2023年04月10日

若葉祭

三つ車
 昨年、もって二ヶ月といわれたときには、もうお祭りは見れないなと諦めていた。
 その諦めていたお祭りを晩慣らしから三日間堪能できた。

 少子化、娯楽の多様化などで若い衆に加入する者が減少していた。
 それがコロナ下での三年間の中止で、加速した。
 コロナ下で、祭礼組織の変容、それに伴う祭禮の変容の顕在化は予想されたことであったが、想像以上に、祭禮の変容は激しいものであった。

 ただ、予想に反しといえば、上若組の隠れ太鼓は良かった。
 衣装替えも全員吹けるそうだ。
 これは期待が持てる。



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Posted by 柴田晴廣 at 09:59│Comments(22)雑談
この記事へのコメント
柴田晴廣 様

 若葉祭の様子を連絡してくださいましてありがとうございました。小生の実家のあった隣の下中組の会所は、家屋老朽化で建て替えとなるとか。小生が高校生の頃だったか、父親が副区長をしていたことがありましたが、その時から会所の建て替えの話が出ては資金不足で先延ばしになっていた、と、父親が言っておりました。

 今年は、中町の会所となってますから、笹踊やダシのつきまわしの場所も変わっただろうし、宵祭はお囃子の迎えうちも場所を変えたのかもしれませんね。こういったことで、祭礼の変容は進んでしまうのでしょう。

 同じ日に祭礼となった、小坂井の風まつりも、今年は浜下り神事、笹踊の奉踊はなかったそうで。残念ですね。中国発疫病禍によって、祭礼が変容してしまうのは悔しいものです。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年04月11日 21:32
安達恭史さま

 西若組は、いままで通りに面した下町の会所が、若い衆の会所でしたから、神幸の魚油列の通りに面していない中町の会所が若い衆の会所だと、いろいろと考えるのでしょうね。
 上若は、ここの所、神幸の通り沿いに会所を構えていますが、私が若い衆のころは、岸の角から北に入った博愛堂の倉庫(博愛堂の洋館の向い)だったことがよくありました。
 そのときは、岸の角で、つきまわしを行い、笹踊や神兒舞を奉納しておりました。
 囃子の迎え打ちも、長らく西若は、会所で、迎え打ちもどきをやってましたから、どうなるんだろうと思うかもしれませんが、本来のように、囃子車で迎え打ちを行えば、会所がどこだろうと、関係なことです。
 今年は、中町の昔の大万の前の小野さんのとこの前に囃子車を停めて迎え打ちを行っておりました。
 ついでに大山車も、昔のように、西若は、油傳前で迎え打ちを行えば、なお良かったと思います。
 とにかく気になるのが、西若組の大山車曳に、いつになったら、西若組の若い衆は参加するんでしょうね。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年04月11日 23:07
柴田晴廣 様

 今年の若葉祭のことについて、詳細を教えていただきましてありがとうございます。小生が下で囃子の稚児をしていた時(小学2~6年)は、宵祭の迎えうちは、全て会所での迎えうちでした。今年はお車で迎えうちをしたのでしたら、会所が建て替えられたとしたら、また、新会所でモドキに戻る可能性が高いでしょうね(苦笑)。
 今年、中組の会所が西若の会所だったということなら、つきまわしや笹踊の奉踊は、中町角くらいしか思い浮かびません。
 西若の大山車は、稚児のときお世話になった若衆は、昔の話を聞き知っていたとしても、置山になりはてた姿しか見ていないと思います。上若のように若衆が参加する光景には恐らく鈍感で、その流れがずっと続いていくのでしょう。。。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年04月12日 00:12
柴田晴廣 様

 小坂井の風まつりは、2015年に柴田さんと見物に行きましたね。これが初めてでした。雀の姿焼きを食べながら缶ビールを呑み、浅蜊のむき身の押しずしを、宿のスーパーで買って食べました。疫病除けの鐘馗様の小さな面と、風車を買いました。おかげさまで中国発疫病に罹ることもなく過ごしております。

 おどろおどろしい柄の法被に驚かされましたが、一勇斎國芳の浮世絵の影響が考えられるとの話を聞いて、また、驚かされた記憶が蘇ります。

安達恭史



 
Posted by 安達恭史 at 2023年04月12日 06:52
安達恭史さま

 祭礼を見学していて、よく耳にする「昔からこうだった」のほとんどが、その話者の自己幻想にすぎません。
 聞き取り調査だけで、自己幻想か、対幻想あ、共同幻想かを検討するでもない柳田民俗学は、学問というには程遠いものです。
 大學で民俗学が文学部の下に置かれているのも、自己幻想か、対幻想か、共同幻想かの分析を強いないからです。
 西若組では、共同幻想より、自己幻想が優先されている。
 それゆえ、養子に行って、町内費を払っていないのに、祭禮に参加するという輩が出てくるのです。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年04月12日 09:05
柴田晴廣 様

 来年、某氏から電話がかかってきたら、「あんた、去年、町内費払っただかん?払っとらんもんが、祭禮に参加しとっちゃいかんにぃ」と言っておきます(笑)。

 若葉祭のニュース、相変わらず、やんよう神を祭禮の主役とするコメントが多いです。祭禮の中心というならば獅子頭や神兒であるし、やんよう神よりも先にこれらに触れるべきでしょう。

 柴田さんと見物に行った吉田ですが、そこの氏子が笹踊を神様と言い張っていた記憶があります。吉田も白木の獅子頭が往還します。傷みの激しい獅子頭でしたが、白丁二名が大切に担いでいましたね。道を進む方向に関係なく、獅子頭が常に南に向くように担いでいたと記憶していますが、あってますか?

 どこの祭禮も、氏子衆自身が、本質を知り、みないと、都合のいいように解釈して変容させてしまいますね。

 今年の豊川もどうでしょうかねぇ。鉾を御幸行列の先頭に立てず、寝かせて肩に担いで「運ぶ」のでしょうかねぇ(苦笑)。


安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年04月12日 10:33
安達恭史さま

 笹踊の踊り手が神様だといっていたのは、吉田ではなく、豊川です。
 加えて、鉾には、 「神幸乃最前爾捧持津御鉾乃耀與布」と、鉾が先頭である旨が記された「社式」が飾られているにも関わらず、笹踊が先頭に変わっています。
 吉田は、獅子頭が、常に南に向くようになどとバカげたことを行っていますが、現在は小坂井だけですが、獅子頭は、もともと頭上に奉持っていたことから、常に南に向けるなど無理なことでした。
 牛久保や豊橋の鬼祭りの獅子頭も同様に頭上でした。
 鬼祭りも吉田と同様に、南に向けるといったバカげたことを行っていますが、明治にいなって小賢しい神主が言い出したことでしょう。
 明治の出典は、易経の「聖人南面而聴天下 嚮明而治」。
 この出典かっら、小賢しい神主が思いついたのでしょう。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年04月12日 12:11
柴田晴廣 様

 吉田と鬼祭の獅子頭が南向きにしたのは、明治になって更に変容させてしまった、というわけですね。明治維新を迎えて慶んだ当時の神主の着想でしたか。

 笹踊の踊り手が神様だと思い込んでいたのは豊川でしたか。同じように思っている氏子が牛久保にもいるんじゃないかと邪推しています。

 小坂井の菟足神社は、獅子頭を頭上に掲げているそうですが、その様子を実際に見ていないです。桶に入れられて神輿の前に置かれた状態のものは見ております。近い将来、風まつりの御幸行列を見てみますね。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年04月12日 13:15
安達恭史さま

 さすがに、牛久保には、笹踊の踊り手が神様だと思っている者はいないと思います。
 ただ、やんようがみが、神だと思っている者は、何人かいるかもしれません。おそらくいるでしょう。
 風祭の頭上で、獅子頭を奉持している写真は、拙著『穂国幻史考(増補新版)』の3016ℙに掲載してあります。
 確認してみてください。

             理證晴連居士
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年04月12日 13:36
柴田晴廣 様

 菟足神社の獅子頭、御著書で確認致しました。結構な重さがあるのではないかと思いますが、「生」を頭上に掲げていた古を想像しても大変だっただろうな、と思いました。

 牛久保の笹踊の踊り手を神様と思わなくても、やんよう神を神様と思っている人はいそうですね(笑)。小生がお囃子の稚児をやっていた時、三つ車待ちで酔っぱらったやんよう神が、なかなか八幡社の鳥居を潜ってくれず、長時間待たされて、嫌気がさしたことが何度かありました。子供心にやんよう神が神様に見えたことなど一度もなく、ただの酔っ払いのオヤジたちと、正直、思っていました(苦笑)。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年04月12日 14:24
柴田晴廣 様

 もっとも、お祭りが早く終わってしまうのが悲しい方々もお見えでしょうから(笑)、なかなか鳥居を潜ってくれなかったのかもしれません。某青年が「神様だもんで、潜ってくれんと三つ車はじめられんじゃんねぇ」と言っていた記憶が微かに残りますので、「やんよう神ファン」には彼らが神様に見えるのでしょう。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年04月12日 14:32
安達恭史さま

 豊橋の鬼祭りでの「おかしらさま」(獅子頭のこと)は、お的の神事までは、拝殿に飾られており、お的の神事が始まると、八角義上台に移されます。
 もともとは、猪が的だったんでしょう。
 伊奈のお祭りでは、御旅所で、神幸に随伴した獅子頭が神輿とともにおかれますが、獅子頭に榊が奉げられます。
 この二つの事例を考え合わせれば、東三河の平野部の神幸に随伴する獅子頭は、今昔物語や宇治拾遺物語の風祭の猪の供犠の名残でしょう。

 寺町のやんようがみについて、加えて置けば、ファンだけでなく、やんようがみ自身も、神だと思っていたはずです。
 それが、大正10年の紛擾事件につながった。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年04月12日 14:43
柴田晴廣 様

 平野部の祭禮で御幸に随伴する獅子頭をは、鹿射ち神事から考察することも重要と言えるのわけですね。奥三河能登瀬の鹿射ち神事も観に行きましたね。鹿を「しし」とも言いました。
 牛久保から養子に出て行った某氏も一緒でしたが、スギやアオキの枝葉で模った鹿を的にして矢を放つ神事をみて、「かわいそう」という表現をしていましたね。牛久保小学校の修学旅行が京都奈良でしたから、奈良公園の鹿をイメージしたのでしょうね。
 
 やんようがみ自身が自分を神だと思い込んでるわけですね(苦笑)。酒の勢いもあって、何かの拍子て喧嘩になりそうですねぇ。将来、問題を起こさないことを祈ります。


安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年04月12日 17:02
安達恭史さま

 私のころは、伊勢志摩でした。父は戦時中で、修学旅行に行っておらず、何年ごろ名だったか、忘れましたが、京都奈良でした。
 父の同級生には、京都から、戦時中、牛久保にきていた方がおり、祇園でスナックをやっておりました。
 旧姓の工業でも一緒でしたから、まるさんの温っちゃんと一緒に年に一度は京都に飲みに行っておりました。
 中学も私のころは東京日光ではなく、東京箱根。
 日光に行ったのは、末期がんになってからです。

 やんよう神ではありませんが、大山車曳でよく歌った「かんかんのう」の替え歌の最後は、「べろべろの神様は正直神様で、おそその方へと尾を向ける、それ尾を向ける」でした。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年04月12日 18:12
柴田晴廣 様

 こうして若葉祭をみてみると、若葉祭は様々な文化や風習で成り立っていることがわかりますね。三つ車なども計算されたもののようにみえますし、こういったところは簡単に変容させてはいけない部分だと改めて思いました。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年04月13日 07:55
安達恭史さま

 三つ車も、大正10年の紛擾事件に絡む記録を読むと、いろいろと変容していることがわかります。
 当時の人から見れば、今の三つ車は全くの別も小野に見えるでしょう。
 上若組と西若組にダシが登場するのは、囃子車ができる明治の末のこととと思われます。
 となれば、今のような三つ車とはだいぶ趣が変わります。
 その頃の三つ車は、今の三谷祭の引き分けのような感じだったのでは推測します。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年04月13日 08:03
安達恭史さま

 祭事係、後見といった役も、戦後になってからですね。
 それまでは、大年行司と八人年行司。
 これが後見に代わり、その中の一人を後見長とした。
 この後見長が大年行司の後継で、祭事係に繋がります。
 上若組、西若組がダシを所有する前は、大年行司、八人年行司が、重要な役だった。
 これも祭礼組織の変容ですが、三つ車も、この祭礼組織の変容の影響を受けて変容したと考えられます。

             理證晴連居士 
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年04月13日 13:47
柴田晴廣 様

色々と教えていただきましてありがとうございます。
大年行司、八人年行司の習慣は、今でも風まつり等で続いているのですか?

また質問してしまいました。

どうぞ、お身体を大切にしてくださいね。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年04月14日 08:56
安達恭史さま

 風祭の小坂井では、大年行司、少年行司という形で残っております。
 軒順で回ってくるはずです。
 式花火は、少年行司の役割で、大山車を曳く折には、梃子を持ち、それぞれの車輪に一人ずつついています。
 大年行司は、紋付羽織袴で、袴の裾を端折、黒足袋わらじ。少年行司と考え合わせれば、梃子前の衣装を意識してのことでしょう。
 三谷にも同様の役はありますが、早くから保存会ができたことからか、役名は残っているものの、仕事らしい仕事はなさそうです。

                 理證晴連居士
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年04月14日 12:38
柴田晴廣 様

 風祭の年行司の件、教えていただきましたありがとうございました。以前、風祭を一緒に観に行った時に、年行司のことをおっしゃっていたことを、記憶に残っておりましたので、質問させていただきました。

 牛久保の祭禮組織の変容も、大正十年の紛擾に関連しているのですね。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年04月15日 12:07
柴田晴廣 様

 大阪で、だんじりの事故が発生しました。大阪泉州地方では、だんじりの祭りがいくつかあるようです。過去、出張で大阪産業技術研究所に出かけたことがあり、その周辺地域でだんじり祭に出くわしたことがあります。祭禮を見物したわけではありませんが、だんじりを見かけたので、ここも岸和田とおなじようなことをしているんだろうな、くらいでした。
 しかし、あの「やりまわし」は危険です。昔は「やりまわし」なんかしていなかったのではないかと思うのです。カッコいいんですかねぇ。

安達恭史
Posted by 安達恭史 at 2023年04月16日 13:04
安達恭史さま

 詳しく調べたことはありませんが、アスファルトの道路が前提になるように思います。
 舗装されてない道路ではあれだけのスピードは出せないでしょうし、矢根の上で飛び跳ねるなんて芸当は無理でしょう。
Posted by 柴田晴廣柴田晴廣 at 2023年04月16日 13:14
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