2022年02月12日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明10(補遺三1)

「隱れ太鼓」は、現在、牛久保八幡社(豊川市牛久保町常盤)、豊川進雄神社(豊川市豊川西町)、小坂井の菟足神社(豊川市小坂井町宮脇)で行われており、『三河國吉田領風俗問状答』によれば、かつては城内天王(現吉田神社(豊橋市関屋町))で行われていたと推測される。いずれも「笹踊」奉納社であり、それぞれJR飯田線の牛久保駅、豊川駅、小坂井駅、豊橋駅が公共交通機関の最寄り駅となる。
「隱れ太鼓」を定義すれば、地元で大(おお)山車(やま)(『三河國吉田領風俗問状答』では、「車樂(だんじり)」と表記され、同書には、「隱れ太鼓」の定義に当てはまるか否かは別として、城内天王の祇園祭で、金襴の唐子衣装を着て、笠を冠った大太鼓の叩き手が車樂の二層部分で太鼓を叩いている旨の描寫がある)と呼んでいる二輛一對の二層の山車(だし)の二層部分で、唐子衣裝を纏った一人の踊り手(=大太鼓の打ち手)が、水平に据えた長胴の大太鼓を打っては欄干に身を隱しつつ演じ踊ることを特徴とする山車藝能といえる(「若葉祭」では、稚兒と稚兒を操る「稚兒出し」により演ずる)。祭禮によって構成は異なるが、数名の笛などの囃子方を伴う。この大太鼓の叩き手は、元々は、稚兒舞、より具體的には、国指定重要無形民俗文化財「遠江森町の舞樂」の一つ「山名神社天王祭舞樂」の「八初兒」のような稚兒舞の大太鼓の伴奏者に、吉田で唐子衣裝を着せ、牛久保で上記定義のような「隱れ太鼓」が確立したと私は推測する。
「隱れ太鼓」を演ずる舞臺となる大山車は、二層唐破風で、本祭には、唐破風屋根の上に人形が載り(城内天王の祇園祭の車樂の唐破風屋根の上にも本祭には人形が飾られていた。ただし「若葉祭」の西若組の大山車では屋根の上ではなく、二層部分に大黒天の人形を飾る。その理由については後述する)、一層部分には造作はなく、二層部分に囃子方も乘る。車輪はみな必ず四輪で外輪である(ただし豊川では、曳かなくなって久しく車輪を外している。加えて豊川の二輛のうちの西山は車軸も失い、車軸の代わりに、角材を使っている)。
 この大山車は、神幸の際には決まった位置に停め置かれ、「隱れ太鼓」を演じ、神幸とは別に曳行される。曳行の際には、曳いている最中にも、「隱れ太鼓」が演ぜられるのが特徴である。
「若葉祭」では、神幸終了の後の「三つ車」の折にも「隱れ太鼓」が演じられるが、現在のように、四町にダシ(馬印樣の立物)が揃う以前は、三谷祭の「引き分け」に近いものであったと考えられる。というより、三谷祭の山車は、大山車にダシが合體したものであり、その原型は、「若葉祭」にあったと考えられる。つまり三谷祭の「引き分け」は、ダシが揃う以前の「若葉祭」の「三つ車」を範にしたものと推測されるのである。
「三つ車」の變容というより、「隱れ太鼓」の變容になるが、かつては「隱れ太鼓」の「稚兒出し」、囃子方の全てに若い衆が就いていた。
 以上が最初の小見出し「「隱れ太鼓」が奉納される祭禮」、「「隱れ太鼓」とは」、「「三つ車」の詳細と「若葉祭」の大山車の役割等」の三つの項の内容の指針になる。

 既述のように、補遺一「「うなごうじ祭」名は稱考」の最初の見出し「平田派國學者・羽田野敬雄の牛久保觀」の四つの小見出し「上若の唄う「梅ヶ枝節」も異國起源」が、補遺三の最初の見出し「『帝都物語外伝 機関童子』に見る「若葉祭」の「隱れ太鼓」」の伏線になっている。
 その「『帝都物語外伝 機関童子』に見る「若葉祭」の「隱れ太鼓」」の『帝都物語外伝 機関童子』は、荒俣宏の小説。「機関童子」は、荒俣氏の造語で、「若葉祭」の「隱れ太鼓」の演じ手の稚兒を指し、荒俣氏は脚色された小説の世界で、「若葉祭」の「隱れ太鼓」を描写している。
 そして荒俣氏は、『帝都物語外伝 機関童子』の七章「八幡宮の童子」で、作中人物の青山学院講師の慶間泰子が犬山祭の「離れからくり」に関心を持った流れで、「機関童子」を語らせている。「八幡宮の童子」の「八幡宮」とは、「若葉祭」を例祭とする牛久保八幡社のことだ。
 さらに同書九章「カラクリの裏面」で、慶間泰子に「そう、ああした人形の動きは、死者の動きなのよ」と語らせ、一五章「大江匡房に訊く」では、芸にひいでた著名な傀儡は、どれも数字に縁がある名であると、「小(こ)三(さん)とか千歳とか日百とか」と小三の名を擧げ、唐突に「小三といえば、落語に柳家小さんという名人がいたね。コサンが、まさか傀儡の芸名に由来しているとは、知らなかったな!」と結んでいる。余談になるが、『帝都物語外伝 機関童子』の一五章のタイトルが、「大江匡房に訊く」となっているのは、大江匡房(一〇四一~一一一一)が『傀儡子記(くぐつき)』を著していることからだろう。
 ここでの柳家小さんは、三代目の小さん(一八五五~一九三〇)を指すと推測される。その理由は、『帝都物語外伝 機関童子』が完成した時期と、三代目小さんは、上方落語の四代目桂文吾(一八六五~一九一五)が今日の筋立てに完成させた『駱駝(らくだ)の葬禮(そうれん)』を、桂文吾から口傳で讓り受け、江戸落語へ移植した人物からだ。
 この『駱駝の葬禮』の主人公は、「らくだ」をあだ名とし、噺が始まった時點ですでに前夜食した河豚に中って、死人として登場する。兄貴分だった男が「らくだ」の亡骸を文樂人形に見立て、「看々踊」を踊らす場面がある。荒俣のいう「小さん」を三代目の小さんとしたのは、慶間泰子に「そう、ああした人形の動きは、死者の動きなのよ」と語らせ、三代目小さんが江戸に移植した『駱駝の葬禮』には、「らくだ」の亡骸を文樂人形に見立て、「看々踊」を躍らせる場面があるからだ。
 ここに「看々踊」とは、「看看(カンカン)也(エ) 賜(スウ)奴的(ヌテ)九連(キウレン)環(クワン)」で始まる清樂『九連環』に合わせて踊る唐人踊をいう。
 以上から、小説とはいえ、荒俣は、「若葉祭」の「隱れ太鼓」と、『駱駝の葬禮』が關聯があると考えていたのは明らかであろう。

『駱駝の葬禮』では、亡骸を人形淨瑠璃の文樂人形に見立て、「看々踊」を躍らせているが、人間が人形の動きを眞似て演じることを、歌舞伎の世界では「人形振り」という。「人形振り」とは、人形淨瑠璃を歌舞伎化した演目である丸本物(まるほんもの)において役者が人形の動きを眞似て演じることをいい、「人形振り」で演じられる登場人物の背後には、必ず人形遣い役が役者の體を支えながらあたかも人形を動かしているかのように演出する。
 この「人形振り」の起源は、享保一七(一七三二)年に上演された『壇(だんの)浦(うら)兜(かぶと)軍記(ぐんき)』である。ただし後述するように、前年に江戸の豐竹座の幕間で行った記録がある。
 一般に「人形振り」は、役者が文樂人形の動きを眞似て演ずるが、嘉永五(一八五二)年、江戸川原座で上演された『柳絲引御攝(やなぎのいとひくやごひいき)』(通稱「操り三番叟」)では、三番叟(さんばそう)を絲繰りの「人形振り」で演じ、翁(おきな)と千歳(せんざい)は、薇發條(ぜんまい)仕掛けの「人形振り」で演じる(絲繰りが考案されるのは元和三(一六一七)年)。
 現在、文樂人形は、一體の人形を三人で操作する(三人遣い)點で、「稚兒出し」一人が稚兒を操る點で「若葉祭」の「隱れ太鼓」と異なる。だが、三人遣いが完成するのは、「人形振り」が始まる二年後の享保一九(一七三四)年に大坂竹本座で、『芦屋(あしや)道(どう)滿(まん)大内(おおうち)鑑(かがみ)』が上演されてからである(「人形振り」における人形遣い役は、三人遣いになっても一人だが)。三人遣いの人形には、首の下に胴(で)串(くし)が附いており、この胴串に仕込まれた、目、眉、口などを動かす「小ザル」の完成により、一體の人形を一人で操作するのが困難になり、三人遣いが生まれたと推測される。この「小ザル」は、からくり人形の影響といわれ、からくり人形芝居の興行は、寛文二(一六六二)年に、初代竹田近江(?~一七〇四)が、竹田機關(からくり)座(ざ)を道頓堀に創設したことに始まる(明和五(一七六八)年、四世近江の代に閉座)。
『芦屋道滿大内鑑』が、初めて上演された大坂竹本座は、貞享元(一六八四)年、義太夫節の創始者・竹本義太夫(一六五一~一七一四)により創設された人形淨瑠璃の芝居小屋で、同じ道頓堀にあった元禄一六(一七〇三)年に、竹本義太夫の弟子・豐竹越前少掾(一六八一~一七六四)により創設された豐竹座とともに榮えた。
 初代竹田近江の次男の竹田出雲(?~一七四七)は、寶永二(一七〇五)年、竹本座の座本に就き、孫の三代出雲(生没年不詳)が、安永二(一七七三)年に座本を降りるまでの三代七十年近くに亙り、竹本座の興行に携わっていた。竹田機關座が人形淨瑠璃の人形の仕掛けに輿えた影響は計り知れない。
 また人形遣いは「黒衣(くろこ)」といわれるように、黒衣(こくい)に身を包み、顔も隱しているが、「主遣(おもづか)い」だけは重要な場面では觀客に顔を晒すことがある。これを「出遣(でづか)い」という。「出遣い」の初めは、寶永二(一七〇五)年のことという。「出遣い」のときは、黒衣ではなく、紋附袴姿である。
 ここに「主遣い」とは、首(かしら)と右手を操る者をいう。「若葉祭」の「隱れ太鼓」の「稚兒出し」を、三人遣いに當てはめれば、「主遣い」に當てはまるが、既述のように、出遣いの折の主遣いの裝束が紋附袴であるのに對し、「稚兒出し」は裃である點で異なる。ただし「人形振り」における後見(「人形振り」での操り手)は、裃か普通の黒衣ではなく、繻子の黒衣である。
 三人遣いが誕生する以前、元々、淨瑠璃人形には足が附いておらず、「突込み」というタイプの人形を使っていた。稚兒が着る唐子衣裝の裾から手を入れ、稚兒を操る「稚兒出し」は、「突込み」というタイプの人形を使っていたころの人形遣いの「出遣い」の「人形振り」といえる。



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