2022年02月28日
『穂国幻史考(増補新版)』の手引き10(第一話拾遺二)
『穂国幻史考(増補新版)』第一話「「記紀の成立と封印された穂国の実像」拾遺二「丹波傳承考」では、蘇我馬子(五五一?~六二六)と物部守屋(?~五八七)の抗爭中に、後に聖德太子と呼ばれる厩(うまや)戸(ど)皇子(五七四~六二二)の母・間人穴(はしひとあな)穗部(ほべ)皇女(?~六二二)が、丹波(後の丹後)に逃避していたとする傳承を載せる、『丹後舊事記』(文化七(一八一〇)年成立)を中心に考察したものである。
ここで、間人穴穗部皇女と丹波との關係を考えれば、間人は土師人の意であり、間人穴穗部皇女は、土師氏の系譜に屬し、丹波と繋がりがあったと考えられる。
間人穴穗部皇女がどう土師氏と繋がるか。間人穴穗部皇女の母・小姉君は、『日本書紀』卷一七繼體二五年一二月丙申朔庚子(五日)條一書及び同書卷一九欽明二三(五六二)年八月條本文の記述から、繼體(四五〇?~五三一?)の第二子・宣化(四六七?~五三九)の娘と推測され、蘇我稻目(?~五七〇)が、宣化の娘を娶ったことにより、蘇我宗家は、ホムツワケノミコト――繼體と續く海人の系譜に名を連ねたと考えられるのである。蘇我宗家が天火明命を祀ったのもこれによる。
馬子と守屋の抗爭については、崇佛派と排佛派の爭いといわれるが、『日本書紀』の記述を見るだけでも、單純なものではないことが讀み取れる。
ここで重要なのは、崇佛派は、八百萬の神祭りの一つとして、佛祭りをしているだけのことだ。換言すれば、崇佛派は、排神派ではないのである。これがなぜ重要かといえば、崇佛派の採る姿が本來のこのクニの神祭り=八百萬の神祭りの姿だからである。
この爭いは、誰を皇位に就けるかの推擧の權限を持っていた、推古(五五四~六二八)の爭奪戰であった。
竹野神社(京京丹後市丹後町宮)が所藏する『齋明神縁起』には、敏達(五三八?~五八五)の第一皇子で、舒明(五九三?~六四一)の父であり、宣化の血を引く、押坂彦人皇子(生没年不詳)と推定される人物が丹波(後の丹後)に逃避していた旨を載せる。
さらに、『丹哥府志』(天保一二(一八四一)年成立)によれば、東漢(やまとのあやの)直(あたひ)駒(こま)(?~五九二)も、間人穴穗部皇女に從い丹波に逃避していた旨を記す。東漢直駒は、馬子の娘で、厩戸の妃の一人・刀(と)自古朗女(じこのいらつめ)(生没年不詳)を連れていた。刀自古朗女の母は、守屋の妹であったと思われる。
馬子が守屋を滅ぼしたとき人々は、「馬子は、妻(守屋の妹)の謀を用いて、守屋を殺した」といったという。刀自古朗女の母が守屋の妹であれば、刀自古朗女は守屋の姪である。そして、刀自古朗女の母の謀を用いて、馬子は守屋を殺害している。娘の刀自古朗女は、謀の眞相を知っていたのではないか。
また『日本書紀』卷二一崇峻五(五九二)年一一月癸卯朔乙巳(三日)條は、「蘇我馬子が、東漢直駒を使って、崇峻を弑した」旨記載する。守屋謀殺の眞相を知る駒を消し、ついでに崇峻殺害の罪も駒に押し附けたということか。
ただし『日本書紀』編纂時に權力を手にしていたのは、本姓物部の左大臣石上麻呂(六四〇~七一七)と藤原不比等(六五九~七二〇)だ。兩名とも蘇我宗家を惡者にする點は一致していたことを考慮する必要があろう。
ここで、間人穴穗部皇女と丹波との關係を考えれば、間人は土師人の意であり、間人穴穗部皇女は、土師氏の系譜に屬し、丹波と繋がりがあったと考えられる。
間人穴穗部皇女がどう土師氏と繋がるか。間人穴穗部皇女の母・小姉君は、『日本書紀』卷一七繼體二五年一二月丙申朔庚子(五日)條一書及び同書卷一九欽明二三(五六二)年八月條本文の記述から、繼體(四五〇?~五三一?)の第二子・宣化(四六七?~五三九)の娘と推測され、蘇我稻目(?~五七〇)が、宣化の娘を娶ったことにより、蘇我宗家は、ホムツワケノミコト――繼體と續く海人の系譜に名を連ねたと考えられるのである。蘇我宗家が天火明命を祀ったのもこれによる。
馬子と守屋の抗爭については、崇佛派と排佛派の爭いといわれるが、『日本書紀』の記述を見るだけでも、單純なものではないことが讀み取れる。
ここで重要なのは、崇佛派は、八百萬の神祭りの一つとして、佛祭りをしているだけのことだ。換言すれば、崇佛派は、排神派ではないのである。これがなぜ重要かといえば、崇佛派の採る姿が本來のこのクニの神祭り=八百萬の神祭りの姿だからである。
この爭いは、誰を皇位に就けるかの推擧の權限を持っていた、推古(五五四~六二八)の爭奪戰であった。
竹野神社(京京丹後市丹後町宮)が所藏する『齋明神縁起』には、敏達(五三八?~五八五)の第一皇子で、舒明(五九三?~六四一)の父であり、宣化の血を引く、押坂彦人皇子(生没年不詳)と推定される人物が丹波(後の丹後)に逃避していた旨を載せる。
さらに、『丹哥府志』(天保一二(一八四一)年成立)によれば、東漢(やまとのあやの)直(あたひ)駒(こま)(?~五九二)も、間人穴穗部皇女に從い丹波に逃避していた旨を記す。東漢直駒は、馬子の娘で、厩戸の妃の一人・刀(と)自古朗女(じこのいらつめ)(生没年不詳)を連れていた。刀自古朗女の母は、守屋の妹であったと思われる。
馬子が守屋を滅ぼしたとき人々は、「馬子は、妻(守屋の妹)の謀を用いて、守屋を殺した」といったという。刀自古朗女の母が守屋の妹であれば、刀自古朗女は守屋の姪である。そして、刀自古朗女の母の謀を用いて、馬子は守屋を殺害している。娘の刀自古朗女は、謀の眞相を知っていたのではないか。
また『日本書紀』卷二一崇峻五(五九二)年一一月癸卯朔乙巳(三日)條は、「蘇我馬子が、東漢直駒を使って、崇峻を弑した」旨記載する。守屋謀殺の眞相を知る駒を消し、ついでに崇峻殺害の罪も駒に押し附けたということか。
ただし『日本書紀』編纂時に權力を手にしていたのは、本姓物部の左大臣石上麻呂(六四〇~七一七)と藤原不比等(六五九~七二〇)だ。兩名とも蘇我宗家を惡者にする點は一致していたことを考慮する必要があろう。