2022年02月24日

『穂国幻史考(増補新版)』の手引き6(第一話第四章)

「記紀」は、史實を後世に殘すといった目的で創られたものではなく、海人の歴史を消し、 新たな歴史を創作した物語である。物語の創作を指示した、持統や元明は、自身の血を引く者に皇位を繼承させようと思った。その思惑を利用し、天皇制に寄生し、自家の繫榮を企んだのが、藤原不比等(六五九~七二〇)だ。不比等は、万世一系を創造し、かつ、母系制を利用し、天皇の外戚として王朝に寄生し、王朝交替を將來に亙り、阻止するため、天皇の棄姓を思い附いた。姓を棄てれば、易姓革命を回避出來るからだ。
 ここに万世一系とは、『古事記』及び「六國史」という虚構の世界で、男系を遡れば二ニギに行き着く者のみが天皇になれる制度をいう。
 天皇の棄姓については、既述のように、『隋書』に、倭王の姓は阿毎だと載る。しかし現在皇族には、姓も苗字もない。
 また姓がないことが、皍位の條件である點については、紀傳體の歴史物語で、白河院政期(一〇八六~一一二九)に成立したといわれる『大鏡』卷二に逸話が載る。
 その逸話は、陽成(八六八~九四八)の退位(實際は廢位)に伴い、適當な皇位繼承者がいないとき、源融(八二二~九五)が皇位に就ける者ならここにもいるとばかりに、「いかがは、近き皇胤をたづねば、融らも侍る」と自ら手を擧げた。ところが、ここで藤原基經(八三六~八九一)が待ったをかける。基經曰く、「皇胤なれど、姓給て、ただ人にて仕えて、位に就きたる例あるや」、すなわち、臣籍降下し、姓を持った者が皍位した例はないと異議を申し立てたのだ。基經の申し立てで、融は皇位に就くことが出來なかった。
 このとき皍位したのが、光孝(八三〇~八八七)。皍位と同時に全ての子女を臣籍降下させたが、源定(さだ)省(み)(八六七~九三一)が、皇籍復歸し、姓を棄てた後に、皍位して宇多となる。さらに源定省の子・として姓を持って生れた源維城(これざね)(八八五~九三〇)は、宇多の皍位に伴い、皇籍に列し、敦仁となり、醍醐として皍位する。この時代に書かれた『源氏物語』も光源氏の子として生を受けた冷泉が皍位している。冷泉の父・光源氏のモデルは、融だといわれる。
 この後日談を記せば、眞言密教の僧侶・日藏(九〇五?~九六七?)が著した『日藏夢記』に、醍醐は地獄に落ちたとある。地獄に落ちたことから、醍醐以降に姓を持って皇位に就いた者はいない。

 そもそも王は国家にとって必要不可欠なものではない。ゆえに多くの国で王はいないのである。
『太平記』卷二六の「妙吉侍者言附秦始皇帝事」で、「都ニ王ト云人ノマシゝテ 若干ノ所領ヲフサケ 内裏 院ノ御所ト云所ノ有テ 馬ヨリ下ル六借サヨ 王ナクテ叶マシキ道理アラハ 以木造ルカ 以金鑄ルカシテ 生タル院 國王ヲハ何方ヘモ皆流シ捨テ奉ラハヤト云シ言ノ淺猿サヨ 一人天下二横行スルヲハ 武王是ヲ恥シメリトコソ申候」と、高師直(?~一三五一)は、天皇など必要ない、どこかへ島流しにでもしてしまえ、どうしても必要なら木像か金像を代わりに置いておけばいいといっている。
 天皇など百害あって一利なしなのだ。
 その例を擧げれば、宮内庁の職員は、公僕とはほど遠い任務を職責とする。宮内庁は、現在の令(りょう)外官(げのかん)(民主主義国家の公法が想定していない官職)といえる。こうした令外官を創るから、それを範として、政治屋に忖度する官僚が出現するのだ。
 その諸悪の根源・宮内庁が管轄する「百舌鳥・古市古墳群」が、二〇一九年七月六日に、世界文化遺産に登録の決定がされた。世界文化遺産に登録されたのだから、「百舌鳥・古市古墳群」は、文化庁に管轄を移管し、学術調査を大々的に行うべきであろう。そうすれば、宮内庁は用済み、早急に解体すべきだ。

 話は変わるが、埼玉県行田市にある埼玉古墳群の稻荷山古墳から出土した鐡劍に、「辛亥年七月中記」で始まる長文の銘が彫られており、「獲加多支鹵大王」の名が見える。「獲加多支鹵」は「ワカタケル」と讀み、「大泊瀬(おおはつせ)幼(わか)武(たける)」(雄略)を指すといわれている。さらに「獲加多支鹵大王」は「斯鬼宮」にいたとも刻まれ、「斯鬼」は「シキ」と讀み大和の磯城を指すとされる。
 稻荷山古墳は、古墳の編年により五世紀後半のものだと推定され、出土した鐡劍に刻まれた「辛亥年」は四七一年だとする説が有力である。「辛亥年」の干支一巡前邊りから、漢籍に倭についての記載が増える。『日本書紀』の編纂が雄略紀から始められた一因もここにあるのだろう。
『日本書紀』の雄略紀の暦日は、元嘉暦が使われている。
『日本書紀』から、元嘉暦の傳來の記述を拾うと、『日本書紀』卷一九欽明一五(五五四)年二月條には、「仍貢……暦博士固德王保孫」と、「百濟から暦博士・固德王保孫が來日した」旨、卷二二推古一〇(六〇二)年一〇月條には、「百濟僧觀勒來之 仍貢暦」と、「百濟の僧・觀勒が暦本を傳えた」旨がある。暦博士・固德王保孫が傳えた暦は元嘉暦であり、觀勒が傳えた暦本も、元嘉暦の暦本である。推古二八(六二〇)年に撰録された、「天皇記」や「國記」も、元嘉暦が使われており、おそらく「天皇記」や「國記」は、雄略前紀邊りから著述が始まっていたのだろう。換言すれば、『日本書紀』の神代の卷から雄略前紀は、持統――元明の時代に創作された物語であり、創作された時代が投影されていると見てよい。
 加えて、『釋日本紀』(鎌倉時代末期に成立した『日本書紀』の注釋書/著者は卜部兼方(生没年不詳))卷一三が引用する繼體の系譜を載せる『上宮記』の記述も、『日本書紀』の編纂が雄略紀から始められた傍證になるだろう。『上宮記』の成立は、推古の時代に遡るといわれ、繼體の系譜は、繼體の五代前から記載されている。『日本書紀』の記載で、繼體の五代前の天皇は雄略が該當する。換言すれば、推古の時代には、倭王武が順帝に上奏した文が書かれた時代より古い資料は殘っていなかったと推測される。
 餘談になるが、『上宮記』が語る繼體の系譜は、繼體を凡牟都和希王の五世孫とする。凡牟都和希は、ホムツワケと讀むべきだが、專門の學者までもが、ホムタワケと讀んで、應神のことだとする。『萬葉集』や、「記紀」の歌謠で、「都」を「タ」と讀む例など一つもなくてもだ。これも「記紀」という創作の洗腦の結果だ。實(げ)にもおそろしいことである。

 天武朝に記録校定された「帝紀」と「上古の諸事」があるにもかかわらず、『日本書紀』を必要とした理由は、持統及び元明が、その正統性の根據を父の天智(六二六~六七二)に求めたことにある。具體的には、天智の出自の隱蔽だ。
 隱蔽したものの、その痕跡は殘る。
 皇極四(六四五)年六月戊申(一二日)條の入鹿(?~六四五)の屍を見た古人大兄皇子(?~六四五)が發した次の言葉だ。「韓人殺鞍作臣」。鞍作臣とは入鹿のことだ。『日本書紀』卷二四皇極元(六四二)年一月丁巳朔辛未(一五日)條で、「大臣兒入鹿更名鞍作」と、「鞍作は入鹿の別名」と記してある。そして乙巳の變で入鹿に最初に斬りかかったのは、中大兄こと、後の天智だ。つまり天智は
韓人なのだ。
 桓武(七三七~八〇六)は、この天智の子孫であるが、『神皇正統記』卷二應神條は、「昔日本は三韓と同種也と云事のありし かの書をは 桓武の御代にやきすてられしなり」と記す。桓武の時代に燒き棄てられた、「「昔日本は三韓と同種也」と書かれた書とはどのような書であったのか。
『續日本紀』卷四〇の延暦九(七八九)年一月壬午(一五日)條には、「皇太后 姓和氏 諱新笠 和氏 百濟武寧王之子純陀太子之裔也」と、桓武の母「高野新笠は、百濟の武寧王(四六二~五二三)の子・純陀太子(?~五一三/『日本書紀』卷一七繼體七(五一六)年秋八月癸未朔戊申(二六日)條に「百濟太子淳陀薨」とある)の後裔」との旨が記されている。つまり桓武の母が百濟の武寧王の子孫である旨は、桓武の時代に燒き棄てられていないから、『續日本紀』に記されているのだ。
 となれば、『日本書紀』の乙巳の變について記した「韓人」に詳細な出自が書かれた書が桓武の時代に燒き棄てられのだ。
 現天皇も、皇統譜では、この韓人の子孫である。「日帝三十六年」どころの騷ぎではない。大韓民國や朝鮮民主主義人民共和国に損害賠償の請求をしたいところだ。
 第四章では、以上を踏まえて読んで欲しい。



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