2020年02月29日
塚田哲史著『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』
前回の投稿で、『愛知県史民俗調査報告書6』収録の鬼頭秀明執筆「東三河における祭礼風流の諸相―神幸祭と風流」は調査報告書の体を成さないものである旨を指摘した。
特に「笹踊」については、例に挙げたとおりだ。
ところが、調査報告書の体を成さない『愛知県史民俗調査報告書6』収録の鬼頭秀明執筆「東三河における祭礼風流の諸相―神幸祭と風流」の「笹踊」の説明について、塚田哲史氏は、自身が発行する『aqua』41号(2007年10月5日発行)収録の『愛知県豊川市の笹踊り歌』で、「これは詞章からその実態に迫らうとするもので、それ故に、言はば衣装等の形態的な議論を中心とした諸説よりも信ずるに足るものがある」と高く評価している。
鬼頭氏は、同論考において、確かに「笹踊歌」の詞章について一応は言及しているものの、ごくわずかに過ぎず、それどころか鬼頭氏は、「笹踊歌」の詞章の話に入るよりも先に、塚田氏が「信ずるに足」らないものとする「衣装等の形態的な」面から、「笹踊りと称していても、ここで取り上げているそれは笹を持って踊る芸能ではなく、三人の腹へ太鼓を着ける太鼓踊りである。その衣装は、金襴仕立ての異国的な感じがするものであり、頭に異風な笠を着け、布を垂らして顔を隠すのである。胸に付ける太鼓も一人は大太鼓、残りの二人は小太鼓である。これらは三河の笹踊りに共通する要素といえる」(『愛知県史民俗調査報告書6』221・222頁)と、衣装を含めたその踊り手の特徴をまず氏なりに挙げている。
そして鬼頭氏のそのわずかばかりの詞章についての言及とは、「詞章の内容は一様ではないが、囃子言葉に共通する部分もある。それは「サーゲニモサーヨ」(上長山)、「サーゲ」(大木)、「サゲニモサア」(牛久保)、「サーゲニモサー」(上千両)など大きく転訛している。吉田も「サアゲニモサウヨ」であった。これらは同じ言葉であったものが変化したと思われる。つまり狂言で囃される囃子物に出てくる「実(ゲ)にもさあり……」と、笹踊りの囃子言葉が同様であることは明らかといえよう。それにより笹踊りは、中世から近世初頭にかけて中央で流行ったと考えられている、囃子物風流の一つであることが裏付けられよう。つまり、近畿地方に分布するサンヤレ踊りやケンケト踊りなどと、同系統の芸能なのである」(『愛知県史民俗調査報告書6』223・224頁)のみである。
これのどこが信じるに足りるのか私には理解できない。
大体、塚田哲史は、『aqua』41号で、「笹踊りがいかなるものかは分かつてゐない。諸説あるが、私にはその当否を論ずることはできない。ただ、そんな中に最近出された一つの説が注目される。これは詞章からその実態に迫らうとするもので、それ故に、言はば衣装等の形態的な議論を中心とした諸説よりも信ずるに足るものがあるのではないかと思はれる。鬼頭秀明「東三河における祭礼風流の諸相―神幸祭と風流」(「愛知県史民俗調査報告書6」渥美・東三河[平成一五年]所収)である」と、塚田哲史自身、「笹踊りがいかなるものかは分かつてゐない」のだ。、「笹踊りがいかなるものかは分かつてゐな」くて、どうして鬼頭秀明の「東三河における祭礼風流の諸相―神幸祭と風流」の「笹踊」の説明について、「衣装等の形態的な議論を中心とした諸説よりも信ずるに足るものがある」と判断できたのか、不思議でならない。
では、塚田哲史は、「笹踊」を、どういったスタンスで捉えているのか?
それを端的に表す言葉が、本投稿のタイトルでもある2018年3月発行の「塚田哲史著『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』」の「はじめに」の冒頭において、「本書は、東三河に19か所、西三河に1か所伝はつてゐる笹踊りの現状報告の書である。笹踊りの発祥や歴史を考察しようとする書ではない。あくまで現状報告の書である。それも主として笹踊り歌とその採譜といふ、極めて主観的、恣意的な観点を通して見ようと志した笹踊りの現状報告である」(4頁)と述べている。
自身で述べているように、「主として笹踊り歌とその採譜といふ、極めて主観的、恣意的な観点を通して見よう」とするのが、塚田哲史の「笹踊」に対する立ち位置なのだ。
主観的で恣意的な観点とあるように、塚田哲史の「笹踊」についての言説は、学術的とは程遠い代物なのだ。
先の引用に続けて『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』のはしがきで塚田哲氏は、「とまあ、いきなり言ひ訳がましいことを書いた。これが本書の弱いところである。それを承知のうへで、以下の各地区の笹踊りと笹踊り歌の現状を記していく。それは内容的に、以下の拙個人誌"aqua"の補筆訂正版である」と述べている。塚田氏のいう「以下の拙個人誌"aqua"」は、『aqua』19号掲載の『富岡の伊勢音頭』、同27号掲載の『愛知県宝飯郡一宮町の笹踊り歌』、先に引用した同41号掲載の『愛知県豊川市の笹踊り歌』、同42号掲載の『愛知県宝飯郡小坂井、御馬の笹踊り歌』、同44号掲載の『愛知県蒲郡市三谷町松区ささげんじの歌』、及び同58号掲載の『愛知県新城市の笹踊り歌』をいう。
元新潮編集長で、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』などの著者として知られる前田速夫氏は、その著『北の白山信仰 もう一つの「海上の道」』のまえがきで、「すなわち自説を唱えるのに、都合のよいところだけをつまみ食いして、具合の悪いことには、一切頬被り、根拠すら示さないのでは、まっとうな読者からまっとうに向き合ってもらうのは困難だろう」と述べている(同書2頁)。『愛知県豊川市の笹踊り歌』を始めとする「笹踊」に関する塚田哲史の一連の言説も、長年大手出版社で編集に携わっていた前田氏の言葉を借りれば、「まっとうな読者からまっとうに向き合ってもらうのは困難」なものということになろう。
加えて『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』、春夏秋冬叢書が発行しているが、何度読んでも、校正を経た書籍とは思えない。
大体、「それも主として笹踊り歌とその採譜といふ、極めて主観的、恣意的な観点を通して見ようと志した笹踊りの現状報告である」代物を出版しようとする春夏秋冬叢書の出版社としての姿勢も首を傾げる。
『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』の「主要参考文献・参考動画」には、2009年11月12日発行の拙著PDF版『牛久保の若葉祭』が挙がっているが、拙著を参考にしたとは思えない。
一般に主要参考文献は、読者が、出店の確認のため原典に当たれることを目的とする面もある。なぜにPDF版のみで発行し、図書館といえば、国立国会図書館にしか納本していないものを挙げたのかも首を傾げる。
『牛久保の若葉祭』の中卷を改訂した「豊川流域の特殊神事「笹踊」の考察」を補遺二として収録してある『牛窪考(増補版)』が愛知大学総合郷土研究所、豊橋市中央図書館、豊川市中央図書館に収蔵されているからだ。
さらに『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』には、「協力者(ご協力してくださった方々)」の項目が設けてあり、そこには私の名前も挙げてある。しかしながら、塚田氏が『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』を執筆するに当たり、私は塚田氏に協力したとの認識はない。『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』と上記、各図書館に所蔵されている『牛窪考(増補版)』を読み比べて頂ければ、一目瞭然だろう。
そう考えれば、主要参考文献においても、塚田哲史の恣意が入り込んでいることになる。
その『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』の紹介記事が中日新聞に掲載されたとき、鬼祭のお頭様のお渡りのときにも、神主として随伴していた吉田神社の水谷某が推薦する旨を発言していたが、水谷某も塚田哲史同様に、首を傾げる。
その水谷某。何年か前の吉田の祇園の折、頼朝行列に随伴する獅子頭について質問をしたことがある。だが返ってきた答えは頓珍漢なものだった。頓珍漢な答えになるのは、良質な資料に当たっていないからだ。
特に「笹踊」については、例に挙げたとおりだ。
ところが、調査報告書の体を成さない『愛知県史民俗調査報告書6』収録の鬼頭秀明執筆「東三河における祭礼風流の諸相―神幸祭と風流」の「笹踊」の説明について、塚田哲史氏は、自身が発行する『aqua』41号(2007年10月5日発行)収録の『愛知県豊川市の笹踊り歌』で、「これは詞章からその実態に迫らうとするもので、それ故に、言はば衣装等の形態的な議論を中心とした諸説よりも信ずるに足るものがある」と高く評価している。
鬼頭氏は、同論考において、確かに「笹踊歌」の詞章について一応は言及しているものの、ごくわずかに過ぎず、それどころか鬼頭氏は、「笹踊歌」の詞章の話に入るよりも先に、塚田氏が「信ずるに足」らないものとする「衣装等の形態的な」面から、「笹踊りと称していても、ここで取り上げているそれは笹を持って踊る芸能ではなく、三人の腹へ太鼓を着ける太鼓踊りである。その衣装は、金襴仕立ての異国的な感じがするものであり、頭に異風な笠を着け、布を垂らして顔を隠すのである。胸に付ける太鼓も一人は大太鼓、残りの二人は小太鼓である。これらは三河の笹踊りに共通する要素といえる」(『愛知県史民俗調査報告書6』221・222頁)と、衣装を含めたその踊り手の特徴をまず氏なりに挙げている。
そして鬼頭氏のそのわずかばかりの詞章についての言及とは、「詞章の内容は一様ではないが、囃子言葉に共通する部分もある。それは「サーゲニモサーヨ」(上長山)、「サーゲ」(大木)、「サゲニモサア」(牛久保)、「サーゲニモサー」(上千両)など大きく転訛している。吉田も「サアゲニモサウヨ」であった。これらは同じ言葉であったものが変化したと思われる。つまり狂言で囃される囃子物に出てくる「実(ゲ)にもさあり……」と、笹踊りの囃子言葉が同様であることは明らかといえよう。それにより笹踊りは、中世から近世初頭にかけて中央で流行ったと考えられている、囃子物風流の一つであることが裏付けられよう。つまり、近畿地方に分布するサンヤレ踊りやケンケト踊りなどと、同系統の芸能なのである」(『愛知県史民俗調査報告書6』223・224頁)のみである。
これのどこが信じるに足りるのか私には理解できない。
大体、塚田哲史は、『aqua』41号で、「笹踊りがいかなるものかは分かつてゐない。諸説あるが、私にはその当否を論ずることはできない。ただ、そんな中に最近出された一つの説が注目される。これは詞章からその実態に迫らうとするもので、それ故に、言はば衣装等の形態的な議論を中心とした諸説よりも信ずるに足るものがあるのではないかと思はれる。鬼頭秀明「東三河における祭礼風流の諸相―神幸祭と風流」(「愛知県史民俗調査報告書6」渥美・東三河[平成一五年]所収)である」と、塚田哲史自身、「笹踊りがいかなるものかは分かつてゐない」のだ。、「笹踊りがいかなるものかは分かつてゐな」くて、どうして鬼頭秀明の「東三河における祭礼風流の諸相―神幸祭と風流」の「笹踊」の説明について、「衣装等の形態的な議論を中心とした諸説よりも信ずるに足るものがある」と判断できたのか、不思議でならない。
では、塚田哲史は、「笹踊」を、どういったスタンスで捉えているのか?
それを端的に表す言葉が、本投稿のタイトルでもある2018年3月発行の「塚田哲史著『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』」の「はじめに」の冒頭において、「本書は、東三河に19か所、西三河に1か所伝はつてゐる笹踊りの現状報告の書である。笹踊りの発祥や歴史を考察しようとする書ではない。あくまで現状報告の書である。それも主として笹踊り歌とその採譜といふ、極めて主観的、恣意的な観点を通して見ようと志した笹踊りの現状報告である」(4頁)と述べている。
自身で述べているように、「主として笹踊り歌とその採譜といふ、極めて主観的、恣意的な観点を通して見よう」とするのが、塚田哲史の「笹踊」に対する立ち位置なのだ。
主観的で恣意的な観点とあるように、塚田哲史の「笹踊」についての言説は、学術的とは程遠い代物なのだ。
先の引用に続けて『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』のはしがきで塚田哲氏は、「とまあ、いきなり言ひ訳がましいことを書いた。これが本書の弱いところである。それを承知のうへで、以下の各地区の笹踊りと笹踊り歌の現状を記していく。それは内容的に、以下の拙個人誌"aqua"の補筆訂正版である」と述べている。塚田氏のいう「以下の拙個人誌"aqua"」は、『aqua』19号掲載の『富岡の伊勢音頭』、同27号掲載の『愛知県宝飯郡一宮町の笹踊り歌』、先に引用した同41号掲載の『愛知県豊川市の笹踊り歌』、同42号掲載の『愛知県宝飯郡小坂井、御馬の笹踊り歌』、同44号掲載の『愛知県蒲郡市三谷町松区ささげんじの歌』、及び同58号掲載の『愛知県新城市の笹踊り歌』をいう。
元新潮編集長で、『白の民俗学へ 白山信仰の謎を追って』などの著者として知られる前田速夫氏は、その著『北の白山信仰 もう一つの「海上の道」』のまえがきで、「すなわち自説を唱えるのに、都合のよいところだけをつまみ食いして、具合の悪いことには、一切頬被り、根拠すら示さないのでは、まっとうな読者からまっとうに向き合ってもらうのは困難だろう」と述べている(同書2頁)。『愛知県豊川市の笹踊り歌』を始めとする「笹踊」に関する塚田哲史の一連の言説も、長年大手出版社で編集に携わっていた前田氏の言葉を借りれば、「まっとうな読者からまっとうに向き合ってもらうのは困難」なものということになろう。
加えて『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』、春夏秋冬叢書が発行しているが、何度読んでも、校正を経た書籍とは思えない。
大体、「それも主として笹踊り歌とその採譜といふ、極めて主観的、恣意的な観点を通して見ようと志した笹踊りの現状報告である」代物を出版しようとする春夏秋冬叢書の出版社としての姿勢も首を傾げる。
『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』の「主要参考文献・参考動画」には、2009年11月12日発行の拙著PDF版『牛久保の若葉祭』が挙がっているが、拙著を参考にしたとは思えない。
一般に主要参考文献は、読者が、出店の確認のため原典に当たれることを目的とする面もある。なぜにPDF版のみで発行し、図書館といえば、国立国会図書館にしか納本していないものを挙げたのかも首を傾げる。
『牛久保の若葉祭』の中卷を改訂した「豊川流域の特殊神事「笹踊」の考察」を補遺二として収録してある『牛窪考(増補版)』が愛知大学総合郷土研究所、豊橋市中央図書館、豊川市中央図書館に収蔵されているからだ。
さらに『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』には、「協力者(ご協力してくださった方々)」の項目が設けてあり、そこには私の名前も挙げてある。しかしながら、塚田氏が『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』を執筆するに当たり、私は塚田氏に協力したとの認識はない。『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』と上記、各図書館に所蔵されている『牛窪考(増補版)』を読み比べて頂ければ、一目瞭然だろう。
そう考えれば、主要参考文献においても、塚田哲史の恣意が入り込んでいることになる。
その『東三河地方の笹踊りと笹踊り歌』の紹介記事が中日新聞に掲載されたとき、鬼祭のお頭様のお渡りのときにも、神主として随伴していた吉田神社の水谷某が推薦する旨を発言していたが、水谷某も塚田哲史同様に、首を傾げる。
その水谷某。何年か前の吉田の祇園の折、頼朝行列に随伴する獅子頭について質問をしたことがある。だが返ってきた答えは頓珍漢なものだった。頓珍漢な答えになるのは、良質な資料に当たっていないからだ。
Posted by 柴田晴廣 at 01:55│Comments(0)
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