2022年03月07日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明17(拾遺二~拾遺四)

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺二「牛久保と山本勘助」では、武田信玄(一五二一~一五七三)の軍司として知られる山本勘助(?~一五六一)と牛久保との關わりについての論考だ。
 牛久保の住人・中神善九郎(?~一七一一)が、元祿一四(一七〇一)年に編んだ『牛窪密談記』には、勘助は八名郡の賀茂(賀茂ではより具體的に鶴卷(豊橋市賀茂町の字出口を中心とした集落)で生まれ、牛久保の大林家に養子に入ったとする。
 勘助については、同時代の資料にその名が現れるわけではなく、その實態は判然とせず、非實在説までもあるが、松浦(まつら)鎭(しげ)信(のぶ)(肥前平戸藩四代藩主/一六二二~一七〇三)が著した『武功(ぶこう)雜記(ざっき)』に、「勘介は、三河の者で山縣昌景(一五二九~一五七九)が抱えている」旨が記されていることから、その實在が證明される。山縣昌景は、武田流の軍學書『甲陽軍鑑』の編者とされる。
『武功雜記』の著者の松浦鎭信の母・充(みつ)は、牛久保城主・牧野康(やす)成(なり)(一五五五~一六一〇)の娘である。康成と勘助に面識のあった可能性は低いが、牛久保時代の勘助を知る者は、康成の近くにいたはずだ。本當に山本勘助がこの世に存在していなかったのであれば、鎭信は、康成談として「山本勘助などという者は『甲陽軍鑑』がでっちあげた架空の人物である」と斷言したであろう。
 しかも、『松浦(まつうら)の太鼓』(安政三(一八五六)年、江戸森田座初演の『新臺(しんぶたい)いろは書初(かきぞめ)』の十一段目を三代目勝諺藏(かつげんぞう)(一八四四~一九〇二)が改作、明治一五(一八八二)年に大阪角座で初演)の「松浦(まつうら)邸の場」での松浦(まつうら)候の「三(さん)丁(ちょう)陸六(りくむっ)つ 一(いっ)鼓(こ)六足(ろくそく) 天(てん)地(ち)人(じん)の亂(らん)拍(びょう)子(し) この山鹿流の妙傳を心得ている者は 上杉の千坂兵部と 今一人は赤穂の大石 そしてこの松浦じゃ」の臺詞のとおり、松浦鎭信、千坂高房(一六三九~一七〇〇)、大石良雄(一六五九~一七〇三)とも、武田流兵法とは對立する山鹿流兵法の創始者・山鹿素行(一六二二~一六八五)の門弟である。
『武功雜記』は、勘助の子の來歴を記し、その勘助の子が、『甲陽軍鑑』の眞の作者と述べるが、松浦鎭信は、以上の經歴を持つことから、鎭信の記す勘助の子の來歴は信じるに足り、勘助實在を裏附けるといえる。
 賀茂から牛久保の大林家に養子に入った勘助であるが、牛久保の寺町(豊川市牛久保町八(や)幡口(わたぐち))の武運山長(ちょう)谷(こく)寺(じ)(淨土宗)には、勘助の遺髮塚がある。
 ところが、牧野家菩提寺の法月山光輝庵(豊川市牛久保町光輝町二丁目/淨土宗)が所藏する『牛久保古城圖』には、長谷寺は、現在のJR飯田線牛久保駅前邊りに描かれ、八幡口の長谷寺邊りには、勘助が養子に入った大林家が描かれる。勘助遺髮塚は元々、現在地の八幡口、すなわち勘助が養子に入った大林勘左ヱ門屋敷の位置に建てられたことになる。おそらく、勘助の總角(あげまき)を大林勘左ヱ門家が保管しており、訃報を知ってその總角を自家の庭に埋め、供養として五輪の塔を建てたのだろう。私は、遺髮塚が建てられた大林屋敷跡に長谷寺が遷って來たと考える。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺三「『牛久保古城圖』考」では、勘助が養子に入った大林家が、現在の長谷寺の位置に描かれる、『牛久保古城圖』がいつの時代の牛久保の町割りを描いたものかを檢證した論考である。拾遺三「『牛久保古城圖』考」を執筆した動機は、拾遺二「牛久保と山本勘助」で、展開した遺髮塚が建てられた大林屋敷跡に長谷寺が遷って來たとの主張が正しいか否かを證明するためである。
 結論からいえば、『牛久保古城圖』に描かれる寺院の創建年等から、『牛久保古城圖』は、慶長八(一六〇三)年以降に作圖されたものであるが、永祿八(一五六五)年から同一二(一五六九)年の間の牛久保城下町割を描いた原圖を基に作成された信憑性の高い地圖と考えられ、『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺二「牛久保と山本勘助」で、展開した遺髮塚が建てられた大林屋敷跡に長谷寺が遷って來たとの私の主張を裏附けるものである。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺四「善光庵の創建と再建」では、前半の「善光庵の創建と善光寺如來」では、『牛久保古城圖』で、武田軍の東三河侵攻により、燒き討ちの對象になり、廢寺となった天臺寺院・一色山聖圓寺の南西隣に描かれる聖圓寺末寺の善光庵の創建(永祿年中(一五五八~一五六九年)に建立されたと傳わる)と、善光寺池(豊川市牛久保町字水金剛(豊川市立天王小学校の南)邊りが比定される)で、發見された善光寺如來との關係及び善光庵の衰退ないし廢寺について考察し、後半の「潮音道海と『大成經彈壓事件』」では、善光庵を補陀山善光庵という臨濟宗黄檗派の寺院として再建した潮(ちょう)音(おん)道(どう)海(かい)(一六二八~一六九五)と、『大成經彈壓事件』について檢證した。
 善光庵は、元祿二(一六八九)年に黄檗派の寺院として再建されるが、債権者の潮音道海は、「大成經彈壓事件」により流罪になるも、牧野成貞(一六三四~一七一二)の預かりとなり、自らが住職をしていた黒瀧山不動寺(群馬県甘楽郡南牧村大塩沢)に身柄を移される。
 寛文六(一六六六)年、五代將軍綱吉(一六四六~一七〇九)がまだ館林十萬石の藩主だったころ、潮音道海は、館林藩上屋敷で綱吉と、綱吉生母の桂昌院(一六二七~一七〇五)に謁見し、二人は潮音道海に歸依する。罪が輕減され、牧野成貞の預かりになったのも、綱吉が潮音道海に歸依していたからだ。牧野成貞は、上野館林藩家老で、後に綱吉の側用人になる。
「大成經彈壓事件」は、天和元(一六八一)年、幕府が江戸室町の書肆(しょし)・戸嶋屋惣兵衞が出版した『大成經』を僞書と斷定し、版元の戸嶋屋惣兵衞及び戸嶋屋に『神代皇代大成經』を持ち込んだ長野采女、潮音道海竝びに僞作を依頼したとされる伊雜宮の神職らを處罰し、『神代皇代大成經』を始めとする由緒の明らかでない書物の出版・販賈を禁止した事件と説明される。
 善光庵が再建されるのは、この事件の八年後のことであり、しかも再建された場所は、創建當時の牛久保町蓮臺ではなく、牛久保町猿屋敷(現在の住所表示では豊川市南大通二丁目)である。『牛久保古城圖』に描かれている「牧野市右ヱ門屋敷」あるいはその東隣の「牧野勘四郎屋敷」邊りであることから、牧野成貞がこの再建に關わっていたと考えられる。
『大成經』の創作者は、善光庵の再建者の潮音道海とされるが、『大成經』の直接の僞作者は、長野采女であり、その種本となる「高野本」の作者は、山鹿素行(一六二二~一六八五)と考えられる。
 直接の僞作者の長野采女は、上州箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)主・長野業(なり)政(まさ)(一四九一~一五六一)の曾孫を稱するが、實際は伊勢長野氏に出自を持つと考えられる。
『大成經』は、近世の僞書の濫觴といえる書であるが、『中朝事實』を著した山鹿素行の著を種本にしたことから、近世の僞書の方向性が決まった。その方向性は、「記紀」と軌を一にする皇國史觀である。まことに殘念なことだ。



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