2022年03月08日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明18(拾遺五1)

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五「檢證 東三河の徐福伝説」は、四半世紀前に突如として菟足神社(豊川市小坂井町宮脇)に設置された「菟足神社と徐福伝説」という、説明板で展開される、いわば都市伝説といえる言説の成立過程等を檢證した論考である。
 このいわば都市伝説といえる小坂井の徐福伝説について、豊川市で大島内科クリニックを開業し、東三河の歴史にも造詣が深い大島信雄医師は、一九九四年一月豊川医師会発行『豊川医報』八一号の『愛知県宝飯地方の徐福伝説⑵ 御津湊なる澳の六本松いずこ』で、「小坂井に徐福伝説が残っているということも、小坂井に蓬莱山という名前の山があることも、全く初耳でした」と率直な意見を述べている。
 大島氏は、同著で、小坂井の徐福伝説の淵源を山本紀綱著『日本に生きる徐福の伝承』にあるとするが、厳密には、『日本に生きる徐福の伝承』(一九七九年発行)には、山本の前著『徐福 東来伝説考』に対する多聞山淨慈寺(豊橋市花田町字百北)の生まれで、橋本山龍運寺(豊橋市船町)の住職・近藤信彦(一八九五~一九七九)が、山本の義姉(山本の妻の姉で、山本の妻の姉の夫が近藤の愛知縣立第四中學校(現愛知県立時習館高等学校)の同級生)宛ての令状に、多分にリップサービス的な小坂井の徐福伝説が裏付けも曖昧なままに記されていたのみである。
 ところが、山本の『日本に生きる徐福の伝承』をもととした、内藤大典 坂井孝之 久冨(くどみ)正美の編んだ『弥生の使者徐福――稲作渡来と有明のみち――』(一九八九年「弥生の使者徐福刊行会」刊)が根據の提示なきまま小坂井を安易に同書の「徐福渡来伝説の主要分布地図」に載せてしまい、その読者が当時の小坂井町役場並びに小坂井町教育委員会に本を持ち込み、小坂井が分布図に載っていると問い合わせたことがきっかけで、小坂井町教育委員会が、「菟足神社と徐福伝説」なる説明板を菟足神社に設置したのである。
 身も蓋もないいい方になるが、旧小坂井町は、これを観光資源として利用としたが、利用出来ず、説明板だけが残ったということだ。つまりこの説明板の内容は根拠がないのである。その傍証になるのが、旧小坂井町が豊川市に合併された後の豊川市制七十周年記念事業(豊川市の市制施行は昭和一八(一九四三)年六月一日)として豊川市が発行した『新版 豊川の歴史散歩』(豊川市教育委員会編集)だ。『新版 豊川の歴史散歩』は、この徐福伝説を菟足神社の項ではむろん、A五版縦書き三一〇頁の同書のどこにも採り上げてはいないのだ。

 そもそも「菟足神社と徐福伝説」のみならず、日本列島に殘る「徐福伝説」は、あくまで傳説という共同幻想であって、史實ではない。
 日本の氏姓及び家名ないし苗字と儒教圈の姓氏とは異なる。列島の「徐福伝説」では、なぜか徐福が日本に來て、秦を名乘ったとするが、儒教圈での姓氏の概念からは、徐福が秦を名乘るなどあり得ないことだ。
 たとえば、『義楚六帖』(顯德元(九五四)年成立)卷二一「國城州市部」四三で、「日本の僧弘順大師に聞くところによると」と斷わりを入れているのも、儒教圈での姓氏の概念では、徐福が秦を名乘ることなどあり得ないからだ。
『義楚六帖』を撰した釋義楚は、その名乘りのとおり、僧である。ところが、日本に弘順大師といった僧侶はいない。釋義楚は、おそらく弘法大師空海(七七四~八三五)を意識して、弘順大師が語ったことにしたのだろう。では、僧の釋義楚が弘順大師のモデルとなった空海をどう見ていたのだろう。
 空海への大師號は、『義楚六帖』が成立する二十七年前の延長五(九二七)年に、當時の眞言宗のトップの東寺長者の觀賢(かんげん)(八五四~九二五)の奏上により醍醐(八八五~九三〇/在位八九七~九三〇)から贈られる。その奏上の内容は、金剛峯寺の奥の院で、空海が禪定を續けているというものだが、具體的には、空海は、金剛峯寺の奧の院で生き續け、髮が伸び續けており、それを剃髮したというものだ。事實、現在も高野山では、朝夕、奧の院に空海の食事を運んでいる。この奏上は、佛教の教義の前提となる輪廻轉生の否定に繋がる。その佛法の根底を覆す空海に、醍醐は、佛法を弘めたとの弘法の大師號を輿えたのだ。空海に弘法の大師號を輿えた醍醐は既述のように地獄に落ちた。
 加えて、釋義楚は中国人である。髮が伸び續けており、それを剃髮したという言説から、釋義楚は、殭屍をイメージしたのではないか。殭屍は、長い年月を經過しているにもかかわらず、腐亂していない屍をいうが、ミイラのように乾燥していない點で異なる。中国では、屍が長い時間が經過すると、惡靈になって人に害を輿えるという俗信がある。その惡靈空海に大師號を贈る蠻行と、既述のように、儒教圈なら、當然理解しているべき、徐福が秦を名乘るはずもないとの常識すらわかっていない東夷の倭を馬鹿にした笑い話を中国人の僧侶の手による佛教類書は述べているに過ぎないのだ。始末が悪いのは、このクニにはいまだに馬鹿にされていることも讀み取れず、徐福が來たとはしゃいでいるおめでたい輩がいることである。
 この觀賢の奏上による不老不死ともとれる空海の逸話と、その空海の殭屍がある場所が、紀州であること、その紀州の熊野では、補陀(ふだ)落(らく)渡(と)海(かい)が行われていたことが相まって、言説のキャッチボールにより、やがて徐福の上陸地點は熊野との言説が生まれたのだろう。
 では、なぜ當時の眞言宗のトップの東寺長者の觀賢は、佛法に反するような奏上を行ったのか。その原因は、ひとえに僧侶・空海のというより、人間・佐伯眞魚の狹隘な性格に基づくものと思われる。空海は二十年の留學期間を勝手に二年で切り上げ、歸國している。これは一緒に留學した靈(りょう)仙(せん)(七五九?~八二七?)の實力を恐れてのことだ。靈仙の歸國が叶っていれば、空海は歴史の闇に埋もれていただろう。空海は、この焦りから、東寺(京都市南区九条町)を金光明四天王教王護國寺祕密傳法院(祕密傳法院の院號は衆生濟度からは程遠いものだが)として再編し、眞言密教以外の僧侶の出入りを禁止し、自らが選んだ弟子のみを出入りさせ、自ら選んだ經典や原典のみを教本として修行させている。結果、佛法が何かもわかっていない觀賢が眞言宗のトップに就く事態に陷いるのだ。
 この佛法に反する觀賢の奏上を修正したのが、法然に歸依し、淨土教を信仰したという、高野山蓮華三昧院を創いた明(みょう)遍(へん)(一一四二~一二二四)である。明遍は、空海の禪(ぜん)定(じょう)を生(しょう)身(じん)往生と解釈したのだ。せっかく明遍が軌道修正したにもかかわらず、眞言宗では、南無大師遍照金剛などと馬鹿げた唱えを行っている。
 南無は、歸依を意味し、南無阿彌陀佛、南無釋迦牟尼佛は、阿彌陀如來、釋迦如來という佛に歸依することを誓い、成佛することを、南無妙法蓮華經は、法華經に歸依することを誓い、成佛することを願うものだ。確かに佛法僧の三寶に歸依するというが、僧に歸依するのは、生前の僧侶に歸依し、佛法を授かり往生を願うものだ。南無大師遍照金剛の遍照金剛は、唐で、惠果(七四六~八〇六)から空海に輿えられた灌頂名だ。空海生前に歸依した者はともかく、空海没後に菩薩でも如來でもない空海に歸依したところで、成佛出來るはずもない。それを眞言宗では熱心に唱えているのだ。他宗派の僧侶が、それでは成佛出來ないと發言したとの話も聞かない。わが國の佛教者の理解はこの程度のものなのである。
 もちろん、空海が南無大師遍照金剛などと唱えていたはずもなく、唱えていたとすれば、南無毘盧遮那佛だっただろう。加えて置けば、觀賢の奏上は空海の遺志にも反するものだ。たとえば、「六國史」の第四『續日本後紀』卷四は、空海が没した四日後の承和二(八三五)年三月庚午(二五日)條に、「敕遣内舍人一人 弔法師喪 并施喪料 後太上天皇有弔書曰 眞言洪匠 密教宗師……不能使者奔赴相助茶毘」と、淳(じゅん)和(な)(七八六~八四〇)が高野山に宛てた院宣に空海の荼毘式に關する記載がある。加えて、初代東寺長者の實(じち)慧(え)(七八六~八四七)が著した書簡の中に空海を荼毘に附したと解釋出來る記述がある。實慧は空海の十大弟子の一人で、讚岐國出身の佐伯氏で空海の一族だ。空海が荼毘に付されることを望んでいなかったのであれば、書簡にその旨が記されたであろう。觀賢は空海の遺志を無視ているのみならず、史實をも捻じ曲げているのである。
 既述のように、わが國の佛教者の佛法の理解は低い。これが影響してか、学者の空海の評価も首を傾げる。たとえば、空海晩年の著作『三教(さんごう)指歸(しき)』は、儒教、道教、佛教の比較思想論との評価が一般的だ。ところが、『三教指歸』の序文の延暦一一(七九二)年、大學寮に入寮後、遣唐使に選ばれる延暦二二(八〇三)年の間の山岳修行中に、一沙門から「虚空(こく)藏(ぞう)求(ぐ)聞(もん)持(じ)法(ほう)」を授かり、それを修め、室戸岬の御厨人窟(高知県室戸市室戸岬町)で瞑想をしているとき、口に明星が飛び込んで來たと綴る空海の自己幻想から、儒教、道教、佛教を比較しようにも、空海に道教の知識と理解があったとは思えない。八(はっ)將(しょう)神(じん)の一柱の大將軍は、陰陽道で明星を神格化したのものであるが、大將軍の本地は、第六天(だいろくてん)魔(ま)王(おう)波(は)旬(じゅん)ともいわれる他化自(たけじ)在天(ざいてん)だ。第六天魔王波旬といえば、佛道修行を妨げる魔王である。その佛道修行を妨げる第六天魔王波旬と繋がりが深い明星が口に飛び込んで來たなどと語るのは、佛道修行を極めようとする者の言動とは思えないからだ。
 親鸞(一一七三~一二六三)も五十三歳の砌、明星天子からの「善光寺から一光三尊佛を迎え、高田に本寺を建立せよ」との夢のお告げにより、嘉祿元(一二二五)年に、眞宗高田派の本寺專修(せんじゅ)寺(栃木県真岡市高田)を建立している。明星天子からお告げを受けた親鸞は、佛道修行の妨げとなる妻帶、蓄髮を實踐し、淨土眞宗では、皍身成佛を手段として衆生の救濟の途を開き、『歎異抄』三章の「惡人正機」として結實させ、第六天魔王波旬の問題を解決した。
 また日蓮(一二二二~一二八二)も、千光山清澄寺(千葉県鴨川市清澄)で、その本尊・虚空藏菩薩に、「日本第一の智者となし給え」と、願を掛けた。明けの明星は、虚空藏菩薩の化身とされるが、日蓮は、第六天魔王波旬について、佛道修行者を『法華經』から遠ざけようとして現れる魔であると説くも、純粹な『法華經』の信者には、力を貸す天魔と、説いている。また日蓮が現した『法華經』の曼荼羅にも、第六天魔王波旬が描かれている。『佐渡御(さどご)勘(かん)氣(き)抄(しょう)』で、「海邊の旃(せん)陀羅(だら)か子なり」と稱した日蓮は、惡人正機に目が向いたであろう。そして道元(一二〇〇~一二五三)著『正(しょう)法眼藏(ほうげんぞう)』の「諸惡莫(しょあくまく)作(さ)」の、「いはゆる諸佛 あるいは自在天のことし 自在天に同不調なりといへとも 一切の自在天は諸佛にあらす」の文言から、『法華經』卷八收録の二五品「觀世音菩薩普門品」(通稱『觀音經』)の一節「應以大自在天身 得度者 皍現大自在天身 而爲説法」の大自在天を他化自在天に置き換え、第六天魔王波旬を純粹な『法華經』の信者には、力を貸すとの言説を思い附いたのだろう。
 第六天魔王波旬との關係を解決した親鸞や日蓮と異なり、空海は明星が第六天魔王波旬と繋がるということすらわかっていない。
 これと關聯して、空海の經歴から、眞言宗での儒教の比重は大きい。男尊女卑の儒教の影響から、眞言宗では、ことさら女人禁制にこだわるが、女人禁制については、道元が、その著『正法眼藏』の「禮拜得髓(らいはいとくずい)」で、「日本國にひとつのはらひこあり いわゆるあるひは結界の境地と稱し あるひは大乘の道場と稱して 比丘尼 女人等を來入せしめす」と指摘している。
 空海及び空海が開宗した眞言宗について、佛法という觀點から、早急に見直すべき必要があろう。これが衆生濟土に繋がる。



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