2020年03月03日
このクニの専門家という人種 付けたり「ホンブルグ」のことなど
先に、豊川市民病院の藪医者・消化器外科の加藤瑛(現在は豊川市民病院から豊田市の中野胃腸病院(http://nakanohp.com/hospital/doctors/)に転勤)の説明に納得がいかず、自ら特許公報等にあたり、がんの発生、転移、再発のメカニズムを調べた旨を述べた。
藪医者とはいえ、加藤も医師だ。一応、医療の専門家ということになる。
転移を見落としての誤魔化しの説明であるから、でたらめなことはわかるだろうが、納得しないというのは、説明が要るだろう。
私の祖父は、「家に帰って来てから教科書を開く者は馬鹿な奴だ」が口癖であった。
頭脳明晰であれば、予習や復習をしなくても、成績は良いはずだということだ。
私はこれを実践していたから、偏差値とは無縁の世界を生きていた。
ただ、大学は卒業した。
2月の投稿のどれかで、私の家は代々露天商の親方であった旨、祖父が博徒と一即多になり、暴力団化するのを嫌い、露天商を辞めた旨を記した。
祖父は露天商は辞めたものの、私はその始祖伝承を始め、祖父から諸々の露天商の譚を聞いていた。
大学に入学して間もないころ、履修していた授業が休講になり、暇つぶしに文化人類学の講義を聴講した。
その講義では、沈黙交易について説明していた。
その沈黙交易の講義は、私には魅力的であった。どう魅力的だったか。それは祖父から聞いた伝承や譚と被るものがあったからだ。
講義が終わってから、その教授のところに行き、履修はしていないこと、祖父の話と被ることなどを話した。
教授にいわれたのは、「これは君にしかできないことだから、ライフワークとして取り組んでみないか」、そして、それには、「まず記紀の原文を読んで見ること」であった。
祖父の「家に帰って来てから教科書を開く者は馬鹿な奴だ」を実践していた私には、記紀なんてものは、名前は、かろうじて聞いたことはあったが、原文はおろか解説書すら手に取ったことはなかった。
そんな私であったが、思ったほど長くかからず、原文を読破した。
読破した後、解説書を読んでびっくりしたのが、原文のどこにも書いてないようなことが、あたかも原文に書いてあるかの如く解説してあることだ。
これ以後、私は専門家という肩書に惑わされなくなったのだ。
またこれが『穂国幻史考』を執筆する遠因にもなった。
これも2月の投稿のどれかで記したが、『穂国幻史考』を書籍として刊行するきっかけとなったのは、構想からかかわっていた『エミシの国の女神』の内容が余りにも学術的というにはほど遠かったからである。
その『エミシの国の女神』の起承転結の転の当たる第Ⅲ編「受難の女神」は、1章「エミシの国の女神──持統三河行幸とアラハバキの神たち」と2章「天白神という女神──三河から東北へ」からなり、1章「エミシの国の女神──持統三河行幸とアラハバキの神たち」には、「神話時間への旅」と「持統三河行幸と三河の神々」の項目が並ぶ。
その二つ目の項目「持統三河行幸と三河の神々」では、持統三河行幸が採り上げられている。
この行幸については、六國史の第二『續日本紀』には、往きの行程が記されておらず、復りの行程の記述からの推測で、壬申の乱の論功行賞との説が、専門家とやらの中では通説となっている。
大体、壬申の乱から30年も経って、その論功行賞にのこのこ出かけてくるなど、あり得るだろうか。
上記のように、『續日本紀』には復りの行程等しか記されていないが、『萬葉集』には、持統三河行幸の折に詠んだ歌五首が載り、このうちの舎人娘子(生没年不詳)が詠んだ歌から往きは、伊勢の圓方(松阪市東黒部町辺り)から船で伊勢湾三河湾を渡り、長忌寸奧麻呂(生没年不詳)が詠んだ歌から御津付近に上陸したものの、その舟は、破壊され、それゆえ、復りは、陸路を取らざるを得なかったと読める。
ところが、上記のどこが専門家か首を傾げる学者の説に引きずられてか、『萬葉集』の解説書などでも頓珍漢な歌の解釈がなされている。
どう頓珍漢か。たとえば舎人娘子の歌の圓方に掛かる「得物矢手挿 立向 射流」を国文学の中の『萬葉集』の専門家といわれる者までもが、枕詞のようなものだと解説している。
枕詞とは誠に都合が良いものだ。「得物矢手挿 立向 射流」などという枕詞は他に例を見ないからだ。
私は、この歌を素直に読めば、「得物矢を手挟んだ大夫が、三河へ向かわんとする船に乗り込もうとしている。大夫の立ち向かう姿はなんとも清々しいものである」と解釈するのが妥当だと思う。
『エミシの国の女神』も、持統の三河行幸の目的が東三河の制圧にあったとするが、その目的が制圧であったというなら、この『萬葉集』の歌の解釈は不可欠であろう。
ところが何一つない。
私は瀬織津姫を消された女神などとは考えてもいないが、筑紫申真著『アマテラスの誕生』、小川清彦著『日本書紀の暦日に就て』及び森博達著『日本書紀の謎を解く』から、持統三河行幸は、アマテラスを容れる器=伊勢神宮の創建と密接な関係があるとは考えている。『エミシの国の女神』でも、上記の諸書を引用して、伊勢神宮創建の経緯を丁寧に説明する必要があろう。
その伊勢神宮の創立の障碍になるとすれば、瀬織津姫よりむしろ天照國照彦火明命だろう。『穂国幻史考』では、天照國照彦火明命に軸足を置いている。
なお『先代舊事本紀』卷五「天孫本紀」は、天照國照彦火明命と物部氏の祖神・饒速日を同神とするが、その淵源には、記紀の編纂にも影響を与えた石上麻呂(本姓物部)であったと考える。近世になって創作される偽書の濫觴は、『先代舊事本紀』の本物はこれだを銘打つ『大成經』だ。むろん饒速日と瀬織津姫が夫婦だと記す『秀眞傳』なる偽書もこの流れの中にある。2月の投稿の中にも書いたが、『大成經』については、『牛窪考』の拾遺四の後半で充分に説明してある。
「このクニの専門家という人種」から話が外れてしまったが、専門家という肩書を持つ多くの者は、私と違って偏差値に一喜一憂していた者だったのではないか。
※写真は、私がいくつか持っている帽子の一つ、愛用のホンブルグ。シルクハットに次ぐ礼装用のハット。愛用と書いたが、礼装用ということで、あまり冠る機会がない。近々、自分の還暦の祝いには冠る予定である。
そのホンブルグは、1867年、イタリア・トリノのタバコ会社で労働争議があり、その仲介役となったロッビアという代議士が、もみ合いの中で、交渉に腹を立てた労働者に杖で頭を殴られ、冠っていたボーラーハットの頭頂部に深いへこみが出来たが、彼はこれを名誉としてそのまま、その帽子を冠り続けたことが起源といわれる。このクニには、こういった骨のある代議士がいるのか?思い浮かばないところを見ると、いないのだろう。
ホンブルグの由来となった労働争議からは若干話が離れるが、コロナ対策でのテレワークの話。これなどほとんどの中小零細企業にとって無縁の話だ。
民法3編2章は、契約について規定するが、ここに下請け契約は掲載されていない。8節の雇用契約などは、民法と別に労働基準法といった特別法まである。
このように、中小零細企業は、法の保護が薄いことと、日本の産業構造に適合していないISOの元請企業の積極的な取得により、下請け企業にしわ寄せが来た。
下請け企業がテレワークが無縁の話となったのは、以上のような経緯が大きい。
乱暴な説明になるが、ラインとスタッフという用語がある。もともと軍事用語で、ラインは直接部門、スタッフは間接部門をいう。したがって直接部門に属する販売員を募集するにスタッフ募集は、全くの誤用だ。
テレワークになじむのはスタッフ。元請は、ラインの多くを外注に頼るようになったのだ。
建築業界など一番わかりやすいが、元請はライン部門を下請けに丸投げし、下請けは使用者を含め、ラインの仕事に携わる。
与党はもとより、野党もラインの現場(ライン)を熟知していないから、テレワークの問題を指摘できないのだろう。
また旧民進党などは、連合などが支持母体となっていたが、連合などに積極的に加入しているのは、上場企業の従業者だ。
つまり、与党は上場企業の使用者や管理職、野党は上場企業の従業者が支持母体であり、多くの中小零細企業の使用者や従業者を代弁する団体は組織されておらず、中小零細企業の声が届いていないから下請け契約についての法の規定もないに等しい結果となったのだ。
2月29日投稿の「新型コロナ、それに私は何を見るか」で、3月1日付「しんぶん赤旗日曜版」の憲法学者の小林節さんのインタビュー記事に言及した。小林節さんは、ソ連や中国で共産主義が成功しなかったのは、資本主義が成熟しない段階で革命により共産主義体制を採ったことが原因だと喝破していた。
そして資本主義が成熟し、その弊害も生じている日本では、共産主義が機能するだろうとの示唆もされている。
ただ、小林さんは、具体的な方法を示しておられない。
私は、中小零細企業の使用者、従業者を支持母体とする政党がそれを可能にするのではないかと、朧気に描いている。
これについては、もう少しまとまったら、言及して見たいと思う。
付けたりのつもりで「※」以下を書いたが、長くなってしまった。
藪医者とはいえ、加藤も医師だ。一応、医療の専門家ということになる。
転移を見落としての誤魔化しの説明であるから、でたらめなことはわかるだろうが、納得しないというのは、説明が要るだろう。
私の祖父は、「家に帰って来てから教科書を開く者は馬鹿な奴だ」が口癖であった。
頭脳明晰であれば、予習や復習をしなくても、成績は良いはずだということだ。
私はこれを実践していたから、偏差値とは無縁の世界を生きていた。
ただ、大学は卒業した。
2月の投稿のどれかで、私の家は代々露天商の親方であった旨、祖父が博徒と一即多になり、暴力団化するのを嫌い、露天商を辞めた旨を記した。
祖父は露天商は辞めたものの、私はその始祖伝承を始め、祖父から諸々の露天商の譚を聞いていた。
大学に入学して間もないころ、履修していた授業が休講になり、暇つぶしに文化人類学の講義を聴講した。
その講義では、沈黙交易について説明していた。
その沈黙交易の講義は、私には魅力的であった。どう魅力的だったか。それは祖父から聞いた伝承や譚と被るものがあったからだ。
講義が終わってから、その教授のところに行き、履修はしていないこと、祖父の話と被ることなどを話した。
教授にいわれたのは、「これは君にしかできないことだから、ライフワークとして取り組んでみないか」、そして、それには、「まず記紀の原文を読んで見ること」であった。
祖父の「家に帰って来てから教科書を開く者は馬鹿な奴だ」を実践していた私には、記紀なんてものは、名前は、かろうじて聞いたことはあったが、原文はおろか解説書すら手に取ったことはなかった。
そんな私であったが、思ったほど長くかからず、原文を読破した。
読破した後、解説書を読んでびっくりしたのが、原文のどこにも書いてないようなことが、あたかも原文に書いてあるかの如く解説してあることだ。
これ以後、私は専門家という肩書に惑わされなくなったのだ。
またこれが『穂国幻史考』を執筆する遠因にもなった。
これも2月の投稿のどれかで記したが、『穂国幻史考』を書籍として刊行するきっかけとなったのは、構想からかかわっていた『エミシの国の女神』の内容が余りにも学術的というにはほど遠かったからである。
その『エミシの国の女神』の起承転結の転の当たる第Ⅲ編「受難の女神」は、1章「エミシの国の女神──持統三河行幸とアラハバキの神たち」と2章「天白神という女神──三河から東北へ」からなり、1章「エミシの国の女神──持統三河行幸とアラハバキの神たち」には、「神話時間への旅」と「持統三河行幸と三河の神々」の項目が並ぶ。
その二つ目の項目「持統三河行幸と三河の神々」では、持統三河行幸が採り上げられている。
この行幸については、六國史の第二『續日本紀』には、往きの行程が記されておらず、復りの行程の記述からの推測で、壬申の乱の論功行賞との説が、専門家とやらの中では通説となっている。
大体、壬申の乱から30年も経って、その論功行賞にのこのこ出かけてくるなど、あり得るだろうか。
上記のように、『續日本紀』には復りの行程等しか記されていないが、『萬葉集』には、持統三河行幸の折に詠んだ歌五首が載り、このうちの舎人娘子(生没年不詳)が詠んだ歌から往きは、伊勢の圓方(松阪市東黒部町辺り)から船で伊勢湾三河湾を渡り、長忌寸奧麻呂(生没年不詳)が詠んだ歌から御津付近に上陸したものの、その舟は、破壊され、それゆえ、復りは、陸路を取らざるを得なかったと読める。
ところが、上記のどこが専門家か首を傾げる学者の説に引きずられてか、『萬葉集』の解説書などでも頓珍漢な歌の解釈がなされている。
どう頓珍漢か。たとえば舎人娘子の歌の圓方に掛かる「得物矢手挿 立向 射流」を国文学の中の『萬葉集』の専門家といわれる者までもが、枕詞のようなものだと解説している。
枕詞とは誠に都合が良いものだ。「得物矢手挿 立向 射流」などという枕詞は他に例を見ないからだ。
私は、この歌を素直に読めば、「得物矢を手挟んだ大夫が、三河へ向かわんとする船に乗り込もうとしている。大夫の立ち向かう姿はなんとも清々しいものである」と解釈するのが妥当だと思う。
『エミシの国の女神』も、持統の三河行幸の目的が東三河の制圧にあったとするが、その目的が制圧であったというなら、この『萬葉集』の歌の解釈は不可欠であろう。
ところが何一つない。
私は瀬織津姫を消された女神などとは考えてもいないが、筑紫申真著『アマテラスの誕生』、小川清彦著『日本書紀の暦日に就て』及び森博達著『日本書紀の謎を解く』から、持統三河行幸は、アマテラスを容れる器=伊勢神宮の創建と密接な関係があるとは考えている。『エミシの国の女神』でも、上記の諸書を引用して、伊勢神宮創建の経緯を丁寧に説明する必要があろう。
その伊勢神宮の創立の障碍になるとすれば、瀬織津姫よりむしろ天照國照彦火明命だろう。『穂国幻史考』では、天照國照彦火明命に軸足を置いている。
なお『先代舊事本紀』卷五「天孫本紀」は、天照國照彦火明命と物部氏の祖神・饒速日を同神とするが、その淵源には、記紀の編纂にも影響を与えた石上麻呂(本姓物部)であったと考える。近世になって創作される偽書の濫觴は、『先代舊事本紀』の本物はこれだを銘打つ『大成經』だ。むろん饒速日と瀬織津姫が夫婦だと記す『秀眞傳』なる偽書もこの流れの中にある。2月の投稿の中にも書いたが、『大成經』については、『牛窪考』の拾遺四の後半で充分に説明してある。
「このクニの専門家という人種」から話が外れてしまったが、専門家という肩書を持つ多くの者は、私と違って偏差値に一喜一憂していた者だったのではないか。
※写真は、私がいくつか持っている帽子の一つ、愛用のホンブルグ。シルクハットに次ぐ礼装用のハット。愛用と書いたが、礼装用ということで、あまり冠る機会がない。近々、自分の還暦の祝いには冠る予定である。
そのホンブルグは、1867年、イタリア・トリノのタバコ会社で労働争議があり、その仲介役となったロッビアという代議士が、もみ合いの中で、交渉に腹を立てた労働者に杖で頭を殴られ、冠っていたボーラーハットの頭頂部に深いへこみが出来たが、彼はこれを名誉としてそのまま、その帽子を冠り続けたことが起源といわれる。このクニには、こういった骨のある代議士がいるのか?思い浮かばないところを見ると、いないのだろう。
ホンブルグの由来となった労働争議からは若干話が離れるが、コロナ対策でのテレワークの話。これなどほとんどの中小零細企業にとって無縁の話だ。
民法3編2章は、契約について規定するが、ここに下請け契約は掲載されていない。8節の雇用契約などは、民法と別に労働基準法といった特別法まである。
このように、中小零細企業は、法の保護が薄いことと、日本の産業構造に適合していないISOの元請企業の積極的な取得により、下請け企業にしわ寄せが来た。
下請け企業がテレワークが無縁の話となったのは、以上のような経緯が大きい。
乱暴な説明になるが、ラインとスタッフという用語がある。もともと軍事用語で、ラインは直接部門、スタッフは間接部門をいう。したがって直接部門に属する販売員を募集するにスタッフ募集は、全くの誤用だ。
テレワークになじむのはスタッフ。元請は、ラインの多くを外注に頼るようになったのだ。
建築業界など一番わかりやすいが、元請はライン部門を下請けに丸投げし、下請けは使用者を含め、ラインの仕事に携わる。
与党はもとより、野党もラインの現場(ライン)を熟知していないから、テレワークの問題を指摘できないのだろう。
また旧民進党などは、連合などが支持母体となっていたが、連合などに積極的に加入しているのは、上場企業の従業者だ。
つまり、与党は上場企業の使用者や管理職、野党は上場企業の従業者が支持母体であり、多くの中小零細企業の使用者や従業者を代弁する団体は組織されておらず、中小零細企業の声が届いていないから下請け契約についての法の規定もないに等しい結果となったのだ。
2月29日投稿の「新型コロナ、それに私は何を見るか」で、3月1日付「しんぶん赤旗日曜版」の憲法学者の小林節さんのインタビュー記事に言及した。小林節さんは、ソ連や中国で共産主義が成功しなかったのは、資本主義が成熟しない段階で革命により共産主義体制を採ったことが原因だと喝破していた。
そして資本主義が成熟し、その弊害も生じている日本では、共産主義が機能するだろうとの示唆もされている。
ただ、小林さんは、具体的な方法を示しておられない。
私は、中小零細企業の使用者、従業者を支持母体とする政党がそれを可能にするのではないかと、朧気に描いている。
これについては、もう少しまとまったら、言及して見たいと思う。
付けたりのつもりで「※」以下を書いたが、長くなってしまった。
Posted by 柴田晴廣 at 21:31│Comments(0)
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