2023年05月27日

萬勝號の遠州袖志ヶ浦漂着と梅が枝節

 前回の投稿のコメントで、九連環―かんかんのう―梅が枝節に話が及んだ。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1274062.html
 かんかんのうは、清樂の代表曲・九連環をアレンジしたもので、唐人踊が伴った。
 文政3(1820)年に難波堀江の興行で評判になった。
 梅が枝節は、明治11(1878)年、劇作者・假名垣魯文(1829~1894)が、「かんかんのう」の旋律に、人形淨瑠璃や歌舞伎狂言で知られる『ひらかな盛衰記』(元文4(1739)年、大坂竹本座で人形淨瑠璃として初演(二代目竹田出雲(1691~1756)、三好松洛(1695~1771?)らによる合作の全五段の時代淨瑠璃、同年丸本物として歌舞伎上演)の第四段目「神崎揚屋の段」)で、遊女・梅ヶ枝が、再會した梶原源太景季(1162~1200)のために無間地獄に落ちるのを覺悟して「無間の鐘」(叩けば富を得るも來世では無間地獄に落ちるとされる鐘)に準えた鉢を叩いたところ、小判が降る場面)からヒントを得た歌詞「梅ヶ枝の手水鉢」(元唄)を戲れで付けたものといわれる。
 一般に、九連環は、長崎の唐人から傳わり、廣まったといわれるが、江戸額の大家・三田村鳶魚(1870~1952)は、曲亭馬琴(1767~1848)の『著作堂一夕話』(享和4(1804)年に發行した『蓑笠雨談』を弘化5(1848)年に改題して發行)を引き、寛政12(1800)年に、遠州袖志ヶ浦(太田川河口の福田(ふくで)漁港邊り)に漂着した、清國船・萬勝號の船員から傳わり、廣まったという別るd-ともあった旨を主張している。
 先に述べたように、梅が枝節は、『かたかな盛衰記」で、遊女・遊女・梅ヶ枝が、叩けば無間に金が出るといわれる無間の鐘に準っらえた手水鉢を叩くという場面をモチーフにし、歌詞を捜索したものだ。
 その無間の鐘は、「遠州七不思議」の一つに數えられ、「遠州七不思議」によれば、「無間の鐘」は、遠州菊川の空道上人が掛川の粟ヶ岳(標高532㍍)にあった曹洞宗の寺院・無間山觀音寺(掛川市東山)に懸けたといわれる(觀音寺は明治の廢佛毀釋により廢寺となり、粟ヶ岳には阿波々神社(掛川市初馬/天平8(736)年創建)のみが殘る)。魯文も掛川に近い遠州袖志が浦が「九連環」の傳來ルートの一つとの認識があり、替え歌「梅ヶ枝の手水鉢」の創作に際し、「無間の鐘」を思い浮かべたのだろう。
 話は変わるがあ、荒俣宏著『帝都物語外伝』のタイトルは、「機関童子」。
 この機関童子は、牛久保の若葉祭の「隠れ太鼓」の稚児を指す、荒俣の造語である。
 落語『駱駝の葬禮(そうれん)』は、遺体を文樂人形に見立て、かんかんのうに合わせ、唐人踊を躍らすという内容であるが、直接明言していないものの、荒俣は、間接的に若葉祭の隠れ太鼓と『芥田の葬禮』に關係があると考えていたと見て取れる箇所がある。
 そして、私が若い衆だったころは、上若組は、隠れ太鼓が演ぜられる大山車を曳行するとき、かんかんのうを歌っていたのである。




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この記事へのコメント
柴田晴廣 様

 「九連環」が清国船、萬勝號の船員から伝わったとする話、とても興味深く読ませていただきました。ありがとうございました。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年05月28日 16:50
安達恭史さま

 福田(ふくで)には、萬勝號の史跡も載っています。
https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/singaku-06.html
 コーデロイの生産が盛んな街です、。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年05月29日 05:54
柴田晴廣 様

 兄が高校生の時、コーデユロイのズボンを穿いていました。当時、「コール天」と呼んでいた記憶があります。静岡福田の生産が盛んというのも初めて知りました。
 幼少時、コール天の衣服は大人が着こなすものと思い込んでおりました(苦笑)。今、思うと、とてもお洒落な生地ですね。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年05月29日 13:00
安達恭史さま

 福田とコーデロイについては、以下を参照。
https://shizuoka-biyori.net/fabrics/
https://garage.ocnk.net/product-list/8
https://cd-house.com/

 話は変わりますが、芋切干は現在茨城が産地ですが、御前崎周辺が発祥。
https://mirainouka.com/2018/12/09/hoshiimo-seichi/
 これも御前崎沖で薩摩船が難破したのがきっかけ。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年05月29日 13:41
安達恭史さま

 安達君の兄さんが高校のころというと、私が大学のことですね。
 あの頃私は、シャンタルデュモ(エーボンハウス)や
https://ameblo.jp/naruichiito/entry-12295047485.html
https://www.bing.com/images/search?q=%e3%82%b7%e3%83%a3%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%83%ab%e3%83%87%e3%83%a5%e3%83%a2+%e3%82%a8%e3%83%bc%e3%83%9c%e3%83%b3%e3%83%8f%e3%82%a6%e3%82%b9&qpvt=%e3%82%b7%e3%83%a3%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%83%ab%e3%83%87%e3%83%a5%e3%83%a2%e3%80%80%e3%82%a8%e3%83%bc%e3%83%9c%e3%83%b3%e3%83%8f%e3%82%a6%e3%82%b9&form=IQFRML&first=1
 リングジャケット
http://www.ringjacket.co.jp/
 を着ておりました。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年05月29日 14:39
安達恭史さま

 牛久保付近で阿s妻鋳物栽培が盛んになったのは、菅江真澄が、「わが父母の住まうちか隣の牛窪村の喜八」の影響。
 製飴業者が多かったのも、この流れでしょう。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年05月29日 15:06
柴田晴廣 様

 コール天の衣類は着ませんでしたが、ベルベット(別珍?)のカジュアルジャケット(伊太利亜製)は好んで着てました。今は廃業してしまいましたが、吉祥寺の並行輸入のショップで見つけて手に入れましたね。手入れが悪く、虫に食われてしまいました。もったいないことをしました。両胸に蓋付ポケットで、ネイビーブルーでした。

 芋切干はよく母親が買ってきて、石油ストーブの上であぶって食べてました。私も好きで食べましたが、母親が買ってくるものは堅かった記憶があります。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年05月29日 15:07
 柴田晴廣 様

 幼少時、裏町に製飴工場がありましたね。独特の香りがしてました。芋飴だったと思います。屋内に運搬する台車のレールがありました。紅あずまの栽培が盛んになったのは、菅江真澄と牛窪村のきはっつぁんが関係しているのですか。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年05月29日 15:16
安達恭史さま

 ベルベットは、ベロア、ビロード等の呼び名があります。
 織り方の名で、信長が南蛮坊植木で手に入れたびろおーどのマントは、シルクでした。
 喜八は、当時、代打に住んでおり、苗字は河合。
 下町の河合さんんは子孫です。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年05月29日 22:47
柴田晴廣 様

 ベルベットのことを、亡き母親はビロードと言っておりました。ベルベットは英語でしょうか。ビロードはポルトガル語か何かでしょうか。

 喜八さんが中代田に住んでいたとしたら、菅江真澄のいう「ちかとなりの里」は、白山権現のある宿村北島ですかね。

 小生の実家のあった牛久保下町に河合さん、数軒ありました。河合先生のところでしょうか。懐かしい。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年05月30日 01:33
安達恭史さま

 私の母の従姉の丸秀の秀さんの向かいが直径のはずです。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年05月30日 01:43
柴田晴廣 様

 丸秀さんの向かい、というのは、どのへんだろう?牛久保駅前通ですか?
 
 牛久保も商売をやめてしまったところも多く、思い出せないことが多いです。最近まで営業していた「宝来パン」ことバルボンも、廃業してしまいましたね。バルボンのサンドイッチ、ケーキではオムレットが好きでした。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年05月30日 10:43
 菅江真澄の名前が出てきましたので、『穂國幻史考(増補新版)』の菅江真澄の出自に関する論考を読み直しました。

  菅江真澄『えみしのさへき』六月二四日条より、

   小雨きのふのことくにふれはえしも出たたす磯やかたの長とひ來てこの  
  頃三河の国寶飯郡牛窪村のすきやう者名は誰とやらんとしはよそあまり
  の人のわたひうとのことならんいつこいつことあとのみしたひ来りしかと 
  めくりあはてなと語るは上の国の寺にそれかしるしの札のこしてける喜八
  とかいふにてやあらむあかくにの名さへ聞さへゆかしきにまいてわか親
  ますかたのちかとなりの里なるをといよよ恋しふふたたひ袖はぬれたり

 この件が好きですね。柴田さんから教わったかもしれませんが、この牛窪村
 の河合喜八さんは、何故、みちのくまで行ったのでしょうか。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年05月30日 11:09
安達恭史さま

 丸秀は、安達君とこから数軒西。
 喜八は、真澄を追ってという見方が多いようです。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年05月30日 13:03
柴田晴廣 様

 いつも沢山の事を教えていただきましてありがとうございます。

 河合喜八さんは、真澄と懇意の仲だったということですね。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年05月30日 13:47
柴田晴廣 様

 GWに砥鹿神社を詣でましたが、末社のアラハバキもお参りしました。柴田さんの著書に菅江真澄とアラハバキの論考がございましたが、小生、柴田さんの著書を読むまでは、アラハバキについて知りませんでした。ひとまずは、アラハバキは縄文文化を受け継いだ列島の人々に信仰された国津神で、大和朝廷が東征する以前から信仰されていた神、という理解でよいでしょうか。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年05月31日 10:51
安達恭史さま

 「記紀」は神武以前の先住者を長髄彦、土蜘蛛、八握脛等、その名から手足が長い、寒冷地適用を受けていない、古モンゴロイドの特徴を有している者として描いています。
 また、『日本書紀』では、八十梟帥を討ったときの久米歌で、「蝦夷を一人 百な人」と蝦夷と表現しております。
 「記紀」が編纂された時代は、蝦夷討伐を始める時代で、時代が反映されているとみることもできますが、佳字二字令が、縄文系地名を消し去ることであったことを考えれば、直接か否かはともかく、縄文の流れをくむ神といえると思います。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年05月31日 18:16
柴田晴廣 様

 ご回答ありがとうございました。アラハバキが、蝦夷征伐以前に先住民が信仰した産土神であった、と理解しておきます。どこか旅先でアラハバキの社を見つけたら拝んでおきます。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年05月31日 19:05
柴田晴廣 様

 いつも様々な事柄を教えてくださいましてありがとうございます。また、小生が基本的なことを理解できていないため、初歩的な質問ばかりしてしまい、申し訳なく思っております。
 柴田さんの著書を読み直す度に理解は進むのですが、祭禮の話だけでなく、我々の故郷である東三河を含む列島先住民の歴史あるいは存在をも、記紀編纂時に消し去ろうとしたこともよくわかりました。
 このような内容を学校の日本史では学びませんから驚きの連続です。現在の皇国史観というものに関心はなかったのですが、柴田さんの著書を読むほどに、むしろ強い関心を抱くようになりました。
 持統が三河で敗退した音羽川河口付近の聖跡とやらを、改めて見物しに行きたいですね。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年06月01日 09:13
安達恭史さま

 皇國史觀というのが、やっかいで、單純なものではない。
 たとえば、北輝次郎(1883~1937)。2・26事件の皇道派の青年將校の理論的指導者で、その著『日本改造法案大綱』は、青年將校に愛讀され、2・26事件で處刑されます。
 ところが、北の最初の著作は、『國體論及び純正社會主義』、中国革命にも身を投じます。
 それだけではなく、北を理解するには、法華經の理解が不可缺です。
 『日本改造法案大綱』も、要は國家社會津主義。
 岸信介なんかも、革新官僚といわれ、ソ聯の國家社會津主義を範とするわけです。
 誤解のないように加えて置けば、治安維持法で彈壓されたのは、共産主義者というより、自由主義者がほとんどです。
 法華經という點からいえば、石原莞爾(1889~1949)も、日蓮の影響は彊く、滿州國の建國日の2月16日は、日蓮の生誕日です。
 血盟團の井上日召(1886~1967)も日蓮宗の信者ですし、この井上日召の孫が、オウムの井上嘉浩(1969~2018)。
 日本赤軍の元最高幹部の重信房子の父・重信末夫も血盟團です。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年06月01日 11:29
柴田晴廣 様

 なんだか、凄い話につながっていきますね。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年06月01日 13:59
安達恭史さま

 創価學會の創設者の牧口常三郎(1871~1944)やその後繼の戸田城聖(1900~1958)も、國家主義と日蓮宗の流れで見る必要がありますし、宮澤賢治もしかり。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年06月01日 17:09
柴田晴廣 様

 思い込みの激しい人間は、自分の考えが正しいと思い、他人に理解を強要することをやるものですが、大抵は、我儘で狭い思想だから綻びが出るものです。自然淘汰されば良いですが、被害者を出してしまうことがあります。一神教や新宗教の限界とみております。
 生きている人間を拝むのではなく、自分で己の人生や存在の不可思議と言った、答えのでない事象を自分で考えてながら人生を生きることが大切ですね。禅には「佛に会うては仏を殺せ」という戒めがありますが、自分自身と向き合う厳しさを象徴した言葉だと思います。
 話は逸れましたが、アラハバキに関連して思うところを記載しました。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年06月01日 23:24
安達恭史さま

 学術論文といえるものさえ、用語のお定義がされていないのが現状。
 学者は飯を食うために論文を書いており、必ずしも、本当にやりたいこととは書いてしている場合もあります。
 食うためには、補助金を頼りに、テーマを選択する必要があるからです。
 私のように文章が下手な人間はともかく、文章がうまい人間は論理破綻した論考でもそれを気遣させません。
 本当に伝えたいことは文字や言葉では伝わらない(不立文字)も、こういったことを含むのでしょう。
 加えて、このクニでは、知財法を介して換金しやすい自然科学の分野でも、学者は補助金に豐っている。
 知財法で換金できないような研究は、有用性がないもの。
 補助金に頼るなどというのは、自らの研究は有用性がないと宣言しエチルににも等しい。
 弁理士に頼まず、自ら特許明細書を作成していた、東北大学学長で、Mr.半導体・西沢潤一(1926~2018)を見習うべきでしょう。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年06月02日 06:27
柴田晴廣 様

 そうですね。小生も査読付論文を数本書きました。直近の論文は、共著者はいません。企業秘密等の制約はあるものの、関連特許は切れており、自分の書きたいことは書けたと思っております。小生は恵まれたほうだと思いました。

 『菅江真澄遊覧記』をすべては読み切れないと思いますが、研究者のてによる菅江真澄という人となりを読みました。『えみしのさへき』など、読んでみようと思います。真澄の出自のことだけでなく、彼の成したことにも興味があります。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年06月02日 07:32
安達恭史さま

 母の同級生で、スポーツ史学会会長等を歴任された故稲垣正浩博士が状況まで過ごされた大村の堀内山長松院の開基は、戦国時代の武将・白井麥右衞門。
 檀家にも白井姓の方が見えたようで、真澄の研究者が訪ねてきていたようです。
 稲垣博士も菅江真澄には興味を持っておりましたから、ご健在なら、話に加わられていたと思います。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年06月02日 11:58
柴田晴廣 様

 稲垣先生とはお会いして、色々お話をしたかったです。残念です。

 白山信仰に造詣の深い前田速夫さんは、菅江真澄にご関心をお持ちなのでしょうか?

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年06月02日 17:23
安達恭史さま

 前田さんは、書紀の著作で真澄について言及しておりますよ。
 喜八についても、真澄との関係で言及しております。
 前田さんの見解は喜八は白山信仰宇の行者。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年06月02日 18:59
柴田晴廣 様

 思い出しました。過去に同じ質問を柴田さんにしていました。たしか、前田さんの初期の著書には、真澄の出自は岡崎とした説が紹介されており、同時期に、小生は柴田さんの著書を読んでいましたから、先の質問をしたことを思い出しました。前田さんは牛久保の若葉祭もご覧になっているし、所縁のある町を前田さんをご案内した話、ありましたね。
 
安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年06月03日 00:15
柴田晴廣 様

 本日は、荒川の天王祭です。昨夜からの大雨で、コンディションは最悪なのですが、昼頃には雨が上がる予報もあり、人出はそこそこありそうです。町屋駅前の行きつけの呑み屋の店先で、焼鳥を焼く手伝いをすることになっております。とても香具師のようには行きませんが、雰囲気が味わえるから、毎回、お手伝いをしております。

 荒川の素盞雄神社Webでみたところ、こちらの天王祭の始まりは、天文十年(1541年)に荒川の氾濫があり、それがきっかけだったようです。当時の被害の規模がよく分からないのですが、そのとき疫病が流行ったのかもしれませんね。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年06月03日 09:29
安達恭史さま

 盆行事を七月にやる東京にしても、天王祭には、少し早い気がします。
 京の祇園は、山鉾、津島の天王祭は、巻藁船、車樂船という流れから考えると、もともとは御輿ではなく、江戸型の山車だったのでしょうか。
 スズメは焼きませんか?
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年06月03日 10:31
柴田晴廣 様

 神輿のほかに三台の山車があったそうです。現在は、飾りの人形が二体残されております。
 三河島地区では、幕末から明治にかけて、「壱番 熊坂長範」、「弐番 素盞雄命」・「参番 稲田姫」の三体の山車人形が曳き廻されていたそうです。土地に伝わる民謡「小室節」にのせて、遠くは上野広小路まで巡行したといいます。
 市街環境の変化に伴い、現存する稲田姫、熊坂長範の二体の人形(ともに荒川区指定有形民俗文化財)も山車の上に載ることはなくなりました。
 熊坂長範は荒川中央町会、稲田姫は荒川四丁目西仲睦会、荒川文化会、大西町会、荒川宮地町会の氏子中により、天王祭において毎年町内お神酒所に飾られ、三年に一度の御神幸祭では、稲田姫が素盞雄神社境内の神楽殿に飾られています。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年06月04日 06:43
柴田晴廣 様

 スズメの姿焼き、食べたいですね。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年06月04日 06:45
柴田晴廣 様

 久しぶりに、御幸行列を見ました。忘れていましたが、こちらは、粽ではなくて笹団子でした。笹団子は撒いたり手渡したりせず、笹の枝に括り付けたものを四輪の山車に立てて巡幸するやり方です。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年06月04日 08:45
安達恭史さま

 人口の増大に伴い参加する町内が増え、御輿祭に変容したという理解でよさ曾王ですね。
 葛西も近いですから、葛西囃子が奏でられていたのが想像できます。

 スズメいいですね。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年06月04日 08:53
安達恭史さま

 私が二十代のころは、野鳥の焼き鳥の店がありました。
 ワシントン条約の関係で阿y長を出す店が亡くなったように思います。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年06月04日 09:00
柴田晴廣 様

 今日は、朝から天気が良く、暑いくらいです。
 そろそろ、手伝いに出かけますが、業務用の鳥のもものほか、鳥皮と豚バラ肉は串を打ったものを準備しましたので、三本500円で売ります。
 生ビールやサワーのほかに、串を打った冷やし胡瓜一本も売ります。これが結構売れるんです。店のオーナーさんは、ここの天王祭で供物の胡瓜が下げられることを知りませんでしたから、面白いものです。胡瓜の断面が祇園紋に似ていることから、京都の祇園会で胡瓜を食べるのを避ける氏子もお見えの様ですね。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年06月04日 10:55
安達恭史さま

 河童の別名は、兵主神ともいわれ、この兵主神は、牛頭の武神で、秦氏が傳えたとされる蚩尤のこととされ、牛頭天王と同視されます。
 で、河童の好物が胡瓜。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年06月04日 12:53
安達恭史さま

 胡瓜が好物の河童は相撲好きといわれ、相撲の祖は野見宿禰。
 野見宿禰は、出雲臣で、裏切り者で、杵築大社の社家の千家家等も出雲臣後裔。
 杵築大社の祭神は長く、蚩尤と同視された牛頭天王であった。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年06月04日 22:41
柴田晴廣 様

 杵築大社の祭神が長く牛頭天王だったこと、知りませんでした。

 昨日は、胡瓜の売上がほとんどありませんでした。店の前を氏子神輿が通らない本祭は、氏子衆はもとより見物人も少なく、売上は影祭より落ちること知っていたのですが、よく理解していない連中が、ただ商売っ気だけで突っ走るから失敗します(笑)。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年06月05日 07:46
安達恭史さま

 気になっているのは、笹団子の件です。
 京都の祇園祭の粽はもともと鋒の上からまいていました。
 大津祭では今でもまいているはずです。
 吉田の祇園の饅頭配り担当の上傳馬は、元は車樂担当でした。
 江戸型山車を担当していた組が、笹団子を配っているかなど慎重な阿考察が必要です。
 一度広まってしまうと、それを否定する苦労が身に染みて今っすから。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年06月05日 09:54
柴田晴廣 様

 笹団子の件、機会をみつけて聞いてみます。神社に聞いてみる必要があると思います。コロナ前の本祭で御幸行列を観て歩いたことがありますが、道中、笹団子を配ることはなかったと思います。素盞雄神社に宮入りしたときとか、事前に配られたとか、昔と今の違いとか、確認をしていませんので、慎重な考察が必要ですね。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年06月05日 11:34
柴田晴廣 様

 岸川雅範 著:『江戸・東京の祭礼文化』に、浅草御蔵前牛頭天王社では、祭禮の朝に氏子が笹に団子をつけて神前に奉納し、これを疫病除のお守りとして人々が群集して取り合った、とあります。南千住の天王祭も、昔はこのようなことをしていたのかもしれませんね。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年06月06日 07:25
安達恭史さま

 城内天王に傳わる「笹踊」の由来=「篠竹を社地に二三ヵ所立て、扇をつるし、神前に笹葉に包み粽を献ず。これを笹団子という。産子ども一組づつ参詣、団子を喰う。笹につるしたる扇子を持て踊る。これを笹踊と云う。拍子の太鼓はやし歌に、天王へまひりたれば笹団子十喰うた、サアゲニモヘ」と記し、また一説には、頼朝より範頼へ付けられたる愛臣に笹瀬万十郎という異風を好む士あり、是の男の風体が面白いのでそれを真似て笹踊が始まった。即ち笹瀬おどりの訛という。
 を思い浮かべました。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年06月07日 13:38
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