2017年10月09日

『牛窪考(増補改訂版)』概要のまとめ

 第一章から第五章は、牛窪という地名と、それ以前のトコサブという地名から、牛窪という地域の概要を説き起こしたものです。いずれの地名も縄文系の地名で、牛久保八幡社の実際の祭神も國津神であったと考えられます。
 本書タイトルを『牛久保考』ではなく、『牛窪考』としたのは、寶飯郡時代の牛久保町の大字牛久保は、北は現在の金屋西町、金屋橋町、諏訪町、代田町に及ぶ広い地域であり、現在の豊川市牛久保町とは比較にならないくらい広い地域だったからです。

 次に、拾遺一及びその補遺は、牛久保八幡社の祭礼「若葉祭」についての論考です。
 俗称「うなごうじ祭」は蛆虫との説は、全く根拠のない妄説であり、その淵源は、平田派の羽田野敬雄(一七九八~一八八二)にあったと思われます。
 また、「笹踊」の囃子方が寝転ぶ姿は、戦国時代に牧野氏が領民を城に招き、その振る舞い酒に酔った領民の帰路を再現したものといわれますが、戦国時代に不特定多数の者を城に招けば、間者が入る確率が高く、戦国の世を生き抜いた牧野氏がそんなことをするはずもありません。寶永の大地震の際、当時吉田藩を治めていた牧野氏が、先祖の故地・牛久保にも地震見舞の酒を振る舞ったことを、越権行為ゆえ、かつての領主を慮って、過去のこととして伝えたに過ぎません。
 次に、「若葉祭」を始め、豊川下流域で奉納される「笹踊」は、唐子衣装を着て、笠を冠った三人の踊り手が、胸に太鼓を着けて踊るという点のみが共通点で、踊りの振りについては千差万別。とても一ヶ所から伝播したものとは思えず、江戸時代、何度も招聘されていた朝鮮通信使の風俗の影響と考えられます。平板で発音される「ささおどり」という名称は、三人戯を意味する韓国・朝鮮語の「ses saram nori」が訛ったものと考えられます。
 次に、「隠れ太鼓」については、中世の鞨鼓(かっこ)稚児舞の伴奏に過ぎなかった太鼓の打ち手が唐子衣装に笠を冠ったことから、独立した芸能になったことを起源とするものと私は考えます。その「隠れ太鼓」が演ぜられる大山車(おおやま)は、中世の車樂(だんじり)の系譜を引くものです。
 また、「神兒(みこ)」についても、男児が巫女の格好をして舞う祭礼は、「若葉祭」のみならず、豊橋の鬼祭り、三谷(みや)祭など、東三河平野部では、ごくごくポピュラーなものです。加えて、神幸に随伴する獅子頭も、「若葉祭」に限ったものではなく、上記の豊橋の鬼祭り、三谷祭を始め、豊川下流域では比較的ポピュラーなものです。この獅子頭については、拾遺五で検証してありますが、猪犠を起源とするもので、巫女の格好をした男児も、鹿を供犠とする諏訪大社の「おこう」に類似したものだったと私は考えています。

 拾遺二は、戦国の世、武田信玄の家臣であった牛久保ゆかりの山本勘助についての論考です。一時は実在しない人物とまでいわれた勘助ですが、山鹿流の軍学者・松浦鎭信(まつらしげのぶ)(一六二二~一七〇三)が書いた『武功雜記』は勘助の実在を否定しておらず、このことから勘助の実在はごく簡単に証明されるのだと指摘しておきました。松浦鎭信は、牛久保の牧野康成(一五五五~一六一〇)の外孫になるからです。
 また、長谷寺(ちょうこくじ)(豊川市牛久保町八幡口)には、勘助の遺髪塚がありますが、勘助が亡くなった当時、長谷寺は現在の牛久保駅前にありました。遺髪塚は、勘助養家の大林家が、勘助元服の折に保管していた総角を、屋敷に埋めたのが起源と思われます。

 拾遺三は、拾遺二の勘助遺髪塚は養家の大林家の屋敷に埋められた総角が起源との私の説を証明するために、光輝庵(豊川市光輝町二丁目)が所蔵する牛久保城下の町割を描いた古地図の信憑性を検証したものです。
 まず、古地図に掲載された寺院を、その縁起等から検証して行きました。
 結果、地図自体は、江戸時代になってから描かれたと思われますが、地図に描かれた屋敷に榊原澁右衞門、眞木又次郎の名が見えることから、永祿八(一五六五)年から永祿一二(一五六九)年の牛久保の町割りを描いたものと推定されます。

 拾遺四は、光輝庵所蔵の古地図に描かれている善光庵についての論考です。この善光庵は、武田信玄(一五二一~一五七三)により牛久保が焼かれたときに焼失し、江戸時代になって再建されました。
 前半では、『牛窪記』の「善光寺池寶譽和尚結縁阿彌陀與助事」の善光寺如来と善光庵との関係を、後半では再建者の潮音道海について採り上げました。一般に潮音道海は『大成經』の偽作者といわれますが、偽作に最も関与していたのは、山鹿素行(一六二二~一六八五)。また善光庵の再建には、牧野成貞(一六三五~一七一二)が関わっていたと思われます。
 山鹿素行が関与する以前の『大成經』の原本は、土師氏=出雲臣の伝承が多く含まれていたと思われます。

 拾遺五は、四半世紀前に突如として顕れた、まるで都市伝説のような、小坂井の徐福伝説の成立過程を検証したものです。ありもしない徐福伝説が流布した一番の責任は、菟足神社に説明版を設置した当時の小坂井町教育委員会にあります。
 そもそも徐福の子孫が、自国を滅ぼした秦を名乗ることなどあり得ません。東三河の羽田野、波多野氏などの秦氏関連といわれる氏族は秀鄕後裔で、実際には土師氏とも近い関係にある日下部姓になります。
 長山熊野権現の徐氏古座侍郎の話は、長山熊野権現の神主で本姓唯宗の神保氏が、一七世紀末ごろに創作したものと考えられます。
 また、幡多の地名は渥美郡にあり、羽田村が有力とされていますが、羽田野敬雄辺りが痕跡を消し去ったと思われます。

 拾遺五補遺の前半では、秦氏を出自に持つともいわれる彈左衞門家についての論考です。側近を三河出身者で固めた家康。非人頭の車善七や、品川の非人頭の松右衞門も三河出身。一人・彈左衞門のみが、鎌倉由比ヶ濱の出身というのも、妙なものです。しかも彈左衞門家初代の存在さえも疑わしく、江戸時代以前に関東にいた痕跡すらありません。
 また、彈左衞門家が、関八州及びそれに隣接する地域のみならず、遠く離れた東三河の設樂郡の一部を支配地とするのもおかしな話です。
 豐川村には、信長の時代に廃寺になった東光寺がありました。この東光寺の信者が、牧野氏に従って武田との最前線に行き、さらに家康の関東移封に伴い、関東に進出したのが彈左衞門家と考えます。
 江戸時代の寺格が高くもない妙嚴寺が、豊川稲荷として全国区になるのも、大岡忠相(一六七七~一七五二)らとともに、彈左衞門の故地隠蔽に尽力したことが大きいと思われます。
 そして、被差別を考える上では、白山権現や東光寺以上に牛頭天王が重要である旨も指摘しました。
 後半は、秦氏とともに渡って来たといわれる、兵主神の眷属で河童のルーツの一つでもある「ひょうずべ」についての論考です。
 河童は相撲好きといわれ、本姓大枝の毛利氏が神主だった肥前の潮見神社では、「ヒョウスヘは約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原」との水難防止の呪文を伝えます。大枝氏、菅原氏ともに相撲の祖・野見宿禰の後裔になります。
 ただ、潮見神社の祭神は橘氏ですが、橘公業は伊豫橘氏ともいわれ、伊豫橘氏と関係が深い大山祇神(伊豫橘氏の本姓越智氏が奉じる)が降臨したという攝津國三島には、三島鴨神社(高槻市三島江)が鎮座し、近くには、野見宿禰の墓所と伝えられる地に建立された上宮天満宮(高槻市天神町)があります。
 大山祇神の娘の姉妹婚姻譚は、野見宿禰とも関係が深い丹波五姫の姉妹婚姻譚と通じるものがあります。また、三島神の東漸が、砥鹿神とも関係していることは、拙著『穂国幻史考』の第一話「『記紀』の成立と封印された穂国の実像」拾遺一「砥鹿神社考」第三章「彦狭島の東遷と日下部氏」の第四節「三島神の東遷と砥鹿神社」で指摘してあります。
 さらには、木地師の椀貸伝説と河童伝説の共通点から、葬送と関わっていた古着屋の話、さらには、兵主神とも関係する神農を祀る香具師の話から、火明命へと、『穂国幻史考』の第一話での検証と同一線上の話を展開しました。

 附録一でも、拾遺五補遺の後半と同様に、野見宿禰の考察から始めました。
 『日本書紀』の編纂には、漢字に通じていた百濟人が、関与しておりました。野見という氏名は、韓国・朝鮮語で「奴の」の意の「nom-wi」に由来するものと考えます。「記紀」の崇神――垂仁條での出雲の話は、元出雲ともいわれる丹波一宮・出雲大神宮を中心とする丹波での出来事というのが、『穂国幻史考』以来の私の考えですが、野見宿禰は出雲神寶献上事件で神寶の献上を拒否し、誅殺された出雲振根の後裔で、奴隷に落とされていたと考えられます。ゆえに殉死をやめ、埴輪を作ることを提言したと思われます。
 そして、丹波地方を中心とした地域に伝わる神事相撲の考察から、民俗としての相撲を考察し、さらに江戸の興行相撲に多大な影響を与えた相撲司の吉田追風家の実態をあぶり出し、弓術吉田流の吉田家との関係に言及しました。

 そして附録二は、寛保二(一七四二)年に会津の浪人・三坂五郎衞門春編(みさかごろうゑもんはるよし)(一七〇四~一七六五)が選した奇譚集『老嫗茶話(ろううさわ)』卷之三「女大力」に載る、池田照政(一五六五~一六一三)の妹・天球院の怪猫退治についての論考です。
『老嫗茶話』は、照政が吉田城主だったころの話としていますが、残念ながら吉田城での出来事ではありませんでした。
 吉田城の歴史は、一色城(豊川市牛久保町岸組)の牧野成時(?~一五〇六)が、城を築いたことに始まります。桶狭間の戦い(一五六〇年)までは、牛久保の出城のようなものでした。そんなことから、本書に収めました。

 最後の附録三は、彈左衞門の故地・豐川村矢作を横切る京鎌倉往還を、中世三大紀行文から、その行程を推測するとともに、律令時代、さらには、現在の県道三一号線も、同様のルートに近いものであることを検証したものです。
 京鎌倉往還では、宮路山中を進んでいますが、これは軍用道路の側面からと思われます。持統三河行幸は、東三河の制圧を目的としたものでしたが、宮路山に陣を敷き、持統軍を迎え討ち、持統の目論見を見事に砕きました。宮路山中を通ることにより、これを避けることが出来ます。ゆえに、京鎌倉往還は、宮路山中をルートに組み入れたと考えられます。
 なお、律令時代の官道は、実用性はなく、無用の長物であり、完成間もなくから荒廃しました。結局、古代からの生活道路が、多くの人々の足となりました。

 以上が、『牛窪考(増補改訂版)』収録の各論での主張です。

 最初に述べたように、『牛窪考(増補改訂版)』の概要を説明したものです。『牛窪考(増補改訂版)』を二割弱に圧縮してあります。
 当然、論証などは省いてあります。興味を持った方は是非『牛窪考(増補版)』をお手に取って下さい。
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/atabis/newpage5.html

 加えて置けば、『穂国幻史考』以来いっていることですが、私はアブラハムの宗教といわれる一神教の世界観が大嫌いです。便宜上、元号と西暦を使いましたが、キリストの生誕に基づく西暦を使うことには抵抗があります。
 同じように、中華思想や孔孟思想も大嫌いです。むしろ孔孟より「吾將曳尾於塗中」とする老荘思想が、そして杜甫(七一二~七七〇)より李白(七〇一~七六二)が断然好きです。ですから、元号を使うことにも抵抗があります。
 元号や西暦でなく、「主権在民」を謳う現行憲法が施行された昭和二二(一九四七)年をもって日本国元年とすべきと私は考えています。

  日本国七一年一〇月吉日

                                 穗國宮嶋鄕常左府にて


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Posted by 柴田晴廣 at 12:13│Comments(0)牛窪考(増補版)
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