2022年02月13日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明11(補遺三2)

『帝都物語外伝 機関童子』の作中人物・慶間泰子は、尾張のからくり人形を載せた山車祭りの一つ犬山祭(国宝犬山城の鎭守・針綱神社(犬山市大字犬山字北(きた)古(こ)券(けん))の祭禮)を見て、尾張の山車に載る、からくり人形に興味を持ち、その流れで、「若葉祭」の「隱れ太鼓」に見学に来たことになっている。
 尾張は全国的に見ても、からくり人形が載る山車を多く保有する地域だ。同じ愛知県とはいえ、東三河で、からくり人形が載る山車は、田原祭(神明社(田原市田原町北番場)、八幡社(田原市田原町南番場)、巴江神社(田原市田原町巴江)の合同の祭禮)の三輛、二川八幡社(豊橋市二川町東町)の祭禮の三輛、そして三谷祭(八劔神社(蒲郡市三谷町七舗)の祭禮)で西新屋が曳く惠比壽山車(やま)の計七輛のみである。
 田原祭の三輛は、尾張のからくり人形が載る山車の中で、名古屋型といわれるタイプ。二川八幡社の祭禮の三輛は、外觀は名古屋型を小振りにしたように見えるが、名古屋型は、外觀二層だが、内部は一層部分が、上下に分かれており、三層になっている。二川のものは、一層部分が上下に分かれておらず、また後述するように、名古屋型では、前人形、からくりの妙技を魅せる上山人形、上山人形の後方で上山人形を見守るように置かれる大將人形の三点セットであるが、二川では上山人形を缺くことから、名古屋型とは似て非なるものだ。三谷祭の惠比壽山車は、「隱れ太鼓」を演じる大山車の亞型で、唐破風屋根に載る惠比壽人形の右手のみが簡單、單純な動きをする。参考までに、からくり人形ではないが、「若葉祭」の上若組の大山車の唐破風屋根の上にも惠比壽人形が載る。
 田原祭に名古屋型の山車が登場するのは、明治一三(一八八〇)年、二川八幡社の祭禮にからくり人形が載る山車が登場するのは、慶應元(一八六五)年、三谷祭の惠比壽山車に載る惠比壽人形は、明治四(一八七一)年の作と傳えられる。惠比壽山車は、それ以前からあり、明治四年以前に惠比壽山車に載っていた惠比壽人形は、享保一九(一七三四)年の作といわれるが、享保一九年から三谷にからくりの惠比壽人形があったわけではない。三谷では、中古のからくり人形を買ったと推測されるからだ。後述するように、三谷祭の山車にからくり人形が載るのは、一八世紀末のことと推測される。

 その尾張のからくり山車であるが、その濫觴は、元和八(一六二二)年に名古屋城内三の丸鎭座の東照宮(明治になり名古屋市中区丸の内に移轉)の祭禮に七間町が出した橋辨慶車である。いわゆる名古屋型といわれるタイプの山車が完成するのは、同じ尾張東照宮の祭禮で、上長者町が二福神車を造った享保一七(一七三二)年になる。
 その名古屋には、家康隱居後(一六〇五~一六一六)に李朝朝鮮から獻上された自(じ)鳴(めい)鐘(しょう)(機械時計)の修理と、それを基に新たに機械時計を製作した津(つ)田(だ)助(すけ)左(ざ)衞(ゑ)門(もん)(?~一六三九)がいた。これがからくり人形制作の下地になった。竹田機關座を創いた初代竹田近江は、機械時計のからくりを工夫し、からくり人形芝居を考案したといわれるからだ。
 津田助左衞門によって創られた下地に、野暮な吉宗(一六八四~一七五一/將軍在位一七一六~一七四五)の享保の改革に反發し、『温知政要』を著した宗春(一六九六~一七六四)が祭禮を奬勵し、享保一八(一七三三)年、東照宮祭禮で傳馬町が前年に新造した林和靖車の鶴のからくりの修理と操作指導のため、來名した京都のからくり人形師・玉屋庄兵衞(生没年不詳)が翌年再訪し、玉屋町(名古屋市中区錦三丁目)に定住したことにより、尾張のからくり山車の文化が花開いた。隣國尾張のからくり出車に刺激を受けたことが、「若葉祭」の「人形振り」の「隱れ太鼓」を始める契機になったことは想像に難くない。

 尾張の山車に載るからくり人形は、その役割により、前人形、上山人形、大將人形に分類される。前人形とは、名古屋型山車の二層部分の前棚(二層部分前方の一段下がった部分)、その前棚から進化した知多型山車の前山に載るからくり人形のことで、采などを手に持ち、それを振るといったからくり人形をいう。次に上山人形とは、尾張のからくり山車の中心になるからくり人形で、樣々な妙技を魅せる。最後に大將人形とは、上山人形の後方に座して見守る人形で、前人形と同樣に簡單な動きをするからくり人形で、歴史上の人物などを現したものである。
 尾張のからくり山車の中の名古屋型の山車では、前人形、上山人形、大將人形の全てが揃うが、知多型などでは大將人形を缺くことが多い。前人形と上山人形は、唐子人形であることも多いが、唐子人形は、兩側頭部の髮だけを殘し結い上げたモンゴル族の辮髮のような髮型である點で、笠を冠り、目から下を赤布で隱す「隱れ太鼓」と異なる。
「若葉祭」の「隱れ太鼓」は、采を振るなど單純な動きをする前人形より、からくりの妙技で魅せる上山人形を「人形振り」で演じているといえる。ただし上山人形が全身で演じているのに對し、「隱れ太鼓」は、基本的に観客から、上半身のみが見える點で異なる。

 以上は役割の分類だが、尾張の山車に載るからくり人形は、その操作法により、人形淨瑠璃の文樂人形のように、人間が人形の手足を持って操作する直接操法、人形の手足などのそれぞれの部位に繋がるそれぞれの絲を下から引いてそれぞれの部位を動かす間接操法(絲からくり)、人形の體内に仕込んだ薇發條(ぜんまい)、齒車、原動節、從動節などを胴串や絲を使って操作し、人形を逆立ちさせ、綾渡りをさせ、あるいは亂杭渡りなどをさせる離れからくりなどの遠隔操法の別がある。「若葉祭」の「隱れ太鼓」は、稚兒が欄干に腰掛け、脚(あし)持ちが、稚兒の脚を持ち、「稚兒出し」が稚兒を逆さに倒すといったアクロバティックな所作を演じるが、この所作は「離れからくり」を意識したものといえる。
 また「若葉祭」の「隱れ太鼓」の稚兒は、首を支点に絶えず頭を左右に振るという動きをするが、この仕草を、文樂人形で再現しようとすれば、人形の喉の部分の「ノドキ」に細工をし、胴串に設けられた「チョイ」(首を上下に動かす仕掛け)のような絲を引くことによることになるだろう。ただし「ノドキ」の下に肩板があるという淨瑠璃人形の構造では肩板など、胴串の下部に人形の頭が當たって邪魔になり、かかる動作を行うことは困難が予想される。これをどう工夫するかということになるが、いずれにしても、この動きは、手妻人形などの手遣い人形の「人形振り」と見ることが出來るだろう。
「若葉祭」の「隱れ太鼓」は、通常の「人形振り」ではなく、「操り三番叟」以上に、かなり特殊な「人形振り」といえる。
 以上、補遺三の二つ目の見出し「「若葉祭」の「隱れ太鼓」と尾張の山車からくり」の項では、無形文化財の「隱れ太鼓」について考察した。



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