2022年02月14日
『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明12(補遺三3)
繰り返しになるが、補遺三の二つ目の見出し「「若葉祭」の「隱れ太鼓」と尾張の山車からくり」の項では、無形文化財の「隱れ太鼓」について考察したが、三つ目の見出し「豊川下流域の大山車と尾張型山車」の項は、タイトルのとおり、「隱れ太鼓」が演ぜられる、有形文化財の大山車について言及してある。
ここまで「山車(だし)」の字を使って来たが、「山」を「ダ」と訓む用例も「車」を「シ」と訓む用例もない。山車は當て字だ。
この「山」とは、標山(しめやま)をいい、標山とは、大嘗祭のときに、大嘗宮の前に悠(ゆ)紀(き)・主基(すき)の兩國の役人が立ち竝ぶ位置を示すための目印をいう。標山は、山形に作り、榊・木綿・日月などの裝飾を施したものだ。二輛一對という點で、「隱れ太鼓」を演ずる大山車は標山の流れを汲むといえる。
『古事記』中卷埀仁條の出雲國造の祖・岐(き)比佐(ひさ)都(つ)美(み)が肥(ひの)河(かわ)の中に、黒木の樔(す)橋(ばし)の假宮の川下に造った「青葉の山のような飾り物」が、文獻上の標山の初出である。
『古事記』中卷埀仁條の肥川は、播磨を流れる加古川を指し(播磨を流れる肥川(加古川本流)の上流部が丹波國氷上郡)、その影響もあってか、播磨には、播磨國總社射(い)楯(たて)兵(ひょう)主(ず)神社(兵庫県姫路市総社本町)並びに播磨國一宮伊和(いわ)神社(兵庫県宍粟(しそう)市一宮町須(す)行名(ぎょうめ))で六十年に一度行う「一ツ山大祭」や二十年に一度行う「三ツ山大祭」の「五色山」や「小袖山」といった置山がある。
この加古川(支流の篠山(ささやま)川)流域の舊丹波國多紀郡坐波々伯部(ほほかべ)神社(丹波篠山市宮ノ前)の祇園祭(国指定選択無形民俗文化財)で、二層部分で木偶(でこ)の坊といわれる操り人形戲が行われる胡瓜(きゅうり)山も標山と同樣に二輛一對である。
博多祇園山笠の「飾り山」も置山である。飾り山は、播磨の人・黒田長政(一五六八~一六二三)の博多入封と無縁ではあるまい。ちなみに京都八坂の祇園社が祀る牛頭天王も播磨の廣峯(兵庫県姫路市広峰)から勸請したものである。
標山についても言及している折口信夫(一八八七~一九五三)著『髯籠の話』では、霹靂(かむとけ)の木に神が宿るとし、髭籠の髭は避雷針の役割があるとする。「若葉祭」のダシの千成瓢箪や御幣は、避雷針を現したものといえる。
また「若葉祭」、風祭、豊川の祇園の神幸に隨伴する青竹の先の鉾も避雷針といえる。京都では同樣のものを劍鉾といい、これに臺車を附け、曳山にしたものが京都祇園祭の鉾になる。
京都祇園祭の山鉾の鉾はこのように考えられるが、山鉾の山は既述の置山を擔いで、移動可能にしたものといえよう。
京都祇園祭の山には、郭巨山のように、人形を飾ったものもある。この人形山について説明すれば、山川草木、さらには、長い年月を經た道具などにも靈が宿り、それを祀るのがこのクニの神祭りだ。人形は人の形をした形代(かたしろ)で、流し雛は、『源氏物語』帖一二須磨の卷には、穢れを移した人の形をした形代を船に載せ、須磨の海に流した旨の記述がある。これも長い年月を經た道具などにも靈が宿るとの信仰の延長線上にあるものだ。
祇園御靈會は、貞觀地震(八六九年)の後、當時の令制國の數と同じ六十六本の鉾に、諸國の惡靈を移し、祓い清めたことから、鉾を立てる祭りになった。この祇園御靈會の流れからいえば、祇園御靈會への人形山の登場は、當然の流れといえる。
話は変わるが、補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」の二つ目の見出し「田中緑紅主宰『鄕土趣味』の功罪」の三つ目の小見出し「引馬天王社の「出し豆腐」」では、「笹踊」の囃子方ではないものの、「笹踊」奉納社でもある引馬天王社の出し豆腐を奉持する係は、地面に寢轉ぶ旨を記すとともに、出し豆腐と「若葉祭」のダシの比較をした。
この出し豆腐は、一般には、手持ち万度と呼ばれるもので、万度は、上方に御幣が插してある長方體の箱に「百万度」と書いた祭具である。この地方の豊川市御油町膳ノ棚鎮座の御油神社の祭禮では、その形から串に刺した豆腐に見立てて田樂と、西三河では梵天と呼ばれ、この万度は、万燈會で、佛神を供養するために點(とも)した燈明を淵源とした。
江戸の天下祭で牛に曳かせていた一本柱万度型の山車も、手持ち万度が、次第に大型化し、造花などで飾り立てるようになり、やがて幕府により禁じられる。幕府の禁令は一人で捧持することを對象としたため、複數人で擔げば問題なかろうと、万度の柱の下に臺と擔ぎ棒を附け、神輿のようにして擔いだ。これを「擔ぎ万度」といったが、間もなく、万度を臺車の上に載せ、曳くようになった。一本柱万度型山車の誕生である。
上述のように一本柱万度型の山車は、造花を飾ることが多かったことから、花山車ともいわれ、宮(みや)道(ぢ)天神社(豊川市赤坂町宮路)の雨乞い祭の花車も、原初的な一本柱万度型の山車といえるし、三谷祭の山車の山車柱も一本柱万度である。
秋田の竿燈(かんとう)も万燈にルーツを求めることが出來、折口信夫の『髭籠の話』に出て來る臺樂(だいがく)も竿燈を臺に載せ、複數人で擔ぐようになったものといえる。
さらに、手持ち万度の燈(あかり)が入る万燈部分に造形を加え、巨大化したのが刈谷の万燈祭(刈谷市銀座二丁目に鎭座する秋葉社の祭禮/県指定無形民俗文化財)の万燈である。刈谷の万燈祭の万燈、巨大化したとはいえ、一人で捧持することが出來るものであるが、それがさらに巨大化し、複數人で擔ぐようになったのが、「ねぶた」あるいは「ねぷた」である。
遠州横須賀の三熊野神社(掛川市西大渕)では、一本柱万度型の山車が曳かれるが、遠州では山車の呼稱より屋臺の呼稱が一般的だ。
ここで屋臺について考えて見るに、字義から屋根と臺(だい)輪(わ)(箪笥などの箱物調度品の床に接する臺座部分をいう)からなる構造物をいう(底拔屋臺も床はないが臺輪はある)。もちろん屋根を支える柱も構成要素となる。この屋根と臺輪で仕切られた空間に太鼓のみが載れば、太鼓屋臺(太鼓のみとしたのは、湖西(濱名湖の西の意)の太鼓臺のように太鼓の叩き手が乘らないものもあるから)、囃子方が載れば、囃子屋臺、踊り手が乘り、踊りを踊れば、舞踊屋臺となる。屋根がないものは、太鼓臺、囃子臺、舞臺となり、屋臺、臺には、擔ぐものもあれば、車を附けて曳くものもある。
京都祇園祭の巡幸で先頭を行く長刀鉾は、山車であるとともに、屋臺でもある。
唐破風屋根の上に人形が載り、二層部分で「隱れ太鼓」を演ずる豊川下流域の大山車も、山車であるともに、屋臺の要素も兼ね備える。
ここまで「山車(だし)」の字を使って来たが、「山」を「ダ」と訓む用例も「車」を「シ」と訓む用例もない。山車は當て字だ。
この「山」とは、標山(しめやま)をいい、標山とは、大嘗祭のときに、大嘗宮の前に悠(ゆ)紀(き)・主基(すき)の兩國の役人が立ち竝ぶ位置を示すための目印をいう。標山は、山形に作り、榊・木綿・日月などの裝飾を施したものだ。二輛一對という點で、「隱れ太鼓」を演ずる大山車は標山の流れを汲むといえる。
『古事記』中卷埀仁條の出雲國造の祖・岐(き)比佐(ひさ)都(つ)美(み)が肥(ひの)河(かわ)の中に、黒木の樔(す)橋(ばし)の假宮の川下に造った「青葉の山のような飾り物」が、文獻上の標山の初出である。
『古事記』中卷埀仁條の肥川は、播磨を流れる加古川を指し(播磨を流れる肥川(加古川本流)の上流部が丹波國氷上郡)、その影響もあってか、播磨には、播磨國總社射(い)楯(たて)兵(ひょう)主(ず)神社(兵庫県姫路市総社本町)並びに播磨國一宮伊和(いわ)神社(兵庫県宍粟(しそう)市一宮町須(す)行名(ぎょうめ))で六十年に一度行う「一ツ山大祭」や二十年に一度行う「三ツ山大祭」の「五色山」や「小袖山」といった置山がある。
この加古川(支流の篠山(ささやま)川)流域の舊丹波國多紀郡坐波々伯部(ほほかべ)神社(丹波篠山市宮ノ前)の祇園祭(国指定選択無形民俗文化財)で、二層部分で木偶(でこ)の坊といわれる操り人形戲が行われる胡瓜(きゅうり)山も標山と同樣に二輛一對である。
博多祇園山笠の「飾り山」も置山である。飾り山は、播磨の人・黒田長政(一五六八~一六二三)の博多入封と無縁ではあるまい。ちなみに京都八坂の祇園社が祀る牛頭天王も播磨の廣峯(兵庫県姫路市広峰)から勸請したものである。
標山についても言及している折口信夫(一八八七~一九五三)著『髯籠の話』では、霹靂(かむとけ)の木に神が宿るとし、髭籠の髭は避雷針の役割があるとする。「若葉祭」のダシの千成瓢箪や御幣は、避雷針を現したものといえる。
また「若葉祭」、風祭、豊川の祇園の神幸に隨伴する青竹の先の鉾も避雷針といえる。京都では同樣のものを劍鉾といい、これに臺車を附け、曳山にしたものが京都祇園祭の鉾になる。
京都祇園祭の山鉾の鉾はこのように考えられるが、山鉾の山は既述の置山を擔いで、移動可能にしたものといえよう。
京都祇園祭の山には、郭巨山のように、人形を飾ったものもある。この人形山について説明すれば、山川草木、さらには、長い年月を經た道具などにも靈が宿り、それを祀るのがこのクニの神祭りだ。人形は人の形をした形代(かたしろ)で、流し雛は、『源氏物語』帖一二須磨の卷には、穢れを移した人の形をした形代を船に載せ、須磨の海に流した旨の記述がある。これも長い年月を經た道具などにも靈が宿るとの信仰の延長線上にあるものだ。
祇園御靈會は、貞觀地震(八六九年)の後、當時の令制國の數と同じ六十六本の鉾に、諸國の惡靈を移し、祓い清めたことから、鉾を立てる祭りになった。この祇園御靈會の流れからいえば、祇園御靈會への人形山の登場は、當然の流れといえる。
話は変わるが、補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」の二つ目の見出し「田中緑紅主宰『鄕土趣味』の功罪」の三つ目の小見出し「引馬天王社の「出し豆腐」」では、「笹踊」の囃子方ではないものの、「笹踊」奉納社でもある引馬天王社の出し豆腐を奉持する係は、地面に寢轉ぶ旨を記すとともに、出し豆腐と「若葉祭」のダシの比較をした。
この出し豆腐は、一般には、手持ち万度と呼ばれるもので、万度は、上方に御幣が插してある長方體の箱に「百万度」と書いた祭具である。この地方の豊川市御油町膳ノ棚鎮座の御油神社の祭禮では、その形から串に刺した豆腐に見立てて田樂と、西三河では梵天と呼ばれ、この万度は、万燈會で、佛神を供養するために點(とも)した燈明を淵源とした。
江戸の天下祭で牛に曳かせていた一本柱万度型の山車も、手持ち万度が、次第に大型化し、造花などで飾り立てるようになり、やがて幕府により禁じられる。幕府の禁令は一人で捧持することを對象としたため、複數人で擔げば問題なかろうと、万度の柱の下に臺と擔ぎ棒を附け、神輿のようにして擔いだ。これを「擔ぎ万度」といったが、間もなく、万度を臺車の上に載せ、曳くようになった。一本柱万度型山車の誕生である。
上述のように一本柱万度型の山車は、造花を飾ることが多かったことから、花山車ともいわれ、宮(みや)道(ぢ)天神社(豊川市赤坂町宮路)の雨乞い祭の花車も、原初的な一本柱万度型の山車といえるし、三谷祭の山車の山車柱も一本柱万度である。
秋田の竿燈(かんとう)も万燈にルーツを求めることが出來、折口信夫の『髭籠の話』に出て來る臺樂(だいがく)も竿燈を臺に載せ、複數人で擔ぐようになったものといえる。
さらに、手持ち万度の燈(あかり)が入る万燈部分に造形を加え、巨大化したのが刈谷の万燈祭(刈谷市銀座二丁目に鎭座する秋葉社の祭禮/県指定無形民俗文化財)の万燈である。刈谷の万燈祭の万燈、巨大化したとはいえ、一人で捧持することが出來るものであるが、それがさらに巨大化し、複數人で擔ぐようになったのが、「ねぶた」あるいは「ねぷた」である。
遠州横須賀の三熊野神社(掛川市西大渕)では、一本柱万度型の山車が曳かれるが、遠州では山車の呼稱より屋臺の呼稱が一般的だ。
ここで屋臺について考えて見るに、字義から屋根と臺(だい)輪(わ)(箪笥などの箱物調度品の床に接する臺座部分をいう)からなる構造物をいう(底拔屋臺も床はないが臺輪はある)。もちろん屋根を支える柱も構成要素となる。この屋根と臺輪で仕切られた空間に太鼓のみが載れば、太鼓屋臺(太鼓のみとしたのは、湖西(濱名湖の西の意)の太鼓臺のように太鼓の叩き手が乘らないものもあるから)、囃子方が載れば、囃子屋臺、踊り手が乘り、踊りを踊れば、舞踊屋臺となる。屋根がないものは、太鼓臺、囃子臺、舞臺となり、屋臺、臺には、擔ぐものもあれば、車を附けて曳くものもある。
京都祇園祭の巡幸で先頭を行く長刀鉾は、山車であるとともに、屋臺でもある。
唐破風屋根の上に人形が載り、二層部分で「隱れ太鼓」を演ずる豊川下流域の大山車も、山車であるともに、屋臺の要素も兼ね備える。