2022年02月17日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明15(補遺三6)

「若葉祭」の大山車の停め置かれる位置と、曳行ルートが似る風祭の大字小坂井の大山車の車輪には、寛政三(一七九一)年四月と記されている。私は、車輪に寛政三年四月と記されている小坂井の大山車は、西若組の舊車と考える。
 當時菟足神社の氏子地であった寶飯郡下地村の住人・山本貞晨が著した『三河國吉田名蹤綜録』の「菟足神社」の項には、「翌十一日祭禮神輿行幸の始元飾鉾車樂等の譯笹踊の事其外末社由縁委細舊記は三河名蹤綜録に載る 依て茲に省」とある。『三河國吉田名蹤綜録』が成立した文化年間(一八〇四~一八一七の初めごろより以前に、大字小坂井は、西若組大山車を購入していたことになる。
 一方、『小坂井町誌』は、「天保四年以来の人形帳を見ると、その人形には三条鍛冶宗近、薩摩守忠度、鎌倉権五郎景政と鳥峯弥三郎、木曽義仲橋弁慶、多賀大明神、熊坂長範物見松、源三位頼政等がのっていて、それが新しい工夫によって、取り替えられたとみられるが、それ以前のことは元禄の人形衣装、延宝九年の古面をはじめ数個の古面があるばかりで、記録は逸して残っていない」大字宿字宿が所有した山車について記している。
 だが、この記述は、大山車についての記述ではないと、私は考える。延寶九(一六八一)年 「以来の」という文言は、文脈から天保四(一八三三)年の祭禮に出していた人形についてまで書いた「人形帳」を意味するものと思われるからだ。つまり、大字宿字宿では、天保四年以前は、大山車ではなく、頻繁に人形を造り變える、人形山を出し物としていたと考えられるのである。
 遠州の森や掛川では、二輪の陸屋根の車の屋上に人形を飾るが、毎年人形を変える。湖西市入出の祭禮に曳かれる太鼓臺では、毎年どころか、その年の祭禮で何度も人形を変える。遠州森には人形の貸し出し業者があるほどだ。
 大字宿字宿の大山車は、上若組の舊車で、おそらく天保四年の風祭後に上若組と大山車の賣買契約を締結し、天保六(一八三五)年の「若葉祭」後に上若組から宿に引渡されたと推測される。上若組の大山車の通し柱に「天保七年申四月吉日」と刻まれ、「再興」の文字がないのは、以上の理由からであろう。

 風祭の大山車は、通し柱ではなく、尾張のからくり山車のように、二層部分が昇降可能になっている。風祭の大山車は、JR飯田線を横断して曳行するが、JR飯田線の前身の一つ豐川鐡道は、大正一四(一九二五)年に、全線電化される。風祭の大山車は、このとき豐川鐡道を横斷するため、昇降可能に改造されたのだろう。
 豐川天王社の東の大山車は、昭和一二(一九三七)年まで曳いていたという。風祭の大山車のようにJR飯田線を横断するわけではないが、二層部分が昇降可能に改造されている。明治二三(一八九〇)年、公道上に、自由に、電信線、電話線が架設出來る『電信線電話線建設條例』が制定される。公道上の電信線、電話線を潛るための改造だろう。西の大山車は、いつまで曳いていたかの記録はないが、同樣の改造がされていることから、『電信線電話線建設條例』が制定される、明治二三年以降も曳いていたと考えられる。
「御輿深川 山車神田 だだっ廣いは山王樣」と謳われた、神田祭は、明治二二年を最後に山車の曳行を中止する。山王祭でも、これ以降曳かれることはなかったから、明治二二年が天下祭での山車曳行の最後となる。一本柱万度型は可倒式になっており、鉾臺型も上層部は昇降可能になっていたことから、電信線、電話線は曳行の障碍にはならないが、『電信線電話線建設條例』が制定された明治二三年には、公道上に馬車鐡道の軌道を敷設出來る『軌道條例』も制定される。天下祭の二輪の山車の曳行には馬車鐡道の軌道が障碍になったのだろう。
「若葉祭」の西若組の大山車の二層部分も昇降可能になっている。これは、『電信線電話線建設條例』が制定された四年後の明治二七(一八九四)年に收藏してあった法幢山上善寺(豊川市弥生町一丁目)が火災に遭い、一部が燒け、碧海あるいは知多半島三河灣側から二層部分を部品として購入し、改造した結果だろう。吉田の車樂を含み、豊川下流域の大山車の二層部分の柱は角柱だが、一つ西若組の大山車だけは丸柱である。この丸柱という點から、碧海あるいは知多半島三河灣側の山車の二層部分を購入したと推測出來る。吉田の車樂を含めた、豊川下流域の大山車の中で、西若組の大山車は唯一屋根の上ではなく、二層部分に大黒天の人形を飾るが、碧海あるいは知多半島三河灣側から二層部分を部品として購入したことにより、屋根の上に人形を飾るのが困難になったからであろう。
 また西若組の大山車の破風には菊花、虹梁には鶴が彫られている。鶴はどう考えても、牛久保八幡社とも、西若組とも關聯するモチーフではない。破風という目立つ部分に氏神とも組ともゆかりのないモチーフを彫刻するとは考えられない。他所から二層部分を部品として購入した理由の一つもここにある。

 話は変わるが、神兒車も禁令の對象、というより、神兒車の舊車こそが、禁令の直接の對象となっていたと考えられるが、神兒車の舊車はどうなったのであろう。
 それを考察する前に、神兒車の舊車がどのようなものだったかを考えて見る。
 天保七(一八三六)年に再興されたという現在神兒組が曳いている神兒車は、唐破風一層四輪の内輪という型式である。
「若葉祭」で、大山車が停め置かれているときに「隱れ太鼓」を演じるのは、神輿以上に、「若葉祭」の神幸の主役といえる神兒車に乘る神兒を迎えるためである。これを迎え打ちという。神兒は男兒が巫女の格好をして、神兒車上や拜殿で、神兒舞を舞う。「若葉祭」が始まれば、終わるまで、神兒が地に足を着けることはない。
 この神兒舞について、地元の牛歩會が昭和一〇年代に書いたと推測される『牛久保私談』「牛久保八幡社の例祭」の項に、「神兒舞は…………………寛政十二庚申年(紀元二四六〇年)から始まつたといふ」とあり、寛政一二(一八〇〇)年に始められたと傳えられる。
 つまり神兒舞を始める前の神兒は、舞を舞わない尸童(よりまし)としての性格がより强い神兒であったのである。その尸童としての性格がより强かった神兒を上から見下ろす形で、迎え打ちを行っていたとは、私はとても思えない。神兒車の舊車は大山車と同樣に、二層の曳山で、その二層部分に神兒が乘っていたと考えるのが妥當だろう。



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