2022年03月02日

『穂国幻史考(増補新版)』の手引き12(第一話拾遺四~あとがき)

『穂国幻史考(増補新版)』第一話「「記紀の成立と封印された穂国の実像」拾遺四「人麻呂考」は、梅原猛(一九二五~二〇一九)が、『水底の歌――柿本人麿論』で、主張した、柿本人麻呂(生没年不詳)は、持統(六四五~七〇三)から文武(六八三~七〇七)という祖母から孫への皇位繼承に異を唱えたことが原因で、刑死したとの説に疑問を呈した論考である。
 その理由を擧げれば、人麻呂は、文武四(七〇〇)年四月に死亡した明日香皇女(?~七〇〇)の挽歌(『萬葉集』卷二收録歌番號一九六、題詞「明日香皇女木殯宮之時柿本人麻呂作歌一首)を詠んでいることだ。
 文武が皍位するのは、文武元(六九七)年八月甲子朔(一日)である。それから三年近く經って挽歌を詠んでいる。現在でいえば、死刑囚が國葬に參列し、弔辞、それも挽歌であるから長い弔辞を述べたようなものだ。實際、大津皇子(六六三~六八六)は、謀反發覺の翌日に死を賜っている。梅原の言説には頷きかねる。
 梅原は、人麻呂が刑死するのは、和銅元(七〇八)年四月壬午(二〇日)とするが、直近の出來事を『續日本紀』から拾って見ると、卷三景雲四(七〇七)年六月辛巳(一五日)條の文武の死、それに伴う卷四景雲四年七月丙申朔壬子(一七日)條の元明の皍位が最大の出來事として擧げられる。
 しかも、僞書『續日本紀』は、卷四の元明皍位前紀で、「慶雲三(七〇六)年一一月、文武は病に罹り、母(元明)に皇位を讓る氣になった」旨を記するが、文武が病氣に罹ったとする卷三慶雲三年一一月條には、文武の病氣については何の記述もない。
 地文(『續日本記』卷三)に進行形のかたちで書くのではなく、皍位前紀(『續日本紀』卷四)といういわば注釋で、皇位繼承の理由が記述されていることになる。
 地文で記すなら、進行形のかたちで書き進めねばならない。前紀という特記事項に載せれば、それは經緯の「要約」だけを記せば濟む。詳細を書けずに要約しか書けない。これが公式に死罪に出來なかった理由だろう。
 元明は、文武の母として皍位する。子から母への讓位、こんなものがまかりとおれば、聖武(七〇一~七五六)からその母・藤原宮子(?~七五四)へという讓位もあり得ることになる。人麻呂はこれに異を唱え、死罪になったのだろう。
 柿本氏の本姓は、和邇臣であり、和邇氏は、若狹を本貫とする海人である。人麻呂の死も、海人の歴史の抹殺の一貫だったのだろう。

『穂国幻史考(増補新版)』第一話「「記紀の成立と封印された穂国の実像」の「エピローグ」では、天皇に對する敬語のおかしさ(韓国・朝鮮語と同じ絶対敬語)を指摘し、主権在民を徹底するためには、主権在民を謳う現行憲法が施行された一九四七(昭和二二)年をもって、日本国元年とすべき旨を記すとともに、『穂国幻史考(増補新版)』第一話「「記紀の成立と封印された穂国の実像」「あとがき」では、『穂国幻史考(増補新版)』第一話「「記紀の成立と封印された穂国の実像」の総括をし、主権在民を謳う現行憲法が施行された一九四七(昭和二二)年をもって、日本国元年とする紀年を記すとともに、「穗國宮嶋鄕常左府にて 理證晴連居士」と署名した。「穗國宮嶋鄕常左府」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」第一章から第五章で説明したように、現在の豊川市牛久保町附近を、「理證晴連居士」の「理證」は、私の信念ないし信条、「晴連居士」は、私の諱の晴廣と、酒仙・李白(七〇一~七六二)が名乘っていた青蓮居士にあやかったものである。



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