2022年03月01日
『穂国幻史考(増補新版)』の手引き11(第一話拾遺三)
『穂国幻史考(増補新版)』第一話「「記紀の成立と封印された穂国の実像」拾遺三「天武の命日をめぐって」では、海人の血を引く、天武(?~六八六)の死の眞相について考察したものである。
既述のように、「記紀」は海人の歴史を消すことを目的の一つとする。ゆえに海人の血を引く天武についての『日本書紀』の記述も齟齬が多い。
たとえば、僞書『日本書紀』卷二九天武八(六七九)年五月乙酉(六日)條の「吉野の盟約」がそれだ。この「吉野の盟約」では、天武(?~六八六)の息子の草壁(六六二~六八九)が、「われら兄弟長幼合わせて十餘人は、母を異にするが、同母であろうとなかろうと、助け合って爭いはしない」旨の臺詞を吐いているが、母を異にするどころか、天智(六二六~六七二)の息子の川嶋(六五七~六九一)・芝基(しき)(?~七一六)、そして天智の娘・持統(六四五~七〇三)が、この盟約に加わっている。まさに僞書だ。
その天武の息子ではない川嶋皇子だが、『日本書紀』卷二九天武一〇(六八一)年三月丙戌(一七日)條の記述にあるように、天武から帝記及び上古の諸事の記録校定を命じられている。
既述のように、川嶋皇子の父は、天智であるが、母は、『日本書紀』卷二七天智七(六六八)年二月丙辰朔戊寅(二三日)條にあるように、忍海(おしぬみの)造(みやつこ)小(こ)龍(たつ)の娘・色(しこ)夫古(ぶこの)娘(いらつめ)(生没年不詳)だ。その忍海造について、『新撰姓氏録』第一帙河内皇別忍海部の項は、「比古由牟(ひこゆむ)須美(すみ)(彦(ひこ)湯産(ゆむ)隅(すみ))の後」とする。
天武の壬生(養育係)は、『日本書紀』卷二九朱鳥元(六八六)年九月甲子(二七日)條にあるように、「大海(凡(おお)海(あま))宿禰荒蒲で、同書同卷天武一三(六八四)年一二月戊寅朔己卯(二日)條で、「凡海連に宿禰の姓を輿えた」旨を載せ、『新撰姓氏録』第三帙右京未定雜姓凡海連の項は、「火明命之後也」とある。
天武の壬生と川嶋皇子の母方は、いずれも火明命を祖とする同族だと考えていいだろう。
加えて、川嶋皇子の姉の大江皇女(?~六九九)は天武の妃であるから、川嶋皇子は天武の義弟でもある。
天武は、朱鳥元年九月丙午(九日)に亡くなるが、川嶋皇子は、そのちょうど五年後の持統五(六九一)年九月丁丑(九日)に亡くなる。
川嶋皇子がなくなる前月の持統五年八月己亥朔辛亥(一三日)には、持統が大三輪氏を始め十八氏の墓記の提出を命じ、僞書『日本書紀』の編纂準備を始める。
『日本書紀』卷三〇持統五年九月丁丑(九日)條には、川嶋皇子の死因は記載されていないが、川嶋皇子の死亡日を九月九日と、記さなければならないような、公然の死であった疑いが濃い。
「天武が命じた帝記及び上古諸事の記録校定」に關わった者たちと、持統が編纂を始めた『日本書紀』側の人々との間で、何か對立があったのかもしれない。『日本書紀』の編纂目的が、史實を消し去り、新たな歴史を創造することにあったことから十分考えられることだ。事實、天武が記録校定を命じた『帝記』及び『上古諸事』は、現存しない。
繰り返しになるが、「記紀」は海人の歴史を消すことを目的の一つとする。ゆえに海人の血を引く天武についての『日本書紀』の記述も齟齬が多い。
『日本書紀』卷二九朱鳥元年九月丙午(九日)條は、天武の死因を病死とする。同巻天武一四(六八五)年九月丁卯(二四日)條によれば、この日に「發病した」という。ところが、天武は發病後にも、天武一五(六八六)年一月壬寅朔癸卯(二日)、同月丁巳(一六日)、翌戊午(一七日)、さらにはその翌日の己未(一八日)に宴を催している(いずれも出典は『日本書紀』卷二九(天武紀))。
また、『日本書紀』天武一五年六月戊寅(一〇日)條は、「天武の病の原因を占ったところ草薙の劔の祟りと出たゆえ、その日のうちに草薙の劔を熱田社に送って安置させた」旨を記すが、これもおかしい。『日本書紀』卷二八天武元(六七二)年六月丙戌(二六日)條で、迹(と)太(お)川邊りで望拜したという天照大神は、伊勢神宮ではなく、草薙の劔を神體とする熱田社(名古屋市熱田区神宮一丁目)だと考えられるからだ。迹太川は、現在の一級河川・朝明(あさけ)川のことであり、天武が天照大神を望拜した地は、四日市市大矢知町邊りが比定される。舊暦の六月下旬、大矢知町邊りから朝日が昇る方向に手を合わせれば、その先にあるのは、熱田社だ。その熱田社の神體が草薙の劔だ。
加えて、天武の時代には、皇祖神・アマテラスは創造されておらず、『日本書紀』卷二八天武元(六七二)年六月丙戌(二六日)條にいう天照大神は天照國照彦火明命のことである。熱田大宮司は、元々、天火明命を祖とする尾張國造家が世襲していた。天武は、天火明命を奉祀した蘇我宗家の後繼者であり、天火明命を祀る熱田神宮の神體の草薙の劔が祟るはずがない。
そこで、九月九日をキーワードに、草薙の劔に關した熱田神宮にまつわる資料を探して見ると、天保一五(一八四四)年に成立した『尾張志』に、「和銅二(七〇九)年九月九日、熱田神宮内の八劔宮(式内社)に新たに寶劔を奉った」との記載がある。八劔宮に寶劒を奉った理由は、西夷の征討祈願のためといわれているが、八劔宮への奉劔は西夷の征討祈願のためというより、平城京造營祈願と考えられる。僞書『日本書紀』の草薙の劔の祟りにより天武が病に倒れたという記述は後附けで、『尾張志』が述べるように、平城京造營が成就するようにと、天武の命日に天武の法要のため、天武とゆかりの深い熱田社に寶劔を奉ったのだろう。
この史實から、草薙の劔が天武に祟ったとの逸話が創作されたと推測する。
餘談になるが、三谷(みや)祭(蒲郡市三谷町七舗鎭座の八劔神社の祭禮)が、舊暦九月九日に行われたのも、『尾張志』の八劔宮への奉劔を踏まえてのものと考えられる。
既述のように、「記紀」は海人の歴史を消すことを目的の一つとする。ゆえに海人の血を引く天武についての『日本書紀』の記述も齟齬が多い。
たとえば、僞書『日本書紀』卷二九天武八(六七九)年五月乙酉(六日)條の「吉野の盟約」がそれだ。この「吉野の盟約」では、天武(?~六八六)の息子の草壁(六六二~六八九)が、「われら兄弟長幼合わせて十餘人は、母を異にするが、同母であろうとなかろうと、助け合って爭いはしない」旨の臺詞を吐いているが、母を異にするどころか、天智(六二六~六七二)の息子の川嶋(六五七~六九一)・芝基(しき)(?~七一六)、そして天智の娘・持統(六四五~七〇三)が、この盟約に加わっている。まさに僞書だ。
その天武の息子ではない川嶋皇子だが、『日本書紀』卷二九天武一〇(六八一)年三月丙戌(一七日)條の記述にあるように、天武から帝記及び上古の諸事の記録校定を命じられている。
既述のように、川嶋皇子の父は、天智であるが、母は、『日本書紀』卷二七天智七(六六八)年二月丙辰朔戊寅(二三日)條にあるように、忍海(おしぬみの)造(みやつこ)小(こ)龍(たつ)の娘・色(しこ)夫古(ぶこの)娘(いらつめ)(生没年不詳)だ。その忍海造について、『新撰姓氏録』第一帙河内皇別忍海部の項は、「比古由牟(ひこゆむ)須美(すみ)(彦(ひこ)湯産(ゆむ)隅(すみ))の後」とする。
天武の壬生(養育係)は、『日本書紀』卷二九朱鳥元(六八六)年九月甲子(二七日)條にあるように、「大海(凡(おお)海(あま))宿禰荒蒲で、同書同卷天武一三(六八四)年一二月戊寅朔己卯(二日)條で、「凡海連に宿禰の姓を輿えた」旨を載せ、『新撰姓氏録』第三帙右京未定雜姓凡海連の項は、「火明命之後也」とある。
天武の壬生と川嶋皇子の母方は、いずれも火明命を祖とする同族だと考えていいだろう。
加えて、川嶋皇子の姉の大江皇女(?~六九九)は天武の妃であるから、川嶋皇子は天武の義弟でもある。
天武は、朱鳥元年九月丙午(九日)に亡くなるが、川嶋皇子は、そのちょうど五年後の持統五(六九一)年九月丁丑(九日)に亡くなる。
川嶋皇子がなくなる前月の持統五年八月己亥朔辛亥(一三日)には、持統が大三輪氏を始め十八氏の墓記の提出を命じ、僞書『日本書紀』の編纂準備を始める。
『日本書紀』卷三〇持統五年九月丁丑(九日)條には、川嶋皇子の死因は記載されていないが、川嶋皇子の死亡日を九月九日と、記さなければならないような、公然の死であった疑いが濃い。
「天武が命じた帝記及び上古諸事の記録校定」に關わった者たちと、持統が編纂を始めた『日本書紀』側の人々との間で、何か對立があったのかもしれない。『日本書紀』の編纂目的が、史實を消し去り、新たな歴史を創造することにあったことから十分考えられることだ。事實、天武が記録校定を命じた『帝記』及び『上古諸事』は、現存しない。
繰り返しになるが、「記紀」は海人の歴史を消すことを目的の一つとする。ゆえに海人の血を引く天武についての『日本書紀』の記述も齟齬が多い。
『日本書紀』卷二九朱鳥元年九月丙午(九日)條は、天武の死因を病死とする。同巻天武一四(六八五)年九月丁卯(二四日)條によれば、この日に「發病した」という。ところが、天武は發病後にも、天武一五(六八六)年一月壬寅朔癸卯(二日)、同月丁巳(一六日)、翌戊午(一七日)、さらにはその翌日の己未(一八日)に宴を催している(いずれも出典は『日本書紀』卷二九(天武紀))。
また、『日本書紀』天武一五年六月戊寅(一〇日)條は、「天武の病の原因を占ったところ草薙の劔の祟りと出たゆえ、その日のうちに草薙の劔を熱田社に送って安置させた」旨を記すが、これもおかしい。『日本書紀』卷二八天武元(六七二)年六月丙戌(二六日)條で、迹(と)太(お)川邊りで望拜したという天照大神は、伊勢神宮ではなく、草薙の劔を神體とする熱田社(名古屋市熱田区神宮一丁目)だと考えられるからだ。迹太川は、現在の一級河川・朝明(あさけ)川のことであり、天武が天照大神を望拜した地は、四日市市大矢知町邊りが比定される。舊暦の六月下旬、大矢知町邊りから朝日が昇る方向に手を合わせれば、その先にあるのは、熱田社だ。その熱田社の神體が草薙の劔だ。
加えて、天武の時代には、皇祖神・アマテラスは創造されておらず、『日本書紀』卷二八天武元(六七二)年六月丙戌(二六日)條にいう天照大神は天照國照彦火明命のことである。熱田大宮司は、元々、天火明命を祖とする尾張國造家が世襲していた。天武は、天火明命を奉祀した蘇我宗家の後繼者であり、天火明命を祀る熱田神宮の神體の草薙の劔が祟るはずがない。
そこで、九月九日をキーワードに、草薙の劔に關した熱田神宮にまつわる資料を探して見ると、天保一五(一八四四)年に成立した『尾張志』に、「和銅二(七〇九)年九月九日、熱田神宮内の八劔宮(式内社)に新たに寶劔を奉った」との記載がある。八劔宮に寶劒を奉った理由は、西夷の征討祈願のためといわれているが、八劔宮への奉劔は西夷の征討祈願のためというより、平城京造營祈願と考えられる。僞書『日本書紀』の草薙の劔の祟りにより天武が病に倒れたという記述は後附けで、『尾張志』が述べるように、平城京造營が成就するようにと、天武の命日に天武の法要のため、天武とゆかりの深い熱田社に寶劔を奉ったのだろう。
この史實から、草薙の劔が天武に祟ったとの逸話が創作されたと推測する。
餘談になるが、三谷(みや)祭(蒲郡市三谷町七舗鎭座の八劔神社の祭禮)が、舊暦九月九日に行われたのも、『尾張志』の八劔宮への奉劔を踏まえてのものと考えられる。