2020年02月15日
「菟足神社と徐福伝説」なる説明板1
『牛窪考(増補改訂版)』拾遺五「検証 東三河の徐福伝説」の二つ目の見出し「菟足神社の徐福伝説説明板を検証する」の最後の小見出し「生贄神事は中国的か――奥三河の鹿射神事及び諏訪の御頭祭と菟足神社の生贄神事」で、東三河の獅子頭のお渡りについて言及してあり、気がかりなことがあり、鬼祭のお頭様のお渡りを見に行ったわけですが、お旅所の談合神社の朱印が検索した限りにおいて、ヒットしなかったことから、談合神社の朱印をアップしておいてやろう(笑)と軽い気持ちで筆を執りましたが、続きを書き続けております。
さて、「菟足神社と徐福伝説」なる説明板の執筆及び設置の発端は、船町の橋本山龍雲寺の住職・近藤信彦が山本紀綱の義姉に送った礼状でした。
祖の礼状には、「菟足神社はその創始者が秦氏と伝えられている。その祭神(祖神)は、中国の神とみえ、古来その祭礼には豚猪等の犠牲(いけにえ)を供え、その社の近くに菱木(ひしき)野(の)というところがある」との一節があります。
これに対応して「菟足神社と徐福伝説」なる説明板には、
二 菟足神社の創設者は、「秦氏」ともいわれている。
菟足神社県社昇格記急碑(大正一一年一二月二二日昇格)に、「菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は(中略)雄略天皇の御世、穂の国造に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木浜に宮造して斎ひまつりしを天武の白鳳一五年四月一一日神の御教のまにまに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり」と記されている。
と記されている。
早川彦右衞門(1862~1918)著『三河國寶飯郡誌』には、菟足神社所蔵の「社傳本録」を引用し、その「社傳本録」には、菟足神社を現在地に遷座したのは、秦石勝とある。
ところが、『神社を中心としたる寶飯郡史』には、そのような記載は全くない。
『神社を中心としたる寶飯郡史』の実質的な著者は、太田亮(1884~1956)。大著『姓氏家系大辭典』の著者でもある。
その『姓氏家系大辭典』にも、菟足神社と秦石勝との関係については書いてない。
つまり姓氏家系の大家・太田亮にとっては、菟足神社が所蔵する「社傳本録」の記載内容など取るに足らないものということだったのだろう。
『神社を中心としたる寶飯郡史』は、寶飯郡神職會が発行したものだ。当然、菟足神社神主の川出氏もこの発行に関わっている。つまり菟足神社の神主家自体が、菟足神社の現在地への遷座に秦川勝が関わっていたなど思ってもいなかったということだ。
仮に、秦石勝が菟足神社の遷座に関わっていたとしても、秦石勝が徐福の子孫とする基本文献はない。
だいたい、徐福の子孫が旗を名乗ると考えること自体、中国大陸における姓の不理解に基づくものだ。
この点について説明したのが、拾遺五「検証 東三河の徐福伝説」の最初の見出し「山本紀綱著『日本に生きる徐福の伝承』が独り歩きした小坂井の徐福伝説」の三つ目の小見出し「徐福の子孫が秦氏を名乗るのか――徐福伝説成立の下地」である。
近藤信彦は、「その祭神(祖神)は、中国の神とみえ」と菟足神社の祭神を中国の神だとしているが、さすがに「菟足神社と徐福伝説」の執筆者は、そこまで書いていない。
菟足神社の祭神の菟上足尼は、「菟足神社と徐福伝説」に記されるように、穗國造に任じられている(『先代舊事本紀』卷十「國造本紀」の穗國造の項)。
ところが、『新撰姓氏録』を始めとする基本文献を紐解いても、菟上足尼と同祖とされる生江臣が蛮族であるとの記述を見つけることは出来ない。
事の発端となった近藤の礼状は、かなりいい加減なものなのだ。
さて、「菟足神社と徐福伝説」なる説明板の執筆及び設置の発端は、船町の橋本山龍雲寺の住職・近藤信彦が山本紀綱の義姉に送った礼状でした。
祖の礼状には、「菟足神社はその創始者が秦氏と伝えられている。その祭神(祖神)は、中国の神とみえ、古来その祭礼には豚猪等の犠牲(いけにえ)を供え、その社の近くに菱木(ひしき)野(の)というところがある」との一節があります。
これに対応して「菟足神社と徐福伝説」なる説明板には、
二 菟足神社の創設者は、「秦氏」ともいわれている。
菟足神社県社昇格記急碑(大正一一年一二月二二日昇格)に、「菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は(中略)雄略天皇の御世、穂の国造に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木浜に宮造して斎ひまつりしを天武の白鳳一五年四月一一日神の御教のまにまに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり」と記されている。
と記されている。
早川彦右衞門(1862~1918)著『三河國寶飯郡誌』には、菟足神社所蔵の「社傳本録」を引用し、その「社傳本録」には、菟足神社を現在地に遷座したのは、秦石勝とある。
ところが、『神社を中心としたる寶飯郡史』には、そのような記載は全くない。
『神社を中心としたる寶飯郡史』の実質的な著者は、太田亮(1884~1956)。大著『姓氏家系大辭典』の著者でもある。
その『姓氏家系大辭典』にも、菟足神社と秦石勝との関係については書いてない。
つまり姓氏家系の大家・太田亮にとっては、菟足神社が所蔵する「社傳本録」の記載内容など取るに足らないものということだったのだろう。
『神社を中心としたる寶飯郡史』は、寶飯郡神職會が発行したものだ。当然、菟足神社神主の川出氏もこの発行に関わっている。つまり菟足神社の神主家自体が、菟足神社の現在地への遷座に秦川勝が関わっていたなど思ってもいなかったということだ。
仮に、秦石勝が菟足神社の遷座に関わっていたとしても、秦石勝が徐福の子孫とする基本文献はない。
だいたい、徐福の子孫が旗を名乗ると考えること自体、中国大陸における姓の不理解に基づくものだ。
この点について説明したのが、拾遺五「検証 東三河の徐福伝説」の最初の見出し「山本紀綱著『日本に生きる徐福の伝承』が独り歩きした小坂井の徐福伝説」の三つ目の小見出し「徐福の子孫が秦氏を名乗るのか――徐福伝説成立の下地」である。
近藤信彦は、「その祭神(祖神)は、中国の神とみえ」と菟足神社の祭神を中国の神だとしているが、さすがに「菟足神社と徐福伝説」の執筆者は、そこまで書いていない。
菟足神社の祭神の菟上足尼は、「菟足神社と徐福伝説」に記されるように、穗國造に任じられている(『先代舊事本紀』卷十「國造本紀」の穗國造の項)。
ところが、『新撰姓氏録』を始めとする基本文献を紐解いても、菟上足尼と同祖とされる生江臣が蛮族であるとの記述を見つけることは出来ない。
事の発端となった近藤の礼状は、かなりいい加減なものなのだ。
Posted by 柴田晴廣 at 20:02│Comments(0)
│牛窪考(増補版)