2022年02月21日

『穂国幻史考(増補新版)』の手引き3(第一話第一章2)

 天孫降臨逸話のアマテラスと、アマテラスの孫の二ニギの關係は、『日本書紀』の編纂を命じた持統と、その孫の文武(六八三~七〇七)の姿が投影されているという。
 そのアマテラスの孫の二ニギについて、「記紀」は、二ニギが磐長姫と木花咲夜姫の姉妹を娶り、醜いからと、姉の磐長姫を歸したという姉妹聯帶婚逸話を載せる。
 この姉妹聯帶婚は、『日本書紀』卷六埀仁五年一〇月己卯朔(一日)條で、朝廷別王の五人の姉妹を埀仁が娶り、そのうちの二人を醜いからと、歸した旨の記述や、『日本書紀』のゲラ刷りの『古事記』中卷埀仁條でも、同樣に、朝廷別王の四人の姉妹を埀仁が娶り、二人を歸した逸話が見られる。
 二ニギに歸された磐長姫は、天皇の壽命が短くなるように呪いを掛けた旨を『古事記』上卷は載せる。アマテラスの孫の二ニギの姿が反映された持統の孫の文武(六八三~七〇七)は、實際に短命だった。
 ちなみに天皇の壽命が短くなるように呪いを掛けた磐長姫の別名は苔蟲神。『古今和歌集』卷七(賀歌)の最初に載る、詞書「題しらす よみしらす」の「細(さざれ)石(いし)の嚴(いわお)となりて苔の生すまて」の一節は、苔蟲神の別名を持つ磐長姫を詠ったものである。「君が代」の詞章も一概に天皇を壽ぐものとはいえないのだ。
 そして、持統の姿が投影されているアマテラスは、『古事記』上卷では、忌服屋で、天服織女に神衣を織らせる女、『日本書紀』卷一(神代上)では、自ら機殿で神衣を織る女として登場する。
 筑紫(つくし)申(のぶ)真(ざね)(一九二〇~一九七三)著『アマテラスの誕生』は、「萬葉集が編集された八世紀より以前のアマテラスは、祀られるカミではなく、年に一度海から、あるいは海から川を溯って來るカミの神衣を水邊に設けられた湯(ゆ)河(かわ)板擧(たな)で織る棚機(たなばた)つ女(め)であった」旨を述べている。
 皇祖神アマテラスもまた「記紀」という物語の中で創作された概念を意圖的に共同幻想にまで昇華させた一例なのである。
 實際、『萬葉集』を見ても、卷二收録の題詞「日竝皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首」(歌番號一六七)では、「天照 日女之命」と、同卷收録の題詞「高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌」(歌番號一九九)では、アマテラスを容(い)れる器(うつわ)を「渡會乃 齋宮」と、草壁が亡くなった持統三(六八九)年四月の時點では、天照大神という概念、高市(六五四?~六九六)が死去した持統一〇(六九六)年七月の時點でも、アマテラスを容れる器である、皇大神宮という施設は存在していなかった。
 そのアマテラスを容れる器=伊勢内宮が完成するのは、文武二(六九八)年のことだ。『續日本紀』卷卷一文武二年一二月乙卯(二九日)條の「遷多氣大神宮于度會郡」との記載がそれだ。
 これが史實であるのだが、伊勢神宮の歴史についても、洗腦により、過誤記憶が形成され、それが共同幻想にまで昇華している。由々しき事態だ。

 既述のように、續守言と薩弘恪が擔當した著述作業は、文武四(七〇〇)年以前に終了し、慶雲四(七〇七)年に、山田史御方に卷一から卷一三の著述が促される。皇祖神・アマテラスを容れる器は、續守言と薩弘恪が擔當した著述作業が終わるか終わらないうちに創られ、『日本書紀』でアマテラスが重要な役割を果たす、卷一の機殿、卷二の天孫降臨と、卷六埀仁二五年丁亥朔丙申(一〇日)條の倭媛巡幸である。その著述が始められるのは、アマテラスを容れる器が出來上って以降のこと、三河行幸は、アマテラスを容れる器が出來上って以降、かつ、山田史御方に卷一から卷一三の著述が促される以前のことになる。
 しかも、大寶元(七〇一)年一月二三日から慶雲三(七〇六)年九月三日までは、三河國主が不在であった可能性すらある。その國主不在時に三河行幸は行われた(國主が不在であった可能性が消える慶雲三年の翌年、山田史御方に卷一から卷一三の著述が促される)。また倭媛は、『古事記』中卷開化條の系譜で朝廷別王の長姉とされる日葉酢媛の娘である。

 その持統三河行幸であるが、通説では、壬申の亂(六七二年)の論功行賞を目的としものだたとする。全くお目出度い言説だ。
 この持統三河行幸について、僞書『續日本紀』卷二大寶二(七〇二)年九月癸未(一九日)條は、「遣使於伊賀 伊勢 美濃 尾張 三河五國 營造行宮」と、同年一〇月丁酉(三日)條は、「鎭祭諸神 爲將幸參河國也」と、三河行幸の準備について記し、同月甲辰(一〇日)條で、「太上天皇幸參河國」と、持統が三河へ出發した旨を記す。
 ところが、『續日本紀』は、僞書ゆえ、三河への往路と、持統の三河での行跡については一切默して語らず、同年一一月甲子朔丙子(一三日)條で、「行至尾張國…」と、一一月一三日に尾張に、同月一七日に美濃に、同月二二日に伊勢に、同月二四日に伊賀に着き、立ち寄った國の國主等に、位階や俸祿を輿えた旨を記す。
 そのうち、一一月一七日の美濃國では、宮勝(みやのすぐり)木實(このみ)(生没年不詳)に外從五位下の位階を授けた旨を記す。この宮勝木實は、壬申の亂で、大海人側として不破道に出兵し、功績があった。つまり、この宮勝木實に位階を授けたことをもって、通説は、持統三河行幸の目的を、論功行賞のためのものだとするのである。
 そもそも壬申の亂の論功行賞を、壬申の亂から三十年も經って行うであろうか。壬申の亂で大海人側に附いた者が、悠長に三十年も待っていただろうか。當時の平均壽命を考えれば、なおさらだ。加えて、壬申の亂の論功行賞を目的に三河に行幸したのなら、なぜに三河の國主(先に記したように三河の國主はいなかった可能性も高いが)等に、論功行賞を輿えた旨を記さないのか。
 もっといえば、『日本書紀』卷二七天武元(六七二)年八月丙戌(二七日)條は、「恩敕諸有功勳者 而顯寵賞」と、同年一二月戊午朔辛酉(四日)條は、「選諸有功勳者 増加冠位 仍賜小山位以上 各有差」と、壬申の亂(六七二年)直後に、その功勞者に論功行賞が行われた旨が記されているのである。
 なぜ持統三河行幸の目的は論功行賞を目的に行われたといった馬鹿げた解釋が通説になるのであろうか。その答えは、洗腦による過誤記憶が共同幻想に昇華したからにほかならない。
『穗國幻史考(増補新版)』は、持統三河行幸の如く、『續日本紀』により幻となった穗國の歴史を復元することはもとより、復元された穗國の歴史を「六國史」が描く世界に照射することにより、「六國史」が描く世界こそが、幻想であることを暴くことにある。「六國史」が描く世界こそが、幻想であることを暴くためにも、「六國史」の第一『日本書紀』の暦日に基づき制定された「建国記念の日」を国民の祝日から外し、この日を「不比等の日」とし、『日本書紀』がどういった目的で、何を覆い隱したかを見つめ直す日とすべきだ。

 以上のように、正史は、持統三河行幸の目的及び三河での行政を一切記すことはないが、『萬葉集』卷一には、持統三河行幸(七〇二年)の折の歌、五首(歌番號五七~六一)が收められている。
 その中の題詞「舎人娘子從駕作歌」、舎人娘子(生没年未詳)が詠んだ「大夫之 得物矢手插 立向 射流圓方波 見尓清潔之」との歌(歌番號六一)の「大夫之 得物矢手插 立向 射流」は、圓方に掛かる枕詞のようなものと、通説は説明するが、「ようなもの」がどのようなものかの説明はない。
 普通に解釋すれば、「得物矢を手挾んだ大夫が、三河へ向かわんとする船に乘り込もうとしている。大夫の立ち向かう姿はなんとも清々しいものである」となるはずだ。持統三河行幸は、論功行賞とは眞逆かけ離れた目的を持ったものだったのだ。
 ここでも通説は、過誤記憶が共同幻想に昇華した物語の幻影に洗腦されている。
 次に通説ではなく、舎人娘子が詠んだ歌を踏まえ、高市黒人(生没年未詳)が詠んだ題詞「二年壬寅太上天皇幸于参河國時歌」の歌「何所尓可 船泊爲良武 安禮乃埼 榜多味行之 棚無小舟」(歌番號五八)の解釋を示そう。
 持統三河行幸は、騎士を隨行させた戰であり、單なる物見遊山の旅ではない。正史が記さない、その往路は、圓方から海路で引馬野の安禮の崎に上陸したと思われる。
 引馬野の安禮の崎に上陸する折は、圓方から乘って來た舟で「安禮の崎を漕ぎ廻み行った」のであろう。正史は、復路は陸路を使ったとしている。では、圓方から乘って來た舟はどうなったのか。
 持統三河行幸が失敗に終わったと假定すれば、高市黒人の歌も「引馬野の安禮の崎に上陸したときに乘って來た舟は、いまでは舷も壊れてしまい棚無小舟となってしまった」との解釋するのが自然だ。
 ところがこの歌の解釋の通説は、「安禮の崎を漕ぎ廻って行ったあの棚無し小舟は、いまは、どこに碇泊しているだろうか」と、長閑な湊の風景を詠んだものとする。
 最後に長忌寸奧麻呂(生没年不詳)が詠んだ「引馬野尓 仁保布榛原 入亂 衣尓保波勢 多鼻能知師尓」との歌(題詞「二年壬寅太上天皇幸于参河國時歌」(歌番號五七))を上記二首の解釋を踏まえれば、安禮の崎に上陸後の行幸軍の樣子を詠んだものと考えられる。
 この歌も一般には、「引馬野の榛原で入り亂れて衣にはしばみの匂いをつけよう旅のしるしに」と物見遊山のように譯される。だが、安禮の崎に上陸後の行幸軍の樣子を詠んだものとすれば、「引馬野の榛(はしばみ)(の實のような)色に染まった林の中で、敵味方が入り亂れ、(素(しら))衣も榛(の實の)色に染まってしまった。この(血で)榛(の實)の色に染まった衣こそが、旅(たび)戰(いくさ)の記しなのだ」と讀むべきであろう。物見遊山どころか戰闘の樣子を詠んだものなのだ。
 持統三河行幸は論功行賞を輿えに來たものではなく、東三河の制壓にあったのだ。そしてその制壓は、皇祖神アマテラスの創造の障碍になったと考えられるのである。ところが持統の目論見は見事に外れ、病床に臥したのである。



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