2020年12月23日
石狩鍋

今晩は石狩鍋風の鍋にした。
風としたのは、鮭の頭など鮭のあらが入手できなかったからだ(骨付きの切り身は入れてある)。
この石狩鍋には思い出がある。大学三年の時のことである。
当時私は東京の大学に行っていたが、大学二年の冬に父がプラスティック射出成型工場を起業した。
父の起業から三年に進学するまで、その工場を手伝った。
ちょうど三年進学の折の履修届提出で、当時大東文化大学躰道部コーチで学生課所属の御津町広石出身の鈴木茂嗣さんが、それなら通いで来て、私の家に泊まればいいと提案してくれた。
鈴木氏のところには、大学の職員の方が多く訪れ、私はその料理番をやらせていただいた。
石狩鍋とは話が離れたが、ここから石狩鍋の思い出。
上述のような事情から、私はゼミを履修せず、その代わりに一年で終了する外書購読を履修した。
ですから、私は卒論を書いていない。
その外書購読の先生が北海道出身の松田先生だった。
外書購読の授業は私のほか、ゼミに入れなかった堅そうな二人がいた。
その外書購読の授業は5限目(確か4:40から)で、最初の授業の折の5時までは、非常に硬い話であったが、5時過ぎると、最初の授業だから、一盃やろうかと大学近く(高島平)の料理屋へ。
四人で店に入ったが、板わさを四人前頼むと、いきなり四人だから、とりあえずビール四本と。
それから延々と呑みはじめ、気が付けば、ほかの二人はいなくなっていた。
その後、その二人は授業に出て来ることはなかった。
松田先生は、独身で給料のほとんどを、経済学の資料となる書籍等と、呑み代に使っていたという。
2・3度は教室での授業であったが、何せ学生は私一人ということで、松田先生の研究室で授業を受けることになった。
こちらから通いであったことから、蓬莱泉の一級を一升瓶で持参した。
研究室で、呑みながら、前回指定された部分まで、私が訳したものを読み上げ、5時近くになると、研究室を出て、先生のおごりで呑み屋に向かった。
松田先生は、北海道出身で、北海道料理の店によく連れて行ってくれた。そこで食べたのが石狩鍋だったわけだ。
石狩鍋をつつきながら、経済だけでなく、いろいろな話を松田先生とした。
松田先生には感謝している。
松田先生は若くして亡くなったと聞いている。
ご冥福を祈る。合掌。
Posted by 柴田晴廣 at 17:39│Comments(0)
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