2022年10月03日

がんウィルス治療

 Eテレで放送されている「サイエンスZERO」の次回(10.9 23:30~放送、再放送は、10.15 11:10~)は、「ウイルスでがんをやっつけろ!最新治療の新戦略」。
 がんのウイルス療法(oncolytic virus therapy)は、がん細胞内だけで増えるように改変したウイルスをがん細胞に感染させ、ウイルスそのものががん細胞を殺しながらがん細胞内で増幅していくという、がんの治療法です。
 がんのウィルス療法については、昨年、東京大学医科学研究所附属病院脳腫瘍外科の藤堂具紀教授らの研究グループが開発した治療薬が脳腫瘍の治療薬として薬事承認されました。

追記(2022.10.04 11:00)
 日本で腫瘍溶解性ウイルスの研究が開始されるのは、1996年、名古屋大学においてであるが、腫瘍溶解性ウイルスの発見は百年以上前に、その研究も50年以上前まで遡る。

追記(2022.10.05 06:57)
 上記の追記(2022.10.04 11:00付の追記)のように、日本のがん治療の研究は遅れている。
 大腸がんの標準治療ガイドラインで、一般的に使われている抗がん剤フルオロウラシルはなんと1956年の開発で、静注点滴薬で、二日間掛かる。
 TS-1という経口剤が出ているにもかかわらずだ。しかもTS-1(Tegafur/Gimeracil/Oteracil)の開発者は、白坂哲彦氏、製造は大鵬薬品工業。
 このクニが近年、後進国になったとの報道もあるが、がん治療の現状をみれば、近年どころか、昔から現在まで、先進国であったことはない。
 光免疫療法の開発者の小林久隆さんも、その研究はアメリカであった。人材流出も昔からだ。
 このように考えれば、がん治療のみならず、このクニが先進国だったなど幻想である可能性が高い。

追記(2022.10.05 12:55)
 安部の死亡により、自由民主党という政党が出鱈目な集団だということが顕在化した。
 その安倍の得意技は、隠蔽改竄であった。
 このクニが先進国だったというのも、隠蔽改善の賜物だろう。
 二階のいう「安倍の国葬が良かったと思う日本人」ではなくてよかった。
 ちなみに、がんの標準治療ガイドラインは、岸から続く、清話会の小泉純一郎が厚生大臣のときに、小泉の補助金で作成された。
 その標準治療ガイドラインは、抗がん剤のどれとどれを組み合わせるかも事細かに指定しているが、その組み合わせの多くは、TS-1ではなく、フルオロウラシルである。
 そして、自公政権で厚生労働大臣を務めた公明党の坂口力は、大腸がんステージ4であったが、ガイドラインにしたがわない治療で、末期がんを克服した。
 坂口力は三重大学医学部出身で、医師免許を持っており、医学博士である。
 ガイドラインの出鱈目さがわかるだろう。
 新自由主義の自由は経済的自由と精神的自由が衝突したとき、経済的自由が優先する自由なのである。

追記(2022.10.06 08:49)
 現行のガイドラインは、TS-1の例からも、創薬や改薬を促すものではなく、既得権を守るためのものである。
 加えて、重篤な副作用のある抗がん剤が薬事承認されていることを考慮すれば、なおさらである。
 さすが、経済的自由優先の小泉が厚生大臣時代の補助金で作成されたガイドラインである。
 ただ、NHKは、過去も早い時期に新たながん治療を採り上げている。今回もそれを期待したい。
 先に記したように、このクニは後進国であり、世界に誇れるような知的財産はない。
 唯一あるとすれば、初期の段階から同じ神戸出身ということで支援していた楽天メディカルが特許権を所有している光免疫療法の関連の技術といったところだ。
 この光免疫療法とともにウィルス治療関連の技術を過不足なく知的財産権を取得することで、このクニも技術立国が可能になるだろう。
 サイエンスZEROの放送の内容が楽しみである。

追記(2022.10.08 12:12)
 2022.10.05 12:55付の追記で、大腸がんステージ4であった坂口力が、標準治療ガイドラインにしたがわない治療でがんを克服した旨を記した。
 ガイドラインでは、ステージ4は治らないことになっている。ゆえに一般にステージ4は、末期がんといわれる。
 このステージ4のガイドラインが問題なのだ。
 ステージ4はがんが転移又は再発した場合である。
 転移と再発のメカニズムは全く異なる。
 しかしガイドラインでは区別していない。ガイドラインに影響されてか、医者の多くも、転移と再発を区別せずに使っている。
 転移と再発では、メカニズムが異なるのだから、当然治療も異なる。それを区別せずにいるから、治るものも治らないのだ。
 このweb-logで投稿している光免疫療法やウィルス療法は、ステージ4からの完治を目指す治療だ。
 

  


Posted by 柴田晴廣 at 07:12Comments(0)雑談

2022年10月02日

抗がん剤の副作用と漢方

 以下に抗がん剤の副作用と、その副作用を解消するために私が試して効果があった漢方について記しておく。
 オキサリプラチンによる手足の指さきの神経性疼痛には、牛車腎氣丸(ツムラ107番)。
https://www.qlife.jp/meds/rx8364.html
 アバスティンの声の上ずりには、半夏厚朴湯(ツムラ16番)、即効でいえば滋蔭降火湯(ツムラ93番)。
https://www.qlife.jp/meds/rx7949.html
https://www.qlife.jp/meds/rx8971.html
 イリノテカンには、半夏瀉心湯(ツムラ14番)。
https://www.qlife.jp/meds/rx7950.html
 手足症候群には、柴茯湯(ツムラ114番)。
https://www.qlife.jp/meds/rx9163.html
 骨髄抑制に人參養榮湯(ツムラ108番)。
https://www.qlife.jp/meds/rx9083.html

 がん治療については、下記も参照してください。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1245250.html
https://tokosabu.dosugoi.net/e1244449.html

追記(16:50)
 化学合成薬の歴史はたかだか200年。
 それ以前は、リキュールが醫藥であった。
 そのリキュールの多くは修道院や教会で作られていた。
 プロテスタントにより醫教分離がなされる。
 私は医療行為は、四苦(生老病死)からの衆生濟度と考えている。
 たかだか200年の歴史しかない化学合成薬に四苦からの衆生濟度に期待するのが無理な話なのだ。
 ゆえに重篤な副作用が出ても、平気なのだ。

追記(21:13)
 漢方についていろいろと書いてきたが、私の家は、祖父が、露天商と博徒が一皍夛になり、暴力団化するのを嫌い辞めるまでは、露天商の親方であった。
 その露天商と藥屋は、神農黄帝を祀る。
 そんなこともあり、漢方について書いたのだ。
 下記参照。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1243205.html
https://tokosabu.dosugoi.net/e1241709.html
https://tokosabu.dosugoi.net/e1239540.html  


Posted by 柴田晴廣 at 15:05Comments(0)雑談

2022年09月30日

何人かから大腸がんに罹患したとの連絡が

 私の大腸がんが確認されたのが、2016年4月。翌月に手術した。
 ここのところ知人から、本人ないし近親者が大腸がんに罹患あるいは再発したとの連絡が續いた。
 私の川高以来の友人から直腸がんのステージ3と診断されたとの連絡があったのが、私が退院して少し経ったころ。
 彼とは親しくしていたから、確か彼の血縁者の何人かが大腸がんに罹患化していることを思いだした。
 リンチ症候群(遺伝性大腸がん)であれば、免疫チェックポイント阻害薬のキイトルーダが有効である。
 手術を決める前に、リンチ症候群が否か確認するように伝えた。
 次に連絡があったのが、私より一学年下の司法書士から。
 京都の知り合いが、大腸がん再発とのこと。
 私が再発の手術をした医療機関を教えて欲しいと。
 草津市の淡海医療センターで、執刀医は、同センターの副院長の水本明良医師であると伝えた。
 そして昨日、私より八学年下で牛久保出身。現在一部上場企業の研究所の副所長の知人から。
 彼からは数年前にも兄が大腸がんに罹患したとの連絡があった。私より三学年下の彼の兄が大腸がんステージ3と。
 今回、その彼の兄のがんが再発したらしい。
 彼も彼の兄からまだ詳しい話を聞いていないようだ。
 ただ、彼の家も、彼の母や彼の母の兄弟が大腸がんに罹患していることから、リンチ症候群の可能性も高い。
 一昨日の投稿「老年と読書」↓の著者・前田速夫さんは、大腸がんステージ4と診断され、まず原発巣を手術で削除し、手術後に化学療法で転移した腫瘍を縮小させ、転移した腫瘍の削除手術をしている(同書「はじめに」より)。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1244948.html
 牛久保出身の一部上場の研究所の副所長の兄のがんは、上記のように、転移か再発か詳しくはわからないが、なぜかこのクニの医療機関では、手術をすると、化学療法などの内科的治療も手術をした外科が受け持つ。
 彼の話では彼の兄も再発の手術をするとのことだが、外科は切らなくてもいいものまでもやたらと切りたがる。
 私は彼の兄を全く知らないわけではないから、腫瘍内科や放射線科医の意見も聞くように伝えて置いた。

追記(16:32)
 がん細胞が熱に弱いという性質を利用した光線療法については、下記の9.22の投稿を参考にしてください。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1244449.html

追記(18:12)
 先程、川高以来の友人と電話で話したら、抗がん剤でがんは縮小し、手術ではなく、内視鏡で腫瘍を削除できるとのこと。
 これでストームというのはなくなる。良かった、良かった。
 友人が治ったら、一盃御馳走してもらうことになった。
 がんが再度再発して以来、呑む気にもならなかったが、今晩は少し吞もうと思って吞んでいたところでの友人からの連絡であった。
 肴は、以前投稿した「イカと胡瓜の炒め物」だ。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1239055.html  


Posted by 柴田晴廣 at 09:46Comments(0)雑談

2022年09月28日

老年の読書

 『老年の読書』(新潮選書)を、著者で、私と同じ大腸がんステージ4の新潮の元敏腕編集長の前田速夫さんから頂いた。
 まだ「はじめに」しか読んでいないが、その冒頭には、前田さんが、大腸がんステージ4と診断された経緯が記されている。
 私もがんに罹患し、確認された経緯を『穂国幻史考(増補新版)』の「あとがき」及び第三話の「あとがき」に記してある。
 以下に『老年の読書』の「はじめに」の冒頭を引用する。
 「最初の兆候は、二〇一三年一月六日の朝、カメラマンの友人と岐阜県の長滝白山神社の六日祭に参列したときのことだった。一面銀世界で、あたりがしんしんと冷えるなか、禪や泊まった宿から相棒と神社に向かう途中で、急に右下腹が傷みだし、路上にしゃがみこんでしまった。痛みはなかなかおさまらない。そこで、私ひとり宿に戻って布団を敷き、丸まっていると、一時間もしないで嘘のように痛みは消えた。それからは予定通りに祀の一部始終を見学し、祭が果ててからは宮司家に呼ばれて、関係者との祝宴にも加わった。」
 「その後はなにごともなく過ぎたが、夏ごろから時おり胃のあたりがしくしくするので、月に一度降圧剤を出してもらっているかかりつけの医院で、そのことを告げると、触診したとたんに医師の表情が変わり、翌日地元の総合病院で精密検査を受けて、私はステージ4のがんかんじゃとなった。」
 『老年の読書』の「はじめに」の前田さんががんと診断された権威と私ががんと診断された経緯とでは、幾つかの点で共通する。
 私が、大腸がんステージ3と診断されたのは、二〇一六年の四月の下旬であるが、その約八か月前の八月の盆過ぎ、昼飯を食べた後、腹痛でやぐるった。やぐるったのは一時間程、その後は、なにごともなかったように二〇一六年の四月の地元の若葉祭を迎えた。その折、何人かに顔色が悪いといわれ、祭禮の翌々日、渋々近所の星野医院(豊川市牛久保町常盤)に行くと、見るまでもなく悪い、触診でおそらく大腸がんだろうと。
 その足で、豊川市民病院に行き、四月の下旬に大腸がんステージ3と診断された。
 風痛でやぐるったとき、もう少し痛みが治まらなければ救急車をと思ったが、救急車を呼ぶ前に痛みは治まった。
 痛みは治まってもあの時、救急搬送されていればとの思いは今もある。
 少なくともあのとき、救急搬送しておれば、手術の後、転移してstage4となることはなかっただろう。
 がんは昔の結核のように、不治の病から完治できる病になりつつあるが、光免疫療法が多くのがんに適用になるまでは、早期に治療するに越したことはない。
 前田さんや私のように、激しい腹痛があったら、一時間程でおさまっても、医者に行くべきである。そうすれば、ステージ4になることもない。
 現時点で大腸がんのステージ4になっても、知識があれば助かるが、知識がなく、医者の言いなりの治療を受けておれば、助かる確率は限りなく低くなる。
 自身で特許公報等からがんのメカニズムを把握できる自信のない方は、腹痛があったらすぐに医者に行くことを薦める。  


Posted by 柴田晴廣 at 06:57Comments(0)雑談

2022年09月27日

自民党という集団

 このブログでも安倍については、何度か投稿しているが、はっきり言って、麻生とセットで無脳の極みと思っている。
 外交で功績があったとの報道もあるが、海外行って金をばらまいてくるぐらい、幼稚園児でもできる。
 外遊とは的を射た表現である。
 外交でも何でもない、海外行って遊んでいるだけだ。それも大尽遊び。
 困ったことに、その無脳の安倍の外交を岸田は受け継ぐという。
 大尽遊びはポケットマネーでやってくれ。国葬儀という大尽遊びも同様だ。
 森、小泉に始まり、自民党総裁は、どれもこれも無脳ばかりだ。特に清話会。
 自民党入党前はもう少しまともだと思っていたが、細野豪志も無脳になった。
 「武道館周辺で抗議行動をするのは控えてほしい」と、国葬反対派に呼びかけているが、国葬儀が行われる武道館周辺で抗議活動をしてこそ意味がある。
 細野は、抗議活動を小笠原諸島でやって意味があるとでも思っているのだろうか。
 そもそも武道館の北100メートルほどに位置する九段坂公園に献花台が設けてある。細野の言からすれば、こんなところに献花台を設ける必要はないということになろう。
 朱に交われば赤くなるというが、森―小泉以降の自民党という集団に入ると、無脳化するのだろうか。
 コロナウィルスより感染力も強い厄介なウィルス=自民党ウィルス。  


Posted by 柴田晴廣 at 11:20Comments(0)雑談

2022年09月22日

光免疫療法新たな展開

 開発者の小林久隆さんは、帰国し、四月一日に関西医科大学の光免疫医学研究所の所長に就任しました。
 その動きとは直接関係しませんが、昨日のニュースで、光免疫療法の新たな展開が紹介されていました。
 番組では、放送時間の都合等で詳細な説明はありませんでしたが、東京大学先端科学技術研究センターの㏋に載っている下記の研究だと思います。
https://www.rcast.u-tokyo.ac.jp/ja/news/release/20220920.html
 近赤外線での照射の光免疫療法の問題点は、身体の深部まで光線が届かない点でした。
 頭頚部がんに特化していたのもこれによります。
 今回東京大学先端科学技術研究センターが開発した治療では、近赤外線が身体の深部まで届くようになったようです。
 このHPでは、乳がんのみの実験結果が記されていますが、テレビ番組では、開発者の一人の児玉龍彦さんが大腸がんにも有効だと話しておりました。
 体の深部まで照射できるようになれば、乳がん、大腸がんのみならず、ほとんどのがんが適用対象になるはずです。

光免疫療法についての補足(19:02)
 がんは熱に弱く、42度程度でがん細胞は死滅します。
 光免疫療法は、がん細胞に結び付きやすい抗体に、光線に反応し、発熱する物質を載せて、点滴でがん細胞に結び付け、結び付いたのちに、光線を照射し、光線に反応し、発熱する物質を発熱させ、がん細胞を死滅させるという治療法です。
 免疫療法を謳っているのは、がん細胞が出来ても、がんに罹患しないうちは、免疫細胞によりがん細胞は破壊されますが、がんに罹患すると、がん細胞が免疫細胞をブロックする物質をだし、免疫細胞の攻撃から逃れます。
 ところが、がん細胞が死滅するときに、免疫細胞をブロックする物質も破壊され、免疫細胞が正常に機能するようになります。
 したがって一部のがん細胞を死滅させるだけでも、免疫細胞が正常に機能し、残りのがん細胞も死滅させることが出来ます (Abscopal effect)。
 故に免疫療法の名が付いています。

追記(21:01)
 がん細胞が熱に弱いことを利用した、光線等を使った温熱療法には、光免疫療法の他、高周波(ラジオ波)温熱療法(ハイパーサーミア、オンコサーミア)、集束超音波療法があります。

追記2(2022.09.23 10:57)
 ハイパーサーミアは大腸がんは保険適用。
 オンコサーミアは、選択的にがん細胞だけの周辺を加熱し、これが細胞内外の温度差を生じさせることでがん細胞の細胞膜を破壊し、自死(アポトーシス)を起こすことを目的とした治療法で、まだ大腸がんには保険適用になっていません。
 集束超音波療法は主にパーキンソン病の治療に用いられ、パーキンソンは保険適用。
  


Posted by 柴田晴廣 at 08:46Comments(0)雑談

2022年09月17日

筋トレ開始

 二月にがんの再度の再発が確認されてから、七月五日の手術前までに体重が25キロほど落ちました。
 手術後、6キロほど戻しましたが、数日前から、気合を入れての筋トレを始めました。
 意識的に外側の筋肉を重点的に鍛えております。
 外側の筋肉を重点的に鍛えていることからもわかるように、目指すはギリシャ彫刻ではなく、慶派の金剛力士像の肉付きです。
 慶派の金剛力士像の上半身の肉付きの特徴は、逞しい前鋸筋にありますが、これを鍛えるにはフリーウェイトによることとなります。
 フリーウェイトの方がマシンより筋肉の増量は早いですし、3ヶ月ぐらいで、筋肉だけであと10キロぐらい戻したいですね。
 大腸がんの再発であることから服用している、整腸、食欲増進、そして二日酔いにも効く半夏瀉心湯の効果にも期待して、食べて運動をして体重を増やそうと思います。

追記(2022.09.29 14:48)
 豊川市民っ病院に受診に行ったついでに体重を計ったら、また2キロほど増えていた。
 効果が出始めたということだろう。
 あと8キロ、頑張って戻そう。  


Posted by 柴田晴廣 at 18:59Comments(0)雑談

2022年09月11日

推敲中の『穂国幻史考(増補新版続編)』の説明2

 「山本勘助と牧野氏」は、私の母の小中学校の同級生で、スポーツ史学会会長等を歴任した稲垣正浩(一九三八~二〇一六)博士が主宰していた21世紀スポーツ文化研究所の月例会(二〇二二年六月二六日)「『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む」での名古屋経済大学短期大学部元教授の船井廣則さんが、私の「うなごうじ蛆蟲由來説」は、根據のない妄説との言説の丁寧な説明をし、それを受けて、青山学院大学教授の河本洋子さん(旧姓牛窪)の山本勘助が主人公だった二〇〇七年の大河ドラマ「風林火山」で、牛久保に興味を持ったとの発言を基に、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」第四章「牧野氏の出自」、拾遺二「牛久保と山本勘助」、拾遺三「『牛久保古城圖』考」及び拾遺四「善光庵の創建と再建」の記述を適宜繋ぎ合わせたものである。
 『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺二「牛久保と山本勘助」及び拾遺三「『牛久保古城圖』考」では、法月山光輝庵(豊川市光輝町二丁目/淨土宗)所藏の『牛久保古城圖』に描かれた、勘助が養子に入った大林勘左ヱ門の屋敷と、現在勘助の遺髮塚のある武運山長谷寺(豊川市牛久保町八幡口/淨土宗)の位置が一致することから、勘助の總角(あげまき)を養家の大林家が保管しており、その總角を勘助の死後、屋敷の一角に供養として埋め、その後、大林家の跡地に長谷寺が移轉して來たのではないかという私が建てた假説の證明にあったが、「山本勘助と牧野氏」の表題の通り、山本家と牧野家の關係をテーマに考察した。
 「山本勘助と牧野氏」と、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺二「牛久保と山本勘助」及び拾遺三「『牛久保古城圖』考」が、異なるのは、『穂国幻史考(増補新版)』では、言及していない事柄=『姓氏家系大辭典』の「牛窪」の項を足したことである。
 この『姓氏家系大辭典』の「牛窪」の項を書き足したことにより、『穂国幻史考(増補新版)』にはない視点が加わったことから、一稿にまとめることとした。

 「大成經の僞作者・山鹿素行」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺四「善光庵の創建と再建」の二つ目の見出し「善光庵の再建者・潮音道海と「大成經彈壓事件」」から、「大成經」の眞の僞作者について考察した言説を拔き出し、タイトルの通り、その僞作者は山鹿素行である旨を主張した小論である。
 『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺四「善光庵の創建と再建」の二つ目の見出し「善光庵の再建者・潮音道海と「大成經彈壓事件」」では、潮音道海が大成經の僞作者とする廣く知られた説に疑問を持ち、大成經の僞作者は本當に潮音道海なのかを考證した論考である。
 加えて置けば、この山鹿素行。明からの亡命者・朱舜水(一六〇〇~一六八二)の「夷狄である清によって治められている中国は、もはや中華の國でなく、日本こそが中華である」との言説を眞に受けたお目出度い人物でもある。
 日本列島で通貨としての機能が發揮される貨幣が發行されるのは、寛永一三(一六三六)年に鑄造が始まる寛永通寶の登場を待たなければならない。朱舜水が來日する四半世紀前のことだ。それまでは明の永樂帝(一三六〇~一四二四/在位一四〇二~一四二四)が發行した永樂通寶などの中国錢が通貨として流通していた。グアム(Guåhån)の通貨は、アメリカドルである。グアムはアメリカ合衆国の州ではないが、準州である。中国の貨幣が通貨として使われていた日本は、中国の準州のような地域なのだ。通貨發行權を手に入れたばかりの日本を「日本こそが中華である」と稱賛するなど、朱舜水の本心であるはずもない。それもわからず、朱舜水の言を眞に受けたのが、山鹿素行だ。
 加えて暦についても、貞享二年一月一日(一六八五年二月四日)に宣明暦から改暦された澁川春海(一六三九~一七一五)により編纂された貞享暦の採用までは中国からの借用であった。通貨と同樣に、江戸時代に入り、自前で暦を編纂するようになる。中原では、皇帝は空間のみならず、時間をも支配すると、考えている。中華思想の信奉者の朱舜水が、借りものの暦法を使用している日本を中華の國などと思っているはずもない。山鹿素行は、ほどほどお目出度い人物だ。
 そのお目出度い山鹿素行が、僞書「大成經」を創作したのである。

 『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の二つ目の見出し「菟足神社の徐福伝説説明板を檢證する」は、菟足神社に設置された「菟足神社と徐福伝説」と題する説明板に記された内容を檢證した論考である。
 その中の最後の小見出し「生贄神事は中国的か――奥三河の鹿射神事及び諏訪の御頭祭と菟足神社の生贄神事」では、右記説明板が、中国的とする、『今昔物語』及び『宇治拾遺物語』に載る菟足神社の風祭の猪の供犧が、本當に中国的な習俗かを考察した論考である。
 「菟足神社の風祭と諏訪の御頭祭」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の二つ目の見出し「菟足神社の徐福伝説説明板を檢證する」の最後の小見出し「生贄神事は中国的か――奥三河の鹿射神事及び諏訪の御頭祭と菟足神社の生贄神事」で引用する『今昔物語』及び『宇治拾遺物語』に載る菟足神社の風祭の猪の供犧は、中国的なものではなく、繩文に遡る狩獵採取文化に基づくものである旨の説明をした。
 その名殘と考えられる東三河平野部に殘る神幸に隨伴する獅子頭から、風祭の猪の供犧が具體的にどのようなものであったかも推測した。

 『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の最初の見出し「非農耕民と秦氏――東三河を中心に」の三つ目の小見出し「牧野氏と鶴姫傳説――信長の世に廢寺となった豐川村東光寺」で、菊池山哉(一八九〇~一九六六)著『特殊部落の研究』を引用し、東國の被差別部落では、白山妙理權現を鎭守とし、東光寺を寺號とする藥師堂を祀る旨を紹介した。
 東國の被差別部落が白山妙理權現を鎭守とし、東光寺という寺號の藥師堂を祀ることについて本地埀迹説から檢討すれば、この信仰は東國の被差別部落に限ったことではなく、被差別部落の信仰の本質は祇園社にあるといえる。
 本地埀迹説をほんの尠しでも理解しておれば、白山妙理權現と東光寺という寺號の藥師堂が犬神人が隷屬する祇園感神院が結び付くことは容易に気が付くことであるが、なぜかそうした言説を私は知らない。
 「祇園感神院とその祭神の本地」は、白山妙理權現と東光寺という寺號の藥師堂が犬神人が隷屬する祇園感神院がどう結び付くかを佛説から説明した小論である。

 「專願寺の大施餓鬼」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の最初の見出し「非農耕民と秦氏――東三河を中心に」の最後の小見出し「牛頭天王の本地と播磨、そして秦氏――祇園感神院及び『野馬臺詩』が記す日本の國姓」で採り上げた專願寺の大施餓鬼についてまとめたものであり、なぜに東三河平野部の初盆を迎える親族等が、專願寺の大施餓鬼に出向くのかを、專願寺という寺院の歴史的背景、專願寺という寺院のある場所、專願寺で大施餓鬼が行われる日時等から、本地埀迹説を絡めて説明した小論である。

 『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」で、引用した京極夏彦・多田克己編『妖怪図巻』「ひょうすべ」の項は、潮見神社(佐賀県武雄市橘町大字永島)の河童傳承を紹介するが、なぜに潮見神社に河童傳承が殘るかの説明はない。
 「伊豫橘氏と河童傳承」では、なぜに潮見神社に河童傳承が殘るかを、同社の祭神の一柱・橘公業の出自を伊豫橘氏とする説があることから、伊豫橘氏をキーワードに河童との接點を探った。
 中で、渭伊神社(浜松市北区引佐町井伊谷)の裏山の呼稱、菩提寺の萬松山龍潭寺(臨濟宗妙心寺派)の本尊等から、伊豫橘氏を本姓とすると推測される井伊氏の周邊に傳わる龍宮、龍神傳説から、河童との繋がりを考證するとともに、三嶋神の東漸と、砥鹿という名の神社の分布から、御伽草子で、龜に乘って龍宮に行ったといわれる浦島太郎へと、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」で、引用した京極夏彦・多田克己編『妖怪図巻』「ひょうすべ」の項は、三河の設樂氏(本姓三河大伴氏)の河童傳承についても言及することから、『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀伝説」の拾遺「富永系圖と木地師」の最初の項「海倉淵の椀貸傳説」での三河大伴氏の龍宮との繋がりについての話へと展開した。

 縁日などで、たこ焼き、鯛焼きなどを商う屋台。暴力団の資金源の一つと考えている方が多いと思う。
 筆者の家は代々、その暴力団の資金源の一つと考えられている露天商の親方であった。親方といっても、狹い範圍の露天商を管轄していた親方ではなく、令制國の三河國一帶を管轄するの親方であった。
 だが、曾祖父・柴田庄五郎(一九一五年七月二九日逝去)亡き後、祖父・銀治(一九〇三・六・二四~一九八五・四・七/銀山清澄居士)が親方を繼ぐも、露天商が博徒と一皍夛になり暴力團化してしまうことを嫌って、祖父は商賣替えをした。
 祖父の行動からわかるように、露天商は、暴力団とは一線を画すものであり、博徒とも別物である。
 ところが、世間一般の露天商の認識は、暴力団の一翼を担うといったものがほとんどであり、研究書といったものまでもが、祖父がいう博徒と一皍夛になった後の露天商について語ったものばかりだ。
 「人口に膾炙した露天商の認識を糺す」では、主に『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」の最後の小見出し「三島神と鳶澤甚内――火明命を中心とした海人の世界」の項の露天商の記述を基に、人口に膾炙した露天商の認識を糺すことを目的とし、露天商の歴史、博徒や暴力団との違い、無宿人との違いから、露天商とは何かを明示するとともに、商いという面から露天商の実像を顯らかにした小論である。

 『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」の「三州吉田の怪猫騷動」の項で引用したルイス・フロイス著『日歐文化比較』には、耶蘇教文化圈と比べ、日本の女性は自由で、自立しており、地位も高かった旨が記されている。
 「耶蘇教の傳來と女性の地位の変化」では、日本の女性が耶蘇教文化圈の女性と比べ、なぜに自由で、自立しており、地位も高かった理由を、母系制、夫婦別姓といったキーワードから解明した。
 このクニで、夫婦同姓が一般的になるのは、耶蘇教の影響であり、耶蘇教の影響で、日本の女性の社会的地位が低下したことを説明した。  


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2022年09月10日

推敲中の『穂国幻史考(増補新版続編)』の説明1

 『穂国幻史考(増補新版続編)』は、『穂国幻史考(増補新版)』で展開した独自の説及び、その独自の説の前提となる言説を抽出して、まとめたものである。

 「風土記撰上と佳字二字令」は、『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の序「穗國とは」から、風土記撰上及び佳字二字令について言及した言説を拔き出したものであり、主に『續日本紀』卷六和銅六(七一三)年五月癸亥朔甲子(二日)條の記述を基に、風土記撰上と佳字二字令が何を目的に制定されたかを考察した。
 「風土記撰上と佳字二字令」の詔が出された和銅六年は、『日本書紀』のゲラ刷りたる『古事記』完成の翌年になる。『日本書紀』は、史實を後世に傳える目的で編纂されたものではなく、史實を消し去り、新たに創作した物語をあたかも歴史の如く語ったものである。
 「記紀」では、「記紀」が初代天皇とする神武の東征で、大和盆地に入るとき、近畿地方には、土蜘蛛を始め、古モンゴロイド(繩文人)の身體的特徴を有する人々がいたことが記されている。佳字二字令及び『風土記』に收録された地名由來譚は、神武が征討した先住者の付けた地名を消すことにあった。
 『古事記』序文第三段も、「然 上古之時 言意并朴 敷文構句 於字皍難」と、「上古の言葉を漢字に直すのは困難である」旨を記し、その例として「日下」を擧げ、「於姓日下謂玖沙訶」と、「日下は玖沙訶と訓むが、日下とそのまま記した」旨を述べる。
 このクサカは、先住者の言葉であり、繩文語の流れを汲むアイヌ語で「舟で運ぶ・岸」を意味する"kusa・ka"に由來する。これをもってしても、『風土記』の編纂意圖をうかがい知れよう。
 『風土記』の撰上及び佳字二字令は、『日本書紀』を裏から支え、先住者の歴史を消し去り、創作された新たな物語を史實と誤認させる目的で制定されたものであることを説明した。

 「日本書紀の暦日とその著述年代」は、『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の第一章「「記紀」の成立過程と穗國」の第一節「「記紀」の編纂はいつ始められたか」から『日本書紀』の編纂時期について言及した言説を拔き出し、まとめた小論である。
 『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の第一章「「記紀」の成立過程と穗國」の第一節「「記紀」の編纂はいつ始められたか」は、そのタイトルの通り、「記紀」の編纂がいつ始められたかについて考察した論考である。
 一般には、『日本書紀』の編纂は、天武の時代に始められたとされる。その根據は、『續日本紀』、『日本書紀』及び『古事記』の記述に基づくが、ミスリードを誘発する記述を含む、『古事記』、『日本書紀』及び『續日本紀』は僞書といえる。
 この僞書の記述に基づく、『日本書紀』の編纂は、天武の時代に始められたとする通説に疑いを持ち、「日本書紀の暦日とその著述年代」では、暦法の研究者の小川清彦(一八八二~一九五〇)さん及び中国語学者の森博達さんの言説を踏まえ、持統の時代に編纂が始められた旨を説明した。

 『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の第一章「「記紀」の成立過程と穗國」の第二節「皇祖神アマテラスの創造と伊勢神宮の創立」では、祀られる神アマテラスは、「記紀」の編纂時に創作されたものであったことを、同章第三節の「アマテラスの誕生と持統三河行幸」竝びに第三章「彷徨うアマテラス」の第一節「ヤマトヒメの巡幸」では、その祀られる神アマテラスを容れる器たる皇大神宮が出來るのも、『日本書紀』の編纂が始められる持統の時代であること、『續日本紀』が默して語らない持統三河行幸の目的を、『萬葉集』に收録された歌から、東三河の制壓であったこと、その制壓の目的は、祀られる神アマテラスの創造の障碍を取り除くことであったことを顯らかにした。
 「皇大神宮の創建と持統三河行幸」では、主に『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の第一章「「記紀」の成立過程と穗國」の第二節「皇祖神アマテラスの創造と伊勢神宮の創立」及び第三節「アマテラスの誕生と持統三河行幸」竝びに第三章「彷徨うアマテラス」の第一節「ヤマトヒメの巡幸」における言説を基に、皇大神宮が創建されたのは、持統の時代であり、持統三河行幸の目的は、穗國の制壓にあったとの独自の説を詳細に説明した。

  「天皇の棄姓とその弊害」は、『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の第四章「虚構の万世一系と持統の生い立ち」の第一節「易姓革命から逃れるために姓を棄てた持統」で主張した言説の要點=天皇に姓がないのは、易姓革命を逃れるため、その棄姓により、現在まで續く、民のためにならないクニは潰すという当たり前が通用しない弊害について説明した。
 なお北畠親房(一二九三~一三五四)が著した『神皇正統記』卷二應神條には、「昔日本は三韓と同種也と云事のありし かの書をは 桓武の御代にやきすてられしなり」との記述がある。「桓武の御代にやきすてられ」た書には、天智(六二六~六七二)の出自が詳しく記されていたと考えられる。乙巳の變について記す『日本書紀』卷二四皇極四(六四五)年六月戊申(一二日)條は、蘇我入鹿(六一一?~六四五)の屍を見た古人大兄(?~六四五)は、「見走入私宮 謂於人曰 韓人殺鞍作臣 謂因韓政而誅 吾心痛矣 皍入 杜門不出」と、「自宅に入り「韓人が、鞍作臣を殺した」といい、自宅に引き籠った」とあるからだ。鞍作臣とは入鹿のことである。同卷皇極元(六四二)年一月丁巳朔辛未(一五日)條で、「大臣兒入鹿更名鞍作」と、「鞍作は入鹿の別名」と記してある。この入鹿に最初に斬りかかったのが中大兄、後に天智と呼ばれる男だ。入鹿に最初に斬りかかった韓人は天智のことであり、「三韓と同種也」と天智の出自が詳しく記された書は、天智の男系の子孫・桓武(七三七~八〇六)の時代に焼き棄てられたのだ。
 ちなみに持統(六四五~七〇三)及び元明(六六一~七二一)の父は、天智であるが、その元明の皍位の詔について記載する『續日本紀』卷四慶雲四(七〇七)年七月丙申朔壬子(一七日)條は、「是者關母威岐近江大津宮御宇大倭根子天皇乃 與天地共長 與日月共遠 不改常典止立賜比敷賜覇留法乎 受被賜坐而行賜事止衆被賜而 恐美仕奉利豆羅久止詔命乎衆聞宣」と、皇位繼承の根據を天智が定めたとされるいわゆる不改常典に求めている。
 このクニには、韓人=天智の子孫が天皇として、いまも居座っている。「日帝三十六年」どころの騒ぎではない。

 「御靈信仰と靖國」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺一「「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と豊川流域の「笹踊」」補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」の最初の見出し「平田派國學者・羽田野敬雄の牛久保觀」の三つ目の小見出し「わが國本來の神祭りとは乖離した國學思想」から、八百萬の神祭りから逸脱した神祭りの一例として擧げた靖國に關する言説を抽出し、まとめたものである。
 その靖國は、無念の死を遂げた兵が天皇に祟るのを防止するための怨靈の鎭魂施設であり、A級戦犯十四名もまた天皇裕仁の代わりに処刑されたことから、怨靈になると判断され、靖國に合祀されたのである。靖國を宗教施設として考察すれば、A級戦犯十四名を靖國に合祀した神職は、戰爭責任は裕仁(一九〇一~一九八九)にあったと考えていたのである。裕仁が、A級戦犯十四名が合祀された後、靖國に参拝していないのは、自身に戰爭責任ありとした靖國の神職たちに対する抗議の意思表示だ。
 「御靈信仰と靖國」では、以上の内容を詳しく説明した。

 「日本人という曖昧な概念」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺一「「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と豊川流域の「笹踊」」補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」の最初の見出し「平田派國學者・羽田野敬雄の牛久保觀」の最後の小見出し「遠州灘近海にも多くの外國船が航行」から、日本人の概念について言及した言説を拔き出した小論である。
  日本人という概念は、生物学的な血統によるものではなく、日本列島の文化を享有しているという歴史的文化的視点からの分類でもなく、明治政府が徴兵制を施行した時點での明治政府が兵として召集出來る男子を含む家族を日本人と定義したに過ぎない。
「日本人という曖昧な概念」では、徴兵制施行に遡る明治政府が考えた日本人の概念と、一般にいわれる日本人の概念の乖離から、日本人という概念が如何に曖昧なものであるかを説明した。

 「西寶の七福神踊」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺一「「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と豊川流域の「笹踊」」補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」の二つ目の見出し「田中緑紅主宰『鄕土趣味』の功罪」の四つ目の小見出し「稻垣豆人が「出し豆腐」以上に興味を示した「七福神踊」」から、三河灣最奧に位置する舊寶飯郡西部で傳承される神事藝能「七福神踊」について、そのエッセンスをまとめたものである。
 三河灣最奧に位置する舊寶飯郡西部の神事藝能「七福神踊」は、「七福神踊」といっても、辯才天の代わりに白狐が加わり、なぜか毘沙門天あるいは壽老人を缺いていた。
 「西寶の七福神踊」では、辯才天の代わりに白狐が加わる理由を、『源平盛衰記』卷二八の「經正竹生島詣付仙童琵琶の事」で、平經正が竹生島に参詣し、辯才天の社前で琵琶を奏でると、白狐が出て來たとの記述を手掛かりに説明した。この『源平盛衰記』の記述から、狐は辯才天の使いと考えられるが、竹生島の辯才天像の頭頂部には小さな宇賀神が載る。この宇賀神と伏見稻荷の主祭神・宇迦之御魂神との混同が生じたことから、辯才天の使いが狐となり、辯才天の代わりに白狐が加わった旨の説明をした。
 次に毘沙門天を缺くのは、毘沙門天は、惠比壽神の本地であるとの言説から、壽老人を缺くのは、壽老人と福祿壽は、ともに南極老人星(Canopus)の化身であるとの言説から、毘沙門天あるいは壽老人を缺く理由を推測した。
  


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2022年08月27日

『穂国幻史考(増補新版続編)』

 『穂国幻史考(増補新版)』が遺作になるかと思ったが、往生際悪く生き延びれたようだ。
 そんなことから、『穂国幻史考(増補新版続編)』をまとめてみた。
 『穂国幻史考(増補新版)』で、展開した独自の説及びその独自の説の前提となる言説を抜き出し、まとめた論考集だ。
 現時点で、298P、166,118字。
 推敲中だが、一応、下記に目次を記す。

はしがき 8
風土記撰上と佳字二字令 17
 佳字二字令により消された地名 18
『風土記』に收録された地名由來譚 20
日本書紀の暦日とその著述年代 23
 日本書紀の編纂は、いつ開始されたか 24
 日本書紀に用いられる暦法 30
 倭臭の違いから分類した日本書紀の各卷 34
皇大神宮の創建と持統三河行幸 41
 アマテラスの變容 42
 祀られる神アマテラスと倭姫巡幸 49
 持統三河行幸を萬葉集から考察する 50
天皇の棄姓とその弊害 61
『隋書』が記す倭王の姓 62
 易姓革命を回避するための棄姓とその弊害 65
御靈信仰と靖國 69
 靖國の起源は招魂祭 70
 靖國は怨靈を鎭魂する宗教施設 72
日本人という曖昧な概念 81
 血統主義と出生地主義 82
 明治六年の時點で、明治政府の權力が及ぶ範圍にいたか否か 84
 国籍法との乖離 85
西寶の七福神踊 89
 なぜ辯才天の代わりに白狐か 90
 毘沙門天あるいは壽老人を缺く理由 94
山本勘助と牧野氏 97
『武功雜記』の記述が勘助の實在を證明 98
『牛窪密談記』における山本勘助の記述 102
 菅姓山本家系圖 104
 牧野氏の出自 111
大成經の僞作者・山鹿素行 119
 大成經彈壓事件と潮音道海 120
 高野本と山鹿素行 123
 大成經の系譜 135
菟足神社の風祭と諏訪の御頭祭 139
 風祭の供犧 140
 神幸に隨伴する獅子頭 147
祇園感神院とその祭神の本地 165
 東光寺と白山妙理權現 166
 祇園感神院と犬神人 167
 補陀落と東照大權現 174
專願寺の大施餓鬼 179
 專願寺の前身は專求庵 180
 施餓鬼とは 184
 葬頭姫を祭神とする三ツ相の水神社 185
 夏越祓と專願寺の大施餓鬼 193
伊豫橘氏と河童傳承 209
 橘公業と伊豫橘氏 210
 伊豫橘氏と龍神傳説 212
 海倉淵の椀貸傳説 224
人口に膾炙した露天商の認識を糺す 231
 博徒との違い 232
 商いという面からみた露天商 253
 無宿人の系譜 262
耶蘇教の傳來と女性の地位の變化 269
 夫婦別姓と母系制 270
 女丈夫の系譜 273
あとがき 280
主要参考文献 294  


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2022年08月26日

豚挽き肉と豆腐のカレー炒め


 麻婆豆腐に見えるが、麻婆豆腐ではない。
 タイトルの通り、豚挽き肉と豆腐のカレー炒めだ。
 大蒜、生姜の微塵切り、豚挽き肉、豆腐にヱスビー食品のカレー粉、コーミのオイスターソース、イチビキの本醸造醤油で炒め、水溶き片栗粉でとろみをつけ、葱の薬味を散らした。
 カレー粉と生薬は共通するものも多い。夏バテ防止にもなるだろう。  


Posted by 柴田晴廣 at 18:03Comments(0)雑談

2022年08月10日

スパゲティにキーマカレーをかけた

キーマカレースパゲティ

 昼はスパゲティにキーマカレーをかけて食べた。  


Posted by 柴田晴廣 at 12:22Comments(0)雑談

2022年08月05日

Gurkha

グルカ

 グルカショーツとグルカサンダルを購入した。
 Gurkhaは、ネパールの地名であり、そこに住む部族の名称である。
 そのGurkhaが、1857年に始まったインド大反亂でイギリス軍に加わったグルカ兵が履いていたショーツ及びサンダルがグルカショーツとグルカサンダルの起源である。
 シャツは、以前グルカパンツに合わせていた胸ポケットにフラップが付いたインディアンファブリックの生地。
 これでピスヘルメット(防暑帽)を合わせれば、完璧だが、そこまでやるのも、さすがの私も気恥ずかしい(笑)  


Posted by 柴田晴廣 at 05:25Comments(0)雑談

2022年08月04日

ISC21六月月例会「『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む」の感想等 2

 瀧元先生は、武と舞の同根性を研究のテーマとされている。
 相撲は「素舞ひ」が語源といわれるが、私は芝居の語源も「素舞ひ」だと考える。
 つまり私も、武と舞は同根と考えている。
  『穂国幻史考(増補新版)』第三話附録一のタイトルを「相撲雑話」としたのは、相撲部屋というビジネスモデルを介して、本場所及び巡業という興行の特殊性にまでは言及することが出来なかったからだ。
 横綱はボクシングのチャンピオンとは異なる。本場所はトーナメント戦でもなければ、リーグ戦でもない。もちろん本場所の幕の内優勝力士が横綱を名乗れるわけではない。
 武と舞の同根性からいえば、相撲部屋の一門は、歌舞伎役者の屋號に似る。
 歌舞伎役者の屋號の多くは、役者の實家の芝居茶屋や出方の屋號を転用したものだった。
 正式名・相撲案内所=相撲茶屋の主人は逆に元力士の関係者である。
 茶屋と本場所での興行は、プロボクシングやプロ野球より、芝居の興行と芝居茶屋に似る。
  稲垣博士は、スポーツと娯楽、スポーツと贈与を研究テーマの一つとされていた。
 瀧元先生も指摘されておるように、『穂国幻史考(増補新版)』は、繩文の視点から、日本列島の歴史を捉え直したものである。
 相撲についても、相撲節會に先立ち、部領使と呼ばれるスカウト役が諸國から力士を集めた。部領使は、防人を引率した役職であり、七世紀中ごろには、この防人を引率した部領使が、蝦夷の俘囚を移配先に護送するようになる。節會時代の力士を考える上では、繩文の視点が必要なのである。
 相撲部屋は、ボクシングジムと日本ボクシング協会の関係と異なり、日本相撲協会からの独立性が高い。相撲部屋の継承の実態は、女将から娘という母系を基本とする。繩文の視点が必要なのである。
 稲垣博士のもとで学んで来られた瀧元先生には、以上のような観点から、武と舞の同根性についての関係を是非言及して行って頂きたいと願う。

 最後に竹村さんの発表であるが、稲垣博士から、21 世紀スポーツ文化研究所編『スポートロジイ』第二号を頂いており、そこに収録されていた竹村匡弥著『野見宿禰と河童伝承に潜む修祓の思想』については、『穂国幻史考(増補新版)』拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」の二つ目の小見出し「ひょうすべと三島神――三島神が降臨した攝津三島江と上宮天滿宮」で採り上げている。
  『野見宿禰と河童伝承に潜む修祓の思想』をタイトルとする論考で、竹村さんがいう「河童伝承」とは、潮見神社(佐賀県武雄市橘町大字永島)に代々傳わる「ヒョウスベよ 約束せしを忘るなよ 川立ておのが あとはすがわら」との呪文をいう。潮見神社は、橘諸兄(六八四~七五七)、橘奈良麻呂(七二一?~七五七)、橘島田麻呂(生没年不詳)、橘公業(生没年不詳)及びその後裔で河童(兵主部)の主という澁谷氏を祭神とする。
 この潮見神社に傳わる上記呪文については、京極夏彦・多田克己編『妖怪図巻』「ひょうすべ」の項(一四四・一四五頁)でも採り上げているが(『穂国幻史考(増補新版)』拾遺五補遺の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」参照)、竹村さんも、『妖怪図巻』「ひょうすべ」の項も、何故に橘氏及びその後裔の澁谷氏を祭神とする潮見神社で、野見宿禰の後裔の菅原氏に關する水難防止、河童除けの呪文が殘っているのかの説明はない。
 私の興味は、水神とは縁の薄い橘氏を祭神とする潮見神社になぜ河童傳承が殘るかであった。
 橘諸兄、橘奈良麻呂、橘島田麻呂の三人は、直系の血縁關係があり、七世紀後半から八世紀の人物で、敏達(五三八?~五八五)後裔の源平藤橘の橘氏である。
 對して橘公業は、鎌倉初期の武將で、嘉禎二(一二三六)年に本領伊豫國宇和郡を西園寺公經(一一七一~一二四四)に讓り(實際には公經が幕府に願い出て强引に横領した)、潮見神社の背後の山頂に潮見城を築き、その眷属の兵主部も潮見川に移住して来たといわれる。伊豫から肥前に移った橘公業は、源平藤橘の橘氏ではなく、三島神を奉じた伊豫橘氏(越智氏)の橘遠保(?~九四四)の子孫ともいう。
 伊豫橘氏が奉戴する三島神=大山積神について、『伊豫國風土記』逸文「乎知郡御嶋」の項は、「仁德の世、百濟から渡來して津國の御島に座した大山積神を、乎知郡(越智郡)の御島(瀬戸内海にある三島諸島)に勸請した」旨を記す。
 三島神が渡來したのは、攝津三島の淀川の川中島(三島神社/現三嶋鴨神社。慶長 3(1598)年に大阪府高槻市三島江二丁目に移転)。三嶋鴨神社から北へ凡そ四㌔進めば、上宮天滿宮(高槻市天神町一丁目)が鎮座する。境内には、官公の遠祖・野見宿禰の祖廟(傳野見宿禰古墳の上に野見神社(式内論社)が鎭座)がある。野見宿禰の祖廟に菅原道眞(八四五~九〇三)の御靈代を祀ったのは、道眞の曾孫の菅原幹正(生没年不詳)である。ここで漸く潮見神社の祭神の一柱・橘公業と官公が繋がるのである。
 ところで、細平井桁とともに橘紋を家紋とする井伊氏の祖・共保(一〇一〇~一〇九三)の誕生譚、渭伊神社(浜松市北区引佐町井伊谷)本殿の後方の丘が藥師山と呼ばれること、菩提寺の萬松山 龍潭寺(浜松市北区引佐町井伊谷/臨濟宗妙心寺派)の本尊が虚空藏菩薩であること等から、井伊氏も伊豫橘氏を本姓とすると考えられる。
 その井伊氏の本貫地・井伊谷から北北東に七㌔ほどの同じ引佐町の久留米木地区(浜松市北区東久留米木及び西久留米木)には、龍宮に通じる淵があり、そこから出て來た小僧が村人の仕事を手傳い、村人が感謝を込め、ご馳走したが、誤って小僧には毒となる「蓼汁」を出したことから、小僧が死んでしまったという、河童傳説に通じる龍宮小僧傳説が殘る。
  井伊共保の子孫・井伊俊直は、『和名類聚抄』(承平年間(九三一~九三八)に 源順(九一一~九八三)が編纂した辭書)二〇卷本(國語學者の龜田次郎(一八七六~一九四四)は、二〇卷本を後人が増補したものとしている)の一二部「國郡部」に記載される麁玉郡赤狹鄕に因み、赤佐を名乘る。赤佐氏が本據とした赤狹鄕にある「家を護るは岩水寺」といわれて安産祈願などの參拜客で賑わう龍宮山岩水寺(浜松市浜北区根堅/神龜二(七二五)年開山)には、天龍川沿いの椎ヶ淵(浜松市天竜区二俣町鹿島)を舞臺にした龍神傳説が殘る。
 かように、伊豫橘氏を本姓とすると推測される海人・井伊氏は、龍神傳説に彩られ、潮見神社の河童傳承も、伊豫橘氏を本姓とする橘公業の一族が共同幻想に昇華させた譚だと考えられる。
 以上の私の見解について、どう思っているか、竹村さんの見解を聞きたい。
 また、『妖怪図巻』「ひょうすべ」の項は、「『落穂余談』では、その昔に三河国(静岡県西部※)の設楽某という力持ちが河童を捕らえ、これを殺そうとしたところ、自分を助けてくれれば以後設楽氏一族郎党を水難から守ることを約束し、その証文の代わりに、「ヒョウスヘは約束せしを忘るなよ川立ち男氏は菅原」という呪文を教えたというが、設楽氏はもと菅原の姓であったという(※三河國は静岡県西部ではなく、愛知県東部。引用者柴田註)」と記す。
 この設樂氏は、本姓を三河大伴氏とし、同族の富永氏が居城にした野田館垣内城の対岸の海倉淵(新城市一鍬田殿海道及び一鍬田五井ノ巣邊り/舊八名郡)は、龍宮に續くといわれ、「河童の駒引」と通底する「椀貸傳説」が殘る(『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀伝説」拾遺「富永系圖と木地師」の最初の項「海倉淵の椀貸傳説」及び第三話「牛窪考」拾遺五補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」の一つ目の小見出し「ひょうすべと椀貸傳説――三河大伴を例にして」参照)。
 当然この「海倉淵の椀貸傳説」は、潮見神社に傳わる「ヒョウスベよ 約束せしを忘るなよ 川立ておのが あとはすがわら」との呪文と關係すると思われる。
 竹村さんが、「海倉淵の椀貸傳説」をどう考えるかの見解を聞きたい。
 もう一つ。竹村さんは兵主部から、蚩尤、さらには、蚩尤の子孫というモン族の牛の供犧から河童傳承を考察すべきとお考えのようだが、『穂国幻史考(増補新版)』は、船井先生や瀧元先生が認識されているように、繩文の視点から日本列島の歴史を捉え直すことを大きなテーマとする。
 当然、動物の供犧についても繩文に由來すると私は考え、『今昔物語』卷一九第二話「參河守大江定基出家セル話」や『宇治拾遺物語』卷四の第七話「三河入道の遁世世に聞ゆる事」に載る菟足神社の風祭の猪の供犧及びその名殘と思われる東三河平野部の神幸に随伴する獅子頭について、『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の二つ目の見出し「菟足神社の徐福伝説説明板を檢證する」の四つ目の小見出し「生贄神事は中国的か――奥三河の鹿射神事及び諏訪の御頭祭と菟足神社の生贄神事」で、話を展開している。   この繩文の視点からの動物の供犧についての私の見解をどう判断するか、竹村さんの意見を聞かせて頂きたい。
 以上が、21 世紀スポーツ文化研究所六月月例会「『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む」の私の感想及び意見である。
                                                        二〇二二年七月二四日
                                                                柴田晴廣  


Posted by 柴田晴廣 at 00:42Comments(0)穂国幻史考

2022年08月03日

ISC21六月月例会「『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む」の感想等 1

 21 世紀スポーツ文化研究所の六月の月例会で、四月に刊行した『穂国幻史考(増補新版)』について話をしないかと、河野文子さんから連絡を頂いた。
 21 世紀スポーツ文化研究所の研究会ということで、膨大な量の拙著『穂国幻史考(増補新版)』から、第三話「牛窪考」附録一の「相撲雑話」をテーマに話をしたいと思っていた。
 実を言えば、河野さんから連絡を貰った時点で、私は大腸がんが再度再発し、治療も尽き、持って三ヶ月と覚悟していたこともあり、心残りがないように、どういった内容の話をしようかと考えていたのだ。
 治療も尽きとはいうものの、手術で再発した腫瘍を除去することさえ叶えば、治る可能性も無きにしも非ず。ただ腫瘍が小腸や尿管に複雑に絡んで癒着しており、一般の医療機関では手術は無理だと端から断られていた。ところが、主治医の豊川市民病院消化器内科部長の宮木知克医師は、「柴田さんはまだ元気だから」と、手術の出来る機関を探して提示。アグレッシブな手術に積極的に取り組んでいる滋賀県草津市の淡海医療センターなら、手術が可能かもしれないから、一か八か行ってみないかと。提案を受けて決心し、宮木医師の紹介状を携えて、淡海医療センターへと向かい、六月一七日に入院した。
その前日に、急いで「相撲雑話―野見宿禰を中心に」を半日で書き上げ、河野さんにお送りし、21 世紀スポーツ文化研究所の研究会の六月月例会には、その書き上げた原稿「相撲雑話―野見宿禰を中心に」をレジュメとして使うという形での参加となった。
 後日、月例会の動画を送って頂いたが、入院中で残念ながら動画は直接は拝見していない。ただ携帯電話を介して、その音声は聞いている。   以下、聞いた音声の記憶を基に、月例会の内容と、それに対する私の意見や感想等を記させて貰いたいと思う。
21 世紀スポーツ文化研究所の六月の月例会では、私がオンラインでの参加も出来なくなったため、「『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む」といったタイトルで、船井廣則先生、瀧元誠樹先生、竹村匡弥さんが、それぞれ話をされた。

 船井先生は、牛久保の若葉祭の俗称・うなごうじ祭についての、〝うなごうじは「笹踊」の囃子方が道路に寝転び蛆蟲のようだとする、うなごうじ=蛆蟲由來説は根據がない〟とする私の言説を述べた『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺一「「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と豊川流域の「笹踊」」の最初の見出し「「うなごうじ祭」は「蛆蟲祭」ではない」、及びそれを受けて蛆蟲由來説の根據の無さを詳細に考證した『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺一補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」を要領よく説明され、『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺一補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」の四つ目の見出し「「うなごうじ祭」という通稱についての假説」の四つ目の小見出し「繩文に由來する灰塚野の祭りが「うなごうじ」の語源」で、私が提示した〝「ウナゴウジ」は、"una・kuta・usi(灰捨場)"が訛化したものとの私の假説を『穂国幻史考(増補新版)』第三話第一章から第五章での牛久保("husko・bet・kus"(古い・川・通る))という地名、それ以前のトコサブ("tok・o・sap"(凸起物(堆積物等)が、そこで群をなして浜(河岸)へ競せり出だしている))という地名は繩文に由來する〟との私の言説を踏まえて、簡潔に説明された。
  ここで補足すれば、若葉祭の起源について、『牛窪密談記』(元祿一四(一七〇一)年成立 元祿一〇(一六九七)年ごろに成立した『牛窪記』(作者不詳)を、牛久保の人・中神善九郎行忠(?~一七一一)が加筆訂正したもの)は、

 牧野古白入道 或歳四月八日此若宮ヘ參詣アリシニ 其ノ主今川氏ノ許ヨリ使節到來シテ曰 當國渥美郡馬見塚村ノ邊ニテ要害ノ地理ヲ見立 一城ヲ築クヘシト 命令承リテ大ニ悦ヒ 家門ノ譽レ何事カ是ニ如カン 殊ニ當社ヘ參詣ノ折柄此吉事ヲ聞クコト 偏ニ當宮ノ御惠ナリト 取リアヘス庭前ノ柏葉ニテ神酒ヲ獻シ 其身モ快ク三獻ヲ傾ケヌ 猶喜ビノ餘リ 家紋ノ菊桐ヲ柏葉ニ替ヘヌルハ此所以ナリト 古老ノ云傳ヘナリ カクテ年々宗祇 宗長ノ兩子發句ヲ詠シテ若葉ニ結ヒ神前ニ供ヘ奉リ 牧野氏武運長久ノ祈念アリシトソ 是ヲ若葉ノ祭ト號ス

と、「發句ヲ詠シテ若葉ニ結ヒ神前ニ供ヘ奉」ったことから、「若葉祭」の名が付いた旨を述べる。
 私は、發句を結んだ若葉を言擧の儀式として、灰にし、流したと考えている。その流した場所は、牧野古白が居城とした一色城の東の灰塚野(現豊川市中条町鴻ノ巣辺り)であったのだろう。故に私は、"una・kuta・usi(灰捨場)"が訛化し、「ウナゴウジ」になったとの結論を導いた。
 船井先生は以上の説明を踏まえた上で、うなごうじ=蛆蟲由來説という妄説の根據となった〝若葉祭で「笹踊」を「笹踊歌」を唄い囃す囃子方・ヤンヨウガミという名も、繩文に由來するのではないか〟と、私に質問を投げ掛けられた。
 ここにいう「笹踊」とは、笹を持って踊る踊りではなく、金襴の唐子衣裝に笠を冠り、胸に太鼓を付けた三人の踊り手による風流囃子ものであり、江戸時代の朝鮮通信使の影響を受けた踊りで、豊川下流域の十九ヶ所の地区で奉納される神事藝能である。「笹踊」の名は、韓国・朝鮮語で三人戯を意味する"ses saram nori"が訛って、「笹踊」と呼ぶようになった。故に「ささおどり」の「お」にアクセントが来るのではなく、平板で発音される。
 「笹踊」を最初に始めたのは、城内天王(現吉田神社(豊橋市関屋町))であり、朝鮮通信使の正使・副使は、吉田では、孤峰山淨業院悟眞寺(豊橋市関屋町/浄土宗)に宿泊した。関屋町は、吉田天王社の氏子であり、関屋町内に悟眞寺はある。「笹踊」の囃子方をヤンヨウガミと呼ぶのは牛久保のみではない。ただし御馬(豊川市御津町御馬)では、「笹踊」の踊り手をヤンヨウガミと呼ぶ。
 ヤンヨウガミは、『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺一補遺二「豊川流域の特殊神事「笹踊」の考察」の参考資料「各社の「笹踊歌」の歌詞」を見ればわかるように、「笹踊歌」の囃子詞であり、若葉祭では、「サアゲニモサア ヤンヨウ神もヤンヨウ」と囃す。
 囃子詞とは、歌謡の意味に関係なく、その中や終わりに入れた、調子をとるための詞をいう。
 信濃川の河口に架かる現在の萬代橋 (新潟市中央区の国道七号線に架かる橋梁/国指定重要文化財/現在のものは三代目)の完成を記念して、昭和四(一九二九)年に北原白秋(一八八五~一九四二)が作詞した『新潟小唄』の囃子詞の「ハラショ」は、ロシア語で、「良い」「すばらしい」などを意味する"хорошо"に由來する。『新潟小唄』の囃子詞は、「ハーサ、ハラショ、ハラショノロンロン」と、「ハラショ(хорошо)」以外は全く意味を成していない。
  繰り返しになるが、若葉祭では、「サアゲニモサア ヤンヨウ神もヤンヨウ」と囃す。この「サアゲニモサア」の「ゲニモ」は、朝鮮通信使の正使・副使は、吉田では、悟眞寺に宿泊していたことを考えれば、寺に泊まっている貴人を意味する「客任gek nim」が訛化したものと考えられる。
 「客任」のように"k"と"n"が連続する場合、子音同化により先の"k"が"ng"に変化し、発音は"geng-nim"になる。
  船井先生が問題にしているヤンヨウガミであるが、八百萬神の漢字を當てるところもあるが、上記のように、囃子詞は歌謡の意味に関係なく、その中や終わりに入れた調子をとるための詞をいうことから、八百萬神は當字と考えられる。
 なぜなら、「笹踊」は風流囃子物であり、風流囃子物は神を囃すものであって、當然、神そのものではなく、「笹踊」の囃子方が神であるわけもない。「ヤンヨウ神」は「八百萬神」であろうはずがない。
 上記のように、「笹踊」を最初に始めたのは、城内天王の祭禮であり、小笠原氏が、藩主であった時代であったと推測される。
 その小笠原家の江戸上屋敷は日比谷公園の南側の一部で、一㌔ほど離れて八重洲がある。八重洲の地名は、ヤン・ヨーステン(Jan Joosten van Loodensteijn/一五五六?~一六二三)の日本名「耶楊子」に由來する。小笠原氏が藩主だったころの吉田では、「耶楊子」あるいは「八代洲」という日本語にはない響きの言葉も身近なものであった可能性が高い。
 その不思議な響きの言葉を、風流囃子物である「笹踊」の「囃子詞」として採り入れたというのが、私の見解である(『穂国幻史考(増補新版)』二〇四三~二〇五一頁参照)。

 この船井先生の話について、河本洋子先生が、山本勘助(?~一五六一)が主役の二〇〇七年の大河ドラマ「風林火山」で、牛久保に興味を持ったと。
 東海道御油宿(寶飯郡御油村(現豊川市御油町))の早川彦右衞門(一八六二~一九一八)が明治二四(一八九一)年に編纂した『三河国宝飯郡誌』(国書刊行会復刻版一四八頁)は、『續玉石雜志』に、「推挙ノ縁ヲ求メント牛窪ニ至リ、地頭牛窪弥六郎之ヲ扶持シケル」とある旨を引きはするが、「其出所ヲ詳ニセズ」とその根據は明らかでないことを指摘している。
 河本先生の旧姓は、牛窪。丹後田邊藩の藩廳が置かれた舞鶴の出身と聞く。
 太田 亮(一八八四~一九五六)著『姓氏家系大辭典』の「牛窪」の項には、「1 田姓牧野氏流 三河國寶飯郡牛久保邑より起る。牧野氏族なり。マキノ條を見よ。田邊牧野藩の重臣なり」(第一卷六四五頁)とある。
 河本先生が、大河ドラマ「風林火山」を見て、牛久保に興味を持たれたのもある種縁のようなもので当然であったかもしれない。
 なお、山本勘助について『牛窪密談記』は、「山本勘助ハ明應九年八月十五日 參州八名郡加茂鄕ニテ出生」とし、その舊八名郡の宇利う り
莊黒田村(新城市黒田)には、『菅姓山本家系圖』が殘り、『菅姓山本系圖』によれば、勘助の本姓も菅原。菅原姓の遠祖は、野見宿禰である。

参照:船井先生のサイト
http://www.tees.ne.jp/~sieg922/contents/Recentreport.html#20220626  


Posted by 柴田晴廣 at 00:13Comments(0)穂国幻史考

2022年08月02日

相撲雑話-野見宿禰を中心に

  『穂国幻史考』を取り上げていただき、ありがとうございます。
  稲垣正浩さんが主宰されていた 21 世紀スポーツ文化研究所の研究会ということで、膨大な量の拙著から、『穂国幻史考』第三話「牛窪考」附録一の「相撲雑話」をテーマに話をしたいと思います。
 その前に『穂国幻史考』を執筆した動機を。
 私の家は、三河国一帯の露天商を統べる親方でした。露天商の祖は、一般には秦河勝といわれますが、我が家に伝わる口伝では、「香具師は天香具山命の子孫であり、故に香具師と当て字をすること、香具夜姫も同族であり、香具山命を祭神とする弥彦山で生を受けた大江山の鬼・酒呑童子も同族である」と伝えています。
 この口伝から『穂国幻史考』の執筆にどう繋がったかを記せば、大学で履修していた一般教養の授業が休講になった或る日、暇つぶしにと何気なく受けた履修していない一般教養の講義が沈黙交易の話で、祖父から聞いた柴田家の口伝と何となく共通する内容が気になり、授業が終わった後、その教授に口伝の話をしたところ、「初めて聞く話だが、君にしかできないことだから、取り組んでみたらどうか」、「それについては、記紀を読む必要があるが、読んだことはあるか」、「読んだことがないなら、最初に原文を読め」と。
 助言に従い、記紀の原文を読んだ後に解説書を読むと、原文に書いていないことがさも原文に書いてあるかのごとく解説してありました。
 それで通説を疑い、祖父からの口伝を道筋として、記紀を解釈するようになり、それをまとめたものが、『穂国幻史考』になりました。
 かぐや姫といえば、『竹取物語』の主人公ですが、かぐや姫の名は、『古事記』中卷埀仁條にも載っています。このかぐや姫は、丹波道主王の娘の一人と考えられ、埀仁の妃の一人・迦具夜比賣命は、大筒木埀根王の娘であるが、『古事記』中卷開化條の系譜には、大筒木埀根王の同母弟に讚岐埀根王を載せています。
  『竹取物語』での竹取の翁の名は讚岐造。『竹取物語』の作者は、丹波道主王の娘の一人と考えられる迦具夜比賣命を意識して、物語を書いたと思われます。
 周知のように、『竹取物語』は、文武の時代を舞臺とし、かぐや姫に求婚する五人の公家も、文武時代の實在の人物がモデルだといいます。
 そして、持統から文武という祖母から孫への権力移譲が、アマテラスからニニギへの天孫降臨逸話に投影されているといわれます。
 ニニギには姉妹連帯婚、火中出世譚が語られていますが、迦具夜比賣命を妃とした埀仁にも同様に姉妹連帯婚、火中出世譚が語られています。
 またアマテラスが、五十鈴川のほとりに祀られるのも、埀仁の時代に丹波道主王の孫娘に当たる倭姫の巡幸によってです。
 ただ実際に伊勢神宮が創建されるのは、持統の時代です。倭姫の巡幸について記す『皇太神宮儀式帳』(804 年成立)には、倭姫に副えた五柱の送驛使のうち、四柱は、『竹取物語』で、かぐや姫に求婚する五人の公卿のうちの四人と対応します。
 さらに『太神宮諸雜事記』では、三河國渥美郡、遠江國濱名郡に倭姫が巡幸した旨が載ります。内宮の関係者が、三河渥美郡あるいは遠州濱名郡に伊勢神宮を創建する構想を抱いていたことを窺わせる記述です。
 私は『古事記』は、『日本書紀』のゲラ刷りと考えています。そして『日本書紀』には、卷3甲寅年 10 月丁巳朔辛酉(5日)條から干支による暦日が記載されています。古代の暦法の研究家で、『日本書紀』の暦日に関する研究をし、それをまとめて『日本書紀の暦日に就いて』を上梓した小川清彦さんによれば、『日本書紀』卷3の神武皍位前紀の甲寅年 11月丙戌朔から卷 11 末の仁德 87 年 10 月癸未朔條までが、儀鳳暦に一致し、卷 14 安康紀3年8月甲申朔から卷 27 天智紀6年閏 11 月丁亥朔までが、儀鳳暦より古い元嘉暦と一致する、との研究がなされています。
 上記の小川清彦さんの説を踏まえ、中国語学者の森博達さんは、倭臭の違いにより、『日本書紀』は、中国人が書いた部分、漢文が得意でない日本人が書いた部分、そして、ある程度漢文のわかる日本人が書いた部分に分けることが出来、『日本書紀』卷 14 の雄略紀から卷 21 の用明紀、崇峻紀及び卷 24 の皇極紀から卷 27 の天智紀は、中国語を母国語とする唐人・續守言(生没年不詳)と薩弘恪(生没年不詳)が、卷1(神代上)から卷 13(允恭・安康紀)、卷 22(推古紀)及び卷 23(舒明紀)並びに卷 28 及び卷 29(天武紀)は、漢文が得意でない日本人の山田史御方が著述し、さらに、森氏は、持統の死去に伴って、『日本書紀』卷 30 持統紀の著述が計画され、その著述を、ある程度漢文がわかる日本人の紀清人が、全体の潤色及び加筆並びに續守言が執筆できなかった卷 21 の卷末から卷 23 の著述を、三宅藤麻呂に託したのではないかとしています。
 具体的な著述年について森さんは、『日本書紀』卷 30 の持統5(691)年9月己巳朔壬申(4日)條に、「賜音博士大唐續守言 薩弘恪 書博士百濟末士善信 銀人二十兩」の記述を根拠に、このころから卷 14 から卷 27 の著述が始められ、文武4(700)年以前に、その著述作業は終了したものと、山田史御方の著述作業は慶雲4(707)年ごろに始められ、紀清人と三宅藤麻呂の著述作業は、和銅7(714)年2月ごろに始められたものと推測しています。
 『古事記』を『日本書紀』のゲラ刷りと私が考える理由は、『古事記』は『日本書紀』の全体の潤色及び加筆が行われる前に完成しており、『古事記』の編纂作業はかなりの短期間で完了しているからです。
 ここで三河との関係について言及すれば、『日本書紀』の卷 14 から卷 27 の著述作業が終わり、祀られる神アマテラスについての記述がある卷1からの著述が始められる前に、持統三河行幸が行われます。
 持統三河行幸は、一般には、壬申の亂(672 年)の論功行賞を目的としたものだとされていますが、壬申の亂から 30 年も経っての論功行賞というのもどうかしています。
  『萬葉集』卷1收録の歌番號 61、58、57 から、持統三河行幸は、論功行賞どころか武力を伴った東三河の制壓だったと考えられます。その目的は皇祖神アマテラスの創造の障碍を除去するためでしたが、この行幸自体は失敗に終わりました。
 稲垣博士が小学校の途中から、大学入学まで過ごされました東三河とはこんな土地なのです。
 祀られる神アマテラスやその容れる器である伊勢神宮の創建については、埀仁の時代の倭姫巡幸で記されているのですが、埀仁の后ヒバス姫が亡くなったときに、殉死に代え埴輪を造ることを提言したのが、野見宿禰とされます。
 私は埀仁と、その前の崇神の時代の出雲の事件については、現在の島根県の話ではなく、丹波一宮・出雲大神宮を中心にした丹波の出来事であり、出雲の臣の後裔・野見宿禰も当然、丹波ゆかりの人物と考えています。このあたりの話は稲垣博士も膝を叩いて納得しておられました。
野見宿禰は、丹波ゆかりの人物だからこそ、丹波道主王の娘・ヒバス姫が亡くなったときに、殉死に代えて埴輪を作ることを提言したと考えるのが素直でしょう。
 先に森氏は、『日本書紀』卷 14 から卷 27 の著述開始の根拠を、『日本書紀』卷 30 の持統5(691)年9月己巳朔壬申(4日)條の、「賜音博士大唐續守言 薩弘恪 書博士百濟末士善信 銀人二十兩」の記述にも留めている旨を記しましたが、卷1からの著述についても百濟の書博士が関っていたと考えられます。
 野見は、韓国・朝鮮語の「奴の」の意味になる"nom-wi"に野見の字を当てたのではないかと考えます。
 相撲の始まりとされる野見宿禰と當摩蹶速の対戦は命を掛けたすさまじいものであり、この二人の戦いは、古代ローマの剣闘士を思わせるものです。そしてこの剣闘士の多くが、捕虜や奴隷、あるいは犯罪者が刑罰として就いていたことを考えれば、野見に「奴の」の意味があったように思えるのです。
  この野見宿禰と露天商の親方とが、どう繋がるのか。
  野見宿禰は埴輪を作ったことから葬送に関わるようになります。
 実は、香具師の親方の生業は、桶屋か古着屋だったと祖父から聞いています。
 桶屋はいうまでもなく、棺桶も作ります。私の家は桶屋でした。
 古着屋は、明暦の大火を思い出せば、葬送に繋がることは容易に想像が付くと思います。
  私が、『穂国幻史考』第三話「牛窪考」附録一の「相撲雑話」で、野見宿禰を採り上げたのは、こんな理由からです。
 さて、稲垣博士が主宰しておられた 21 世紀スポーツ文化研究所の紀要『スポートロジイ』第2号で、竹村匡弥さんが『野見宿禰と河童伝承に潜む修祓の思想』を寄稿されています。
 この舞台となる佐賀県の武雄市の潮見神社の祭神の一つ橘公業は、三島神を奉載した伊予橘氏といわれます。
 先に持統三河行幸の話をしましたが、三河一宮砥鹿神社を始め、東三河の古い寺社は、持統三河行幸が行われた大寶年間に創建されたと伝わります。
 その砥鹿神社と同字同名の社が伊予、庵原、下野にあり、いずれの地も三島神の東漸に関わる地です。
 河童は相撲好きといわれますが、その河童は湿布薬や骨接ぎの術に長けていたといわれます。実は露天商の親方も、薬屋を管轄しておりました。
 河童のザンバラ神は髷を結えなかった被差別民を表したともいわれます。
  『穂国幻史考』で、被差別民について採り上げたのもそんなところにあります。
 以上のような視点から、稲垣博士が関心を持たれていた出雲、河童、相撲といったものを捉えなおせば、新たな言説が展開できると信じております。
 話は変わりますが、『穂国幻史考(増補新版)』第三話には、『牛窪考(増補版)』を刊行した折の稲垣博士による紹介「オンデマンド出版による『牛窪考』(柴田晴廣著)、刊行。電子版も。」を載せてあります。
 稲垣博士はその中で「少しだけ余談を。牛窪は、じつはわたしの育った豊橋市大村町とは、すぐ眼と鼻のさきに位置しています。その意味では、わたしもまた穂国の文化圏の真っ只中で育ったと言っていいでしょう。たとえば、牛窪のお祭りと同じ奉納芸能である「笹踊り」は、わたしの育った大村町の八所神社でも行っていました。三人一組になって太鼓を打ちながら舞い踊る、とても不思議な芸能です。ですから、大きくなったら(青年団に入ったら)、この踊りをやるんだ、とこころに決めていました。」といわれていますが、実際には、大村の「笹踊」の小太鼓を踊られたそうです。
 生前、稲垣博士は、「笹踊」が朝鮮通信使の影響を受けたものなら、日本と朝鮮では運足が違うから、その違いをまとめたいといっておられました。
 インターネット上には、全ての「笹踊」の動画が載っています。
 稲垣博士の意思を継がれる方に期待します。
 最後になりましたが、こんな形での発表になったことを残念に思っております。
 祖父は、露天商と博徒が一即多になり、暴力団化するのを嫌って、代々受け継いだ露天商の親方のみならず、露天商そのものを辞めました。
 ですから、祖父は博打は打たないという矜持を持っておりました。
 ただ、手をこまねいていても余命三ヶ月なら、一か八かの大手術を受けてみようと思っております。
 こんな博打なら、祖父も許してくれると思います。
  大博打に勝ち、是が非でも完治させ、研究会のメンバーの方々と会える日を楽しみにしております。
 本日はありがとうございました。研究会のメンバーの方々に感謝します。
                                                 2022.6.14 21:30
                                                      柴田晴廣  


Posted by 柴田晴廣 at 01:06Comments(0)穂国幻史考

2022年08月01日

21世紀スポーツ文化研究所の六月月例会

 ISC・21六月月例会の前半(14時00分~16時20分)は、「『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む」のタイトルで、船井廣則(ISC・21特別研究員)、瀧元誠樹(札幌大学教授)、竹村匡弥(ISC・21特別研究員)の三人がコメンテーターで行われた。
 後半(16時20分~)は、林郁子(関西大学など非常勤講師)が、「スポーツ史学会第36回大会シンポジウムに向けて「ナチュラリストについて」」のタイトルの発表であった。
 この六月月例会に私は参加予定であったが、急遽入院し、参加できなかった。
 拙著『穂国幻史考(増補新版)』が六月月例会で採り上げられることとなった経緯について記せば、五月月例会で、話題となった書籍が、北島順子 『近代日本の植民地教育と「満洲」の運動会』《植民地教育史ブックレット》(風響社)、大保木輝雄著『剣道その歴史と技法』日本武道館 ベースボール・マガジン社 2022/03/30、 柴田晴廣著『牛窪考』 常左府文庫 2014/10、福岡伸一他著『ポストコロナの生命哲学』 集英社新書 2021/09/17、西谷修著『理性の探求』 岩波書店 2009/10/29、ピーター・スコット=モーガン著『NEO HUMAN 究極の自由を得る未来』 東洋経済新報社 2021、小林武彦著『生物はなぜ死ぬのか』 講談社現代新書 2021/04で、拙著が話題に上ったからと推察される。
 上記のように、私は入院により、六月月例会に参加できなかったが、入院前日に原稿を書き上げ、送付し、それがレジュメとなったようだ。
 次回は、そのレジュメ「相撲雑話―野見宿禰を中心に」を転載する。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1239540.html

 21世紀スポーツ文化研究所の六月月例会、五月月例会については、船井廣則先生のサイトを参考にした。
http://www.tees.ne.jp/~sieg922/contents/Recentreport.html   


Posted by 柴田晴廣 at 10:45Comments(0)雑談

2022年07月31日

ISC21七月月例会

 本日二時半から、21世紀スポーツ文化研究所の七月月例会に参加しました。
 前半は、近況報告と情報交換。
 後半は、東海大学の松浪稔先生の「IOC公式映画「東京2020オリンピックSIDE:A/SIDE:B」批評」でした。
 オリンピックには、いろいろと思うところがありましたから、興味深く聞かせていただきました。
 いろいろと参考になりました。

 特に中京大学教授で、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事の來田享子さんの話は非常に参考になりました。  


Posted by 柴田晴廣 at 19:08Comments(0)お知らせ

2022年07月30日

豚挽き肉の酢豚風肉団子

豚挽き肉の酢豚風肉団子

 今晩は豚ひき肉の酢豚風肉団子を作った。
 材料は刻み生姜に醤油で味付けた豚挽き肉の肉団子、玉ねぎ、ピーマン、パブリカ。
 調味料は、酒、砂糖、酢、醤油、水溶き片栗粉、ごま油。  


Posted by 柴田晴廣 at 18:05Comments(0)雑談

2022年07月27日

イカと胡瓜の炒め物

イカと胡瓜の炒め物

 晩はイカと胡瓜を炒めた。
 材料は、イカ、赤ピーマン、ベビーコーン、胡瓜。
 調味料は、刻み生姜、酒、コーミのオイスターソース、酢、イチビキの白だし、丸本の胡麻油。
 酢でさっぱりと食べれます。  


Posted by 柴田晴廣 at 18:36Comments(0)雑談

2022年07月26日

豊川市民病院

 本日午前、豊川市民病院を受診した。
 淡海医療センターの水本医師による詳細なデータを携え、消化器内科部長の宮木医師のところへだ。
 手術が成功し、治療の選択肢も増えた。
 まずは放射線治療、そして化学療法、そして、青山総合病院副院長の豊田澄男がものの見事に大失敗した大腸のステントが、水本医師の優れた技によって完全に除去できたため、高周波温熱療法(ハイパーサーミア)だ。アグレッシブな手術を行って下さった水本医師に深く感謝する。
 後は、どのタイミングでどの治療から始めるのが効率的か?
 宮木医師は、とりあえず、焦る必要はなくなったから、ゆっくり考えていこうとのこと。
 加えて、ゲノム解析も豊橋市民病院に依頼。
 いずれにしても、何とか命拾いできたようだ。
 最終的には、光免疫療法で完治させるつもりでいる。
 そのころには、保険適用になっているだろう。  


Posted by 柴田晴廣 at 13:09Comments(0)お知らせ雑談

2022年07月25日

入院中に見た夢

 昨年12月09日の投稿で、城西大学躰道部監督の鈴木茂嗣さんが、11月24日に亡くなられた旨を記した。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1213700.html
 私は、鈴木茂嗣さんのことを広石の兄貴と呼んでいた。
 私が大学に在学中は、広石の兄貴は大東文化大学の職員で学生課に配属されており、当時は、大東文化大学の躰道部のコーチだった。

 22日の投稿で、私の手術の日程が決まったのは、6月30日であった旨を記した。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1238517.html
 翌日の未明、広石の兄貴が夢に出て来た。
 夢の中で兄貴は「用があるときは、俺が柴田の所に来るから、お前は俺のところに来なくていい」といった。
 私はこれを吉兆と捉えました。
 兄貴がまだあの世に来るには早いと私に伝えたと解釈したからです。
 手術前日にも、兄貴の夢を見ました。
 上記のように、兄貴は私が在学当時、学生課にいたが、私が大学に行くと、学生課が入っている棟が閉まっており、学内をくまなく探しても、とうとう兄貴に出会うことが出来なかった。
 先の夢と合わせ、兄貴がお前の手術は成功するといっているように私には思えました。
 一か八かで迷ったものの、手術を受けることにした大きな要因の一つは、上記の広石の兄貴の夢でした。

 話は変わるが、困ったときの神頼みという。
 淡海医療センターの病棟の窓越しに比叡山が見えた。
 根本中堂には、藥壺を手にした藥師如來が祀られている。
 入院中は、窓越しに比叡山に向かって手を合わせ、根本中堂の藥師如來像に「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」と、藥師如來の眞言を唱えるのが日課であった。
 実をいえば、がんが転移した五年前も、稲荷の門前の妙嚴寺の境外藥師堂で、手を合わせ江「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」と唱えて、治ったという経緯があった。
 広石の兄貴と藥師如來の加護が今回の手術が成功し、早々に退院出来たと思っている。もちろん神農さまを祀っていた柴田家の先祖と神農さまの加護も大きい。  


Posted by 柴田晴廣 at 07:59Comments(0)雑談

2022年07月22日

退院

 6月3日に「報告」のタイトルで、青山総合病院副院長の豊田澄男がやるべきことをやらず、がんが再度再発し、絶望的な状態に陥った旨を記した。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1233113.html
 あまりのことに青山総合病院から豊川市民病院に急いで転院し、最初に豊川市民病院で大腸がんと診断してくれた消化器内科部長の宮木知克医師に診てもらった。
 腸閉塞の措置として青山総合病院の豊田は、大腸にステントを留置したが、今回そのステント留置もステントの長さが適切ではなく留置したこと自体も完全な失敗であったことが、滋賀県草津市の淡海医療センターで手術を受けて判明した。
 豊田は現在、青山総合病院の消化器内科の担当になってはいるが、元は外科だった。ステント留置にすら失敗した事実を見れば、外科の医師だった頃の腕も想像がつく。
 さて、淡海医療センターで手術を受けた経緯であるが、「報告」で書いた通り、6月の初めの時点で、治療は尽き、余命はと訊ねたところ、三ヶ月と豊川市民病院の宮木医師は教えてくれた。
 宮木医師はそうはいったものの、「柴田さんは元気だから」と、いろいろと親身になって考えてくれた。
 再発部分を取れば、治る可能性はあるのだが、再発した腫瘍が、小腸及び尿管に絡んで癒着し、手術で切除できる医療機関がなかったというのが、当時の私のがんの状況であった。
 だが宮木医師は、もしかしたら、淡海医療センターなら手術が出来るかもしれないから、一か八か行ってみないかと紹介状を書いてくれ、それを持って6月の10日に滋賀県草津市まで出向いて、淡海医療センターの副院長の水本明良医師から説明を聞き、いったん帰り、豊川市民病院の宮木医師の意見を聞いて、翌週の17日に淡海医療センターを再び受診し、そのまま入院した。
 手術は可能だが、腫瘍が尿管に巻き付いておるため、腎機能が不能になっているかもしれないと血液検査をしたが、幸い腎機能は正常であった。
 またイリウス(腸閉塞)気味だから、それを解消してから手術をするとのことで、手術の日程が決まったのが、6月の30日。7月5日に手術を受け、昨日退院した。
 困難な手術であったが、抱合部にあった腫瘍は見事に切除された。ただ、骨盤に腫瘍がこびりついており、こそげ落としたが、若干は残っていると。放射線で除去できそうだ。
 ただ回復は早く、翌日には自力で立ち上がれ、70メートルほど歩けた。手術直後には、身体に9本もあった管が一日一本以上の割合で取れた。
 淡海医療センターの病院食は病院食とは思えないほど美味しく、すべて完食。それもあってか昨日退院することが出来た。
 「報告」のコメントで札幌大教授の瀧元さんが、書いているように、故稲垣正浩博士が主宰していた21世紀スポーツ文化研究所の例会に参加する予定であったが、上記理由で参加できなかった。
 この例会についてはまたの機会に書かせていただく。  


Posted by 柴田晴廣 at 09:06Comments(0)お知らせ雑談

2022年06月03日

報告

 一月末に緊急入院した旨を記しました。
 腸閉塞での入院でしたが、その原因は大腸がんの再発でした。
 青山総合病院の定期健診のたびに、異常なしとのことでしたから、当然データに基づいてのことと思っておりました。
 ところが、血液検査は行っていたものの、実際にはもっとも肝心な腫瘍マーカーのチェックは二年以上も行ってはいませんでした。
 腫瘍マーカーのチェックをしていないため、担当医師の青山総合病院副院長豊田澄男は、がん再発を完全に見落としていたのです。もちろん腫瘍マーカーのチェックをしていないにもかかわらず、異常なしと診断していたわけですから、当然して置くべきCTなどの撮影も行ってはいませんでした。
 そのほか、こちらが依頼した検査(キイトルーダが適用できるかの検査等)も発注したといっていたにもかかわらず、実際には全く行っておらず、噓をついていたのでありました。
 以上は、現在かかっている豊川市民病院消化器内科部長の宮木医師に、青山総合病院副院長豊田澄男が送った紹介状から判明した事柄です。
 現在、なんとか普通に生活しておりますが、青山総合病院での措置が極めて悪く、出来る治療はもう限られています。
 最悪の場合、今年の八月が私の初盆になると思います。

理證晴連居士  
タグ :豊田澄男


Posted by 柴田晴廣 at 08:23Comments(8)雑談

2022年05月30日

刊行した『穂国幻史考(増補新版)』

穂国幻史考増補新版
 『穂国幻史考(増補新版)』を刊行しました。
  『穂国幻史考(増補新版)』のほか、 『穂国幻史考(増補新版)』の手引き、『著作権法逐条解説』が収録されています。
 写真の電子版(PDF版)は、5,000円。
 問い合わせは、このweb-log左最下欄「メールをする」からお願いします。

 なお取り扱い書店は、本の豊川堂(豊橋市呉服町40)
http://www.housendou.com/  


Posted by 柴田晴廣 at 12:39Comments(0)穂国幻史考

2022年04月15日

Sweet Home Chicago

 『穂国幻史考(増補新版)』の最終チェックをしている。
 気分転換にはブルースだ。
 で、古典的なバージョン
https://www.youtube.com/watch?v=O8hqGu-leFc

 関西バージョン
https://www.youtube.com/watch?v=VWhD885aPP4

 オバマ大統領も参加しているさらに別バージョン
https://www.youtube.com/watch?v=BIZAS_tOYOo  


Posted by 柴田晴廣 at 11:16Comments(0)雑談

2022年04月04日

刊行予定の『穂国幻史考(増補新版)』の目次等

 刊行予定の『穂国幻史考(増補新版)』は、A5判縦書き 四四二九頁 文字数三三八九五六三字(以上予定)
 目次は以下のとおり。

  穂国幻史考(増補新版) 〈目次〉

はしがき 8
第一話 記紀の成立と封印された穂国の実像 13
  目次 16
はしがき 20
 モノローグ 54
 序 穗國とは 58
 第一章 「記紀」の成立過程と穗國 68
  第一節 「記紀」の編纂はいつ始められたか 68
  第二節 皇祖神アマテラスの創造と伊勢神宮の創立 102
  第三節 アマテラスの誕生と持統三河行幸 133
 第二章 穗別の祖・朝廷別王は、悲劇の皇子・ホムツワケノミコトだ 172
  第一節 『古事記』開化條の系圖を復元する 172
  第二節 穂別の祖・朝廷別王と日下部氏 221
  第三節 朝廷別王と穗國 268
 第三章 彷徨うアマテラス 302
  第一節 ヤマトヒメの巡幸 302
  第二節 穗國とヤマトヒメ(かぐや姫をめぐって) 332
  第三節 虚構のアマテラスと「書紀」の齋王 377
 第四章 虚構の万世一系と持統の生い立ち 402
  第一節 易姓革命から逃れるために姓を棄てた持統 402
  第二節 「書紀」の著述はなぜ雄略紀から始められたか 460
  第三節 天智の出自を隱すために編纂された「書紀」 495
 終章 穗國造・菟上足尼と丹波道主王の末裔たち 520
 (拾遺一)  砥鹿神社考 552
  第一章 神主・草鹿砥家 552
   第一節 縁起と草鹿砥氏 552
   第二節 草鹿砥と日下部 557
   第三節 草部明神と饌川水神舊社地 566
  第二章 社家・戸賀里氏 576
   第一節 穗國造と戸賀里氏 576
   第二節 戸賀里名稱考 585
   第三節 穗國造と蠶影神 594
   第四節 蠶影神とかぐや姫 601
  第三章 彦狹嶋の東遷と日下部氏 615
   第一節 日下部氏と日本武尊の系譜 615
   第二節 大碓命と美濃國造 624
   第三節 虚構の日本武尊東征 631
   第四節 三島神の東遷と砥鹿神社 663
  終章 砥鹿神社舊社地考 690
  (拾遺一補遺) 菅江眞澄とアラハバキ 712
    第一章 眞澄の出身地 712
    第二章 穗國のアラハバキ社 723
    第三章 藥師如來・白山權現とアラハバキ 730
    第四章 朝熊山の櫻大刀神 738
 (拾遺二) 丹波傳承考 754
  第一章 丹波の間人傳承 754
   第一節 丹波と穗國 754
   第二節 間人と土師 757
   第三節 厩戸皇子の祖母・小姉の正體 766
  第二章 守屋と馬子 779
   第一節 勝海殺害 779
   第二節 崇佛・排佛 784
   第三節 三輪君逆の殺害 790
   第四節 押坂彦人皇子 797
  第三章 穴穗部殺害事件考 804
   第一節 麻呂子傳説 804
   第二節 宣化の皇女たち 812
   第三節 日祀と推古 817
  終章 東漢直駒 825
 (拾遺三) 天武の命日をめぐって 834
  第一章 吉野の盟約 834
  第二章 川嶋皇子考 836
  第三章 天武と草薙の劔 843
 (拾遺四) 人麻呂考―─元明皍位をめぐって 854
 エピローグ 868
あとがき 870
主要参考文献 888
第二話 登美那賀伝説 891
  目次 894
はしがき 896
 第一章 野田城主富永氏 912
  第一節 首無の冨永 912
  第二節 夭逝千若丸 915
  第三節 石座神社と富永氏 927
 第二章 神武東征考 948
  第一節 神武東征の出發地は對馬だ 948
  第二節 大和の攻防 964
  第三節 磯城縣主家系圖を復元する 993
  第四節 大田田根子は磯城縣主だ 1011
 第三章 三河大伴考 1031
  第一節 大伴直と倭宿禰 1031
  第二節 三河大伴直と石座神社 1044
  第三節 安日傳承の原像 1052
 (拾遺) 富永系圖と木地師 1058
   海倉淵の椀貸傳説 1058
   惟喬傳説と六歌仙 1069
あとがき 1080
主要参考文献 1086
第三話 牛窪考 1089
  目次 1092
稲垣正浩 オンデマンド出版による『牛窪考』(柴田晴廣著)、刊行。電子版も。 1102
はしがき 1106
 第一章 牛久保の地名由來譚と牧野氏 1238
 第二章 古名・常寒 1249
 第三章 若宮殿建立と常荒 1260
 第四章 牧野氏の出自 1272
 第五章 牛窪と八尻 1278
 (拾遺一) 「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と豊川流域の「笹踊」 1286
   「うなごうじ祭」は「蛆蟲祭」ではない(1314) 豊川流域の「笹踊」と朝鮮通信使(1371) 「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と寶永の大地震(1378)
  (補遺一)「うなごうじ祭」名稱考 1386
    平田派國學者・羽田野敬雄の牛久保觀(1386)
     反骨を貫く若宮殿の縁起(1388) 國學の核心は中華思想にあり(1390) わが國本來の神祭りとは乖離した國學思想(1417) 上若の唄う「梅ヶ枝節」も異國起源(1460) 遠州灘近海にも多くの外國船が航行(1464)
    田中緑紅主宰『鄕土趣味』の功罪(1485)
     地面に寝転ぶ姿態からの聯想には疑問(1490) 稻垣豆人著『三河引馬神社の奇祭』の本當の著作者は誰か(1502) 引馬天王社の「出し豆腐」(1515) 稻垣豆人が「出し豆腐」以上に興味を示した「七福神踊」(1540) 『牛久保私談』『東三河に於ける御神事笹踊』等の地元近時代資料の檢討(1621)
    大正一〇年の「若葉祭」と祭禮組織の變容(1639)
     『下中祭礼青年記録集』が記す「祭礼紛擾の件」(1639) 「祭礼紛擾の件」が緑紅に輿えた影響(1749)
     「うなごうじ祭」という通稱についての假説(1757)
     梅村則義著『奇祭 牛久保のうなごうじまつり』の「蟲封じ説」の檢證(1761) 卯月八日の「紙下げ蟲」と『救民妙藥』の「小兒舌胎」(1770) 『牛窪密談記』等に見る「若葉祭」の由來(1786) 繩文に由來する灰塚野の祭りが「うなごうじ」の語源(1797) 「うなひ髪」由來は疑問(1818)
  (補遺二)豊川流域の特殊神事「笹踊」の考察 1836
    豊川流域に分布する「笹踊」の概要 1836
     「笹踊」に関する先行研究の概略(1836)
       「笹踊歌」をテーマとする研究の限界(1840) 間宮照子著『三河の笹踊り』の功績(1937)
     豊川流域の「笹踊」の分布と天王社(1958)
      間宮照子著『三河の笹踊り』収録以外の社で「笹踊」を行っていた可能性(1958) 天王信仰と「笹踊」發祥の直接の關係は疑問(1976)
     「笹踊」の所作及び囃子方他(2005)
      「笹踊」の特徴及び「笹踊」と呼べる藝能の範疇(2005) 豊川流域の「笹踊」の類型(2018) 囃子方の役割等及び過去においての踊り手の選考(2038)
      「笹踊」の起源に關する諸説の檢討(2054)
    豊川流域の各社に奉納される「笹踊」の個別檢討 2094
     吉田神社(2094) 牛久保八幡社(2141) 三谷八劔神社(2161) 新城富永神社(2172) 豊川進雄神社(2180) 御馬引馬神社(2206) 菟足神社(2202) 当古進雄神社(2252) 大木進雄神社(2287) 上千両神社(2296) 富岡天王社(2301) 式内石座神社(2305) 上長山(白鳥・素盞嗚・若宮)(2316) 豊津神社(2330) 伊奈若宮八幡社(2337) 老津神社(2352) 大村八所神社(2360) 石原石座神社(2369) 各笹踊の具體的起源と傳播(2387)
    各社の「笹踊歌」の歌詞(補遺二参考資料) 2410
     伊奈若宮八幡社(2411) 石座神社(岡崎市石原)(2411) 石座神社(新城市大宮)(2412) 牛久保八幡社(2413) 菟足神社(2415) 老津神社(2416) 大木進雄神社(2417) 大村八所神社(2419) 御馬引馬神社(2420) 上千両神社(2421) 上長山白鳥神社(2423) 上長山素盞嗚神社(2423) 上長山若宮八幡社(2424) 当古進雄神社(2425) 豊川進雄神社(2425) 豊津神社(2427) 富岡天王社(2428) 新城富永神社(2429) 三谷八劔神社(2430) 吉田神社(2432)
  (補遺三)「隱れ太鼓」考 2436
     「隱れ太鼓」が奉納される祭禮(2436) 「隱れ太鼓」とは(2441) 「三つ車」の詳細と「若葉祭」の大山車の役割等(2486)
    『帝都物語外伝 機関童子』に見る「若葉祭」の「隱れ太鼓」(2517)
     機関童子と「駱駝の葬禮」(2537) 歌舞伎の「人形振り」と「若葉祭」の「隱れ太鼓」(2544)
     「若葉祭」の「隱れ太鼓」と尾張の山車からくり(2557)
     東三河の山車からくりと三谷祭の山車の概略(2577) 東照宮祭に始まる尾張山車からくり(2574) 「若葉祭」の「隱れ太鼓」は、山車からくりの「人形振り」か(2582)
    豊川下流域の大山車と尾張型山車(2600)
     山車と屋臺はどう違う(2600) 尾張型山車の分類と傳播(2688) 昼間から提燈を飾る東三河の囃子車と遠州の屋臺(2733) 尾張の「大山」及び「車樂」と豊川下流域の大山車(2776)
    豊川下流域の大山車の起源とその亞型 (2770)
      「若葉祭」大山車の「再興」が意味するもの(2770) 小坂井の大山車は西若組の舊車(2824) 「豊川庄屋文書」に載る山車は大山車ではない(2841) 吉田祇園祭の車樂と「隱れ太鼓」(2854) 三谷祭の山車の原型は「若葉祭」にあった(2914)
    化政期の寄席藝能が「隱れ太鼓」に輿えた影響(2986)
     豊川流域の「笹踊」と豊川下流域の大山車の祭禮における位置附け(2986) 「若葉祭」の「隱れ太鼓」が「人形振り」になったのは大山車再興の際か(3033) コレラの流行と張子の虎、首振り人形の起源も文政期(3094) 「隱れ太鼓」の起源の檢討(3097)
 (拾遺二) 牛久保と山本勘助 3112
   勘助は實在したか(3112) 『牛久保古城圖』の描く山本勘助養家・大林勘左ヱ門屋敷(3118) 遺髮塚は養父・大林勘左衞門の屋敷に建てられた(3126)
 (拾遺三) 『牛久保古城圖』考 3140
   聖圓寺はいつ廢寺になったか(3141) 善光庵の建立時期と移轉再建(3154) 光輝庵が牛久保に移轉したのはいつか(3160) 養樹寺の創建はいつか(3165) 大聖寺の移轉と牛久保城築城の關わり(3168) 淨福寺の移轉と西三河の一向一揆(3173) 長谷寺の再建と移轉時期(3176) 上善寺と載る矛盾(3189) 東勝寺を載せる矛盾(3196) 了圓寺が古城圖に見えない理由(3243) 榊原澁右衞門の出奔と法信寺の建立(3216) 庚申寺の建立、及び『牛久保古城圖』の作成經緯(3225)
 (拾遺四) 善光庵の創建と再建 3232
   善光庵の創建と善光寺如來 3232
    古記に見える善光寺如來の由來(3233) 善光寺如來が上善寺に安置された經緯(3240) 善光寺池と善光寺川(3243)
   善光庵の再建者・潮音道海と「大成經彈壓事件」 3245
    『大成經』とは(3247) 潮音道海と『大成經』(3251) 長野采女と京極内藏之助(3268) 「伊雜宮事件」(3274) 忌部澹齋と『大成經』(3285) 長野采女と廣田丹齋(忌部澹齋)(3295) 高野本と山鹿素行(3299) 高野本と鷦鷯本の關係(3319) その後の潮音道海(3324)
 (拾遺五) 檢證 東三河の徐福伝説 3330
    山本紀綱著『日本に生きる徐福の伝承』が独り歩きした小坂井の徐福伝説(3330)
     徐福伝説とは――傳説の定義を中心に(3341) 徐福と始皇帝――徐福の姓・始皇帝の姓(3357) 徐福の子孫が秦氏を名乘るのか――徐福伝説成立の下地(3360) 秦氏と徐福――弓月君と百濟の國姓(3374)
    菟足神社の徐福伝説説明板を檢證する(3382)
     日色野と秦氏――淵源は銅鐸埋納地を秦氏關聯とする大口喜六か(3382) 『牛窪記』等に載る徐氏古座侍郎――長山熊野權現神主・神保氏の本姓は惟宗(3421) 菟足神社を創設したという秦石勝について――姓氏家系の大家・太田亮氏の著作から(3461) 生贄神事は中国的か――奥三河の鹿射神事及び諏訪の御頭祭と菟足神社の生贄神事(3475)
    山本紀綱に小坂井の徐福伝説を紹介した近藤信彦と渥美郡の幡多鄕(3520)
     橋本山龍運寺と船町文庫――大口喜六、近藤信彦は、幡太鄕比定地の住人(3528) 羽田八幡宮と幡太鄕――近藤信彦と羽田野敬雄(3538) 蓬萊島と築嶋弁天社――山田宗徧により秦御厨に造園された蓬萊島(3554) 御衣祭と上佐脇の八社八苗字――『大神宮諸雜事記』と日下部姓波多野氏(3560)
  (補遺)非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか 3650
    非農耕民と秦氏――東三河を中心に(3652)
     彈左衞門家と渥美郡出身の車善七――側近を三河出身者で固めた家康(3664) 彈左衞門と伊奈本多家――臨川山本龍寺の開基を巡って(3670) 牧野氏と鶴姫傳説――信長の世に廢寺となった豐川村東光寺(3679) 車善七の敗訴と大岡忠相――豐川村矢作と彈左衞門(3716) 牛頭天王の本地と播磨、そして秦氏――祇園感神院及び『野馬臺詩』が記す日本の國姓(3732)
    ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者(3875)
     ひょうすべと椀貸傳説――三河大伴を例にして(3883) ひょうすべと三島神――三島神が降臨した攝津三島江と上宮天滿宮(3893) 三島神と鳶澤甚内――火明命を中心とした海人の世界(3941)
  附録一 相撲雑話 4016
    序 本書第一話における野見宿禰論 4016
    第一章 節會時代の相撲 4071
    第二章 神事から見た相撲 4084
    第三章 吉田追風家と弓術吉田流 4114
    終章 私と相撲、そして弓 4139
  附録二 吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動 4148
    はじめに 4148
    吉田城沿革 4157
    三州吉田の怪猫騷動 4176
    結びにかえて 4190
  附録三 県道三一号線物語――古代から現代まで 4192
    鎌倉街道と県道三一号東三河環状線 4192
    東三河平野部の古代の地名と交通路 4214
    律令時代における東三河平野部の官道と鎌倉街道 4242
あとがき 4276
主要参考文献 4398
あとがき 4412  


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2022年03月30日

登美那賀伝説

 本日『登美那賀伝説』が完成。
 知人等に配布するとともに、国立国会図書館に納本しました。
 A4判縦書き198P、文字数121,562字。
 目次は以下のとおり。

  登美那賀伝説 〈目次〉

はしがき 6
 第一章 野田城主富永氏 22
  第一節 首無の冨永 22
  第二節 夭逝千若丸 25
  第三節 石座神社と富永氏 37
 第二章 神武東征考 58
  第一節 神武東征の出發地は對馬だ 58
  第二節 大和の攻防 74
  第三節 磯城縣主家系圖を復元する 103
  第四節 大田田根子は磯城縣主だ 121
 第三章 三河大伴考 141
  第一節 大伴直と倭宿禰 141
  第二節 三河大伴直と石座神社 154
  第三節 安日傳承の原像 162
 (拾遺) 富永系圖と木地師 168
   海倉淵の椀貸傳説 168
   惟喬傳説と六歌仙 179
あとがき 190
主要参考文献 196

追伸(3/31)
内容については、先に投稿した『穂国幻史考(増補新版)』の手引きの該当箇所(以下がそのURL)を参照してください。
https://tokosabu.dosugoi.net/e1222399.html
https://tokosabu.dosugoi.net/e1222467.html
  


Posted by 柴田晴廣 at 16:54Comments(0)穂国幻史考登美那賀伝説

2022年03月19日

『穂国幻史考(増補新版)』

 1月4日から投稿した『牛窪考(増補新版)』の内容の説明、及び1月23日から投稿した『穂国幻史考(増補新版)』の手引きを推敲し直し、校正し、「『穂国幻史考(増補新版)』の手引き」としてまとめ、知人に送付するとともに、国立国会図書館に納本しました。
 今回納本した「『穂国幻史考(増補新版)』の手引き」は、近々刊行予定の『穂国幻史考(増補新版)』の電子版に、『著作権法逐条解説』とともに収録する予定です。
 『穂国幻史考(増補新版)』の電子版の販売予定価格は5,000円。  


Posted by 柴田晴廣 at 08:47Comments(0)穂国幻史考

2022年03月18日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明25(あとがき~)

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」の「あとがき」では、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」の各論を総括するとともに、なぜに『穂国幻史考』に、自己幻想、対幻想、共同幻想の概念を用い、改訂し、『穂国幻史考(増補新版)』として、新たに刊行しようとした理由を記した。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」の基となる『牛窪考(増補版)』刊行後の二〇一七年七月一九日に、がんの転移を見落とされ、誤魔化しの説明を受けるとともに、余命八月、治療をしても三十月との宣告を受けた。
 当然のことながら、自分が死んだら、周囲の人たちはどんな思いをするだろうと考えた。対幻想である。そして『牛窪考(増補改訂版)』の執筆中に父が急逝した。父の死により、対幻想が具体化するとともに、対幻想に幾つかの類型があること、氏神信仰や怨靈信仰は、対幻想の概念を用いて説明できることに気が付いた。
 さらには、祭禮を見学していてよく耳にする「昔からこうだった」のほとんどは自己幻想に過ぎないこと、祭禮組織ないし祭禮の變容は、自己幻想、対幻想、共同幻想の概念を用いて説明出来ることにも思い至った。
 加えて「記紀」の描く世界は究極の共同幻想であること、この究極の共同幻想を解體するには、これも共同幻想であるが、本地埀迹説が有効なことに気付いた。『穂国幻史考』に自己幻想、対幻想、共同幻想の概念を用い、改訂し、『穂国幻史考(増補新版)』として、新たに刊行しようとした理由は以上である。

 余談になるが、余命宣告を受けて、一応であるが、自身の死生観も確立した。此世も彼世も「胡蝶之夢」と認識している。この連続が輪廻転生。「胡蝶之夢」のような優雅な内容ばかりではないから、六道輪廻。よく登場する人物や場所は宿縁があると思っている。もっとも、「色皍是空 空皍是色」とは程遠い。自分で戒名を付けたのも此世への執着の裏返しだ。

 がんの転移の見落としの説明から、医療機関ないし医療行政の出鱈目さにも気付かされた。
 臨床も当然ながら、経験則が、科学的根拠に先行する。後付けの科学的根拠が見つからないだけで、経験則上、有効な治療であっても、エビデンスがないと斥けるのが、医学の世界ではまだまだ横行している。
 これと関係するが、分析技術なども完全とはいいがたい。
 化学合成薬の歴史はたかだか二百年。副作用もこの未熟な分析技術と相俟ってのものと思う。
 生薬を使うのは、東洋医学のみではない。リキュールは、古代ギリシャの醫師ヒポクラテス(Hippocrates/前四六〇頃~前三七〇頃)が、ワインに藥草を溶かし込み、藥酒を作ったのを起源とする。
 プロテスタントの醫教分離まで、リキュールの多くは、教会や修道院で作られていた。
 この醫教分離は、わが国にも及び、四苦八苦の四苦(生老病死)からの衆生濟度を缺いた醫師は、醫は算術に走った。醫は算術とはいわないまでも、陸軍々醫總監で、陸軍省醫務局長を務めた森林太郎(一八六二~一九二二)も四苦からの衆生濟度を缺いた醫師の一人だ。
 さらにやっかいなのは、一部の外科醫は、關東軍防疫給水部本部で、四苦からの衆生濟度とは眞逆の人體實驗を行い、いまだにその弊害はこのクニの医学会から払拭されていないことだ。
 医療行政の一つである、がん治療の標準ガイドラインについて言及すれば、このガイドラインは、自由と自由が衝突したとき、精神的自由より経済的自由が優先するという新自由主義者の小泉純一郎が厚生大臣のときに助成金が交付され、制定されたものだ。四苦からの衆生濟度より経済性を優先させたものだ。もちろん本來の意味の救世濟民ではなく、救世濟民の視点を欠く経済性だが……。

 国家資格の中でも、自動車の運転免許証並みに不合格になるのが、難しいのが医師免許の試験だ。加えて、博士号の中で最も取得しやすいのも医学博士だ。医療行為も契約という側面から見れば、コンビニでジュースを買うのと変わりはない。ところが、事前に価格も提示せず、ぼったくりと変わらないのが医療契約だ。日本医師会の会員の中の一定数の医師は、医療は特別との共同幻想を定着させなければ、医師の権威が保てないと思っているのだろう。誤解のないように加えて置けば、私は優秀でまっとうな医師がいないといっているのではない。そのような優秀でまっとうな医師の意見をかき消すほど、医療は特別との幻想を流布させようとする声が多いことを問題にしてるのだ。

 話は変わるが、『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」第四章「虚構の万世一系と持統の生い立ち」の第一節のタイトルは、「易姓革命から逃れるために姓を棄てた持統」である。この持統の棄姓により易姓革命は機能しなくなり、放伐思想は封じられた。結果、このクニでは、為政者に護民思想が生まれず、民を護れぬ国はとっとと潰し、新たに民を護れる国を創るという、当たり前のことも理解していない政治屋が跋扈している。そうした主権在民を理解していない政治屋は押し並べたように「日本のため」と口にする。
 封建時代には、「民は生かさず、殺さず」との言葉があったが、主権在民のいま、「クニなど生かさず、殺さず」が、クニを縛る指針と民衆も理解すべきだ。これが徹底されないから、生産性とは対極にあるオリンピックでメダルを獲得することが、先進国だとの勘違いが始まる。
 加えて、オリンピックが平和の祭典であるというのも幻想だ。近代オリンピックが始まった当初、参加資格があったアマチュアとは、軍人、士官学校生、そして学生だった。一九五二年に開催されたヘルシンキ大会まで馬術の出場資格は軍人に限られていた。
 パラリンピックも第二次世界大戦の傷病軍人のスポーツ大会が起源だ。

 さて、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の説明で述べたように、わが国の佛教界のレベルはことのほか低い。
 これは朱印などにも顕現している。せめて朱印ぐらい、キリスト教やイスラムに倣い佛教暦で年月日を記すか、宗祖の生誕年、あるいはその寺院の創建年からの紀年を用いてもらいたいものだ。
 神道についても同様だ。地祇を祭神とする神社で元號を朱印に用いるなど、祭神の冒涜に他ならない。かようにこのクニの宗教者のレベルは低い。
 宗教、政治、医療とありとあらゆる分野で、このクニは出鱈目なのだ。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」の「あとがき」では以上のようなことも記した。

『穂国幻史考(増補新版)』の「あとがき」では、『穂国幻史考(増補新版)』利用における著作権法上の注意点等、第三話の「あとがき」では、がんの転移を中心にその治療の問題点を説明したが、ここでは再発時を含めた具体的に私がどのような治療をしたか、及びその治療の選択肢を狭める、医療行政における官民癒着の一例レジメンの弊害についても言及した。

『穂国幻史考(増補新版)』は、東三河の歴史や民俗を題材にしたものの、通説をなぞったものではない。東三河の歴史や民俗を介して、歴史や民俗から何をどう学び、どう生かすかの地均しの論考と自負している。
 以上、『穂国幻史考(増補新版)』を読み進める上での参考になれば、幸甚である。
 多様な価値観が認められる社会の実現を目指し、主権在民を謳う日本国憲法が施行された一九四七(昭和二二)年をもって、日本国元年とする紀年を記して、筆を置く。

  日本国七六年三月吉日
                                                                        穗國宮嶋鄕常左府にて
                                                                             理證晴連居士