2022年01月08日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明5(補遺一2)

 既述のように、「うなごうじ=蛆蟲説」が文獻に初めて記されるのが、牛久保の人・柴田踏葉氏が、雜誌『鄕土趣味』大正十三年六月號(通號第五十四號)に寄稿した『三河うながうじ祭』及び『鄕土趣味』を主宰する田中緑紅が同號で著した『うながうじ祭雜話』である。
 その柴田踏葉氏は、『三河うながうじ祭』で、「實際長蛇のような神幸の行列が長時間に亙つてゆつくり練り歩く樣子といひ、殊に行列の殿を承つてゐるやんやうがみ(八百神)が轉ぶ樣子等は少々尾籠な事ではあるが、便所等にゐる彼の蛆を髣髴たるものがある」と記し、續けて「俗にいふ此のうながうじ祭は極めて珍奇なもので全國にもあまり類例の尠ない祭である」とも記している。
 この「うながうじ祭は極めて珍奇なもの」としつつも、「全國にもあまり類例の尠ない祭である」との書き振りは、實をいえば、「笹踊」の囃子方が地面に寢轉ぶ祭りは、『若葉祭』に限ったものではないと柴田踏葉氏も認識していたと思われるからだ。
 柴田踏葉氏が、『三河うながうじ祭』で、「然し此の祭の起因由來は今日何物も考證するものが無いので具體的に一々説明することは不可能である幸ひ諒せられよ」と綴るのも、地面に寢轉ぶ集團がいる祭りは、『若葉祭』に限ったものではないとの事實を踏まえてのものと考えられる。
 それを檢證したのが、二つ目の小見出し「田中緑紅主宰『鄕土趣味』の功罪」の項である。
 その『若葉祭』以外で、「笹踊」の囃子方が地面に寢轉ぶ祭りは、大木進雄神社(豊川市大木町山ノ奥)と、式内石座神社(新城市大宮字狐塚)の祭禮である。ただ、二箇所とも、「笹踊」の囃子方がいつから地面に寢轉ぶようになったかは定かではない。だが、この二箇所の祭禮が「うなごうじ祭」と呼ばれることはない。つまり、「笹踊」の囃子方が地面に寢轉ぶことをもって「うなごうじ祭」の呼稱が附いたとは考えられないのだ。
「笹踊」の囃子方ではないが、柴田踏葉氏が『三河うながうじ祭』を寄稿する以前から、地面に寢轉ぶ集團がいた祭禮がある。しかも、「笹踊」を奉納する祭禮である。それが引馬神社(豊川市御津町御馬字梅田)の祭禮で、寢轉ぶ集團は、トウフ(一般にいう一本柱万度のこと)を奉持する係だ。この係の者は、かつては野溜めもあったであろう水を張った田に寢轉び、轉げまわる。この祭りも御馬のうなごうじ祭と呼ばれることはない。
 雜誌『鄕土趣味』通號第五十六號(大正十四年四月二十日發行)には、この御馬の祭禮について記した『三河引馬神社の奇祭』が載る。著者は、岡崎市在住の稻垣豆人である。
 ところが、筆者の稻垣豆人は、同稿で、「三河寶飯郡内引馬神社の奇祭を耳にしたから茲に發表して、研究家の參考資料に供する次第である、遺憾なるは未だ其實際を見聞せざる事である」と書き出している。つまり稻垣は實際に引馬神社の祭禮を見學して、同稿を執筆したわけではないのだ。
 日本民俗學最初の採集記録といわれる柳田國男(一八七五~一九六二)が著作者となっている『後狩詞記』(一九〇九年刊)は、同書で柳田が述べるように「この本は現在むやみに景氣がいいが、實は又私の著書では無く、日向の椎葉村の村長の口授を書寫、それに或舊家の獵の傳書を添えて、やや長い序文だけを私が書いたもの」であるし、柳田を世に知らしめた『遠野物語』(一九一〇年刊)も、岩手縣上閉伊郡土淵村(現遠野市土淵)出身の佐々木喜(き)善(ぜん)(一八八六~一九三三)が語った話を、柳田が筆記編集したに過ぎない。
 日本民俗學自體がフィールドワークによるものではなく、各地の研究者から柳田のもとに送られて來た資料を、編集したに過ぎないのである。
 それに倣って、稻垣豆人も誰かがフィールドワークして、書いたレポートを上梓したに過ぎないのである。では、そのレポートは誰が書いたのか。
『鄕土趣味』通號第五十六號の口繪を飾る、「三河國引馬神社祭禮の一行」のタイトルのついた寫眞は、柴田踏葉氏が撮影したものだ。引馬神社の祭禮に足を運び、レポートを書き、稻垣豆人に渡したのは、柴田踏葉氏に違いない。ところが、柴田踏葉氏の期待に反し、上梓された『三河引馬神社の奇祭』の紙面の多くは、地面に寢轉がるトウフの係員ではなく、「七福神踊」に割かれていた。
 推測になるが、なぜに柴田踏葉氏が、引馬神社の祭禮の樣子のレポートを記したかといえば、雜誌『鄕土趣味』大正十三年六月號(通號五十四號)に寄稿した『三河うながうじ祭』への反響が思ったほどなかったからだろう。
 たとえば、『東三河道中記』(一九三五年發行)の著者・豐田珍彦は、『鄕土趣味』の正會員であるが、豐田は、同書で、「その行列の殿りを承るやんよう神が泥の中をも構はず寢たり起きたりする樣は實に奇觀です。これは笹踊のはやし方で、その轉ぶ樣がうなごうじ(うじ虫)に似てゐるから付けられた名です」と、柴田踏葉氏が、『鄕土趣味』に寄稿した『三河うながうじ祭』を読んだとは思えない、いい加減な書き振りだ。『鄕土趣味』の正會員で、地元の人ともいえる豐田でさえ、このありさまなのである。
 では、なぜ稻垣豆人にレポートを渡したのか。これも推測になるが、稻垣豆人の顔の廣さへの期待からだっただろう。
 繰り返しになるが、柴田踏葉氏の期待は裏切られた。
『三河引馬神社の奇祭』の基となるレポートを書いたのが、柴田踏葉氏だとしても、柴田踏葉氏が『三河うながうじ祭』を執筆する前から引馬神社の祭禮でトウフの係員が寢轉ぶのを知っていたかという問題がある。
 結論としては、柴田踏葉氏は知っていたと考えられるが、それを詳述に檢證するとともに、稻垣豆人が興味を示した「七福神踊」についても、詳細に言及した。
 この「七福神踊」は、「七福神踊」とはいっても、辯才天の代わりに白狐が加わり、毘沙門天あるいは壽老人を缺くというもので、御馬のほか、蒲郡市の三谷、竹島、清(せい)田(た)、竹谷、形原で奉納される(かつては蒲郡市の東大塚でも行われていた)。
 なぜに辯才天の代わりに白狐が加わり、毘沙門天あるいは壽老人を缺くのかという點について、本地埀迹説を驅使して説明した。「うなごうじ=蛆蟲説」からは外れたものであるが、「七福神踊」についてのまとまった論考がないだけに、有用なものと自負している。



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Posted by 柴田晴廣 at 08:14│Comments(0)牛窪考(増補版)
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