2022年03月16日
『牛窪考(増補改訂版)』の内容の説明23(附録二)
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」は、二〇〇九年一一月一七日に『三州(さんしゅう)吉田(よしだ)の怪(かい)猫(びょう)騒動』(発行者 岩瀬篤/非売品)として発行したものに写真を加え、加筆訂正したものである。三州吉田の怪猫騷動」は、大学の先輩で、当時豊橋市議会議員を務めており、吉田城本丸御殿の再建に意欲を持っていた岩(いわ)瀬(せ)篤(あつし)氏より、鳥取市議会から入手した『老(ろう)嫗(う)茶(さ)話(わ)』卷之三に收録された吉田城を舞臺とする「女大力」を元に吉田城についての小論をまとめて欲しいとの依頼を受け、書籍として発行したものだ。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」の「はしがき」では、現在の吉田城の繩張りは、池田照政(一五六五~一六一三)が国宝姫路城を築城する直前に築いた城であること、天守閣こそないものの、本丸御殿跡を取り圍むように、外観三層の鐵櫓、入道櫓、辰巳櫓、千貫櫓の城郭が聳え、さらに鐡櫓の眞下には、吉田川(現豊川(とよがわ))に面して搦手(からめて)からの敵の攻めに備える川手櫓が築かれ、總構えは、名古屋城より廣いこと、家康、秀吉ともに吉田の地を重視したこと等を指摘するとともに、城郭の多くが失われた明治六(一八七三)年の失火は、芋侍・西鄕吉之助(一八二八~一八七七)が畫策したものと推測される旨を述べた。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」の「吉田城沿革」では、吉田城の創建から藩主の移り變わり、吉田城は幕閣への登龍門であった旨を解説した。それゆえ、寶永の大地震(一七〇七年)で倒壞した本丸御殿を始め城郭や城下は完全には整備されないまま、明治を迎えることとなった。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」の「三州吉田の怪猫騷動」では、『老嫗茶話』に收録された「女大力」について解説した。
『老嫗茶話』は、寛保二(一七四二)年に會津の浪人・三(み)坂(さか)五(ご)郎(ろう)衞(る)門(もん)春編(はるよし)(一七〇四~一七六五)が撰した奇譚集で、「女大力」の主人公は、池田輝政の妹・天久院(てんきゅういん)(一五六八~一六三六)である。天久院は一般に天球院と表記され、天球院という院號は、天球院が創建した正(しょう)法山(ほうざん)妙(みょう)心禪(しんぜん)寺(じ)(京都市右京区花園妙心寺町一)の塔頭の一つ「天球院」にちなむ。
その輝政の妹・天球院は、「女大力」で、「ある時」は、「人數(あま)多(た)慘殺し」た「狼藉者」を「大長刀をかい込」「凡百人力」で「車切りに切放し」(輪切り)、またある時は「女房のうせける事數(あま)多(た)」「人々おそれおのゝく」「尾二タ俣にさけ五尺餘リの大猫」の「化け物」を、「こふしを」「握り」頭を毆り潰したという、なんとも豪膽な女性として語られる。
實際、妙心寺塔頭の天球院には、「血天井」がある。「血天井」とは、戰國期に落城した城郭などの床に染み込んだ血痕の殘る板などを供養のために寺の天井の材に用いたものをいうが、この「天球院」の「血天井」は、京在住中に押入った賊七人を「天球院殿」が長刀でなぎ倒し、その血しぶきが天井を染めたものだという。
ただ、この時代、天球院のような豪膽な女性は珍しいものではなかった。濃州岩村城(岐阜県恵那(えな)市岩村町)は信長の叔母(通稱・岩村殿/?~一五七五)が護っていたし、德川四天王の一人・井伊直政(一五六一~一六〇二)の養母・直虎(なおとら)(?~一五八二)も遠江井伊谷(いいのや)(静岡県浜松市北区引佐町(いなさちょう)井伊谷字城山)の女城主であった。
また中世から江戸時代に掛けては、嫐(うわなり)打ちなる風習があった。妻を離縁して一月以内に後妻を迎えたときは、前妻が後妻方に押し寄せ、後妻方の女性たちと打ち合い、折を見て前妻と後妻雙方の仲人たちがともに現れ仲裁に入り、引き上げるといったことが許されていた。
嫐打ちが廢れた後の寛文年間(一六六一~一六七三)ごろには、諸藩の奧向きには、別式(べっしき)女(め)といわれる女性武藝指南役を置くことが流行ったし、女性劍術家・佐々木累(るい)(生没年不詳/下總國古河藩主・土井利勝(一五七三~一六四四)に仕えた劍術家・佐々木武太夫の娘)もいた。
武家だけではなく、大坂長堀の豪商である三好家の一人娘・お雪(生没年不詳)は、俠客・奴の小萬として名を馳せていたし、小萬は、お龜、お岩の二人の女性を從えていた。
加えて、永祿六(一五六三)年、横瀬浦(長崎県西海市)に耶蘇(イエズス)會司祭として來日し、布教活動を行ったルイス・フロイス(一五三二~一五九七/Luís Fróis)が、天正一三(一八五五)年に著した『日歐文化比較』(原題は、"Tratado em que se contem muito susintae abreviadamente algumas contradições e diferenças de custumes antre a gente de Europa e esta provincial de Japão")には、このクニの女性が自由であった旨が記されている。
江戸時代の商家などでは、優秀な奉公人を婿に迎えるなどの母系制が機能していた。この母系制と夫婦別姓が、女性の地位を高めていたのだろう。
ところが、耶蘇教の傳來と、男尊女卑を旨とする儒學が官學になったことにより、夫婦同姓が定着し(夫婦同姓が確認出來るのは、明智光秀(一五二八?~一五八二)の娘・珠(たま)(一五六三~一六〇〇)が細川ガラシャを名乘ったのが最初)、母系制が崩れたことにより、女性の地位が低下した。『老嫗茶話』は女性の地位が低下する時代を迎えたころに撰されたものだ。
吉田城を舞臺とする「女大力」では、照政ではなく、輝政となっているが、照政が輝政と名を改めたのは、晩年の慶長一四(一六〇九)年ごろのこと、「女大力」の舞臺は輝政の名がまだ照政で、播州姫路城主(一六〇〇~一六一三)となる以前、「三州吉田の城主」が池田照政であった時代(一五九〇~一六〇〇)の城内となっているべきだが、「池田三左衞門輝政」とあり、はなから吉田城の出來事であるはずはない。
では、なぜ「女大力」の舞臺を吉田城に設定したのか。
既述のように、吉田藩の歴代藩主は幕府の要職に就き、その宿場の三州吉田宿は、家康が東海道五十三次を制定した當初からの宿場として大いに榮えた。
吉田宿は、吉田藩の城下町に田町(たまち)、坂下(さかした)町、船町(ふなまち)を加えた地域であり、東海道沿いの表町十二町(船町・田町・坂下町・上傳(かみでん)馬(ま)町・本町・札(ふだ)木(ぎ)町・呉(ご)服(ふく)町・曲尺手(かねんて)町・鍛冶町・下モ町・今新町・元新町)と、東海道南側の裏町十二町(天王町・萱(かや)町(まち)・指(さし)笠(がさ)町・御輿休町・魚(うお)町(まち)・垉六町・下リ町・紺屋町・利町(とぎまち)・元鍛冶町・手間町・世古(せこ)町)の、計二十四町によって構成されていた。町竝みの長さは二十三町三十間(約二.六㌔㍍)、本陣は二軒、脇本陣一軒、享和二(一八〇二)年には旅籠六十五軒もが建ち竝び、「吉田通れば二階から招く しかも鹿の子の振り袖が」と巷間で唄われたほどに飯盛女が多いことでも知られ、たいそうな賑わいを見せた宿場であった。
加えて、東海道で橋が架けられていたのは、この吉田橋と、岡崎の矢作橋、琵琶湖の瀬田橋の三か所のみ。中で、橋が架かる川に面して城があるのは吉田だけとあって、吉田城と吉田川(豊川(とよがわ)の江戸時代の一般的な呼稱)、吉田橋をセットで描いた浮世繪が多く見られた。
吉田が廣く知られていたから、「女大力」の舞臺が吉田城に設定された最大の理由だろう。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」の「結びにかえて」では、大学の同級生で、当時、鳥取市民図書館に勤務していた田村晴夫氏が執筆するに当たり、必要な資料を提供してくれたことに対する感謝を述べた。
田村晴夫氏は、『穂国幻史考』の題号の揮毫者で、凡鳥を雅号とする。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」の「はしがき」では、現在の吉田城の繩張りは、池田照政(一五六五~一六一三)が国宝姫路城を築城する直前に築いた城であること、天守閣こそないものの、本丸御殿跡を取り圍むように、外観三層の鐵櫓、入道櫓、辰巳櫓、千貫櫓の城郭が聳え、さらに鐡櫓の眞下には、吉田川(現豊川(とよがわ))に面して搦手(からめて)からの敵の攻めに備える川手櫓が築かれ、總構えは、名古屋城より廣いこと、家康、秀吉ともに吉田の地を重視したこと等を指摘するとともに、城郭の多くが失われた明治六(一八七三)年の失火は、芋侍・西鄕吉之助(一八二八~一八七七)が畫策したものと推測される旨を述べた。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」の「吉田城沿革」では、吉田城の創建から藩主の移り變わり、吉田城は幕閣への登龍門であった旨を解説した。それゆえ、寶永の大地震(一七〇七年)で倒壞した本丸御殿を始め城郭や城下は完全には整備されないまま、明治を迎えることとなった。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」の「三州吉田の怪猫騷動」では、『老嫗茶話』に收録された「女大力」について解説した。
『老嫗茶話』は、寛保二(一七四二)年に會津の浪人・三(み)坂(さか)五(ご)郎(ろう)衞(る)門(もん)春編(はるよし)(一七〇四~一七六五)が撰した奇譚集で、「女大力」の主人公は、池田輝政の妹・天久院(てんきゅういん)(一五六八~一六三六)である。天久院は一般に天球院と表記され、天球院という院號は、天球院が創建した正(しょう)法山(ほうざん)妙(みょう)心禪(しんぜん)寺(じ)(京都市右京区花園妙心寺町一)の塔頭の一つ「天球院」にちなむ。
その輝政の妹・天球院は、「女大力」で、「ある時」は、「人數(あま)多(た)慘殺し」た「狼藉者」を「大長刀をかい込」「凡百人力」で「車切りに切放し」(輪切り)、またある時は「女房のうせける事數(あま)多(た)」「人々おそれおのゝく」「尾二タ俣にさけ五尺餘リの大猫」の「化け物」を、「こふしを」「握り」頭を毆り潰したという、なんとも豪膽な女性として語られる。
實際、妙心寺塔頭の天球院には、「血天井」がある。「血天井」とは、戰國期に落城した城郭などの床に染み込んだ血痕の殘る板などを供養のために寺の天井の材に用いたものをいうが、この「天球院」の「血天井」は、京在住中に押入った賊七人を「天球院殿」が長刀でなぎ倒し、その血しぶきが天井を染めたものだという。
ただ、この時代、天球院のような豪膽な女性は珍しいものではなかった。濃州岩村城(岐阜県恵那(えな)市岩村町)は信長の叔母(通稱・岩村殿/?~一五七五)が護っていたし、德川四天王の一人・井伊直政(一五六一~一六〇二)の養母・直虎(なおとら)(?~一五八二)も遠江井伊谷(いいのや)(静岡県浜松市北区引佐町(いなさちょう)井伊谷字城山)の女城主であった。
また中世から江戸時代に掛けては、嫐(うわなり)打ちなる風習があった。妻を離縁して一月以内に後妻を迎えたときは、前妻が後妻方に押し寄せ、後妻方の女性たちと打ち合い、折を見て前妻と後妻雙方の仲人たちがともに現れ仲裁に入り、引き上げるといったことが許されていた。
嫐打ちが廢れた後の寛文年間(一六六一~一六七三)ごろには、諸藩の奧向きには、別式(べっしき)女(め)といわれる女性武藝指南役を置くことが流行ったし、女性劍術家・佐々木累(るい)(生没年不詳/下總國古河藩主・土井利勝(一五七三~一六四四)に仕えた劍術家・佐々木武太夫の娘)もいた。
武家だけではなく、大坂長堀の豪商である三好家の一人娘・お雪(生没年不詳)は、俠客・奴の小萬として名を馳せていたし、小萬は、お龜、お岩の二人の女性を從えていた。
加えて、永祿六(一五六三)年、横瀬浦(長崎県西海市)に耶蘇(イエズス)會司祭として來日し、布教活動を行ったルイス・フロイス(一五三二~一五九七/Luís Fróis)が、天正一三(一八五五)年に著した『日歐文化比較』(原題は、"Tratado em que se contem muito susintae abreviadamente algumas contradições e diferenças de custumes antre a gente de Europa e esta provincial de Japão")には、このクニの女性が自由であった旨が記されている。
江戸時代の商家などでは、優秀な奉公人を婿に迎えるなどの母系制が機能していた。この母系制と夫婦別姓が、女性の地位を高めていたのだろう。
ところが、耶蘇教の傳來と、男尊女卑を旨とする儒學が官學になったことにより、夫婦同姓が定着し(夫婦同姓が確認出來るのは、明智光秀(一五二八?~一五八二)の娘・珠(たま)(一五六三~一六〇〇)が細川ガラシャを名乘ったのが最初)、母系制が崩れたことにより、女性の地位が低下した。『老嫗茶話』は女性の地位が低下する時代を迎えたころに撰されたものだ。
吉田城を舞臺とする「女大力」では、照政ではなく、輝政となっているが、照政が輝政と名を改めたのは、晩年の慶長一四(一六〇九)年ごろのこと、「女大力」の舞臺は輝政の名がまだ照政で、播州姫路城主(一六〇〇~一六一三)となる以前、「三州吉田の城主」が池田照政であった時代(一五九〇~一六〇〇)の城内となっているべきだが、「池田三左衞門輝政」とあり、はなから吉田城の出來事であるはずはない。
では、なぜ「女大力」の舞臺を吉田城に設定したのか。
既述のように、吉田藩の歴代藩主は幕府の要職に就き、その宿場の三州吉田宿は、家康が東海道五十三次を制定した當初からの宿場として大いに榮えた。
吉田宿は、吉田藩の城下町に田町(たまち)、坂下(さかした)町、船町(ふなまち)を加えた地域であり、東海道沿いの表町十二町(船町・田町・坂下町・上傳(かみでん)馬(ま)町・本町・札(ふだ)木(ぎ)町・呉(ご)服(ふく)町・曲尺手(かねんて)町・鍛冶町・下モ町・今新町・元新町)と、東海道南側の裏町十二町(天王町・萱(かや)町(まち)・指(さし)笠(がさ)町・御輿休町・魚(うお)町(まち)・垉六町・下リ町・紺屋町・利町(とぎまち)・元鍛冶町・手間町・世古(せこ)町)の、計二十四町によって構成されていた。町竝みの長さは二十三町三十間(約二.六㌔㍍)、本陣は二軒、脇本陣一軒、享和二(一八〇二)年には旅籠六十五軒もが建ち竝び、「吉田通れば二階から招く しかも鹿の子の振り袖が」と巷間で唄われたほどに飯盛女が多いことでも知られ、たいそうな賑わいを見せた宿場であった。
加えて、東海道で橋が架けられていたのは、この吉田橋と、岡崎の矢作橋、琵琶湖の瀬田橋の三か所のみ。中で、橋が架かる川に面して城があるのは吉田だけとあって、吉田城と吉田川(豊川(とよがわ)の江戸時代の一般的な呼稱)、吉田橋をセットで描いた浮世繪が多く見られた。
吉田が廣く知られていたから、「女大力」の舞臺が吉田城に設定された最大の理由だろう。
『穂国幻史考(増補新版)』第三話「牛窪考」附録二「吉田城沿革と、三州吉田の怪猫騷動」の「結びにかえて」では、大学の同級生で、当時、鳥取市民図書館に勤務していた田村晴夫氏が執筆するに当たり、必要な資料を提供してくれたことに対する感謝を述べた。
田村晴夫氏は、『穂国幻史考』の題号の揮毫者で、凡鳥を雅号とする。