2022年02月15日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明13(補遺三4)

 尾張のからくり山車で、からくり人形を操作し、その妙技を魅せるのは、晝間に限られ、夜間は山車全體が提燈で飾られる。絲操りなどの間接操法や離れからくりなどの遠隔操法では、夜間は手元が暗く、人形を操れないからである。一方、「隱れ太鼓」は夜晝關係なく、演ぜられる。三河二宮・池鯉鮒(ちりふ)大明神で、西暦の偶数年に開催される本祭の山車文樂も、間接操法や遠隔操法でないため、夜晝の別なく演ぜられる。
 ところが、田原祭では、その祭車は、名古屋型であるにもかかわらず、山車全體が提燈で飾られることはない。外觀が名古屋型に似、からくり人形も載っている、二川八幡社の祭禮の祭車も同樣だ。
 また尾張のからくり山車では、晝間に提燈が飾られることはないが(鳴海八幡宮(名古屋市緑区鳴海町前之輪)及び成海神社(名古屋市緑区鳴海町乙子山)の祭禮という例外はあるが)、田原祭の名古屋型山車及び二川八幡社の祭禮の祭車では、晝間でもその軒先に提燈を飾っている。もちろん、燈(あかり)が點(とも)されているわけではないが。
 池鯉鮒大明神の本祭に曳行される、名古屋型の影響を受けた知立型山車も、晝間から軒先に提燈が飾られている。
「若葉祭」、風祭の大山車も、晝間からその軒先などに提燈が飾られ、「若葉祭」の神兒(みこ)車、囃子車、国府、御油、赤坂の御子(みこ)車及び囃子車、竹島辯才天(蒲郡市竹島町)の祭禮の囃子車、前芝神明社(豊橋市前芝町西)の囃子車、新城富永神社(新城市宮ノ後)の例大祭の山車及び底拔屋臺などにも軒先などに提燈を飾る。
 この晝間からその軒先などに提燈を飾る風習は、東三河のみならず、遠州にも及び、掛塚祭(貴船神社(磐田市掛塚)の祭禮)、濱松祭の御殿屋臺、掛川大祭や森の祭りの二輪屋臺でも晝間から提燈を飾る。
「笹踊」の囃子方が持つ笹に吊るした提燈についてではあるが、生(しょう)田(だ)小平次著『東三河に於ける御神事笹踊』は、「笹踊といふ名稱はその警護(囃方)が、長さ六、七尺の笹附の男竹十二本に(閏年には十三本)各白張提灯一張づヽを吊したのを持ち、又或る神社では、長さ三間餘もある笹附竹に、御神燈と記した白張提灯を吊したもの一對を、行列の先に立てて進む(中略)この笹竹に神が降り玉ふと考へられ、提灯の光はその神靈のゴコウであり、神のシンボルと見らるヽものである」と、記す。つまり大山車や神兒車、御子車は、より依代としての性格を强くし、囃子車も依代の性格を帶びることになる。

 余談になるが、舊東海道沿いの国府(こう)、御油、赤坂の計十二輛の祭車は、唐破風屋根に轅(ながえ)と軛(くびき)が附き、唐庇車のような外觀である。唐庇車は、軸(よこがみ)の兩端に家紋のモチーフになっている源氏車を附け、その軸(よこがみ)の上に唐破風の屋形(人が乘る箱體)を載せた二輪の車である。ところが、国府、御油、赤坂の計十二輛の祭車は、唐破風の屋形の前方下に小振りの車輪が附いている。
 一般に、三輪の祭車は、国指定重要無形民俗文化財の大津祭の曳山や、この地方だと、新城富永神社(新城市宮ノ後)例大祭の山車のように、前方の一輪は、軸(じく)の中央に車輪が附いた軸(よこがみ)の兩端が轅で支えられ、その前方の一輪は、轅と軛、それに屋形に狹まれた空間に收まる。
 つまり国府、御油、赤坂の計十二輛の祭車の屋形の下に取り附けられた「補助輪」は、二輪の祭車に後から附けられと推測され、それが国府、御油、赤坂のスタンダードな祭車になったのだ。
 国府、御油、赤坂で、スタンダードになる前の補助輪のない祭車が、遠州にある。菊川市の廣嚴城山潮海寺(菊川市潮海寺/高野山真言宗)の祇園祭の屋臺や秋葉山下社の麓・春野町犬居地区の祭(浜松市天竜区春野町堀之内鎭座熱田神社の祭禮に二輛、同町領家鎭座の六所神社の祭禮に一輛、同町気田鎭座の南宮神社祭禮に一輛)の計五輛の屋臺だ(赤坂、御油及び国府の三輪の祭車は、腰が幾分高い春野のものより潮海寺のプロポーションに似る)。
 唐庇車は、御所車とも呼ばれるが、遠州で御所車型屋臺といえば、掛川大祭や森の祭りで曳かれる祭車をいい、屋形の屋根は唐破風ではなく、陸屋根で、その陸屋根の上に人形を飾る。
 なぜに陸屋根の上に人形を飾った二輪屋臺を御所車型と呼ぶのだろうか。
 方言分布の解釋の原則假説の一つに方言周圈説がある。この言説は、方言の語や音などの要素が文化的中心地から同心圓状に分布する場合、外側にあるより古い形から内側にあるより新しい形へ順次變化したと推定するものである。
 菊川市潮海寺や浜松市天竜区春野町犬居地区は、御所車型と呼ばれる陸屋根の二輪屋臺の中心地である掛川や森の外側にある。方言周圈説が援用出來るならば、唐庇車型の屋臺が、陸屋根の御所車型と呼ばれる屋臺のプロトタイプということになる。陸屋根の二輪屋臺を御所車型と呼んでいることに鑑みれば、方言周圈説を援用出來るだろう。
 では、なぜに掛川や森のプロトタイプの二輪屋臺が、遠く離れた豊川市の国府、御油、赤坂の祭禮で曳かれるのであろうか。
 国府、御油、赤坂の唐庇車樣の祭車で、最も古いものは、宮(みや)道(ぢ)天神社(豊川市赤坂町宮(みや)路(ぢ))の雨乞い祭で関川地区が曳く御子(みこ)車で、文化年間(一八〇四~一八一八)の建造である。それより尠し前の寛政一二(一八〇〇)年には、三河國の天領を支配していた赤坂陣屋が遠州中泉陣屋(磐田市中泉)の配下となり、中泉陣屋赤坂出張陣屋に格下げになっている。
 赤坂陣屋が中泉陣屋の配下になったことにより、掛川や森で曳かれていた古いタイプの二輪屋臺が、遠州から赤坂に流入し、雨乞い祭で曳かれるようになったのだろう。
 これを裏附ける事柄はほかにもある。
 御油神社(豊川市御油町膳ノ棚)の祭禮で、新丁が緑色と赤色の獅子頭を冠った二人立ちの獅子舞を奉納する。この獅子舞、元々は三人立ちだったと推測される。というのは、奉納はされていないものの、隣の大(おお)社(やしろ)神社(豊川市国府町流霞)の臨時祭に、同社の拝殿に新丁が奉納する獅子舞の獅子頭と同樣の獅子頭が三面飾られているからだ(面の内譯は、緑色の面が一面、赤色の面が二面)。
 緑色の獅子頭(雌獅子)一、赤色の獅子頭(雄獅子)二の三人立ちの獅子舞といえば、三匹獅子舞が思い浮かぶ。三匹獅子舞は、關東を中心に分布する民俗藝能で、太平洋側の西限は、掛川大祭で、瓦町が奉納する「かんからまち」である。新丁の獅子舞は、この「かんからまち」が、傳わったと推測される。これも赤坂陣屋が中泉陣屋の配下になったことが影響したのだろう。
 このように、国府、御油、赤坂の三輪の祭車は、遠州から流入し、それが獨自に進化したと考えられる。
 これとは反對に、遠州の掛塚型屋臺は、東三河の大山車の影響がみられる。東三河の大山車は、屋根の上に人形を飾るため、二層部分の天井の一部が外れ、屋根に登ることが出來る。ところが、屋根の上に人形を飾らないにもかかわらず、掛塚型の屋臺も同樣の構造になっているからだ。
 また濱松祭の御殿屋臺も、「菓子に、大工に、寺のきりしま」と牛久保の過ぎたるものの一つに擧げられた三河大工の筆(ふで)頭(がしら)・岡田家・當主の五左衞門が昭和五(一九三〇)年に濱松八幡宮(浜松市中区八幡町)を造營した折に、鎭座地の八幡町と、その東隣の野口町の二輛の屋臺を造ったのが始まりだ。
 岡田家初代・太郎左衞門(一五四八~一六三六)は、家康から長篠城、濱松城の造營を命じられ、慶長一二(一六〇七)年には、駿府城築城で工匠を務め、同一五(一六一〇)年には、名古屋城築城で、安土城を築いた岡部又右衞門以言(もちとき)(生没年不詳)の孫・岡部又兵衞宗光らとともに造營に携わった。
 また、豐川稻荷の舊本殿(現奥の院)の造營の棟梁は、岡田家八代目當主・久米三郎之昌(一七七一~一八三七)が務めたが、その彫刻は、幕末の左甚五郎と賞賛された立川(たてかわ)和四郎富昌(一七八二~一八五六)の手になる。信州諏訪の立川和四郎富昌が東海地方に進出したきっかけは、岡田家八代當主・久米三郎之昌とともに仕事をしたことにある。知多半島の三河灣側の半田を中心に分布する知多型といわれる山車は、諏訪立川流の彫刻を、その特徴として强調するが、知多型は成立には科だけの影響があったと推測される。

 既述のように、尾張の山車からくりは、夜に演じられることはない。これは採光によるものだ。その採光との關係で、屋根が小振りである。直射日光を避けつつ、手元が暗くなるのを防ぐためである。
 これも既に述べたことだが、尾張のからくり人形が演ぜられる山車の中で、名古屋型といわれるものは、一層部分が上下に分かれており、下部に囃子方が、上部に人形の操り手が乘る。
 尾張でからくり人形が演ぜられる山車は、この名古屋型のように、外觀二層であるが、『帝都物語外伝 機関童子』の作中人物・慶間泰子が、からくり人形に興味を持つきっかけとなった犬山祭で曳かれる車山は、外觀も三層である。犬山祭では、離れからくりのからくり人形を載せる山車も多く、離れからくりでは、胴串を使うことから、高さが必要になるからだ。
 名古屋型の山車の二層部分の前方は一段下がっており、ここに前人形が載り、この一段下がった部分を前棚という。
 東海道五十三次三十九番目の宿場・池鯉鮒宿に鎭座する池鯉鮒大明神の祭禮に曳かれる山車で、人形淨瑠璃が演ぜられるのは、三人遣いが始まった十三年後の延享四(一七四七)年のことだ。人形淨瑠璃を演ずるため、前棚を下げ、ここに太夫と三味線彈きが乘り、正面下段から引出舞臺を出して文樂人形を操る。この前棚を下げた構造を前戸屋という。この前戸屋を有するタイプの山車を知立型という。
 知多型の濫觴である国指定重要無形民俗文化財の潮干祭(神前神社(半田市亀崎町二丁目)の祭禮)の宮本車では、人形淨瑠璃による三番叟が演ぜられる(宮本車の舊車は、文化一〇(一八一三)年建造)。人形淨瑠璃による三番叟が演ずるのは、知立の影響だろう。知立型が、知多半島の三河灣側で、獨自に進化し、前戸屋が前山へと變わり、やがて知多型という、獨自のスタイルが誕生する。
 擧母(擧母藩の藩廳が置かれた豊田市の中心街)で、子供歌舞伎を演じていた舞臺も、知立型の前戸屋が獨自に進化したものであるし、足助(豊田市足助町)の山車で、屋根が附いた出役棚と呼ばれる構造も前戸屋が變化したものだ。
 尾張のからくり山車は、濃尾平野に名古屋型から進化した幾つかのタイプが分布する。濃尾平野の外縁に當る飛騨高山にもからくり山車はある。だが、高山祭の屋臺の濫觴となる神樂臺は、そのモチーフから、天下祭の諫鼓鷄の吹貫の山車の影響とみることが出來るし、京都祇園祭の山鉾のように、見返り幕を懸裝するものもある。元祿五(一六九二)年に、飛騨は天領となり、高山に陣屋が置かれ、律令時代の飛騨は、庸及び調を免じる代りに、木工寮などの官工房の木工労務者として、京都に出向いていた。江戸、京都の影響は、こうした時代的な背景がある。
 現在、春の高山祭(日枝神社(高山市城山)の祭禮)では、三輛の屋臺で、秋の高山祭(櫻山八幡宮(高山市桜町)の祭禮)では、一輛の屋臺のみで、からくりを演じるが、かつては春の高山祭では、十輛、秋の高山祭では四輛の屋臺でからくりが演じられていた。確かに高山祭の屋臺で、からくり人形を演じるようになったのは、尾張の影響であろう。だが高山祭の屋臺の屋根が小振りなのは、からくり人形を演じた結果の收(しゅう)斂(れん)進化といえよう。
 高山祭の屋臺の上層部も昇降可能になっている。名古屋東照宮の祭禮で曳かれた山車は、名古屋城の城門を潛るため、二層部分が昇降可能になっており、名古屋東照宮の祭禮で曳かれた名古屋型山車の影響を受け、城門を潛らない犬山型、知立型等でも、上層部が昇降可能になっている。だがしかし、天下祭で曳かれていた鉾臺型の山車も江戸城の城門を潛るため、上層部が昇降可能となっていた。高山祭の屋臺の上層部が昇降可能となっているのも、一概に名古屋型の影響とみることは出來ない。
 いままで、からくり山車という用語を使って來たが、からくり山車は、からくり人形による舞踊屋臺ともいえるが、人形に息吹が吹き込まれ、魂が宿り、人形が動くことから、山車と考えられたのだろう。
 からくり人形が載っているとはいえ、三谷祭の惠比壽山車は、尾張のからくり山車に分類されるものではない。もちろん豊川下流域の大山車もだ。


タグ :天下祭鉾臺

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