2022年02月26日

『穂国幻史考(増補新版)』の手引き8(第一話拾遺一)

『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の拾遺一「砥鹿神社考」は、タイトルのとおり、持統三河行幸が行われた大寶年中(七〇一~七〇四)に創建されたと傳えられる、砥鹿神社について考察したものである。
 三河一宮砥鹿神社の神主・草鹿砥氏は、既述のように、日下部を日下戸と表記し、クサカドと訓じ、草鹿砥の字が當てられたという。
 草鹿砥氏が神主を務めた砥鹿神社の東、豊川市豊津町の一部は、八名郡草ケ部村であった。
 日下部を日下戸と表記したという、日下部の日下であるが、『古事記』序文第三段は、「意味と讀みが一致しない場合には注を附し、姓に於いて日下を玖沙訶(クサカ)と讀み、帶を多羅斯(タラシ)と讀むような例は、そのまま記載した」旨を記す。
『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の序「穗國とは」の説明で述べたように、「佳字二字令」により、繩文系の地名は無理やり二字の漢字を當てられ、本來の意味が解らなくなった。
 つまり、「日下」は、「日下」という漢字の意味より、假名の成り立ちから、「玖沙訶(クサカ)」という音(おん)にその意味があることになる。日下部も草ケ部もその音から、意味を解釋すべきである。
「草ケ部村」の「草ケ部」は、アイヌ語で「舟で運ぶ・岸・川」の意味を持つ"kusa・ka・bet"に由來する地名だと考えられる。繩文時代は現代より気候が温暖で水面も上昇していた。草ケ部村邊りが當時の海岸線であったからだ。
 草鹿砥氏は、海運に從事する氏族で、海人であったと考えられる。

 砥鹿神社の神主は草鹿砥氏であるが、社家には、字を異にする、戸賀里、戸河里、戸加里を苗字とする家がある。いまでも、砥鹿神社が鎭座する豊川市一宮町を中心に、戸ヶ里・戸加里・戸苅・戸河里・戸賀里を苗字とする家が十数軒存在する。また、穗の原と呼ばれた豊川市の中央部・大崎町を中心に、戸ヶ里・戸苅・戸河里・戸狩・戸賀里を苗字とする家が、七~八十軒存在する。
 その大崎町の西隣の市田に鎮座する伊知多(いちだ)神社(豊川市市田町宮田)の別宮・郡明神は、「三河國内神名帳從四位下氷明神」に比定されている。郡明神は、寶飯郡衙の後繼施設で、寶飫は穗の後繼であることから、寶飯郡衙は、律令制以前は、穗國造の政廳であった旨、『神社を中心としたる寶飯郡史』は述べている。
 トガリという苗字について、『神社を中心としたる寶飯郡史』の編者・太田亮氏は、『姓氏家系大辭典』で、日下部氏の後裔が、碧海郡渡刈邑(豊田市渡刈町)の地名にちなみ名乘ったものではないかと述べている。

 愛知県内の「トガリ」地名には、豊田市の渡刈町のほか、一宮市に萩原町戸苅がある。萩原町戸苅は、天正一三(一五八六)年に起こった大地震以前の木曾川(木曾古川)に相當する、日光川流域に位置する。
 豊田市渡刈町もまた、矢作川流域に位置し、支流の巴川との分岐附近の右岸に當たる。
「延喜式神名帳」に目を移すと、加賀國江沼郡坐刀(と)何(か)理(り)神社、河内國石川郡坐利(と)雁(がり)神社が載る。刀何理神社も潟湖附近に鎭座、利雁神社も海進時の河内灣あるいは河内湖の沿岸に鎭座していた。
 以上の地理的な位置から、トガリという地名を考えるに、津輕の地名の由來となった、アイヌ語で「~の手前」を意味する"tukari"の意であると考えられる。"tu"の音は日本語にはなく、"to"や"tsu"に變わったと考えられるからだ。
 となれば、「延喜式神名帳」に載る出雲國出雲郡坐都(つ)我利(がり)神社(島根県出雲市東林木町)も、"tukari"の範疇に含まれるとしていいだろう。都我利神社は、東宮と呼ばれ、東宮に對する西宮は、出雲國秋鹿郡伊農鄕の伊努(いぬ)神社(島根県出雲市西林木町)である。この伊努神社の祭神は、『出雲國風土記』で、國引きの神とされる八束水臣津野命の子・赤(あか)衾(ふすま)伊努意保須美比古佐倭氣(いぬおほすみひこさわき)命と、その后・天(あめの)甕(みか)津日女(つひめ)命である。
 天甕津日女命について、『釋日本紀』が引く『尾張國風土記』逸文の丹羽郡吾縵鄕條は、「我を祀れば、ホムツワケノミコトはモノがいえるようになる」との逸話を載せ、阿麻乃彌加都比女(あまのみかつひめ)を多具(たぐ)國の神とする。多具國の神について、『出雲國風土記』は、「阿遅須枳高日子命の后・天(あめの)御梶(みかじ)日女(ひめ)命が、多久に來て多伎(たき)都比(つひ)古(こ)命を生んだ」旨を記し、加えて『出雲國風土記』は、阿遅須枳高日子命について、ホムツワケノミコトと同樣に、大きくなっても、モノがいえなかった旨を載せる。
 伊努神社が座する出雲市西林木町の西隣は、日下町であり、大穴持命・日子坐王命・大穴持海代(あましろ)比古命・大穴持海代比女命を祭神とする、久佐加神社(出雲市日下町)が鎭座する。日子坐王命を祭神としたのは當地を開拓した日下部一族の祖神であるからだと傳える。

 伊知多神社の別宮・郡明神の存在により、附近に穗國造の政廳があったことを物語っている。そして、その東の大崎の産土神・大崎住吉神社(豊川市大崎町門)の末社に祭神を小錦姫命とする蠶(こ)影(かげ)神社がある。蠶影の名からも察しが附くと思うが、養蠶の神で、一般には、稚産靈神(わくむすびのかみ)を祭神とする。
 小錦姫命の小錦は、冠位二十六階について規定する、『日本書紀』卷二七・天智三(六六四)年二月已卯朔丁亥(九日)條の「小錦上、小錦中、小錦下」にちなむものではないかと考えられる。「小錦上」、「小錦中」及び「小錦下」は、後の五位に相當する。五位から初位までは、外位といわれ、「小錦」は、地方豪族の中でも國造クラスに輿えられたことから、小錦姫命は、後に寶飯郡司となった穗國造の娘の稱號である可能性が高い。穗國造の本據が穗の原にあった傍證になる。

 蠶影神社の總本社が、つくば市神(かん)郡(ごおり)に鎭座する。筑波の蠶影神社が昭和四(一九二九)年に發行した『日本一社蠶影神社御神德記』の後段で、「爰に又欽明天皇の皇女各谷姫筑波山へ飛行し給ひて神となり此神始めて神衣を織り給ふ……此國に於て養蠶の神となるとて又富士山に飛行し給ふ時竹取翁だち拜み申せりと」とあるが、欽明天皇の皇女に、「各谷(かぐや)姫(ひめ)」はいない。いないものの筑波の蠶影神社は、露天商の傳承と關係があるように思われる。

 話は変わるが、『神社を中心としたる寶飯郡史』は、草鹿砥氏が穗國へ入國した理由を日本武尊東征に求めている。だが、「記紀」の日本武尊の逸話は矛盾だらけというより支離滅裂で、草鹿砥氏の穗國入國の理由となるような事柄はないといっていい。近江と美濃の境の伊吹山で敗れる日本武尊より、むしろその系譜では、美濃と繋がりが深く、先の筑波の蠶影神社の縁起では、蠶影神と美濃の關係を説くことから、日本武尊より日本武尊の雙子の兄・大確(おおうす)命の方が、穗國との關聯も强い。

 砥鹿神社は、持統三河行幸が强行された大寶年間(七〇一~七〇四)に創建されたと傳えられるが、同字同名の社が、静岡市清水区原、愛媛県越智郡菊間町田之尻、栃木県塩(しお)谷(や)郡高根沢町宝(ほう)積(しゃく)寺(じ)(元の鎭座地は、栃木県宇都宮市下岡本町)に鎮座する。
 この三社の砥鹿神社の分布に關聯すると思われる人物が、彦狹嶋命である。
 越智氏について記す、『豫章記』は、伊豫皇子(彦狹嶋命)は、伊豫郡神崎に住み、和氣の姫を娶って三子をもうけたが、空船に乘せて海上に流したとし、三子は備前の兒島(岡山県倉敷市児島)に流れ着き、第一子は兒島に留まって三宅氏の祖となり、第二子は駿河の清見崎(庵原)に着いて大宅を名乘り、第三子の小千(おち)皇子は都の近くに流れ着き、難波の堀江から伊豫の小千の大濱に戻り、小千を姓とし、後に越智に改めたとする。
 静岡市清水区原は、彦狹嶋命の第二子が流れ着いた同区庵原町の西隣、愛媛県越智郡菊間町田之尻は、彦狹嶋命の第三子の小千皇子が戻った伊豫の小千=越智、栃木は、彦狹嶋命が、上毛野君、下毛野君等祖であることから、彦狹嶋命の關係地ということになる。
『越智系圖』では、駿河清見崎に着いた第一子を「三島大明神」とする。「三島大明神」とは、伊豆國一宮・三島大社(静岡県三島市大宮町二丁目)のことである。三嶋大社の神主は、伊豆國造の後裔を稱する矢田部氏であるが、矢田部氏は、元は日下部直であったとされる。三島大社の鎭座する三島市の北の駿東郡長泉町には、「土(と)狩(がり)」の地名もある。
 また、『日本國現報善惡靈異記』上・卷一八「法花經を億持し 現報を得て奇しき表を示す縁」に、「大和國葛木上郡の人の前世を伊豫國別郡の住人・日下部猴(くさかべのさる)の子」とする逸話が載せられる。「伊豫國別郡」とは、『越智系圖』が「第三御子、當國和氣郡三津浦に着き」とする伊豫國和氣郡を指し、愛媛県松山市には和気町がある。
 越智氏は、大山祇神を奉祀するが、大山祇神の娘が、天皇の壽命が短くなるように呪いをかけた磐長姫である。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」の二つ目の小見出し「ひょうすべと三島神――三島神が降臨した攝津三島江と上宮天滿宮」は、ここで説明した『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」拾遺一「砥鹿神社考」第三章「彦狹嶋の東遷と日下部氏」第四節「三島神の東遷と砥鹿神社」が伏線となっている。

 最後に、三河國一宮砥鹿神社誌』は、敕使が漲瀧川に衣を打ち入れ、衣が流れ着いたところに里宮を建立したとし、衣が流れ着いたのは、本茂山(本宮山の別稱)麓の東南だと傳える。
 本宮山中で瀧といえば、陽向の瀧(豊川市東(とう)上(じょう)町本宮山)しかない。陽向の瀧から松本川を下り、豊川(とよがわ)と合流する邊りが、本宮山麓の東南になる。おそらく、衣が流れ着いた場所は湯河板擧であったのだろう。
 また瀧の名の陽向は、アマテラスの別稱・撞賢(つきさか)木(き)嚴(いつ)之御(のみ)魂天(たまあま)疎(ざかる)向(むか)津(つ)媛(ひめ)命を想起させる。本宮山を中心に祀られる神・アマテラスの創造の障碍になる祭祀場が點在していたのだろう。これが持統三河行幸に繋がったのかもしれない。
 陽向の瀧には、陽向不動尊が祀られている。『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺一補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」の二つ目の見出し「田中緑紅主宰『鄕土趣味』の功罪」の四つ目の小見出し「稻垣豆人が「出し豆腐」以上に興味を示した「七福神踊」」で、「參候祭」について考察したが、『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」拾遺一「砥鹿神社考」終章「砥鹿神社舊社地考」で説明した、陽向の瀧及びそこに祀られる陽向不動尊の説明を踏まえて「參候祭」についての論を進めた。

『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」拾遺一「砥鹿神社考」のあらすじは以上である。



同じカテゴリー(穂国幻史考)の記事画像
刊行した『穂国幻史考(増補新版)』
海人族の古代史――非常民の民俗学への懸け橋
ちゃんこ鍋と……その薀蓄(笑)
蜂龍盃とねぎま汁で一盃
このクニの専門家という人種 付けたり「ホンブルグ」のことなど
同じカテゴリー(穂国幻史考)の記事
 スポーツ史学会 (2023-07-11 12:35)
 神事藝能と古典藝能 (2023-06-13 08:34)
 日本語について (2023-06-07 16:57)
 持統 (2023-05-17 04:59)
 祭禮ないし祭禮組織の變容 (2023-05-16 14:15)
 親鸞、日蓮、空海と明星のスタンス (2023-04-26 16:31)

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。