2020年02月16日

東三河の獅子

 今月の11日、豊橋の鬼祭のお頭様のお渡りを見学に行った報告から、一連の投稿になりました。
 東三河平野部には、最初に書きましたように、獅子頭が神幸に随伴する祭礼がいくつかあります。
 もちろん、獅子舞が演ぜられる祭礼もあります。
 舊八名郡の賀茂神社の葵祭や舊寶飯郡の大村八所(やどころ)神社など豊川の遊水地では、百足獅子。山間部を含めて万遍なく分布しているのが、獅子神楽系の獅子舞。
 かつて西寶といわれた舊寶飯郡西部の「七福神踊」は、この獅子神楽の流れで考察すべきでしょう(『牛窪考(増補改訂版)』の補遺一や補遺三で言及してあります))。
 そんな東三河の獅子舞の中で、ちょっと毛色が違うのが、御油祭で新丁が担当する二人で舞う一人立ちの獅子舞でしょうか。
 一人立ちの獅子舞といえば、関東を中心に三人で舞う三匹獅子があります。三人のうち、一人の獅子頭は青あるいは緑、他の二人は赤。青の獅子頭は女獅子、赤が男獅子です。
 関東を中心に東国に分布する風流系の獅子舞で、太平洋側の西限は、三年に一度行われえる掛川大祭で瓦町が出す「かんからまち」です。
 新丁の獅子舞に話を戻せば、男獅子が足りないだけで、三匹獅子の定義の要件を満たします。
 私は新丁の獅子舞は、元々は三匹獅子だと考えています。
 その理由を挙げて行きましょう。
 この御油を始め、南の国府大社神社の臨時祭、北の赤坂の宮道天神社の雨乞い祭は、似た出し物の祭礼です。
 その国府の大社神社の臨時祭の際には、拝殿に緑1、赤2の三匹獅子で使われる獅子頭が置かれています。
 おそらく、国府でも三匹獅子が舞われていたのでしょう。
 そうだとすれば、新丁も三匹獅子だった可能性が高くなります。新丁の獅子舞が三匹獅子の太平洋側の西限だったということになります。
 おそらく掛川から御油や国府に伝わったのでしょう。
 なぜ、そう想うか。
 赤坂代官所が、幕末に見附代官所の出先機関に格下げになることが挙げられます。
 これにより中東遠の文化が国府、御油、赤坂に流入して来たと考えられます。
 先に、国府大社神社の臨時祭、御油神社の祭礼、赤坂宮道天神社の雨乞い祭は出し物が似ている旨を述べました。
 御油の音羽を除き、中東遠で手木といわれる軛(くびき)と轅(ながえ)が付く、唐破風の三輪の囃子車が曳かれます。
 一般に三輪の祭車といえば、新城冨永神社の祭礼の山車のように、前輪は、軛と轅の間に付けられます。
 ところが、国府、御油、赤坂の囃子車は変則の三輪なのです。
 軛や轅が付く中東遠の二輪屋台は、掛川や森を中心とした陸屋根のもの、横須賀の三熊野神社の祭礼で曳かれる禰里と呼ばれる江戸の天下祭で曳かれた一本柱万度(赤坂の花車は一本柱万度の原初的なものといえる)です。
 ところが、秋葉権現下社のある浜松市天竜区春野町の犬居や菊川の潮海寺で三年に一度開かれる祇園祭に石段を昇降する囃子車は屋根は唐破風。
 変則の三輪と二輪の違いはありますが、よく似た外観です。
 おそらく森や掛川で陸屋根になる前は唐破風で、それがまず赤坂に伝わってきて、三輪に改造され、それが国府、赤坂、御油のスタンダードになったと思われます。
 国府、御油、赤坂の三輪屋台は、遠州の二輪屋台を改造したものとの私の説は、このウェブログを開設した際、最初にコメントをしていただいたイシヤさんが、賛同しており、イシヤさんが自身のブログでもその旨を発信しています。
 以上の国府、御油、赤坂の祭礼の屋台や新丁の獅子舞については、『牛窪考(増補改訂版)』の補遺三にて言及してあります。



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Posted by 柴田晴廣 at 17:57│Comments(0)牛窪考(増補版)
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