2022年09月30日

何人かから大腸がんに罹患したとの連絡が

 私の大腸がんが確認されたのが、2016年4月。翌月に手術した。
 ここのところ知人から、本人ないし近親者が大腸がんに罹患あるいは再発したとの連絡が續いた。
 私の川高以来の友人から直腸がんのステージ3と診断されたとの連絡があったのが、私が退院して少し経ったころ。
 彼とは親しくしていたから、確か彼の血縁者の何人かが大腸がんに罹患化していることを思いだした。
 リンチ症候群(遺伝性大腸がん)であれば、免疫チェックポイント阻害薬のキイトルーダが有効である。
 手術を決める前に、リンチ症候群が否か確認するように伝えた。
 次に連絡があったのが、私より一学年下の司法書士から。
 京都の知り合いが、大腸がん再発とのこと。
 私が再発の手術をした医療機関を教えて欲しいと。
 草津市の淡海医療センターで、執刀医は、同センターの副院長の水本明良医師であると伝えた。
 そして昨日、私より八学年下で牛久保出身。現在一部上場企業の研究所の副所長の知人から。
 彼からは数年前にも兄が大腸がんに罹患したとの連絡があった。私より三学年下の彼の兄が大腸がんステージ3と。
 今回、その彼の兄のがんが再発したらしい。
 彼も彼の兄からまだ詳しい話を聞いていないようだ。
 ただ、彼の家も、彼の母や彼の母の兄弟が大腸がんに罹患していることから、リンチ症候群の可能性も高い。
 一昨日の投稿「老年と読書」↓の著者・前田速夫さんは、大腸がんステージ4と診断され、まず原発巣を手術で削除し、手術後に化学療法で転移した腫瘍を縮小させ、転移した腫瘍の削除手術をしている(同書「はじめに」より)。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1244948.html
 牛久保出身の一部上場の研究所の副所長の兄のがんは、上記のように、転移か再発か詳しくはわからないが、なぜかこのクニの医療機関では、手術をすると、化学療法などの内科的治療も手術をした外科が受け持つ。
 彼の話では彼の兄も再発の手術をするとのことだが、外科は切らなくてもいいものまでもやたらと切りたがる。
 私は彼の兄を全く知らないわけではないから、腫瘍内科や放射線科医の意見も聞くように伝えて置いた。

追記(16:32)
 がん細胞が熱に弱いという性質を利用した光線療法については、下記の9.22の投稿を参考にしてください。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1244449.html

追記(18:12)
 先程、川高以来の友人と電話で話したら、抗がん剤でがんは縮小し、手術ではなく、内視鏡で腫瘍を削除できるとのこと。
 これでストームというのはなくなる。良かった、良かった。
 友人が治ったら、一盃御馳走してもらうことになった。
 がんが再度再発して以来、呑む気にもならなかったが、今晩は少し吞もうと思って吞んでいたところでの友人からの連絡であった。
 肴は、以前投稿した「イカと胡瓜の炒め物」だ。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1239055.html  


Posted by 柴田晴廣 at 09:46Comments(0)雑談

2022年09月28日

老年の読書

 『老年の読書』(新潮選書)を、著者で、私と同じ大腸がんステージ4の新潮の元敏腕編集長の前田速夫さんから頂いた。
 まだ「はじめに」しか読んでいないが、その冒頭には、前田さんが、大腸がんステージ4と診断された経緯が記されている。
 私もがんに罹患し、確認された経緯を『穂国幻史考(増補新版)』の「あとがき」及び第三話の「あとがき」に記してある。
 以下に『老年の読書』の「はじめに」の冒頭を引用する。
 「最初の兆候は、二〇一三年一月六日の朝、カメラマンの友人と岐阜県の長滝白山神社の六日祭に参列したときのことだった。一面銀世界で、あたりがしんしんと冷えるなか、禪や泊まった宿から相棒と神社に向かう途中で、急に右下腹が傷みだし、路上にしゃがみこんでしまった。痛みはなかなかおさまらない。そこで、私ひとり宿に戻って布団を敷き、丸まっていると、一時間もしないで嘘のように痛みは消えた。それからは予定通りに祀の一部始終を見学し、祭が果ててからは宮司家に呼ばれて、関係者との祝宴にも加わった。」
 「その後はなにごともなく過ぎたが、夏ごろから時おり胃のあたりがしくしくするので、月に一度降圧剤を出してもらっているかかりつけの医院で、そのことを告げると、触診したとたんに医師の表情が変わり、翌日地元の総合病院で精密検査を受けて、私はステージ4のがんかんじゃとなった。」
 『老年の読書』の「はじめに」の前田さんががんと診断された権威と私ががんと診断された経緯とでは、幾つかの点で共通する。
 私が、大腸がんステージ3と診断されたのは、二〇一六年の四月の下旬であるが、その約八か月前の八月の盆過ぎ、昼飯を食べた後、腹痛でやぐるった。やぐるったのは一時間程、その後は、なにごともなかったように二〇一六年の四月の地元の若葉祭を迎えた。その折、何人かに顔色が悪いといわれ、祭禮の翌々日、渋々近所の星野医院(豊川市牛久保町常盤)に行くと、見るまでもなく悪い、触診でおそらく大腸がんだろうと。
 その足で、豊川市民病院に行き、四月の下旬に大腸がんステージ3と診断された。
 風痛でやぐるったとき、もう少し痛みが治まらなければ救急車をと思ったが、救急車を呼ぶ前に痛みは治まった。
 痛みは治まってもあの時、救急搬送されていればとの思いは今もある。
 少なくともあのとき、救急搬送しておれば、手術の後、転移してstage4となることはなかっただろう。
 がんは昔の結核のように、不治の病から完治できる病になりつつあるが、光免疫療法が多くのがんに適用になるまでは、早期に治療するに越したことはない。
 前田さんや私のように、激しい腹痛があったら、一時間程でおさまっても、医者に行くべきである。そうすれば、ステージ4になることもない。
 現時点で大腸がんのステージ4になっても、知識があれば助かるが、知識がなく、医者の言いなりの治療を受けておれば、助かる確率は限りなく低くなる。
 自身で特許公報等からがんのメカニズムを把握できる自信のない方は、腹痛があったらすぐに医者に行くことを薦める。  


Posted by 柴田晴廣 at 06:57Comments(0)雑談

2022年09月27日

自民党という集団

 このブログでも安倍については、何度か投稿しているが、はっきり言って、麻生とセットで無脳の極みと思っている。
 外交で功績があったとの報道もあるが、海外行って金をばらまいてくるぐらい、幼稚園児でもできる。
 外遊とは的を射た表現である。
 外交でも何でもない、海外行って遊んでいるだけだ。それも大尽遊び。
 困ったことに、その無脳の安倍の外交を岸田は受け継ぐという。
 大尽遊びはポケットマネーでやってくれ。国葬儀という大尽遊びも同様だ。
 森、小泉に始まり、自民党総裁は、どれもこれも無脳ばかりだ。特に清話会。
 自民党入党前はもう少しまともだと思っていたが、細野豪志も無脳になった。
 「武道館周辺で抗議行動をするのは控えてほしい」と、国葬反対派に呼びかけているが、国葬儀が行われる武道館周辺で抗議活動をしてこそ意味がある。
 細野は、抗議活動を小笠原諸島でやって意味があるとでも思っているのだろうか。
 そもそも武道館の北100メートルほどに位置する九段坂公園に献花台が設けてある。細野の言からすれば、こんなところに献花台を設ける必要はないということになろう。
 朱に交われば赤くなるというが、森―小泉以降の自民党という集団に入ると、無脳化するのだろうか。
 コロナウィルスより感染力も強い厄介なウィルス=自民党ウィルス。  


Posted by 柴田晴廣 at 11:20Comments(0)雑談

2022年09月22日

光免疫療法新たな展開

 開発者の小林久隆さんは、帰国し、四月一日に関西医科大学の光免疫医学研究所の所長に就任しました。
 その動きとは直接関係しませんが、昨日のニュースで、光免疫療法の新たな展開が紹介されていました。
 番組では、放送時間の都合等で詳細な説明はありませんでしたが、東京大学先端科学技術研究センターの㏋に載っている下記の研究だと思います。
https://www.rcast.u-tokyo.ac.jp/ja/news/release/20220920.html
 近赤外線での照射の光免疫療法の問題点は、身体の深部まで光線が届かない点でした。
 頭頚部がんに特化していたのもこれによります。
 今回東京大学先端科学技術研究センターが開発した治療では、近赤外線が身体の深部まで届くようになったようです。
 このHPでは、乳がんのみの実験結果が記されていますが、テレビ番組では、開発者の一人の児玉龍彦さんが大腸がんにも有効だと話しておりました。
 体の深部まで照射できるようになれば、乳がん、大腸がんのみならず、ほとんどのがんが適用対象になるはずです。

光免疫療法についての補足(19:02)
 がんは熱に弱く、42度程度でがん細胞は死滅します。
 光免疫療法は、がん細胞に結び付きやすい抗体に、光線に反応し、発熱する物質を載せて、点滴でがん細胞に結び付け、結び付いたのちに、光線を照射し、光線に反応し、発熱する物質を発熱させ、がん細胞を死滅させるという治療法です。
 免疫療法を謳っているのは、がん細胞が出来ても、がんに罹患しないうちは、免疫細胞によりがん細胞は破壊されますが、がんに罹患すると、がん細胞が免疫細胞をブロックする物質をだし、免疫細胞の攻撃から逃れます。
 ところが、がん細胞が死滅するときに、免疫細胞をブロックする物質も破壊され、免疫細胞が正常に機能するようになります。
 したがって一部のがん細胞を死滅させるだけでも、免疫細胞が正常に機能し、残りのがん細胞も死滅させることが出来ます (Abscopal effect)。
 故に免疫療法の名が付いています。

追記(21:01)
 がん細胞が熱に弱いことを利用した、光線等を使った温熱療法には、光免疫療法の他、高周波(ラジオ波)温熱療法(ハイパーサーミア、オンコサーミア)、集束超音波療法があります。

追記2(2022.09.23 10:57)
 ハイパーサーミアは大腸がんは保険適用。
 オンコサーミアは、選択的にがん細胞だけの周辺を加熱し、これが細胞内外の温度差を生じさせることでがん細胞の細胞膜を破壊し、自死(アポトーシス)を起こすことを目的とした治療法で、まだ大腸がんには保険適用になっていません。
 集束超音波療法は主にパーキンソン病の治療に用いられ、パーキンソンは保険適用。
  


Posted by 柴田晴廣 at 08:46Comments(0)雑談

2022年09月17日

筋トレ開始

 二月にがんの再度の再発が確認されてから、七月五日の手術前までに体重が25キロほど落ちました。
 手術後、6キロほど戻しましたが、数日前から、気合を入れての筋トレを始めました。
 意識的に外側の筋肉を重点的に鍛えております。
 外側の筋肉を重点的に鍛えていることからもわかるように、目指すはギリシャ彫刻ではなく、慶派の金剛力士像の肉付きです。
 慶派の金剛力士像の上半身の肉付きの特徴は、逞しい前鋸筋にありますが、これを鍛えるにはフリーウェイトによることとなります。
 フリーウェイトの方がマシンより筋肉の増量は早いですし、3ヶ月ぐらいで、筋肉だけであと10キロぐらい戻したいですね。
 大腸がんの再発であることから服用している、整腸、食欲増進、そして二日酔いにも効く半夏瀉心湯の効果にも期待して、食べて運動をして体重を増やそうと思います。

追記(2022.09.29 14:48)
 豊川市民っ病院に受診に行ったついでに体重を計ったら、また2キロほど増えていた。
 効果が出始めたということだろう。
 あと8キロ、頑張って戻そう。  


Posted by 柴田晴廣 at 18:59Comments(0)雑談

2022年09月11日

推敲中の『穂国幻史考(増補新版続編)』の説明2

 「山本勘助と牧野氏」は、私の母の小中学校の同級生で、スポーツ史学会会長等を歴任した稲垣正浩(一九三八~二〇一六)博士が主宰していた21世紀スポーツ文化研究所の月例会(二〇二二年六月二六日)「『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む」での名古屋経済大学短期大学部元教授の船井廣則さんが、私の「うなごうじ蛆蟲由來説」は、根據のない妄説との言説の丁寧な説明をし、それを受けて、青山学院大学教授の河本洋子さん(旧姓牛窪)の山本勘助が主人公だった二〇〇七年の大河ドラマ「風林火山」で、牛久保に興味を持ったとの発言を基に、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」第四章「牧野氏の出自」、拾遺二「牛久保と山本勘助」、拾遺三「『牛久保古城圖』考」及び拾遺四「善光庵の創建と再建」の記述を適宜繋ぎ合わせたものである。
 『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺二「牛久保と山本勘助」及び拾遺三「『牛久保古城圖』考」では、法月山光輝庵(豊川市光輝町二丁目/淨土宗)所藏の『牛久保古城圖』に描かれた、勘助が養子に入った大林勘左ヱ門の屋敷と、現在勘助の遺髮塚のある武運山長谷寺(豊川市牛久保町八幡口/淨土宗)の位置が一致することから、勘助の總角(あげまき)を養家の大林家が保管しており、その總角を勘助の死後、屋敷の一角に供養として埋め、その後、大林家の跡地に長谷寺が移轉して來たのではないかという私が建てた假説の證明にあったが、「山本勘助と牧野氏」の表題の通り、山本家と牧野家の關係をテーマに考察した。
 「山本勘助と牧野氏」と、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺二「牛久保と山本勘助」及び拾遺三「『牛久保古城圖』考」が、異なるのは、『穂国幻史考(増補新版)』では、言及していない事柄=『姓氏家系大辭典』の「牛窪」の項を足したことである。
 この『姓氏家系大辭典』の「牛窪」の項を書き足したことにより、『穂国幻史考(増補新版)』にはない視点が加わったことから、一稿にまとめることとした。

 「大成經の僞作者・山鹿素行」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺四「善光庵の創建と再建」の二つ目の見出し「善光庵の再建者・潮音道海と「大成經彈壓事件」」から、「大成經」の眞の僞作者について考察した言説を拔き出し、タイトルの通り、その僞作者は山鹿素行である旨を主張した小論である。
 『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺四「善光庵の創建と再建」の二つ目の見出し「善光庵の再建者・潮音道海と「大成經彈壓事件」」では、潮音道海が大成經の僞作者とする廣く知られた説に疑問を持ち、大成經の僞作者は本當に潮音道海なのかを考證した論考である。
 加えて置けば、この山鹿素行。明からの亡命者・朱舜水(一六〇〇~一六八二)の「夷狄である清によって治められている中国は、もはや中華の國でなく、日本こそが中華である」との言説を眞に受けたお目出度い人物でもある。
 日本列島で通貨としての機能が發揮される貨幣が發行されるのは、寛永一三(一六三六)年に鑄造が始まる寛永通寶の登場を待たなければならない。朱舜水が來日する四半世紀前のことだ。それまでは明の永樂帝(一三六〇~一四二四/在位一四〇二~一四二四)が發行した永樂通寶などの中国錢が通貨として流通していた。グアム(Guåhån)の通貨は、アメリカドルである。グアムはアメリカ合衆国の州ではないが、準州である。中国の貨幣が通貨として使われていた日本は、中国の準州のような地域なのだ。通貨發行權を手に入れたばかりの日本を「日本こそが中華である」と稱賛するなど、朱舜水の本心であるはずもない。それもわからず、朱舜水の言を眞に受けたのが、山鹿素行だ。
 加えて暦についても、貞享二年一月一日(一六八五年二月四日)に宣明暦から改暦された澁川春海(一六三九~一七一五)により編纂された貞享暦の採用までは中国からの借用であった。通貨と同樣に、江戸時代に入り、自前で暦を編纂するようになる。中原では、皇帝は空間のみならず、時間をも支配すると、考えている。中華思想の信奉者の朱舜水が、借りものの暦法を使用している日本を中華の國などと思っているはずもない。山鹿素行は、ほどほどお目出度い人物だ。
 そのお目出度い山鹿素行が、僞書「大成經」を創作したのである。

 『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の二つ目の見出し「菟足神社の徐福伝説説明板を檢證する」は、菟足神社に設置された「菟足神社と徐福伝説」と題する説明板に記された内容を檢證した論考である。
 その中の最後の小見出し「生贄神事は中国的か――奥三河の鹿射神事及び諏訪の御頭祭と菟足神社の生贄神事」では、右記説明板が、中国的とする、『今昔物語』及び『宇治拾遺物語』に載る菟足神社の風祭の猪の供犧が、本當に中国的な習俗かを考察した論考である。
 「菟足神社の風祭と諏訪の御頭祭」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の二つ目の見出し「菟足神社の徐福伝説説明板を檢證する」の最後の小見出し「生贄神事は中国的か――奥三河の鹿射神事及び諏訪の御頭祭と菟足神社の生贄神事」で引用する『今昔物語』及び『宇治拾遺物語』に載る菟足神社の風祭の猪の供犧は、中国的なものではなく、繩文に遡る狩獵採取文化に基づくものである旨の説明をした。
 その名殘と考えられる東三河平野部に殘る神幸に隨伴する獅子頭から、風祭の猪の供犧が具體的にどのようなものであったかも推測した。

 『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の最初の見出し「非農耕民と秦氏――東三河を中心に」の三つ目の小見出し「牧野氏と鶴姫傳説――信長の世に廢寺となった豐川村東光寺」で、菊池山哉(一八九〇~一九六六)著『特殊部落の研究』を引用し、東國の被差別部落では、白山妙理權現を鎭守とし、東光寺を寺號とする藥師堂を祀る旨を紹介した。
 東國の被差別部落が白山妙理權現を鎭守とし、東光寺という寺號の藥師堂を祀ることについて本地埀迹説から檢討すれば、この信仰は東國の被差別部落に限ったことではなく、被差別部落の信仰の本質は祇園社にあるといえる。
 本地埀迹説をほんの尠しでも理解しておれば、白山妙理權現と東光寺という寺號の藥師堂が犬神人が隷屬する祇園感神院が結び付くことは容易に気が付くことであるが、なぜかそうした言説を私は知らない。
 「祇園感神院とその祭神の本地」は、白山妙理權現と東光寺という寺號の藥師堂が犬神人が隷屬する祇園感神院がどう結び付くかを佛説から説明した小論である。

 「專願寺の大施餓鬼」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の最初の見出し「非農耕民と秦氏――東三河を中心に」の最後の小見出し「牛頭天王の本地と播磨、そして秦氏――祇園感神院及び『野馬臺詩』が記す日本の國姓」で採り上げた專願寺の大施餓鬼についてまとめたものであり、なぜに東三河平野部の初盆を迎える親族等が、專願寺の大施餓鬼に出向くのかを、專願寺という寺院の歴史的背景、專願寺という寺院のある場所、專願寺で大施餓鬼が行われる日時等から、本地埀迹説を絡めて説明した小論である。

 『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」で、引用した京極夏彦・多田克己編『妖怪図巻』「ひょうすべ」の項は、潮見神社(佐賀県武雄市橘町大字永島)の河童傳承を紹介するが、なぜに潮見神社に河童傳承が殘るかの説明はない。
 「伊豫橘氏と河童傳承」では、なぜに潮見神社に河童傳承が殘るかを、同社の祭神の一柱・橘公業の出自を伊豫橘氏とする説があることから、伊豫橘氏をキーワードに河童との接點を探った。
 中で、渭伊神社(浜松市北区引佐町井伊谷)の裏山の呼稱、菩提寺の萬松山龍潭寺(臨濟宗妙心寺派)の本尊等から、伊豫橘氏を本姓とすると推測される井伊氏の周邊に傳わる龍宮、龍神傳説から、河童との繋がりを考證するとともに、三嶋神の東漸と、砥鹿という名の神社の分布から、御伽草子で、龜に乘って龍宮に行ったといわれる浦島太郎へと、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」で、引用した京極夏彦・多田克己編『妖怪図巻』「ひょうすべ」の項は、三河の設樂氏(本姓三河大伴氏)の河童傳承についても言及することから、『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀伝説」の拾遺「富永系圖と木地師」の最初の項「海倉淵の椀貸傳説」での三河大伴氏の龍宮との繋がりについての話へと展開した。

 縁日などで、たこ焼き、鯛焼きなどを商う屋台。暴力団の資金源の一つと考えている方が多いと思う。
 筆者の家は代々、その暴力団の資金源の一つと考えられている露天商の親方であった。親方といっても、狹い範圍の露天商を管轄していた親方ではなく、令制國の三河國一帶を管轄するの親方であった。
 だが、曾祖父・柴田庄五郎(一九一五年七月二九日逝去)亡き後、祖父・銀治(一九〇三・六・二四~一九八五・四・七/銀山清澄居士)が親方を繼ぐも、露天商が博徒と一皍夛になり暴力團化してしまうことを嫌って、祖父は商賣替えをした。
 祖父の行動からわかるように、露天商は、暴力団とは一線を画すものであり、博徒とも別物である。
 ところが、世間一般の露天商の認識は、暴力団の一翼を担うといったものがほとんどであり、研究書といったものまでもが、祖父がいう博徒と一皍夛になった後の露天商について語ったものばかりだ。
 「人口に膾炙した露天商の認識を糺す」では、主に『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」の最後の小見出し「三島神と鳶澤甚内――火明命を中心とした海人の世界」の項の露天商の記述を基に、人口に膾炙した露天商の認識を糺すことを目的とし、露天商の歴史、博徒や暴力団との違い、無宿人との違いから、露天商とは何かを明示するとともに、商いという面から露天商の実像を顯らかにした小論である。

 『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」の「三州吉田の怪猫騷動」の項で引用したルイス・フロイス著『日歐文化比較』には、耶蘇教文化圈と比べ、日本の女性は自由で、自立しており、地位も高かった旨が記されている。
 「耶蘇教の傳來と女性の地位の変化」では、日本の女性が耶蘇教文化圈の女性と比べ、なぜに自由で、自立しており、地位も高かった理由を、母系制、夫婦別姓といったキーワードから解明した。
 このクニで、夫婦同姓が一般的になるのは、耶蘇教の影響であり、耶蘇教の影響で、日本の女性の社会的地位が低下したことを説明した。  


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2022年09月10日

推敲中の『穂国幻史考(増補新版続編)』の説明1

 『穂国幻史考(増補新版続編)』は、『穂国幻史考(増補新版)』で展開した独自の説及び、その独自の説の前提となる言説を抽出して、まとめたものである。

 「風土記撰上と佳字二字令」は、『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の序「穗國とは」から、風土記撰上及び佳字二字令について言及した言説を拔き出したものであり、主に『續日本紀』卷六和銅六(七一三)年五月癸亥朔甲子(二日)條の記述を基に、風土記撰上と佳字二字令が何を目的に制定されたかを考察した。
 「風土記撰上と佳字二字令」の詔が出された和銅六年は、『日本書紀』のゲラ刷りたる『古事記』完成の翌年になる。『日本書紀』は、史實を後世に傳える目的で編纂されたものではなく、史實を消し去り、新たに創作した物語をあたかも歴史の如く語ったものである。
 「記紀」では、「記紀」が初代天皇とする神武の東征で、大和盆地に入るとき、近畿地方には、土蜘蛛を始め、古モンゴロイド(繩文人)の身體的特徴を有する人々がいたことが記されている。佳字二字令及び『風土記』に收録された地名由來譚は、神武が征討した先住者の付けた地名を消すことにあった。
 『古事記』序文第三段も、「然 上古之時 言意并朴 敷文構句 於字皍難」と、「上古の言葉を漢字に直すのは困難である」旨を記し、その例として「日下」を擧げ、「於姓日下謂玖沙訶」と、「日下は玖沙訶と訓むが、日下とそのまま記した」旨を述べる。
 このクサカは、先住者の言葉であり、繩文語の流れを汲むアイヌ語で「舟で運ぶ・岸」を意味する"kusa・ka"に由來する。これをもってしても、『風土記』の編纂意圖をうかがい知れよう。
 『風土記』の撰上及び佳字二字令は、『日本書紀』を裏から支え、先住者の歴史を消し去り、創作された新たな物語を史實と誤認させる目的で制定されたものであることを説明した。

 「日本書紀の暦日とその著述年代」は、『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の第一章「「記紀」の成立過程と穗國」の第一節「「記紀」の編纂はいつ始められたか」から『日本書紀』の編纂時期について言及した言説を拔き出し、まとめた小論である。
 『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の第一章「「記紀」の成立過程と穗國」の第一節「「記紀」の編纂はいつ始められたか」は、そのタイトルの通り、「記紀」の編纂がいつ始められたかについて考察した論考である。
 一般には、『日本書紀』の編纂は、天武の時代に始められたとされる。その根據は、『續日本紀』、『日本書紀』及び『古事記』の記述に基づくが、ミスリードを誘発する記述を含む、『古事記』、『日本書紀』及び『續日本紀』は僞書といえる。
 この僞書の記述に基づく、『日本書紀』の編纂は、天武の時代に始められたとする通説に疑いを持ち、「日本書紀の暦日とその著述年代」では、暦法の研究者の小川清彦(一八八二~一九五〇)さん及び中国語学者の森博達さんの言説を踏まえ、持統の時代に編纂が始められた旨を説明した。

 『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の第一章「「記紀」の成立過程と穗國」の第二節「皇祖神アマテラスの創造と伊勢神宮の創立」では、祀られる神アマテラスは、「記紀」の編纂時に創作されたものであったことを、同章第三節の「アマテラスの誕生と持統三河行幸」竝びに第三章「彷徨うアマテラス」の第一節「ヤマトヒメの巡幸」では、その祀られる神アマテラスを容れる器たる皇大神宮が出來るのも、『日本書紀』の編纂が始められる持統の時代であること、『續日本紀』が默して語らない持統三河行幸の目的を、『萬葉集』に收録された歌から、東三河の制壓であったこと、その制壓の目的は、祀られる神アマテラスの創造の障碍を取り除くことであったことを顯らかにした。
 「皇大神宮の創建と持統三河行幸」では、主に『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の第一章「「記紀」の成立過程と穗國」の第二節「皇祖神アマテラスの創造と伊勢神宮の創立」及び第三節「アマテラスの誕生と持統三河行幸」竝びに第三章「彷徨うアマテラス」の第一節「ヤマトヒメの巡幸」における言説を基に、皇大神宮が創建されたのは、持統の時代であり、持統三河行幸の目的は、穗國の制壓にあったとの独自の説を詳細に説明した。

  「天皇の棄姓とその弊害」は、『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の第四章「虚構の万世一系と持統の生い立ち」の第一節「易姓革命から逃れるために姓を棄てた持統」で主張した言説の要點=天皇に姓がないのは、易姓革命を逃れるため、その棄姓により、現在まで續く、民のためにならないクニは潰すという当たり前が通用しない弊害について説明した。
 なお北畠親房(一二九三~一三五四)が著した『神皇正統記』卷二應神條には、「昔日本は三韓と同種也と云事のありし かの書をは 桓武の御代にやきすてられしなり」との記述がある。「桓武の御代にやきすてられ」た書には、天智(六二六~六七二)の出自が詳しく記されていたと考えられる。乙巳の變について記す『日本書紀』卷二四皇極四(六四五)年六月戊申(一二日)條は、蘇我入鹿(六一一?~六四五)の屍を見た古人大兄(?~六四五)は、「見走入私宮 謂於人曰 韓人殺鞍作臣 謂因韓政而誅 吾心痛矣 皍入 杜門不出」と、「自宅に入り「韓人が、鞍作臣を殺した」といい、自宅に引き籠った」とあるからだ。鞍作臣とは入鹿のことである。同卷皇極元(六四二)年一月丁巳朔辛未(一五日)條で、「大臣兒入鹿更名鞍作」と、「鞍作は入鹿の別名」と記してある。この入鹿に最初に斬りかかったのが中大兄、後に天智と呼ばれる男だ。入鹿に最初に斬りかかった韓人は天智のことであり、「三韓と同種也」と天智の出自が詳しく記された書は、天智の男系の子孫・桓武(七三七~八〇六)の時代に焼き棄てられたのだ。
 ちなみに持統(六四五~七〇三)及び元明(六六一~七二一)の父は、天智であるが、その元明の皍位の詔について記載する『續日本紀』卷四慶雲四(七〇七)年七月丙申朔壬子(一七日)條は、「是者關母威岐近江大津宮御宇大倭根子天皇乃 與天地共長 與日月共遠 不改常典止立賜比敷賜覇留法乎 受被賜坐而行賜事止衆被賜而 恐美仕奉利豆羅久止詔命乎衆聞宣」と、皇位繼承の根據を天智が定めたとされるいわゆる不改常典に求めている。
 このクニには、韓人=天智の子孫が天皇として、いまも居座っている。「日帝三十六年」どころの騒ぎではない。

 「御靈信仰と靖國」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺一「「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と豊川流域の「笹踊」」補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」の最初の見出し「平田派國學者・羽田野敬雄の牛久保觀」の三つ目の小見出し「わが國本來の神祭りとは乖離した國學思想」から、八百萬の神祭りから逸脱した神祭りの一例として擧げた靖國に關する言説を抽出し、まとめたものである。
 その靖國は、無念の死を遂げた兵が天皇に祟るのを防止するための怨靈の鎭魂施設であり、A級戦犯十四名もまた天皇裕仁の代わりに処刑されたことから、怨靈になると判断され、靖國に合祀されたのである。靖國を宗教施設として考察すれば、A級戦犯十四名を靖國に合祀した神職は、戰爭責任は裕仁(一九〇一~一九八九)にあったと考えていたのである。裕仁が、A級戦犯十四名が合祀された後、靖國に参拝していないのは、自身に戰爭責任ありとした靖國の神職たちに対する抗議の意思表示だ。
 「御靈信仰と靖國」では、以上の内容を詳しく説明した。

 「日本人という曖昧な概念」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺一「「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と豊川流域の「笹踊」」補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」の最初の見出し「平田派國學者・羽田野敬雄の牛久保觀」の最後の小見出し「遠州灘近海にも多くの外國船が航行」から、日本人の概念について言及した言説を拔き出した小論である。
  日本人という概念は、生物学的な血統によるものではなく、日本列島の文化を享有しているという歴史的文化的視点からの分類でもなく、明治政府が徴兵制を施行した時點での明治政府が兵として召集出來る男子を含む家族を日本人と定義したに過ぎない。
「日本人という曖昧な概念」では、徴兵制施行に遡る明治政府が考えた日本人の概念と、一般にいわれる日本人の概念の乖離から、日本人という概念が如何に曖昧なものであるかを説明した。

 「西寶の七福神踊」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺一「「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と豊川流域の「笹踊」」補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」の二つ目の見出し「田中緑紅主宰『鄕土趣味』の功罪」の四つ目の小見出し「稻垣豆人が「出し豆腐」以上に興味を示した「七福神踊」」から、三河灣最奧に位置する舊寶飯郡西部で傳承される神事藝能「七福神踊」について、そのエッセンスをまとめたものである。
 三河灣最奧に位置する舊寶飯郡西部の神事藝能「七福神踊」は、「七福神踊」といっても、辯才天の代わりに白狐が加わり、なぜか毘沙門天あるいは壽老人を缺いていた。
 「西寶の七福神踊」では、辯才天の代わりに白狐が加わる理由を、『源平盛衰記』卷二八の「經正竹生島詣付仙童琵琶の事」で、平經正が竹生島に参詣し、辯才天の社前で琵琶を奏でると、白狐が出て來たとの記述を手掛かりに説明した。この『源平盛衰記』の記述から、狐は辯才天の使いと考えられるが、竹生島の辯才天像の頭頂部には小さな宇賀神が載る。この宇賀神と伏見稻荷の主祭神・宇迦之御魂神との混同が生じたことから、辯才天の使いが狐となり、辯才天の代わりに白狐が加わった旨の説明をした。
 次に毘沙門天を缺くのは、毘沙門天は、惠比壽神の本地であるとの言説から、壽老人を缺くのは、壽老人と福祿壽は、ともに南極老人星(Canopus)の化身であるとの言説から、毘沙門天あるいは壽老人を缺く理由を推測した。
  


Posted by 柴田晴廣 at 19:14Comments(0)穂国幻史考