2022年02月22日

『穂国幻史考(増補新版)』の手引き4(第一話第二章)

 持統三河行幸は、大寶二(七〇二)年の出來事であるが、三河一宮・砥鹿(とが)神社(豊川市一宮町西垣内)は、持統三河行幸があった大寶年間(七〇一~七〇四)に創建された。その砥鹿神社の世襲神主家・草(くさ)鹿砥(かど)家について、太田亮(一八八四~一九五六)編著『神社を中心とした寶飯郡史』は、穗國造(『先代舊事本紀』卷一〇「國造本紀」の穗國造・菟上(うなかみの)足尼(すくね)ではなく、穗別の祖・朝廷別王)の後裔で、日下(くさか)部(べ)族とする。太田亮氏の見解では、草鹿砥は、日下部を日下(くさか)戸(べ)と表記し、クサカドと訓じ、草鹿砥と表記するようになったという。
 太田亮のいう日下部族について、朝廷別王の名が載る『古事記』中卷開化條の系譜では、朝廷別王の父・丹波道主王の異母兄弟の沙本毘古(さほびこ)王を日下部連の祖とする。
 つまり穗國造の後裔で、日下部族との太田亮の言説は、矛盾するものなのだ。だが、『姓氏家系大辭典』の著者で、系圖の大家の太田亮がそういうからには、確信があってのことだろう。とはいえ、太田亮はその根據を示していない。示していないものの、丹波と日下部氏を結び附ける資料は數多ある。
『神社を中心とした寶飯郡史』は、戰前に刊行されたものだ。そして日下部連の祖・沙本毘古王は、『日本書紀』では、狹穗彦王と表記され、狹穗彦の亂を起こしている。太田氏が具體的な根據を示さなかったのも、狹穗彦の亂に觸れるのを避けるためだったのだろう。この狹穗彦王の妹・狹穗姫命の子が、ホムツワケノミコト(記の表記は本牟都和氣(ほむつわけ)命、紀の表記は譽(ほむ)津(つ)別(わけ)命)である。
 太田亮は根據を示さないものの、草鹿砥氏は、穗別の祖・朝廷別王の裔で、日下部族との太田亮の言説を基に、朝廷別王とホムツワケノミコトは同一人物ではないかとの考察を行ったのが、第二章「穗別の祖・朝廷別王は、悲劇の皇子・ホムツワケノミコトだ」である。

 第一章第一節の説明で述べたように、森博達氏は、『日本書紀』卷三〇の持統五(六九一)年九月己巳朔壬申(四日)條の「賜音博士大唐續守言 薩弘恪 書博士百濟末士善信 銀人二十兩」との記載を、『日本書紀』の著述を促す旨の記述であると指摘する。その續守言、薩弘恪に『日本書紀』の著述を促す記述より、二十日ほど前の同年八月己亥朔辛亥(一三日)條は、大三輪氏始め、十八氏の墓記を提出させた旨の記載がある。提出させた墓記等が、『日本書紀』の系譜の資料となった。當然、そのゲラ刷りの『古事記』の系譜も大三輪氏を始めとする十八氏が提出した墓記等が基になっているのだ。
 注意しなければならないのは、「記紀」編纂時の墓記等は、母系を前提に系圖が記載されていたことである。「記紀」の編纂から遡ること、四百年餘り、卑彌呼とその宗女・臺與の祭祀繼承も母系であるし、「記紀」編纂時から三百年ほど經った『源氏物語』が描く世界の妻問婚も母系制を前提にしたものだからだ。
 また、たとえば、時代劇の「遠山の金さん」。金さんの正式な氏名は、遠山金四郎景元(かげもと)(一七九三~一八五五)だ。遠山は苗字、金四郎は通稱で、父の遠山景晋(かげくに)(一七六四~一八三七)、子の景纂(かげつぐ)(一八一七~一八五五)の通稱も同じく金四郎である。街中で潛入搜査をしているときの遊び人の金さんの名乘りあるいは呼稱は、通稱の金四郎にちなむもの。景元は諱。
 そして番組終盤、お白州に登場するときの「北町奉行あるいは南町奉行遠山左衞門少尉樣御出座」の北町奉行あるいは南町奉行は景元の職制、左衞門少尉樣御出座の左衞門少尉は、景元の官位である。
『日本書紀』は、それ以前の歴史を葬り、新たに創作された僞史である。史實を葬り去るため、意圖的に諱でなく、通稱などの親子など複數の者の同一の名稱や職制などの普通名稱を巧みに使い分けていることもあり得る點を「記紀」に掲載された系譜を考察する際に留意すべきである。

 既述のように、ホムツワケノミコトは、狹穗彦の亂を起こした狹穗彦王の妹・狹穗姫命の子である。そして、狹穗姫命は、狹穗彦の亂で、燃え盛る稻城の中で、自分が死んだら、『古事記』中卷開化條掲載の系譜では、狹穗姫命と異母兄弟の關係の丹波道主王の娘を、後妻に迎えるように、埀仁に託す。
 ホムツワケノミコトは、この燃え盛る稻城で生まれた。いわゆる火中出産譚だ。先に埀仁と二ニギは、姉妹聯帶婚で共通する點を擧げたが、二ニギが娶った木花咲夜姫が二ニギの子を産む場面も火中出産逸話で語られる。
「記紀」の崇神――埀仁の二代の件(くだり)を比較精査すると、「出雲神寶獻上事件」と、狹穗彦の亂は關聯した事件であり、「記紀」の崇神――埀仁の二代の出雲についての記述は、丹波の出來事だとわかる(詳細は『穂国幻史考(増補新版)』該当箇所参照)。「出雲神寶獻上事件」は、實は、「丹波神寶獻上事件」なのだ。
 加えて、埀仁は、狹穗姫命、丹波道主王の娘のほか、『古事記』中卷開化條掲載の系譜では、狹穗彦や丹波道主王の異母兄弟になる、大筒木埀根王の娘・迦具夜比賣命を娶っている。
 この大筒木埀根王については、『古事記』中卷開化條では、丹波大(おお)縣(あがた)主(ぬし)由(ゆ)碁(ご)理(り)――比古由牟須美(ひこゆむすみ)命――大筒木埀根王と續く系譜を載せる。大筒木埀根王の祖父に當る由碁理は、丹波の大縣主であるが、縣主とは、律令制以前の縣制と呼ばれる地方制度の首長をいう。單なる丹波の縣主ではなく、丹波の大縣主の由碁理は、丹波一帶の首長と考えられる。
 一方の朝廷別王の父・丹波道主王についても、『日本書紀』卷六埀仁五年一〇月己卯朔(一日)條一書は、彦(ひこ)湯産(ゆむ)隅(すみ)王の子とする。その丹波道主王の名もまた丹波方面の首長の意であり、しかも丹波道主王の名は、先の遠山景元の説明でいえば、職制に近いもので、固有名詞ではない。つまり、迦具夜比賣命は、丹波大縣主の孫(大筒木埀根王)で、丹波一帶の首長=丹波道主王の娘の一人とも考えられるのである。
 また丹波道主王が彦湯産隅命の子であれば、ホムツワケノミコトと丹波道主王とが直系關係にあったことを窺わせる記述もある。『先代舊事本紀』卷七「天皇本紀」開化六〇年一〇月條は、「次彦小將簀命 品治部君等祖 彦湯産隅命」=「彦小將簀命(彦湯産隅命)を品(ほむ)治部(ちべ)君の祖」とする記載だ。「品治部」とは、本牟津別王のための御名代(みなしろ)のことだからだ。

 話は変わるが、私の家は、私の祖父・柴田銀治(一九〇三~一九八五)が、露天商が博徒と一皍夛になり、暴力團化するのを嫌い辭めるまで、代々三河の露天商の親方であった。
 露天商の祖は、一般に秦(はたの)河勝(かわかつ)(生没年不詳/六世紀から七世紀に掛けての人物)とされるが、私が祖父から聞いた話では、露天商は天香具山命の裔で、露天商の別稱・香具師に香具の字を當てるのは、天香具山命が祖ゆえと。また、かぐや姫も漢字で表記すれば、香具夜姫になり、同族とのこと。さらに、天香具山命を祭神とする越後一宮・彌彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦)が坐す彌彦山で生を受けた酒呑童子も同族だと。秦河勝を祖とするのは、父系制の傳來普及時期を考慮すれば、父系の祖が秦河勝で、母系の祖が天香具山命ということになろう。
 また、露天商は、本業を持っており、私の家は桶屋であった。祖父からは、露天商の親方の家は、桶屋か古着屋だったと聞いている。桶屋はもとより、古着屋も明暦の大火(一六五七年)の一因を考慮すれば、露天商と、丹波道主の娘・日葉酢媛命の葬儀に際し、殉死に代え、埴輪を造ることを提言したとされる野見宿禰を祖とする土師氏の職掌に繋がるものがある。
 露天商が祖とする天香具山命の系譜については、平安時代初期に成立したとされる『先代舊事本紀』卷五「天孫本紀」の海人・尾張氏の系圖に詳細が載り、天火明命(天香具山命の父)の六世孫建田背命を丹波國造祖とする。天香具山命の父・天火明命は、天照國照彦火明命とも呼ばれ、この神を他(おさ)田(だ)(奈良県桜井市太田)に祀ったのが、蘇我宗家であった。
 以上の私が祖父から聞いた露天商の傳承の證明も、『穂国幻史考(増補新版)』のテーマの一つであり、第二章「穗別の祖・朝廷別王は、悲劇の皇子・ホムツワケノミコトだ」及び次の第三章「彷徨うアマテラス」の第二節「穗國とヤマトヒメ(かぐや姫をめぐって)」、終章の「穗國造・菟上足尼と丹波道主王の末裔たち」(特に後半部分)では、ダイレクトに、露天商の傳承がベースになっている。
 露天商の話を補足すれば、露天商は神農黄帝を祀る。最初に高市(たかまち)を張った(市を開くことをいう)のが神農黄帝だからだ。神農黄帝は、「百層を嘗めて、百藥を知る」といわれ、藥屋も信仰の對象とする。

『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀伝説」の拾遺「富永系圖と木地師」の最初の項「海倉淵の椀貸傳説」で採り上げた椀貸傳説は、沈默交易の一つであり、河童の駒引きと似たモチーフを含む。河童は接骨治療に長け、相撲を好むという。「百層を嘗めて、百藥を知る」神農黄帝に通じるものがあるし、忍術や五行説にも繋がる。露天商の同族といわれる、酒呑童子配下の茨木童子の切られた腕を取り戻すとの譚も河童傳承のモチーフと類似のものだ。
「登美那賀伝説」の拾遺「富永系圖と木地師」の二番目の項「惟喬傳説と六歌仙」では、惟喬の立太子爭いを相撲で決着を附けた旨の譚を載せるが、惟喬は、椀貸傳説の貸方である木地師の祖である。そして椀貸傳説は、相撲好きの河童傳承と似たモチーフを含む。相撲の祖は、丹波道主王の娘の日葉酢媛命の葬送に際し、殉死の代わりに、埴輪を造ることを提言した、葬送を職掌とした土師氏の祖・野見宿禰だ。
 さらに、第三話「牛窪考」の拾遺五補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」は、露天商の父系の祖の一つである秦氏についての論考であり、その二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」では、河童の別稱「ひょうずべ」について考察し、その一つ目の小見出し「ひょうすべと椀貸傳説――三河大伴を例にして」では、第二話「登美那賀伝説」の拾遺「富永系圖と木地師」の最初の項「海倉淵の椀貸傳説」をさらに河童傳承の視点から探求し、三つ目の小見出し「三島神と鳶澤甚内――火明命を中心とした海人の世界」では、天火明命の子・天香具山命を祖とする、露天商について、人口に膾炙した、誤った言説を正し、續く附録一「相撲雑話」の序「本書第一話における野見宿禰論」では、丹波道主王の娘の日葉酢媛命の葬送に際し、殉死の代わりに、埴輪を造ることを提言した、相撲の祖でもある、野見宿禰についてさらに深く考察した。
 以上のように、『穂国幻史考(増補新版)』の第一話第二章は、第一話のその後に續く話のみならず、第二話、第三話で考察する事項の伏線にもなっているのである。



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