2022年02月16日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明14(補遺三5)

 尾張には、からくり山車が出現する以前から、熱田神宮の攝社・南新宮社の祭禮で曳かれた大山といわれる幾層にも櫓を組み、各櫓には松を飾り、最上部に社を置いた曳山や、屋根が附いた二層の山車で、屋根の上には松と人形を飾り、二層部分で藝能を演じ、その囃子方も二層部分に乘る車樂(だんじり)と呼ばれる曳山があった(津島天王祭では車樂は曳山ではなく、舟であり、大山も車樂舟と同様に舟であった)。
 京都祇園祭の長刀鉾などの曳山タイプの鉾は、土臺の部分から屋根を貫いているのに對し、車樂の屋根の上に飾られた松は曳山タイプの鉾の象徴の鉾のように、土臺の部分から屋根を貫いているわけではない。
 この京都祇園祭の長刀鉾には、生き稚兒が乘り、生き稚兒は、神事始めの「吉(きっ)符(ぷ)入(いり)」に、会所二階で腹に小さな鞨鼓を附けて「太平の舞」を披露する。かつては長刀鉾のみならず、どの鉾(船(ふね)鉾(ぼこ)及び傘鉾を除く)にも生き稚兒が乘っていた。現在では、代わりに人形を載せているが、この人形の腹にも鞨鼓が附いている。
 津島天王社の車樂舟には、尸(より)童(まし)としての一人の稚兒が乘り、囃子を奏でるのみであるが、かつては二・三人の稚兒が、腹に鞨鼓を附け、八撥という稚兒による舞樂を奉納していたという。その名殘で現在も稚兒は撥を手に持ち、撥を首の後ろでクロスさせている。車樂も京都祇園祭の鉾の流れを受け繼ぐものといえる。
 尾張一宮・眞(ま)清(すみ)田(だ)神社(一宮市真清田一丁目)の「桃花祭」の車樂や春日井市内(うつ)津(つ)町上町に鎭座する式内内々(うつつ)神社の車樂(御舞臺ともいう)は、その車上で、獅子頭の代わりに扇を載せて舞う「扇獅子」を演じていた。眞清田神社の車樂は二輛一對、内々神社は、一輛のみが殘るが、元は二輛一對であった。熱田神宮の攝社・南新宮社の祭禮でも、大山一輛に對し、小山(車樂)二輛という構成であった。二輛一對という點では、京都祇園祭の鉾以上に、標山の古風を繼いでいるといえる。
 二層部分で「隱れ太鼓」という視覺に訴える藝能を演ずる豊川下流域の大山車は、京都祇園祭の「鉾」を發展させ、室町時代に出現した尾張の「車樂」の系譜に屬するものだ。ゆえに『三河國吉田領風俗問状答』では、城内天王社の大山車を車樂(だんじり)と明記している。
 中で、内々神社の車樂は、「若葉祭」の上若組大山車と似たポロポーションであるが、建造されたのが、上若組大山車が天保七(一八三六)年、内々神社の車樂が天保八(一八三七)年と建造年代が近いこと、内々神社の車樂の建造に諏訪立川流の立川和四郎富昌が携わっていることから、内々神社の車樂の建造には、岡田五左衞門が建造に係っていたからかもしれない。
 参考までに、四日市空襲で燒けてしまったが、名古屋の外縁に當る四日市諏訪栄町鎭座の諏訪神社の祭禮でも、四輛の大山が曳かれていた。
 風祭では、「隱れ太鼓」とともに、二人の鞨鼓稚兒が舞を舞う。
『三河國吉田領風俗問状答』は、吉田の祇園の車樂の上で、「獅子二人十二三歳の小供なり。赤地金襴の狩衣の如きものに指貫の如きものを着て 獅子頭を頭に戴き居 大太鼓をうつ時にいさゝか身を動かすなり 又ちこといふもの二人 子供なり千早衣の如きものに指貫を着 天冠なとといふへき物を冠り 小太鼓をうつをりに舞ふなり 獅子の舞に多く異ならす大太鼓をうつものはかへりて此ちこよりは種々の形をしつゝうつ事なり 其さま其拍子舞樂に類すともいふへし」と、稚兒舞や獅子舞が行われていた旨を記す。
 また同書は、「大太鼓をうつものゝ形は凡サヽ踊りに類す 小太鼓は常の服なり」とも記す。
 豊川下流域の大山車(車樂)は、尾張の車樂を受け繼ぎ、車上で、笠を冠り、唐子衣裝を着た者が大太鼓を叩くという趣向を採り入れたものといえる。そして、それが「隱れ太鼓」を演じるに適したように、獨自に進化したのだろう。

 繰り返しになるが、豊川下流域の大山車(車樂)は、尾張の車樂を受け繼ぎ、獨自に進化したものと思われる。
 いつから、どのような形で、獨自に進化したかを整理しておこう。

 東三河で、最初に尾張の車樂の流れを繼ぐ祭車が登場するのは、吉田の祇園である。
 廣田弘著『東三河における祇園信仰と神事芸能』が引く「吉田神社誌」の記述がそれである。その記述によれば、織田信長(一五三四~一五八二)の重臣・池田恒興(一五三六~一五八四)の次男・池田照政(一五六五~一六一三)が吉田城の城主であった時代(一五九〇~一六〇一)に、車樂二輛が造られた旨を記す。池田照正の時代か否かはともかく、東三河に中世尾張の車樂が最初に登場するのは、城内天王の祇園祭だったのだろう。
 次に吉田で、車樂が確認出來るのは、『東三河における祇園信仰と神事芸能』が引用する「吉田神社誌」の「筒花火は元来、両車上に於てのみ之を放ち、其大なるものなかりしが、元禄中、本町糀屋金兵衛の弟、小倉彦兵衛皮羽織を着して之を為すといふ」との記載である。「吉田神社誌」の「筒花火」が「放」たれた「両車」は、車樂のことであり、元祿年中(一六八八~一七〇四)に車樂があったことが確認出來る。『三河國吉田領風俗問状答』によれば、吉田で「笹踊」が始められるのは、小笠原氏が、吉田城主であった、正保二(一六四五)年七月から、元祿一〇(一六九七)年の間である。
「吉田神社誌」の記載からは、時代は百年餘下るが、文化一四(一八一七)年成立の『三河國吉田領風俗問状答』に、車樂の車上で、大太鼓の叩き手が、「笹踊」の踊り手と同樣に、笠を冠り、目から下を赤布で隱し、唐子衣裝を着ている旨及び稚兒舞や獅子舞が行われていた旨を記す。
 前後するが、それより十年ほど前の文化三(一八一六)年ごろに成立した、山本貞晨(一七七五?~一八二一/吉田宿と吉田川(江戸時代の豊川(とよがわ)の呼稱)を挾んだ對岸の寶飯郡下(しも)地(ぢ)村(豊橋市下地町)の住人)著『三河國吉田名蹤綜録』の繪圖に描かれた上車(吉田宿表町十二町の一つ上傳馬が擔當した車樂)の屋根の上には、「天」の字の形に提燈が飾られ、下車(吉田宿表町十二町の一つ札木が擔當した車樂)の屋根の上には、「王」の字の形に提燈が飾らている。尠し後の時代に奉納された『祇園祭圖繪馬』では、下車の提燈は鳥居の形に變わっている。その繪圖に描かれた車樂の姿から、「隱れ太鼓」が演ぜられる大山車と同型のものが城内天王の祇園祭で停め置かれ、曳行されていたことが確認出來る。その城内天王の車樂は、吉田藩の公金で維持管理されており、廢藩置縣とともに行き方知れずとなる。

 城内天王の祇園祭の車樂の屋根の上に飾られた提燈との關聯になるが、豐川天王社の祭禮の宵祭には、西の大山車の二層部分の前方の二本の柱にそれぞれ十数個の白張提燈を附けた笹竹を結び附けている。また東の大山車は、二層部分の柱ではなく、屋根の中央から白張提燈を附けた笹竹を立てている。東の大山車の屋根の上の提燈は、城内天王の車樂の影響だろう。
 城内天王の車樂の影響が見られる豐川天王社の大山車であるが、松山雅要(まさとし)(一九四四~二〇一三)著『豊川夏祭り山車のルーツ』(「東愛知新聞」一九八九年七月九日付寄稿)は、「西山(山車)は現在の豊川市市田町の伊知多神社から譲り受けたものである」と記す。吉田と市田は、漢字での誤寫は考えられないが、假名(かな)(特に變體假名)で書いてあれば、あるいは誤寫の可能性もなくはない。たとえば「吉田」が「与志多」と表記してあり、最初の文字「与」が擦れていたなどの場合には、「伊知多」と讀み違える場合もあり得るだろう(「志」と「知」については書き手の崩し方により判別が難しいときも多い)。
 また「隱れ太鼓」は、「笹踊」とセットで行われるが、伊知多神社では、「隱れ太鼓」も「笹踊」も行われていた痕跡もない。
 以上を鑑みれば、豐川天王社の西の大山車は、伊知多神社(豊川市市田町宮田)から讓り受けたものではなく、城内天王の車樂を讓り受けたと考えるのが妥當と思われる。形態が同様の東の大山車も城内天王の中古の車樂を買い受けたのだろう。買い受けた時期は、豐川村で大山車を買う餘裕と維持する餘裕が出來る豐川稻荷が全國區になり、寺域の規模が擴大し、村が潤う寶暦(一七五一~一七六三)ごろ以降、より具體的には、豐川天王社で、「笹踊」を始めた寶暦末以降のことと思われる。
 城内天王の中古の車樂を購入した影響からか、神幸の際の車樂(大山車)が停め置かれる位置、曳行されていたと推測されるルートも、城内天王の祇園祭と似る。

 繰り返しになるが、城内天王の祇園祭の車樂が停め置かれる位置及び推定される曳行ルートと豐川天王社のそれは似る。同様に、「若葉祭」と風祭の神幸の際の大山車が停め置かれる位置及び曳行ルートは似る。
 その風祭と大山車が停め置かれる位置及び曳行ルートが似る「若葉祭」の上若組大山車の通し柱の一層部分に、「天保七年申四月吉日」の識語(二〇一七年度の文化庁国庫補助金事業により、通し柱を含む大山車の土臺部分は造り替えられた)がある。
 上若組の大山車は天保七(一八三六)年に建造されているが、上若組が「隱れ太鼓」で使っている太鼓の胴には、「奉上車太鼓安永九歳 庚子夏祭日 外若子町 陶山傳十郎由重」の銘が刻まれている。安永九(一七八〇)年に、上若組を構成する外若子町の陶山傳十郎由重が太鼓を寄進したわけだ。この上若組の太鼓の銘により、上若組は天保七年以前より、大山車上で「隱れ太鼓」を演じていたと推測される。
 西若組の大山車は、文政一二(一八二九)年に再興したと傳えられる。「再興」とは廢れていたものを再び盛んにすることをいう。この辞書的な解釈からすれば、一旦廢されていた大山車を再び建造したという意味になる。
 大山車は二輛一對である。西若組も文政一二年以前から、「隱れ太鼓」を演じており、それを演じる舞臺の大山車を所有していたと考えられる。つまり、西若組は、安永九年から文政一二年の間のある期間、大山車を所有していなかった期間があることから、文政一二年に再興したと傳えているのだ。
 この安永九年から文政一二年の間のある期間、大山車を所有していなかった理由は何か。
 私は、以下で述べるように、禁令であったと考えている。
「若葉祭」の神幸の道中では、各組が衝き廻しを行い、衝き廻しを行った場所では、神兒組は神兒舞を、笹若組は「笹踊」を奉納する。
 ここに衝き廻しとは、幟や提燈屋形に對し、「若葉祭」でダシと呼ぶ、馬印樣の立物を埀直に立て、獨樂のように廻すことをいう。
 禁令が出されたとすれば、代官所からであるが神幸の道中には、代官所跡の立て札も立っている。
 大山車を有する上若組も西若組も、この代官所跡の立て札の前で衝き廻しを行わない。ところが、笹若組は、代官所跡の立て札の前で、衝き廻しを行い、「武運長久御役所も榮えろ 御役所も榮えろ」の歌とともに、「笹踊」を奉納する。ちなみに、神兒組は、この代官所跡前で、衝き廻しを行わないし、神兒舞も奉納しない。
 神兒組の神兒車は、天保七年に再興したと傳わる。神兒組も代官所跡前で、衝き廻しを行わないことを考慮すれば、大山車のみならず、神兒車も禁令の對象になっていたと考えられるのである。というより、後に説明するように、神兒車が直接の禁令の對象であり、大山車は、その煽りで、禁令の對象に含まれたと考えられるのである。
 餘談になるが、代官所跡の立て札の前で、衝き廻しを行い、「笹踊」を奉納する笹若組は、禁令の對象にならなかったれゆえ、その自負が驕りに變わり、補遺一で説明した、大正一〇年の紛擾事件の一因となったのだろう。


タグ :車樂神兒

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