2022年03月14日

『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明22(附録一)

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録一「相撲雑話」序「本書第一話における野見宿禰論」では、野見宿禰について整理した。
 野見宿禰は、出雲神寶獻上事件の出雲振根命と同様に、天穗日命の後裔で出雲臣を出自とする。出雲臣は後に、杵築大社の祭祀に當たった出雲國造家となるが、その祖の天穗日命がアマテラスとスサノオの誓約(うけひ)によって生まれたのも妙なものだし、出雲臣が野見宿禰を名乘るのも首を傾げる。
『日本書紀』卷三〇持統五(六九一)年九月己巳朔壬申(四日)條に、「賜音博士大唐續守言 薩弘恪 書博士百濟末士善信 銀人二十兩」の記述は、『日本書紀』の著述を促すものであるが、著述者のみならず、書博士百濟末士善信にも銀二十兩が輿えられている。
 韓国・朝鮮語で、"nom-wi"は、「奴の」意味になる。野見宿禰は、古代ローマの劍闘士に近い身分であったと私は考える。
『穂国幻史考(増補新版)』第一話「記紀の成立と封印された穂国の実像」の説明で述べたように、「記紀」の崇神――埀仁の二代の出雲についての記述は、丹波の出來事である。
 これを出雲臣を例に説明する。
 たとえば、、江戸時代の外樣大名の毛利家は、鎌倉幕府初代別當・大江廣元(一一四八~一二二五)の後裔・時(とき)親(ちか)(?~一三四一)が、安藝國高田郡吉田莊(広島県安芸高田市吉田町/毛利氏の本貫は、相模國愛甲郡毛利莊)を據點としたことに始まり、同郡吉田郡山城を居城とした國人領主であった毛利氏は、元就(もとなり)(一四九一~一五七一)一代で、安藝のみならず、山陽山陰の十ヶ國を領有し、元就は、次男の元春(一五三〇~一五八六)を吉川(きっかわ)家の、三男の隆景(一五三三~一五九七)を水軍を有する小早川家の養子とする。
 山陽山陰十ヶ國を領有した毛利氏であったが、元就の孫・輝元(一五五三~一六二五)が、關が原の戰いで西軍の總大將に擔がれたことにより、長門・周防の二ヶ國に減封される。元就の三男・隆景は小早川家の養子となっていたが、隆景の養子となった小早川秀秋(一五八二~一六〇二)は、關が原の戰いにおいて戰闘中に東軍に寢返る。これにより勝敗が決した。
 關が原での西軍の總大將・輝元はかろうじて長門・周防の二ヶ國の領有が認められるのだが、假に輝元が改易され、秀秋が、筑前國糟屋郡名嶋(福岡県福岡市東区名島)から長門・周防二國に轉封され、小早川が毛利を名乘り、毛利は安藝吉田で大江に復姓していたとしたら……。
 私は、この假定の中の輝元ないし安藝國高田郡吉田莊が野見宿禰ないし出雲大神宮(京都府亀岡市千歳(ちとせ)町千歳出雲)が鎭座する丹波國桑田郡、小早川秀秋ないし筑前國糟屋郡が、出雲國造家ないし杵築大社(島根県出雲市大社町杵築東)が鎭座する出雲國出雲郡に相當するとのイメージを描いている。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録一「相撲雑話」第一章「節會時代の相撲」では、節會時代の相撲とそれに先立つ賭弓(のりゆみ)を解説するとともに、實は、行司の裝束が現在の烏帽子(えぼし)直埀(ひたたれ)に代わるのも、不知火型、雲竜型の横綱土俵入りが完成するのも、ちゃんこ鍋が定着するのも、常設の兩國々技館が出來たころのことである、説明をした。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録一「相撲雑話」第二章「神事から見た相撲」では、後の行事に相當する節會時代の「立合」を思わせる役を含む神事相撲について考察した。
 採り上げた神事相撲は、土俵に手を突く立ち合い以前の「手合い」等に共通點が見られる、兵庫県西脇市板(いた)波(ば)町(ちょう)に鎭座する石上神社で行われる「鯰押さえ神事」、兵庫県養父(やぶ)市奥(おく)米(めい)地(じ)に鎭座する水谷神社で行われる「ねってい」、京都市北区上賀茂本山に鎭座する賀茂別雷神社で行われる烏相撲、京都府南丹市園部町鎭座する摩氣神社で行われる神事相撲の四つ。いずれの神事相撲も、出雲大神宮を中心とした地域で行われる。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録一「相撲雑話」第三章「吉田追風家と弓術吉田流」では、第四十代横綱・東富士欽壹(一九二一~一九七三)まで、横綱免許状を発行していた吉田追風家と、吉田流ともいわれる弓術日置流について考察した。
 この吉田追風家、その由緒がはっきりしないのみならず、相撲司を名乘るが、節會時代には參議以上の公卿が相撲司を務めた。參議以上は、『公(く)卿(ぎょう)補(ぶ)任(にん)』に記載されるが、節會再興の際に、行司に任ぜられた初代追風・吉田善左衞門家永は、『公卿補任』に載らない五位に授されたという。
 吉田追風家は、江戸時代、肥後熊本藩のお抱えであった。肥後細川家は、寛永九(一六三二)年、細川藤(ふじ)孝(たか)(幽(ゆう)齋(さい)/一五三四~一六一〇)の孫・忠利(一五八六~一六四一)が、豐前小倉藩から肥後熊本に移封されたことに始まる。
 幽齋は、有識故實に明るく、三(さん)條(じょう)西實(にしさね)枝(き)(一五一一~一五七九)から「古(こ)今傳授(こんでんじゅ)」(『古(こ)今(きん)和歌(わか)集(しゅう)』(延喜五(九〇五)年に奏上された最初の敕撰和歌集)の解釋の祕傳)を受けている。
 また幽齋は、弓術吉田流(日置(へき)流)の祖・吉田重賢(しげかた)(一四六三~一五四三)の孫で、雪(せっ)荷(か)派の祖・吉田重勝(しげかつ)(一五一四~一五九〇)から印可を受け、雪荷の後繼には、吉田重勝の子ではなく、弟子の伴(ばん)喜(き)左(ざ)衞(ゑ)門(もん)一(いち)安(あん)(?~一六二一)を推していた。一安は細川家に仕え、日置流道雪派を興し、現在も肥後道雪派として伴一安の射は熊本で繼承されている。一方、雪荷嫡流は津藤堂家に仕え、また仙臺伊達家にも一流が仕える。
 既述のように、節會時代の相撲は、相撲節に先立ち賭弓(のりゆみ)が行われた。千穐樂結びの一番の褒美は重藤の弓であり、この弓を持って舞ったのが弓取りだ。
 日置流(おそらく雪荷派)で、體系を整理するに當たり、節會時代の賭弓などの資料を集め、吉田重勝の孫あるいは曾孫あたりで弓術の印可を受けることが出來なかった者(藤堂家あるいは伊達家の指南役になれなかった者)が、資料の中から相撲についての記述を見附け、これは商賣になると思い、道雪派という傳手(つて)を頼って、細川家のお抱えになったのではないかと、私は推測する。

『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録一「相撲雑話」終章「私と相撲、そして弓」では、子供のころから私は相撲が好きだったこと、三十歳を過ぎて、日置流雪荷派の弓術と出会ったことが、「相撲雑話」を執筆する上で、役に立ったこと等を記した。
 なお『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録一のタイトルを「相撲雑話」としたのは、相撲部屋というビジネスモデルからの興行について言及出来なかったことによる。



同じカテゴリー(穂国幻史考)の記事画像
刊行した『穂国幻史考(増補新版)』
海人族の古代史――非常民の民俗学への懸け橋
ちゃんこ鍋と……その薀蓄(笑)
蜂龍盃とねぎま汁で一盃
このクニの専門家という人種 付けたり「ホンブルグ」のことなど
同じカテゴリー(穂国幻史考)の記事
 スポーツ史学会 (2023-07-11 12:35)
 神事藝能と古典藝能 (2023-06-13 08:34)
 日本語について (2023-06-07 16:57)
 持統 (2023-05-17 04:59)
 祭禮ないし祭禮組織の變容 (2023-05-16 14:15)
 親鸞、日蓮、空海と明星のスタンス (2023-04-26 16:31)

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。