2022年08月02日

相撲雑話-野見宿禰を中心に

  『穂国幻史考』を取り上げていただき、ありがとうございます。
  稲垣正浩さんが主宰されていた 21 世紀スポーツ文化研究所の研究会ということで、膨大な量の拙著から、『穂国幻史考』第三話「牛窪考」附録一の「相撲雑話」をテーマに話をしたいと思います。
 その前に『穂国幻史考』を執筆した動機を。
 私の家は、三河国一帯の露天商を統べる親方でした。露天商の祖は、一般には秦河勝といわれますが、我が家に伝わる口伝では、「香具師は天香具山命の子孫であり、故に香具師と当て字をすること、香具夜姫も同族であり、香具山命を祭神とする弥彦山で生を受けた大江山の鬼・酒呑童子も同族である」と伝えています。
 この口伝から『穂国幻史考』の執筆にどう繋がったかを記せば、大学で履修していた一般教養の授業が休講になった或る日、暇つぶしにと何気なく受けた履修していない一般教養の講義が沈黙交易の話で、祖父から聞いた柴田家の口伝と何となく共通する内容が気になり、授業が終わった後、その教授に口伝の話をしたところ、「初めて聞く話だが、君にしかできないことだから、取り組んでみたらどうか」、「それについては、記紀を読む必要があるが、読んだことはあるか」、「読んだことがないなら、最初に原文を読め」と。
 助言に従い、記紀の原文を読んだ後に解説書を読むと、原文に書いていないことがさも原文に書いてあるかのごとく解説してありました。
 それで通説を疑い、祖父からの口伝を道筋として、記紀を解釈するようになり、それをまとめたものが、『穂国幻史考』になりました。
 かぐや姫といえば、『竹取物語』の主人公ですが、かぐや姫の名は、『古事記』中卷埀仁條にも載っています。このかぐや姫は、丹波道主王の娘の一人と考えられ、埀仁の妃の一人・迦具夜比賣命は、大筒木埀根王の娘であるが、『古事記』中卷開化條の系譜には、大筒木埀根王の同母弟に讚岐埀根王を載せています。
  『竹取物語』での竹取の翁の名は讚岐造。『竹取物語』の作者は、丹波道主王の娘の一人と考えられる迦具夜比賣命を意識して、物語を書いたと思われます。
 周知のように、『竹取物語』は、文武の時代を舞臺とし、かぐや姫に求婚する五人の公家も、文武時代の實在の人物がモデルだといいます。
 そして、持統から文武という祖母から孫への権力移譲が、アマテラスからニニギへの天孫降臨逸話に投影されているといわれます。
 ニニギには姉妹連帯婚、火中出世譚が語られていますが、迦具夜比賣命を妃とした埀仁にも同様に姉妹連帯婚、火中出世譚が語られています。
 またアマテラスが、五十鈴川のほとりに祀られるのも、埀仁の時代に丹波道主王の孫娘に当たる倭姫の巡幸によってです。
 ただ実際に伊勢神宮が創建されるのは、持統の時代です。倭姫の巡幸について記す『皇太神宮儀式帳』(804 年成立)には、倭姫に副えた五柱の送驛使のうち、四柱は、『竹取物語』で、かぐや姫に求婚する五人の公卿のうちの四人と対応します。
 さらに『太神宮諸雜事記』では、三河國渥美郡、遠江國濱名郡に倭姫が巡幸した旨が載ります。内宮の関係者が、三河渥美郡あるいは遠州濱名郡に伊勢神宮を創建する構想を抱いていたことを窺わせる記述です。
 私は『古事記』は、『日本書紀』のゲラ刷りと考えています。そして『日本書紀』には、卷3甲寅年 10 月丁巳朔辛酉(5日)條から干支による暦日が記載されています。古代の暦法の研究家で、『日本書紀』の暦日に関する研究をし、それをまとめて『日本書紀の暦日に就いて』を上梓した小川清彦さんによれば、『日本書紀』卷3の神武皍位前紀の甲寅年 11月丙戌朔から卷 11 末の仁德 87 年 10 月癸未朔條までが、儀鳳暦に一致し、卷 14 安康紀3年8月甲申朔から卷 27 天智紀6年閏 11 月丁亥朔までが、儀鳳暦より古い元嘉暦と一致する、との研究がなされています。
 上記の小川清彦さんの説を踏まえ、中国語学者の森博達さんは、倭臭の違いにより、『日本書紀』は、中国人が書いた部分、漢文が得意でない日本人が書いた部分、そして、ある程度漢文のわかる日本人が書いた部分に分けることが出来、『日本書紀』卷 14 の雄略紀から卷 21 の用明紀、崇峻紀及び卷 24 の皇極紀から卷 27 の天智紀は、中国語を母国語とする唐人・續守言(生没年不詳)と薩弘恪(生没年不詳)が、卷1(神代上)から卷 13(允恭・安康紀)、卷 22(推古紀)及び卷 23(舒明紀)並びに卷 28 及び卷 29(天武紀)は、漢文が得意でない日本人の山田史御方が著述し、さらに、森氏は、持統の死去に伴って、『日本書紀』卷 30 持統紀の著述が計画され、その著述を、ある程度漢文がわかる日本人の紀清人が、全体の潤色及び加筆並びに續守言が執筆できなかった卷 21 の卷末から卷 23 の著述を、三宅藤麻呂に託したのではないかとしています。
 具体的な著述年について森さんは、『日本書紀』卷 30 の持統5(691)年9月己巳朔壬申(4日)條に、「賜音博士大唐續守言 薩弘恪 書博士百濟末士善信 銀人二十兩」の記述を根拠に、このころから卷 14 から卷 27 の著述が始められ、文武4(700)年以前に、その著述作業は終了したものと、山田史御方の著述作業は慶雲4(707)年ごろに始められ、紀清人と三宅藤麻呂の著述作業は、和銅7(714)年2月ごろに始められたものと推測しています。
 『古事記』を『日本書紀』のゲラ刷りと私が考える理由は、『古事記』は『日本書紀』の全体の潤色及び加筆が行われる前に完成しており、『古事記』の編纂作業はかなりの短期間で完了しているからです。
 ここで三河との関係について言及すれば、『日本書紀』の卷 14 から卷 27 の著述作業が終わり、祀られる神アマテラスについての記述がある卷1からの著述が始められる前に、持統三河行幸が行われます。
 持統三河行幸は、一般には、壬申の亂(672 年)の論功行賞を目的としたものだとされていますが、壬申の亂から 30 年も経っての論功行賞というのもどうかしています。
  『萬葉集』卷1收録の歌番號 61、58、57 から、持統三河行幸は、論功行賞どころか武力を伴った東三河の制壓だったと考えられます。その目的は皇祖神アマテラスの創造の障碍を除去するためでしたが、この行幸自体は失敗に終わりました。
 稲垣博士が小学校の途中から、大学入学まで過ごされました東三河とはこんな土地なのです。
 祀られる神アマテラスやその容れる器である伊勢神宮の創建については、埀仁の時代の倭姫巡幸で記されているのですが、埀仁の后ヒバス姫が亡くなったときに、殉死に代え埴輪を造ることを提言したのが、野見宿禰とされます。
 私は埀仁と、その前の崇神の時代の出雲の事件については、現在の島根県の話ではなく、丹波一宮・出雲大神宮を中心にした丹波の出来事であり、出雲の臣の後裔・野見宿禰も当然、丹波ゆかりの人物と考えています。このあたりの話は稲垣博士も膝を叩いて納得しておられました。
野見宿禰は、丹波ゆかりの人物だからこそ、丹波道主王の娘・ヒバス姫が亡くなったときに、殉死に代えて埴輪を作ることを提言したと考えるのが素直でしょう。
 先に森氏は、『日本書紀』卷 14 から卷 27 の著述開始の根拠を、『日本書紀』卷 30 の持統5(691)年9月己巳朔壬申(4日)條の、「賜音博士大唐續守言 薩弘恪 書博士百濟末士善信 銀人二十兩」の記述にも留めている旨を記しましたが、卷1からの著述についても百濟の書博士が関っていたと考えられます。
 野見は、韓国・朝鮮語の「奴の」の意味になる"nom-wi"に野見の字を当てたのではないかと考えます。
 相撲の始まりとされる野見宿禰と當摩蹶速の対戦は命を掛けたすさまじいものであり、この二人の戦いは、古代ローマの剣闘士を思わせるものです。そしてこの剣闘士の多くが、捕虜や奴隷、あるいは犯罪者が刑罰として就いていたことを考えれば、野見に「奴の」の意味があったように思えるのです。
  この野見宿禰と露天商の親方とが、どう繋がるのか。
  野見宿禰は埴輪を作ったことから葬送に関わるようになります。
 実は、香具師の親方の生業は、桶屋か古着屋だったと祖父から聞いています。
 桶屋はいうまでもなく、棺桶も作ります。私の家は桶屋でした。
 古着屋は、明暦の大火を思い出せば、葬送に繋がることは容易に想像が付くと思います。
  私が、『穂国幻史考』第三話「牛窪考」附録一の「相撲雑話」で、野見宿禰を採り上げたのは、こんな理由からです。
 さて、稲垣博士が主宰しておられた 21 世紀スポーツ文化研究所の紀要『スポートロジイ』第2号で、竹村匡弥さんが『野見宿禰と河童伝承に潜む修祓の思想』を寄稿されています。
 この舞台となる佐賀県の武雄市の潮見神社の祭神の一つ橘公業は、三島神を奉載した伊予橘氏といわれます。
 先に持統三河行幸の話をしましたが、三河一宮砥鹿神社を始め、東三河の古い寺社は、持統三河行幸が行われた大寶年間に創建されたと伝わります。
 その砥鹿神社と同字同名の社が伊予、庵原、下野にあり、いずれの地も三島神の東漸に関わる地です。
 河童は相撲好きといわれますが、その河童は湿布薬や骨接ぎの術に長けていたといわれます。実は露天商の親方も、薬屋を管轄しておりました。
 河童のザンバラ神は髷を結えなかった被差別民を表したともいわれます。
  『穂国幻史考』で、被差別民について採り上げたのもそんなところにあります。
 以上のような視点から、稲垣博士が関心を持たれていた出雲、河童、相撲といったものを捉えなおせば、新たな言説が展開できると信じております。
 話は変わりますが、『穂国幻史考(増補新版)』第三話には、『牛窪考(増補版)』を刊行した折の稲垣博士による紹介「オンデマンド出版による『牛窪考』(柴田晴廣著)、刊行。電子版も。」を載せてあります。
 稲垣博士はその中で「少しだけ余談を。牛窪は、じつはわたしの育った豊橋市大村町とは、すぐ眼と鼻のさきに位置しています。その意味では、わたしもまた穂国の文化圏の真っ只中で育ったと言っていいでしょう。たとえば、牛窪のお祭りと同じ奉納芸能である「笹踊り」は、わたしの育った大村町の八所神社でも行っていました。三人一組になって太鼓を打ちながら舞い踊る、とても不思議な芸能です。ですから、大きくなったら(青年団に入ったら)、この踊りをやるんだ、とこころに決めていました。」といわれていますが、実際には、大村の「笹踊」の小太鼓を踊られたそうです。
 生前、稲垣博士は、「笹踊」が朝鮮通信使の影響を受けたものなら、日本と朝鮮では運足が違うから、その違いをまとめたいといっておられました。
 インターネット上には、全ての「笹踊」の動画が載っています。
 稲垣博士の意思を継がれる方に期待します。
 最後になりましたが、こんな形での発表になったことを残念に思っております。
 祖父は、露天商と博徒が一即多になり、暴力団化するのを嫌って、代々受け継いだ露天商の親方のみならず、露天商そのものを辞めました。
 ですから、祖父は博打は打たないという矜持を持っておりました。
 ただ、手をこまねいていても余命三ヶ月なら、一か八かの大手術を受けてみようと思っております。
 こんな博打なら、祖父も許してくれると思います。
  大博打に勝ち、是が非でも完治させ、研究会のメンバーの方々と会える日を楽しみにしております。
 本日はありがとうございました。研究会のメンバーの方々に感謝します。
                                                 2022.6.14 21:30
                                                      柴田晴廣



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Posted by 柴田晴廣 at 01:06│Comments(0)穂国幻史考
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