2022年03月06日
『穂国幻史考(増補新版)』の手引き14(第二話拾遺・あとがき)
さて『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」の拾遺「富永系圖と木地師」では、富永氏が城主だった、野田館垣内城の豊川の對岸に當る海(かい)倉淵(くらぶち)(新城市一(ひと)鍬(くわ)田(だ)殿海道(とのかいどう)及び一鍬田五井ノ巣(ごいのす)邊り/舊八名郡)に傳わる椀貸傳説と、大伴黒主(生没年不詳)を介して六歌仙と惟喬傳説について考察した。
ここに椀貸傳説は、沈默交易の一種で、轆轤(ろくろ)を操り木製食器を製作する漂泊の民・木地師と、定住農耕民との交易が傳説化したものだ。
具體的には、「ハレ」の折など人が大勢集まり、たくさんのお椀が必要なときに、必要な數を書いた紙を池や川の淵などに流すと、その紙が池や川の淵へ吸い込まれて行き、やがて必要な數のお椀が浮かび上がって來るが、あるとき、不心得者が蓋を缺いたまま椀を返し、龍神の怒りに觸れ、それ以降は、願いを聞き入れてくれなくなったという説話である。海倉淵も龍宮に續くといわれる。
「椀貸傳説」の中には、椀を授けるために池の中から出て來た手を引いたため、それ以降貸してくれなくなったというものもある。「河童の駒引」や、アイヌとコロポックル("korpokkur"アイヌ語でフキの下に住む人を意味する)の交易と、同様のモチーフである。
「河童の駒引」とは、河童が馬を川へ引きずり込もうとしたが、逆に馬主に捕らえられて、懇願のすえ助命される。河童は、それ以來、馬主の家で器物が必要なときは、夜中に馬主の家の軒先に器物を揃えておいたが、馬主の返却ミスにより途絶えたというものだ。
河童は、腕を拔くことが出來、骨接の術に長けたといわれる。河童の特技は忍術に通じるものがある。三河富永氏の本姓は三河大伴氏であるが、忍者の祖は、阿毎を姓とした倭王・蘇我馬子(五五一?~六二六)の時代を生きた大伴細人(しのび)である。海倉淵と大伴氏の繋がりが窺える。
長瀬の集落の唯一の寺院・松雲山海藏(かいぞう)寺(じ)(豊橋市長瀬町郷西/曹洞宗)は、宗教施設というより、公共施設の要素が强い。海藏寺という寺號も海倉淵から附けられたと、私は考える。長瀬の氏神は牛頭天王であるが、海藏寺の本尊は十一面觀音菩薩像。牛頭天王の后・頗梨(はり)采女(さいにょ)の本地佛も、十一面觀世音菩薩だ。頗梨采女は八大龍王の一柱・娑(しゃ)伽羅(から)龍王の娘であり、頗梨采女は南海の娑伽羅龍宮城に住むといわれる。龍宮に續く海倉淵と海藏寺の本尊には繋がりがあると考えられる。
椀貸傳説の一方の當事者・木地師の始祖傳承が、惟喬傳説。一種の貴種流離譚で、木地師の職能に欠かせない轆轤(ろくろ)を考案したのが惟(これ)喬(たか)親王(八四四~?)だとする。
惟喬親王は、文德(もんとく)天皇(八二七~八五八)の長子として、生を受けるが、弟で文德の第四子・惟(これ)仁(ひと)親王(八五〇~八八一)との立太子爭いに敗れ、比叡山の西麓・洛北の雲ヶ畑(京都市左京区大原)に隱棲したという。
ところが、木地師の惟喬親王傳承によれば、親王は、貞觀元(八五九)年、小椋谷へ入山し、同七(八六五)年に蛭谷に筒井神社(東近江市蛭谷町)を建立したとする。
『源平盛衰(げんぺいせいすい)記(き)』賦卷(ふのまき)「維高維仁位論事」や『平家物語』卷八には、名虎と、能雄少將が相撲を取り、能雄少將が勝ったことから、惟仁親王が立太子爭いに勝利したとの逸話を載せる。先に河童と椀貸傳説の類似性について指摘したが、河童は相撲好きといわれる。
『源平盛衰記』では、名虎について、惟喬の外祖父とあることから、名虎は、紀(きの)名虎(なとら)(?~八四七)を指す。
六歌仙の一人・喜撰(きせん)法師(生没年不詳)は、紀名虎の子であるという傳承が殘る。六歌仙の一人・在原業平(ありわらのなりひら)(八二五~八八〇)は、紀名虎の子・紀有(あり)常(つね)(八一五~八七七)の娘を娶っている。また、六歌仙の一人・遍照(へんじょう)(八一六~八九〇)は、惟喬親王に仕えており、惟仁が皍位すると出家し、六歌仙の一人・文屋(ぶんやの)康(やす)秀(ひで)(生没年不詳)もまた、清和(惟仁)皍位の後、三河掾(じょう)に左遷され、六歌仙の一人・小野小町(生没年不詳)は、惟喬親王の皇位繼承爭いにより左遷された文屋康秀に隨って、三河へ行ったとされる。喜撰法師、在原業平、遍照、文屋康秀、小野小町の五人は、惟喬派といえる人物だ。殘る一人の大伴(おおともの)黒主(くろぬし)(生没年不詳)も、藤原種繼(たねつぐ)(七三七~七八五)暗殺事件・承和(じょうわ)の變(八四二年)・應天門の變に掛けての、一聯の藤原氏による伴(大伴)氏排除の經緯から、黒主を大伴(おおとも)國道(こくみち)(伴善男の父)・伴健岑(こわみね)(生没年不詳)・伴善男ら、藤原良房(八〇四~八七二)による無實の罪に陷れられた伴氏一族、及び承和の變で皇太子の座を廢せられた恒(つね)貞(さだ)親王(八二五~八八四)の父・淳和(じゅんな)天皇(大伴皇子)を象徴的に表した人物で、惟仁の母が良房の娘であることから、大伴黒主も惟喬派とみることが出來る。三河大伴氏は、大伴國道らとは系統は違うが、六歌仙との關係から、河童傳説ではなく、椀貸傳説で、語られたのだろう。
惟喬傳説では、木地師の職能に缺かせない轆轤(ろくろ)を考案したのは惟喬であるとするが、藤原仲麻呂(なかまろ)の亂(七六四年)を平定した稱(しょう)德(とく)女帝(七一八~七七〇)が供養のために、法隆寺を始めとする十大寺に、それぞれ十萬基ずつ合計百萬基を奉獻した百萬塔の製作に、轆轤が使われていた。
史實はどうあれ、惟喬傳説という共同幻想が誕生した背景、惟仁との立太子爭いは相撲で決着がつき、惟喬側が負けたことと、海倉淵の椀貸傳説に結び附く過程を考察することは意義があることだ。
餘談になるが、惟喬との立太子爭いに勝利した惟仁は皍位して、清和の漢風諡號が贈られる。その清和の退位に伴い適當な皇位継承者がいなくなったときに、われこそはと手を擧げたのが源(みなもとの)融(とおる)(八二二~八九五)だ。
以上を踏まえて、『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」の拾遺「富永系圖と木地師」を読んで頂ければ幸甚である。
『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」の「あとがき」では、『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」は、二〇〇七年に刊行した『穂(ほ)国幻(こくげん)史(し)考(こう)』の第二話「登美那賀伝説」の骨子に変わりはないが、『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」で、新たに書き足した部分が、どこであるか等を指摘した。
ここに椀貸傳説は、沈默交易の一種で、轆轤(ろくろ)を操り木製食器を製作する漂泊の民・木地師と、定住農耕民との交易が傳説化したものだ。
具體的には、「ハレ」の折など人が大勢集まり、たくさんのお椀が必要なときに、必要な數を書いた紙を池や川の淵などに流すと、その紙が池や川の淵へ吸い込まれて行き、やがて必要な數のお椀が浮かび上がって來るが、あるとき、不心得者が蓋を缺いたまま椀を返し、龍神の怒りに觸れ、それ以降は、願いを聞き入れてくれなくなったという説話である。海倉淵も龍宮に續くといわれる。
「椀貸傳説」の中には、椀を授けるために池の中から出て來た手を引いたため、それ以降貸してくれなくなったというものもある。「河童の駒引」や、アイヌとコロポックル("korpokkur"アイヌ語でフキの下に住む人を意味する)の交易と、同様のモチーフである。
「河童の駒引」とは、河童が馬を川へ引きずり込もうとしたが、逆に馬主に捕らえられて、懇願のすえ助命される。河童は、それ以來、馬主の家で器物が必要なときは、夜中に馬主の家の軒先に器物を揃えておいたが、馬主の返却ミスにより途絶えたというものだ。
河童は、腕を拔くことが出來、骨接の術に長けたといわれる。河童の特技は忍術に通じるものがある。三河富永氏の本姓は三河大伴氏であるが、忍者の祖は、阿毎を姓とした倭王・蘇我馬子(五五一?~六二六)の時代を生きた大伴細人(しのび)である。海倉淵と大伴氏の繋がりが窺える。
長瀬の集落の唯一の寺院・松雲山海藏(かいぞう)寺(じ)(豊橋市長瀬町郷西/曹洞宗)は、宗教施設というより、公共施設の要素が强い。海藏寺という寺號も海倉淵から附けられたと、私は考える。長瀬の氏神は牛頭天王であるが、海藏寺の本尊は十一面觀音菩薩像。牛頭天王の后・頗梨(はり)采女(さいにょ)の本地佛も、十一面觀世音菩薩だ。頗梨采女は八大龍王の一柱・娑(しゃ)伽羅(から)龍王の娘であり、頗梨采女は南海の娑伽羅龍宮城に住むといわれる。龍宮に續く海倉淵と海藏寺の本尊には繋がりがあると考えられる。
椀貸傳説の一方の當事者・木地師の始祖傳承が、惟喬傳説。一種の貴種流離譚で、木地師の職能に欠かせない轆轤(ろくろ)を考案したのが惟(これ)喬(たか)親王(八四四~?)だとする。
惟喬親王は、文德(もんとく)天皇(八二七~八五八)の長子として、生を受けるが、弟で文德の第四子・惟(これ)仁(ひと)親王(八五〇~八八一)との立太子爭いに敗れ、比叡山の西麓・洛北の雲ヶ畑(京都市左京区大原)に隱棲したという。
ところが、木地師の惟喬親王傳承によれば、親王は、貞觀元(八五九)年、小椋谷へ入山し、同七(八六五)年に蛭谷に筒井神社(東近江市蛭谷町)を建立したとする。
『源平盛衰(げんぺいせいすい)記(き)』賦卷(ふのまき)「維高維仁位論事」や『平家物語』卷八には、名虎と、能雄少將が相撲を取り、能雄少將が勝ったことから、惟仁親王が立太子爭いに勝利したとの逸話を載せる。先に河童と椀貸傳説の類似性について指摘したが、河童は相撲好きといわれる。
『源平盛衰記』では、名虎について、惟喬の外祖父とあることから、名虎は、紀(きの)名虎(なとら)(?~八四七)を指す。
六歌仙の一人・喜撰(きせん)法師(生没年不詳)は、紀名虎の子であるという傳承が殘る。六歌仙の一人・在原業平(ありわらのなりひら)(八二五~八八〇)は、紀名虎の子・紀有(あり)常(つね)(八一五~八七七)の娘を娶っている。また、六歌仙の一人・遍照(へんじょう)(八一六~八九〇)は、惟喬親王に仕えており、惟仁が皍位すると出家し、六歌仙の一人・文屋(ぶんやの)康(やす)秀(ひで)(生没年不詳)もまた、清和(惟仁)皍位の後、三河掾(じょう)に左遷され、六歌仙の一人・小野小町(生没年不詳)は、惟喬親王の皇位繼承爭いにより左遷された文屋康秀に隨って、三河へ行ったとされる。喜撰法師、在原業平、遍照、文屋康秀、小野小町の五人は、惟喬派といえる人物だ。殘る一人の大伴(おおともの)黒主(くろぬし)(生没年不詳)も、藤原種繼(たねつぐ)(七三七~七八五)暗殺事件・承和(じょうわ)の變(八四二年)・應天門の變に掛けての、一聯の藤原氏による伴(大伴)氏排除の經緯から、黒主を大伴(おおとも)國道(こくみち)(伴善男の父)・伴健岑(こわみね)(生没年不詳)・伴善男ら、藤原良房(八〇四~八七二)による無實の罪に陷れられた伴氏一族、及び承和の變で皇太子の座を廢せられた恒(つね)貞(さだ)親王(八二五~八八四)の父・淳和(じゅんな)天皇(大伴皇子)を象徴的に表した人物で、惟仁の母が良房の娘であることから、大伴黒主も惟喬派とみることが出來る。三河大伴氏は、大伴國道らとは系統は違うが、六歌仙との關係から、河童傳説ではなく、椀貸傳説で、語られたのだろう。
惟喬傳説では、木地師の職能に缺かせない轆轤(ろくろ)を考案したのは惟喬であるとするが、藤原仲麻呂(なかまろ)の亂(七六四年)を平定した稱(しょう)德(とく)女帝(七一八~七七〇)が供養のために、法隆寺を始めとする十大寺に、それぞれ十萬基ずつ合計百萬基を奉獻した百萬塔の製作に、轆轤が使われていた。
史實はどうあれ、惟喬傳説という共同幻想が誕生した背景、惟仁との立太子爭いは相撲で決着がつき、惟喬側が負けたことと、海倉淵の椀貸傳説に結び附く過程を考察することは意義があることだ。
餘談になるが、惟喬との立太子爭いに勝利した惟仁は皍位して、清和の漢風諡號が贈られる。その清和の退位に伴い適當な皇位継承者がいなくなったときに、われこそはと手を擧げたのが源(みなもとの)融(とおる)(八二二~八九五)だ。
以上を踏まえて、『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」の拾遺「富永系圖と木地師」を読んで頂ければ幸甚である。
『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」の「あとがき」では、『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」は、二〇〇七年に刊行した『穂(ほ)国幻(こくげん)史(し)考(こう)』の第二話「登美那賀伝説」の骨子に変わりはないが、『穂国幻史考(増補新版)』第二話「登美那賀(とみなが)伝説」で、新たに書き足した部分が、どこであるか等を指摘した。