2022年03月17日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明24(附録三)

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録三「県道三一号線物語――古代から現代まで」は、県道三一号――東三河環状線は、先史時代の生活道、律令時代の官道、京鎌倉往還を經た後繼道路である旨を解説した論考である。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録三「県道三一号線物語――古代から現代まで」の最初の見出し「鎌倉街道と県道三一号東三河環状線」では、東三河環状線は京鎌倉往還の後繼道路である旨の解説をした。
『新撰(しんせん)和歌(わか)六(ろく)帖(じょう)』(寛元二(一二四三)年成立)第二卷「田舎」の項に載る藤原家良(いえよし)(一一九二~一二六四)が詠んだ「かりひとの やはきにこよひ やとりなは あすやわたらむ とよかはのなみ」も、この鎌倉街道を詠ったものである。この歌に詠まれる「やはき」は、圓福山妙嚴寺(豊川市豊川町)の西側の一部及び、その北、東、南邊り(豊川市桜木通一丁目、同豊川西町及び同門前町の一部)にあった豐川村矢作をいい、矢作は京鎌倉往還と、後の伊奈街道が交差する交通の要所であった。
 中世三大紀行文の一つ『海道(かいどう)記(き)』(作者未詳/貞應二(一二二三)年成立)貞應二年四月九日條や、同じく中世三大紀行文の一つ『東關(とうかん)紀(き)行(こう)』(作者不詳/仁治三(一二四二)年成立)仁治三年八月一八日條では、家良が詠んだ歌のように、豐川村から、飽海川(豊川(とよがわ)の古稱)を渡河している。
 當時、豐川村から飽海川を渡河するとなれば、現在、佐奈川に付け替えられている、飽海川の支流・帶川を渡河し、牧野村(豊川市牧野町)を經て、三橋(みつはし)村(豊川市三谷原町の一部、寶飯郡三谷原村は、明治元(一八六八)年、三橋(みつはし)村、雨谷(うや)村及び石原(いしはら)村が合併した際に三村の一字ずつを採った合成地名)で、飽海川の本流(古川)を渡り、最後に飽海川支流の間川を渡り、八名郡三渡野(豊川市三上町の一部)で、飽海川を渡り切ったのだろう。
 ところが、中世三大紀行文の一つ『十六夜(いざよい)日(にっ)記(き)』(阿(あ)佛(ぶつ)尼(に)(一二二二?~一二八三)著 弘安六(一二八三)年ごろ成立)弘安二(一二七九)年一〇月二一日條では、「わたうととかやいふ所にとゞまりぬ」と綴る。「わたうと」は、『和名類聚抄』に載る「度津(わたむつ)」のことであり、飽海川の渡河地點が「豐(とよ)川(かわ)」から「度津」に變わったことを物語る。式内菟足神社(豊川市小坂井町宮脇)は、度津鄕の總氏神。氣候の變化により、海退し、飽海川の渡河地點が下流に移ったのだ。中世三大紀行文は、いずれも宮路山(豊川市赤坂町宮路)を通っているが、海退により、阿佛尼は平坂(へいさか)街道(国道二三号線の前身道路)に近いルートを取ったと考えられる。
 そして『海道記』は、「やかて高志山にかかりぬ 岩角をふみて火敲坂を打過くれは 燒野か原に草の葉萠えいてて 梢の色 煙をあく この林地を遙かに行けは 山中に境川あり これより遠江の國にうつりぬ」と、『東關紀行』は、「參川 遠江のさかひに 高師山と聞ゆるあり(中略)橋本といふ所に行つきぬれは 聞渡りしかひ有て 景氣いと心すこし」と、『十六夜日記』は、「たかし山もこえつ」と、いずれも「たかしやま」を通って、遠州に入っている。
 以上を勘案すれば、東三河における京鎌倉往還は、東三河環状線に近いルートであったと推測される。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録三「県道三一号線物語――古代から現代まで」の二つ目の見出し「東三河平野部の古代の地名と交通路」では、JR飯田線の豊川駅(豊川市豊川町仁保(にほ)通(どおり))から小坂井駅(豊川市小坂井町倉屋敷)邊りの南の段丘崖下の龍雲山三明寺(豊川市豊川町波(は)通(どおり))から菟足神社邊りまでを繋ぐ、地元で鎌倉街道と呼ばれる道を採り上げた。
 この段丘崖は繩文海進期の海岸線であり、段丘崖附近には、圓福原("en・huxkara"=突き出た・(集落の)背後の木原、あるいは、"wen・huxkara"=①悪い(役に立たない)、②険しい・(集落の)背後の木原)、牛久保("husko・bet・kus"=古い・川・通る)、常荒("tok・o・sap"=凸起物(堆積物等)が、そこで群をなして浜(河岸)へ競出(せりだ)している)、菟足("utari"=同朋)、さらに上流には、日下部("kusa・ka・bet"=舟で運ぶ・岸・川/豊川市豊津町の一部)などの繩文系地名が見受けられる。
 また段丘崖下の鎌倉街道と呼ばれた道附近には、いまは涸れてしまったが、私が知る限りでも、東から、三明寺の寶飯の聖泉、花井の井戸(豊川市花井町)、お瀧(同市中条町大道)、岸の洗濯川(同市牛久保町岸組)、辨天池(同市下長山町西道貝津)、清水弘法(同町岩下(いわした))、下長山の洗濯川(同町天王下、同町境、同町中屋敷の字境附近の南)、篠束の洗濯川(同市篠束町郷中)、五社稻荷の洗濯川(同市小坂井町欠山)と、清水が湧いていた。
 段丘崖下の道は、鎌倉時代には、豐川と度津を結ぶ道であったが、先史時代に遡る生活道路が、その起源だったのである。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録三「県道三一号線物語――古代から現代まで」の三つ目の見出し「律令時代における東三河平野部の官道と鎌倉街道」では、律令時代における東三河平野部の官道は、先史時代からの生活道のルートをなぞったものであること、律令時代の官道は、律令の世の官道は、官道ゆえ生活道路としての利便性は尠なく、特に國府周邊の官道は、恒久的な使用より、むしろ爲政者の權力誇示を優先したモニュメントとしての意味合いが强く、維持管理などもそもそも念頭になく、むろん利便性などもお構いなしに直線的な路線形状と廣い道幅にこだわって建設したことから、開通まもなくから荒廢し、代わって律令期以前の道が使われるようになったことを指摘した。
 その律令時代の三河國府周邊の官道を詠んだ歌に『萬葉集』卷三雜歌に收録された高市(たけちの)黒人(くろひと)(生没年不詳)が詠んだ題詞「高市黒人羇旅歌八首」の一首(歌番號二七六)がある。この歌に詠われた「三河なる二見の道」は、後の東海道と姫街道の追分邊りを詠ったものともいわれる。
 姫街道に面する豊川市役所の現在の住所表示は、豊川市諏訪一丁目になっているが、町名変更前は、豊川市牛久保町字二見塚であったし、市制施行以前は、寶飯郡牛久保町大字牛久保字二見塚であった(ただし後述するように、姫街道は律令時代の官道や京鎌倉往還の後繼道路ではない)。
 江戸時代の東海道と姫街道の追分(豊川市御油町行力)から、北東に七百区㍍ほどにある大寶山西明寺は、三河國司・大江定基(さだもと)(九六二~一〇三四)が出家した後の寛和年間(九八五~九八七)に、大寶山の麓に草庵を結び、夜毎天空を貫く六道の光明が現れたことから、「六(ろっ)光(こう)寺(じ)」と命名したのを始まりとすると傳える。當初は天臺宗の寺院であったが、鎌倉幕府第五代執権入道・北条時頼(一二二七~一二六三)が諸國巡歴の際に立ち寄った縁により、寺號を「六光寺」から最(さい)明(みょう)寺(じ)(時頼の出家後の名である最明寺道崇に由來)と改め、禪宗寺院となり、その後、家康の命によって西明寺に名を改めたという。
 この當初の寺號の「六光寺」であるが、元々地名であった可能性もある。日本語や韓国語は、語頭の流音(rやlの音)が脱落する特徴があり、語頭に流音が来る場合、漢語由來の言葉や、アイヌ語由來の言葉である確率が高い。知里真志保著『地名アイヌ語小辞典』を引いてみると、"ru・ukotpa・us・i"(道が・交合している・のが常である・所)という語がある。これに漢字を無理に當て、「六光寺」としたものと思われる。この先史時代の生活道路は、方や本野ヶ原の北の山際を東に向かい、方や三河灣方面に分岐していたと推測される。
 この六光寺が、倭譯され、二見の道となったのだろう。本宿、赤坂、御油と、西から東に入って來た律令時代の官道は、この先史時代の生活道を基に直線的に造られ、方や國府、國分寺、國分尼寺へのルート、方や御津といわれた後の御馬湊へと繋がっていたのだ。そして、御馬湊の先は、景勝二見浦(ふたみうら)(伊勢市二見町茶屋)から、伊勢の古市(ふるいち)街道の小田橋(おだばし)の追分(伊勢市尾上(おのえ)町)に續いていたのだろう。
 なお、姫街道は、入鐵砲出女の幕府の政策に沿ったものであり、吉田川を難なく渡るには、前期の京鎌倉往還のように、三渡野邊りで渡河すべきであるし、明石山脈も宇利峠(新城市中宇利曽根川南)越えの方が、本坂越えより、遙かに緩やかだ。



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