2022年03月11日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明20(拾遺五補遺1)

 徐福の子孫が秦氏を名乘ることなどあり得ず、日本列島に徐福が渡って來た可能性など、百パーセントないと斷言していいが、秦氏自體については、太秦(うずまさ)の蜂岡山廣(はちおかさんこう)隆(りゅう)寺(じ)(京都市右京区太秦)、伏見稻荷大社(京都市伏見区深草藪(ふかくさやぶ)之(の)内(うち)町(ちょう))、松尾(まつのお)大社(京都市西京区嵐(あらし)山(やま)宮(みや)町(ちょう))等の建立にかかわり、信仰のみならず、技術、藝術など、古代から日本列島に大きな影響を輿えて來た。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」では、そんな秦氏についての論考であり、前半の「非農耕民と秦氏――東三河を中心に」では、『彈左衞門由緒書』で、秦氏を祖とする、關八州穢多頭・彈左衞門家は東三河出身であることの證明、後半の「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」では、潮見神社(佐賀県武雄市橘町大字永島)に傳わる蚩(し)尤(ゆう)の眷屬ひょうすべの傳承を考察するとともに、秦氏が傳えたといわれる蚩尤は神農氏の子孫といわれるが、その神農を祀る露天商の正しい実態を論じ、人口に膾炙した誤った露天商についての言説を質した論考である。

 彈左衞門家は、關八州の穢多・非人のみならず、役者などの藝能者も支配していたが、役者については、寶永五(一七〇八)年、房州で興行の準備をしていた、京都の絡繰(からくり)師・小林新助と彈左衞門家の手代が、その支配を巡り、トラブルになり、小林新助が訴えを起こして、勝訴し、彈左衞門の支配から脱する。
 この一件を目にして、彈左衞門支配からの脱出を試みて、町奉行に提訴したのが江戸淺草溜(あさくさだめ)の非(ひ)人(にん)頭(がしら)車(くるま)善(ぜん)七(しち)だ。
 天保一〇(一八三七)年、町奉行の求めに應じて提出した『淺草非人頭車千代松由緒書』には、「先祖善七儀は 三州あつみ村出生ニて 乍恐御入國之砌 淺草大川端邊に 小屋補理相煩罷在候處 慶長十三申年中 町奉行米津官兵衞樣 土屋權右衞門樣 御勤役之節 非人頭被仰附」とあり、車家は、家康が關東に移封された天正一八(一五九〇)年に、淺草大川端邊りに住し、慶長一三(一六〇八)年に非人頭に任命されたことがわかる。
「三州あつみ村」という村はないが、舊渥美郡内の植(うえ)田(た)には、車(くるま)神社(豊橋市植田町字八尻/田(た)原(はら)街道(国道二五九号線の前身)と梅田川(二級河川)が交わる邊り)が鎭座し、この車神社から梅田川を一㌔ほど上流に遡った對岸邊り(現豊橋市立芦原小学校附近/野(の)依(より)街道と梅田川が交わる邊り)はかつて渥美郡高(たか)師(し)村字車(くるま)と呼ばれていた。
 江戸には車善七のほか、品川の松右衞門、深川の善三郎、代々木の久兵衞の三人の非人頭がおり、車善七が江戸の非人を總括し、品川の松右衞門がそれに次いだ。主に、江戸の北半分を車善七が、南半分を品川の松右衞門が支配し、深川の善三郎は車善七に、代々木の久兵衞は品川の松右衞門に屬していた。この品川の非人頭の松右衞門も、先祖は三河出身の浪人・三河長九郎で、寛文年間(一六六一~一六七三)に芝非人頭となり、松右衞門と改名したという。
 幕閣を始め、周りを三河以來の地縁で固めた家康である。車善七や品川の松右衞門が非人頭に登用されたのも、家康が三河以來という出生地主義を重視したからだろう。一人・彈左衞門のみが、鎌倉由比ヶ濱出身というのも妙なものだ。
 その彈左衞門家であるが、初代集房(?~一六一七)と二代集(シュウ)開(カイ)(?~一六四〇)が同一人物ではないかとされるなど、江戸初期のころについては不明な點が多い。江戸初期の集房が初代というのも、それ以前は、江戸ないし關東にいた痕跡がないということだろう。
 加えて彈左衞門家は、關八州竝びに、それに隣接する伊豆全域、甲斐國都留郡、駿河國駿東郡及び陸奧國白川郡をも支配したが、なぜか關八州に隣接しない三河國設樂郡の一部を支配した。
 以上の事績から、彈左衞門家も三河出身、さらにいえば、東三河出身だったと考えられる。
 設樂郡の一部のみを支配したことからすれば、彈左衞門家は、東三河四郡を支配していたわけではなく、東三河全域を支配した穢多は別にいた。
 江戸淺草溜の車善七家は、三河の渥美郡の出であるが、渥美郡は、江戸時代には、奧郡(おくのこおり)と呼ばれた邊境の地であった。
 實際、「延喜式神名帳」では、寶飯郡六座(新城市大宮字狐塚(舊南設楽郡)鎭座の石座(いわくら)神社を含む。設樂郡は延喜三(九〇三)年に寶飯郡から分かれる)に對し、渥美郡及び八名郡はそれぞれ一座のみ、『三河國内神名帳』には、百六十二所の社が載るが、このうち東三河は百十四所、その内譯は寶飯郡六十二所、設樂郡十一所、八名郡二十六所、渥美郡十六所、『和(わ)名(みょう)類聚(るいじゅ)抄(しょう)』二〇卷本の一二部「國郡部」に載る鄕の數も、寶飯郡が十二、設樂郡が四、八名郡が七で、渥美郡が六だ。
 これらの資料から見ても、東三河四郡の中心は、寶飯郡であり、東三河四郡を統括した穢多は、寶飯郡にいたと考えられる。
 車家も彈左衞門家も、この寶飯郡にいた穢多の配下にあり、車家は同等のはずの彈左衞門家に支配されるのは、我慢ならないとの思いから、訴訟に踏み切ったのではないかと思われる。

 彈左衞門家配下の關八州を含む東國の被差別部落では、白山妙理權現堂と東光寺という寺號の寺院を祀るという。
 豐川天王社(豊川市豊川西町)の「笹踊歌」の一節には、「天王の 奧の院の東光寺は 福佛でまします」とある。「天王の 奧の院」とあるように、東光寺は、豐川天王社の奥の院に當る。この寶飯郡豐川村の東光寺について、『三河国宝飯郡誌』は、「東光寺跡 豊川字計通ニ在リ。浄土宗ナリ。信長治世ノ頃廃寺トナル」と記している。現在東光寺跡は、東光公園(豊川市東光町三丁目)となっており、東光町一丁目から四丁目の町名は、東光寺があった名殘りだ。
 その東光寺跡から、東南に五百㍍ほどの位置には、白山妙理權現堂(豊川市西(にし)豊(ゆたか)町一丁目)が鎭座し、白山妙理權現堂から東南東に百㍍ほどのところには、白山妙理權現の本地佛である十一面觀音菩薩像を祀る「出口の觀音樣」と呼ばれる御堂(谷汲山美濃寺(淨土宗)/豊川市東豊(ひがしゆたか)町二丁目)が建っている。
 既述のように、豐川天王社の「笹踊歌」は、「天王の 奧の院の東光寺」の一節を有するが、牛頭天王と東光寺の關係について記せば、牛頭天王は、元々祇園精舎(インド北部にあった佛教の聖地)の守護神で、最初播磨國明石浦(あかしうら)(兵庫県明石市)に埀迹し、次いで同國廣(ひろ)峯(みね)(廣峯神社/兵庫県姫路市広峰)に遷り、その後、京都東山の北白川東光寺(現岡崎神社(京都市左京区岡崎東天王町))から、貞觀一一年ないし元慶年中の間(八六九~八八五)に祇園觀慶(かんけい)寺に遷ったとされる。祇園觀慶寺の感神院(京都市東山区祇園町北側)は、牛頭天王とその后の頗梨采女を祀るが、一五世紀初頭に成立した『神道集』は、「祇園社の本地佛は、男體を藥師如來、女體を十一面觀音菩薩」とする。
 藥師如來は、東方淨瑠璃世界に坐し、正式には、藥師瑠璃光如來といわれる。東光寺の寺號は、東方淨瑠璃世界の東と、藥師瑠璃光如來の光にちなむもので、東光寺を寺號とする寺院の本尊は、藥師如來である。
 ここで十一面觀音菩薩について記せば、六觀音の一つで、修羅道を化益する菩薩である。六道輪廻の六道は元々五道で、五道の中には修羅道はなく、修羅は天道に含まれていたが、人道の下に落とされた。被差別民の誕生を思わせる譚だ。被差別民が十一面觀音菩薩が權(かり)の姿で現れた白山妙理權現を信仰の對象とするのも、修羅道の誕生逸話からだろう。
 十一面觀音菩薩を本地とする白山妙理權現を信仰の對象とする被差別民について、林(はやし)屋(や)辰三郎(たつさぶろう)(一九一四~一九九八)著『歌舞伎以前』は、「官戸、官奴婢が、社寺などの莊園領主に隸屬して、武器生産にたずさわり領主の需要に應じ……その一部の人々は、山門の末寺である感神院すなわち祇園社に隸屬し、境内ちかくに弓矢町をつくっていたが……その生産の餘暇、弓(ゆ)弦(づる)の餘剩生産品が市中にも需要があるところから、ツルメセという呼聲と共に之をうりさばいたのであって、これが祇園の犬(つ)神人(るめそ)にほかならない」と、述べている。
 明治に入り、伊呂波地名に附け替えられた豐川村の字名であるが、東光寺跡から南に六百㍍ほど邊りは。かつて矢作の字名であった。彈左衞門家は、この矢作を本貫としたのだろう。
『三河国宝飯郡誌』は、東光寺のほかにも西光寺(浄土宗/宇通)、豊川山西岸寺(曹洞宗/止通)という廢寺を記しており、いずれも「前同断廃寺トナル」と、東光寺と同じころに廢寺となった旨を述べている。武田軍の東三河侵攻に伴う燒き打ちにより、廢寺になったのだろう。
 家康は、信長が義昭を追放した二年後の天正三(一五七五)年、遠州諏訪原城(島田市金(かな)谷(や)城山町)を武田氏から奪うと、牧野康成及び德川四天王の筆頭・酒井忠次(一五二七~一五九六)の配下にあった松平家忠(一五五五~一六〇〇)を城番とし、諏訪原城を牧野城と改名する。この改名は周の武(ぶ)王(おう)(?~紀元前一〇二一)が殷の紂(ちゅう)王(おう)を牧野で破ったとの故事及び城番・牧野康成(一五五五~一六一〇)の苗字によるものとされ、牧野氏らは、武田氏が滅亡する天正一〇(一五八二)年まで牧野城の守備に當たった。三河がこうした状況の中で、東光寺は廢寺になったのだ。
 なぜ再建されずに、廢寺になったかを考えるに、矢作にいた彈左衞門の先祖は、牧野康成に隨い遠州に移り、家康の關東移封に伴い、江戸に居を移したと推測される。遠州に新開地を求め、江戸に居を移したのは、彈左衞門家初代・集房の時代だ。

 話を彈左衞門家支配から脱するため訴訟を起こした、車善七家に戻せば、結局敗訴し、車家は彈左衞門家支配から脱することは出來なかった。車善七が彈左衞門相手に繰り返し起こした訴訟が結審した當時(享保六から七(一七二一~一七二二)年)の町奉行は、北町が中山時春(一六五一~一七四一)、南町は大岡裁きで有名な大岡忠相(一六七七~一七五一)であった。
 大岡家は、八名郡宇利鄕黑田村字大岡(新城市黒田大岡)を本貫とするが、そこから南に一㌔ほどの八名郡下宇利村字林添(新城市富岡林添)に車神社が鎭座する。先に記したように車家は、渥美郡植田の車神社と關係があるだろう旨述べたが、兩社とも、創建を含め、由緒がはっきりしない。しかも全國で車を社號とする社はこの二つのみだ。
 假に大岡がこの兩社の關係を含め、車家の出自等を詳しく知っていたとなれば、忠相が思い描く判決が可能だったはずだ。
 結審から十三年後の享保二〇(一七三五)年には、忠相の知行地に豐川村が加わる。忠相への論功と、豐川村に彈左衞門の祖先がいたことの痕跡を消すため、豐川村を忠相の知行地に加えたと推測される。
 圓福山妙嚴寺(豊川市豊川町)の鎭守豐川稻荷は忠相が信仰したことにより全國區となるが、妙嚴寺は彈左衞門家の故地・矢作の地に建つ。妙嚴寺は元々、圓福原といわれた現在の豊川商工会議所(豊川市豊川町辺(へ)通(どおり))邊りにあったのにだ。豐川稻荷が全國區になったのも、矢作にあった彈左衞門の祖先がいたことの痕跡を消す、忠相の作業に協力したことによるのだろう。

 彈左衞門は、豐川村矢作ではなく、鎌倉由比ヶ濱出身とした江戸幕府であるが、日光東照宮がある日光は、觀世音淨土を意味する梵語"Potalaka"に二荒(ふたら)の漢字を當て、二荒が「にこう」と訓まれるようになり、日光の字が當てられたという。家康の誕生譚は、煙嚴山鳳來寺(新城市門谷字鳳来寺/本尊 藥師如來)の藥師十二神將の寅神將の化身というものだ。藥師十二神將の化身を東照權現として松たのが日光東照宮だ。
 觀世音淨土に藥師如來を配したのは、おそらく信長の影響だろう。信長の周りにも、藥師如來と十一面觀音菩薩が散見する。織田家は越前二宮・劔神社(福井県丹生郡越前町織田)の神主を出自とするが、劔神社の祭神も牛頭天王である。
 天臺座主信玄の署名のある書簡に第六天魔王と署名し、返信した信長である。三十三觀音の一つ瑠璃觀音は他化自在天と同視される。瑠璃觀音の名からは藥師瑠璃光如來と觀世音菩薩が聯想される。
 信長は意識的に、自分の周りに藥師如來と觀世音菩薩を配したのだろう。



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