2020年02月23日
稲垣正浩さんの思い出
先に記したように、稲垣正浩さんは、母の豊橋市立大村小学校、同北部中学校の同級生だ。
10年ほど前になると思うが、母が小学校の同級会に出席し、帰宅したときに、「お礼は手紙ではなく、メールでいいですよ」といわれたと、稲垣さんの名刺を私に渡した。
名刺を見て驚いた。その数日前の中日新聞に、稲垣さんの記事が大きく載っていたからだ。
母に「このひと、新聞に載っていた」といい、数日前の新聞を探して母に渡した。
稲垣さんとは、「お礼メール」の代筆がきっかけに親しくさせて頂いた。特に稲垣さんが主宰しておられた「21世紀スポーツ文化研究所」の紀要を頂いてから、話がかみ合うようになった。
亡くなる前日まで、メールでやり取りしていたこともあり、訃報を聞いたときにはびっくりした。
稲垣さんは、スポーツ史学会の会長を歴任するなど、スポーツ史学(私は稲垣さんが目指していたのは、スポーツ史学といった狭いものではなく、スポーツ人類学といった前人未到の分野だったと認識しているが)の第一人者だ。
その稲垣正浩さんに最初のころメールで「稲垣先生」と書いたときに、「私はあなたに何も教えていないから先生ではない」といわれたことがある。
稲垣さんも自身のブログで私のことを「私の若い友人」と紹介していた。
稲垣さんは、上記のように大村小学校、北部中学の卒業だ。大村の堀内山長松院(豊橋市大村町字横走/曹洞宗)で過ごされた。
作家で詩人の稲垣瑞雄(1932~2013)氏は、従兄で、長松院で一緒に暮らしていたこともあり仲が良かったと聞いている。
先に亡くなられる前日まで、メールでやり取りしていた旨記したが、そのメールで話題にしていたのは、『典座(てんぞ)教訓』だった。
先に記した稲垣さんが主宰しておられた21世紀スポーツ文化研究所の紀要について記せば、その最初に頂いた紀要に稲垣さんの教え子の竹村匡弥氏が執筆した『野見宿禰と河童伝承に潜む修祓の思想』があった。
感想を記すとともに、お渡ししたのが、『牛窪考(増補改訂版)』にも収録予定の附録三「相撲雜話」の草稿である。
先に引用した稲垣正浩さんの『牛窪考(増補版)』の紹介文「オンデマンド出版による『牛窪考』(柴田晴廣著)、刊行。電子版も。」には、
もうひとこと、書き加えておけば、わたしの個人的な関心事である「出雲」幻視のスタンスからも興味津々です。穂国のヘソとも言うべき三河一宮である砥鹿神社の祭神はオオクニヌシです。そして、この地方にはスサノオ神社がいっぱいあります。あるいは、天王社の系譜もあちこちにあります。こういう興味をもつ者にも、それとなくメッセージを発しているテクストでもあります。あるいは、また、「ひょうすべ」の考察もあり、河童研究のヒントもここに隠されている、と言っていいでしょう。柴田さんの視点はじつに多岐にわたる、みごとなものです。
とある。稲垣さんの「関心事である「出雲」幻視」や「「ひょうすべ」の考察」、「河童研究のヒント」について記したのが、附録三「相撲雜話」や、その前の論考・拾遺五補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を称するのか」の後半部分の「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」である。ちなみに私は『穂国幻史考』以来、記紀の崇神―垂仁に載る出雲とは、丹波一宮出雲大神宮を中心とした地域と考えている。
話は脱線するが、大村校区と相撲といえば、元武雄山の山分親方が、大村校区の長瀬出身だ。山分親方は、母の在所の地類の出だ。
東三河と相撲といえば、蒲郡出身の51代横綱・玉の海正洋がいた。
また力士ではないが、「ちょんまげ庄之助」こと、16代木村庄之助(本名 柘新助/1849~1912)は、吉田宿船町の煮賣屋永樂の主人・柘正平の長男として生を受ける。
彼が亡くなるまで、行司の装束は裃であったし、現在いわゆる不知火型といわれる土俵入りは、、ちょんまげ庄之助が、22代横綱の太刀山峯右エ門(1877~1941)に指導したことに始まる。玉の海の土俵入りが不知火型だったのも、縁を感じる。
なお現在の出羽一門の基礎を築いた19代横綱・常陸山谷右ヱ門(1874~1922)の土俵入りは、雲竜、不知火のどちらの型にも属さない(常陸山と同時に横綱昇進を果たした二代目梅ケ谷の土俵入りは雲竜型)。
現在の土俵に手をついて立つ立ち合いは、紀州藩お抱え力士の鏡山沖右衞門(?~1739)が始めたといわれるが、鏡山は、柔術關口流の技を採り入れ、この立ち合いを考案したといわれる。その柔術關口流の祖・關口氏心(うじむね)は、現在の豊川市長沢町の出身だ。
稲垣さんに話を戻せば、稲垣さんが、長松院で過ごされていたころ、大村のお祭りでは宵祭りの夜に芝居をやっていた。
その芝居の稽古は、長松院の本堂でやっていたそうで、芝居の稽古が始まると、稲垣さんは、こっそり見ており、「今年の演目は何々で、どこそこの誰々が何の役をやる」と、学校で自慢げに話していたと聞いた。
そんなことから、大村のお祭に出掛け、「笹踊」の写真を送ると、「私の若い友人から写真が送られて来た」と、自身のブログで大村の「笹踊」を紹介しておられていた。
先にも引用した「オンデマンド出版による『牛窪考』(柴田晴廣著)、刊行。電子版も。」で、
少しだけ余談を。牛窪は、じつはわたしの育った豊橋市大村町とは、すぐ眼と鼻のさきに位置しています。その意味では、わたしもまた穂国の文化圏の真っ只中で育ったと言っていいでしょう。たとえば、牛窪のお祭りと同じ奉納芸能である「笹踊り」は、わたしの育った大村町の八所神社でも行っていました。三人一組になって太鼓を打ちながら舞い踊る、とても不思議な芸能です。ですから、大きくなったら(青年団に入ったら)、この踊りをやるんだ、とこころに決めていました。
その「笹踊り」の話も、穂国に分布しているすべての事例を詳細に探査し、分析した論考がみごとに展開しています。ですから、わたしにとっては、読み始めたら止まらない、ドキドキ・ワクワクのテクストとなっています。
と、意見を述べられています。
実をいえば、稲垣先生は、「笹踊」の全調査という構想を持っていた。体育学の視点からの調査だ。
稲垣さんは、東洋の体育理論と西洋の体育理論の違いといったことにも造詣が深かった。
稲垣さんの構想が実現しておれば、民俗芸能の世界に一石を投じただろう。
私が稲垣さんが目指していたのは、スポーツ人類学ではなかったかと述べたのも、こうした構想が稲垣さんにあったからだ。
また話が脱線するが、私の家は、代々、露天商の親方(代々の露天商は本業も別に持っており、桶屋が本業。祖父の話では桶屋か古着屋を営む者が多かったという。口伝ではその祖は天香具山命)であった。代々の露天商の家は末子が商売を継いだようで、末子だった祖父銀治が、私から言えば曽祖父の庄五郎から継いだが、博徒と一即多になり、暴力団化するのを嫌い辞め、東京に料理の修業に行った。
ちなみに豊橋の夜店を始めたのは、曽祖父の庄五郎だ。
東京に修行に行った祖父であったが、関東大震災の折には、徴兵検査で帰省しており、無事だった。ただ修行していた店は倒壊し、店の関係者の多くが犠牲になったようで、当時の写真を見れば、モダンボーイを絵に描いたような祖父は、一般の料理屋ではなく、カフェを開業した。
ところが、統制経済が進めば、真っ先に標的に上がり、店を閉めなければならず、当時東洋一と謳われた海軍工廠の食堂のトップに就いた。空襲のときには、飯田方面に食材の調達に出掛けていたようだ。関東大震災に次いで運が良かった祖父だ。
祖父の下には、後に「ふきぬき」の料理長になる料理人もおり、祖父のことを「あにさん、あにさん」と慕って訪ねて来たことを覚えている。
そんな祖父であったから、料理は教えてくれることはなく、「見て盗め」であった。
先に稲垣さんは「私はあなたに何も教えていないから、先生ではない」と仰られたが、私は稲垣さんの言動からいろいろなものを盗ませていただいた。
だから私は稲垣さんのことを師匠だと思っているし、稲垣さんの最後の弟子だと勝手に思っている。
稲垣正浩師匠には、心から感謝している。稲垣師匠がなしえなかったスポーツ人類学を常に念頭に置き、論考に磨きを掛けようと思っている。
10年ほど前になると思うが、母が小学校の同級会に出席し、帰宅したときに、「お礼は手紙ではなく、メールでいいですよ」といわれたと、稲垣さんの名刺を私に渡した。
名刺を見て驚いた。その数日前の中日新聞に、稲垣さんの記事が大きく載っていたからだ。
母に「このひと、新聞に載っていた」といい、数日前の新聞を探して母に渡した。
稲垣さんとは、「お礼メール」の代筆がきっかけに親しくさせて頂いた。特に稲垣さんが主宰しておられた「21世紀スポーツ文化研究所」の紀要を頂いてから、話がかみ合うようになった。
亡くなる前日まで、メールでやり取りしていたこともあり、訃報を聞いたときにはびっくりした。
稲垣さんは、スポーツ史学会の会長を歴任するなど、スポーツ史学(私は稲垣さんが目指していたのは、スポーツ史学といった狭いものではなく、スポーツ人類学といった前人未到の分野だったと認識しているが)の第一人者だ。
その稲垣正浩さんに最初のころメールで「稲垣先生」と書いたときに、「私はあなたに何も教えていないから先生ではない」といわれたことがある。
稲垣さんも自身のブログで私のことを「私の若い友人」と紹介していた。
稲垣さんは、上記のように大村小学校、北部中学の卒業だ。大村の堀内山長松院(豊橋市大村町字横走/曹洞宗)で過ごされた。
作家で詩人の稲垣瑞雄(1932~2013)氏は、従兄で、長松院で一緒に暮らしていたこともあり仲が良かったと聞いている。
先に亡くなられる前日まで、メールでやり取りしていた旨記したが、そのメールで話題にしていたのは、『典座(てんぞ)教訓』だった。
先に記した稲垣さんが主宰しておられた21世紀スポーツ文化研究所の紀要について記せば、その最初に頂いた紀要に稲垣さんの教え子の竹村匡弥氏が執筆した『野見宿禰と河童伝承に潜む修祓の思想』があった。
感想を記すとともに、お渡ししたのが、『牛窪考(増補改訂版)』にも収録予定の附録三「相撲雜話」の草稿である。
先に引用した稲垣正浩さんの『牛窪考(増補版)』の紹介文「オンデマンド出版による『牛窪考』(柴田晴廣著)、刊行。電子版も。」には、
もうひとこと、書き加えておけば、わたしの個人的な関心事である「出雲」幻視のスタンスからも興味津々です。穂国のヘソとも言うべき三河一宮である砥鹿神社の祭神はオオクニヌシです。そして、この地方にはスサノオ神社がいっぱいあります。あるいは、天王社の系譜もあちこちにあります。こういう興味をもつ者にも、それとなくメッセージを発しているテクストでもあります。あるいは、また、「ひょうすべ」の考察もあり、河童研究のヒントもここに隠されている、と言っていいでしょう。柴田さんの視点はじつに多岐にわたる、みごとなものです。
とある。稲垣さんの「関心事である「出雲」幻視」や「「ひょうすべ」の考察」、「河童研究のヒント」について記したのが、附録三「相撲雜話」や、その前の論考・拾遺五補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を称するのか」の後半部分の「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」である。ちなみに私は『穂国幻史考』以来、記紀の崇神―垂仁に載る出雲とは、丹波一宮出雲大神宮を中心とした地域と考えている。
話は脱線するが、大村校区と相撲といえば、元武雄山の山分親方が、大村校区の長瀬出身だ。山分親方は、母の在所の地類の出だ。
東三河と相撲といえば、蒲郡出身の51代横綱・玉の海正洋がいた。
また力士ではないが、「ちょんまげ庄之助」こと、16代木村庄之助(本名 柘新助/1849~1912)は、吉田宿船町の煮賣屋永樂の主人・柘正平の長男として生を受ける。
彼が亡くなるまで、行司の装束は裃であったし、現在いわゆる不知火型といわれる土俵入りは、、ちょんまげ庄之助が、22代横綱の太刀山峯右エ門(1877~1941)に指導したことに始まる。玉の海の土俵入りが不知火型だったのも、縁を感じる。
なお現在の出羽一門の基礎を築いた19代横綱・常陸山谷右ヱ門(1874~1922)の土俵入りは、雲竜、不知火のどちらの型にも属さない(常陸山と同時に横綱昇進を果たした二代目梅ケ谷の土俵入りは雲竜型)。
現在の土俵に手をついて立つ立ち合いは、紀州藩お抱え力士の鏡山沖右衞門(?~1739)が始めたといわれるが、鏡山は、柔術關口流の技を採り入れ、この立ち合いを考案したといわれる。その柔術關口流の祖・關口氏心(うじむね)は、現在の豊川市長沢町の出身だ。
稲垣さんに話を戻せば、稲垣さんが、長松院で過ごされていたころ、大村のお祭りでは宵祭りの夜に芝居をやっていた。
その芝居の稽古は、長松院の本堂でやっていたそうで、芝居の稽古が始まると、稲垣さんは、こっそり見ており、「今年の演目は何々で、どこそこの誰々が何の役をやる」と、学校で自慢げに話していたと聞いた。
そんなことから、大村のお祭に出掛け、「笹踊」の写真を送ると、「私の若い友人から写真が送られて来た」と、自身のブログで大村の「笹踊」を紹介しておられていた。
先にも引用した「オンデマンド出版による『牛窪考』(柴田晴廣著)、刊行。電子版も。」で、
少しだけ余談を。牛窪は、じつはわたしの育った豊橋市大村町とは、すぐ眼と鼻のさきに位置しています。その意味では、わたしもまた穂国の文化圏の真っ只中で育ったと言っていいでしょう。たとえば、牛窪のお祭りと同じ奉納芸能である「笹踊り」は、わたしの育った大村町の八所神社でも行っていました。三人一組になって太鼓を打ちながら舞い踊る、とても不思議な芸能です。ですから、大きくなったら(青年団に入ったら)、この踊りをやるんだ、とこころに決めていました。
その「笹踊り」の話も、穂国に分布しているすべての事例を詳細に探査し、分析した論考がみごとに展開しています。ですから、わたしにとっては、読み始めたら止まらない、ドキドキ・ワクワクのテクストとなっています。
と、意見を述べられています。
実をいえば、稲垣先生は、「笹踊」の全調査という構想を持っていた。体育学の視点からの調査だ。
稲垣さんは、東洋の体育理論と西洋の体育理論の違いといったことにも造詣が深かった。
稲垣さんの構想が実現しておれば、民俗芸能の世界に一石を投じただろう。
私が稲垣さんが目指していたのは、スポーツ人類学ではなかったかと述べたのも、こうした構想が稲垣さんにあったからだ。
また話が脱線するが、私の家は、代々、露天商の親方(代々の露天商は本業も別に持っており、桶屋が本業。祖父の話では桶屋か古着屋を営む者が多かったという。口伝ではその祖は天香具山命)であった。代々の露天商の家は末子が商売を継いだようで、末子だった祖父銀治が、私から言えば曽祖父の庄五郎から継いだが、博徒と一即多になり、暴力団化するのを嫌い辞め、東京に料理の修業に行った。
ちなみに豊橋の夜店を始めたのは、曽祖父の庄五郎だ。
東京に修行に行った祖父であったが、関東大震災の折には、徴兵検査で帰省しており、無事だった。ただ修行していた店は倒壊し、店の関係者の多くが犠牲になったようで、当時の写真を見れば、モダンボーイを絵に描いたような祖父は、一般の料理屋ではなく、カフェを開業した。
ところが、統制経済が進めば、真っ先に標的に上がり、店を閉めなければならず、当時東洋一と謳われた海軍工廠の食堂のトップに就いた。空襲のときには、飯田方面に食材の調達に出掛けていたようだ。関東大震災に次いで運が良かった祖父だ。
祖父の下には、後に「ふきぬき」の料理長になる料理人もおり、祖父のことを「あにさん、あにさん」と慕って訪ねて来たことを覚えている。
そんな祖父であったから、料理は教えてくれることはなく、「見て盗め」であった。
先に稲垣さんは「私はあなたに何も教えていないから、先生ではない」と仰られたが、私は稲垣さんの言動からいろいろなものを盗ませていただいた。
だから私は稲垣さんのことを師匠だと思っているし、稲垣さんの最後の弟子だと勝手に思っている。
稲垣正浩師匠には、心から感謝している。稲垣師匠がなしえなかったスポーツ人類学を常に念頭に置き、論考に磨きを掛けようと思っている。
Posted by 柴田晴廣 at 11:04│Comments(0)
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