2020年02月20日

『新撰和歌六帖』第二卷「田舎」の項のに収録された藤原家良の歌

 前回「人形振り」について書いた。
 確認のために記せば、「人形振り」とは、人形淨瑠璃を歌舞伎化した演目である丸本物(人形淨瑠璃の戯曲を歌舞伎用に改変し、歌舞伎狂言として上演したものをいう)において役者が人形の動きをまねて演じることをいい、「人形振り」で演じられる登場人物の背後には、必ず人形遣い役が役者の体を支えながらあたかも人形を動かしているかのように演出する。
 つまり「人形振り」とは、人形淨瑠璃の戯曲を歌舞伎狂言ように改変し、役者を人形のように操り、人形淨瑠璃のように演出した芸能ということになろう。
 人形淨瑠璃についても説明して置こう。
 人形淨瑠璃は、三味線を伴奏楽器として太夫が語る音曲に合わせて行う人形芝居である。太夫が語る音曲の代表的なものが、三河矢矧の里の長者の娘・淨瑠璃御前と奧州に下る牛若丸の情話に薬師如来など霊験譚を交えた『淨瑠璃物語』であることから、その音曲が淨瑠璃といわれるようになった。
 薬師の霊験譚とは、矢矧の長者に子が授からず、峰の薬師・鳳来寺に祈願したことから、淨瑠璃御前を授かったことをいう。
 その名の淨瑠璃は、薬師如来が坐す東方淨瑠璃世界によるものだ。
 東照神君家康も母が鳳来寺に参籠し、授かったといわれ、東照大権現の神號は、上記の東方淨瑠璃世界と薬師如来の正式名称・藥師瑠璃光如來によるものだ。権現とは、佛が権(かり)に、神の姿で現れたことをいう。
 矢作といえば、貧しい身分から太閤にまで出世した秀吉(1536~1598)と蜂須賀小六(1526~1586)の対面の舞台として描かれる岡崎のイメージが強い。
 ところが、豐川天王社の祭礼で奉納される「笹踊」を囃す「笹踊歌」に「旅人の 今宵矢作にかりねして 明日やわたらん豊川の 浪風も静かに治まる御代こそ めでたけれ」の一節がある。
 寶飯郡豐川村大字豐川は、明治になり、それまでの字名を一新し、伊呂通、波通、仁保通、辺通、止通……と「いろは地名」に変更したが、豐川天王社の祭礼の折には、豊川稲荷の門前通の一本北を東から西への一方通行の道と県道四九五号線が交差するすぐ東側に、裏面に「矢作」と墨書された提灯を飾る屋形が建つ。
 豐川天王社の「笹踊歌」の「矢作」は、この提灯屋形が建つ辺りを指すのだ。
 この「笹踊歌」の一節については、県庁に勤めていた故・松山雅要氏が、『笹踊り歌詞のルーツを探る』のタイトルで、1985年10月11日付の東愛知新聞に寄稿している。
 松山氏は、この寄稿で、

  豊川進雄神社の笹踊りの歌詞の成立を考えるとき、本歌に対して笹踊りの歌詞の流布していたすべてが「矢作に今宵」が「今宵矢作に」と矢作が弱められている。これは先の四郎右衛門文書(貞享元年=一六八四年以前に成立)の歌詞と同じであるので、笹踊りの歌詞もこれと前後して成立したものと考えていいのではないかと思っている。

と結んでいる。「笹踊歌」の一節の成立については、松山氏のいうように、17世紀末ということもあり得るが(ただし私には、「四郎右衛門文書」の成立が「貞享元年=一六八四年以前」という点に首を傾げるが)、豐川天王社の「笹踊歌」全体や「笹踊」自体の起源が17世紀末に遡るとの証明になるわけではない。
 松山氏もこの寄稿で、一節の本歌について言及している。
 この一節は、『新撰和歌六帖』第二卷「田舎」の項に収録された藤原家良(1192~1264)が詠んだ「かりひとの やはきにこよひ やとりなは あすやわたらむ とよかはのなみ」が本歌となる。
 松山氏は寄稿の中で、藤原家良が詠んだ「かりひとの やはきにこよひ やとりなは あすやわたらむ とよかはのなみ」の歌が収録されている歌集を『新六帖大和和歌』とし、その第二帖(第二巻)類題やどり(泊まり)の項に収録されていると二十の誤りを犯している。
 酒をこよなく愛した松山氏。酩酊状態の松山氏しか私の記憶にはない。酩酊状態で、「東愛知新聞」に寄稿する原稿を執筆しているときにも何度か出くわしている。
 おそらく、この寄稿も酩酊状態で執筆したのであろう。
 『牛窪考(増補改訂版)』の補遺二「豊川流域の特殊神事「笹踊」の考察」だ。当然豐川天王社の「笹踊」についても「笹踊歌」を含めて「豊川流域の各社で奉納される「笹踊」の個別検討」の「豊川進雄神社」の項で言及してある。
 中世三大紀行文の『海道記』や『東關紀行』の著者は、この道を通ったと思われる。そうした関連から、拾遺五補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を称するのか」の最初の見出し「非農耕民と秦氏――東三河を中心に」の四つ目の小見出し「車善七の敗訴と大岡忠相――豐川村矢作と彈左衞門」で、彈左衞門家の故地ではないかとの検証をした。
 加えて置けば、藤原家良が矢作を詠んだ歌は、『海道記』や『東關紀行』より後のものだ。ゆえに『新撰和歌六帖』第二卷「田舎」の項に収録されているのだ。
 二酸化炭素の排出量に関わらず、気候の寒暖はあり、水面は上昇下降している。『海道記』や『東關紀行』より後に著された、やはり中世三大紀行文の一つ阿佛尼の『十六夜日記』では、もっと下流で豊川を渡河している。
 そうした鎌倉往還の変遷を含めて考察したのが、附録三「県道三一号線物語――古代から現代まで」の最初の見出し「鎌倉街道と県道三一号東三河環状線」で考察した。
 補遺二「豊川流域の特殊神事「笹踊」の考察」の「豊川流域の各社で奉納される「笹踊」の個別検討」の「豊川進雄神社」の項、拾遺五補遺「非農耕民はなぜ秦氏の裔を称するのか 」の小見出し「車善七の敗訴と大岡忠相――豐川村矢作と彈左衞門」、附録三「県道三一号線物語――古代から現代まで」の最初の見出し「鎌倉街道と県道三一号東三河環状線」は互いにリンクしている。
 前回も書いたが、『牛窪考』を別売りとしなかったのも、これが理由だ。つまり『牛窪考』の一部を読んでも、完全に理解出来るものではないのだ。



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Posted by 柴田晴廣 at 00:16│Comments(0)牛窪考(増補版)
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