2017年12月01日
横綱とは
「大相撲」、「弟弟子?」と、相撲に関する話を「雑談」のカテゴリでアップロードしましたが、拙著『牛窪考(増補改訂版)』の附録1は、「相撲雑話」です(http://tokosabu.dosugoi.net/e996292.html)。
「相撲雑話」は、野見宿禰と當麻蹴速の死闘はむろん、節会時代の相撲から勧請相撲、そして大相撲まで考察したものです。
知り得る限り、一般書はもとより、相撲の通史を論じた専門書も見たことがありません。みな、節会時代から、いきなり江戸の勧請相撲へと飛び、中世の相撲に関する考察はすっぽり抜けているのです。まるで、中世が抜けているという不自然さに、誰も気付いてもいないかのようです。「相撲雑話」を書いたのは、相撲の通史がないことからです。
「大相撲」、「弟弟子?」も、当然ながら、こうした通史を踏まえて書いています。
横綱についても同様に、相撲の通史を押さえた上で、その歴史的背景を踏まえて、書いてみようかと思います。
ネット上では、横綱とは、大相撲の番付における最高位の称号、といった解釈が一般的です。
ところが、横綱の文字が大相撲の番付で初めて登場したのは、明治23(1890)年5月場所です。これは、16代横綱の初代西ノ海嘉治郎(1855~1908)が、同年1月場所後に横綱免許を受けたものの、1月場所の成績は、17代横綱となる初代小錦八十吉(1866~1914)に劣り(小錦は入幕から3年余り無敗で、この5月場所に大關昇進)、番付上は小錦が東の正大關、西ノ海は東の張出大關となることに西ノ海が不満を示し、東京相撲協會(現在の財団法人日本相撲協会の前身の一つ)が妥協案として番付上、西ノ海を横綱としたのが始まりです。
現在でも、横綱がおっても、大関が不在のときの横綱の番付の表記は、横綱大関。
大相撲における最高位は大関であり、横綱は、大関のうち、相撲の家元・吉田追風家から横綱を締めることを許された力士ということになります。
ちなみに、第40代横綱東富士(1948年10月場所後に横綱昇進)までは、吉田追風家の横綱免許によって横綱が認定されていました。
話は変わって、千秋楽には、これより三役と結び前三番が役相撲になっていますが、三役とは大関、関脇、小結をいいます。
つまり、本来のこれより三役は、千秋楽の結びの一番は大関同士、その前が関脇同士、そして、最初のこれより三役が小結同士の取り組みだったわけです。
さて、先ほど「張出大関」の話をしましたが、本来、三役力士は、一人ずつだったわけで、それにふさわしい成績を挙げた場合に、東西一人ずつの三役を複数認め、番付の欄外に載せたことから、張出の言葉が生まれます。
本来、三役は、東西一人ずつで、三役は大関、関脇、小結ですから、日馬富士が引退するまでは、三役という本来の役からいえば、大関が六人もいたわけです。
つまり、張出大関が四人もいたわけです。
歴史的に見れば、四横綱なんていうのは、ありがたがるべきものではなく、大相撲史上においても異常なことなのです。
先にも書きましたが、ネット上での一般的な解釈は、横綱は大相撲の番付における最高位ということになります。
一般にいうチャンピオンとどう違うか?
たとえば、プロボクシングやプロレスのチャンピオン。これは原則として前チャンピオンと対戦し、前チャンピオンを倒した者が現チャンピオンになります。
学生横綱は、全国学生相撲選手権大会の個人戦の優勝者に贈られる称号ですから、学生横綱は学生チャンピオンということになります。
ところが、学生横綱と異なり、大相撲の横綱はチャンピオンではありません。
そもそも、大相撲において、個人優勝制度の導入は歴史が浅く、正式に導入されたのは大正15年のことです。
東西の方屋に分かれた団体戦というのが、大相撲を含めた相撲のあるべき姿なのです。
節会時代の相撲は、東西の方屋に分かれた対抗戦でした。
そして、節会で、最後の取り組みに登場する力士を、最手(ほて)といいました。大関のルーツです。
千秋楽の結びの一番は、この最手同士の取組をルーツにするわけです。
つまり、大相撲の横綱とは、興業の最後の取組を務める力士ということになります。
プロボクシングやプロレスの興業では、いくつかの試合が組まれる場合、最後の試合はメインイベント、その前の試合はセミファイナルといわれます。
ところが、現在、大相撲では、一場所十五日間の興業が組まれております。
序盤戦の結びの一番なんていうのは、メインイベントでもなんでもありません。
また、千秋楽以前に優勝が決まっていれば、千秋楽の結びの一番がメインイベントのわけがありません。
横綱=メインイベンターでもないわけです。
先に述べたように、大相撲で個人優勝制度が導入されたのは、大相撲の歴史からいっても、最近のことです。
優勝回数が多いから大横綱なんていうのは、大相撲の歴史すら知らない者の戯言です。
まして節会時代の相撲から見れば、横綱は取り組みの最後を務める力士に過ぎないのです。
勝ち抜き勝負という点で異なりますが、柔道や剣道の団体戦の先鋒、次峰、中堅、副将、大将といった称号と、小結、関脇、大関は変わることはありません。
柔道、特に高専柔道では、勝ち抜き勝負ということもあり、最後に登場する大将が必ずしも実力者であったわけでもありません。
千秋楽の結びの一番が必ずしもメインイベントでないことを考慮すれば、勝ち抜き勝負の大将と変わらないのが横綱といえます。
横綱審議委員などといっていますが、こんなことすら、知らないようです。
もっとも、政府の諮問機関を構成する有識者なんていうのも、どこが有識かと疑うような者ばかりですが。
「相撲雑話」は、野見宿禰と當麻蹴速の死闘はむろん、節会時代の相撲から勧請相撲、そして大相撲まで考察したものです。
知り得る限り、一般書はもとより、相撲の通史を論じた専門書も見たことがありません。みな、節会時代から、いきなり江戸の勧請相撲へと飛び、中世の相撲に関する考察はすっぽり抜けているのです。まるで、中世が抜けているという不自然さに、誰も気付いてもいないかのようです。「相撲雑話」を書いたのは、相撲の通史がないことからです。
「大相撲」、「弟弟子?」も、当然ながら、こうした通史を踏まえて書いています。
横綱についても同様に、相撲の通史を押さえた上で、その歴史的背景を踏まえて、書いてみようかと思います。
ネット上では、横綱とは、大相撲の番付における最高位の称号、といった解釈が一般的です。
ところが、横綱の文字が大相撲の番付で初めて登場したのは、明治23(1890)年5月場所です。これは、16代横綱の初代西ノ海嘉治郎(1855~1908)が、同年1月場所後に横綱免許を受けたものの、1月場所の成績は、17代横綱となる初代小錦八十吉(1866~1914)に劣り(小錦は入幕から3年余り無敗で、この5月場所に大關昇進)、番付上は小錦が東の正大關、西ノ海は東の張出大關となることに西ノ海が不満を示し、東京相撲協會(現在の財団法人日本相撲協会の前身の一つ)が妥協案として番付上、西ノ海を横綱としたのが始まりです。
現在でも、横綱がおっても、大関が不在のときの横綱の番付の表記は、横綱大関。
大相撲における最高位は大関であり、横綱は、大関のうち、相撲の家元・吉田追風家から横綱を締めることを許された力士ということになります。
ちなみに、第40代横綱東富士(1948年10月場所後に横綱昇進)までは、吉田追風家の横綱免許によって横綱が認定されていました。
話は変わって、千秋楽には、これより三役と結び前三番が役相撲になっていますが、三役とは大関、関脇、小結をいいます。
つまり、本来のこれより三役は、千秋楽の結びの一番は大関同士、その前が関脇同士、そして、最初のこれより三役が小結同士の取り組みだったわけです。
さて、先ほど「張出大関」の話をしましたが、本来、三役力士は、一人ずつだったわけで、それにふさわしい成績を挙げた場合に、東西一人ずつの三役を複数認め、番付の欄外に載せたことから、張出の言葉が生まれます。
本来、三役は、東西一人ずつで、三役は大関、関脇、小結ですから、日馬富士が引退するまでは、三役という本来の役からいえば、大関が六人もいたわけです。
つまり、張出大関が四人もいたわけです。
歴史的に見れば、四横綱なんていうのは、ありがたがるべきものではなく、大相撲史上においても異常なことなのです。
先にも書きましたが、ネット上での一般的な解釈は、横綱は大相撲の番付における最高位ということになります。
一般にいうチャンピオンとどう違うか?
たとえば、プロボクシングやプロレスのチャンピオン。これは原則として前チャンピオンと対戦し、前チャンピオンを倒した者が現チャンピオンになります。
学生横綱は、全国学生相撲選手権大会の個人戦の優勝者に贈られる称号ですから、学生横綱は学生チャンピオンということになります。
ところが、学生横綱と異なり、大相撲の横綱はチャンピオンではありません。
そもそも、大相撲において、個人優勝制度の導入は歴史が浅く、正式に導入されたのは大正15年のことです。
東西の方屋に分かれた団体戦というのが、大相撲を含めた相撲のあるべき姿なのです。
節会時代の相撲は、東西の方屋に分かれた対抗戦でした。
そして、節会で、最後の取り組みに登場する力士を、最手(ほて)といいました。大関のルーツです。
千秋楽の結びの一番は、この最手同士の取組をルーツにするわけです。
つまり、大相撲の横綱とは、興業の最後の取組を務める力士ということになります。
プロボクシングやプロレスの興業では、いくつかの試合が組まれる場合、最後の試合はメインイベント、その前の試合はセミファイナルといわれます。
ところが、現在、大相撲では、一場所十五日間の興業が組まれております。
序盤戦の結びの一番なんていうのは、メインイベントでもなんでもありません。
また、千秋楽以前に優勝が決まっていれば、千秋楽の結びの一番がメインイベントのわけがありません。
横綱=メインイベンターでもないわけです。
先に述べたように、大相撲で個人優勝制度が導入されたのは、大相撲の歴史からいっても、最近のことです。
優勝回数が多いから大横綱なんていうのは、大相撲の歴史すら知らない者の戯言です。
まして節会時代の相撲から見れば、横綱は取り組みの最後を務める力士に過ぎないのです。
勝ち抜き勝負という点で異なりますが、柔道や剣道の団体戦の先鋒、次峰、中堅、副将、大将といった称号と、小結、関脇、大関は変わることはありません。
柔道、特に高専柔道では、勝ち抜き勝負ということもあり、最後に登場する大将が必ずしも実力者であったわけでもありません。
千秋楽の結びの一番が必ずしもメインイベントでないことを考慮すれば、勝ち抜き勝負の大将と変わらないのが横綱といえます。
横綱審議委員などといっていますが、こんなことすら、知らないようです。
もっとも、政府の諮問機関を構成する有識者なんていうのも、どこが有識かと疑うような者ばかりですが。
Posted by 柴田晴廣 at 19:28│Comments(0)
│牛窪考(増補版)