2022年02月28日

『穂国幻史考(増補新版)』の手引き10(第一話拾遺二)

『穂国幻史考(増補新版)』第一話「「記紀の成立と封印された穂国の実像」拾遺二「丹波傳承考」では、蘇我馬子(五五一?~六二六)と物部守屋(?~五八七)の抗爭中に、後に聖德太子と呼ばれる厩(うまや)戸(ど)皇子(五七四~六二二)の母・間人穴(はしひとあな)穗部(ほべ)皇女(?~六二二)が、丹波(後の丹後)に逃避していたとする傳承を載せる、『丹後舊事記』(文化七(一八一〇)年成立)を中心に考察したものである。
 ここで、間人穴穗部皇女と丹波との關係を考えれば、間人は土師人の意であり、間人穴穗部皇女は、土師氏の系譜に屬し、丹波と繋がりがあったと考えられる。
 間人穴穗部皇女がどう土師氏と繋がるか。間人穴穗部皇女の母・小姉君は、『日本書紀』卷一七繼體二五年一二月丙申朔庚子(五日)條一書及び同書卷一九欽明二三(五六二)年八月條本文の記述から、繼體(四五〇?~五三一?)の第二子・宣化(四六七?~五三九)の娘と推測され、蘇我稻目(?~五七〇)が、宣化の娘を娶ったことにより、蘇我宗家は、ホムツワケノミコト――繼體と續く海人の系譜に名を連ねたと考えられるのである。蘇我宗家が天火明命を祀ったのもこれによる。

 馬子と守屋の抗爭については、崇佛派と排佛派の爭いといわれるが、『日本書紀』の記述を見るだけでも、單純なものではないことが讀み取れる。
 ここで重要なのは、崇佛派は、八百萬の神祭りの一つとして、佛祭りをしているだけのことだ。換言すれば、崇佛派は、排神派ではないのである。これがなぜ重要かといえば、崇佛派の採る姿が本來のこのクニの神祭り=八百萬の神祭りの姿だからである。
 この爭いは、誰を皇位に就けるかの推擧の權限を持っていた、推古(五五四~六二八)の爭奪戰であった。

 竹野神社(京京丹後市丹後町宮)が所藏する『齋明神縁起』には、敏達(五三八?~五八五)の第一皇子で、舒明(五九三?~六四一)の父であり、宣化の血を引く、押坂彦人皇子(生没年不詳)と推定される人物が丹波(後の丹後)に逃避していた旨を載せる。
 さらに、『丹哥府志』(天保一二(一八四一)年成立)によれば、東漢(やまとのあやの)直(あたひ)駒(こま)(?~五九二)も、間人穴穗部皇女に從い丹波に逃避していた旨を記す。東漢直駒は、馬子の娘で、厩戸の妃の一人・刀(と)自古朗女(じこのいらつめ)(生没年不詳)を連れていた。刀自古朗女の母は、守屋の妹であったと思われる。
 馬子が守屋を滅ぼしたとき人々は、「馬子は、妻(守屋の妹)の謀を用いて、守屋を殺した」といったという。刀自古朗女の母が守屋の妹であれば、刀自古朗女は守屋の姪である。そして、刀自古朗女の母の謀を用いて、馬子は守屋を殺害している。娘の刀自古朗女は、謀の眞相を知っていたのではないか。
 また『日本書紀』卷二一崇峻五(五九二)年一一月癸卯朔乙巳(三日)條は、「蘇我馬子が、東漢直駒を使って、崇峻を弑した」旨記載する。守屋謀殺の眞相を知る駒を消し、ついでに崇峻殺害の罪も駒に押し附けたということか。
 ただし『日本書紀』編纂時に權力を手にしていたのは、本姓物部の左大臣石上麻呂(六四〇~七一七)と藤原不比等(六五九~七二〇)だ。兩名とも蘇我宗家を惡者にする點は一致していたことを考慮する必要があろう。  


2022年02月27日

『穂国幻史考(増補新版)』の手引き9(第一話拾遺一補遺)

『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」拾遺一補遺「菅江眞澄とアラハバキ」では、アラハバキ神についても語る菅江眞澄(一七五四?~一八二九)と、東三河のアラハバキ社についての考察である。
 その菅江眞澄の出自については、『はしはの若葉』の天明六(一七八六)年四月條の「あか父母の國吉田ノうまやなる殖田義方のもとへ文通あつらへしかは」と、『えみしのさへき』の寛政元(一七八九)年六月二四日條の「この頃三河の國寶飯郡牛窪村のすきやう者……喜八とかいふにてやあらむ……わか親ますかたのちかとなりの里なるをと」と、自身で記している。
『はしはの若葉』の「殖田義方」とは、吉田宿表町十二町の一つ札(ふだ)木(ぎ)(愛知県豊橋市札木町)の植田義(よし)方(へ)(一七三四~一八〇六)のことであり、『えみしのさへき』の「牛窪村の喜八」とは、當時の牛久保村中代(なかだい)田(だ)、現在の豊川市代田町邊りに居していた河合喜八(一七五七~一八二〇)のことである。
 吉田宿の札木、牛久保村の中代田とも吉田川(豊川(とよがわ)下流の江戸時代の呼稱)の流域に當る。
 そのほか、眞澄の出自については、秋田藩士・石井忠行(ただつら)(一八一七~一八九三)が、文久三(一八六三)年二月から編み始めた『伊頭園茶話』の眞澄が仙北郡六鄕村の竹村治左衞門に語った覺書が出典だといわれる、「三河國熱海郡雲母莊入文村白井氏某之二男菅井眞澄」の一節がある。「熱海郡雲母莊入文村」の「熱海郡」は渥美郡のことと思われるが、渥美郡に入文村はない。だが、吉田川流域ということになれば、八名郡入文村(豊橋市石巻小野田町の一部)がある。
 これらの眞澄の父母が住む地の共通項を擧げれば、近くに白山妙理權現を祀る集落があることだ。
 吉田宿表町十二町の一つ札木から數百㍍南へ下った吉田宿町裏十箇所の一つ新錢町に白山比咩社が鎭座する。この白山比咩社は、吉田宿裏町十二町の一つ魚町(うおまち)(豊橋市魚町)の氏神である安(やす)海(み)熊野權現の脇宮として祀られ、保延二(一一三六)年に札木に遷座し、天正一八(一五九〇)年の吉田城擴張までは、札木に鎭座していたと傳わる。
 寶飯郡牛久保村中代田から南に一㌔ほどの舊寶飯郡宿村北島、八名郡入文村から西に一㌔弱の八名郡三渡野村にも、白山妙理權現社が鎭座する。
 東三河の舊四郡の殘る一つ設樂郡に目を向ければ、德定と片山で「白山比咩」を産土神としており、德定には、眞澄の本名の白井(眞澄の本名は白井榮二)を苗字とする家が記されている。德定の白井家の氏神・熊野權現社に正德二(一七一二)年、荒羽々氣社が勸請されている。
 その白井を本名とする眞澄自身、『そとかはまつたひ』の天明八(一七八八)年七月七日條、『えその手振り』の寛政三(一七九一)年五月二九日條で、『筆のまにまに』で、アラハバキに言及しており、『えその手振り』では、砥鹿神社の荒羽々氣社についても觸れ、『えその手振り』と『筆のまにまに』では、アラハバキを祀る社に觀音菩薩像が安置されている旨記している。
 眞澄は觀音菩薩像の具體的な尊容を記していないが、白山妙理權現の本地は十一面觀音である。

 眞澄は、天明八(一七八三)年、故鄕を出奔し、信濃を經て、出羽、陸奧、蝦夷を旅し、行く先々の風俗等を書き殘したことから、アラハバキ神といえば、東北の神とのイメージが濃いが、眞澄自身が記すように、砥鹿神社の里宮及び奧宮の荒(あら)羽々氣(はばき)神社のみならず、德定の熊野權現社に勸請された荒羽々氣社(現在は竹生神社(新城市杉山行時(ゆきとき))に合祀され、その末社の荒羽々氣社)、式内石座神社(新城市大宮狐塚)の末社の荒(あら)波婆岐(はばき)社、設楽郡豊根村下黒川の熊野權現社の末社の荒羽々氣神社と、眞澄の出身地・東三河には、五社のアラハバキ社がある。

 砥鹿神社里宮の荒羽々氣社について、昭和一九(一九四四)年に刊行された『三河國一宮砥鹿神社誌』は、「弘化四(一八四七)年以前は、祠宇がなく、神木を對象としていた」とする。神が依代とする木=みあれ木が神體だったということになる。
『古事記』上卷の「天の岩戸」條は、「天の香山(かぐやま)の眞男鹿の肩の骨と、天の香山の天の波々迦(ははか)を用意し、占いをさせた」旨を載せる。波々迦とは、朱櫻(かにわざくら)のことである。
 神道五部書の一つ『伊勢二所皇太神宮御鎭座傳記』は、倭媛命崇祭の社であり、その山頂にアマテラスが最初に天降ったという朝熊山に鎭座する朝熊神社(伊勢市朝熊町字櫻木)を擧げ、さらに朝熊神社六座の一つとして櫻大刀神を掲げる。
『古事記』上卷の「天の岩戸」條は、波々迦で占いをさせたとするが、波々迦はみあれ木でなかったか。だとすれば、アラハバキは、みあれの波々迦木の意と推測する。  


2022年02月26日

『穂国幻史考(増補新版)』の手引き8(第一話拾遺一)

『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の拾遺一「砥鹿神社考」は、タイトルのとおり、持統三河行幸が行われた大寶年中(七〇一~七〇四)に創建されたと傳えられる、砥鹿神社について考察したものである。
 三河一宮砥鹿神社の神主・草鹿砥氏は、既述のように、日下部を日下戸と表記し、クサカドと訓じ、草鹿砥の字が當てられたという。
 草鹿砥氏が神主を務めた砥鹿神社の東、豊川市豊津町の一部は、八名郡草ケ部村であった。
 日下部を日下戸と表記したという、日下部の日下であるが、『古事記』序文第三段は、「意味と讀みが一致しない場合には注を附し、姓に於いて日下を玖沙訶(クサカ)と讀み、帶を多羅斯(タラシ)と讀むような例は、そのまま記載した」旨を記す。
『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の序「穗國とは」の説明で述べたように、「佳字二字令」により、繩文系の地名は無理やり二字の漢字を當てられ、本來の意味が解らなくなった。
 つまり、「日下」は、「日下」という漢字の意味より、假名の成り立ちから、「玖沙訶(クサカ)」という音(おん)にその意味があることになる。日下部も草ケ部もその音から、意味を解釋すべきである。
「草ケ部村」の「草ケ部」は、アイヌ語で「舟で運ぶ・岸・川」の意味を持つ"kusa・ka・bet"に由來する地名だと考えられる。繩文時代は現代より気候が温暖で水面も上昇していた。草ケ部村邊りが當時の海岸線であったからだ。
 草鹿砥氏は、海運に從事する氏族で、海人であったと考えられる。

 砥鹿神社の神主は草鹿砥氏であるが、社家には、字を異にする、戸賀里、戸河里、戸加里を苗字とする家がある。いまでも、砥鹿神社が鎭座する豊川市一宮町を中心に、戸ヶ里・戸加里・戸苅・戸河里・戸賀里を苗字とする家が十数軒存在する。また、穗の原と呼ばれた豊川市の中央部・大崎町を中心に、戸ヶ里・戸苅・戸河里・戸狩・戸賀里を苗字とする家が、七~八十軒存在する。
 その大崎町の西隣の市田に鎮座する伊知多(いちだ)神社(豊川市市田町宮田)の別宮・郡明神は、「三河國内神名帳從四位下氷明神」に比定されている。郡明神は、寶飯郡衙の後繼施設で、寶飫は穗の後繼であることから、寶飯郡衙は、律令制以前は、穗國造の政廳であった旨、『神社を中心としたる寶飯郡史』は述べている。
 トガリという苗字について、『神社を中心としたる寶飯郡史』の編者・太田亮氏は、『姓氏家系大辭典』で、日下部氏の後裔が、碧海郡渡刈邑(豊田市渡刈町)の地名にちなみ名乘ったものではないかと述べている。

 愛知県内の「トガリ」地名には、豊田市の渡刈町のほか、一宮市に萩原町戸苅がある。萩原町戸苅は、天正一三(一五八六)年に起こった大地震以前の木曾川(木曾古川)に相當する、日光川流域に位置する。
 豊田市渡刈町もまた、矢作川流域に位置し、支流の巴川との分岐附近の右岸に當たる。
「延喜式神名帳」に目を移すと、加賀國江沼郡坐刀(と)何(か)理(り)神社、河内國石川郡坐利(と)雁(がり)神社が載る。刀何理神社も潟湖附近に鎭座、利雁神社も海進時の河内灣あるいは河内湖の沿岸に鎭座していた。
 以上の地理的な位置から、トガリという地名を考えるに、津輕の地名の由來となった、アイヌ語で「~の手前」を意味する"tukari"の意であると考えられる。"tu"の音は日本語にはなく、"to"や"tsu"に變わったと考えられるからだ。
 となれば、「延喜式神名帳」に載る出雲國出雲郡坐都(つ)我利(がり)神社(島根県出雲市東林木町)も、"tukari"の範疇に含まれるとしていいだろう。都我利神社は、東宮と呼ばれ、東宮に對する西宮は、出雲國秋鹿郡伊農鄕の伊努(いぬ)神社(島根県出雲市西林木町)である。この伊努神社の祭神は、『出雲國風土記』で、國引きの神とされる八束水臣津野命の子・赤(あか)衾(ふすま)伊努意保須美比古佐倭氣(いぬおほすみひこさわき)命と、その后・天(あめの)甕(みか)津日女(つひめ)命である。
 天甕津日女命について、『釋日本紀』が引く『尾張國風土記』逸文の丹羽郡吾縵鄕條は、「我を祀れば、ホムツワケノミコトはモノがいえるようになる」との逸話を載せ、阿麻乃彌加都比女(あまのみかつひめ)を多具(たぐ)國の神とする。多具國の神について、『出雲國風土記』は、「阿遅須枳高日子命の后・天(あめの)御梶(みかじ)日女(ひめ)命が、多久に來て多伎(たき)都比(つひ)古(こ)命を生んだ」旨を記し、加えて『出雲國風土記』は、阿遅須枳高日子命について、ホムツワケノミコトと同樣に、大きくなっても、モノがいえなかった旨を載せる。
 伊努神社が座する出雲市西林木町の西隣は、日下町であり、大穴持命・日子坐王命・大穴持海代(あましろ)比古命・大穴持海代比女命を祭神とする、久佐加神社(出雲市日下町)が鎭座する。日子坐王命を祭神としたのは當地を開拓した日下部一族の祖神であるからだと傳える。

 伊知多神社の別宮・郡明神の存在により、附近に穗國造の政廳があったことを物語っている。そして、その東の大崎の産土神・大崎住吉神社(豊川市大崎町門)の末社に祭神を小錦姫命とする蠶(こ)影(かげ)神社がある。蠶影の名からも察しが附くと思うが、養蠶の神で、一般には、稚産靈神(わくむすびのかみ)を祭神とする。
 小錦姫命の小錦は、冠位二十六階について規定する、『日本書紀』卷二七・天智三(六六四)年二月已卯朔丁亥(九日)條の「小錦上、小錦中、小錦下」にちなむものではないかと考えられる。「小錦上」、「小錦中」及び「小錦下」は、後の五位に相當する。五位から初位までは、外位といわれ、「小錦」は、地方豪族の中でも國造クラスに輿えられたことから、小錦姫命は、後に寶飯郡司となった穗國造の娘の稱號である可能性が高い。穗國造の本據が穗の原にあった傍證になる。

 蠶影神社の總本社が、つくば市神(かん)郡(ごおり)に鎭座する。筑波の蠶影神社が昭和四(一九二九)年に發行した『日本一社蠶影神社御神德記』の後段で、「爰に又欽明天皇の皇女各谷姫筑波山へ飛行し給ひて神となり此神始めて神衣を織り給ふ……此國に於て養蠶の神となるとて又富士山に飛行し給ふ時竹取翁だち拜み申せりと」とあるが、欽明天皇の皇女に、「各谷(かぐや)姫(ひめ)」はいない。いないものの筑波の蠶影神社は、露天商の傳承と關係があるように思われる。

 話は変わるが、『神社を中心としたる寶飯郡史』は、草鹿砥氏が穗國へ入國した理由を日本武尊東征に求めている。だが、「記紀」の日本武尊の逸話は矛盾だらけというより支離滅裂で、草鹿砥氏の穗國入國の理由となるような事柄はないといっていい。近江と美濃の境の伊吹山で敗れる日本武尊より、むしろその系譜では、美濃と繋がりが深く、先の筑波の蠶影神社の縁起では、蠶影神と美濃の關係を説くことから、日本武尊より日本武尊の雙子の兄・大確(おおうす)命の方が、穗國との關聯も强い。

 砥鹿神社は、持統三河行幸が强行された大寶年間(七〇一~七〇四)に創建されたと傳えられるが、同字同名の社が、静岡市清水区原、愛媛県越智郡菊間町田之尻、栃木県塩(しお)谷(や)郡高根沢町宝(ほう)積(しゃく)寺(じ)(元の鎭座地は、栃木県宇都宮市下岡本町)に鎮座する。
 この三社の砥鹿神社の分布に關聯すると思われる人物が、彦狹嶋命である。
 越智氏について記す、『豫章記』は、伊豫皇子(彦狹嶋命)は、伊豫郡神崎に住み、和氣の姫を娶って三子をもうけたが、空船に乘せて海上に流したとし、三子は備前の兒島(岡山県倉敷市児島)に流れ着き、第一子は兒島に留まって三宅氏の祖となり、第二子は駿河の清見崎(庵原)に着いて大宅を名乘り、第三子の小千(おち)皇子は都の近くに流れ着き、難波の堀江から伊豫の小千の大濱に戻り、小千を姓とし、後に越智に改めたとする。
 静岡市清水区原は、彦狹嶋命の第二子が流れ着いた同区庵原町の西隣、愛媛県越智郡菊間町田之尻は、彦狹嶋命の第三子の小千皇子が戻った伊豫の小千=越智、栃木は、彦狹嶋命が、上毛野君、下毛野君等祖であることから、彦狹嶋命の關係地ということになる。
『越智系圖』では、駿河清見崎に着いた第一子を「三島大明神」とする。「三島大明神」とは、伊豆國一宮・三島大社(静岡県三島市大宮町二丁目)のことである。三嶋大社の神主は、伊豆國造の後裔を稱する矢田部氏であるが、矢田部氏は、元は日下部直であったとされる。三島大社の鎭座する三島市の北の駿東郡長泉町には、「土(と)狩(がり)」の地名もある。
 また、『日本國現報善惡靈異記』上・卷一八「法花經を億持し 現報を得て奇しき表を示す縁」に、「大和國葛木上郡の人の前世を伊豫國別郡の住人・日下部猴(くさかべのさる)の子」とする逸話が載せられる。「伊豫國別郡」とは、『越智系圖』が「第三御子、當國和氣郡三津浦に着き」とする伊豫國和氣郡を指し、愛媛県松山市には和気町がある。
 越智氏は、大山祇神を奉祀するが、大山祇神の娘が、天皇の壽命が短くなるように呪いをかけた磐長姫である。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」の二つ目の小見出し「ひょうすべと三島神――三島神が降臨した攝津三島江と上宮天滿宮」は、ここで説明した『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」拾遺一「砥鹿神社考」第三章「彦狹嶋の東遷と日下部氏」第四節「三島神の東遷と砥鹿神社」が伏線となっている。

 最後に、三河國一宮砥鹿神社誌』は、敕使が漲瀧川に衣を打ち入れ、衣が流れ着いたところに里宮を建立したとし、衣が流れ着いたのは、本茂山(本宮山の別稱)麓の東南だと傳える。
 本宮山中で瀧といえば、陽向の瀧(豊川市東(とう)上(じょう)町本宮山)しかない。陽向の瀧から松本川を下り、豊川(とよがわ)と合流する邊りが、本宮山麓の東南になる。おそらく、衣が流れ着いた場所は湯河板擧であったのだろう。
 また瀧の名の陽向は、アマテラスの別稱・撞賢(つきさか)木(き)嚴(いつ)之御(のみ)魂天(たまあま)疎(ざかる)向(むか)津(つ)媛(ひめ)命を想起させる。本宮山を中心に祀られる神・アマテラスの創造の障碍になる祭祀場が點在していたのだろう。これが持統三河行幸に繋がったのかもしれない。
 陽向の瀧には、陽向不動尊が祀られている。『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺一補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」の二つ目の見出し「田中緑紅主宰『鄕土趣味』の功罪」の四つ目の小見出し「稻垣豆人が「出し豆腐」以上に興味を示した「七福神踊」」で、「參候祭」について考察したが、『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」拾遺一「砥鹿神社考」終章「砥鹿神社舊社地考」で説明した、陽向の瀧及びそこに祀られる陽向不動尊の説明を踏まえて「參候祭」についての論を進めた。

『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」拾遺一「砥鹿神社考」のあらすじは以上である。  


2022年02月25日

『穂国幻史考(増補新版)』の手引き7(第一話終章)

 終章は、「穗國造・菟上足尼と丹波道主王の末裔たち」は、タイトルどおり前半は、『先代舊事本紀』卷一〇「國造本紀」穗國造の項に載る菟上(うなかみの)足(すく)尼(ね)について、後半は、丹波道主王の末裔について考察した。
「國造本紀」の「穗國造」の項は、「雄略の時代に生江(いくえ)臣の祖・葛城襲津彦の四世孫・菟上足尼を穗國造に任じる」旨を記載する。「國造本紀」については、同書に記載されている國の數が、『宋書』列傳五七「夷蠻傳」倭國條で、倭王武が順帝に上表した記述に載る國の數と近似していることから、「國造本紀」が編纂の基とした資料は五世紀のもの、つまり、推古朝の『天皇記』等の編纂に用いられた資料と同じだ思われる。
 豊川市小坂井町宮脇に鎭座する菟(う)足(たり)神社の祭神が、菟上足尼である。菟足神社は、「延喜式神名帳」記載の三河國寶飯郡六坐の一つであり、かつては寶飯郡渡津鄕の總氏神であった。ところが、「國造本紀」が穗國造とする菟上足尼の名は、「國造本紀」以外には登場しない。宮路山(豊川市赤坂町宮路)等にも傳承が殘る砥鹿神社の神主家の祖・草鹿砥公宣とは對象的だ。
 菟足神社々傳によれば、菟上足尼は、菟足神社の西・柏木の濱(豊川市平井町神明邊り)に上陸し、最初は平井八幡社(豊川市平井町水戸田)に祀られ、白鳳一五年に現在地へ遷坐したと傳わる。
 菟足神社の大祭「風祭」の当日、平井八幡社から出発する行列は、この遷坐の様子を傳えるものという。その平井八幡社を出発した平井の行列の中の平井の若い衆は、菟足神社の境内に入ると、拜殿に駆け上がりなだれ込む。それを拜殿内にいる大字小坂井や大字宿の氏子総代などの役員が押し戻す。あたかも菟足神社に攻め込んでいるようだ。
 菟足神社は渡津鄕の總氏神だが、その氏子でもある宿には、『國内神名帳』の「從五位上 多美河津天神 坐寶飯郡」と記載される多美(たみ)河(かわ)津(つ)神社(豊川市宿町宮脇)が坐す。祭神は、朝廷別王だ。
「宿」には、「宿縁」、「宿案」などの熟語からわかるように、「前々から」という意味がある。
「風祭」の平井の行列が遷坐の樣子を傳えるものであるとすれば、現在の菟足神社の鎭座地には、「前々から」の神・朝廷別王を祭神とする多美河津神社が鎭座し、平井から菟上足尼を奉祭する者が押し寄せ、力でこの地を奪ったとも取れる。
 白鳳一五年という遷坐の時期を考えれば、持統三河行幸の前觸れのようなものではなかったか。その持統三河行幸の半年ほど前の『續日本紀』卷二大寶二(七〇二)年四月庚戌(一三日)條には、「詔定諸國國造之氏 其名具國造記」と、「諸國の國造となる氏族を定め、それを「國造紀」に記した」旨を載せる。律令國造の記載だ。『先代舊事本紀』は物部氏の手によるものといわれる。私は「記紀」編纂時に、不比等以上に、官位が高く、『竹取物語』で、かぐや姫に求婚する五人の公卿の一人・中納言石上麻呂のモデルとなった左大臣石上麻呂(六四〇~七一七)が關輿していたと考える。
 以上を考慮すれば、菟足神社の祭神・菟上足尼は、律令國造だったのかもしれない。

『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」第二章「穗別の祖・朝廷別王は、悲劇の皇子・ホムツワケノミコトだ」の説明で述べたように、終章の「穗國造・菟上足尼と丹波道主王の末裔たち」の後半部分は、露天商の傳承がベースになっている。
 既述のように、「記紀」の編纂には、不比等の思惑が大きく影響しているが、その不比等の思惑が實り、攝關政治絶頂の御堂關白道長(九六六~一〇二七)の時代、京の都に鬼が現れる。鬼の首魁は丹波の大江山(京都府福知山市大江町)に棲む酒呑童子。酒呑童子は、越後の彌彦山で生を受けたといわれ、彌彦山には越後一宮彌彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦)が鎭座する。祭神は、露天商の祖・天香具山命である。
 丹波といい、土師系の大江の地名といい、酒呑童子は、丹波道主の裔を想起させる。
 大江山の酒呑童子に關聯して、一條戻橋(京都市上京区堀川下之町)の鬼の話がある。源頼光の四天王の一人・渡邊綱(九五三~一〇二五)が、鬼の腕を切り落とすが、鬼はそのまま愛宕山へ飛び去った。後日、鬼は老婆に化けて腕を取り返しに來た。 
 腕を取り戻すという逸話は、河童傳説にしばしば見られる。腕を拔かれた河童が、腕を取り返しに來るというものである。河童は、相撲を好むといわれ、相撲の始祖は、野見宿禰だ。
 河童については、木偶(デク)に呪法をかけて土木工事を手傳わせ、工事から開放された木偶が河童になったとする傳承もある。
 中世に、「傀儡子(くぐつ)」と呼ばれる木偶(傀儡(デク))を操る集團がいた。
 大江匡房(一〇四一~一一一一)は、傀儡子について、「家を持たず、定住せず、天幕を張り、水草を追って移動する。(中略)男は、皆弓馬を使い、狩獵を行っている。(中略)木偶を操るに巧みで、(中略)女は、愁い帶び妖艶な足つきで春をひさぐ」旨を『傀儡子記』で述べている。
 柳田國男(一八七五~一九六二)は、大正二(一九一三)年に発表した『所謂特殊部落ノ種類』において、「クグツ」について、近世末期の無宿人の系譜に屬するサンカが、これに當たるとしている。
 サンカの研究というと、三角寛(一九〇三~一九七一)が思い浮かぶが、三角のサンカについての言説のほとんどは、三角の創作によるものである。
 三角は、「ひとのみち」の信者であり、「ひとのみち」は、當時の他の神道系教團と同樣に、皇祖神アマテラスを頂點とする天皇中心主義をその史觀とした。
 そうした思想的背景を持つ三角であるが、上垣和三郎からの蝮部(タヂヒベ)の傳聞の紹介は、蝮部の祖を火明命を祖とし、三角の創作とは思えない。またサンカの始祖傳承には、酒呑童子の影が色濃く殘る。
 無宿人の系譜を引くならずもののサンカが行商を行い露天商と接觸し、觸發され、始祖傳承を創作したのだろう。

 以上、『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の序から終章までの説明をしたが、穗國を一言でいえば、天皇制から排除された鬼のクニとなるだろう。
  


2022年02月24日

『穂国幻史考(増補新版)』の手引き6(第一話第四章)

「記紀」は、史實を後世に殘すといった目的で創られたものではなく、海人の歴史を消し、 新たな歴史を創作した物語である。物語の創作を指示した、持統や元明は、自身の血を引く者に皇位を繼承させようと思った。その思惑を利用し、天皇制に寄生し、自家の繫榮を企んだのが、藤原不比等(六五九~七二〇)だ。不比等は、万世一系を創造し、かつ、母系制を利用し、天皇の外戚として王朝に寄生し、王朝交替を將來に亙り、阻止するため、天皇の棄姓を思い附いた。姓を棄てれば、易姓革命を回避出來るからだ。
 ここに万世一系とは、『古事記』及び「六國史」という虚構の世界で、男系を遡れば二ニギに行き着く者のみが天皇になれる制度をいう。
 天皇の棄姓については、既述のように、『隋書』に、倭王の姓は阿毎だと載る。しかし現在皇族には、姓も苗字もない。
 また姓がないことが、皍位の條件である點については、紀傳體の歴史物語で、白河院政期(一〇八六~一一二九)に成立したといわれる『大鏡』卷二に逸話が載る。
 その逸話は、陽成(八六八~九四八)の退位(實際は廢位)に伴い、適當な皇位繼承者がいないとき、源融(八二二~九五)が皇位に就ける者ならここにもいるとばかりに、「いかがは、近き皇胤をたづねば、融らも侍る」と自ら手を擧げた。ところが、ここで藤原基經(八三六~八九一)が待ったをかける。基經曰く、「皇胤なれど、姓給て、ただ人にて仕えて、位に就きたる例あるや」、すなわち、臣籍降下し、姓を持った者が皍位した例はないと異議を申し立てたのだ。基經の申し立てで、融は皇位に就くことが出來なかった。
 このとき皍位したのが、光孝(八三〇~八八七)。皍位と同時に全ての子女を臣籍降下させたが、源定(さだ)省(み)(八六七~九三一)が、皇籍復歸し、姓を棄てた後に、皍位して宇多となる。さらに源定省の子・として姓を持って生れた源維城(これざね)(八八五~九三〇)は、宇多の皍位に伴い、皇籍に列し、敦仁となり、醍醐として皍位する。この時代に書かれた『源氏物語』も光源氏の子として生を受けた冷泉が皍位している。冷泉の父・光源氏のモデルは、融だといわれる。
 この後日談を記せば、眞言密教の僧侶・日藏(九〇五?~九六七?)が著した『日藏夢記』に、醍醐は地獄に落ちたとある。地獄に落ちたことから、醍醐以降に姓を持って皇位に就いた者はいない。

 そもそも王は国家にとって必要不可欠なものではない。ゆえに多くの国で王はいないのである。
『太平記』卷二六の「妙吉侍者言附秦始皇帝事」で、「都ニ王ト云人ノマシゝテ 若干ノ所領ヲフサケ 内裏 院ノ御所ト云所ノ有テ 馬ヨリ下ル六借サヨ 王ナクテ叶マシキ道理アラハ 以木造ルカ 以金鑄ルカシテ 生タル院 國王ヲハ何方ヘモ皆流シ捨テ奉ラハヤト云シ言ノ淺猿サヨ 一人天下二横行スルヲハ 武王是ヲ恥シメリトコソ申候」と、高師直(?~一三五一)は、天皇など必要ない、どこかへ島流しにでもしてしまえ、どうしても必要なら木像か金像を代わりに置いておけばいいといっている。
 天皇など百害あって一利なしなのだ。
 その例を擧げれば、宮内庁の職員は、公僕とはほど遠い任務を職責とする。宮内庁は、現在の令(りょう)外官(げのかん)(民主主義国家の公法が想定していない官職)といえる。こうした令外官を創るから、それを範として、政治屋に忖度する官僚が出現するのだ。
 その諸悪の根源・宮内庁が管轄する「百舌鳥・古市古墳群」が、二〇一九年七月六日に、世界文化遺産に登録の決定がされた。世界文化遺産に登録されたのだから、「百舌鳥・古市古墳群」は、文化庁に管轄を移管し、学術調査を大々的に行うべきであろう。そうすれば、宮内庁は用済み、早急に解体すべきだ。

 話は変わるが、埼玉県行田市にある埼玉古墳群の稻荷山古墳から出土した鐡劍に、「辛亥年七月中記」で始まる長文の銘が彫られており、「獲加多支鹵大王」の名が見える。「獲加多支鹵」は「ワカタケル」と讀み、「大泊瀬(おおはつせ)幼(わか)武(たける)」(雄略)を指すといわれている。さらに「獲加多支鹵大王」は「斯鬼宮」にいたとも刻まれ、「斯鬼」は「シキ」と讀み大和の磯城を指すとされる。
 稻荷山古墳は、古墳の編年により五世紀後半のものだと推定され、出土した鐡劍に刻まれた「辛亥年」は四七一年だとする説が有力である。「辛亥年」の干支一巡前邊りから、漢籍に倭についての記載が増える。『日本書紀』の編纂が雄略紀から始められた一因もここにあるのだろう。
『日本書紀』の雄略紀の暦日は、元嘉暦が使われている。
『日本書紀』から、元嘉暦の傳來の記述を拾うと、『日本書紀』卷一九欽明一五(五五四)年二月條には、「仍貢……暦博士固德王保孫」と、「百濟から暦博士・固德王保孫が來日した」旨、卷二二推古一〇(六〇二)年一〇月條には、「百濟僧觀勒來之 仍貢暦」と、「百濟の僧・觀勒が暦本を傳えた」旨がある。暦博士・固德王保孫が傳えた暦は元嘉暦であり、觀勒が傳えた暦本も、元嘉暦の暦本である。推古二八(六二〇)年に撰録された、「天皇記」や「國記」も、元嘉暦が使われており、おそらく「天皇記」や「國記」は、雄略前紀邊りから著述が始まっていたのだろう。換言すれば、『日本書紀』の神代の卷から雄略前紀は、持統――元明の時代に創作された物語であり、創作された時代が投影されていると見てよい。
 加えて、『釋日本紀』(鎌倉時代末期に成立した『日本書紀』の注釋書/著者は卜部兼方(生没年不詳))卷一三が引用する繼體の系譜を載せる『上宮記』の記述も、『日本書紀』の編纂が雄略紀から始められた傍證になるだろう。『上宮記』の成立は、推古の時代に遡るといわれ、繼體の系譜は、繼體の五代前から記載されている。『日本書紀』の記載で、繼體の五代前の天皇は雄略が該當する。換言すれば、推古の時代には、倭王武が順帝に上奏した文が書かれた時代より古い資料は殘っていなかったと推測される。
 餘談になるが、『上宮記』が語る繼體の系譜は、繼體を凡牟都和希王の五世孫とする。凡牟都和希は、ホムツワケと讀むべきだが、專門の學者までもが、ホムタワケと讀んで、應神のことだとする。『萬葉集』や、「記紀」の歌謠で、「都」を「タ」と讀む例など一つもなくてもだ。これも「記紀」という創作の洗腦の結果だ。實(げ)にもおそろしいことである。

 天武朝に記録校定された「帝紀」と「上古の諸事」があるにもかかわらず、『日本書紀』を必要とした理由は、持統及び元明が、その正統性の根據を父の天智(六二六~六七二)に求めたことにある。具體的には、天智の出自の隱蔽だ。
 隱蔽したものの、その痕跡は殘る。
 皇極四(六四五)年六月戊申(一二日)條の入鹿(?~六四五)の屍を見た古人大兄皇子(?~六四五)が發した次の言葉だ。「韓人殺鞍作臣」。鞍作臣とは入鹿のことだ。『日本書紀』卷二四皇極元(六四二)年一月丁巳朔辛未(一五日)條で、「大臣兒入鹿更名鞍作」と、「鞍作は入鹿の別名」と記してある。そして乙巳の變で入鹿に最初に斬りかかったのは、中大兄こと、後の天智だ。つまり天智は
韓人なのだ。
 桓武(七三七~八〇六)は、この天智の子孫であるが、『神皇正統記』卷二應神條は、「昔日本は三韓と同種也と云事のありし かの書をは 桓武の御代にやきすてられしなり」と記す。桓武の時代に燒き棄てられた、「「昔日本は三韓と同種也」と書かれた書とはどのような書であったのか。
『續日本紀』卷四〇の延暦九(七八九)年一月壬午(一五日)條には、「皇太后 姓和氏 諱新笠 和氏 百濟武寧王之子純陀太子之裔也」と、桓武の母「高野新笠は、百濟の武寧王(四六二~五二三)の子・純陀太子(?~五一三/『日本書紀』卷一七繼體七(五一六)年秋八月癸未朔戊申(二六日)條に「百濟太子淳陀薨」とある)の後裔」との旨が記されている。つまり桓武の母が百濟の武寧王の子孫である旨は、桓武の時代に燒き棄てられていないから、『續日本紀』に記されているのだ。
 となれば、『日本書紀』の乙巳の變について記した「韓人」に詳細な出自が書かれた書が桓武の時代に燒き棄てられのだ。
 現天皇も、皇統譜では、この韓人の子孫である。「日帝三十六年」どころの騷ぎではない。大韓民國や朝鮮民主主義人民共和国に損害賠償の請求をしたいところだ。
 第四章では、以上を踏まえて読んで欲しい。  


2022年02月23日

『穂国幻史考(増補新版)』の手引き5(第一話第三章)

 既述のように、原初的なアマテラスは、年に一度、海からやって來る神が着る神衣を、湯河板擧で織る棚機つ女であった。その神衣を織るアマテラスが祀られる神として、登場するのが、『日本書紀』卷五及び卷六の崇神――埀仁の條だ。第三章「彷徨うアマテラス」の第一節「ヤマトヒメの巡幸」では、この祀られる神・アマテラスを考察した。
『日本書紀』卷六埀仁條は、アマテラスを祀る場所を探して、倭姫が巡幸するという譚だ。先に記したように、伊勢神宮が出來るのは、持統が生きた時代だ。また持統と孫の文武の姿が、アマテラスと孫の二ニギの物語に投影されており、これも既に述べたが、二ニギと埀仁には、共通した逸話が語られる。
 加えて、アマテラスの祀る場所を探して巡幸した倭姫は、丹波道主王の娘・日葉酢媛の娘だ。このクニが母系制であったことを考えれば、倭姫は母から祭祀を繼承したことになる。本來の日神は、天火明命であり、『先代舊記本紀』卷五「天孫本紀」の尾張氏系圖では、天火明命の六世孫・建(たけ)田(た)背(せ)命をが丹波國造の祖だとする。丹波道主王家は、天火明命の祭祀に係っていたのだろう。
 倭姫巡幸の記述は、『日本書紀』卷六埀仁條のみならず、内宮の禰宜の荒木田氏が編者の『太神宮諸雜事記』にも載り、三河國渥美郡、遠江國濱名郡に巡幸した旨が載る。内宮の禰宜が、三河渥美郡あるいは遠州濱名郡に伊勢神宮を創建する構想を抱いていたことを窺わせる。

 話は変わるが、一〇世紀ごろに成立したといわれる日本最古の假名物語『竹取物語』は、文武の時代を舞臺とし、かぐや姫に求婚する五人の公家も、文武時代の實在の人物がモデルだという。
『竹取物語』での竹取の翁の名は讚岐造だ。埀仁の妃の一人・迦具夜比賣命は、大筒木埀根王の娘であるが、『古事記』中卷開化條の系譜には、大筒木埀根王の同母弟に讚岐埀根王を載せる。
 そして『竹取物語』では、滿月の夜にかぐや姫が月に歸るが、史實では、文武が滿月の夜に亡くなる。
『竹取物語』の作者は、埀仁に文武が投影されていると認識していたことになる。
『竹取物語』では、月にかぐや姫が歸った後、帝が不死の藥が入った壺を富士山頂で燒いたとの設定であるが、文武の姿が投影されている二ニギは、磐長姫を返したことにより、磐長姫は天皇の壽命が身近くなるように呪いを掛けた。『竹取物語』の作者は、二ニギに文武の姿が投影されていることも見破っていたことになる。

 延暦二三(八〇四)年に成立した『皇太神宮儀式帳』にも、倭姫巡幸の譚を載せるが、倭姫に副えた五柱の送驛使のうち、四柱は、『竹取物語』で、かぐや姫に求婚する五人の公卿のうちの四人に對應する。『皇太神宮儀式帳』の倭姫巡幸を記述した者も、倭姫巡幸は文武の時代のことと認識していたことになる。
 天香具山命を祖とし、香具夜姫も露天商と同族とする、祖父の口傳は、『日本書紀』のからくりを解くキーワードになっていたのである。
 繰り返しになるが、アマテラスを容れる器=伊勢内宮が完成するのは、文武二(六九八)年のことだ。伊勢に赴いた最初の齋王は、『續日本紀』卷一文武二年九月丁卯(一〇日)條の「遣當耆皇女 侍于伊勢齋宮」と記される、天武の娘の當耆皇女(?~七五一)である。
  


2022年02月22日

『穂国幻史考(増補新版)』の手引き4(第一話第二章)

 持統三河行幸は、大寶二(七〇二)年の出來事であるが、三河一宮・砥鹿(とが)神社(豊川市一宮町西垣内)は、持統三河行幸があった大寶年間(七〇一~七〇四)に創建された。その砥鹿神社の世襲神主家・草(くさ)鹿砥(かど)家について、太田亮(一八八四~一九五六)編著『神社を中心とした寶飯郡史』は、穗國造(『先代舊事本紀』卷一〇「國造本紀」の穗國造・菟上(うなかみの)足尼(すくね)ではなく、穗別の祖・朝廷別王)の後裔で、日下(くさか)部(べ)族とする。太田亮氏の見解では、草鹿砥は、日下部を日下(くさか)戸(べ)と表記し、クサカドと訓じ、草鹿砥と表記するようになったという。
 太田亮のいう日下部族について、朝廷別王の名が載る『古事記』中卷開化條の系譜では、朝廷別王の父・丹波道主王の異母兄弟の沙本毘古(さほびこ)王を日下部連の祖とする。
 つまり穗國造の後裔で、日下部族との太田亮の言説は、矛盾するものなのだ。だが、『姓氏家系大辭典』の著者で、系圖の大家の太田亮がそういうからには、確信があってのことだろう。とはいえ、太田亮はその根據を示していない。示していないものの、丹波と日下部氏を結び附ける資料は數多ある。
『神社を中心とした寶飯郡史』は、戰前に刊行されたものだ。そして日下部連の祖・沙本毘古王は、『日本書紀』では、狹穗彦王と表記され、狹穗彦の亂を起こしている。太田氏が具體的な根據を示さなかったのも、狹穗彦の亂に觸れるのを避けるためだったのだろう。この狹穗彦王の妹・狹穗姫命の子が、ホムツワケノミコト(記の表記は本牟都和氣(ほむつわけ)命、紀の表記は譽(ほむ)津(つ)別(わけ)命)である。
 太田亮は根據を示さないものの、草鹿砥氏は、穗別の祖・朝廷別王の裔で、日下部族との太田亮の言説を基に、朝廷別王とホムツワケノミコトは同一人物ではないかとの考察を行ったのが、第二章「穗別の祖・朝廷別王は、悲劇の皇子・ホムツワケノミコトだ」である。

 第一章第一節の説明で述べたように、森博達氏は、『日本書紀』卷三〇の持統五(六九一)年九月己巳朔壬申(四日)條の「賜音博士大唐續守言 薩弘恪 書博士百濟末士善信 銀人二十兩」との記載を、『日本書紀』の著述を促す旨の記述であると指摘する。その續守言、薩弘恪に『日本書紀』の著述を促す記述より、二十日ほど前の同年八月己亥朔辛亥(一三日)條は、大三輪氏始め、十八氏の墓記を提出させた旨の記載がある。提出させた墓記等が、『日本書紀』の系譜の資料となった。當然、そのゲラ刷りの『古事記』の系譜も大三輪氏を始めとする十八氏が提出した墓記等が基になっているのだ。
 注意しなければならないのは、「記紀」編纂時の墓記等は、母系を前提に系圖が記載されていたことである。「記紀」の編纂から遡ること、四百年餘り、卑彌呼とその宗女・臺與の祭祀繼承も母系であるし、「記紀」編纂時から三百年ほど經った『源氏物語』が描く世界の妻問婚も母系制を前提にしたものだからだ。
 また、たとえば、時代劇の「遠山の金さん」。金さんの正式な氏名は、遠山金四郎景元(かげもと)(一七九三~一八五五)だ。遠山は苗字、金四郎は通稱で、父の遠山景晋(かげくに)(一七六四~一八三七)、子の景纂(かげつぐ)(一八一七~一八五五)の通稱も同じく金四郎である。街中で潛入搜査をしているときの遊び人の金さんの名乘りあるいは呼稱は、通稱の金四郎にちなむもの。景元は諱。
 そして番組終盤、お白州に登場するときの「北町奉行あるいは南町奉行遠山左衞門少尉樣御出座」の北町奉行あるいは南町奉行は景元の職制、左衞門少尉樣御出座の左衞門少尉は、景元の官位である。
『日本書紀』は、それ以前の歴史を葬り、新たに創作された僞史である。史實を葬り去るため、意圖的に諱でなく、通稱などの親子など複數の者の同一の名稱や職制などの普通名稱を巧みに使い分けていることもあり得る點を「記紀」に掲載された系譜を考察する際に留意すべきである。

 既述のように、ホムツワケノミコトは、狹穗彦の亂を起こした狹穗彦王の妹・狹穗姫命の子である。そして、狹穗姫命は、狹穗彦の亂で、燃え盛る稻城の中で、自分が死んだら、『古事記』中卷開化條掲載の系譜では、狹穗姫命と異母兄弟の關係の丹波道主王の娘を、後妻に迎えるように、埀仁に託す。
 ホムツワケノミコトは、この燃え盛る稻城で生まれた。いわゆる火中出産譚だ。先に埀仁と二ニギは、姉妹聯帶婚で共通する點を擧げたが、二ニギが娶った木花咲夜姫が二ニギの子を産む場面も火中出産逸話で語られる。
「記紀」の崇神――埀仁の二代の件(くだり)を比較精査すると、「出雲神寶獻上事件」と、狹穗彦の亂は關聯した事件であり、「記紀」の崇神――埀仁の二代の出雲についての記述は、丹波の出來事だとわかる(詳細は『穂国幻史考(増補新版)』該当箇所参照)。「出雲神寶獻上事件」は、實は、「丹波神寶獻上事件」なのだ。
 加えて、埀仁は、狹穗姫命、丹波道主王の娘のほか、『古事記』中卷開化條掲載の系譜では、狹穗彦や丹波道主王の異母兄弟になる、大筒木埀根王の娘・迦具夜比賣命を娶っている。
 この大筒木埀根王については、『古事記』中卷開化條では、丹波大(おお)縣(あがた)主(ぬし)由(ゆ)碁(ご)理(り)――比古由牟須美(ひこゆむすみ)命――大筒木埀根王と續く系譜を載せる。大筒木埀根王の祖父に當る由碁理は、丹波の大縣主であるが、縣主とは、律令制以前の縣制と呼ばれる地方制度の首長をいう。單なる丹波の縣主ではなく、丹波の大縣主の由碁理は、丹波一帶の首長と考えられる。
 一方の朝廷別王の父・丹波道主王についても、『日本書紀』卷六埀仁五年一〇月己卯朔(一日)條一書は、彦(ひこ)湯産(ゆむ)隅(すみ)王の子とする。その丹波道主王の名もまた丹波方面の首長の意であり、しかも丹波道主王の名は、先の遠山景元の説明でいえば、職制に近いもので、固有名詞ではない。つまり、迦具夜比賣命は、丹波大縣主の孫(大筒木埀根王)で、丹波一帶の首長=丹波道主王の娘の一人とも考えられるのである。
 また丹波道主王が彦湯産隅命の子であれば、ホムツワケノミコトと丹波道主王とが直系關係にあったことを窺わせる記述もある。『先代舊事本紀』卷七「天皇本紀」開化六〇年一〇月條は、「次彦小將簀命 品治部君等祖 彦湯産隅命」=「彦小將簀命(彦湯産隅命)を品(ほむ)治部(ちべ)君の祖」とする記載だ。「品治部」とは、本牟津別王のための御名代(みなしろ)のことだからだ。

 話は変わるが、私の家は、私の祖父・柴田銀治(一九〇三~一九八五)が、露天商が博徒と一皍夛になり、暴力團化するのを嫌い辭めるまで、代々三河の露天商の親方であった。
 露天商の祖は、一般に秦(はたの)河勝(かわかつ)(生没年不詳/六世紀から七世紀に掛けての人物)とされるが、私が祖父から聞いた話では、露天商は天香具山命の裔で、露天商の別稱・香具師に香具の字を當てるのは、天香具山命が祖ゆえと。また、かぐや姫も漢字で表記すれば、香具夜姫になり、同族とのこと。さらに、天香具山命を祭神とする越後一宮・彌彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦)が坐す彌彦山で生を受けた酒呑童子も同族だと。秦河勝を祖とするのは、父系制の傳來普及時期を考慮すれば、父系の祖が秦河勝で、母系の祖が天香具山命ということになろう。
 また、露天商は、本業を持っており、私の家は桶屋であった。祖父からは、露天商の親方の家は、桶屋か古着屋だったと聞いている。桶屋はもとより、古着屋も明暦の大火(一六五七年)の一因を考慮すれば、露天商と、丹波道主の娘・日葉酢媛命の葬儀に際し、殉死に代え、埴輪を造ることを提言したとされる野見宿禰を祖とする土師氏の職掌に繋がるものがある。
 露天商が祖とする天香具山命の系譜については、平安時代初期に成立したとされる『先代舊事本紀』卷五「天孫本紀」の海人・尾張氏の系圖に詳細が載り、天火明命(天香具山命の父)の六世孫建田背命を丹波國造祖とする。天香具山命の父・天火明命は、天照國照彦火明命とも呼ばれ、この神を他(おさ)田(だ)(奈良県桜井市太田)に祀ったのが、蘇我宗家であった。
 以上の私が祖父から聞いた露天商の傳承の證明も、『穂国幻史考(増補新版)』のテーマの一つであり、第二章「穗別の祖・朝廷別王は、悲劇の皇子・ホムツワケノミコトだ」及び次の第三章「彷徨うアマテラス」の第二節「穗國とヤマトヒメ(かぐや姫をめぐって)」、終章の「穗國造・菟上足尼と丹波道主王の末裔たち」(特に後半部分)では、ダイレクトに、露天商の傳承がベースになっている。
 露天商の話を補足すれば、露天商は神農黄帝を祀る。最初に高市(たかまち)を張った(市を開くことをいう)のが神農黄帝だからだ。神農黄帝は、「百層を嘗めて、百藥を知る」といわれ、藥屋も信仰の對象とする。

『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀伝説」の拾遺「富永系圖と木地師」の最初の項「海倉淵の椀貸傳説」で採り上げた椀貸傳説は、沈默交易の一つであり、河童の駒引きと似たモチーフを含む。河童は接骨治療に長け、相撲を好むという。「百層を嘗めて、百藥を知る」神農黄帝に通じるものがあるし、忍術や五行説にも繋がる。露天商の同族といわれる、酒呑童子配下の茨木童子の切られた腕を取り戻すとの譚も河童傳承のモチーフと類似のものだ。
「登美那賀伝説」の拾遺「富永系圖と木地師」の二番目の項「惟喬傳説と六歌仙」では、惟喬の立太子爭いを相撲で決着を附けた旨の譚を載せるが、惟喬は、椀貸傳説の貸方である木地師の祖である。そして椀貸傳説は、相撲好きの河童傳承と似たモチーフを含む。相撲の祖は、丹波道主王の娘の日葉酢媛命の葬送に際し、殉死の代わりに、埴輪を造ることを提言した、葬送を職掌とした土師氏の祖・野見宿禰だ。
 さらに、第三話「牛窪考」の拾遺五補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」は、露天商の父系の祖の一つである秦氏についての論考であり、その二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」では、河童の別稱「ひょうずべ」について考察し、その一つ目の小見出し「ひょうすべと椀貸傳説――三河大伴を例にして」では、第二話「登美那賀伝説」の拾遺「富永系圖と木地師」の最初の項「海倉淵の椀貸傳説」をさらに河童傳承の視点から探求し、三つ目の小見出し「三島神と鳶澤甚内――火明命を中心とした海人の世界」では、天火明命の子・天香具山命を祖とする、露天商について、人口に膾炙した、誤った言説を正し、續く附録一「相撲雑話」の序「本書第一話における野見宿禰論」では、丹波道主王の娘の日葉酢媛命の葬送に際し、殉死の代わりに、埴輪を造ることを提言した、相撲の祖でもある、野見宿禰についてさらに深く考察した。
 以上のように、『穂国幻史考(増補新版)』の第一話第二章は、第一話のその後に續く話のみならず、第二話、第三話で考察する事項の伏線にもなっているのである。  


2022年02月21日

『穂国幻史考(増補新版)』の手引き3(第一話第一章2)

 天孫降臨逸話のアマテラスと、アマテラスの孫の二ニギの關係は、『日本書紀』の編纂を命じた持統と、その孫の文武(六八三~七〇七)の姿が投影されているという。
 そのアマテラスの孫の二ニギについて、「記紀」は、二ニギが磐長姫と木花咲夜姫の姉妹を娶り、醜いからと、姉の磐長姫を歸したという姉妹聯帶婚逸話を載せる。
 この姉妹聯帶婚は、『日本書紀』卷六埀仁五年一〇月己卯朔(一日)條で、朝廷別王の五人の姉妹を埀仁が娶り、そのうちの二人を醜いからと、歸した旨の記述や、『日本書紀』のゲラ刷りの『古事記』中卷埀仁條でも、同樣に、朝廷別王の四人の姉妹を埀仁が娶り、二人を歸した逸話が見られる。
 二ニギに歸された磐長姫は、天皇の壽命が短くなるように呪いを掛けた旨を『古事記』上卷は載せる。アマテラスの孫の二ニギの姿が反映された持統の孫の文武(六八三~七〇七)は、實際に短命だった。
 ちなみに天皇の壽命が短くなるように呪いを掛けた磐長姫の別名は苔蟲神。『古今和歌集』卷七(賀歌)の最初に載る、詞書「題しらす よみしらす」の「細(さざれ)石(いし)の嚴(いわお)となりて苔の生すまて」の一節は、苔蟲神の別名を持つ磐長姫を詠ったものである。「君が代」の詞章も一概に天皇を壽ぐものとはいえないのだ。
 そして、持統の姿が投影されているアマテラスは、『古事記』上卷では、忌服屋で、天服織女に神衣を織らせる女、『日本書紀』卷一(神代上)では、自ら機殿で神衣を織る女として登場する。
 筑紫(つくし)申(のぶ)真(ざね)(一九二〇~一九七三)著『アマテラスの誕生』は、「萬葉集が編集された八世紀より以前のアマテラスは、祀られるカミではなく、年に一度海から、あるいは海から川を溯って來るカミの神衣を水邊に設けられた湯(ゆ)河(かわ)板擧(たな)で織る棚機(たなばた)つ女(め)であった」旨を述べている。
 皇祖神アマテラスもまた「記紀」という物語の中で創作された概念を意圖的に共同幻想にまで昇華させた一例なのである。
 實際、『萬葉集』を見ても、卷二收録の題詞「日竝皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首」(歌番號一六七)では、「天照 日女之命」と、同卷收録の題詞「高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌」(歌番號一九九)では、アマテラスを容(い)れる器(うつわ)を「渡會乃 齋宮」と、草壁が亡くなった持統三(六八九)年四月の時點では、天照大神という概念、高市(六五四?~六九六)が死去した持統一〇(六九六)年七月の時點でも、アマテラスを容れる器である、皇大神宮という施設は存在していなかった。
 そのアマテラスを容れる器=伊勢内宮が完成するのは、文武二(六九八)年のことだ。『續日本紀』卷卷一文武二年一二月乙卯(二九日)條の「遷多氣大神宮于度會郡」との記載がそれだ。
 これが史實であるのだが、伊勢神宮の歴史についても、洗腦により、過誤記憶が形成され、それが共同幻想にまで昇華している。由々しき事態だ。

 既述のように、續守言と薩弘恪が擔當した著述作業は、文武四(七〇〇)年以前に終了し、慶雲四(七〇七)年に、山田史御方に卷一から卷一三の著述が促される。皇祖神・アマテラスを容れる器は、續守言と薩弘恪が擔當した著述作業が終わるか終わらないうちに創られ、『日本書紀』でアマテラスが重要な役割を果たす、卷一の機殿、卷二の天孫降臨と、卷六埀仁二五年丁亥朔丙申(一〇日)條の倭媛巡幸である。その著述が始められるのは、アマテラスを容れる器が出來上って以降のこと、三河行幸は、アマテラスを容れる器が出來上って以降、かつ、山田史御方に卷一から卷一三の著述が促される以前のことになる。
 しかも、大寶元(七〇一)年一月二三日から慶雲三(七〇六)年九月三日までは、三河國主が不在であった可能性すらある。その國主不在時に三河行幸は行われた(國主が不在であった可能性が消える慶雲三年の翌年、山田史御方に卷一から卷一三の著述が促される)。また倭媛は、『古事記』中卷開化條の系譜で朝廷別王の長姉とされる日葉酢媛の娘である。

 その持統三河行幸であるが、通説では、壬申の亂(六七二年)の論功行賞を目的としものだたとする。全くお目出度い言説だ。
 この持統三河行幸について、僞書『續日本紀』卷二大寶二(七〇二)年九月癸未(一九日)條は、「遣使於伊賀 伊勢 美濃 尾張 三河五國 營造行宮」と、同年一〇月丁酉(三日)條は、「鎭祭諸神 爲將幸參河國也」と、三河行幸の準備について記し、同月甲辰(一〇日)條で、「太上天皇幸參河國」と、持統が三河へ出發した旨を記す。
 ところが、『續日本紀』は、僞書ゆえ、三河への往路と、持統の三河での行跡については一切默して語らず、同年一一月甲子朔丙子(一三日)條で、「行至尾張國…」と、一一月一三日に尾張に、同月一七日に美濃に、同月二二日に伊勢に、同月二四日に伊賀に着き、立ち寄った國の國主等に、位階や俸祿を輿えた旨を記す。
 そのうち、一一月一七日の美濃國では、宮勝(みやのすぐり)木實(このみ)(生没年不詳)に外從五位下の位階を授けた旨を記す。この宮勝木實は、壬申の亂で、大海人側として不破道に出兵し、功績があった。つまり、この宮勝木實に位階を授けたことをもって、通説は、持統三河行幸の目的を、論功行賞のためのものだとするのである。
 そもそも壬申の亂の論功行賞を、壬申の亂から三十年も經って行うであろうか。壬申の亂で大海人側に附いた者が、悠長に三十年も待っていただろうか。當時の平均壽命を考えれば、なおさらだ。加えて、壬申の亂の論功行賞を目的に三河に行幸したのなら、なぜに三河の國主(先に記したように三河の國主はいなかった可能性も高いが)等に、論功行賞を輿えた旨を記さないのか。
 もっといえば、『日本書紀』卷二七天武元(六七二)年八月丙戌(二七日)條は、「恩敕諸有功勳者 而顯寵賞」と、同年一二月戊午朔辛酉(四日)條は、「選諸有功勳者 増加冠位 仍賜小山位以上 各有差」と、壬申の亂(六七二年)直後に、その功勞者に論功行賞が行われた旨が記されているのである。
 なぜ持統三河行幸の目的は論功行賞を目的に行われたといった馬鹿げた解釋が通説になるのであろうか。その答えは、洗腦による過誤記憶が共同幻想に昇華したからにほかならない。
『穗國幻史考(増補新版)』は、持統三河行幸の如く、『續日本紀』により幻となった穗國の歴史を復元することはもとより、復元された穗國の歴史を「六國史」が描く世界に照射することにより、「六國史」が描く世界こそが、幻想であることを暴くことにある。「六國史」が描く世界こそが、幻想であることを暴くためにも、「六國史」の第一『日本書紀』の暦日に基づき制定された「建国記念の日」を国民の祝日から外し、この日を「不比等の日」とし、『日本書紀』がどういった目的で、何を覆い隱したかを見つめ直す日とすべきだ。

 以上のように、正史は、持統三河行幸の目的及び三河での行政を一切記すことはないが、『萬葉集』卷一には、持統三河行幸(七〇二年)の折の歌、五首(歌番號五七~六一)が收められている。
 その中の題詞「舎人娘子從駕作歌」、舎人娘子(生没年未詳)が詠んだ「大夫之 得物矢手插 立向 射流圓方波 見尓清潔之」との歌(歌番號六一)の「大夫之 得物矢手插 立向 射流」は、圓方に掛かる枕詞のようなものと、通説は説明するが、「ようなもの」がどのようなものかの説明はない。
 普通に解釋すれば、「得物矢を手挾んだ大夫が、三河へ向かわんとする船に乘り込もうとしている。大夫の立ち向かう姿はなんとも清々しいものである」となるはずだ。持統三河行幸は、論功行賞とは眞逆かけ離れた目的を持ったものだったのだ。
 ここでも通説は、過誤記憶が共同幻想に昇華した物語の幻影に洗腦されている。
 次に通説ではなく、舎人娘子が詠んだ歌を踏まえ、高市黒人(生没年未詳)が詠んだ題詞「二年壬寅太上天皇幸于参河國時歌」の歌「何所尓可 船泊爲良武 安禮乃埼 榜多味行之 棚無小舟」(歌番號五八)の解釋を示そう。
 持統三河行幸は、騎士を隨行させた戰であり、單なる物見遊山の旅ではない。正史が記さない、その往路は、圓方から海路で引馬野の安禮の崎に上陸したと思われる。
 引馬野の安禮の崎に上陸する折は、圓方から乘って來た舟で「安禮の崎を漕ぎ廻み行った」のであろう。正史は、復路は陸路を使ったとしている。では、圓方から乘って來た舟はどうなったのか。
 持統三河行幸が失敗に終わったと假定すれば、高市黒人の歌も「引馬野の安禮の崎に上陸したときに乘って來た舟は、いまでは舷も壊れてしまい棚無小舟となってしまった」との解釋するのが自然だ。
 ところがこの歌の解釋の通説は、「安禮の崎を漕ぎ廻って行ったあの棚無し小舟は、いまは、どこに碇泊しているだろうか」と、長閑な湊の風景を詠んだものとする。
 最後に長忌寸奧麻呂(生没年不詳)が詠んだ「引馬野尓 仁保布榛原 入亂 衣尓保波勢 多鼻能知師尓」との歌(題詞「二年壬寅太上天皇幸于参河國時歌」(歌番號五七))を上記二首の解釋を踏まえれば、安禮の崎に上陸後の行幸軍の樣子を詠んだものと考えられる。
 この歌も一般には、「引馬野の榛原で入り亂れて衣にはしばみの匂いをつけよう旅のしるしに」と物見遊山のように譯される。だが、安禮の崎に上陸後の行幸軍の樣子を詠んだものとすれば、「引馬野の榛(はしばみ)(の實のような)色に染まった林の中で、敵味方が入り亂れ、(素(しら))衣も榛(の實の)色に染まってしまった。この(血で)榛(の實)の色に染まった衣こそが、旅(たび)戰(いくさ)の記しなのだ」と讀むべきであろう。物見遊山どころか戰闘の樣子を詠んだものなのだ。
 持統三河行幸は論功行賞を輿えに來たものではなく、東三河の制壓にあったのだ。そしてその制壓は、皇祖神アマテラスの創造の障碍になったと考えられるのである。ところが持統の目論見は見事に外れ、病床に臥したのである。  


2022年02月20日

『穂国幻史考(増補新版)』の手引き2(第一話第一章1)

 先に述べたように、私は『古事記』は、『日本書紀』のゲラ刷りと考えている。
 第一章「「記紀」の成立過程と穗國」では、その『古事記』と『日本書紀』の成立により、穗國がどのような影響を受けたかを考察した。
 その『日本書紀』の編纂ないし完成については、『續日本紀』卷六和銅七(七一四)年二月戊戌(一〇日)條の「詔從六位上紀朝臣清人 正八位下三宅臣藤麻呂 令撰國史」と、同書卷八養老四(七二〇)年五月癸酉(二一日)條に、「先是 一品舍人親王奉敕 修日本紀 至是 功成奏上 紀卅卷 系圖一卷」とあり、和銅七年、紀清人(きのきよひと)(?~七五三)と三宅藤(みやけのふじ)麻呂(まろ)(生没年不詳)に命じて國史を撰ばせ、敕に從い舎人親王が編纂していた日本紀が、養老四年五月二一日に完成したことがわかる。
 そして、その編纂開始時期については、一般に、『日本書紀』卷二九天武一〇(六八一)年三月丙戌(一七日)條の「川嶋皇子を始め十二人に詔して、帝紀及び上古の諸事(舊辭)を中臣連大嶋と平群臣小首に記録校定させた」旨の記載に求める。この記載のみでは、「帝紀」と「上古の諸事」の記録校定としか解釋出來ないが、先の『續日本紀』卷六和銅七年二月戊戌條の記述は、先の引用に續けて、「日本書紀 始撰定於天武十年三月 然至是」と、語ることから、『日本書紀』の編纂開始時期を天武一〇年とするのだ。
 私は、『日本書紀』卷二九天武一〇年三月丙戌條の記載は、日本書紀の編纂開始についての記述ではなく、書いてあるとおりに解釋して、「帝紀」と「上古の諸事」の記録校定に關する記述と考えている。

『日本書紀』の成立から遡ること百年、『日本書紀』卷二二推古二八(六二〇)年一二月庚寅朔(一日)條には、「是歲 皇太子 嶋大臣共議之 録天皇記及國記 臣 連 伴造 國造 百八十部并公民等本記」と、「推古二八年に、厩戸(五七四~六二二)と、蘇我馬子(五五一?~六二六)が、天皇記、國記などを記録した」旨を述べている。
 この「天皇記」及び「國記」が、その後、どうなったのか。
『日本書紀』卷二四皇極四(六四五)年六月己酉(一三日)條は、「蘇我蝦夷(五八六?~六四五)は、自害する前に、天皇記や國記、珍寶等を火に掛けたが、國記は船(ふねの)惠(え)尺(さか)(生没年不詳)なる者がかろうじて持ち出して中大兄へ獻上した」旨を記載する。ところが、持ち出されたはずの「國記」は現存しない。
 この「國記」が、天武(?~六八六)が記録校定させた「上古の諸事」と假定して、『古事記』序文第二段を讀んでみよう。
 同段は、「諸家が持っている帝紀や本辭(舊辭)は、まちまちであり、事實と異なっているものもある。これを放っておけば、どれが眞實かわからなくなる。天皇についての記録(帝皇日繼=帝紀)や神話(先代舊辭=舊辭)は、國の基になるものである。そのため、諸家の持っている記録を改め、事實を後世に傳える必要がある。それを受けて、稗田阿禮(生没年不詳)に帝紀及び舊辭を誦習わせた(以上天武の命)。しかし、時勢が移り、いまだ完成に至ってない」旨を語っている。つまり、國記=上古の諸事=舊辭は、寫しがあり、その寫しは、國記のみならず、乙巳の變で燒けた天皇記=帝紀についても同樣であった。そこで天武は、そのまちまちの内容の帝紀及び舊辭を校訂させて、記録したのである。
 しかし、天武が記録校定させた「帝記」も「上古の諸事」も殘っていない。
 二十四史の一つ『隋書(ずいしょ)』卷八が一列傳四六東夷の俀(わ)國(こく)條に、「俀王姓阿毎字多利思比孤 號阿輩雞彌」とあり、俀(わ)王(おう)の姓が阿毎(あま)である旨記されている。隋の時代、日本列島で權力を手にしていたのは、甘(あま)樫(かしの)丘(おか)に邸宅を構えていた蘇我入鹿(六一〇?~六四五)だ。邸宅を構えた甘樫丘は「阿毎ヶ(あまが)氏(し)の丘」の意であり、蘇我宗家の姓は天(あま)ないし海部(あま)で、蘇我宗家が當時の日本の王だったと私は考えている。
 推古二八年に記録された「天皇記」の天皇は、俀王の阿毎=蘇我宗家のことである。
 そして、この「天皇記」と「國記」を『古事記』序文第二段では、「帝紀」と「上古の諸事」といい換え、天武はこれを記録校定させた。
 その天武の幼名は大海人であり、天武は海部(あま)である蘇我大王家の後繼者と考えられる。
 繰り返しになるが、蘇我代王家が記録させた「天皇記」も「國記」も、それを記録校定させた「帝紀」と「上古の諸事」も現存しない。
「記紀」編纂の目的の一つは、海部の歴史の抹消であり、「記紀」は、史書ではなく、物語なのだ。その物語を、六國史を介した洗腦により、史實であるとの過誤記憶を植え附け、共同幻想にまで昇華させたのだ。
 つまり『續日本紀』卷六和銅七(七一四)年二月戊戌條の記述は虚僞であり、『古事記』序文第二段の天武が始めた帝紀及び舊辭は完成していない旨の記述は虚僞か否かは微妙なものの、ミスリードを誘引するために、插入したものであることは間違いない。
 この天武の時代に『日本書紀』の編纂されたという虚偽の記述により形成された共同幻想の弊害は、いまでも種々の面で惡影響を及ぼしている。

 阿毎――大海人と續く海人の歴史の抹消を目的の一つとした『日本書紀』は、編纂過程も變則的なものだ。
『日本書紀』には、卷三甲寅年冬一〇月丁巳朔辛酉(五日)條から干支による暦日が記載されている。古代の暦法の研究家で、『日本書紀』の暦日に關する研究をし、それをまとめた『日本書紀の暦日に就いて』を上梓したものの、戰時下で、發禁處分となった同書の著者で、國立天文臺に勤務していた小川清彦(一八八二~一九五〇)さんは、『日本書紀』卷三の神武皍位前紀の甲寅年一一月丙戌朔から卷一一末の「仁德を百舌鳥野陵に葬った」旨を記載する仁德八七年一〇月癸未朔條までが、唐の天文學者・李淳風(六〇二~六七〇)が編纂し、中国では、麟德二(六六五)年から開元一六(七二八)年まで使われ、わが國では、中国の儀鳳年間(六七六~六七八)に傳わり、持統四(六九〇)年一一月甲申(一一日)から天平寶字七(七六三)年八月戊子(一八日)まで、公式に使われた儀鳳暦(中国での呼稱は使われ始めた時期の年號から麟德暦)と一致し、卷一四安康紀三年八月甲申朔から卷二七天智紀六(六六七)年閏一一月丁亥朔までが、わが國では飛鳥時代から文武元(六九七)年まで、使われ、宋の天文學者・何承天(三七〇~四四七)が編纂し、中国では元嘉二二(四四五)年から天監八(五〇九)年まで用いられた元嘉暦と一致する、との研究がなされている。
 つまり、『日本書紀』は、卷一から順に編纂が始められたわけではなく、卷一四から卷二七の編纂が、卷一から卷一三の編纂に先立ち始められたのだ。加えて『日本書紀』は、暦法が編纂される遙か以前の事績を、その暦法を使い、さも史實の如く書き記している。『日本書紀』は、文學であり、これを史書として捉えれば、僞書になる。
 私が何をいいたいかといえば、『日本書紀』に記された物語が、どういった心証形成により、想像され、その想像された創作を通して、史實を浮かび上がらせ、それを考察することの重要性を訴えているのだ。

 上記の小川清彦さんの説を踏まえ、『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』の著者で、中国語学者の森博達(ひろみち)さんは、倭臭の違いにより、『日本書紀』は、中国人が書いた部分、漢文が得意でない日本人が書いた部分、そして、ある程度漢文がわかる日本人が書いた部分に分けることが出来るとし、『日本書紀』卷一四の雄略紀から卷二一の用明紀、崇峻紀及び卷二四の皇極紀から卷二七の天智紀は、中国語を母国語とする、唐人・續守言(生没年不詳)と薩弘恪(生没年不詳)が、卷一(神代上)から卷一三(允恭・安康紀)、卷二二(推古紀)及び卷二三(舒明紀)竝びに卷二八及び卷二九(天武紀)は、漢文が得意でない日本人の山田史御方が著述し、さらに、森氏は、持統(六四五~七〇三)の死去に伴って、『日本書紀』卷三〇持統紀の著述が計畫され、その著述を、ある程度漢文がわかる日本人の紀清人が、全體の潤色及び加筆竝びに續守言が執筆出來なかった卷二一の卷末から卷二三の著述を、三宅藤麻呂に託したのではないかとしている。
 その具體的著述年代について、森博達さんは、『日本書紀』卷三〇の持統五(六九一)年九月己巳朔壬申(四日)條に、「賜音博士大唐續守言 薩弘恪 書博士百濟末士善信 銀人二十兩」の記述を、續守言に『日本書紀』卷一四から卷二三の著述を、薩弘恪に卷二四から卷二七の著述を促すためのもので、文武四(七〇〇)年以前に、その著述作業は終了したものと(終了した理由は是非『穂国幻史考(増補新版)』を参照して頂きたい。以下、省略してある場合は、『穂国幻史考(増補新版)』にて言及してある旨、ご理解頂きたい)、『續日本紀』卷四慶雲四(七〇七)年夏四月丙申(二九日)條の「賜正六位下山田史御方 布 鍬 鹽 穀 優學士也」の記述を、山田史御方に卷一から卷一三、續守言の死去により、著述が叶わなかった、卷二一卷末から卷二三竝びに卷二八及び卷二九の著述を促すためのもので、『續日本紀』卷六和銅七(七一四)年二月戊戌(一〇日)條の、「詔從六位上紀朝臣清人 正八位下三宅臣藤麻呂 令撰國史」を、紀清人に卷三〇の著述を、三宅藤麻呂に卷二一の卷末ら卷二三の著述及び全體の潤色及び加筆を促す旨の記述だと、指摘している。

 さて、先に私は、『古事記』は、『日本書紀』のゲラ刷りである旨を指摘したが、その根據を示せば、『古事記』序文第三段の「元明の古事記撰録の詔から四ヶ月餘りで古事記が完成した」旨の記述である。
『古事記』は、神代から推古朝までの創作物語であるが、推古朝については四十七字、崇峻朝に至っては三十八字しか記載がなく、その行跡はほとんど記されていない。神代から推古朝までの創作物語といっても、實質的には、用明朝までの創作物語に等しい。神代から用明朝までというと、ちょうど『日本書紀』の卷一から卷二一に當たる。
 そして、『日本書紀』の神代から用明朝までの著述が完了するのが、山田史御方が周防守に任ぜられる和銅三(七一〇)年四月以前のことになる。つまり『日本書紀』の神代から用明朝までの著述を基に、それを漢文が苦手でも讀めるように、萬葉假名混じりの變體漢文に編集し直し、それに崇峻朝と推古朝の萬葉假名混じりの變體漢文の僅かな記述を加えたのが、『古事記』ということだ。そうであれば、和銅四年九月一八日に始められる『古事記』の編纂作業が四ヶ月餘りで終了した理由も自ずと頷ける。
 そしてその後、『日本書紀』の神代から用明朝までの著述についても三宅藤麻呂により、全體の潤色加筆される。

『古事記』が『日本書紀』のゲラ刷りである根據を示すことにより、『古事記』と『日本書紀』の内容に齟齬がある場合、どちらの記述を優先すべきか、そして、「記紀」に先行する天武朝の帝紀と舊辭、さらには、その先にある推古朝の「天皇記」及び「國記」等が、どのような内容であったかを推測するのに役立つとともに、そのの復元作業にも有用と考えたからである。
 以上を踏まえて、第一節「「記紀」の編纂はいつ始められたか」を読んで頂ければ、多少はわかり易くなるのではないかと思う。  


2022年02月19日

『穂国幻史考(増補新版)』の手引き1(第一話はしがき~序)

 第一話「はしがき」では、まずなぜに改訂をしたかを説明した後に、主に各稿のあらすじを、「あとがき」では、主に各稿で導いた結論を中心に記した。そして「モノローグ」と「エピローグ」は、二〇〇七年刊行した『穂(ほ)国幻(こくげん)史(し)考(こう)』の「はしがき」と「あとがき」を援用した。『穂(ほ)国幻(こくげん)史(し)考(こう)』の「はしがき」と「あとがき」は、主に『穂(ほ)国幻(こくげん)史(し)考(こう)』の第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」を意識して書いたものであり、『穂(ほ)国幻(こくげん)史(し)考(こう)』の第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」と、『穂国幻(ほのくにげん)史(し)考(こう)(増補新版)』の第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」は、原文を追加するなどの加筆はしてあるものの、その内容に大きな変わりはないからである。
 その「モノローグ」で引用したのが、「是より東は蝦夷が島を界として……是より西は淡路島を界として……」の一節を有す菟(う)足(たり)神社(豊川市小坂井町字宮脇)の「田祭り唱え事」である。その菟足(utari)は、アイヌ語で同朋を意味する。「記紀の成立と封印された穂国の実像」の舞臺となる穗國とは、こういう土地柄なのだ。

 序「穗國とは」の「穗國(ほのくに)」とは、東三河の寶飯郡と設樂郡を中心とした地域を指す。
『續(しょく)日(に)本(ほん)紀(き)』卷六和銅六(七一三)年五月癸亥朔甲子(二日)條には、「畿內七道諸國郡 鄕名 著好字」とあり、「延喜式」卷二二民部上に、「凡諸國部内郡里等名 并用二字 必取嘉名」とある。いわゆる「佳字二字令」といわれるものだ。
 この「佳字二字令」により、穗(ほ)は寶飫(ほお)と、木(き)は紀伊(きい)と、无耶志(むさし)は武藏(むさし)と、多遲麻(たぢま)は但馬(たぢま)と、漢字二字で表記されるようになる。寶飫は、後に「飫」の草書體と類似する「飯」と誤記され、やがて寶飯となる。先に穗國の説明で、その中心地域に、寶飯郡のみならず、設樂郡をも含めたのは、「延喜式」卷二二民部上に、延喜三(九〇三)年八月一三日に寶飯郡を割いて設樂郡を置く」旨が書き記されているからである。つまり穗の中心地域は、一級河川の豊川右岸(ただし本流の寒(かん)狹(さ)川(がわ)ではなく、宇連(うれ)川(がわ)右岸)ということになる。
 そして「佳字二字令」について載せる『續日本紀』卷六和銅六年五月癸亥朔甲子(二日)條は、続けて「其郡內所生 銀 銅 彩色 草 木 禽 獸 魚 蟲等物 具録色目 及土地沃塉 山川原野名號所由 又古老相傳舊聞異事 載于史籍亦宜言上 下令各國撰進風土記之命也 今尚存者 有五風土記 尚 其郡 鄕之名 若有不祥者 改著好字」と、「風土記」撰上の詔の記述を載せる。『古事記』が成立した翌年のことだ。實際、現存する「風土記」には、数々の地名由來譚が載っている。
 後述するように、私は『古事記』は、『日本書紀』のゲラ刷りと考えている。そして『日本書紀』は、史實を記し、後世に殘そうとしたものではなく、「創作」であると考えている。その創作をあたかも史實の如く語るのが、正史(六國史)である。

 さて、その穗の文獻初出は、和銅五(七一二)年撰上の『古事記』中巻開化條である。同卷同條は、「其美知能宇志王 娶丹波之河上之摩須郎女 生子 比婆須比賣命 次眞砥野比賣命 次弟比賣命 次朝廷別王 四柱 此朝廷別王者 三川之穗別之祖」であり、「六國(りっこく)史(し)」にその記載はない。
「穗別」の「別」は、後に國造となる氏族等に輿えられた姓(かばね)の一つである。
 穗國造の祖・朝廷(みかど)別王(わけのみこと)の父・美知能宇志王について、『古事記』中巻開化條は、「若倭根子日子大毘毘命……又娶丸邇臣之祖日子國意祁都命之妹意祁都比賣命 生御子 日子坐王……次日子坐王……又娶近淡海之御上祝以伊都玖天之御影神之女 息長水依比賣 生子 丹波比古多多須美知能宇斯王」と、開化――日子(ひこ)坐(ます)王――丹(たに)波比古多多須美知能宇斯(はひこたたすみちのうし)王――朝廷別王という系譜を載せる。
  
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