2022年09月11日
推敲中の『穂国幻史考(増補新版続編)』の説明2
「山本勘助と牧野氏」は、私の母の小中学校の同級生で、スポーツ史学会会長等を歴任した稲垣正浩(一九三八~二〇一六)博士が主宰していた21世紀スポーツ文化研究所の月例会(二〇二二年六月二六日)「『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む」での名古屋経済大学短期大学部元教授の船井廣則さんが、私の「うなごうじ蛆蟲由來説」は、根據のない妄説との言説の丁寧な説明をし、それを受けて、青山学院大学教授の河本洋子さん(旧姓牛窪)の山本勘助が主人公だった二〇〇七年の大河ドラマ「風林火山」で、牛久保に興味を持ったとの発言を基に、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」第四章「牧野氏の出自」、拾遺二「牛久保と山本勘助」、拾遺三「『牛久保古城圖』考」及び拾遺四「善光庵の創建と再建」の記述を適宜繋ぎ合わせたものである。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺二「牛久保と山本勘助」及び拾遺三「『牛久保古城圖』考」では、法月山光輝庵(豊川市光輝町二丁目/淨土宗)所藏の『牛久保古城圖』に描かれた、勘助が養子に入った大林勘左ヱ門の屋敷と、現在勘助の遺髮塚のある武運山長谷寺(豊川市牛久保町八幡口/淨土宗)の位置が一致することから、勘助の總角(あげまき)を養家の大林家が保管しており、その總角を勘助の死後、屋敷の一角に供養として埋め、その後、大林家の跡地に長谷寺が移轉して來たのではないかという私が建てた假説の證明にあったが、「山本勘助と牧野氏」の表題の通り、山本家と牧野家の關係をテーマに考察した。
「山本勘助と牧野氏」と、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺二「牛久保と山本勘助」及び拾遺三「『牛久保古城圖』考」が、異なるのは、『穂国幻史考(増補新版)』では、言及していない事柄=『姓氏家系大辭典』の「牛窪」の項を足したことである。
この『姓氏家系大辭典』の「牛窪」の項を書き足したことにより、『穂国幻史考(増補新版)』にはない視点が加わったことから、一稿にまとめることとした。
「大成經の僞作者・山鹿素行」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺四「善光庵の創建と再建」の二つ目の見出し「善光庵の再建者・潮音道海と「大成經彈壓事件」」から、「大成經」の眞の僞作者について考察した言説を拔き出し、タイトルの通り、その僞作者は山鹿素行である旨を主張した小論である。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺四「善光庵の創建と再建」の二つ目の見出し「善光庵の再建者・潮音道海と「大成經彈壓事件」」では、潮音道海が大成經の僞作者とする廣く知られた説に疑問を持ち、大成經の僞作者は本當に潮音道海なのかを考證した論考である。
加えて置けば、この山鹿素行。明からの亡命者・朱舜水(一六〇〇~一六八二)の「夷狄である清によって治められている中国は、もはや中華の國でなく、日本こそが中華である」との言説を眞に受けたお目出度い人物でもある。
日本列島で通貨としての機能が發揮される貨幣が發行されるのは、寛永一三(一六三六)年に鑄造が始まる寛永通寶の登場を待たなければならない。朱舜水が來日する四半世紀前のことだ。それまでは明の永樂帝(一三六〇~一四二四/在位一四〇二~一四二四)が發行した永樂通寶などの中国錢が通貨として流通していた。グアム(Guåhån)の通貨は、アメリカドルである。グアムはアメリカ合衆国の州ではないが、準州である。中国の貨幣が通貨として使われていた日本は、中国の準州のような地域なのだ。通貨發行權を手に入れたばかりの日本を「日本こそが中華である」と稱賛するなど、朱舜水の本心であるはずもない。それもわからず、朱舜水の言を眞に受けたのが、山鹿素行だ。
加えて暦についても、貞享二年一月一日(一六八五年二月四日)に宣明暦から改暦された澁川春海(一六三九~一七一五)により編纂された貞享暦の採用までは中国からの借用であった。通貨と同樣に、江戸時代に入り、自前で暦を編纂するようになる。中原では、皇帝は空間のみならず、時間をも支配すると、考えている。中華思想の信奉者の朱舜水が、借りものの暦法を使用している日本を中華の國などと思っているはずもない。山鹿素行は、ほどほどお目出度い人物だ。
そのお目出度い山鹿素行が、僞書「大成經」を創作したのである。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の二つ目の見出し「菟足神社の徐福伝説説明板を檢證する」は、菟足神社に設置された「菟足神社と徐福伝説」と題する説明板に記された内容を檢證した論考である。
その中の最後の小見出し「生贄神事は中国的か――奥三河の鹿射神事及び諏訪の御頭祭と菟足神社の生贄神事」では、右記説明板が、中国的とする、『今昔物語』及び『宇治拾遺物語』に載る菟足神社の風祭の猪の供犧が、本當に中国的な習俗かを考察した論考である。
「菟足神社の風祭と諏訪の御頭祭」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の二つ目の見出し「菟足神社の徐福伝説説明板を檢證する」の最後の小見出し「生贄神事は中国的か――奥三河の鹿射神事及び諏訪の御頭祭と菟足神社の生贄神事」で引用する『今昔物語』及び『宇治拾遺物語』に載る菟足神社の風祭の猪の供犧は、中国的なものではなく、繩文に遡る狩獵採取文化に基づくものである旨の説明をした。
その名殘と考えられる東三河平野部に殘る神幸に隨伴する獅子頭から、風祭の猪の供犧が具體的にどのようなものであったかも推測した。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の最初の見出し「非農耕民と秦氏――東三河を中心に」の三つ目の小見出し「牧野氏と鶴姫傳説――信長の世に廢寺となった豐川村東光寺」で、菊池山哉(一八九〇~一九六六)著『特殊部落の研究』を引用し、東國の被差別部落では、白山妙理權現を鎭守とし、東光寺を寺號とする藥師堂を祀る旨を紹介した。
東國の被差別部落が白山妙理權現を鎭守とし、東光寺という寺號の藥師堂を祀ることについて本地埀迹説から檢討すれば、この信仰は東國の被差別部落に限ったことではなく、被差別部落の信仰の本質は祇園社にあるといえる。
本地埀迹説をほんの尠しでも理解しておれば、白山妙理權現と東光寺という寺號の藥師堂が犬神人が隷屬する祇園感神院が結び付くことは容易に気が付くことであるが、なぜかそうした言説を私は知らない。
「祇園感神院とその祭神の本地」は、白山妙理權現と東光寺という寺號の藥師堂が犬神人が隷屬する祇園感神院がどう結び付くかを佛説から説明した小論である。
「專願寺の大施餓鬼」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の最初の見出し「非農耕民と秦氏――東三河を中心に」の最後の小見出し「牛頭天王の本地と播磨、そして秦氏――祇園感神院及び『野馬臺詩』が記す日本の國姓」で採り上げた專願寺の大施餓鬼についてまとめたものであり、なぜに東三河平野部の初盆を迎える親族等が、專願寺の大施餓鬼に出向くのかを、專願寺という寺院の歴史的背景、專願寺という寺院のある場所、專願寺で大施餓鬼が行われる日時等から、本地埀迹説を絡めて説明した小論である。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」で、引用した京極夏彦・多田克己編『妖怪図巻』「ひょうすべ」の項は、潮見神社(佐賀県武雄市橘町大字永島)の河童傳承を紹介するが、なぜに潮見神社に河童傳承が殘るかの説明はない。
「伊豫橘氏と河童傳承」では、なぜに潮見神社に河童傳承が殘るかを、同社の祭神の一柱・橘公業の出自を伊豫橘氏とする説があることから、伊豫橘氏をキーワードに河童との接點を探った。
中で、渭伊神社(浜松市北区引佐町井伊谷)の裏山の呼稱、菩提寺の萬松山龍潭寺(臨濟宗妙心寺派)の本尊等から、伊豫橘氏を本姓とすると推測される井伊氏の周邊に傳わる龍宮、龍神傳説から、河童との繋がりを考證するとともに、三嶋神の東漸と、砥鹿という名の神社の分布から、御伽草子で、龜に乘って龍宮に行ったといわれる浦島太郎へと、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」で、引用した京極夏彦・多田克己編『妖怪図巻』「ひょうすべ」の項は、三河の設樂氏(本姓三河大伴氏)の河童傳承についても言及することから、『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀伝説」の拾遺「富永系圖と木地師」の最初の項「海倉淵の椀貸傳説」での三河大伴氏の龍宮との繋がりについての話へと展開した。
縁日などで、たこ焼き、鯛焼きなどを商う屋台。暴力団の資金源の一つと考えている方が多いと思う。
筆者の家は代々、その暴力団の資金源の一つと考えられている露天商の親方であった。親方といっても、狹い範圍の露天商を管轄していた親方ではなく、令制國の三河國一帶を管轄するの親方であった。
だが、曾祖父・柴田庄五郎(一九一五年七月二九日逝去)亡き後、祖父・銀治(一九〇三・六・二四~一九八五・四・七/銀山清澄居士)が親方を繼ぐも、露天商が博徒と一皍夛になり暴力團化してしまうことを嫌って、祖父は商賣替えをした。
祖父の行動からわかるように、露天商は、暴力団とは一線を画すものであり、博徒とも別物である。
ところが、世間一般の露天商の認識は、暴力団の一翼を担うといったものがほとんどであり、研究書といったものまでもが、祖父がいう博徒と一皍夛になった後の露天商について語ったものばかりだ。
「人口に膾炙した露天商の認識を糺す」では、主に『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」の最後の小見出し「三島神と鳶澤甚内――火明命を中心とした海人の世界」の項の露天商の記述を基に、人口に膾炙した露天商の認識を糺すことを目的とし、露天商の歴史、博徒や暴力団との違い、無宿人との違いから、露天商とは何かを明示するとともに、商いという面から露天商の実像を顯らかにした小論である。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」の「三州吉田の怪猫騷動」の項で引用したルイス・フロイス著『日歐文化比較』には、耶蘇教文化圈と比べ、日本の女性は自由で、自立しており、地位も高かった旨が記されている。
「耶蘇教の傳來と女性の地位の変化」では、日本の女性が耶蘇教文化圈の女性と比べ、なぜに自由で、自立しており、地位も高かった理由を、母系制、夫婦別姓といったキーワードから解明した。
このクニで、夫婦同姓が一般的になるのは、耶蘇教の影響であり、耶蘇教の影響で、日本の女性の社会的地位が低下したことを説明した。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺二「牛久保と山本勘助」及び拾遺三「『牛久保古城圖』考」では、法月山光輝庵(豊川市光輝町二丁目/淨土宗)所藏の『牛久保古城圖』に描かれた、勘助が養子に入った大林勘左ヱ門の屋敷と、現在勘助の遺髮塚のある武運山長谷寺(豊川市牛久保町八幡口/淨土宗)の位置が一致することから、勘助の總角(あげまき)を養家の大林家が保管しており、その總角を勘助の死後、屋敷の一角に供養として埋め、その後、大林家の跡地に長谷寺が移轉して來たのではないかという私が建てた假説の證明にあったが、「山本勘助と牧野氏」の表題の通り、山本家と牧野家の關係をテーマに考察した。
「山本勘助と牧野氏」と、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺二「牛久保と山本勘助」及び拾遺三「『牛久保古城圖』考」が、異なるのは、『穂国幻史考(増補新版)』では、言及していない事柄=『姓氏家系大辭典』の「牛窪」の項を足したことである。
この『姓氏家系大辭典』の「牛窪」の項を書き足したことにより、『穂国幻史考(増補新版)』にはない視点が加わったことから、一稿にまとめることとした。
「大成經の僞作者・山鹿素行」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺四「善光庵の創建と再建」の二つ目の見出し「善光庵の再建者・潮音道海と「大成經彈壓事件」」から、「大成經」の眞の僞作者について考察した言説を拔き出し、タイトルの通り、その僞作者は山鹿素行である旨を主張した小論である。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺四「善光庵の創建と再建」の二つ目の見出し「善光庵の再建者・潮音道海と「大成經彈壓事件」」では、潮音道海が大成經の僞作者とする廣く知られた説に疑問を持ち、大成經の僞作者は本當に潮音道海なのかを考證した論考である。
加えて置けば、この山鹿素行。明からの亡命者・朱舜水(一六〇〇~一六八二)の「夷狄である清によって治められている中国は、もはや中華の國でなく、日本こそが中華である」との言説を眞に受けたお目出度い人物でもある。
日本列島で通貨としての機能が發揮される貨幣が發行されるのは、寛永一三(一六三六)年に鑄造が始まる寛永通寶の登場を待たなければならない。朱舜水が來日する四半世紀前のことだ。それまでは明の永樂帝(一三六〇~一四二四/在位一四〇二~一四二四)が發行した永樂通寶などの中国錢が通貨として流通していた。グアム(Guåhån)の通貨は、アメリカドルである。グアムはアメリカ合衆国の州ではないが、準州である。中国の貨幣が通貨として使われていた日本は、中国の準州のような地域なのだ。通貨發行權を手に入れたばかりの日本を「日本こそが中華である」と稱賛するなど、朱舜水の本心であるはずもない。それもわからず、朱舜水の言を眞に受けたのが、山鹿素行だ。
加えて暦についても、貞享二年一月一日(一六八五年二月四日)に宣明暦から改暦された澁川春海(一六三九~一七一五)により編纂された貞享暦の採用までは中国からの借用であった。通貨と同樣に、江戸時代に入り、自前で暦を編纂するようになる。中原では、皇帝は空間のみならず、時間をも支配すると、考えている。中華思想の信奉者の朱舜水が、借りものの暦法を使用している日本を中華の國などと思っているはずもない。山鹿素行は、ほどほどお目出度い人物だ。
そのお目出度い山鹿素行が、僞書「大成經」を創作したのである。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の二つ目の見出し「菟足神社の徐福伝説説明板を檢證する」は、菟足神社に設置された「菟足神社と徐福伝説」と題する説明板に記された内容を檢證した論考である。
その中の最後の小見出し「生贄神事は中国的か――奥三河の鹿射神事及び諏訪の御頭祭と菟足神社の生贄神事」では、右記説明板が、中国的とする、『今昔物語』及び『宇治拾遺物語』に載る菟足神社の風祭の猪の供犧が、本當に中国的な習俗かを考察した論考である。
「菟足神社の風祭と諏訪の御頭祭」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の二つ目の見出し「菟足神社の徐福伝説説明板を檢證する」の最後の小見出し「生贄神事は中国的か――奥三河の鹿射神事及び諏訪の御頭祭と菟足神社の生贄神事」で引用する『今昔物語』及び『宇治拾遺物語』に載る菟足神社の風祭の猪の供犧は、中国的なものではなく、繩文に遡る狩獵採取文化に基づくものである旨の説明をした。
その名殘と考えられる東三河平野部に殘る神幸に隨伴する獅子頭から、風祭の猪の供犧が具體的にどのようなものであったかも推測した。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の最初の見出し「非農耕民と秦氏――東三河を中心に」の三つ目の小見出し「牧野氏と鶴姫傳説――信長の世に廢寺となった豐川村東光寺」で、菊池山哉(一八九〇~一九六六)著『特殊部落の研究』を引用し、東國の被差別部落では、白山妙理權現を鎭守とし、東光寺を寺號とする藥師堂を祀る旨を紹介した。
東國の被差別部落が白山妙理權現を鎭守とし、東光寺という寺號の藥師堂を祀ることについて本地埀迹説から檢討すれば、この信仰は東國の被差別部落に限ったことではなく、被差別部落の信仰の本質は祇園社にあるといえる。
本地埀迹説をほんの尠しでも理解しておれば、白山妙理權現と東光寺という寺號の藥師堂が犬神人が隷屬する祇園感神院が結び付くことは容易に気が付くことであるが、なぜかそうした言説を私は知らない。
「祇園感神院とその祭神の本地」は、白山妙理權現と東光寺という寺號の藥師堂が犬神人が隷屬する祇園感神院がどう結び付くかを佛説から説明した小論である。
「專願寺の大施餓鬼」は、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の最初の見出し「非農耕民と秦氏――東三河を中心に」の最後の小見出し「牛頭天王の本地と播磨、そして秦氏――祇園感神院及び『野馬臺詩』が記す日本の國姓」で採り上げた專願寺の大施餓鬼についてまとめたものであり、なぜに東三河平野部の初盆を迎える親族等が、專願寺の大施餓鬼に出向くのかを、專願寺という寺院の歴史的背景、專願寺という寺院のある場所、專願寺で大施餓鬼が行われる日時等から、本地埀迹説を絡めて説明した小論である。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」で、引用した京極夏彦・多田克己編『妖怪図巻』「ひょうすべ」の項は、潮見神社(佐賀県武雄市橘町大字永島)の河童傳承を紹介するが、なぜに潮見神社に河童傳承が殘るかの説明はない。
「伊豫橘氏と河童傳承」では、なぜに潮見神社に河童傳承が殘るかを、同社の祭神の一柱・橘公業の出自を伊豫橘氏とする説があることから、伊豫橘氏をキーワードに河童との接點を探った。
中で、渭伊神社(浜松市北区引佐町井伊谷)の裏山の呼稱、菩提寺の萬松山龍潭寺(臨濟宗妙心寺派)の本尊等から、伊豫橘氏を本姓とすると推測される井伊氏の周邊に傳わる龍宮、龍神傳説から、河童との繋がりを考證するとともに、三嶋神の東漸と、砥鹿という名の神社の分布から、御伽草子で、龜に乘って龍宮に行ったといわれる浦島太郎へと、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」で、引用した京極夏彦・多田克己編『妖怪図巻』「ひょうすべ」の項は、三河の設樂氏(本姓三河大伴氏)の河童傳承についても言及することから、『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀伝説」の拾遺「富永系圖と木地師」の最初の項「海倉淵の椀貸傳説」での三河大伴氏の龍宮との繋がりについての話へと展開した。
縁日などで、たこ焼き、鯛焼きなどを商う屋台。暴力団の資金源の一つと考えている方が多いと思う。
筆者の家は代々、その暴力団の資金源の一つと考えられている露天商の親方であった。親方といっても、狹い範圍の露天商を管轄していた親方ではなく、令制國の三河國一帶を管轄するの親方であった。
だが、曾祖父・柴田庄五郎(一九一五年七月二九日逝去)亡き後、祖父・銀治(一九〇三・六・二四~一九八五・四・七/銀山清澄居士)が親方を繼ぐも、露天商が博徒と一皍夛になり暴力團化してしまうことを嫌って、祖父は商賣替えをした。
祖父の行動からわかるように、露天商は、暴力団とは一線を画すものであり、博徒とも別物である。
ところが、世間一般の露天商の認識は、暴力団の一翼を担うといったものがほとんどであり、研究書といったものまでもが、祖父がいう博徒と一皍夛になった後の露天商について語ったものばかりだ。
「人口に膾炙した露天商の認識を糺す」では、主に『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」の補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の二つ目の見出し「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」の最後の小見出し「三島神と鳶澤甚内――火明命を中心とした海人の世界」の項の露天商の記述を基に、人口に膾炙した露天商の認識を糺すことを目的とし、露天商の歴史、博徒や暴力団との違い、無宿人との違いから、露天商とは何かを明示するとともに、商いという面から露天商の実像を顯らかにした小論である。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」の「三州吉田の怪猫騷動」の項で引用したルイス・フロイス著『日歐文化比較』には、耶蘇教文化圈と比べ、日本の女性は自由で、自立しており、地位も高かった旨が記されている。
「耶蘇教の傳來と女性の地位の変化」では、日本の女性が耶蘇教文化圈の女性と比べ、なぜに自由で、自立しており、地位も高かった理由を、母系制、夫婦別姓といったキーワードから解明した。
このクニで、夫婦同姓が一般的になるのは、耶蘇教の影響であり、耶蘇教の影響で、日本の女性の社会的地位が低下したことを説明した。
Posted by 柴田晴廣 at 12:41│Comments(0)
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