2022年02月18日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明16(補遺三7)

『三河國吉田領風俗問状答』の記述から、城内天王の祇園祭の車樂上には、笠を冠り、目から下を赤布で隱し、唐子衣裝を着た大太鼓の叩き手が乘っていたことがわかる。その大太鼓の叩き手は、稚兒舞の伴奏者でもあった。風祭の神幸の折には、「隱れ太鼓」とともに、鞨鼓稚兒が舞を舞う。
 豐川天王社の祭禮の宵祭では、「隱れ太鼓」は演ぜられず、合掌という曲に合わせ、女兒が御幣を擔ぎ、巫女舞を舞い還御の行列を迎える。
「若葉祭」の大山車上では、「隱れ太鼓」のみが行われ、稚兒舞等が行われることはない。これも、尸童(よりまし)としての性格が强い神兒が乘る神兒車があったから、お山車上で稚兒舞等を舞う必要がなかったからだろう。「若葉祭」では、大太鼓の叩き手が、稚兒舞の伴奏者から解放されていたことが、「隱れ太鼓」の確立に役立ったと思われる。私が、大太鼓の叩き手に、「笹踊」と同樣の衣裝を着させたのは、吉田であろうが、「隱れ太鼓」を確立したのは「若葉祭」と考えるのは以上からだ。

 既述のように、「若葉祭」の神兒は、男兒が巫女の格好をしている。この巫女の格好をした男兒の神兒について、『鄕土趣味』主宰・田中緑紅(一八九一~一九六九)は、同誌大正十三年六月號に寄稿した『うながうじ祭雜話』で、「東三河一圓の風である」と述べている。
 田中緑紅が「東三河一圓の風である」と述べるように、御油及び赤坂では御子(みこ)、三谷祭では神子(みこ)、国指定無形民俗文化財の「豊橋の鬼祭り」では、神樂(かぐら)兒(こ)、二川八幡社の祭禮では、字は異なるが、神樂(かぐら)子(こ)と呼ぶ、巫女の格好をした男兒が、以上のほか、風祭や上長山若宮八幡社の祭禮でも、巫女の格好をした男兒が、舞を舞う。「豊橋の鬼祭り」の神樂兒については、『三河國吉田領風俗問状答』にも記されている。
 三谷祭の神子は、からくりの惠比壽人形が載る、西新屋の惠比壽山車に乘る(神子が惠比壽山車上で舞うことはなく、舞は八劔神社と、お旅所の若宮神社の廣前のみで奉納する)。
 三谷では、その惠比壽山車は、寛政七(一七九五)年建造と傳えるが、寛政七年は、建造した年ではなく、購入した年だろう。
 その理由を述べて行こう。
 第一に道路事情を無視して海に入らなければ、お旅所まで行けないような山車を造ることはあり得ないからだ。海の危險を知る三谷ではなおさらだ。
 次に惠比壽山車は、大正五(一九一六)年に、高欄彫刻と車體部を殘しての大改造されたのだが、その高欄に施された、鳩と菊花が透かし彫りの彫刻が擧げられる。八劔神社と鳩や菊花との關聯は思い浮かばないし、西新屋には、吹上神明社(蒲郡市三谷町須田)が鎭座するが、こことの關聯も考えられないからだ。
 ここからは、惠比壽山車が三谷で造られたものではないことの傍證になるが、惠比壽山車に懸裝される、内陣幕(一般に水引幕といわれるものだが、柱の内側に張られる點で水引幕と異なる)が擧げられる。この内陣幕は、紫の縮緬に桐紋が白拔きされているが、八劔神社の神紋は、熱田神宮と同じ、桐笹で、桐紋ではないからである。
 惠比壽山車の大改造を手掛けたのは、牛久保の井桁屋(豊川市牛久保町常盤の現㈲花田工務店)の棟梁・花田彌市だ。
『牛窪密談記』の「若葉祭」の起源を説く記述に「牧野古白入道 或歳四月八日此若宮ヘ參詣アリシニ 其ノ主今川氏ノ許ヨリ使節到來シテ曰 當國渥美郡馬見塚村ノ邊ニテ要害ノ地理ヲ見立 一城ヲ築クヘシト 命令承リテ大ニ悦ヒ (中略)取リアヘス庭前ノ柏葉ニテ神酒ヲ獻シ 其身モ快ク三獻ヲ傾ケヌ 猶喜ビノ餘リ 家紋ノ菊桐ヲ柏葉ニ替ヘヌルハ此所以ナリト」と、牧野家の元々の家紋は、菊桐であった旨が示されている。惠比壽山車の高欄の鳩と菊花の彫刻の菊や内陣幕の桐紋は牧野氏ゆかりのモチーフだ。加えて「若葉祭」は牛久保八幡社の例祭であるが、八幡神の使いは鳩である。
 實際、「若葉祭」で使われる祭具には、これらのモチーフが使われている。
 たとえば上若組の大山車の破風には白鳩の彫刻が施されているし、その腰幕は、右に桐紋、左に菊花紋、「隱れ太鼓」の稚兒が冠る笠も菊花と桐紋の金具があしらわれている。輿興車になるが上若組の囃子車の天幕(一般にいう水引幕)は、惠比壽山車と同じ、紫縮緬に白拔きの桐紋だ。そして牛久保の井桁屋は、上若組の構成町内の内若子にある。
 西若組の大山車の腰幕にも、牧野家ゆかりの桐紋が施されている。
 屋根の上に惠比壽人形が載るという共通點等を考慮すれば、惠比壽山車は、上若組の大山車を購入し、海に入れるように改造したのだろう。
 ここで、大山車と三谷祭の山車の構造上の相違點について記せば、三谷祭の山車の二層部分は昇降可能ではなく、通し柱で、二階の天井と屋根の一部が取り外せ、屋根裏から屋根に登れるようになっている點で共通する。異なるのは、前面に山車柱が附き、二層部分の柱が丸柱、車輪が内輪、楫棒が進行方向に對し、埀直方向に取り附けてある點だ。楫棒が進行方向に對し、埀直方向に取り附けてあるのは、車輪の一つが海底の窪みに嵌まり込んだときに、嵌まり込んだ車輪を浮かせ易くするためだろう。地勢の影響によるのなのだ。
 このように大山車と三谷祭の山車は共通點が多い。
 惠比壽山車の内陣幕については、既に記したように、紫縮緬に白拔きの桐紋であるが、他の三輛=昭和一〇(一九三五)年建造の上ヶ嶋の劍山車、大正一〇(一九二一)年建造の中屋敷の三蓋傘山車、明治二六(一八九三)年建造の中濱の花山車の内陣幕は、全て紫縮緬に菊花紋と桐紋が白拔きされている。
 昭和一〇(一九三五)年建造の上ヶ嶋の劍山車、大正一〇(一九二一)年建造の中屋敷の三蓋傘山車を建造した大工は、惠比壽山車を大改造した花田彌市の子・嘉親だ。
 上ヶ嶋の劍山車の舊車の柱は、丸柱ではなく、角柱で、文政二(一八一九)年の建造と傳えられる。文政二年は、三谷で建造された年ではなく、上ヶ嶋が神兒車の舊車を購入した年だろう。惠比壽山車と同樣に、海に入らなければお旅所まで行けないような山車を造ることはあり得ないからだ。
 上ヶ嶋の劍山車について、竹内尚武著『三谷祭(後編)』は、「転売する際には、塗ってあった金箔を全て落とし、つぶしにした。そしてさらにもうけたという。金箔はそれほどに厚く塗られていた」と記してある。金箔を厚く塗るということはあり得ないから、高蒔繪などで、金粉をふんだんに使っていたのだろう。劍山車の舊車は、それほど豪華なものだったわけだ。
 神兒車を所有する神兒組の町内裏町には、隱居所としてではあるが、江戸日本橋富澤町で質商を營む大黒屋(伊東家)が、住んでいた。大黒屋の財力からすれば、豪華な神兒車を造ることは極々容易なことだ。山車柱附きの山車の原型も、尸童としての性格が現在よりも强かった神兒が乘る神兒車の舊車にあったのだろう。
 おそらくこの神兒車の豪華さが禁令の遠因になったと推測する。
 文政二(一八一九)年、豪華な山車柱附きの神兒車の舊車を三谷の上ヶ嶋に賈却したことにより、禁令は解除されたと考えられる。その五年後の文政七(一八二四)年には、上若組を構成する「外若子、内若子の兩組が江戸より囃子の師匠を招き町内の若衆に教えた」という記録が殘る。江戸の囃子の師匠は、藝能一般に通じ、曲作りにも長けた者なのだろう。これが人形振りの「隱れ太鼓」の誕生に繋がったのだろう
 一度整理すれば、禁令が出された時期は、上若組が大山車の舊々車を三谷の上ヶ嶋に賈却した寛政七(一七九五)年以降、神兒組が神兒舞を始めたと傳えられる寛政一二(一八〇〇)年以前と考えられる。上若組が大山車の舊車を天保七(一八三六)年まで手放さなかったのは、禁令が出された時期と、禁令の直接の對象は、神兒車であり、大山車ではないとの認識があったからだろう。

 ここで、上若組を構成する「外若子、内若子の兩組が江戸より囃子の師匠を招き町内の若衆に教えた」という文政七(一八二四)年の直近の出來事について見てみよう。
 荒俣宏は、落語『駱駝の葬禮』と、「若葉祭」の人形振りの「隱れ太鼓」と關聯があると考えていたようだが、「看々踊」の流行は、文政三(一八二〇)年の春、大坂あみだ池の荒木(あらき)與(よ)次(じ)兵衞(べゑ)座で唐人に扮した踊り手が「看々踊」を踊ったことがきっかけになり、「看々踊」の流行とともに「九連環」の替え唄も盛んに作られ、文政五(一八二二)年二月には、江戸町奉行から禁令が發せられる騷ぎにまで發展した。
 一方、『駱駝の葬禮』の駱駝であるが、大坂で「看々踊」が上演された翌年の文政四(一八二一)年に和蘭陀から將軍家齋(一七七三~一八四一)に駱駝が獻上されたが、家齋が、駱駝の受け取りを拒否し、駱駝は見世物小屋に出され、しかも、駱駝の見世物には、唐人の格好をし、チャルメラなどを吹く囃子方が附隨したことも多かったようだ。
 突然、話は人形淨瑠璃に飛ぶが、元祿一四(一七〇一)年の松の廊下刃傷事件の直後にこの事件を題材に近松門左衞門(一六五三~一七二五)の手による『東山(ひがしやま)榮(えい)華(がの)舞(ぶ)臺(たい)』が大坂道頓堀の竹本座で上演されているし、赤穗藩淺野家浪人が吉良邸に討ち入った元祿一五年一二月一四日から年明け間もない一月には、京都早雲座で近松作の『傾城(けいせい)三(みつ)の車(くるま)』が、上演される。
「看々踊」の流行の直後に、唐人踊りや見世物小屋の駱駝を取り入れた、人形淨瑠璃や歌舞伎狂言が上演されたこともあっただろう。
 落語『天川屋義平』は、『假名手本忠臣藏』第十段(天川屋見世の場)を基にした演目であるが、逆に『怪異(かい)談(だん)牡丹(ぼたん)燈(どう)籠(ろう)』は、初代三遊亭圓(えん)朝(ちょう)(一八三九~一九〇〇)が、明代の怪異小説集『剪(せん)燈(とう)新(しん)話(わ)』(瞿宗吉(生没年不詳)著)に收録された逸話を飜案し、口演した『牡丹(ぼたん)燈(どう)籠(ろう)』が元である。
 落語もまた人形淨瑠璃や歌舞伎狂言と同樣に、時代を反映していた。初代三笑亭(さんしょうてい)可(か)樂(らく)(一七七七?~一八三三)が、觀客から「人物」「物」「場所」の三つのお題を頂戴し、皍興で演じた、「三題噺」がそれだ。
「若葉祭」の「隱れ太鼓」は、欄干から身を現し、欄干に身を隱すまで、張子の虎のように、絶えず首を支點に頭を左右に振るといった仕草が特徴だ。この張子の虎、文政五(一八二二)年、大坂でコレラが流行し、當時、コレラに、「虎狼痢(コロウリ)」「虎狼(コロウ)狸(リ)」「虎列(コレ)刺(リ)」の字を當てていたことなどから、藥種仲間が多くいた大阪道(ど)修(しょう)町(まち)(大阪市中央区道修町)で、コレラに效くとされた虎の頭骨など十種類の和漢藥を配合した「虎(こ)頭(とう)殺(さっ)鬼雄(きう)黄圓(おうえん)」という丸藥を調合し、罹患者に施すとともに、丸藥の名前に因み、張子の虎を配布したことから、廣く知られるようになったという。
 こうした時代の流れの中で、文政七(一八二四)年、「外若子、内若子の兩組が江戸より囃子の師匠を招き町内の若衆に教えた」のである。
 同じ文政七年には、初代坂東しうか(一八一三~一八五五)が初代坂東玉三郎の名で市村座の舞臺を踏んでいる。そのとき玉三郎は唐子の所作を務めたという。唐子の所作とは、唐子の仕方(しかた)舞(まい)のことで、仕方舞とは、身振りや手眞似で表現する舞あるいは物眞似の所作を交えた舞をいう。
 以上の説明で、充分だと思うが、これで、「若葉祭」の人形振りの「隱れ太鼓」誕生の舞臺が整ったのである。



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