2021年03月24日

天皇とはなにか

 昨日、安定的な皇位継承策を議論する有識者会議の初会合が行われた。
 私の天皇に対するスタンスは、このWeb-logを読まれている方は、おおよそわかっていらっしゃると思うが、一応、書いておこう。
 私の立場は、美濃國守護で婆娑羅大名の土岐頼遠(?~1342)や、高師直(?~1351)に近い。
 『太平記』卷二三の「土岐頼遠參合御幸致狼籍事付雲客下車事」は、康永元(1342)年、笠懸の歸りに遭遇した光嚴(1313~1364)が乘る牛車に對して、「「何ニ院ト云フカ 犬ト云カ 犬ナラバ射テ落サン」ト云儘二 御車ヲ眞中二取籠テ馬ヲ懸寄セテ 追物射二コソ射タリケリ」と記す。また『太平記』卷二六の「妙吉侍者言付秦始皇帝事」は、「若王ナクテ叶マジキ道理アラバ 以木造ルカ 以金鑄ルカシテ 生タル院 國王ヲバ何方ヘモ皆流シ捨テ奉ラバヤト云シ言ノ淺猿サヨ」と記している。『太平記』の高師直がいうように、王なんて言うものは、クニにとって必要不可欠なものではない。
 諸行無常が、このクニの文化の根底の一つだ。『平家物語』の「祇園精舎の鐘の聲 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす おごれるものも久しからず ただ春の夜の夢のごとし たけき者も遂にはほろびぬ ひとえに風の前の塵に同じ」と述べるように、天皇家も平家と何ら変わらぬものなのだ。
 前記有識者会議では、女性宮家の創設等を検討するそうだが、そもそも天皇とは、天壌無窮の神敕・不改常典に基づく。女性宮家の創設など論外の話だ。
 また旧宮家の皇籍復歸も検討されるそうだが、白河院政期(1086~1129)に成立したといわれる『大鏡』を読めば、これも笑止。
 陽成(869~949)の譲位で皇位を巡る論爭が起きた際、嵯峨(786~842)の息子(陽成の曾祖父の仁明(810~850)の弟))の源融(822~895)が皇位に就ける者ならここにもいるとばかりに、「いかがは 近き皇胤をたづねば 融らも侍る」と自ら手を擧げた譚が記されている。ここで待ったを掛けたのが藤原基經(836~891)。基經曰く、「皇胤なれど 姓給て ただ人にて仕えて 位に就きたる例あるや」、すなわち、臣籍降下し、姓を持った者が卽位した例はないと異議を申し立てる。源融は天皇の子だ。
 もっとも融は、前例があって手を擧げたのだ。
 鎌倉時代初期に成立されたといわれる『水鏡』には、吉備眞備(695~775)は、穪德(718~770)の死後の皇位繼承爭いの際、臣籍降下し、姓をもっていた天武(631?~686)の孫(長親王(?~715)の子)の文室淨三(693~770)及び文室大市(704~780)を推したとされる。
 もっとも姓をもって卽位した者がいないわけではない。
 陽成の後に卽位した光孝(830~887)の子・宇多(867~931)と、その子の醍醐(885~930)である。
 宇多は、定省王として生を受けるが、臣籍降下して源朝臣定省となり、皇籍復歸し、卽位している。その子の醍醐は、源朝臣維城として生を受け、父・宇多の卽位に伴い、皇籍に列し、後に醍醐として卽位している。
 この生まれながら姓をもって卽位した醍醐について、眞言僧・日藏(905?~967?)が著したと傳わる『日藏夢記』は、菅原道眞(845~903)を陷れた罪、宇多に背いた罪などを理由に、地獄へ落とされた旨を記している。『日藏夢記』の地獄に落ちたという記述もあってか、醍醐以降に姓を持っていた者が、卽位した例はない。
 ちなみに、豫言詩『野馬臺詩』は、「東海姫氏國 百世代天工」で始まる。また二十四史の一つ『隋書』卷八一列傳四六東夷の俀國條にも、「俀王姓阿毎字多利思比孤 號阿輩雞彌」とある。
 つまり、「記紀」が成立した時代に、天皇は姓を棄てたのだ。その理由は「易姓革命」から逃れるためである。


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