2022年03月09日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明19(拾遺五2)

 徐福が日本に來たと、はしゃいでいるおめでたい輩が、その根據とする、『義楚六帖』は、東夷の倭は、姓氏の違いも佛法の何たるかもわかっていない旨が書かれているに過ぎない話から、空海ないし空海が開宗した眞言宗が佛法から見て、いかにおかしなものかに話が脱線したが、話を菟足神社に設置された「菟足神社と徐福伝説」なる説明板に話を戻す。
 説明板の内容を要約すれば、①熊野に渡來した徐福一行は、この地方にも移り住み、豊橋市日色野町には、「秦氏の先祖は、中国から熊野へ渡来し、熊野からこの地方に来た」とのいい傳えがある。②『牛窪記』には、「崇神の時代に、紀州手間戸から徐福の孫の徐氏古座侍郎が六本松に上陸し、本宮山麓には秦氏が多くいる」旨の記述がある。③菟足神社の縣社昇格記急碑に、「天武の白鳳一五年四月一一日に、秦石勝(いわかつ)がいまの場所に遷座した」旨の記述がある。④『今昔物語』には、菟足神社の風祭の猪の供犧についての記述があるが、生贄神事は中国的である。との四つのことを記し、結びとして、三河と熊野とは古くから海路による往來があり、熊野信仰の修驗験者により、あるいは小坂井は交通の要所であり、東西を往來する人により、徐福の故事が傳わった、としている。

 説明板の最初に記載される豊橋市日色野町には、「秦氏の先祖は、中国から熊野へ渡来し、熊野からこの地方に来た」とのいい傳えがある、との言説について、山本紀綱著『日本に生きる徐福の伝承』に載る、山本の義姉に宛てた近藤信彦の書簡では、「秦の徐福が五百人の少年らとともに三河湾の六本木というところに来航着船し、その子孫はそこに定住して秦氏を称し繁栄した……その祭神(祖神)は、中国の神とみえ、古来その祭礼には豚猪等の犠牲(いけにえ)を供え、その社の近くに菱木(ひしき)野(の)というところがある」と記すが、東三河に調査に訪れた山本は、同書で、「今までのところ、三河湾をかこむ東三河地方(現在の小坂井町・御津町などを含む地方)では、徐福渡来の伝説に直接つながる伝承や遺跡などと称するものは見当たらない。また菟足神社宮司川出清彦氏のお知らせにも、「当地方の古老、隣接の平井・日色野・前芝地方にも心当たりの方々に聞き合わせましたが、徐福の伝説は目下のところないようです。尚心がけて居ります。云々、」ということであった」と、近藤の見解を裏付けるものは何もなかった旨を述べている。
『三河国宝飯郡誌』、『神社を中心としたる寶飯郡史』のいずれにも、日色野が徐福傳來地との記述もなければ、日色野が秦氏の關係地との記述もないのだが、近藤は何をもって、日色野を徐福傳來地との心証を形成したのであろうか。
 その心証形成には、近藤が住職を務めた龍運寺がある豊橋市船町出身の大口喜六(一八七〇~一九五七)が著した、『國史上より觀たる豐橋地方』の「この銅鐸の發見地が大體に於て古來秦人の傳説地と關係を有するのも決して偶然となすべきではないと言ふのである……特に寶飯郡の御津地方には、秦の徐福が始皇帝の命を受け、不老不死の藥を求めて蓬萊島に到つたと云ふ……秦人の傳説と銅鐸、この關係は、結局離るべからざるもののやうに思はれる」との言説が大きく影響したと思われる。
「この銅鐸の發見地」とは、豊川市伊奈町松間の畑をいうが、最寄りの集落は、伊奈ではなく、日色野になる。
 つまり、日色野が、徐福傳來地との言説は、大口喜六、近藤信彦の自己幻想なのだ。

 次に、説明板に掲載される『牛窪記』の徐氏古座侍郎については、そもそも、その舞臺は、長山熊野權現(豊川市下長山町西道貝津)であって、菟足神社に傳わるものではない。
 この言説の成立経緯を考えるに、熊野權現神主の神保氏の存在が大きいだろう。
 神保氏は、本姓惟宗で、上野國多胡郡辛科鄕神保邑より起る。惟宗は、讚岐國香川郡を本貫とする秦(はたの)公(きみ)で、元慶七(八八三)年、秦公直宗や弟の直本始め一族十九人が惟宗朝臣を賜輿されたことに始まる。神保氏は秦氏であっても、熊野から來たわけではないのだ。
 徐氏古座侍郎が上陸したという六本松について、大島信彦著『愛知県宝飯地方の徐福伝説⑵ 御津湊なる澳の六本松いずこ』は、比定地として、豊川市御津町御馬を挙げ、参考として、蒲郡市竹(たけ)谷(や)町にも六本松という地があったとしている。
 この竹谷や蒲形(明治八(一八七五)年、寶飯郡西郡村と合併し、寶飯郡蒲郡村となる)を本據とした一族に鵜殿氏がいる。西郡村の上(かみ)ノ(の)鄕(ごう)城(蒲郡市神ノ郷町森)は、鵜殿城とも呼ばれ、鵜殿氏の居城であった。鵜殿氏の本姓は、秦氏ともいわれ、紀伊國牟婁郡鵜殿邑より起る。
 ところが、永祿三(一五六〇)年、桶狹間の戰いで、今川義元(一五一九~一五六〇)が討たれると、義元の妹を母とする城主・鵜殿長照(ながてる)(?~一五六二)は孤立し、上ノ鄕城は陷落。長照は、父の長持とともに討ち死にし、長照の子の氏長(うじなが)(一五四九~一六二四)と氏次(うじつぐ)(?~一六〇〇)は捕らえられ、上ノ鄕城は、久松俊勝(としかつ)(一五二六~一五八七)の居城となる。
 話を長山熊野權現神主・神保氏に戻せば、牧野成春(なりはる)(一六八二~一七〇七)が吉田藩主だった寶永三(一七〇六)年に、成春の求めに應じて、長山熊野權現の由緒を提出するも、神領が召し上げられている。由緒に疑義があったということだろう。牧野家に由緒を提出した神保重綱が、六本松の参考地である竹谷をも領した、鵜殿氏の出自をヒントに、徐氏古座侍郎の譚を創作したのだろう。
 徐氏古座侍郎の譚は、『牛窪記』(元祿一〇(一六九七)年ごろに成立。作者は不詳)、『牛窪密談記』(元祿一四(一七〇一)年成立。中神善九郎行忠(?~一七一一)著)に載るが、「菟足神社と徐福伝説」なる説明板が、菟足神社に設置されるまでは、この二書に載る以上ものではなく、長山熊野權現が鎭座する長山全體の共同幻想に昇華したといった譚ではなかった。

 三つ目の菟足神社の遷座は、秦石勝が主導したという點について、山本紀綱著『日本に生きる徐福の伝承』に載る、山本の義姉に宛てた近藤信彦の書簡では、「そこから約二里離れて式内の古社菟足神社(小坂井町)があり、またその一里ほど離れたところに菟足神社の元宮と称する小社がある。菟足神社はその創始者が秦氏と伝えられている」とある。
『三河国宝飯郡誌』は、「菟足神社の」の項で同旨の記述がある「社傳本録」を採録するが、『神社を中心としたる寶飯郡史』は、第一篇第四章第一節を「穗國造と菟足神社」と題し、十頁に亙り紙面を割いているが、秦石勝の名は全く出て來ないのみならず、秦氏についても全く言及していない。しかも『神社を中心としたる寶飯郡史』は、寶飯郡神職會擧げての事業であり、卷末「神社を中心としたる寶飯郡史編纂の事業を終へて」九頁には、「本書編纂關係者」として「菟足神社々司川出綱吉」及び「故菟足神社々司本會々長川出直吉」の名も擧がっているのにだ。
 つまり、菟足神社の遷座はもとより、秦氏が菟足神社に係っていたとは、寶飯郡の神職の誰もが思ってもいなかったのである。

 最後に、風祭の猪の供犧について、山本紀綱著『日本に生きる徐福の伝承』に載る、山本の義姉に宛てた近藤信彦の書簡では、「その祭神(祖神)は、中国の神とみえ、古来その祭礼には豚猪等の犠牲(いけにえ)を供え、その社の近くに菱木(ひしき)野(の)というところがある。思うに、菱木の垣でかこんで犠牲のものを祭礼のときまで飼育したものとみえる。三河の国司大江定基がそのいけにえの残忍なありさまを見て厭世の心をおこし、出家して天台宗の僧となり、後唐土に留学して寂照法師となったことは、古来有名な史伝である(今昔物語・古今著聞集等参照)」とあるが、柳田國男(一八七五~一九六二)著『掛神の信仰に就て』(明治四四(一九一一)年刊)は、猪贄について柳田は「國神ノ風祭ニ豬ヲ生ケナガラ神ニ供スル」と記している。つまり風祭は國神の祭儀であって大陸風の祭儀ではないのだ。
 考えても見えて欲しい。猪の供犧を祭事とした菟足神社の"utari "には、アイヌ語で同朋の意味がある。中国的な祭事ではなく、諏訪の御頭祭、奥三河や遠州山間部の鹿射神事やシシウチと同樣の狩獵に基づく神事なのである。
 なぜに近藤信彦は、猪の供犧を大陸的と考えたか首を傾げる。猪の供犧が大陸的なら、大江定基(九六二?~一〇三四)は、わざわざ猪の供犧が行われる大陸に渡たるであろうか。さすが、近藤信彦も徐福が日本列島に來たとはしゃぐおめでたい輩の一人だ。
 猪の供犧の名殘りか、菟足神社の風祭を始め、国の重要無形民俗文化財に指定された豊橋の鬼祭り、県指定無形民俗文化財の牛久保の「若葉祭」、曲亭馬琴(一七六七~一八四八)が、花火を天下一と賞贊した吉田の祇園、綱火が県指定無形民俗文化財の豊川進雄神社の例祭、山車が海に入る三谷祭、豊川市篠束(しのづか)町、豊川市伊奈町の祭禮、吉田町裏十箇所の一つ新錢町の白山權現で、かつて行われていた花祭りの神幸には、獅子頭が隨伴する。かように菟足神社周邊は狩獵文化が色濃く殘る地域なのだ。近藤はこうしたことに気付かなかったのか。思考をするという訓練が出来ていないのだろう。

 山本の義姉宛に書簡を送った近藤信彦は、多門山淨慈院で生まれた。淨慈院のある花田町の地名は、明治一一(一八七八)年、渥美郡花ヶ崎村と同郡羽田(はだ)村が合併して出來た渥美郡花田村を起源とする。淨慈院は舊羽田村にある。その羽田村は、『和(わ)名(みょう)類聚(るいじゅ)抄(しょう)』(承平年間(九三一~九三八)に源(みなもとの)順(したごう)(九一一~九八三)が編纂した辭書。一〇卷本と二〇卷本があり、國語學者の龜田次郎(一八七六~一九四四)は二〇卷本を後人が増補したものとしている)二〇卷本の一二部「國郡部」に記載される渥美郡幡(ハ)太(タ)鄕の比定地の一つである。
 その羽田村からほど近い、吉田宿表町十二町の一つ田町に鎭座する神明社(豊橋市湊町)には、山田宗徧(一六二七~一七〇八)が、池泉回遊式の蓬莱(ほうらい)庭園を築いている。徐福は不老不死の藥を探しに蓬莱山に向かったとされる。
 さらに、羽田村の南・牟呂(むろ)村には、秦氏に出自を持つともいわれ、紀州牟婁(むろ)郡を本貫とする鵜殿氏が築いた牟呂城(豊橋市牟呂公文町)があった。徐福が上陸したと傳わるのは、紀州牟婁郡だ。
 小坂井周邊より、飽海川對岸の羽田村附近の方が、徐福と結び附く逸話は多い。
 もっといえば、隣の遠州には、「六國史」の第四『續日本後紀』卷一七の承和一四(八四七)年八月己酉(一七日)條に、「遠江國蓁原郡人秦黒成女一産二男一女 賜正税稻三百束及乳母一人」との記述、『日本紀略』(一一世紀後半から一二世紀に成立 編者不詳 全三十四卷)前篇十四の弘仁一一(八二〇)年二月丙戌(一三日)條に、「配 二遠江駿河兩國 一新羅人七百人反叛 數 二人民 一 燒 二屋舎 一 二國發 レ兵撃 レ之 不 レ能 レ勝 盗 二伊豆國發 一 乘 レ船入 レ海 發 二相模武藏等七國軍 一 勠 レ力追討 威伏 二其崒崒 一」の記述、「延喜式神名帳」遠江國蓁原郡の項に載る敬滿神社の祭神・敬滿神は秦氏の祖・巧滿王(孝武王の子で弓月君の父)のことだとする説もある。徐福渡來の下地は、東三河以上に揃っている。それでも、徐福渡來傳説は生まれなかった。
 つまり、菟足神社の徐福伝説は、偶然が重なって誕生したものなのだ。
 なお、愛知県立大学、中京大学及び愛知淑徳大学非常勤講師で、日本徐福協会顧問、中国・韓国の徐福研究団体の顧問等を務め、『徐福伝説考』(一九九一年、一季出版発行)、『徐福論』(二〇〇四年、新典社発行)の著者でもある逵(つじ)志保氏に、「反論があれば」との旨を添え、「檢證 東三河の徐福伝説」を改訂の度に送っているが、いまだ何一つ反論はない。つまり日本徐福協会を始め、東アジアの徐福研究団体には、徐福が日本列島に渡って來たという證據を何一つ持ち合わせていないのだ。



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