2022年03月05日

『穂国幻史考(増補新版)』の手引き13(第二話はしがき~第三章)

『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」は、外祖父の冨永境(さかい)(一八九六~一九九四)から聞いた冨永家にまつわる話を中心にまとめたものである。
「はしがき」では、私がこの話を聞いた経緯を述べ、私に託した境の人となりについて触れるとともに、境から聞いた話をなぜにまとめようと思ったかについて記した。
 ここで、なぜに境から聞いた話をまとめようかと思ったかについては、奇しくも境の葬儀が終わった後の会食の折、地(ぢ)類(るい)の者を含め、私が境から聞いた話を誰も知らなかったことを知ったからである。

 第一章「野田城主富永氏」では、境の住む長瀬(豊橋市長瀬町)の冨永は、(新城市野田)の殿樣であったが、あるとき御家騷動が起き、これに乘じて他家に乘っ取られ、城主の近親者は首を刎ねられ、この故事を後世に傳えるため、その後裔は「ヽ」のない冨永を名乘るようになったという、境の話を檢證したものである。
 外祖父・境から聞いた傳承では、冨永家が長瀬に移住したのは、豊川(とよがわ)(當時の呼稱は飽海川)が現在の流路になり、長瀬邊りが文字どおり長い瀬を形成したころだという。豊川(とよがわ)がいまの流路になり、長瀬附近で長い瀬を形成したのは、明應七(一四九八)年八月二五日辰の刻に起きた東海沖大地震による。
 このころの野田の動靜を調べると、永正二(一五〇五)年、富永千若丸が夭逝し、後を繼ぐものがおらず、田(だ)峯(みね)城主(北設楽郡設楽町田峯)菅沼定忠(さだただ)(生没年不詳)の三男・當時十三歳の竹千代(?~一五四七)を迎えた、との出來事があった。
 ところが、竹千代は、富永を名乘らず、元服後は、菅沼新八郎定則を名乘る。また定則の後裔の菅沼定實(さだざね)(一六二九~一六九一)は、故地新城に七千石の領地を賜るが、菅沼家菩提寺の幸雲山宗堅(そうけん)寺(じ)(新城市的場/曹洞宗)の位牌堂に、富永家累代諸靈の位牌が祀られている。富永家の位牌が祀られている理由は、菅沼家に若くして亡くなる者が多いからだという。つまり、菅沼定則は平和裡に富永家に迎えられたのではなく、祖父・境のいうように、菅沼家が乘っ取ったゆえ、その祟りで、菅沼家に若くして亡くなる者が多く、富永の靈の鎭魂のために位牌を祀ったと考えるのが、自然だろう。
 富永家が野田の城主となるのは、設樂郡の在地豪族の富永直鄕(なおさと)(生没年不詳)が、足利高氏(一三〇五~一三六八)の擧兵入洛に從い、野田館垣内城(新城市豊島(とよしま)字千歳野)に入ってからだ。
 境の話によれば、それ以前は、式内石座(いわくら)神社(新城市大宮狐塚)の神主だったという。
 石座神社は、その名のとおり、神體は、雁峯山中の石座石(新城市須(す)長(なが)字高畔(たかあぜ))で、持統三河行幸の翌年の大寶三(七〇三)年創建と傳えられる。本來の祭神は、天火明命であった。

 その冨永という苗字であるが、境の話では、『古事記』中卷の最初に記される神武東征の件(くだり)に登場する「登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)」の「登美那賀(とみなが)」に由來するという。『日本書紀』卷三では、長髓彦の名で登場する。
 神武東征は、『日本書紀』の編年によれば、紀元前六六七年の出來事になる。ところが、『日本書紀』卷三は、李淳風(六〇二~六七〇)が編纂した儀鳳暦が用いられている。神武の東征は、儀鳳暦が影も形もないころの逸話であるのに、なぜか儀鳳暦を用いて記されている。三笠宮崇仁(たかひと)(一九一五~二〇一六)でさえ、神武の皍位は神話であって史實ではないといっている。とはいえ、神武東征の記載は、河内湖あるいは河内灣が存在していたころの地形を前提としている。つまり、その地形を舞臺とした何らかの資料が存在し、それを基に編纂されたと考えられる。
 また『日本書紀』卷三の著述が始められるのが、慶雲四(七〇七)年以降。その二年後の和銅二(七〇九)年い蝦夷征伐が行われる。神武東征には、蝦夷征伐が投影されているといえよう。神武東征では、長髓彦を始め、手足が長い身體的特徴をその名とする者が多く現れるが、これは寒冷地適用を受けていない古モンゴロイドの特徴であり、繩文人や蝦夷は、古モンゴロイドに屬する。
 先に述べたように、富永氏が神主を務めたという石座神社は磐座を神體とする。最古の神社の形態を傳えるといわれる、大神(おおみわ)神社(桜井市三輪)は、三輪山を神體とする。外祖父・境が冨永(富永)の苗字の由來になったとする長髓彦を、「記紀」という虚構の世界では神武東征以前の三輪山附近を本據とする豪族として描く。三輪山は「記紀」が編纂された當時の都があった奈良盆地の信仰の中心で、三輪明神は、後に大和一宮となる。境から聞かされた冨永にまつわる始祖傳承もこういった事柄が前提になり、石座神社の神主だった時代に、心証が形成され、傳承へと昇華したのであろう。

 その神武東征であるが、「記紀」の記述を精査すれば、その出發點は對馬だと考えるのが妥當である。神武は、「記紀」の系譜の上では、天孫ニニギの曾孫とされているが、『古事記』は、天孫ニニギが天降った竺(ちく)紫(し)の高千穗の久志布流多氣(くしふるたけ)を「韓國(からくに)に向かい合い、笠沙にもまっすぐに往け、朝日が直(ただ)刺(さ)し、夕日が照る國である」旨を記す。ニニギが天降った韓國に向かい合う國は、對馬であるとの傍證になろう。この記述と關聯するであろう記載が、『日本書紀』卷三にある。神武が、「私の先祖が、この國に來たとき、この國は、未開であった」と述べる記載だ。神武の先祖はどこから來たのであろう。それを示すのが、神武の父のウガヤフキアエズという名だ。ウガヤフキアエズのウガヤとは、現在の大韓民國の大邱廣域市の南・慶尚北道高(コ)靈(リョ)郡大伽耶邑(二〇一五年以前は高(コ)靈(リョ)邑)を指し、高靈は古代には上(ウェ)加耶(ガヤ)と呼ばれていた。
 持統及び元明は、神武を初代の天皇、つまり、自らの始祖と意識している。持統及び元明は、皇位繼承の根據を天智に求める。神武には、天智が投影されているのだろう。
 韓半島との繋がりは、持統と元明が、もう一人の始祖と意識する、崇神の諱からも察することが出來る。崇神の諱を、『日本書紀』卷五は御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)とし、『古事記』中卷崇神條は御眞木(みまき)入(いり)日子(ひこ)印(いに)惠(え)と記す。このミマキイリヒコイニエは、任(みま)那(な)(當時の韓半島南部の國)から來た人という意味だといわれる。すなわち、「記紀」は、崇神は任那から來た人物だといっているに等しい。任那は、内官家(うちつみやけ)(日本の直轄地の意味)とも呼ばれ、五六二年、新羅に滅ぼされるまでは日本府が置かれていた。持統や元明の父・天智も、韓半島南部に出自を持っていた。ゆえに乙巳の變について記す『日本書紀』卷二四皇極四年六月丁酉朔甲辰(八日)條では、古人大兄皇子(?~六四五)が發した言葉として、天智は韓人と載せているのだ。

 神武と崇神の間の八人の天皇(闕史八代)の『古事記』の記述では、磯城縣主葉江の娘あるいは姉妹を娶った旨が記される。葉江は、一人の人物ではなく、世襲名のようなもので、闕史八代の天皇の系譜は、磯城縣主の娘婿を男系で繋ぎ直したに過ぎない。
 また『日本書紀』卷三神武二年二月甲辰朔乙巳(二日)條は、磯城縣主の名を黒速とするが、「速(haya)」は、音韻の變化によって「葉江(haye)」へと容易に變わる關係にある。
 ちなみに黒(くろ)南風(はえ)とは、梅雨期に吹く南(みなみ)風(かぜ)をいう。葉江=南風(はえ)は、海の彼方からやって來る神と考えられていたのだ。
 磯城縣主は、三輪山の大物主神を祀っていたと考えられるが、大物主神もまた海照らしやって來る神なのである。
『日本書紀』卷五崇神七年二月丁丑朔辛卯(一五日)條は、「大(おお)田(た)田(た)根子(ねこ)に大物主神を祀らせれば、鎭まるだろうとの神託を受けた」旨を書き記す。大田田根子が大物主神の正統な祭祀者ということだ。結論からいえば、大田田根子は磯城縣主の系譜に連なる者ということになる。

 野田館垣内城主だった富永氏について、『姓氏家系大辭典』は、本姓を三河大伴氏とし、遠祖を幡豆・八名兩郡司の大伴常盛とし、大伴常盛を景行帝皇子倭宿禰の裔とするとの見解を示している。景行帝皇子倭宿禰は、『先代舊事本紀』卷七「天皇本紀」に名が載り、「天皇本紀」景行六〇年條に、「倭宿禰三川大伴部直祖」と記される。この三河大伴氏について、『日本書紀』卷二五大化二(六四六)年三月辛巳(一九日)條は、「三河大伴直等が恭順の意を示した」旨を記載する。大化二年三月辛巳の時點では、三河大伴直は、王權に恭順していなかったことになる。
 大伴常盛は、幡豆・八名の兩郡司であったとされるが、『三河國内神名帳』には、「八名郡坐正四位下大伴明神」が載る。「國内神名帳」に載る、大伴明神は、明治四一(一九〇八)年一月二六日、賀茂神社(豊橋市賀茂町神山)に合祀された(合祀される前の鎭座地は豊橋市賀茂町字御(ご)灯田(とうでん))。
 賀茂神社の神域には、六世紀ごろに築かれた直径二八㍍、高さ三㍍半の圓墳・神山古墳が殘る。かつては神山古墳のみならず、附近には前方後圓墳の辯天塚古墳、埴輪が出土した大塚古墳など幾つかの古墳が點在した。これらの古墳は、三河大伴直の墳墓だったのだろう。というのは、賀茂神社は、「國内神名帳」に載るわけでもない、新しい社だからだ。大伴明神は、賀茂神社に合祀される前は、御燈田に鎭座したと傳わるが、元々、賀茂神社の地にあり、竹尾氏が賀茂神社を勸請したことに伴い、御燈田に遷されたと考えられるからだ。

 既述のように、三河大伴氏の祖は、幡豆・八名兩郡司の大伴常盛であるが、三河富永氏は、その娘の子・伴員助を、その遠祖とし、員助――清助(幡豆郡司)――正助(幡豆郡司)――依助(八名郡司)――光兼(海道總追捕使)――助重(幡豆郡司)――助高(參河半國追捕使 八名・設樂郡領主)――助兼(設樂大夫)――親兼(富永六郎大夫)――俊實(富永介)の系圖が殘る。そして、俊實の子の資時が設樂氏の祖、その弟の資隆が富永氏の祖となる。系圖上は助高の時代に設樂郡と關係を持つが、石座神社の神主だったとの境の話からいえば、古くから、設樂と關係があったのだろう。
「記紀」が編纂された時代、蝦夷の跋扈した東北地方には、前九年の役(一〇五六~一〇六三)で滅ぼされた安倍氏の裔を稱する秋田氏を始め、長髓彦の兄・安日彦に出自を求める系圖が傳わる。いわゆる「安日傳承」といわれるものだ。「安日伝承」を傳える系圖の中で、確認される最古の系圖『藤崎系圖』が成立するのは、永正三(一五〇六)年、奇しくも野田館垣内城主・富永久兼の子・千若丸夭逝の翌年である。

『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」の第一章から第三章は、以上を踏まえて読んで頂ければ、理解の一助になると思う。



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