2022年08月03日
ISC21六月月例会「『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む」の感想等 1
21 世紀スポーツ文化研究所の六月の月例会で、四月に刊行した『穂国幻史考(増補新版)』について話をしないかと、河野文子さんから連絡を頂いた。
21 世紀スポーツ文化研究所の研究会ということで、膨大な量の拙著『穂国幻史考(増補新版)』から、第三話「牛窪考」附録一の「相撲雑話」をテーマに話をしたいと思っていた。
実を言えば、河野さんから連絡を貰った時点で、私は大腸がんが再度再発し、治療も尽き、持って三ヶ月と覚悟していたこともあり、心残りがないように、どういった内容の話をしようかと考えていたのだ。
治療も尽きとはいうものの、手術で再発した腫瘍を除去することさえ叶えば、治る可能性も無きにしも非ず。ただ腫瘍が小腸や尿管に複雑に絡んで癒着しており、一般の医療機関では手術は無理だと端から断られていた。ところが、主治医の豊川市民病院消化器内科部長の宮木知克医師は、「柴田さんはまだ元気だから」と、手術の出来る機関を探して提示。アグレッシブな手術に積極的に取り組んでいる滋賀県草津市の淡海医療センターなら、手術が可能かもしれないから、一か八か行ってみないかと。提案を受けて決心し、宮木医師の紹介状を携えて、淡海医療センターへと向かい、六月一七日に入院した。
その前日に、急いで「相撲雑話―野見宿禰を中心に」を半日で書き上げ、河野さんにお送りし、21 世紀スポーツ文化研究所の研究会の六月月例会には、その書き上げた原稿「相撲雑話―野見宿禰を中心に」をレジュメとして使うという形での参加となった。
後日、月例会の動画を送って頂いたが、入院中で残念ながら動画は直接は拝見していない。ただ携帯電話を介して、その音声は聞いている。 以下、聞いた音声の記憶を基に、月例会の内容と、それに対する私の意見や感想等を記させて貰いたいと思う。
21 世紀スポーツ文化研究所の六月の月例会では、私がオンラインでの参加も出来なくなったため、「『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む」といったタイトルで、船井廣則先生、瀧元誠樹先生、竹村匡弥さんが、それぞれ話をされた。
船井先生は、牛久保の若葉祭の俗称・うなごうじ祭についての、〝うなごうじは「笹踊」の囃子方が道路に寝転び蛆蟲のようだとする、うなごうじ=蛆蟲由來説は根據がない〟とする私の言説を述べた『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺一「「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と豊川流域の「笹踊」」の最初の見出し「「うなごうじ祭」は「蛆蟲祭」ではない」、及びそれを受けて蛆蟲由來説の根據の無さを詳細に考證した『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺一補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」を要領よく説明され、『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺一補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」の四つ目の見出し「「うなごうじ祭」という通稱についての假説」の四つ目の小見出し「繩文に由來する灰塚野の祭りが「うなごうじ」の語源」で、私が提示した〝「ウナゴウジ」は、"una・kuta・usi(灰捨場)"が訛化したものとの私の假説を『穂国幻史考(増補新版)』第三話第一章から第五章での牛久保("husko・bet・kus"(古い・川・通る))という地名、それ以前のトコサブ("tok・o・sap"(凸起物(堆積物等)が、そこで群をなして浜(河岸)へ競せり出だしている))という地名は繩文に由來する〟との私の言説を踏まえて、簡潔に説明された。
ここで補足すれば、若葉祭の起源について、『牛窪密談記』(元祿一四(一七〇一)年成立 元祿一〇(一六九七)年ごろに成立した『牛窪記』(作者不詳)を、牛久保の人・中神善九郎行忠(?~一七一一)が加筆訂正したもの)は、
牧野古白入道 或歳四月八日此若宮ヘ參詣アリシニ 其ノ主今川氏ノ許ヨリ使節到來シテ曰 當國渥美郡馬見塚村ノ邊ニテ要害ノ地理ヲ見立 一城ヲ築クヘシト 命令承リテ大ニ悦ヒ 家門ノ譽レ何事カ是ニ如カン 殊ニ當社ヘ參詣ノ折柄此吉事ヲ聞クコト 偏ニ當宮ノ御惠ナリト 取リアヘス庭前ノ柏葉ニテ神酒ヲ獻シ 其身モ快ク三獻ヲ傾ケヌ 猶喜ビノ餘リ 家紋ノ菊桐ヲ柏葉ニ替ヘヌルハ此所以ナリト 古老ノ云傳ヘナリ カクテ年々宗祇 宗長ノ兩子發句ヲ詠シテ若葉ニ結ヒ神前ニ供ヘ奉リ 牧野氏武運長久ノ祈念アリシトソ 是ヲ若葉ノ祭ト號ス
と、「發句ヲ詠シテ若葉ニ結ヒ神前ニ供ヘ奉」ったことから、「若葉祭」の名が付いた旨を述べる。
私は、發句を結んだ若葉を言擧の儀式として、灰にし、流したと考えている。その流した場所は、牧野古白が居城とした一色城の東の灰塚野(現豊川市中条町鴻ノ巣辺り)であったのだろう。故に私は、"una・kuta・usi(灰捨場)"が訛化し、「ウナゴウジ」になったとの結論を導いた。
船井先生は以上の説明を踏まえた上で、うなごうじ=蛆蟲由來説という妄説の根據となった〝若葉祭で「笹踊」を「笹踊歌」を唄い囃す囃子方・ヤンヨウガミという名も、繩文に由來するのではないか〟と、私に質問を投げ掛けられた。
ここにいう「笹踊」とは、笹を持って踊る踊りではなく、金襴の唐子衣裝に笠を冠り、胸に太鼓を付けた三人の踊り手による風流囃子ものであり、江戸時代の朝鮮通信使の影響を受けた踊りで、豊川下流域の十九ヶ所の地区で奉納される神事藝能である。「笹踊」の名は、韓国・朝鮮語で三人戯を意味する"ses saram nori"が訛って、「笹踊」と呼ぶようになった。故に「ささおどり」の「お」にアクセントが来るのではなく、平板で発音される。
「笹踊」を最初に始めたのは、城内天王(現吉田神社(豊橋市関屋町))であり、朝鮮通信使の正使・副使は、吉田では、孤峰山淨業院悟眞寺(豊橋市関屋町/浄土宗)に宿泊した。関屋町は、吉田天王社の氏子であり、関屋町内に悟眞寺はある。「笹踊」の囃子方をヤンヨウガミと呼ぶのは牛久保のみではない。ただし御馬(豊川市御津町御馬)では、「笹踊」の踊り手をヤンヨウガミと呼ぶ。
ヤンヨウガミは、『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺一補遺二「豊川流域の特殊神事「笹踊」の考察」の参考資料「各社の「笹踊歌」の歌詞」を見ればわかるように、「笹踊歌」の囃子詞であり、若葉祭では、「サアゲニモサア ヤンヨウ神もヤンヨウ」と囃す。
囃子詞とは、歌謡の意味に関係なく、その中や終わりに入れた、調子をとるための詞をいう。
信濃川の河口に架かる現在の萬代橋 (新潟市中央区の国道七号線に架かる橋梁/国指定重要文化財/現在のものは三代目)の完成を記念して、昭和四(一九二九)年に北原白秋(一八八五~一九四二)が作詞した『新潟小唄』の囃子詞の「ハラショ」は、ロシア語で、「良い」「すばらしい」などを意味する"хорошо"に由來する。『新潟小唄』の囃子詞は、「ハーサ、ハラショ、ハラショノロンロン」と、「ハラショ(хорошо)」以外は全く意味を成していない。
繰り返しになるが、若葉祭では、「サアゲニモサア ヤンヨウ神もヤンヨウ」と囃す。この「サアゲニモサア」の「ゲニモ」は、朝鮮通信使の正使・副使は、吉田では、悟眞寺に宿泊していたことを考えれば、寺に泊まっている貴人を意味する「客任gek nim」が訛化したものと考えられる。
「客任」のように"k"と"n"が連続する場合、子音同化により先の"k"が"ng"に変化し、発音は"geng-nim"になる。
船井先生が問題にしているヤンヨウガミであるが、八百萬神の漢字を當てるところもあるが、上記のように、囃子詞は歌謡の意味に関係なく、その中や終わりに入れた調子をとるための詞をいうことから、八百萬神は當字と考えられる。
なぜなら、「笹踊」は風流囃子物であり、風流囃子物は神を囃すものであって、當然、神そのものではなく、「笹踊」の囃子方が神であるわけもない。「ヤンヨウ神」は「八百萬神」であろうはずがない。
上記のように、「笹踊」を最初に始めたのは、城内天王の祭禮であり、小笠原氏が、藩主であった時代であったと推測される。
その小笠原家の江戸上屋敷は日比谷公園の南側の一部で、一㌔ほど離れて八重洲がある。八重洲の地名は、ヤン・ヨーステン(Jan Joosten van Loodensteijn/一五五六?~一六二三)の日本名「耶楊子」に由來する。小笠原氏が藩主だったころの吉田では、「耶楊子」あるいは「八代洲」という日本語にはない響きの言葉も身近なものであった可能性が高い。
その不思議な響きの言葉を、風流囃子物である「笹踊」の「囃子詞」として採り入れたというのが、私の見解である(『穂国幻史考(増補新版)』二〇四三~二〇五一頁参照)。
この船井先生の話について、河本洋子先生が、山本勘助(?~一五六一)が主役の二〇〇七年の大河ドラマ「風林火山」で、牛久保に興味を持ったと。
東海道御油宿(寶飯郡御油村(現豊川市御油町))の早川彦右衞門(一八六二~一九一八)が明治二四(一八九一)年に編纂した『三河国宝飯郡誌』(国書刊行会復刻版一四八頁)は、『續玉石雜志』に、「推挙ノ縁ヲ求メント牛窪ニ至リ、地頭牛窪弥六郎之ヲ扶持シケル」とある旨を引きはするが、「其出所ヲ詳ニセズ」とその根據は明らかでないことを指摘している。
河本先生の旧姓は、牛窪。丹後田邊藩の藩廳が置かれた舞鶴の出身と聞く。
太田 亮(一八八四~一九五六)著『姓氏家系大辭典』の「牛窪」の項には、「1 田姓牧野氏流 三河國寶飯郡牛久保邑より起る。牧野氏族なり。マキノ條を見よ。田邊牧野藩の重臣なり」(第一卷六四五頁)とある。
河本先生が、大河ドラマ「風林火山」を見て、牛久保に興味を持たれたのもある種縁のようなもので当然であったかもしれない。
なお、山本勘助について『牛窪密談記』は、「山本勘助ハ明應九年八月十五日 參州八名郡加茂鄕ニテ出生」とし、その舊八名郡の宇利う り
莊黒田村(新城市黒田)には、『菅姓山本家系圖』が殘り、『菅姓山本系圖』によれば、勘助の本姓も菅原。菅原姓の遠祖は、野見宿禰である。
参照:船井先生のサイト
http://www.tees.ne.jp/~sieg922/contents/Recentreport.html#20220626
21 世紀スポーツ文化研究所の研究会ということで、膨大な量の拙著『穂国幻史考(増補新版)』から、第三話「牛窪考」附録一の「相撲雑話」をテーマに話をしたいと思っていた。
実を言えば、河野さんから連絡を貰った時点で、私は大腸がんが再度再発し、治療も尽き、持って三ヶ月と覚悟していたこともあり、心残りがないように、どういった内容の話をしようかと考えていたのだ。
治療も尽きとはいうものの、手術で再発した腫瘍を除去することさえ叶えば、治る可能性も無きにしも非ず。ただ腫瘍が小腸や尿管に複雑に絡んで癒着しており、一般の医療機関では手術は無理だと端から断られていた。ところが、主治医の豊川市民病院消化器内科部長の宮木知克医師は、「柴田さんはまだ元気だから」と、手術の出来る機関を探して提示。アグレッシブな手術に積極的に取り組んでいる滋賀県草津市の淡海医療センターなら、手術が可能かもしれないから、一か八か行ってみないかと。提案を受けて決心し、宮木医師の紹介状を携えて、淡海医療センターへと向かい、六月一七日に入院した。
その前日に、急いで「相撲雑話―野見宿禰を中心に」を半日で書き上げ、河野さんにお送りし、21 世紀スポーツ文化研究所の研究会の六月月例会には、その書き上げた原稿「相撲雑話―野見宿禰を中心に」をレジュメとして使うという形での参加となった。
後日、月例会の動画を送って頂いたが、入院中で残念ながら動画は直接は拝見していない。ただ携帯電話を介して、その音声は聞いている。 以下、聞いた音声の記憶を基に、月例会の内容と、それに対する私の意見や感想等を記させて貰いたいと思う。
21 世紀スポーツ文化研究所の六月の月例会では、私がオンラインでの参加も出来なくなったため、「『穂国幻史考』(柴田晴廣著)を読む」といったタイトルで、船井廣則先生、瀧元誠樹先生、竹村匡弥さんが、それぞれ話をされた。
船井先生は、牛久保の若葉祭の俗称・うなごうじ祭についての、〝うなごうじは「笹踊」の囃子方が道路に寝転び蛆蟲のようだとする、うなごうじ=蛆蟲由來説は根據がない〟とする私の言説を述べた『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺一「「若葉祭(うなごうじ祭)」の起源と豊川流域の「笹踊」」の最初の見出し「「うなごうじ祭」は「蛆蟲祭」ではない」、及びそれを受けて蛆蟲由來説の根據の無さを詳細に考證した『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺一補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」を要領よく説明され、『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺一補遺一「「うなごうじ祭」名稱考」の四つ目の見出し「「うなごうじ祭」という通稱についての假説」の四つ目の小見出し「繩文に由來する灰塚野の祭りが「うなごうじ」の語源」で、私が提示した〝「ウナゴウジ」は、"una・kuta・usi(灰捨場)"が訛化したものとの私の假説を『穂国幻史考(増補新版)』第三話第一章から第五章での牛久保("husko・bet・kus"(古い・川・通る))という地名、それ以前のトコサブ("tok・o・sap"(凸起物(堆積物等)が、そこで群をなして浜(河岸)へ競せり出だしている))という地名は繩文に由來する〟との私の言説を踏まえて、簡潔に説明された。
ここで補足すれば、若葉祭の起源について、『牛窪密談記』(元祿一四(一七〇一)年成立 元祿一〇(一六九七)年ごろに成立した『牛窪記』(作者不詳)を、牛久保の人・中神善九郎行忠(?~一七一一)が加筆訂正したもの)は、
牧野古白入道 或歳四月八日此若宮ヘ參詣アリシニ 其ノ主今川氏ノ許ヨリ使節到來シテ曰 當國渥美郡馬見塚村ノ邊ニテ要害ノ地理ヲ見立 一城ヲ築クヘシト 命令承リテ大ニ悦ヒ 家門ノ譽レ何事カ是ニ如カン 殊ニ當社ヘ參詣ノ折柄此吉事ヲ聞クコト 偏ニ當宮ノ御惠ナリト 取リアヘス庭前ノ柏葉ニテ神酒ヲ獻シ 其身モ快ク三獻ヲ傾ケヌ 猶喜ビノ餘リ 家紋ノ菊桐ヲ柏葉ニ替ヘヌルハ此所以ナリト 古老ノ云傳ヘナリ カクテ年々宗祇 宗長ノ兩子發句ヲ詠シテ若葉ニ結ヒ神前ニ供ヘ奉リ 牧野氏武運長久ノ祈念アリシトソ 是ヲ若葉ノ祭ト號ス
と、「發句ヲ詠シテ若葉ニ結ヒ神前ニ供ヘ奉」ったことから、「若葉祭」の名が付いた旨を述べる。
私は、發句を結んだ若葉を言擧の儀式として、灰にし、流したと考えている。その流した場所は、牧野古白が居城とした一色城の東の灰塚野(現豊川市中条町鴻ノ巣辺り)であったのだろう。故に私は、"una・kuta・usi(灰捨場)"が訛化し、「ウナゴウジ」になったとの結論を導いた。
船井先生は以上の説明を踏まえた上で、うなごうじ=蛆蟲由來説という妄説の根據となった〝若葉祭で「笹踊」を「笹踊歌」を唄い囃す囃子方・ヤンヨウガミという名も、繩文に由來するのではないか〟と、私に質問を投げ掛けられた。
ここにいう「笹踊」とは、笹を持って踊る踊りではなく、金襴の唐子衣裝に笠を冠り、胸に太鼓を付けた三人の踊り手による風流囃子ものであり、江戸時代の朝鮮通信使の影響を受けた踊りで、豊川下流域の十九ヶ所の地区で奉納される神事藝能である。「笹踊」の名は、韓国・朝鮮語で三人戯を意味する"ses saram nori"が訛って、「笹踊」と呼ぶようになった。故に「ささおどり」の「お」にアクセントが来るのではなく、平板で発音される。
「笹踊」を最初に始めたのは、城内天王(現吉田神社(豊橋市関屋町))であり、朝鮮通信使の正使・副使は、吉田では、孤峰山淨業院悟眞寺(豊橋市関屋町/浄土宗)に宿泊した。関屋町は、吉田天王社の氏子であり、関屋町内に悟眞寺はある。「笹踊」の囃子方をヤンヨウガミと呼ぶのは牛久保のみではない。ただし御馬(豊川市御津町御馬)では、「笹踊」の踊り手をヤンヨウガミと呼ぶ。
ヤンヨウガミは、『穂国幻史考(増補新版)』第三話拾遺一補遺二「豊川流域の特殊神事「笹踊」の考察」の参考資料「各社の「笹踊歌」の歌詞」を見ればわかるように、「笹踊歌」の囃子詞であり、若葉祭では、「サアゲニモサア ヤンヨウ神もヤンヨウ」と囃す。
囃子詞とは、歌謡の意味に関係なく、その中や終わりに入れた、調子をとるための詞をいう。
信濃川の河口に架かる現在の萬代橋 (新潟市中央区の国道七号線に架かる橋梁/国指定重要文化財/現在のものは三代目)の完成を記念して、昭和四(一九二九)年に北原白秋(一八八五~一九四二)が作詞した『新潟小唄』の囃子詞の「ハラショ」は、ロシア語で、「良い」「すばらしい」などを意味する"хорошо"に由來する。『新潟小唄』の囃子詞は、「ハーサ、ハラショ、ハラショノロンロン」と、「ハラショ(хорошо)」以外は全く意味を成していない。
繰り返しになるが、若葉祭では、「サアゲニモサア ヤンヨウ神もヤンヨウ」と囃す。この「サアゲニモサア」の「ゲニモ」は、朝鮮通信使の正使・副使は、吉田では、悟眞寺に宿泊していたことを考えれば、寺に泊まっている貴人を意味する「客任gek nim」が訛化したものと考えられる。
「客任」のように"k"と"n"が連続する場合、子音同化により先の"k"が"ng"に変化し、発音は"geng-nim"になる。
船井先生が問題にしているヤンヨウガミであるが、八百萬神の漢字を當てるところもあるが、上記のように、囃子詞は歌謡の意味に関係なく、その中や終わりに入れた調子をとるための詞をいうことから、八百萬神は當字と考えられる。
なぜなら、「笹踊」は風流囃子物であり、風流囃子物は神を囃すものであって、當然、神そのものではなく、「笹踊」の囃子方が神であるわけもない。「ヤンヨウ神」は「八百萬神」であろうはずがない。
上記のように、「笹踊」を最初に始めたのは、城内天王の祭禮であり、小笠原氏が、藩主であった時代であったと推測される。
その小笠原家の江戸上屋敷は日比谷公園の南側の一部で、一㌔ほど離れて八重洲がある。八重洲の地名は、ヤン・ヨーステン(Jan Joosten van Loodensteijn/一五五六?~一六二三)の日本名「耶楊子」に由來する。小笠原氏が藩主だったころの吉田では、「耶楊子」あるいは「八代洲」という日本語にはない響きの言葉も身近なものであった可能性が高い。
その不思議な響きの言葉を、風流囃子物である「笹踊」の「囃子詞」として採り入れたというのが、私の見解である(『穂国幻史考(増補新版)』二〇四三~二〇五一頁参照)。
この船井先生の話について、河本洋子先生が、山本勘助(?~一五六一)が主役の二〇〇七年の大河ドラマ「風林火山」で、牛久保に興味を持ったと。
東海道御油宿(寶飯郡御油村(現豊川市御油町))の早川彦右衞門(一八六二~一九一八)が明治二四(一八九一)年に編纂した『三河国宝飯郡誌』(国書刊行会復刻版一四八頁)は、『續玉石雜志』に、「推挙ノ縁ヲ求メント牛窪ニ至リ、地頭牛窪弥六郎之ヲ扶持シケル」とある旨を引きはするが、「其出所ヲ詳ニセズ」とその根據は明らかでないことを指摘している。
河本先生の旧姓は、牛窪。丹後田邊藩の藩廳が置かれた舞鶴の出身と聞く。
太田 亮(一八八四~一九五六)著『姓氏家系大辭典』の「牛窪」の項には、「1 田姓牧野氏流 三河國寶飯郡牛久保邑より起る。牧野氏族なり。マキノ條を見よ。田邊牧野藩の重臣なり」(第一卷六四五頁)とある。
河本先生が、大河ドラマ「風林火山」を見て、牛久保に興味を持たれたのもある種縁のようなもので当然であったかもしれない。
なお、山本勘助について『牛窪密談記』は、「山本勘助ハ明應九年八月十五日 參州八名郡加茂鄕ニテ出生」とし、その舊八名郡の宇利う り
莊黒田村(新城市黒田)には、『菅姓山本家系圖』が殘り、『菅姓山本系圖』によれば、勘助の本姓も菅原。菅原姓の遠祖は、野見宿禰である。
参照:船井先生のサイト
http://www.tees.ne.jp/~sieg922/contents/Recentreport.html#20220626
Posted by 柴田晴廣 at 00:13│Comments(0)
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