2022年02月20日
『穂国幻史考(増補新版)』の手引き2(第一話第一章1)
先に述べたように、私は『古事記』は、『日本書紀』のゲラ刷りと考えている。
第一章「「記紀」の成立過程と穗國」では、その『古事記』と『日本書紀』の成立により、穗國がどのような影響を受けたかを考察した。
その『日本書紀』の編纂ないし完成については、『續日本紀』卷六和銅七(七一四)年二月戊戌(一〇日)條の「詔從六位上紀朝臣清人 正八位下三宅臣藤麻呂 令撰國史」と、同書卷八養老四(七二〇)年五月癸酉(二一日)條に、「先是 一品舍人親王奉敕 修日本紀 至是 功成奏上 紀卅卷 系圖一卷」とあり、和銅七年、紀清人(きのきよひと)(?~七五三)と三宅藤(みやけのふじ)麻呂(まろ)(生没年不詳)に命じて國史を撰ばせ、敕に從い舎人親王が編纂していた日本紀が、養老四年五月二一日に完成したことがわかる。
そして、その編纂開始時期については、一般に、『日本書紀』卷二九天武一〇(六八一)年三月丙戌(一七日)條の「川嶋皇子を始め十二人に詔して、帝紀及び上古の諸事(舊辭)を中臣連大嶋と平群臣小首に記録校定させた」旨の記載に求める。この記載のみでは、「帝紀」と「上古の諸事」の記録校定としか解釋出來ないが、先の『續日本紀』卷六和銅七年二月戊戌條の記述は、先の引用に續けて、「日本書紀 始撰定於天武十年三月 然至是」と、語ることから、『日本書紀』の編纂開始時期を天武一〇年とするのだ。
私は、『日本書紀』卷二九天武一〇年三月丙戌條の記載は、日本書紀の編纂開始についての記述ではなく、書いてあるとおりに解釋して、「帝紀」と「上古の諸事」の記録校定に關する記述と考えている。
『日本書紀』の成立から遡ること百年、『日本書紀』卷二二推古二八(六二〇)年一二月庚寅朔(一日)條には、「是歲 皇太子 嶋大臣共議之 録天皇記及國記 臣 連 伴造 國造 百八十部并公民等本記」と、「推古二八年に、厩戸(五七四~六二二)と、蘇我馬子(五五一?~六二六)が、天皇記、國記などを記録した」旨を述べている。
この「天皇記」及び「國記」が、その後、どうなったのか。
『日本書紀』卷二四皇極四(六四五)年六月己酉(一三日)條は、「蘇我蝦夷(五八六?~六四五)は、自害する前に、天皇記や國記、珍寶等を火に掛けたが、國記は船(ふねの)惠(え)尺(さか)(生没年不詳)なる者がかろうじて持ち出して中大兄へ獻上した」旨を記載する。ところが、持ち出されたはずの「國記」は現存しない。
この「國記」が、天武(?~六八六)が記録校定させた「上古の諸事」と假定して、『古事記』序文第二段を讀んでみよう。
同段は、「諸家が持っている帝紀や本辭(舊辭)は、まちまちであり、事實と異なっているものもある。これを放っておけば、どれが眞實かわからなくなる。天皇についての記録(帝皇日繼=帝紀)や神話(先代舊辭=舊辭)は、國の基になるものである。そのため、諸家の持っている記録を改め、事實を後世に傳える必要がある。それを受けて、稗田阿禮(生没年不詳)に帝紀及び舊辭を誦習わせた(以上天武の命)。しかし、時勢が移り、いまだ完成に至ってない」旨を語っている。つまり、國記=上古の諸事=舊辭は、寫しがあり、その寫しは、國記のみならず、乙巳の變で燒けた天皇記=帝紀についても同樣であった。そこで天武は、そのまちまちの内容の帝紀及び舊辭を校訂させて、記録したのである。
しかし、天武が記録校定させた「帝記」も「上古の諸事」も殘っていない。
二十四史の一つ『隋書(ずいしょ)』卷八が一列傳四六東夷の俀(わ)國(こく)條に、「俀王姓阿毎字多利思比孤 號阿輩雞彌」とあり、俀(わ)王(おう)の姓が阿毎(あま)である旨記されている。隋の時代、日本列島で權力を手にしていたのは、甘(あま)樫(かしの)丘(おか)に邸宅を構えていた蘇我入鹿(六一〇?~六四五)だ。邸宅を構えた甘樫丘は「阿毎ヶ(あまが)氏(し)の丘」の意であり、蘇我宗家の姓は天(あま)ないし海部(あま)で、蘇我宗家が當時の日本の王だったと私は考えている。
推古二八年に記録された「天皇記」の天皇は、俀王の阿毎=蘇我宗家のことである。
そして、この「天皇記」と「國記」を『古事記』序文第二段では、「帝紀」と「上古の諸事」といい換え、天武はこれを記録校定させた。
その天武の幼名は大海人であり、天武は海部(あま)である蘇我大王家の後繼者と考えられる。
繰り返しになるが、蘇我代王家が記録させた「天皇記」も「國記」も、それを記録校定させた「帝紀」と「上古の諸事」も現存しない。
「記紀」編纂の目的の一つは、海部の歴史の抹消であり、「記紀」は、史書ではなく、物語なのだ。その物語を、六國史を介した洗腦により、史實であるとの過誤記憶を植え附け、共同幻想にまで昇華させたのだ。
つまり『續日本紀』卷六和銅七(七一四)年二月戊戌條の記述は虚僞であり、『古事記』序文第二段の天武が始めた帝紀及び舊辭は完成していない旨の記述は虚僞か否かは微妙なものの、ミスリードを誘引するために、插入したものであることは間違いない。
この天武の時代に『日本書紀』の編纂されたという虚偽の記述により形成された共同幻想の弊害は、いまでも種々の面で惡影響を及ぼしている。
阿毎――大海人と續く海人の歴史の抹消を目的の一つとした『日本書紀』は、編纂過程も變則的なものだ。
『日本書紀』には、卷三甲寅年冬一〇月丁巳朔辛酉(五日)條から干支による暦日が記載されている。古代の暦法の研究家で、『日本書紀』の暦日に關する研究をし、それをまとめた『日本書紀の暦日に就いて』を上梓したものの、戰時下で、發禁處分となった同書の著者で、國立天文臺に勤務していた小川清彦(一八八二~一九五〇)さんは、『日本書紀』卷三の神武皍位前紀の甲寅年一一月丙戌朔から卷一一末の「仁德を百舌鳥野陵に葬った」旨を記載する仁德八七年一〇月癸未朔條までが、唐の天文學者・李淳風(六〇二~六七〇)が編纂し、中国では、麟德二(六六五)年から開元一六(七二八)年まで使われ、わが國では、中国の儀鳳年間(六七六~六七八)に傳わり、持統四(六九〇)年一一月甲申(一一日)から天平寶字七(七六三)年八月戊子(一八日)まで、公式に使われた儀鳳暦(中国での呼稱は使われ始めた時期の年號から麟德暦)と一致し、卷一四安康紀三年八月甲申朔から卷二七天智紀六(六六七)年閏一一月丁亥朔までが、わが國では飛鳥時代から文武元(六九七)年まで、使われ、宋の天文學者・何承天(三七〇~四四七)が編纂し、中国では元嘉二二(四四五)年から天監八(五〇九)年まで用いられた元嘉暦と一致する、との研究がなされている。
つまり、『日本書紀』は、卷一から順に編纂が始められたわけではなく、卷一四から卷二七の編纂が、卷一から卷一三の編纂に先立ち始められたのだ。加えて『日本書紀』は、暦法が編纂される遙か以前の事績を、その暦法を使い、さも史實の如く書き記している。『日本書紀』は、文學であり、これを史書として捉えれば、僞書になる。
私が何をいいたいかといえば、『日本書紀』に記された物語が、どういった心証形成により、想像され、その想像された創作を通して、史實を浮かび上がらせ、それを考察することの重要性を訴えているのだ。
上記の小川清彦さんの説を踏まえ、『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』の著者で、中国語学者の森博達(ひろみち)さんは、倭臭の違いにより、『日本書紀』は、中国人が書いた部分、漢文が得意でない日本人が書いた部分、そして、ある程度漢文がわかる日本人が書いた部分に分けることが出来るとし、『日本書紀』卷一四の雄略紀から卷二一の用明紀、崇峻紀及び卷二四の皇極紀から卷二七の天智紀は、中国語を母国語とする、唐人・續守言(生没年不詳)と薩弘恪(生没年不詳)が、卷一(神代上)から卷一三(允恭・安康紀)、卷二二(推古紀)及び卷二三(舒明紀)竝びに卷二八及び卷二九(天武紀)は、漢文が得意でない日本人の山田史御方が著述し、さらに、森氏は、持統(六四五~七〇三)の死去に伴って、『日本書紀』卷三〇持統紀の著述が計畫され、その著述を、ある程度漢文がわかる日本人の紀清人が、全體の潤色及び加筆竝びに續守言が執筆出來なかった卷二一の卷末から卷二三の著述を、三宅藤麻呂に託したのではないかとしている。
その具體的著述年代について、森博達さんは、『日本書紀』卷三〇の持統五(六九一)年九月己巳朔壬申(四日)條に、「賜音博士大唐續守言 薩弘恪 書博士百濟末士善信 銀人二十兩」の記述を、續守言に『日本書紀』卷一四から卷二三の著述を、薩弘恪に卷二四から卷二七の著述を促すためのもので、文武四(七〇〇)年以前に、その著述作業は終了したものと(終了した理由は是非『穂国幻史考(増補新版)』を参照して頂きたい。以下、省略してある場合は、『穂国幻史考(増補新版)』にて言及してある旨、ご理解頂きたい)、『續日本紀』卷四慶雲四(七〇七)年夏四月丙申(二九日)條の「賜正六位下山田史御方 布 鍬 鹽 穀 優學士也」の記述を、山田史御方に卷一から卷一三、續守言の死去により、著述が叶わなかった、卷二一卷末から卷二三竝びに卷二八及び卷二九の著述を促すためのもので、『續日本紀』卷六和銅七(七一四)年二月戊戌(一〇日)條の、「詔從六位上紀朝臣清人 正八位下三宅臣藤麻呂 令撰國史」を、紀清人に卷三〇の著述を、三宅藤麻呂に卷二一の卷末ら卷二三の著述及び全體の潤色及び加筆を促す旨の記述だと、指摘している。
さて、先に私は、『古事記』は、『日本書紀』のゲラ刷りである旨を指摘したが、その根據を示せば、『古事記』序文第三段の「元明の古事記撰録の詔から四ヶ月餘りで古事記が完成した」旨の記述である。
『古事記』は、神代から推古朝までの創作物語であるが、推古朝については四十七字、崇峻朝に至っては三十八字しか記載がなく、その行跡はほとんど記されていない。神代から推古朝までの創作物語といっても、實質的には、用明朝までの創作物語に等しい。神代から用明朝までというと、ちょうど『日本書紀』の卷一から卷二一に當たる。
そして、『日本書紀』の神代から用明朝までの著述が完了するのが、山田史御方が周防守に任ぜられる和銅三(七一〇)年四月以前のことになる。つまり『日本書紀』の神代から用明朝までの著述を基に、それを漢文が苦手でも讀めるように、萬葉假名混じりの變體漢文に編集し直し、それに崇峻朝と推古朝の萬葉假名混じりの變體漢文の僅かな記述を加えたのが、『古事記』ということだ。そうであれば、和銅四年九月一八日に始められる『古事記』の編纂作業が四ヶ月餘りで終了した理由も自ずと頷ける。
そしてその後、『日本書紀』の神代から用明朝までの著述についても三宅藤麻呂により、全體の潤色加筆される。
『古事記』が『日本書紀』のゲラ刷りである根據を示すことにより、『古事記』と『日本書紀』の内容に齟齬がある場合、どちらの記述を優先すべきか、そして、「記紀」に先行する天武朝の帝紀と舊辭、さらには、その先にある推古朝の「天皇記」及び「國記」等が、どのような内容であったかを推測するのに役立つとともに、そのの復元作業にも有用と考えたからである。
以上を踏まえて、第一節「「記紀」の編纂はいつ始められたか」を読んで頂ければ、多少はわかり易くなるのではないかと思う。
第一章「「記紀」の成立過程と穗國」では、その『古事記』と『日本書紀』の成立により、穗國がどのような影響を受けたかを考察した。
その『日本書紀』の編纂ないし完成については、『續日本紀』卷六和銅七(七一四)年二月戊戌(一〇日)條の「詔從六位上紀朝臣清人 正八位下三宅臣藤麻呂 令撰國史」と、同書卷八養老四(七二〇)年五月癸酉(二一日)條に、「先是 一品舍人親王奉敕 修日本紀 至是 功成奏上 紀卅卷 系圖一卷」とあり、和銅七年、紀清人(きのきよひと)(?~七五三)と三宅藤(みやけのふじ)麻呂(まろ)(生没年不詳)に命じて國史を撰ばせ、敕に從い舎人親王が編纂していた日本紀が、養老四年五月二一日に完成したことがわかる。
そして、その編纂開始時期については、一般に、『日本書紀』卷二九天武一〇(六八一)年三月丙戌(一七日)條の「川嶋皇子を始め十二人に詔して、帝紀及び上古の諸事(舊辭)を中臣連大嶋と平群臣小首に記録校定させた」旨の記載に求める。この記載のみでは、「帝紀」と「上古の諸事」の記録校定としか解釋出來ないが、先の『續日本紀』卷六和銅七年二月戊戌條の記述は、先の引用に續けて、「日本書紀 始撰定於天武十年三月 然至是」と、語ることから、『日本書紀』の編纂開始時期を天武一〇年とするのだ。
私は、『日本書紀』卷二九天武一〇年三月丙戌條の記載は、日本書紀の編纂開始についての記述ではなく、書いてあるとおりに解釋して、「帝紀」と「上古の諸事」の記録校定に關する記述と考えている。
『日本書紀』の成立から遡ること百年、『日本書紀』卷二二推古二八(六二〇)年一二月庚寅朔(一日)條には、「是歲 皇太子 嶋大臣共議之 録天皇記及國記 臣 連 伴造 國造 百八十部并公民等本記」と、「推古二八年に、厩戸(五七四~六二二)と、蘇我馬子(五五一?~六二六)が、天皇記、國記などを記録した」旨を述べている。
この「天皇記」及び「國記」が、その後、どうなったのか。
『日本書紀』卷二四皇極四(六四五)年六月己酉(一三日)條は、「蘇我蝦夷(五八六?~六四五)は、自害する前に、天皇記や國記、珍寶等を火に掛けたが、國記は船(ふねの)惠(え)尺(さか)(生没年不詳)なる者がかろうじて持ち出して中大兄へ獻上した」旨を記載する。ところが、持ち出されたはずの「國記」は現存しない。
この「國記」が、天武(?~六八六)が記録校定させた「上古の諸事」と假定して、『古事記』序文第二段を讀んでみよう。
同段は、「諸家が持っている帝紀や本辭(舊辭)は、まちまちであり、事實と異なっているものもある。これを放っておけば、どれが眞實かわからなくなる。天皇についての記録(帝皇日繼=帝紀)や神話(先代舊辭=舊辭)は、國の基になるものである。そのため、諸家の持っている記録を改め、事實を後世に傳える必要がある。それを受けて、稗田阿禮(生没年不詳)に帝紀及び舊辭を誦習わせた(以上天武の命)。しかし、時勢が移り、いまだ完成に至ってない」旨を語っている。つまり、國記=上古の諸事=舊辭は、寫しがあり、その寫しは、國記のみならず、乙巳の變で燒けた天皇記=帝紀についても同樣であった。そこで天武は、そのまちまちの内容の帝紀及び舊辭を校訂させて、記録したのである。
しかし、天武が記録校定させた「帝記」も「上古の諸事」も殘っていない。
二十四史の一つ『隋書(ずいしょ)』卷八が一列傳四六東夷の俀(わ)國(こく)條に、「俀王姓阿毎字多利思比孤 號阿輩雞彌」とあり、俀(わ)王(おう)の姓が阿毎(あま)である旨記されている。隋の時代、日本列島で權力を手にしていたのは、甘(あま)樫(かしの)丘(おか)に邸宅を構えていた蘇我入鹿(六一〇?~六四五)だ。邸宅を構えた甘樫丘は「阿毎ヶ(あまが)氏(し)の丘」の意であり、蘇我宗家の姓は天(あま)ないし海部(あま)で、蘇我宗家が當時の日本の王だったと私は考えている。
推古二八年に記録された「天皇記」の天皇は、俀王の阿毎=蘇我宗家のことである。
そして、この「天皇記」と「國記」を『古事記』序文第二段では、「帝紀」と「上古の諸事」といい換え、天武はこれを記録校定させた。
その天武の幼名は大海人であり、天武は海部(あま)である蘇我大王家の後繼者と考えられる。
繰り返しになるが、蘇我代王家が記録させた「天皇記」も「國記」も、それを記録校定させた「帝紀」と「上古の諸事」も現存しない。
「記紀」編纂の目的の一つは、海部の歴史の抹消であり、「記紀」は、史書ではなく、物語なのだ。その物語を、六國史を介した洗腦により、史實であるとの過誤記憶を植え附け、共同幻想にまで昇華させたのだ。
つまり『續日本紀』卷六和銅七(七一四)年二月戊戌條の記述は虚僞であり、『古事記』序文第二段の天武が始めた帝紀及び舊辭は完成していない旨の記述は虚僞か否かは微妙なものの、ミスリードを誘引するために、插入したものであることは間違いない。
この天武の時代に『日本書紀』の編纂されたという虚偽の記述により形成された共同幻想の弊害は、いまでも種々の面で惡影響を及ぼしている。
阿毎――大海人と續く海人の歴史の抹消を目的の一つとした『日本書紀』は、編纂過程も變則的なものだ。
『日本書紀』には、卷三甲寅年冬一〇月丁巳朔辛酉(五日)條から干支による暦日が記載されている。古代の暦法の研究家で、『日本書紀』の暦日に關する研究をし、それをまとめた『日本書紀の暦日に就いて』を上梓したものの、戰時下で、發禁處分となった同書の著者で、國立天文臺に勤務していた小川清彦(一八八二~一九五〇)さんは、『日本書紀』卷三の神武皍位前紀の甲寅年一一月丙戌朔から卷一一末の「仁德を百舌鳥野陵に葬った」旨を記載する仁德八七年一〇月癸未朔條までが、唐の天文學者・李淳風(六〇二~六七〇)が編纂し、中国では、麟德二(六六五)年から開元一六(七二八)年まで使われ、わが國では、中国の儀鳳年間(六七六~六七八)に傳わり、持統四(六九〇)年一一月甲申(一一日)から天平寶字七(七六三)年八月戊子(一八日)まで、公式に使われた儀鳳暦(中国での呼稱は使われ始めた時期の年號から麟德暦)と一致し、卷一四安康紀三年八月甲申朔から卷二七天智紀六(六六七)年閏一一月丁亥朔までが、わが國では飛鳥時代から文武元(六九七)年まで、使われ、宋の天文學者・何承天(三七〇~四四七)が編纂し、中国では元嘉二二(四四五)年から天監八(五〇九)年まで用いられた元嘉暦と一致する、との研究がなされている。
つまり、『日本書紀』は、卷一から順に編纂が始められたわけではなく、卷一四から卷二七の編纂が、卷一から卷一三の編纂に先立ち始められたのだ。加えて『日本書紀』は、暦法が編纂される遙か以前の事績を、その暦法を使い、さも史實の如く書き記している。『日本書紀』は、文學であり、これを史書として捉えれば、僞書になる。
私が何をいいたいかといえば、『日本書紀』に記された物語が、どういった心証形成により、想像され、その想像された創作を通して、史實を浮かび上がらせ、それを考察することの重要性を訴えているのだ。
上記の小川清彦さんの説を踏まえ、『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』の著者で、中国語学者の森博達(ひろみち)さんは、倭臭の違いにより、『日本書紀』は、中国人が書いた部分、漢文が得意でない日本人が書いた部分、そして、ある程度漢文がわかる日本人が書いた部分に分けることが出来るとし、『日本書紀』卷一四の雄略紀から卷二一の用明紀、崇峻紀及び卷二四の皇極紀から卷二七の天智紀は、中国語を母国語とする、唐人・續守言(生没年不詳)と薩弘恪(生没年不詳)が、卷一(神代上)から卷一三(允恭・安康紀)、卷二二(推古紀)及び卷二三(舒明紀)竝びに卷二八及び卷二九(天武紀)は、漢文が得意でない日本人の山田史御方が著述し、さらに、森氏は、持統(六四五~七〇三)の死去に伴って、『日本書紀』卷三〇持統紀の著述が計畫され、その著述を、ある程度漢文がわかる日本人の紀清人が、全體の潤色及び加筆竝びに續守言が執筆出來なかった卷二一の卷末から卷二三の著述を、三宅藤麻呂に託したのではないかとしている。
その具體的著述年代について、森博達さんは、『日本書紀』卷三〇の持統五(六九一)年九月己巳朔壬申(四日)條に、「賜音博士大唐續守言 薩弘恪 書博士百濟末士善信 銀人二十兩」の記述を、續守言に『日本書紀』卷一四から卷二三の著述を、薩弘恪に卷二四から卷二七の著述を促すためのもので、文武四(七〇〇)年以前に、その著述作業は終了したものと(終了した理由は是非『穂国幻史考(増補新版)』を参照して頂きたい。以下、省略してある場合は、『穂国幻史考(増補新版)』にて言及してある旨、ご理解頂きたい)、『續日本紀』卷四慶雲四(七〇七)年夏四月丙申(二九日)條の「賜正六位下山田史御方 布 鍬 鹽 穀 優學士也」の記述を、山田史御方に卷一から卷一三、續守言の死去により、著述が叶わなかった、卷二一卷末から卷二三竝びに卷二八及び卷二九の著述を促すためのもので、『續日本紀』卷六和銅七(七一四)年二月戊戌(一〇日)條の、「詔從六位上紀朝臣清人 正八位下三宅臣藤麻呂 令撰國史」を、紀清人に卷三〇の著述を、三宅藤麻呂に卷二一の卷末ら卷二三の著述及び全體の潤色及び加筆を促す旨の記述だと、指摘している。
さて、先に私は、『古事記』は、『日本書紀』のゲラ刷りである旨を指摘したが、その根據を示せば、『古事記』序文第三段の「元明の古事記撰録の詔から四ヶ月餘りで古事記が完成した」旨の記述である。
『古事記』は、神代から推古朝までの創作物語であるが、推古朝については四十七字、崇峻朝に至っては三十八字しか記載がなく、その行跡はほとんど記されていない。神代から推古朝までの創作物語といっても、實質的には、用明朝までの創作物語に等しい。神代から用明朝までというと、ちょうど『日本書紀』の卷一から卷二一に當たる。
そして、『日本書紀』の神代から用明朝までの著述が完了するのが、山田史御方が周防守に任ぜられる和銅三(七一〇)年四月以前のことになる。つまり『日本書紀』の神代から用明朝までの著述を基に、それを漢文が苦手でも讀めるように、萬葉假名混じりの變體漢文に編集し直し、それに崇峻朝と推古朝の萬葉假名混じりの變體漢文の僅かな記述を加えたのが、『古事記』ということだ。そうであれば、和銅四年九月一八日に始められる『古事記』の編纂作業が四ヶ月餘りで終了した理由も自ずと頷ける。
そしてその後、『日本書紀』の神代から用明朝までの著述についても三宅藤麻呂により、全體の潤色加筆される。
『古事記』が『日本書紀』のゲラ刷りである根據を示すことにより、『古事記』と『日本書紀』の内容に齟齬がある場合、どちらの記述を優先すべきか、そして、「記紀」に先行する天武朝の帝紀と舊辭、さらには、その先にある推古朝の「天皇記」及び「國記」等が、どのような内容であったかを推測するのに役立つとともに、そのの復元作業にも有用と考えたからである。
以上を踏まえて、第一節「「記紀」の編纂はいつ始められたか」を読んで頂ければ、多少はわかり易くなるのではないかと思う。