2022年08月27日

『穂国幻史考(増補新版続編)』

 『穂国幻史考(増補新版)』が遺作になるかと思ったが、往生際悪く生き延びれたようだ。
 そんなことから、『穂国幻史考(増補新版続編)』をまとめてみた。
 『穂国幻史考(増補新版)』で、展開した独自の説及びその独自の説の前提となる言説を抜き出し、まとめた論考集だ。
 現時点で、298P、166,118字。
 推敲中だが、一応、下記に目次を記す。

はしがき 8
風土記撰上と佳字二字令 17
 佳字二字令により消された地名 18
『風土記』に收録された地名由來譚 20
日本書紀の暦日とその著述年代 23
 日本書紀の編纂は、いつ開始されたか 24
 日本書紀に用いられる暦法 30
 倭臭の違いから分類した日本書紀の各卷 34
皇大神宮の創建と持統三河行幸 41
 アマテラスの變容 42
 祀られる神アマテラスと倭姫巡幸 49
 持統三河行幸を萬葉集から考察する 50
天皇の棄姓とその弊害 61
『隋書』が記す倭王の姓 62
 易姓革命を回避するための棄姓とその弊害 65
御靈信仰と靖國 69
 靖國の起源は招魂祭 70
 靖國は怨靈を鎭魂する宗教施設 72
日本人という曖昧な概念 81
 血統主義と出生地主義 82
 明治六年の時點で、明治政府の權力が及ぶ範圍にいたか否か 84
 国籍法との乖離 85
西寶の七福神踊 89
 なぜ辯才天の代わりに白狐か 90
 毘沙門天あるいは壽老人を缺く理由 94
山本勘助と牧野氏 97
『武功雜記』の記述が勘助の實在を證明 98
『牛窪密談記』における山本勘助の記述 102
 菅姓山本家系圖 104
 牧野氏の出自 111
大成經の僞作者・山鹿素行 119
 大成經彈壓事件と潮音道海 120
 高野本と山鹿素行 123
 大成經の系譜 135
菟足神社の風祭と諏訪の御頭祭 139
 風祭の供犧 140
 神幸に隨伴する獅子頭 147
祇園感神院とその祭神の本地 165
 東光寺と白山妙理權現 166
 祇園感神院と犬神人 167
 補陀落と東照大權現 174
專願寺の大施餓鬼 179
 專願寺の前身は專求庵 180
 施餓鬼とは 184
 葬頭姫を祭神とする三ツ相の水神社 185
 夏越祓と專願寺の大施餓鬼 193
伊豫橘氏と河童傳承 209
 橘公業と伊豫橘氏 210
 伊豫橘氏と龍神傳説 212
 海倉淵の椀貸傳説 224
人口に膾炙した露天商の認識を糺す 231
 博徒との違い 232
 商いという面からみた露天商 253
 無宿人の系譜 262
耶蘇教の傳來と女性の地位の變化 269
 夫婦別姓と母系制 270
 女丈夫の系譜 273
あとがき 280
主要参考文献 294  


Posted by 柴田晴廣 at 06:36Comments(0)穂国幻史考

2022年08月26日

豚挽き肉と豆腐のカレー炒め


 麻婆豆腐に見えるが、麻婆豆腐ではない。
 タイトルの通り、豚挽き肉と豆腐のカレー炒めだ。
 大蒜、生姜の微塵切り、豚挽き肉、豆腐にヱスビー食品のカレー粉、コーミのオイスターソース、イチビキの本醸造醤油で炒め、水溶き片栗粉でとろみをつけ、葱の薬味を散らした。
 カレー粉と生薬は共通するものも多い。夏バテ防止にもなるだろう。  


Posted by 柴田晴廣 at 18:03Comments(0)雑談

2022年08月10日

スパゲティにキーマカレーをかけた

キーマカレースパゲティ

 昼はスパゲティにキーマカレーをかけて食べた。  


Posted by 柴田晴廣 at 12:22Comments(0)雑談

2022年08月05日

Gurkha

グルカ

 グルカショーツとグルカサンダルを購入した。
 Gurkhaは、ネパールの地名であり、そこに住む部族の名称である。
 そのGurkhaが、1857年に始まったインド大反亂でイギリス軍に加わったグルカ兵が履いていたショーツ及びサンダルがグルカショーツとグルカサンダルの起源である。
 シャツは、以前グルカパンツに合わせていた胸ポケットにフラップが付いたインディアンファブリックの生地。
 これでピスヘルメット(防暑帽)を合わせれば、完璧だが、そこまでやるのも、さすがの私も気恥ずかしい(笑)  


Posted by 柴田晴廣 at 05:25Comments(0)雑談

2022年08月04日

ISC21六月月例会「『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む」の感想等 2

 瀧元先生は、武と舞の同根性を研究のテーマとされている。
 相撲は「素舞ひ」が語源といわれるが、私は芝居の語源も「素舞ひ」だと考える。
 つまり私も、武と舞は同根と考えている。
  『穂国幻史考(増補新版)』第三話附録一のタイトルを「相撲雑話」としたのは、相撲部屋というビジネスモデルを介して、本場所及び巡業という興行の特殊性にまでは言及することが出来なかったからだ。
 横綱はボクシングのチャンピオンとは異なる。本場所はトーナメント戦でもなければ、リーグ戦でもない。もちろん本場所の幕の内優勝力士が横綱を名乗れるわけではない。
 武と舞の同根性からいえば、相撲部屋の一門は、歌舞伎役者の屋號に似る。
 歌舞伎役者の屋號の多くは、役者の實家の芝居茶屋や出方の屋號を転用したものだった。
 正式名・相撲案内所=相撲茶屋の主人は逆に元力士の関係者である。
 茶屋と本場所での興行は、プロボクシングやプロ野球より、芝居の興行と芝居茶屋に似る。
  稲垣博士は、スポーツと娯楽、スポーツと贈与を研究テーマの一つとされていた。
 瀧元先生も指摘されておるように、『穂国幻史考(増補新版)』は、繩文の視点から、日本列島の歴史を捉え直したものである。
 相撲についても、相撲節會に先立ち、部領使と呼ばれるスカウト役が諸國から力士を集めた。部領使は、防人を引率した役職であり、七世紀中ごろには、この防人を引率した部領使が、蝦夷の俘囚を移配先に護送するようになる。節會時代の力士を考える上では、繩文の視点が必要なのである。
 相撲部屋は、ボクシングジムと日本ボクシング協会の関係と異なり、日本相撲協会からの独立性が高い。相撲部屋の継承の実態は、女将から娘という母系を基本とする。繩文の視点が必要なのである。
 稲垣博士のもとで学んで来られた瀧元先生には、以上のような観点から、武と舞の同根性についての関係を是非言及して行って頂きたいと願う。

 最後に竹村さんの発表であるが、稲垣博士から、21 世紀スポーツ文化研究所編『スポートロジイ』第二号を頂いており、そこに収録されていた竹村匡弥著『野見宿禰と河童伝承に潜む修祓の思想』については、『穂国幻史考(増補新版)』拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」の二つ目の小見出し「ひょうすべと三島神――三島神が降臨した攝津三島江と上宮天滿宮」で採り上げている。
  『野見宿禰と河童伝承に潜む修祓の思想』をタイトルとする論考で、竹村さんがいう「河童伝承」とは、潮見神社(佐賀県武雄市橘町大字永島)に代々傳わる「ヒョウスベよ 約束せしを忘るなよ 川立ておのが あとはすがわら」との呪文をいう。潮見神社は、橘諸兄(六八四~七五七)、橘奈良麻呂(七二一?~七五七)、橘島田麻呂(生没年不詳)、橘公業(生没年不詳)及びその後裔で河童(兵主部)の主という澁谷氏を祭神とする。
 この潮見神社に傳わる上記呪文については、京極夏彦・多田克己編『妖怪図巻』「ひょうすべ」の項(一四四・一四五頁)でも採り上げているが(『穂国幻史考(増補新版)』拾遺五補遺の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」参照)、竹村さんも、『妖怪図巻』「ひょうすべ」の項も、何故に橘氏及びその後裔の澁谷氏を祭神とする潮見神社で、野見宿禰の後裔の菅原氏に關する水難防止、河童除けの呪文が殘っているのかの説明はない。
 私の興味は、水神とは縁の薄い橘氏を祭神とする潮見神社になぜ河童傳承が殘るかであった。
 橘諸兄、橘奈良麻呂、橘島田麻呂の三人は、直系の血縁關係があり、七世紀後半から八世紀の人物で、敏達(五三八?~五八五)後裔の源平藤橘の橘氏である。
 對して橘公業は、鎌倉初期の武將で、嘉禎二(一二三六)年に本領伊豫國宇和郡を西園寺公經(一一七一~一二四四)に讓り(實際には公經が幕府に願い出て强引に横領した)、潮見神社の背後の山頂に潮見城を築き、その眷属の兵主部も潮見川に移住して来たといわれる。伊豫から肥前に移った橘公業は、源平藤橘の橘氏ではなく、三島神を奉じた伊豫橘氏(越智氏)の橘遠保(?~九四四)の子孫ともいう。
 伊豫橘氏が奉戴する三島神=大山積神について、『伊豫國風土記』逸文「乎知郡御嶋」の項は、「仁德の世、百濟から渡來して津國の御島に座した大山積神を、乎知郡(越智郡)の御島(瀬戸内海にある三島諸島)に勸請した」旨を記す。
 三島神が渡來したのは、攝津三島の淀川の川中島(三島神社/現三嶋鴨神社。慶長 3(1598)年に大阪府高槻市三島江二丁目に移転)。三嶋鴨神社から北へ凡そ四㌔進めば、上宮天滿宮(高槻市天神町一丁目)が鎮座する。境内には、官公の遠祖・野見宿禰の祖廟(傳野見宿禰古墳の上に野見神社(式内論社)が鎭座)がある。野見宿禰の祖廟に菅原道眞(八四五~九〇三)の御靈代を祀ったのは、道眞の曾孫の菅原幹正(生没年不詳)である。ここで漸く潮見神社の祭神の一柱・橘公業と官公が繋がるのである。
 ところで、細平井桁とともに橘紋を家紋とする井伊氏の祖・共保(一〇一〇~一〇九三)の誕生譚、渭伊神社(浜松市北区引佐町井伊谷)本殿の後方の丘が藥師山と呼ばれること、菩提寺の萬松山 龍潭寺(浜松市北区引佐町井伊谷/臨濟宗妙心寺派)の本尊が虚空藏菩薩であること等から、井伊氏も伊豫橘氏を本姓とすると考えられる。
 その井伊氏の本貫地・井伊谷から北北東に七㌔ほどの同じ引佐町の久留米木地区(浜松市北区東久留米木及び西久留米木)には、龍宮に通じる淵があり、そこから出て來た小僧が村人の仕事を手傳い、村人が感謝を込め、ご馳走したが、誤って小僧には毒となる「蓼汁」を出したことから、小僧が死んでしまったという、河童傳説に通じる龍宮小僧傳説が殘る。
  井伊共保の子孫・井伊俊直は、『和名類聚抄』(承平年間(九三一~九三八)に 源順(九一一~九八三)が編纂した辭書)二〇卷本(國語學者の龜田次郎(一八七六~一九四四)は、二〇卷本を後人が増補したものとしている)の一二部「國郡部」に記載される麁玉郡赤狹鄕に因み、赤佐を名乘る。赤佐氏が本據とした赤狹鄕にある「家を護るは岩水寺」といわれて安産祈願などの參拜客で賑わう龍宮山岩水寺(浜松市浜北区根堅/神龜二(七二五)年開山)には、天龍川沿いの椎ヶ淵(浜松市天竜区二俣町鹿島)を舞臺にした龍神傳説が殘る。
 かように、伊豫橘氏を本姓とすると推測される海人・井伊氏は、龍神傳説に彩られ、潮見神社の河童傳承も、伊豫橘氏を本姓とする橘公業の一族が共同幻想に昇華させた譚だと考えられる。
 以上の私の見解について、どう思っているか、竹村さんの見解を聞きたい。
 また、『妖怪図巻』「ひょうすべ」の項は、「『落穂余談』では、その昔に三河国(静岡県西部※)の設楽某という力持ちが河童を捕らえ、これを殺そうとしたところ、自分を助けてくれれば以後設楽氏一族郎党を水難から守ることを約束し、その証文の代わりに、「ヒョウスヘは約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原」という呪文を教えたというが、設楽氏はもと菅原の姓であったという(※三河國は静岡県西部ではなく、愛知県東部。引用者柴田註)」と記す。
 この設樂氏は、本姓を三河大伴氏とし、同族の富永氏が居城にした野田館垣内城の対岸の海倉淵(新城市一鍬田殿海道及び一鍬田五井ノ巣邊り/舊八名郡)は、龍宮に續くといわれ、「河童の駒引」と通底する「椀貸傳説」が殘る(『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀伝説」拾遺「富永系圖と木地師」の最初の項「海倉淵の椀貸傳説」及び第三話「牛窪考」拾遺五補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」の一つ目の小見出し「ひょうすべと椀貸傳説――三河大伴を例にして」参照)。
 当然この「海倉淵の椀貸傳説」は、潮見神社に傳わる「ヒョウスベよ 約束せしを忘るなよ 川立ておのが あとはすがわら」との呪文と關係すると思われる。
 竹村さんが、「海倉淵の椀貸傳説」をどう考えるかの見解を聞きたい。
 もう一つ。竹村さんは兵主部から、蚩尤、さらには、蚩尤の子孫というモン族の牛の供犧から河童傳承を考察すべきとお考えのようだが、『穂国幻史考(増補新版)』は、船井先生や瀧元先生が認識されているように、繩文の視点から日本列島の歴史を捉え直すことを大きなテーマとする。
 当然、動物の供犧についても繩文に由來すると私は考え、『今昔物語』卷一九第二話「參河守大江定基出家セル話」や『宇治拾遺物語』卷四の第七話「三河入道の遁世世に聞ゆる事」に載る菟足神社の風祭の猪の供犧及びその名殘と思われる東三河平野部の神幸に随伴する獅子頭について、『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の二つ目の見出し「菟足神社の徐福伝説説明板を檢證する」の四つ目の小見出し「生贄神事は中国的か――奥三河の鹿射神事及び諏訪の御頭祭と菟足神社の生贄神事」で、話を展開している。   この繩文の視点からの動物の供犧についての私の見解をどう判断するか、竹村さんの意見を聞かせて頂きたい。
 以上が、21 世紀スポーツ文化研究所六月月例会「『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む」の私の感想及び意見である。
                                                        二〇二二年七月二四日
                                                                柴田晴廣  


Posted by 柴田晴廣 at 00:42Comments(0)穂国幻史考

2022年08月03日

ISC21六月月例会「『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む」の感想等 1

 21 世紀スポーツ文化研究所の六月の月例会で、四月に刊行した『穂国幻史考(増補新版)』について話をしないかと、河野文子さんから連絡を頂いた。
 21 世紀スポーツ文化研究所の研究会ということで、膨大な量の拙著『穂国幻史考(増補新版)』から、第三話「牛窪考」附録一の「相撲雑話」をテーマに話をしたいと思っていた。
 実を言えば、河野さんから連絡を貰った時点で、私は大腸がんが再度再発し、治療も尽き、持って三ヶ月と覚悟していたこともあり、心残りがないように、どういった内容の話をしようかと考えていたのだ。
 治療も尽きとはいうものの、手術で再発した腫瘍を除去することさえ叶えば、治る可能性も無きにしも非ず。ただ腫瘍が小腸や尿管に複雑に絡んで癒着しており、一般の医療機関では手術は無理だと端から断られていた。ところが、主治医の豊川市民病院消化器内科部長の宮木知克医師は、「柴田さんはまだ元気だから」と、手術の出来る機関を探して提示。アグレッシブな手術に積極的に取り組んでいる滋賀県草津市の淡海医療センターなら、手術が可能かもしれないから、一か八か行ってみないかと。提案を受けて決心し、宮木医師の紹介状を携えて、淡海医療センターへと向かい、六月一七日に入院した。
その前日に、急いで「相撲雑話―野見宿禰を中心に」を半日で書き上げ、河野さんにお送りし、21 世紀スポーツ文化研究所の研究会の六月月例会には、その書き上げた原稿「相撲雑話―野見宿禰を中心に」をレジュメとして使うという形での参加となった。
 後日、月例会の動画を送って頂いたが、入院中で残念ながら動画は直接は拝見していない。ただ携帯電話を介して、その音声は聞いている。   以下、聞いた音声の記憶を基に、月例会の内容と、それに対する私の意見や感想等を記させて貰いたいと思う。
21 世紀スポーツ文化研究所の六月の月例会では、私がオンラインでの参加も出来なくなったため、「『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む」といったタイトルで、船井廣則先生、瀧元誠樹先生、竹村匡弥さんが、それぞれ話をされた。

 船井先生は、牛久保の若葉祭の俗称・うなごうじ祭についての、〝うなごうじは「笹踊」の囃子方が道路に寝転び蛆蟲のようだとする、うなごうじ=蛆蟲由來説は根據がない〟とする私の言説を述べた『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺一「「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と豊川流域の「笹踊」」の最初の見出し「「うなごうじ祭」は「蛆蟲祭」ではない」、及びそれを受けて蛆蟲由來説の根據の無さを詳細に考證した『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺一補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」を要領よく説明され、『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺一補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」の四つ目の見出し「「うなごうじ祭」という通稱についての假説」の四つ目の小見出し「繩文に由來する灰塚野の祭りが「うなごうじ」の語源」で、私が提示した〝「ウナゴウジ」は、"una・kuta・usi(灰捨場)"が訛化したものとの私の假説を『穂国幻史考(増補新版)』第三話第一章から第五章での牛久保("husko・bet・kus"(古い・川・通る))という地名、それ以前のトコサブ("tok・o・sap"(凸起物(堆積物等)が、そこで群をなして浜(河岸)へ競せり出だしている))という地名は繩文に由來する〟との私の言説を踏まえて、簡潔に説明された。
  ここで補足すれば、若葉祭の起源について、『牛窪密談記』(元祿一四(一七〇一)年成立 元祿一〇(一六九七)年ごろに成立した『牛窪記』(作者不詳)を、牛久保の人・中神善九郎行忠(?~一七一一)が加筆訂正したもの)は、

 牧野古白入道 或歳四月八日此若宮ヘ參詣アリシニ 其ノ主今川氏ノ許ヨリ使節到來シテ曰 當國渥美郡馬見塚村ノ邊ニテ要害ノ地理ヲ見立 一城ヲ築クヘシト 命令承リテ大ニ悦ヒ 家門ノ譽レ何事カ是ニ如カン 殊ニ當社ヘ參詣ノ折柄此吉事ヲ聞クコト 偏ニ當宮ノ御惠ナリト 取リアヘス庭前ノ柏葉ニテ神酒ヲ獻シ 其身モ快ク三獻ヲ傾ケヌ 猶喜ビノ餘リ 家紋ノ菊桐ヲ柏葉ニ替ヘヌルハ此所以ナリト 古老ノ云傳ヘナリ カクテ年々宗祇 宗長ノ兩子發句ヲ詠シテ若葉ニ結ヒ神前ニ供ヘ奉リ 牧野氏武運長久ノ祈念アリシトソ 是ヲ若葉ノ祭ト號ス

と、「發句ヲ詠シテ若葉ニ結ヒ神前ニ供ヘ奉」ったことから、「若葉祭」の名が付いた旨を述べる。
 私は、發句を結んだ若葉を言擧の儀式として、灰にし、流したと考えている。その流した場所は、牧野古白が居城とした一色城の東の灰塚野(現豊川市中条町鴻ノ巣辺り)であったのだろう。故に私は、"una・kuta・usi(灰捨場)"が訛化し、「ウナゴウジ」になったとの結論を導いた。
 船井先生は以上の説明を踏まえた上で、うなごうじ=蛆蟲由來説という妄説の根據となった〝若葉祭で「笹踊」を「笹踊歌」を唄い囃す囃子方・ヤンヨウガミという名も、繩文に由來するのではないか〟と、私に質問を投げ掛けられた。
 ここにいう「笹踊」とは、笹を持って踊る踊りではなく、金襴の唐子衣裝に笠を冠り、胸に太鼓を付けた三人の踊り手による風流囃子ものであり、江戸時代の朝鮮通信使の影響を受けた踊りで、豊川下流域の十九ヶ所の地区で奉納される神事藝能である。「笹踊」の名は、韓国・朝鮮語で三人戯を意味する"ses saram nori"が訛って、「笹踊」と呼ぶようになった。故に「ささおどり」の「お」にアクセントが来るのではなく、平板で発音される。
 「笹踊」を最初に始めたのは、城内天王(現吉田神社(豊橋市関屋町))であり、朝鮮通信使の正使・副使は、吉田では、孤峰山淨業院悟眞寺(豊橋市関屋町/浄土宗)に宿泊した。関屋町は、吉田天王社の氏子であり、関屋町内に悟眞寺はある。「笹踊」の囃子方をヤンヨウガミと呼ぶのは牛久保のみではない。ただし御馬(豊川市御津町御馬)では、「笹踊」の踊り手をヤンヨウガミと呼ぶ。
 ヤンヨウガミは、『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺一補遺二「豊川流域の特殊神事「笹踊」の考察」の参考資料「各社の「笹踊歌」の歌詞」を見ればわかるように、「笹踊歌」の囃子詞であり、若葉祭では、「サアゲニモサア ヤンヨウ神もヤンヨウ」と囃す。
 囃子詞とは、歌謡の意味に関係なく、その中や終わりに入れた、調子をとるための詞をいう。
 信濃川の河口に架かる現在の萬代橋 (新潟市中央区の国道七号線に架かる橋梁/国指定重要文化財/現在のものは三代目)の完成を記念して、昭和四(一九二九)年に北原白秋(一八八五~一九四二)が作詞した『新潟小唄』の囃子詞の「ハラショ」は、ロシア語で、「良い」「すばらしい」などを意味する"хорошо"に由來する。『新潟小唄』の囃子詞は、「ハーサ、ハラショ、ハラショノロンロン」と、「ハラショ(хорошо)」以外は全く意味を成していない。
  繰り返しになるが、若葉祭では、「サアゲニモサア ヤンヨウ神もヤンヨウ」と囃す。この「サアゲニモサア」の「ゲニモ」は、朝鮮通信使の正使・副使は、吉田では、悟眞寺に宿泊していたことを考えれば、寺に泊まっている貴人を意味する「客任gek nim」が訛化したものと考えられる。
 「客任」のように"k"と"n"が連続する場合、子音同化により先の"k"が"ng"に変化し、発音は"geng-nim"になる。
  船井先生が問題にしているヤンヨウガミであるが、八百萬神の漢字を當てるところもあるが、上記のように、囃子詞は歌謡の意味に関係なく、その中や終わりに入れた調子をとるための詞をいうことから、八百萬神は當字と考えられる。
 なぜなら、「笹踊」は風流囃子物であり、風流囃子物は神を囃すものであって、當然、神そのものではなく、「笹踊」の囃子方が神であるわけもない。「ヤンヨウ神」は「八百萬神」であろうはずがない。
 上記のように、「笹踊」を最初に始めたのは、城内天王の祭禮であり、小笠原氏が、藩主であった時代であったと推測される。
 その小笠原家の江戸上屋敷は日比谷公園の南側の一部で、一㌔ほど離れて八重洲がある。八重洲の地名は、ヤン・ヨーステン(Jan Joosten van Loodensteijn/一五五六?~一六二三)の日本名「耶楊子」に由來する。小笠原氏が藩主だったころの吉田では、「耶楊子」あるいは「八代洲」という日本語にはない響きの言葉も身近なものであった可能性が高い。
 その不思議な響きの言葉を、風流囃子物である「笹踊」の「囃子詞」として採り入れたというのが、私の見解である(『穂国幻史考(増補新版)』二〇四三~二〇五一頁参照)。

 この船井先生の話について、河本洋子先生が、山本勘助(?~一五六一)が主役の二〇〇七年の大河ドラマ「風林火山」で、牛久保に興味を持ったと。
 東海道御油宿(寶飯郡御油村(現豊川市御油町))の早川彦右衞門(一八六二~一九一八)が明治二四(一八九一)年に編纂した『三河国宝飯郡誌』(国書刊行会復刻版一四八頁)は、『續玉石雜志』に、「推挙ノ縁ヲ求メント牛窪ニ至リ、地頭牛窪弥六郎之ヲ扶持シケル」とある旨を引きはするが、「其出所ヲ詳ニセズ」とその根據は明らかでないことを指摘している。
 河本先生の旧姓は、牛窪。丹後田邊藩の藩廳が置かれた舞鶴の出身と聞く。
 太田 亮(一八八四~一九五六)著『姓氏家系大辭典』の「牛窪」の項には、「1 田姓牧野氏流 三河國寶飯郡牛久保邑より起る。牧野氏族なり。マキノ條を見よ。田邊牧野藩の重臣なり」(第一卷六四五頁)とある。
 河本先生が、大河ドラマ「風林火山」を見て、牛久保に興味を持たれたのもある種縁のようなもので当然であったかもしれない。
 なお、山本勘助について『牛窪密談記』は、「山本勘助ハ明應九年八月十五日 參州八名郡加茂鄕ニテ出生」とし、その舊八名郡の宇利う り
莊黒田村(新城市黒田)には、『菅姓山本家系圖』が殘り、『菅姓山本系圖』によれば、勘助の本姓も菅原。菅原姓の遠祖は、野見宿禰である。

参照:船井先生のサイト
http://www.tees.ne.jp/~sieg922/contents/Recentreport.html#20220626  


Posted by 柴田晴廣 at 00:13Comments(0)穂国幻史考

2022年08月02日

相撲雑話-野見宿禰を中心に

  『穂国幻史考』を取り上げていただき、ありがとうございます。
  稲垣正浩さんが主宰されていた 21 世紀スポーツ文化研究所の研究会ということで、膨大な量の拙著から、『穂国幻史考』第三話「牛窪考」附録一の「相撲雑話」をテーマに話をしたいと思います。
 その前に『穂国幻史考』を執筆した動機を。
 私の家は、三河国一帯の露天商を統べる親方でした。露天商の祖は、一般には秦河勝といわれますが、我が家に伝わる口伝では、「香具師は天香具山命の子孫であり、故に香具師と当て字をすること、香具夜姫も同族であり、香具山命を祭神とする弥彦山で生を受けた大江山の鬼・酒呑童子も同族である」と伝えています。
 この口伝から『穂国幻史考』の執筆にどう繋がったかを記せば、大学で履修していた一般教養の授業が休講になった或る日、暇つぶしにと何気なく受けた履修していない一般教養の講義が沈黙交易の話で、祖父から聞いた柴田家の口伝と何となく共通する内容が気になり、授業が終わった後、その教授に口伝の話をしたところ、「初めて聞く話だが、君にしかできないことだから、取り組んでみたらどうか」、「それについては、記紀を読む必要があるが、読んだことはあるか」、「読んだことがないなら、最初に原文を読め」と。
 助言に従い、記紀の原文を読んだ後に解説書を読むと、原文に書いていないことがさも原文に書いてあるかのごとく解説してありました。
 それで通説を疑い、祖父からの口伝を道筋として、記紀を解釈するようになり、それをまとめたものが、『穂国幻史考』になりました。
 かぐや姫といえば、『竹取物語』の主人公ですが、かぐや姫の名は、『古事記』中卷埀仁條にも載っています。このかぐや姫は、丹波道主王の娘の一人と考えられ、埀仁の妃の一人・迦具夜比賣命は、大筒木埀根王の娘であるが、『古事記』中卷開化條の系譜には、大筒木埀根王の同母弟に讚岐埀根王を載せています。
  『竹取物語』での竹取の翁の名は讚岐造。『竹取物語』の作者は、丹波道主王の娘の一人と考えられる迦具夜比賣命を意識して、物語を書いたと思われます。
 周知のように、『竹取物語』は、文武の時代を舞臺とし、かぐや姫に求婚する五人の公家も、文武時代の實在の人物がモデルだといいます。
 そして、持統から文武という祖母から孫への権力移譲が、アマテラスからニニギへの天孫降臨逸話に投影されているといわれます。
 ニニギには姉妹連帯婚、火中出世譚が語られていますが、迦具夜比賣命を妃とした埀仁にも同様に姉妹連帯婚、火中出世譚が語られています。
 またアマテラスが、五十鈴川のほとりに祀られるのも、埀仁の時代に丹波道主王の孫娘に当たる倭姫の巡幸によってです。
 ただ実際に伊勢神宮が創建されるのは、持統の時代です。倭姫の巡幸について記す『皇太神宮儀式帳』(804 年成立)には、倭姫に副えた五柱の送驛使のうち、四柱は、『竹取物語』で、かぐや姫に求婚する五人の公卿のうちの四人と対応します。
 さらに『太神宮諸雜事記』では、三河國渥美郡、遠江國濱名郡に倭姫が巡幸した旨が載ります。内宮の関係者が、三河渥美郡あるいは遠州濱名郡に伊勢神宮を創建する構想を抱いていたことを窺わせる記述です。
 私は『古事記』は、『日本書紀』のゲラ刷りと考えています。そして『日本書紀』には、卷3甲寅年 10 月丁巳朔辛酉(5日)條から干支による暦日が記載されています。古代の暦法の研究家で、『日本書紀』の暦日に関する研究をし、それをまとめて『日本書紀の暦日に就いて』を上梓した小川清彦さんによれば、『日本書紀』卷3の神武皍位前紀の甲寅年 11月丙戌朔から卷 11 末の仁德 87 年 10 月癸未朔條までが、儀鳳暦に一致し、卷 14 安康紀3年8月甲申朔から卷 27 天智紀6年閏 11 月丁亥朔までが、儀鳳暦より古い元嘉暦と一致する、との研究がなされています。
 上記の小川清彦さんの説を踏まえ、中国語学者の森博達さんは、倭臭の違いにより、『日本書紀』は、中国人が書いた部分、漢文が得意でない日本人が書いた部分、そして、ある程度漢文のわかる日本人が書いた部分に分けることが出来、『日本書紀』卷 14 の雄略紀から卷 21 の用明紀、崇峻紀及び卷 24 の皇極紀から卷 27 の天智紀は、中国語を母国語とする唐人・續守言(生没年不詳)と薩弘恪(生没年不詳)が、卷1(神代上)から卷 13(允恭・安康紀)、卷 22(推古紀)及び卷 23(舒明紀)並びに卷 28 及び卷 29(天武紀)は、漢文が得意でない日本人の山田史御方が著述し、さらに、森氏は、持統の死去に伴って、『日本書紀』卷 30 持統紀の著述が計画され、その著述を、ある程度漢文がわかる日本人の紀清人が、全体の潤色及び加筆並びに續守言が執筆できなかった卷 21 の卷末から卷 23 の著述を、三宅藤麻呂に託したのではないかとしています。
 具体的な著述年について森さんは、『日本書紀』卷 30 の持統5(691)年9月己巳朔壬申(4日)條に、「賜音博士大唐續守言 薩弘恪 書博士百濟末士善信 銀人二十兩」の記述を根拠に、このころから卷 14 から卷 27 の著述が始められ、文武4(700)年以前に、その著述作業は終了したものと、山田史御方の著述作業は慶雲4(707)年ごろに始められ、紀清人と三宅藤麻呂の著述作業は、和銅7(714)年2月ごろに始められたものと推測しています。
 『古事記』を『日本書紀』のゲラ刷りと私が考える理由は、『古事記』は『日本書紀』の全体の潤色及び加筆が行われる前に完成しており、『古事記』の編纂作業はかなりの短期間で完了しているからです。
 ここで三河との関係について言及すれば、『日本書紀』の卷 14 から卷 27 の著述作業が終わり、祀られる神アマテラスについての記述がある卷1からの著述が始められる前に、持統三河行幸が行われます。
 持統三河行幸は、一般には、壬申の亂(672 年)の論功行賞を目的としたものだとされていますが、壬申の亂から 30 年も経っての論功行賞というのもどうかしています。
  『萬葉集』卷1收録の歌番號 61、58、57 から、持統三河行幸は、論功行賞どころか武力を伴った東三河の制壓だったと考えられます。その目的は皇祖神アマテラスの創造の障碍を除去するためでしたが、この行幸自体は失敗に終わりました。
 稲垣博士が小学校の途中から、大学入学まで過ごされました東三河とはこんな土地なのです。
 祀られる神アマテラスやその容れる器である伊勢神宮の創建については、埀仁の時代の倭姫巡幸で記されているのですが、埀仁の后ヒバス姫が亡くなったときに、殉死に代え埴輪を造ることを提言したのが、野見宿禰とされます。
 私は埀仁と、その前の崇神の時代の出雲の事件については、現在の島根県の話ではなく、丹波一宮・出雲大神宮を中心にした丹波の出来事であり、出雲の臣の後裔・野見宿禰も当然、丹波ゆかりの人物と考えています。このあたりの話は稲垣博士も膝を叩いて納得しておられました。
野見宿禰は、丹波ゆかりの人物だからこそ、丹波道主王の娘・ヒバス姫が亡くなったときに、殉死に代えて埴輪を作ることを提言したと考えるのが素直でしょう。
 先に森氏は、『日本書紀』卷 14 から卷 27 の著述開始の根拠を、『日本書紀』卷 30 の持統5(691)年9月己巳朔壬申(4日)條の、「賜音博士大唐續守言 薩弘恪 書博士百濟末士善信 銀人二十兩」の記述にも留めている旨を記しましたが、卷1からの著述についても百濟の書博士が関っていたと考えられます。
 野見は、韓国・朝鮮語の「奴の」の意味になる"nom-wi"に野見の字を当てたのではないかと考えます。
 相撲の始まりとされる野見宿禰と當摩蹶速の対戦は命を掛けたすさまじいものであり、この二人の戦いは、古代ローマの剣闘士を思わせるものです。そしてこの剣闘士の多くが、捕虜や奴隷、あるいは犯罪者が刑罰として就いていたことを考えれば、野見に「奴の」の意味があったように思えるのです。
  この野見宿禰と露天商の親方とが、どう繋がるのか。
  野見宿禰は埴輪を作ったことから葬送に関わるようになります。
 実は、香具師の親方の生業は、桶屋か古着屋だったと祖父から聞いています。
 桶屋はいうまでもなく、棺桶も作ります。私の家は桶屋でした。
 古着屋は、明暦の大火を思い出せば、葬送に繋がることは容易に想像が付くと思います。
  私が、『穂国幻史考』第三話「牛窪考」附録一の「相撲雑話」で、野見宿禰を採り上げたのは、こんな理由からです。
 さて、稲垣博士が主宰しておられた 21 世紀スポーツ文化研究所の紀要『スポートロジイ』第2号で、竹村匡弥さんが『野見宿禰と河童伝承に潜む修祓の思想』を寄稿されています。
 この舞台となる佐賀県の武雄市の潮見神社の祭神の一つ橘公業は、三島神を奉載した伊予橘氏といわれます。
 先に持統三河行幸の話をしましたが、三河一宮砥鹿神社を始め、東三河の古い寺社は、持統三河行幸が行われた大寶年間に創建されたと伝わります。
 その砥鹿神社と同字同名の社が伊予、庵原、下野にあり、いずれの地も三島神の東漸に関わる地です。
 河童は相撲好きといわれますが、その河童は湿布薬や骨接ぎの術に長けていたといわれます。実は露天商の親方も、薬屋を管轄しておりました。
 河童のザンバラ神は髷を結えなかった被差別民を表したともいわれます。
  『穂国幻史考』で、被差別民について採り上げたのもそんなところにあります。
 以上のような視点から、稲垣博士が関心を持たれていた出雲、河童、相撲といったものを捉えなおせば、新たな言説が展開できると信じております。
 話は変わりますが、『穂国幻史考(増補新版)』第三話には、『牛窪考(増補版)』を刊行した折の稲垣博士による紹介「オンデマンド出版による『牛窪考』(柴田晴廣著)、刊行。電子版も。」を載せてあります。
 稲垣博士はその中で「少しだけ余談を。牛窪は、じつはわたしの育った豊橋市大村町とは、すぐ眼と鼻のさきに位置しています。その意味では、わたしもまた穂国の文化圏の真っ只中で育ったと言っていいでしょう。たとえば、牛窪のお祭りと同じ奉納芸能である「笹踊り」は、わたしの育った大村町の八所神社でも行っていました。三人一組になって太鼓を打ちながら舞い踊る、とても不思議な芸能です。ですから、大きくなったら(青年団に入ったら)、この踊りをやるんだ、とこころに決めていました。」といわれていますが、実際には、大村の「笹踊」の小太鼓を踊られたそうです。
 生前、稲垣博士は、「笹踊」が朝鮮通信使の影響を受けたものなら、日本と朝鮮では運足が違うから、その違いをまとめたいといっておられました。
 インターネット上には、全ての「笹踊」の動画が載っています。
 稲垣博士の意思を継がれる方に期待します。
 最後になりましたが、こんな形での発表になったことを残念に思っております。
 祖父は、露天商と博徒が一即多になり、暴力団化するのを嫌って、代々受け継いだ露天商の親方のみならず、露天商そのものを辞めました。
 ですから、祖父は博打は打たないという矜持を持っておりました。
 ただ、手をこまねいていても余命三ヶ月なら、一か八かの大手術を受けてみようと思っております。
 こんな博打なら、祖父も許してくれると思います。
  大博打に勝ち、是が非でも完治させ、研究会のメンバーの方々と会える日を楽しみにしております。
 本日はありがとうございました。研究会のメンバーの方々に感謝します。
                                                 2022.6.14 21:30
                                                      柴田晴廣  


Posted by 柴田晴廣 at 01:06Comments(0)穂国幻史考

2022年08月01日

21世紀スポーツ文化研究所の六月月例会

 ISC・21六月月例会の前半(14時00分~16時20分)は、「『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む」のタイトルで、船井廣則(ISC・21特別研究員)、瀧元誠樹(札幌大学教授)、竹村匡弥(ISC・21特別研究員)の三人がコメンテーターで行われた。
 後半(16時20分~)は、林郁子(関西大学など非常勤講師)が、「スポーツ史学会第36回大会シンポジウムに向けて「ナチュラリストについて」」のタイトルの発表であった。
 この六月月例会に私は参加予定であったが、急遽入院し、参加できなかった。
 拙著『穂国幻史考(増補新版)』が六月月例会で採り上げられることとなった経緯について記せば、五月月例会で、話題となった書籍が、北島順子 『近代日本の植民地教育と「満洲」の運動会』《植民地教育史ブックレット》(風響社)、大保木輝雄著『剣道その歴史と技法』日本武道館 ベースボール・マガジン社 2022/03/30、 柴田晴廣著『牛窪考』 常左府文庫 2014/10、福岡伸一他著『ポストコロナの生命哲学』 集英社新書 2021/09/17、西谷修著『理性の探求』 岩波書店 2009/10/29、ピーター・スコット=モーガン著『NEO HUMAN 究極の自由を得る未来』 東洋経済新報社 2021、小林武彦著『生物はなぜ死ぬのか』 講談社現代新書 2021/04で、拙著が話題に上ったからと推察される。
 上記のように、私は入院により、六月月例会に参加できなかったが、入院前日に原稿を書き上げ、送付し、それがレジュメとなったようだ。
 次回は、そのレジュメ「相撲雑話―野見宿禰を中心に」を転載する。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1239540.html

 21世紀スポーツ文化研究所の六月月例会、五月月例会については、船井廣則先生のサイトを参考にした。
http://www.tees.ne.jp/~sieg922/contents/Recentreport.html   


Posted by 柴田晴廣 at 10:45Comments(0)雑談