左衞門家についての論考です。側近を三河出身者で固めた家康。非人頭の車善七や、品川の非人頭の松右衞門も三河出身。一人・彈左衞門のみが、鎌倉由比ヶ濱の出身というのも、妙なものです。しかも彈左衞門家初代の存在さえも疑わしく、江戸時代以前に関東にいた痕跡すらありません。
 また、彈左衞門家が、関八州及びそれに隣接する地域のみならず、遠く離れた東三河の設樂郡の一部を支配地とするのもおかしな話です。
 豐川村には、信長の時代に廃寺になった東光寺がありました。この東光寺の信者が、牧野氏に従って武田との最前線に行き、さらに家康の関東移封に伴い、関東に進出したのが彈左衞門家と考えます。
 江戸時代の寺格が高くもない妙嚴寺が、豊川稲荷として全国区になるのも、大岡忠相(一六七七~一七五二)らとともに、彈左衞門の故地隠蔽に尽力したことが大きいと思われます。
 そして、被差別を考える上では、白山権現や東光寺以上に牛頭天王が重要である旨も指摘しました。
 後半は、秦氏とともに渡って来たといわれる、兵主神の眷属で河童のルーツの一つでもある「ひょうずべ」についての論考です。
 河童は相撲好きといわれ、本姓大枝の毛利氏が神主だった肥前の潮見神社では、「ヒョウスヘは約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原」との水難防止の呪文を伝えます。大枝氏、菅原氏ともに相撲の祖・野見宿禰の後裔になります。
 ただ、潮見神社の祭神は橘氏ですが、橘公業は伊豫橘氏ともいわれ、伊豫橘氏と関係が深い大山祇神(伊豫橘氏の本姓越智氏が奉じる)が降臨したという攝津國三島には、三島鴨神社(高槻市三島江)が鎮座し、近くには、野見宿禰の墓所と伝えられる地に建立された上宮天満宮(高槻市天神町)があります。
 大山祇神の娘の姉妹婚姻譚は、野見宿禰とも関係が深い丹波五姫の姉妹婚姻譚と通じるものがあります。また、三島神の東漸が、砥鹿神とも関係していることは、拙著『穂国幻史考』の第一話「『記紀』の成立と封印された穂国の実像」拾遺一「砥鹿神社考」第三章「彦狭島の東遷と日下部氏」の第四節「三島神の東遷と砥鹿神社」で指摘してあります。
 さらには、木地師の椀貸伝説と河童伝説の共通点から、葬送と関わっていた古着屋の話、さらには、兵主神とも関係する神農を祀る香具師の話から、火明命へと、『穂国幻史考』の第一話での検証と同一線上の話を展開しました。

 附録一でも、拾遺五補遺の後半と同様に、野見宿禰の考察から始めました。
 『日本書紀』の編纂には、漢字に通じていた百濟人が、関与しておりました。野見という氏名は、韓国・朝鮮語で「奴の」の意の「nom-wi」に由来するものと考えます。「記紀」の崇神――垂仁條での出雲の話は、元出雲ともいわれる丹波一宮・出雲大神宮を中心とする丹波での出来事というのが、『穂国幻史考』以来の私の考えですが、野見宿禰は出雲神寶献上事件で神寶の献上を拒否し、誅殺された出雲振根の後裔で、奴隷に落とされていたと考えられます。ゆえに殉死をやめ、埴輪を作ることを提言したと思われます。
 そして、丹波地方を中心とした地域に伝わる神事相撲の考察から、民俗としての相撲を考察し、さらに江戸の興行相撲に多大な影響を与えた相撲司の吉田追風家の実態をあぶり出し、弓術吉田流の吉田家との関係に言及しました。

 そして附録二は、寛保二(一七四二)年に会津の浪人・三坂五郎衞門春編(みさかごろうゑもんはるよし)(一七〇四~一七六五)が選した奇譚集『老嫗茶話(ろううさわ)』卷之三「女大力」に載る、池田照政(一五六五~一六一三)の妹・天球院の怪猫退治についての論考です。
『老嫗茶話』は、照政が吉田城主だったころの話としていますが、残念ながら吉田城での出来事ではありませんでした。
 吉田城の歴史は、一色城(豊川市牛久保町岸組)の牧野成時(?~一五〇六)が、城を築いたことに始まります。桶狭間の戦い(一五六〇年)までは、牛久保の出城のようなものでした。そんなことから、本書に収めました。

 最後の附録三は、彈左衞門の故地・豐川村矢作を横切る京鎌倉往還を、中世三大紀行文から、その行程を推測するとともに、律令時代、さらには、現在の県道三一号線も、同様のルートに近いものであることを検証したものです。
 京鎌倉往還では、宮路山中を進んでいますが、これは軍用道路の側面からと思われます。持統三河行幸は、東三河の制圧を目的としたものでしたが、宮路山に陣を敷き、持統軍を迎え討ち、持統の目論見を見事に砕きました。宮路山中を通ることにより、これを避けることが出来ます。ゆえに、京鎌倉往還は、宮路山中をルートに組み入れたと考えられます。
 なお、律令時代の官道は、実用性はなく、無用の長物であり、完成間もなくから荒廃しました。結局、古代からの生活道路が、多くの人々の足となりました。

 以上が、『牛窪考(増補改訂版)』収録の各論での主張です。

 最初に述べたように、『牛窪考(増補改訂版)』の概要を説明したものです。『牛窪考(増補改訂版)』を二割弱に圧縮してあります。
 当然、論証などは省いてあります。興味を持った方は是非『牛窪考(増補版)』をお手に取って下さい。
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/newpage5.html

 加えて置けば、『穂国幻史考』以来いっていることですが、私はアブラハムの宗教といわれる一神教の世界観が大嫌いです。便宜上、元号と西暦を使いましたが、キリストの生誕に基づく西暦を使うことには抵抗があります。
 同じように、中華思想や孔孟思想も大嫌いです。むしろ孔孟より「吾將曳尾於塗中」とする老荘思想が、そして杜甫(七一二~七七〇)より李白(七〇一~七六二)が断然好きです。ですから、元号を使うことにも抵抗があります。
 元号や西暦でなく、「主権在民」を謳う現行憲法が施行された昭和二二(一九四七)年をもって日本国元年とすべきと私は考えています。

  日本国七一年一〇月吉日

                                 穗國宮嶋鄕常左府にて
  


Posted by 柴田晴廣 at 12:13Comments(0)牛窪考(増補版)