2020年02月24日

郷土史と地域史、日本と日本史などなど

 前々回、本ウェブログと同タイトルの「東三河平野部の民俗と歴史」で、推敲中の『牛窪考(増補改訂版)』のはしがきを引用し、『牛窪考』で郷土史を語っているつもりはない旨を記した。
 その推敲中の『牛窪考(増補改訂版)』のはしがきでは、

  地域史と日本史は全くの別物などではなく、必ずどこかに接点がある。さまざまな地域史の束が日本史といえ、日本史は東アジア史、世界史へと繋がって行くのである。当然のことながら、東三河の近代や近世は、東三河の中世、古代と連続している。

とも記した(暫定75頁)。
 なぜ郷土史を語るつもりがないかといえば、郷土史には地元愛に基づく地元贔屓のニュアンスがあるからだ。
 もちろんそれは、生まれ育った牛久保だけでなく、牛久保を含む東三河、さらには日本列島の歴史についても同じだ。
 ゆえに前々回の引用でも、「加えて贔屓という主観に基づく史観という点では、歴史修正主義も多くの郷土史と変わるものではないのだ。それゆえ私は牛久保ないし東三河という生まれ育った地の歴史を地元贔屓という主観を取り去って書くことを心掛けている」と記してある。
 『孫子』の「謀攻篇」には、「知彼知己 百戰不殆 不知彼而知己 一勝一負 不知彼不知己 毎戰必殆」との一節がある。
 帝國陸海軍の机上演習は、この孫子の兵法を丸っきり無視したものであり、その帝國陸海軍の過ちを全く活かせていないのが、わが国の歴史修正主義だ。
 「賢者は歴史から学ぶ。愚者は経験から学ぶ」との言葉があるが、歴史修正主義者は経験からも学べない愚者愚者といったところか。
 さて、日本史とは日本列島の歴史であるが、そこに住む日本人とは何か?
 日本国籍を有する者ということになろうが、日本国籍は、徴兵令と同じ明治六年に出された布告一〇三號の「日本人外國人卜婚嫁セントスル者ハ日本政府ノ允許ヲ受クヘシ」の「日本人」にある。
 ここでの「日本人」は、布告が出された時点で、明治政府が権力が及ぶ地に居住していた者(当然に外国人居留区には明治政府の権力は及ばない)が日本人なのである。
 北海道には、アイヌのみならず、ウィルタやニヴフも暮らしていたし、小笠原諸島の先住民はオランダ系やポリネシア系だ。
 太平洋戦争の開戰時と終戰時に外相だった東鄕茂德(1882~1950)は、秀吉の朝鮮出兵の際に島津義弘(1535~1619)が連れ歸った朝鮮人陶工の子孫であり(薩摩藩では士分待遇)、彼の父・朴壽勝が明治になって東鄕に改姓しているが、東鄕茂德自身もその親達も、何ら歸化の手続をとっているわけではない。
 秀吉の朝鮮出兵ということになれば、逆に李朝側に投降した出兵兵もいた。その代表は沙也可(李朝朝鮮名は金忠善(1572?~1642))で、その子孫(宗家)は友鹿洞(大韓民國慶尚北道達城郡佳昌面友鹿里)に暮らしている。もちろん彼らは布告の日本人には含まれない。
 また、この時点で琉球王國は外交権を持っていたから、沖縄の居住者は、布告の日本人に含まれない。
 現在、わが国では血統主義を採っているが、この時点での「日本人」は、民族や血統とは別のものだ。
 徴兵令と同じ年に出されたことを考慮すれば、布告にいう「日本人」とは、明治政府が徴兵できる者を中心にしたその家族ということになろう。
 保守派といわれる輩の男尊女卑も、彼らにはっきりとした認識はないだろうが、有事の際に男性は徴兵できるといった潜在意識がなせるものだろうし、ヘイトも、この布告の徴兵できるか者か否かの線引によるものだろう。
 繰り返しになるが、現在わが国では国籍に関し、血統主義を基本としている。
 ところが、「江戸っ子」は、血統に基づくものではない。三代住めば「江戸っ子」というように、アメリカ国籍と同じ出生地主義だ。
 つまり髪が赤かろうが目が青かろうが、もっといえば英語しかしゃべれなかろうが、「じいさんの代から江戸に住んでいれば、江戸っ子」だったのだ。
 東鄕茂德も、この「江戸っ子理論」により薩摩人であり、歸化手続きなしに、布告の「日本人」に含まれたのだ(以上の日本人論については、推敲中の『牛窪考(増補改訂版)』の補遺一「「うなごうじ祭」名称考」の最初の見出し「平田派国学者・羽田野敬雄の牛久保観」の最後の小見出し「遠州灘近海にも多くの外国船が航行」から抜粋要約)。
 『牛窪考(増補改訂版)』に話を戻せば、『牛窪考(増補改訂版)』では、牛久保以外の東三河の各地についても論じている。地元贔屓で書いているわけではないから、主観的な嫌悪は当然生じよう。ただ客観的に東三河を見つめ直すことは出来ると自負している。
 その『牛窪考(増補改訂版)』、ほぼ改訂作業は終わった。ほぼとしたのは、東三河の春の祭礼で一つ確認したい事項があるからだ。
 今回の一連の投稿も、鬼祭のお頭様のお渡りの確認に行き、お旅所の談合社の朱印が知られていないようだから、それをアップしたのがきっかけであったが、『牛窪考(増補改訂版)』の内容などを記すに至った。
 大体書きたいことは書き終わった。
 このウェブログを開設したのは、2017年8月24日、それから一気に『牛窪考(増補改訂版)』及び『穂国幻史考』の概要を書いたが、このウェブログのタイトルの下のウェブログの説明に記したように、「2017年10月、このウェブログからすべて削除し」た。『穂国幻史考の概要』及び『牛窪考増補改訂版の概要』を電子版として発行したからだ。
 今回の一連の投稿の中で、『穂国幻史考』は、書籍として発行する前、その草稿はホームページに掲載してあった旨を記したが、これも書籍と発行したのを機に、削除した。
 その削除の後、保存して置かなくて、後悔したという声も多くあった。
 今回の一連の投稿も、『牛窪考(増補改訂版)』の刊行などにより、何の前触れもなく、一気に削除する可能性もあることを記して置く。
 公開を前提として書くと精度が上がることから、ウェブログを使っているが、ウェブログは、メモか備忘録というのが私の位置付けだからだ。 



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Posted by 柴田晴廣 at 12:33│Comments(0)雑談
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