2022年03月13日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明21(拾遺五補遺2)

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」拾遺五補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を稱するのか」の後半「ひょうすべと秦氏――農本主義と非定住者」では、まず、潮見神社(佐賀県武雄市橘町大字永島)に傳わる「兵主部よ約束せしは忘るなよ川立つをのこ跡はすがはら」という河童除けの呪文を採り上げた。
 潮見神社は、橘諸兄、橘奈良麻呂、橘島田麻呂、橘公業など橘一族を祭神とする。潮見神社の祭神からは、相撲の祖・野見宿禰の裔・菅原氏とは接點がないように思える。
 潮見神社の祭神の一人とされる橘(たちばなの)諸(もろ)兄(え)(六八四~七五七)は、美(み)努(ぬ)王(?~七〇八)の子として葛(かつら)城(ぎ)王の名で生を受ける。美努王の父は敏(び)達(たつ)(五三八?~五八五?)の孫ないし曾孫といわれる栗(くり)隈(くま)王(?~六七六)だ。葛城王は、天平八(七三六)年に、弟の佐爲(さゐ)王(?~七三七)とともに母・三千代(六六五?~七三三)の氏姓である橘宿禰を繼ぎ、橘諸兄と名乘る。橘奈良(なら)麻呂(まろ)(七二七~七五七)は諸兄の嫡子で、父の後を繼ぎ二代目の橘氏長者となるが、父の時代から確執があった藤原仲麻呂(七〇六~七六四)の暗殺を企て、それが露見し、獄死する(橘奈良麻呂の亂)。橘島田麻呂は、奈良麻呂の子で、『日(に)本(ほん)紀(き)略(りゃく)』(編者不詳/一一世紀後半から一二世紀ごろに成立)が引用する『日(に)本(ほん)後(こう)紀(き)』(「六國史」の第三)逸文卷二六弘仁八(八一七)年八月戊午朔(一日)條に、「正一位橘諸兄之曾孫正五位下兵部大輔島田麻呂之女也」と、正五位下兵部大輔に任ぜられた旨が記されている嶋田麻呂(生没年不詳)のことと思われる。
 次に、橘公業(きみなり)(生没年不詳)であるが、橘諸兄、橘奈良麻呂、橘嶋田麻呂の三人が直系の血縁關係で七世紀後半から八世紀の人物であるのに對し、公業は鎌倉初期の武將で、嘉禎二(一二三六)年に本領伊豫國宇和郡を西園寺公經(きんつね)(一一七一~一二四四)に讓り(實際には公經が幕府に願い出て强引に横領した)、肥前に移っている。橘諸兄、橘奈良麻呂、橘嶋田麻呂は敏達の後裔であるが、公業については、敏達後裔の橘則光(のりみつ)(九六五~?)の子・季通(すえみち)(生没年不詳)の五世孫とする説もあるものの、伊豫橘氏(越智(おち)氏)の橘遠保(とおやす)(?~九四四)の子孫とする説もある。
 さて橘公業の本姓といわれる伊豫越智氏であるが、伊豫一宮・大山祇(おおやまづみ)神社(愛媛県今治市大(おお)三(み)島(しま)町宮浦)社家の三島大(おお)祝(はふり)家も越智氏後裔といわれ、別(べっ)宮(く)大山祇神社(愛媛県今治市別宮町三丁目)は、大寶三(七〇三)年、越智(おちの)玉(たま)澄(ずみ)が大三島の大山祇神社(愛媛県今治市大三島町宮浦)から勸請したという。
 越智氏が奉戴する大山祇神社の祭神・大(おお)山(やま)積(つみ)神について『釋日本紀』(卜部兼方(生没年不詳)著/一三世紀成立)が引用する『伊豫國風土記』逸文「乎知郡御嶋」の項は、「坐神御名大山積神……仁德世 此神自百濟國度來坐而 津國御嶋坐」と、「仁德の世、百濟から渡來して津國(つのくに)の御島(みしま)に座した大山積神を、乎(お)知(ちの)郡(こおり)(越智郡)の御(み)島(しま)(瀬戸内海にある三島諸島)に勸請した」旨を記している。『伊豫國風土記』が、大山積神が百濟から渡り來て鎭座したと記す御島とは、攝津國の三嶋江(みしまえ)(大阪府高槻市三島江)邊りの淀川に岬のように突き出ていた川中島を指し、定説では鎭座地は三嶋江にある三嶋鴨神社(大阪府高槻市三島江二丁目/主祭神 大山祇神 事代主神)であるといわれ、菅原道眞を祀る上(じょう)宮(ぐう)天滿宮(高槻市天神町一丁目)から南へ五㌔ほどの地點になる。
 潮見神社と菅原氏は、祭神の一人・橘公業を介してかろうじて繋がるのだ。

 寶飯郡と三島神というと直接の繋がりは見出せないが(『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」拾遺一「砥鹿神社考」の説明で述べたように、砥鹿神社は、三島神の東遷と關係があるように思われるが)、遠州には、山犬信仰で有名な山住神社(浜松市天竜区水窪町山住山)を始め、三島神を祀る社はポピュラーなものだ。
 井伊谷(いいのや)(浜松市北区引(いな)佐(さ)町井伊谷)を本貫とする井伊氏も、その出自や菩提寺・萬松山龍(りょう)潭(たん)寺(じ)(浜松市北区引佐町井伊谷)の本尊や由緒、境内にあったという渭伊神社が鎭座する字名や裏山の名から、三島神を奉じた氏族と考えられる。
 そのほか、文久の大喧嘩で有名な、遠州森の祭りが行われるのも、三島神社(周智郡森町森)だ。
 その森町は、三島神社を中心に古着の町として發展した。
 古着屋について、江戸の三甚内の一人・鳶澤甚内には、以下の逸話がある。
 鳶澤甚内は、元小田原北條家家臣であったが、家康が江戸に入ったころには盗賊になっており、死罪になるところを家康に許され、盗賊の取り締まりに當たったという。鳶澤甚内は、一人で盗賊を取り締まるのは、難しいことだから、屋敷地を頂き、そこに手下を住ませ、取り締まりに當たりたいと。また江戸には古着を商う者がいないことから、古着の獨占を許して欲しいと願い出た。家康は日本橋に屋敷を輿え、鳶澤甚内はそこで古着市を開いたという。この鳶澤甚内の屋敷が輿えられた地が現在の中央区日本橋富沢町で、かつては鳶澤町と呼ばれていたという。

 既述のように、私の家は、曾祖父・柴田庄(しょう)五(ご)郎(ろう)(一九一五年七月二九日逝去)亡き後、祖父・銀(ぎん)治(じ)(一九〇三・六・二四~一九八五・四・七)が親方を繼ぐも、露天商が博徒と一皍夛になり暴力團化してしまうことを嫌うまで露天商の親方であった。
 祖父がいうには、露天商の親方の家は、桶屋か古着屋であったという(私の家は桶屋であった)。
 つまり、露天商の親方は、桶屋や古着屋を生業とし、六斎市などの定期市では、桶の販賣や古着の商いで生計を立てていたのである。
 露天商というと、縁日などのハレの露店をイメージするが、江戸、京、大坂の三都や名古屋などの消費都市を除き、一般大衆が日用品を調達するには、定期市であり、露天商の軸足も定期市に置かれていた。
 祖父が露天商と一皍夛になったという博徒であるが、博徒は基本的に無宿人の系譜に屬する。無宿人は人別帳に記載されていない者をいい、當然、通行手形等は持っていない。持っていないゆえ、旅籠などの宿泊施設に宿泊することが出來ない。一夜の宿と一杯の飯(一宿一飯)を乞うため、自身が無宿人になった經緯を述べたのが仁義なのだ。無宿人ではそもそも製品の保管等に支障が生じる。博徒と露天商は別物なのだ。露天商が仁義を切るなど無知も甚だしい。
 また縁日に焦點を當てる餘り、大道藝が露天商の全てのような研究も多いが、そもそも藝は商いではない。
 大道藝人や門附藝人などの中には、非人頭が鑑札を輿え、乞(ごう)胸(むね)頭を介し、管轄された者もいた。こうした大道藝や門附藝と露天商を混同し、渥美清(一九二八~一九九六)の出生地が、乞胸頭が支配した三大貧民窟の一つ下谷万年町の隣の下谷車坂町であったことと、渥美の芸名のいわれ等から、山田洋治は、自身が監督を務めた「男はつらいよ」の主人公の名を車寅次郎とする心証が形成されたのだろう。山田は車寅次郎の名は車善七とは關係ないと否定しているが、その歯切れの悪い説明から、山田が非人と露天商を混同していたことは明らかだ。山田の罪は重い。



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